原作:PrismRhythm -プリズムリズム-
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「はぁっ!? 今エルスと一騎、同棲してるの!?」
「ちょ、ちょっとリア、声が大きいっ」
「これが落ち着いていられるかぁっ!」
一ヶ月ぶりのリアは、やっぱりやかましいままだった。
「カスミ先輩に続き在学中にベルティナの資格を取得した美女は、しかし私生活では聖職資格を取得した学友と熟れた関係にあった……」
「歴史上、『自然に感謝を捧げる舞い手は処女でなくてはならない』とかはあったけど、別に今ベルティナやエルディスはそんなことないよ?」
「その熟れた関係は二年にも及び、その間に美女の清らかな体は学友の色に完全に染められ、ベルティナ選考の頃には完全にその男のものになっていたのであった……」
「えっと、まぁ、そこはね、うん――ていうか何か書いて公開するわけじゃないよね?」
「私がゴシップ記事にしないとやってられないから一騎が師事する人にでも暴露する」
「俺ひでぇとばっちりだな!?」
やかましい上に、相変わらずだ。まぁ、変わってないということは、寧ろ心地いいのだけど。
にしても、これであの泉で致してしまったことがあるのがバレたら、確かにどうなるかわかったもんじゃない。
「――まぁ、そりゃね、正直在学中から、卒業したら同棲するだろうなーって、九分九厘そうなるだろうとは思ってたけど」
「えっ、そんなことはなかったよ? 一騎くんも必要な時は一線引いてくれていたし、私はてっきり一騎くんは一人暮らしするものだって思っていたし」
「いやいやそれは本当かねぇ。付き合い始めて早速エルスの家に一騎が訪れて、その後も最低週に一回はお泊りしてた関係で、わざわざ一人暮らしをする必要性も見受けられなかったと思うんだけどねぇ。今だから言えるけど、どっちかと言うとエルスが一騎に依存してたように私には見えたし」
「えっ、ええっ!?」
「一騎は何れかのタイミングで寮を出なくちゃならない。エルスは元々二人暮らしだった。だけどいつしか――」
そこまで口にして、リアが急にはっとしたような表情をする。
「――ごめん、今のなかったことにして」
「――いや、大丈夫だよ。それで実際一騎くんの家賃も浮くし、私だって寂しくないし。前々からよく泊まりにも来てくれていたから、いつも一騎くんがいて嬉しいってこと以外は特に変わったことはないよ」
「ふーん……って、何かエルスに惚気られたぁ! おのれ一騎ぃ!」
「だからそこで俺に飛び火するのかよ!」
「一騎もエルスもさっきから肉体の関係あって当然でしょみたいな素振りするんじゃなーい!」
「そんなこと大声で言わないでよー!」
「さも当然のように話し始めたのはリアだろー!」
これが二年半に渡って続いた日常。今日は一ヶ月ぶりにその時の焼き直し。何も案ずることなんてなくて、ただただ未来は明るいだけ――ならよかったのだけど。
これでも、実際リアはエルスに対してとても気遣ってくれている。地雷というわけではないけど、そのことがあるから少しだけ話題を出すにも慎重にならざるを得なくて。
俺を除き、今でもエルスの前で、キャロラインさんのことは禁句に近い。多分、あの日を境に、エルスの世界は大きく変わったんだと思う。
二年前のアルガロ・デ・モンド祭も終わり、新学期も近づいた頃。
――ねぇ、お姉ちゃんを知らない!?
あの時のエルスの憔悴した表情は、俺も初めて見る姿だった。いつものキャロラインさんの気まぐれだろうと思いつつも、エルスの様子からそれどころじゃないと直感したのも、昨日のことのように思い出せる。
それに加えて、カスミ姉に続いて在学中にベルティナになれるであろうという周囲の期待感と羨望。いつしか高嶺の花として見られるようになり、それと同時にエルス自身へのファンも増えていく。進級するにつれて、慕う後輩も増え、ベルティナ協会にも積極的に意見を言う姿に憧れを覚える人も少なくなかった。
だけどそれは、エルスにとっては、他の学院生らから孤立するのと同義で。エルスを中心に人の輪が出来るのに、エルス自身は真ん中でその輪には混じれない。カスミ姉もいない中、エルスが頼れるのは、俺以外にはリア、銀、京司、それとステッチさん位なものだった。本当に、あれで支えてやれていたと言えるのかどうか、俺としては疑問なのだけど。
エルスは、三年間の学院での生活を楽しかったという。だけど、二年程度、一応は一番近くで見ていた感想としては、それなりとは思っていても、きっと満足はしていない。それはキャロラインさんのことも、周囲からの視線も。
エルスは、俺やみんなのお陰で早い内にベルティナになれたとは言うけど、きっと俺だって、あの時キャロラインさんからのエルスを宜しくという頼みを果たせていない。
「ちなみにさ、同棲するって決まった時のバビィさんの反応って知ってる?」
「いやー、知らないけど、すごい想像はつくというか。けど聞いておこうかな」
「『卒業もしたことだし、もうワシから言うことは何もないが、だけど最初は清純だったこの二人が今ではのぅ……』なんて言われてさ」
「あー、まぁ、うん、すごく言いそう」
「あのすごくあからさまな遠い目は、それこそリアに見せてやりたかった。あれだけでリアのネタが一ヶ月は持ったと思う」
