数十分かけ見つけたのは、少し小さめの神社であった。
その地には小さくとも龍脈が流れており、時間はかかるが魔力を回復するに文句は無い。
あまり人の手が入っていないのか、辺りには雑草が生え、木も伸び放題。
唯一ある石造りのベンチも、上には砂利や砂、木の葉が落ちており、座るだけで服が汚れるだろう。
エミヤは腕でベンチの上を綺麗に払い落とし、足元にある木の葉や木の枝をを投影した箒で一か所に集め、ベンチの周りを簡単に綺麗にする。
「ふぅ…」
パンパンと服についた汚れをはたき落とし、ベンチに腰を下ろす。
さわさわとベンチの上を撫で、まだ砂が付いていないか確認する。
その手に伝わるのは、少し凹凸のあるゴツリとした岩の感触。
そこには砂のサラサラした感触はなく、綺麗に掃き取れていたのだとわかる。
ベンチの側には大きな木が生えており、丁度その大きく広げた枝葉により日陰が出来ていた。それにより、あの憎たらしいほど笑顔を振りまく太陽の顔が隠れる。
多少暑いのは仕方が無いが、それでも直射日光を浴びるより格段にマシである。
時折吹く風が心地よく、頬を伝う汗が気化し、熱を逃していく。
しかし、今か今かと待ちわびても、己の気分で走る風では涼めるはずもなく、一向に風は吹いてくれない。
もうこれは自分で扇いだ方が早いと団扇を投影し、パタパタと顔に向け扇ぐ。
Yシャツの第二ボタンを外し、胸元を引っ張ると、服の中に風をパタパタと送り込んだ。
少しだらし無いが、身体から出た汗によって服が貼り付き、幾分か気持ち悪かったのだ。少しでも汗を乾かそうと思うのは仕方が無いことだろう。
そうやって過ごす事が数分。
対して何かすることなく、季節の猛攻に対応することしかないエミヤの元に、一匹の訪問者が現れた。
「ニャー」
神社の影から這い出る様に一匹の白猫が顔を出し、私の元にテフテフと歩いてくる。
その姿は他の猫と比べ何処となく優雅であり、それはあの白い毛並みも相乗効果をもたらしているのかもしれない。
足元まで来た猫が、何かをねだるようにエミヤのランニングシューズをカリカリと引っ掻いた。
餌でももらいに来たのだろうか?
ためにし何かあるかとポケットの中を探るが、己のポケットは何も溜め込んでおらず手は空を切るばかりである。
どうやら今の自分は手持ち沙汰であり、この猫の期待に応える事は叶わないようだ。
「あー……すまないが今は何も持っていないんだ。 腹を空かせているなら私ではない、他の者にねだって来た方がいい」
白猫はそんな私を数秒見つめた後、その表情を歪ませ「…くぁあ」と大きくあくびをすると、ピョンと私の隣に陣取るように座った。
クシクシと前足で顔を何度か擦り、それに流れるように己の手をペロペロと舐める。
いわゆる毛づくろいを始めたわけだが、なぜ私の隣に来たのだろうか? 涼むならこの場に来なくとも他にいい場所があるはずなのに。
エミヤは首を傾げ、猫を見つめる。
当の白猫は見られていることを気にした様子もなく、何度もコロン、コロンと転がりながら、無防備にも腹や後ろ足の汚れを落としている。
まあ、所詮は猫の考えること。
どうせ理解はしてやれないだろうと、好きなようにさせてやった。
そうして暫く互いにが関せずと、ポーッと雲を眺めたり、せっせと食料を蓄えている蟻を観察したりと好きなようにしていたわけであるが…。
(…………暇だ)
この女。そんな時間に堪えられず、何かする事を探し出した。
ご奉仕大好き人間エミヤは、何か他人が喜ぶような事をやりたがる、たいへんワーカホリックな人間である。
故に、彼女がやりたがる事とは料理、掃除、洗濯など主に家事全般であるが、ここは外で、誰かの土地の椅子に座る今では、そんな事が早々できるはずもない。
だが、やる事がないから何もしないというのは到底許せないのだ。やる事がないなら何かやる事を見つけ、その時間を有意義に使いたい。
そんな思いで見渡す中に、未だ毛づくろいが終わらない白猫が、隣にいた。
なんとものんびりに、気を抜いて腹を舐めている猫は、エミヤがジッと見ている事も気付いていない様子。