そこから始まる少し懐かしい空気。別に俺とエルスが付き合っているからというのを抜きにして、単純に仲の良い友達同士の他愛無い会話に花が咲く。何より俺とエルスが付き合い始めてからのリアも知らない話は、何かしらを語る度にリアは面白い反応を返してくれる。
この空気を、ほんの一ヶ月前までは、毎日見ていたんだ。この一ヶ月間、特段誰かと会うということがなかったから、あるのは俺とエルスの真面目な雰囲気と、時たまの甘い空気。それが悪いわけじゃ一切ないのだけど、この空気は忘れないようにずっと触れていたい、と思ってしまうのは、俺がまだ子供である証左なんだろうか。
まぁ、正式に同棲を始めてからの毎日の生活の内訳は、話すだけで恐らくリアからはひたすらに突っ込まれまくることになるのだろうし、それはリアには話さないでおこう。アレとかコレとか、おのれ一騎と言われる未来しか想像できないし、あの事に至っては、リアに突っ込まれる前に喋るこちらが赤面で話を続けられなくなる。
「そういえば、確か次の船便で銀ちゃんとカスミ先輩が来るはずだったと思うんだけど」
「とと、船が来たけどあそこに……おーい!」
それから、カスミ姉と銀とも合流してからは、『いつもの』空気になった。
リアが騒いで、銀が白い目で見て、カスミ姉が場をまとめて、それを見て俺とエルスが笑う。そこに食べ物が混じれば銀の目の色が変わり、リアがとばっちりで食べるものが奪われ、カスミ姉が窘め、また俺とエルスが笑う。二年半の間、昼休みのカフェで、始業前放課後の教室でいつもしていたことが、たった一ヶ月空いただけなのにとても懐かしく感じる。在学中、みんなといる時エルスが一番楽しそうにしていた時の風景が、またそこにはあった。
親の仕事の手伝いをする京司に会いに行けば、音楽の道を認めてもらえたという喜びに満ち溢れていて、リアがおちょくってもそれをも受け入れて。一種の夫婦漫才に近い風景を見ていることがまた楽しくて、ついつい時間を忘れそうになる。
在学中の、ずっとこうだったらよかったのに、という風景がそこにはあった。その中に、あの人の影すらない、という想いは、常に絶えなかったのだけど。
「じゃぁ、ちゃーんと、『彼氏として』、エルスをエスコートしてあげなさいよー?」
そんなこと言われなくてもわかっている。いつもどれだけ俺とエルスが一緒にいると思っているんだ、とでも言ったならば、その時のリアの反応は容易に想像付くのだけど。
そうして一旦みんなと別れ、ゆっくりエルスを舞踏の会場の裏へと送る。まだまだ時間はたっぷりあるけど、やはり舞踊する本人がある程度落ち着いていること、ということでかなり早めに来ることになった。
アルガロ・デ・モンド祭の大トリを飾ったことは二年前にあったから初めてでもないけど、エルスがベルティナになったのが一年半程前で、だけど昨年のこの大トリはカスミ姉が務めたから、ベルティナ且つアルガロ・デ・モンド祭の大トリという大役をエルスが任されるのは今年が初めてだ。
舞台裏の空気は、喧騒に溢れた外と違い、やはり少し落ち着いた空気がある。適度な緊張感に満ちていて、だけど少しゆったりとした『緩み』も忘れないからこそ、部外者なはずである俺であっても心地よい。
そうしていつもの衣装に着替えたエルスが、俺の前に姿を現す。
「やっぱりエルスの衣装いいよな」
「それはどういう意味で?」
「まぁ、なんというか色々な意味で」
「流石に今この場でそれはどうかと思うよ?」
ジト目でエルスに睨みつけられた。言外に今そんなこと言わないでよと語っている。
「――いやそういうんじゃなくて! いやそれもあるかもだけど! やっぱり女性として見た目映えるというか! そういうの!」
「ふーん……じゃぁそういうことにしておいてあげる」
「そういうことって……」
「ふふっ、冗談。一騎くんがそういう人じゃないってのは、私が一番知っているから」
冗談ともつかない調子でエルスが笑う。まぁ、こういう表情が自然に出来ているってことは、そこまで緊張もしていないということなのだろう。ここ一ヶ月はずっと顔を突き合わせているからわかる。
エルスからすれば、ベルティナになれたのは、あくまでエルディスになるまでの通過点で、故に大トリを務めるのも初めてじゃないからこそ、焦る気持ちもないのかもしれない。俺だったらどうだろうとも思うけど、それ以上にやはりエルスがしっかりしている証左なんだと思う。
だからこそ、みんなからは禁句で、俺であっても迂闊に触れないようにしてきたことに触れるなら、今しかないと思った。エルスが落ち着いていて、二人きりの今なら、エルスの正直な気持ちを聞けるはず。
「――やっぱりさ、俺とかみんなとかじゃなくて、ただ一人、見てもらいたい人、いるよね?」
果たしてエルスは、少し肩をすくめて、軽い嘆息を漏らしつつ答えた。
「そりゃぁね……。二年前のアルガロ・デ・モンド祭の感想もまともにもらえないまま、ずっと会えなくて、いつ帰ってくるかもわからないからこそ、そう思っちゃうよね」
遠い目をするエルスの表情は、案の定、やはり俺の問いかけが図星であることを雄弁に物語っていた。
「自惚れかもしれないけど、あの時の舞踏は、本当の意味でお姉ちゃんを満足させられたと思っている。だから、お姉ちゃんが何も言わずにいなくなったのは、もしかしたら、私がそういう演技を『してしまったから』なのかもしれないって、ずっと思っていた。舞踏の質を上げられるならそれでいい、だけど、そうだとするなら、せめて一言、そうたった一言だけでもお姉ちゃんに何か言ってほしい。一騎くんが褒めてくれるのは勿論嬉しいけど、やっぱり私にとっても憧れのお姉ちゃんから褒めてもらえるのが一番嬉しいから」
――まぁ、完全に予想通りの答えではあった。その予想通りの答えを俺は聞きたかったのだけど。
問答が終わると、二人して押し黙ってしまう。今更沈黙が苦になるような関係では一切ないけど、とはいえ祭りの時に喧騒に紛れず、だけど二人の世界に閉じこもるわけでもなく、ただ二人して押し黙るというのも、それはそれで変な感じだ。沈黙が二人の間を支配して、音もなく『無』が思考をも奪っていく。
結局、特段やることもなくて、二人して何の気なしに空を見上げた。段々と紅から紫紺に染まりつつあるグラデーションの水彩画には、一番星が輝き始めている。快晴予報に違わず雲一つない空は、屋内劇場が開演時に照明を落とすかのように光量を減らしていく。
自然現象というものは毎日繰り返されるもので、その変わることなき毎日の変化にこそ感謝をしなければならない――スプリングスノーへの信仰は、そういった自然現象全般に対しても向けられている。だから今日という日は、こういったことへも感謝をするべきなのだろう。聖職という役職柄、今日という日でなくとも常々考える必要はあるのだけど。
そんなことを一人考えていたからだろうか。見ているものに対して違和感を即座に抱いたのは。
「――ん?」
視界の端で、何かが光った気がした。星の瞬きにも似た、だけど確実にそれはすぐ目の前に『存在している』。グラデーションの水彩画の中に混じった、自然現象とも異なるような謂わば異物。
それは一枚の花びら、いやスプリングスノーそのものだった。いつしか泉のほとりでエルスと共に見た『妖精』のような色を纏い、だけど白く温かな光を放ちながらゆっくりと舞い落ちて。
「これって……」
それは俺とエルスのお互いの手のひらの上で。
「あっ……」
消えた。
「『トキ君――』」
――えっ?
「今の声、って……」
「お姉ちゃん……」
「エルスも聞こえた?」
「うん、お姉ちゃんの声で、『エルス』って……」
「俺は『トキ君』って……」
瞬間、エルスと顔を見合わせる。すぐに、エルスが何をしようとしているかわかった。
予感。今俺とエルスに浮かんでいる想像はきっと同じ。きっとこの機を逃すと次はない。だったら――。
「私、行かなきゃ」
「待て、俺も行く!」
僅かながらに立つのが遅れる。だけどその瞬間の間で、単純にエルスを追うより先にやることが浮かんだ。
「すみません! エルステリアは早めに戻ります!」
なんとか舞台裏にいる人に、それだけ言い残してエルスの後を追う。これだけでもしておかないと、恐らく後々大騒ぎになるだろうから。焼け石に水程度だろうとはいえ。
二人して学院へ向かう船へ飛び乗る。完全に駆け込みになってしまったけど間に合ってよかった、これを逃すと次まで時間が空いてしまうから。
「アスティリアは……持ってきているな」
ベルティナ衣装且つ祭具も持った状態でこんな時間に船に乗っているのは人目を惹く――ように見えて、案外周りの人は気にしないらしい。俺らとしてはその方がありがたいのだけど。
「多分、エルスもわかっているんだろう? これから自分が何をしたいか、そして何をすることになるのか」
神妙な表情でエルスが頷く。
「――もしかしたら、この後の舞踏より、私の中では大事かもしれないものになるかもしれないからね」
それだけを交わし、俺もエルスも押し黙る。船上は同乗した他の人の談笑で賑やかだというのに、俺とエルスだけが水上で二人隔絶された感を覚える。
やがて船を降り、駆け出し、身の軽さを生かしあっという間に学園を過ぎ去った。アスティリアを持つエルスも、舞踊慣れした動きで躓くことなく来ている。
そうして辿り着いた森の入り口は、やはりいつも通り荘厳としていて、だけど優しく光が入り込み、優美な姿を見せていた。
俺もエルスも、はっきり言って勢いだけでここまで来てしまっている。この先に進んで目的が達成できるとは限らない。
そもそも、目的が『いる』かどうかもわからないのだ。だからこそ、敢えて俺はエルスに尋ねてみる。
「この先に進むとさ、一体何が待っていると思う?」
「――お姉ちゃん」
刹那の間を置きつつ答えるエルスは、だけどその声からは感情を読み取れなかった。
「そうだね、俺もそう思う」
入り口では差し込む光も、奥を見通すと、薄暗く、何か照らすものがあったとしても転びそうになる位には危険な雰囲気が漂っている。幾ら行き慣れているからと言っても、常に誰かが立ち入る場所でないからこそ、向かうだけで危険を伴う場所へは、本来今のエルスを向かわせるにはいかないはずだ。
エルスはこれから舞踏がある。怪我をする訳にはいかないし、何より到底遅れることは許されない。俺もエルスも、そんなことはわかりきっている。今本来やるべきことは、考える間もなくそのまま会場へ逆戻りをすることなはずなんだ。
「行けば、舞踏に間に合わないかもしれない。エルディスの夢どころじゃなくなるかもしれない。全てを差し置いても、エルスはキャロラインさんに会うべきなんだろうか」
半分はエルスに聞かせるまでもない自問自答。エルスの将来はある意味では俺の将来であり、同様に大切な物だ。だから、絶対に無理をさせるわけにもいかない。
だけど、やっぱり。