(……こんなに時間をかけても、まだ終わらないのか)
エミヤは無意識に、その端麗な頬をニヤリと歪ませた。
ゾクリっ
背中に感じた悪寒が脊髄を駆け回るように走り、今まで自分が培ってきた本能が逃げろ!と叫んでいた。
その叫びに従い、全身の筋肉を使って素早く石のベンチから飛ぶと、何かが己の身体に掠る。しかし絶妙な平方感覚で華麗に地面に降り立ち、すぐに身体を振り返らせ己に何かをしようとした生物の追撃に備えようと身構えた。
そこに居たのは、先ほどまで己が座っていた場所に手を伸ばしていた、一人の人間であった。
なるほど、どうやら自分はあの白い雌に捕まりかけたようだ。
見た目は儚そうで、無害に見えて、実はその腹の奥ではとんでもなく黒い物を持っていたらしい。安全と見込んで隣に近づいたのは軽率だったと言わざるおえない。
だが、甘い。
この猫は数多の発情した雄猫どもの突撃を躱し、迎撃し、遂には逃げ切ってきた歴戦の白猫である。
そんな悪意見え見えの攻撃なんぞ見ずとも躱せるし、何より経験が違うのだ。
こんな小娘一匹、倒すことなんぞ容易いのだ。
歴戦の白猫は、己に害をなそうとした白い人間の雌に「フシャー!」と威嚇し、腰を軽く浮かせ、尻尾を膨らませた。
そこから漂う気配は1ミリも油断などなく、どんなものでも躱し、その柔そうな指に牙を突き立て鮮血を流してやると意気込んでいた。
白い人間は立ち上がると、その右手に虚空から一つの武器を生み出した。
拳ひとつ分の長さの木の取っ手に、その丸く伸びた木の側面には幾つもの白い毛が計算されたように綺麗に並べられている。
そう、ブラシである。
さらに毛先も柔らかく、動物の毛並みを整えるのには最適な、少し大きめのブラシであった。
猫は過去最大の強敵と出くわし、しかし怯むことなく、不敬にも自分を見下ろす人間に突き立てんと、鋭い自慢の爪をむき出しにする。
「…嫌がる者に無理矢理というのは気が引けるが、生憎とこちらとしてもそうは言っていられなくてね」
白い人間は、ダランと両腕を力無く垂らし、しかしその姿には一切の隙は感じられない。
武人というのは、極めれば極めるほど構えを取らなくなると聞くが、なるほど、この姿を見て納得である。
この女もこの猫と同様、幾つもの試練を乗り越え、ここにたどり着いた者だ。
白猫も、フー!フー!と息を荒げ、己の野生の精神を奮い立たせていた。
身体は万全。
気力も充分。
試合う相手も不足なし。
ならば、全力で戦うのみ!!
「悪いが、私の暇つぶしに付き合ってもらうぞ。名も知らぬ白猫よ」
「フシャー!!」
ここに、一つの戦いが始まった!!
「グルル…グルグル…」
「こらこら動かないでくれ。 もう少しで終わる所だ」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、エミヤの膝の上で腹を晒し手足を伸ばす猫の姿があった。
その満面の笑みから見て取れる表情は、とても気持ちがいいと申し分なく語っており、一度二度とエミヤがブラシで毛研ぎを行う度、尻尾が右へ左へと動いている。
目を細めエミヤの手により与えられる快楽を味わいながら、もっともっととエミヤの腹に頬ずりをし、甘えるように伸ばした前足をグッパグッパとさせた。
白猫、大変ご満悦である。
白猫がエミヤに威嚇してから大して時間が経ったわけではない。決着事態は一瞬で着いたのだ。エミヤが猫の引っ掻くを躱し、馴れた手つきで抱き上げその背中に一線、ブラッシングを行っただけだ。
だが、それだけで猫は白旗の意を表した。
どうやらエミヤの絶妙な力加減と、技術が込められたその一撃は、プライド高き白猫の身体にとって致命傷であったようだ。
背をなぞった一線は、肌から脳へと閃光のように快楽を伝え、一瞬のうちに身体の力が入らなくなり、気が付いたら情けない声を上げていたのだ。
なんと恐ろしい人間なのだろうか。
成す術なく、一瞬で手玉に取られてしまった。
そこには確かに屈辱的な気持ちがあった。天下無双を誇った自分の力が払うように蹴散らされた挙句、こうして懐柔までされている。情けないったらありゃしない。