「それでも俺は、エルスは、行くべきだと思っているから」
姉妹の何物にも代えがたい縁には、俺は介入できない。仲がよすぎる程だったのに、その時から何かが隔てられていて、未だにエルスはその壁を乗り越えられていない。
「エルスが行って、キャロラインさんと二人で会うべきだ」
なら、その壁を乗り越えるなら、今この時二人きりにしてあげるしかない。それは他の全てを犠牲にしても。
「エルスはちゃんと戻ってくるって、俺からはみんなに説明しておくから」
だから俺は、幾ら後ろ髪をひかれようが、今ここでエルスを見送って踵を返すべきなんだ――そう思っていたのだけど。
「――別に、私とお姉ちゃんと、二人きりである必要性はないんじゃないかな」
そう言ってほほ笑むエルスは、何を馬鹿なことを、と言外にその表情で語っていた。
「一騎くんだって呼ばれたんでしょ? だったら、一騎くんだってお姉ちゃんの元に行くべきだよ」
「いや、それでも……」
「お姉ちゃんと話したいこと、話さなければいけないこと、一騎くんにだってあるんじゃない?」
――確かに間違いではない。話さなければ、というのはないけど、だけど話したいこと、話足りないこと自体は、恐らくエルスに勝るとも劣らない数があるはずだ。
それに、と前置きすると、急にエルスの表情に影が差した。
「私一人じゃ、会いに行ける勇気を持てないの……」
俺の服の裾を掴むエルスは、久々に自信が持てないという顔をしていた。こんな表情、少なく見積もっても一年ぶりぐらいだ。
「一騎くんのためじゃない、私のために、お姉ちゃんに会う勇気を、傍でくれませんか……?」
こんな表情のエルスに対して俺は何が出来る? そんなもん、今更問うまでもない。
「今更、エルスに対して勇気をあげないなんてこと、言うわけないだろ?」
まだ、私には妖精が見えないんじゃないかと思っていたエルスと二人で向かった時のように、俺はエルスに手を差し出す。それをさも当然かのようにエルスが握ってくれるのは、あまりそういうことをしないせいというのもあるけど、未だに嬉しい。
繋いだ手からは、あの時みたいな微かな震えは感じられなかった。うん、これならきっと大丈夫。
泉で舞う天女の羽は風を起こし、跳ねる雫は寂光に照らされ神聖なるものと化す。
気まぐれなる踊りは、だけど一つの旋律に基づいたもので、奔放でいて計算された舞は見る者の目を離さない。
その優美たる姿は、正にその称号にふさわしい――聖職資格を得るための授業に於いて、エルディス、中でもキャロラインさんの舞踏はそう形容されていた。
これまで、初めて舞を見たあの時の感動を上回るものはなかったのだけど、今ここの広がる景色は、それに勝るとも劣らないものだろう。いや、寧ろ神聖なる場所として崇められるこの泉で行われるからこそ、今この時の方が、本当の意味で心を揺さぶっているのかもしれない。
だから、俺もエルスも、キャロラインさんの舞踏が終わるまで何も口に出来なかった。せいぜい、お互いの息を呑む音が聞こえる位。
やがて、ひらめいていたリボン――プリムローズがゆっくりと下降し、そのまま着水する。
「聖職資格とベルティナのカップルね……ふふっ、やっぱりお似合いじゃない」
その時になって初めて、キャロラインさんが俺たちの方へと向いてくれた。
「久しぶりね、エルス、トキ君」
「――お姉ちゃん!」
エルスがキャロラインさんの元へ駆け寄る。エルスの足が泉の水を蹴り上げ、バシャバシャと音をたてながら一面に飛沫を飛ばす。
そうしてエルスが待ち焦がれた人の元に着いて、だけど、キャロラインさんに抱き着かなかった。
「――あらあら、そこで止まっちゃうんだ?」
「だって、お姉ちゃんはそれを望んでないでしょ?」
「うーん、別にそれくらいならいいんだけどなぁ」
「それじゃぁ……」
徐にエルスが腕をキャロラインさんの腰に回すと同時、キャロラインさんもエルスの頭を撫でるようにして腕を軽く伸ばす。
「――寂しかったんだよ?」
「うん」
「何も言わないでいなくなって、探してもどこにもいなくて、ただ帰りを待つだけなのは本当に辛いんだよ?」
「うん……」
「一騎くんがいても、本当の意味では、幸せなんかじゃ、なかったんだよ……?」
「――うん」
ここに来て初めて、俺に背中を向けるエルスの肩が僅かながらに上下に振動する。溜まっているものは一杯あるだろう。本来、今この場に俺はいてはいけないって、今この時になっても思う。
少しだけ時間が経ち、徐にキャロラインさんが顔を上げる。その表情は、一言で言うならば『エルスのお姉さん』だった。
「トキ君、ありがとうね、エルスの傍にいてあげて」
「――俺は特別何もしてないですよ。少なくとも、キャロラインさんがいなくなったからという理由で何か、ということは」
俺はエルスの恋人だから、周囲から何も言われなくともエルスを支える義務がある。俺自身はそう思っているし、キャロラインさん言われるまでもない。
「やっぱり、二年前、私が急に姿を現さなくなって、問題になっちゃった?」
「問題なんてもんじゃないですよ」
あの時のことを思い出す。エルスとの関係も深まって、エルスもアルガロ・デ・モンド祭の大トリを飾り自信を深めた矢先のキャロラインさんの失踪。それに端を発する色々な騒動。
「あの時は、町は大騒ぎ、ベルティナ関係の各人もてんやわんやだったんですよ。そしてエルスは――」
――ねぇ、どうしていなくなっちゃったの?
――私のこと、嫌いになっちゃったの?
――辛い、辛いよ、一騎くん……。
――まだ、帰ってこないの? 私をいつまで一人にするの……?
――一騎くん……寂しいよ……せめて一騎くんだけでも傍にいて欲しい……。
――無理だよ……一騎くんがいても、お姉ちゃんを失うことは……私には耐えられない……。
「あんな悲しい顔はしてほしくないと前にも思ったのに、あの時の悲痛なエルスの顔、正直に言って、もう見たくないと俺に思わせる位にはエルスは取り乱していたんですよ? 舞踏にまともに復帰できるようになるまで、本当に数ヶ月はかかったんですからね?」
「そうね、せめてエルスに何も言わないで去ったのは、本当に申し訳なかったって思っているわ。そういうようなことになるってこと、私でも予測できたはずなのにね」
悔いているかどうかもわからない神妙な顔でキャロラインさんが頷く。
「でも、エルスには必要なことだったのよ。それは、エルスにもわかってもらいたいのだけど、どう?」
多分、キャロラインさんも、罪悪感と自身の義務との間で揺れていた。二年もの間、本当にそれでよかったのかと思い続けて、ずっと。
「わかる、わかるよ……確かに私はお姉ちゃんに依存していた所は絶対にあって、どこかで独り立ちしなきゃいけないのはわかっていた。だけど、前触れも何もなしに、誰にも何も言わないで姿を消されるのは、本当に辛い事なんだよ?」
「そうね……」
キャロラインさんが呟いたのを最後に、暫くの間沈黙が訪れる。言葉は今必要な時だけど、同時に言葉がいらない時間も必要だった。
マリーゴールド姉妹の関係性は、きっと今この時みたいなもので、一言で表すことが出来ない。ただエルスとキャロラインさんが抱き合っているだけのこの状況に対して、俺は介入する術を持たないし、するわけにもいかなかった。
やがて、エルスが徐に顔をあげ、キャロラインさんと顔を見合わせる格好になる。ゆっくりと、キャロラインさんがエルスの頬に手を添えた。
「ねぇエルス。折角だからエルスに聞いちゃうわ。私がいない間、トキ君はエルスの傍にいてくれていた?」
「いてくれた、なんてもんじゃないよ……。一騎くんがいてくれたから、私は今こうしていられる。私が壁を乗り越えられたのも、私がベルティナになる前に励ましをくれたのも、お姉ちゃんがいなくても前を見据えられたのも、全部全部、一騎くんがずっと支えていてくれていたからなんだよ……?」
エルスのその一言で、キャロラインさんが改めて俺の方を向く。何かを口にしなくとも、それは言外にありがとうと、表情が物語っていた。
「――俺がエルスにしてあげられたことは、当たり前の範疇に全て収まってしまっていて、特筆すべき事なんて何もないんです。だから、別にお礼されるとか、そういうようなことなんて何もありません」
エルスはそんなことないって否定するだろうけど、これはこれで俺の紛れもない本心だ。エルスは確かに人と背負っているものは違うかもしれない。だけど、だからといってエルスに対してしてあげられることが変わったとは思えないし、逆にエルスとこういう仲になっていれば、必ず同じことをしただろうから。
「だけど、俺にとって、一番大切な人がこうやって頑張っていたからこそ、俺だって負けるわけにはいかなかったでしょう。エルスがそうやって前を見据えていてくれたから、俺だって聖職の資格を取れるように頑張れた。強いて言うならそれくらいじゃないかなと」
「二人共、頑張っていたんだね」
「いつか、他でもないあなたに、今のような姿を見せられるように。それだけを目標にしていましたから」
この二年間、お互いがなりたいものを目指し、がむしゃらに進んでいた気がする。時には息抜きしたり、それこそ様々な意味で二人して充足を取ったりした時もあったけど、それ以上に今の関係は、俺とエルスとの二人三脚でやってきた結果ということは、胸を張って言える気がする。
だから、本当は、その二人三脚の様子を、キャロラインさんにもずっと傍で見ていてもらいたい。結局の所、俺もエルスも、一番の望みはそこに行きつく。
「――やっぱり、キャロラインさんは、俺たちと一緒にウィスカに戻る訳にはいかないんですよね?」
「そうね、それは出来ないことね。だから、あなた達の本当の望みには、絶対に答えられることが出来ないわ。申し訳ない事なのだけれど」
「――いえ、全くもって予想していた通りの答えでしたから」
エルスは、いつかは、キャロラインさんに加え俺と三人で暮らしてみたい、と漏らしたことがある。勿論あくまでエルスが少しでいいからやってみたい、生活面で俺のことをキャロラインさんに認めてもらいたい、という趣旨だったのだけど、今、エルスの一つの夢が潰えたんだなって、ふと思った。
「それじゃ、今度は私から質問」
エルスの腰から腕を離し、ゆっくりとエルスから距離を置いて、改めて俺とエルスを同時に見る。
「トキ君は、今のエルスの舞踊に足りないものは、なんだと思う?」
それは、明らかに話題をある方向へ持っていくための、唐突な質問だった。
「二年前の、ここで見てもらった時から、まだ何かが足りないと言うんですか?」
俺からすれば、恐らく二年前にこの人に見てもらって以来、キャロラインさんであっても不満を感じさせる演技になっているとは思わない。その時の方向性を突き詰めているからこそ、手放しでなくとも褒められる演技にはなっているはずだ。