でも、気持ちいいならなんでもいいや…
歴戦の白猫は、牙を抜かれた事を気にしないことにした。
「───…こんなものか」
エミヤは遠慮なく己の膝上で寛ぐ白猫の背中を撫でながら、一通り整え終えた毛並みの確認する。
乱れた場所も、汚れた箇所もなくなった白猫は、その心身ともに輝いていた。
さっきまでの警戒の色は身を潜め、今では気を許した仕草でその身体を晒している。
(暑くないかな…)
静かに寝息を立てているその姿に微笑みを浮かべながら、右手に団扇を持ちその身体にパタパタと風を送り込む。
しかし、毛を解いでいて思ったが、なかなかに毛並みがいいな。
きっと、良いものを食べて過ごしてきたのだろう。そうでなくてはここまでの毛質にはならない。
誰かの飼い猫だろうか?と思いながら、満足そうにムフーと大きく息を吐いた猫の頭を撫でながら、その柔らかくもしっかりした感触を堪能する。
…なかなか気持ちいいな。
何だかんだで、すっかり猫の魅力に当たりながら、自身も楽しんでいるあたり、やはりだんだんと乙女になりつつあるエミヤさんであった。
穏やかな時間が周りを包み、ゆっくりと流れる風に心地良さを感じながら、垂れた横髪を耳にかけ、目を閉じる。
擦れる葉音に、鳴く蝉の声に耳を貸しながら、その落ち着いた雰囲気を楽しむ。
雰囲気とは大切だ。だって、こんなにも心を落ち着かせてくれるのだから。
自然に身を任せ、心が世界に溶け込むような、不思議な感覚を抱きながら、「ふー」と大きく息を吐いた。
当たり前のように感受する平和を感じながら、流れる世界の中、それがいかに大切なものか、守らなければならないかを再確認する。
───そうだ。守らなければならない。
せめて、誰も何も知らないように。
私が知った、世界を知らないように。
その奇跡を当たり前だと思いながら、無知のまま受け入れて欲しい。
──でなければ、いずれ汚す私の手の意味がなくなる。
「ニャー」
「──っ…ああ。そうだな」
知らぬ間に扇ぐ手が止まっていたらしい。猫は急かすようにひと鳴きし、それに従うように扇ぐのを再開させる。
すると、視界の端で、1匹の黒猫が石段を駆け上がってきた。
何かに追われているのか、逃げるように私の正面を駆け抜け、神社の下へと潜り込んで行った。
一体何事かと去っていった猫の方向を眺めていると、タンっと硬い石の上で着地をしたような、軽い音が耳に入り、その方向へと視線を向けると、黒い健康的な黒髪から汗を滴らせ、ハァハァと喘いでいる少女が、膝に手を置き、背を大きく上下させていた。
しかし、少女は何かを探すようにすぐにキョロキョロと視線を回し、その姿にはある種の意地が伺える。
横目で眺めながら、いつの間にかまたもや夢の世界へと旅立っている白猫に風を送っていると、少女はこちらに視線を向け、そのまま固まった。
……何か不味いことでもしたのだろうか。
時間にして1分。体感時間30分にも思える固まった雰囲気が周りを満たした。
謎の気まずさを感じ、暑さとはまた違う汗が頬を伝う。
己の不祥事を省みるが、いかんせん検討もつかない。エミヤはベンチを綺麗にし、猫を撫で、団扇を扇いでいるだけだ。決してやましい行いなどしていない……はずだ。
(一先ず声をかけるか…)
あのまま日光に当たり続ければ熱中症になるかも知れないし、もしかしたら脱水症状もありえる。
話をするにしてもこちらでした方が少女の為にも良いだろう。
───決して気まずい空気に耐えられなくなったからではない。私に一度の敗走もないのだから。
────だからこれは、逃げではないのだ。
誰に対してしている言い訳かは分からないがそれでも内心そう思いながら、固まる少女へと声をかける。
「────? やあ、こんにちは。 今日は少し暑いな」
できるだけ人当たりが良い雰囲気でニコリと微笑みながら、当たり障りない台詞を線切りに、少女との交流を計る。
その際、狡猾にも今しがた気付いたという表現を混ぜた所が、また世界で戦ってきた正義の味方の悲しい小汚さを表面化させた。