「質問の仕方が悪かったね。あの時の舞踏はよかったよ。その時から変わってなければ、私からは大丈夫だって言える。だけど、やっぱりこれだけ経てば、何か変わるものもあるでしょう。だからね、見てみたいんだ、今のエルスの舞踏を」
それは、きっと、エルディスとしてのエルスの舞踏の『監修』がしたいんじゃない。きっとキャロラインさんの純粋な興味なんだ。興味にかこつけて、エルスを舞台に誘いたがっている。
「だからね、エルス、私が『一緒に』見てあげる」
そしてそれは、きっとエルス自身もそれを望んでいるんじゃないかって。
「私と一緒に、本当の妖精ごっこをしてくれないかしら」
それをエルスは受けざるを得ないし、断る理由もない。
「だってそれが、今の私がエルスに出来る唯一のことでしょ?」
きっとそれが、エルスが突破すべき最後の壁だって、二人共わかっているからなんだ。
頷きもせず、返事をする代わりにエルスがゆったりと泉へと歩いていく。その歩みは確かなもので、エルスにとっても何か腹を括った、ということは何も事情を知らなくてもわかる。
「これ、なーんだ」
それは、小さな小瓶。キャロラインさんが持つ手が遠くて、俺からはそれが何であるのか、どういったものなのかを窺い知ることが出来ない。
だけど、エルスにとっては、とても見覚えのあるものだったようだ。すぐにはっと何かに気付いたような顔になる。
――あぁそうだ、俺もそういえばエルスにある時見せてもらった。あれは――。
「時間の魔法の砂……?」
「妖精の王様がね、今こそ開ける時だって言っていたの」
キャロラインさんがそうエルスに声掛けすると、躊躇なく小さな砂が入った小瓶を開け放った。
「さぁおいで、エルス。今こそ、妖精の舞踊を捧げましょう?」
エルスが持つアスティリアの杖をキャロラインさんも一緒に持つ。そしてそれを、勢いよく水面へと叩きつけた。
アスティリアの杖で叩きつけた水面から雫が飛び散る。それを杖から手を離し、持ち替えたプリムローズのリボンがその殆どを受け止める。だけど、その雫が染み渡る前に、ばさりとプリムローズをはためかせ、雫が同心円状に撥ね散らかされ、泉に落ちた雫が無数の水紋を作った。
スプリングスノーの樹の下で始まるベルティナ姉妹の共演。共に、規則的でいて不規則なリズムで、だけど二人の息は外れることなく荘厳に『執り行われていく』。音楽はないけれど、泉から湧き出す水の音、スプリングスノーのさざめきが、自然の音――プリズムリズムとして、二人の舞踏に彩を添える。
そして俺は、それを見守ることしか出来ない。出来ることは、誰にも知られることのない共演を、ただ一人観測することだけ。
――いや、あれがあった。研究資料用に持たせてもらっているカメラ。本当は舞を撮るためのものではないし、舞は見てこそだと思うから、いつもは撮らないのだけど、だけど、これだけは。共演の事実と、今キャロラインさんがここにいたという事実を残せるように。
せめて、後々、エルスがベルティナに選ばれる際、その一助になればいいと思って。数枚だけ、写真を残しておいたんだ。
どれくらい時が経ったのだろう。優に一時間は経ってしまったようにも思えるが、どうしてだろう、夕暮れの残滓があり、完全に暗くなる直前であった先程までの空の様子から一切変化がない。
間違いなく、いつも行われている舞よりも何倍もの長さになっていた。少なくともエルスは途中からは完全に即興だ。
あんな舞は見たことがない。純粋に、圧倒される演技。それこそ、今さっきまで、そこで二人の妖精が舞っていた。
エルスは、ゼエゼエという程ではないものの、肩でしているかのように息が少し荒い。対してキャロラインさんはそれまでお昼寝でもしていたかのような柔らかい息だ。
「トキ君。妖精――フェアリーの語源って知ってる?」
「フェイト――運命、でしたっけ」
「そうね。正確には、昔々に滅びたラテン語という言語の『Fata』だけど。けど、それなら、私が言いたいこともわかるよね?」
「妖精との出会いがあるとするならば、それは運命だっていうの?」
エルスのその言葉を聞くが早いか、キャロラインさんはゆっくりとプリムローズをばさり、と頭上へはたいた。リボンの泉に浸かっていた部分から雫が撥ね、差し込む薄い月光が反射して瞬間的に光り、泉とそのほとりに落ちていく。
「エルス。今撥ねた雫を、あなたは宝石の煌めきにする力を持っているわ。それは魔法でもなんでもなく、あなたの舞踏の実力よ。そして私は、その力をエルスが手に入れるまでは見守るって決めていたの」
今のキャロラインさんの表情を一言で表すなら、それは慈愛となるのだろう。エルスが成長したと実感するようなその視線は、姉というより聖母のようなもので。
「――もう、私から言う事、教えることも何もないね。エルスはすぐにでもエルディスになれるし、なるべきだと思う。カスミはティーナのエルディスになりたいと言うし、私はエルスが私の後を継いでウィスカのエルディスでいいと思うのだけど、私の一存で決められることじゃないから、なるようにしかならないかな」
そして、キャロラインさんが俺に向ける視線は、やっぱり感謝の意を示すものだった。
「トキ君。ずっとエルスを支えてあげてくれてありがとう。聖職を取得したなら、エルスとは関係なしに頻繁にここに来るようになるのかな。ここは神聖でありつつも、誰をも迎え入れてくれる場所だから、いつでもおいで。調査で来るのもだし、エルスとデートで来てもいいわ。あなた達にとって、ここはとっても落ち着ける場所だろうから」
落ち着ける場所、確かに間違いではないかもしれない。流石にこんな場所を我が物顔で使うわけにもいかないけど、たまにならいいのかな。
「トキ君、今私たちの部屋――エルスと一緒に住んでいるのでしょう?」
「えぇ、お恥ずかしながら。ただ、キャロラインさんの部屋は無理に使わないようにしています」
「それじゃぁトキ君。私の部屋、トキ君の部屋にしちゃっていいからね? きっとこれから二人はずっとあの部屋に住むんでしょうし」
「なら、その内書斎だとかでお借りするかもしれません。今はまだ、そこまで必要に迫られてもいないので」
「ふふっ、研究が捗って、早く使う必要が出てくるといいわね。もしかして、トキ君が執筆した本で埋め尽くされちゃうとか?」
「ははっ、まぁ第一人者になれるなら、なれるように頑張って見ますよ」
俺だって、エルスに負けるわけにはいかないんだ。エルスが高みを目指すなら、俺だって並んで恥ずかしくないようにしていたい。
「エルス。トキ君はあなたにとって生涯必要な人よ。絶対に手放さないようにしてね」
「言われなくても離さないよ」
「俺からもエルスからは離れる気はありませんから」
「ふふっ、二人共そう言うと思った。けどトキ君に何か一言残してエルスには何も言わないのはフェアじゃないと思ったから」
「そんなことでわざわざそういうこと言わないでよー!」
「そうね、でも、私がエルスに伝えたいことは、もう全て伝えてしまっていたから」
キャロラインさんが深く息をつく。あの息には、きっと万感の思いが込められていて、恐らくそれは、キャロラインさんの中でも未だ整理がついていないことなんだろう。
「私は、もう行かなきゃいけないんだ。どちらにしても、二人共、そろそろ戻らないと。特にエルスはこれからみんなの前で踊るのでしょう?」
舞踏の終わり、儀礼の終焉。舞い手はすぐさまにでも退場しなければならない。そしてその舞い手を今か今かと待つ人々がいるのもまた事実で。
「二人共さ。二人にとって、妖精って、何?」
ふっと投げられた質問に、瞬間的に頭が真っ白になる。どうしてだろう、そんなこと、常々決まっていたというのに。
「難しく考える必要はないわ。二人が考える各々の妖精の姿、そもそも具体的でなくてもいいのよ」
それなら、簡単だ。爺さんから散々聞かされて、いつしか俺が見つけたいと願った憧れ。
「お姉ちゃんと一緒になりきった姿――私とお姉ちゃん、そして空想上の何か」
「スプリングスノーの泉で戯れる、美しい伝説」
「はい、よく出来ました」
にっこりと、とても満足そうな表情をキャロラインさんがした。そしてすぐさま、真剣な表情になってじっと俺たちを見る。
「――ねぇ、二人共。最後になっちゃったけど」
徐に、神妙な顔をしてキャロラインさんがこちらを向く。
「――その答えを、欲しい?」
それは、願ってもない提案。だけど、今更ながらに、その答え合わせをすることが怖いと思う自分がいた。今まで俺が追っていたものはただの幻想で、存在なんて一切しない、ありもしないものを探していたんじゃないかと言われる恐怖がある。
それでも、今更、俺もエルスも、もしかしたらと薄々感づいてはいたとはいえ、それに首を振ることなんて出来なかった。
「――ええ、是非とも」
「――わかったわ」
キャロラインさんが俺たちに背中を向けて泉へと歩き出す。どうしてだろう、走って追いかければすぐに追いつくのに、もう手が届かない場所にいるかのような錯覚を覚える。
キャロラインさんが踏んでいた土の下に、煌めく石が混ざっていた。さっきまでは、あんな光るものなんてなかったのに。
「――初めてなんだからね、100年もの間で、誰かにこれを見せるのは」
キャロラインさんのベルティナ衣装がするすると解けていく。衣擦れの音が伝わらない位には、その肌は綺麗で、だけどわずかにカサカサという音だけが響いて。
そして、その衣装の全てを脱いだ、その背中から広がるは――虹色の、羽。
「キャロラインさんこそが……」
「妖精……」
エルスは、姉と共に追い求めていたものの存在を知った。俺は、爺さんが言っていた伝承が本当だと知った。
だけど、それよりも。キャロラインさんは俺たちに託してくれたんだ。これで、安心して虹色の羽が奏でる旋律――プリズムリズムを任せられる。だからこそ、キャロラインさんは、今こそ還る時なんだって。
「――言ったでしょう? 妖精の姿を感じたいなら、心を澄ませ、樹や水を感じてみてほしいって」
あぁそうだ。感じなければ、妖精なんて絶対に見えるわけがない。だって妖精は、スプリングスノーや大地の自然の使者なんだから。
「だって、妖精は『気まぐれ』だから。気まぐれを起こしてもいいと思える相手に、妖精は会いたいと願うから」
そう口にしながらキャロラインさんが手に取ったのは、いつかエルスが見せてくれた妖精のティアラ。
キャロラインさんが、息を吹きかけると、ふわりと、一枚だけ花びらが舞った。その色は、白く煌めいている。
「あれって――!」
間違いない。さっき、俺とエルスが見つけ、そして俺たちの手の上で溶けたあのスプリングスノーの花びらだ。
「――お姉ちゃん!」
羽ばたき始め、もう手の届かなくなったキャロラインさんに向けてエルスが叫ぶ。
「妖精ごっこで集めた品々は、全部、本物だったんだね――!」
再びティアラにキャロラインさんが息を吹きかける。数枚散った花びらに、加えてキャロラインさんは虹色の羽をはためかせ、さらに高く舞い上がらせた。
ふわりと、一陣の温かい風が吹いて、俺とエルスを包み込む。今日、これからなごり雪が町中に降り注ぐ、それを予感させる温かい春の風。
瞬間、虹色――プリズムが、辺り一面を照らした。森には似つかない、眩い光。
「『愛しているわ、私の宝物――』」
その声だけ残して、キャロラインさんは、そこから跡形もなく姿を消していたんだ。
「なんだかね……涙が出ないんだ……」
二人きりの船の上で、先に沈黙を破ったのはエルスだった。
「寂しいとは思うけど、悲しいとはあんまり思わない。薄情なのかもわからない。だけど、一縷の期待があるのも事実なんだ」
船は森から離れゆく。エルスは、じっと森の方を見たまま視線を逸らさない。
「だって、お姉ちゃんは妖精だから。また、忘れた頃にふっと現れて、私たちの仲を冷やかしにでも来るんじゃないかって、そう思うんだ」
ふっと、ここで船に乗ってから初めて、エルスが俺の方を向いた。暗いからというわけではなく、その表情はどこか抜け落ちている。
「それでも、泣いちゃうのかな。もしかしたらもう会えないって、寂しさで押し潰されそうになっちゃうのかな」
「無理することもないし、後から来たって、俺が受け止めてやる」
「うん、ありがとう。多分、この後のこともあるし、それらも落ち着いて、明日くらいになって初めて、になるのかなぁ。だから、舞踏が終わったら、今日は私から離れないで欲しいかな」
「お安い御用だ」
少し、エルスの表情が和らぐのを確認する。よかった、先程までの表情のまま舞踏に出るとするなら心配だったのだけど、そういう顔になれるなら、きっと大丈夫だろう。
「その上で、俺から言えることは、何もないよ」
何もないというより、言う権利がない、という方が正しいのだけど。
「だって、エルスとキャロラインさんの仲は、俺であっても不可侵で、だからこそエルスにしかわからない。勿論、俺がキャロラインさんにどう憧れていたか、口で説明できてもその本質までを全て理解できるとは思わないからお互い様だ」
ここだけは、俺としても一線を引いておきたかった。余計なことを言うべきじゃないし、俺だってあまり言われたくない。流石に何か言われたところで揺らぐようなものでもないだろうけど、揺らいでしまう可能性があるなら、何も突っ込まないでいる方がいいだろう。
「だけどこれだけは間違いなく言える。エルスがどうキャロラインさんに対して感じていたかという想いは唯一無二だからこそ、絶対にエルスはそれを忘れないで欲しい。それはエルスしか持ちえない感情で、エルスが忘れてしまったら誰からも忘れ去られる感情になってしまうから」
感情なんてものは、発露しなければ何もわからない。エルスが妖精が見えなくて森から去った時、キャロラインさんにそれを明確には伝えなかったから、姉妹の間に何か溝が出来てしまった。もう、そんな思いを、エルスにはしてほしくなかったから。
「――俺としては、ずっと探していたものがすぐ近くにあったってことと、爺さんが語っていたことが本当だったということだけで、全て報われたと思っているから」
元よりウィスカに来たのも、ある意味では不純な動機だ。その不純な動機が、こうして達成されただけでも儲けもんなのに、エルスという俺には勿体ない恋人まで出来てしまった。だから、俺は十分満足しているし、故に俺がすべきことはもう一つしかない。
「一騎くんは、長年探していたものがわかってしまったら、森に入る必要性もなくなってしまったんじゃないの?」
「そんなことはないさ」
本当に理由がなくなってしまったら、聖職の資格もいらないし、そもそもキャロラインさんにああやって書斎にするかもなんて言うわけもない。成し遂げたかったことが達成できた先にあったのは、あの時の俺ですらまだなかった一つの夢。
「確かに最初はキャロラインさんの憧れだけでウィスカに来たようなものだったかもしれない。今だから言えるけど、それだけで半年間血の滲むような努力をするなんて、あの時の俺はほんと酔狂だったって思うよ。だけど、そうしてやってきたウィスカで、自然との触れ合いを知った。自然と溶け合う人や街を見た。スプリングスノーに感謝して生きるという生活を経験した。俺が触れた伝承の一端は、故郷にはない『文化』の宝箱だったんだ」
今でも思い出す。ウィスカに初めて来た日のことを。半年後、編入が決まって再びウィスカに降り立ち、エルスと出会った日のことを。リアに学院内を連れられるもバビィさんに叱られた編入初日のことを。これらの日だけで、様々なもっと知りたいと思える出来事に出会えた。
「そして、カスミ姉が、ウィスカのエルディスになりたいと言っているのと同時、俺もウィスカの文化をティーナに持ち帰りたいと思うようになった。いつかは帰郷して、ティーナに文化が受け入れられるだけの基盤作りの一助をしてあげたい。そしてその時は、ウィスカに住むかティーナに住むかはその時考えるとしても、一回はエルスもティーナに連れて行きたいな。それが最終的な俺の夢で、恐らく変わることのない必要性」
夢を語る事は正直恥ずかしい。だけど、この夢は、誰かに聞いてもらって初めて価値が出る。そして、この夢は、いつかエルスと一緒に叶えたい。
「それじゃぁ、今、一騎くんが、一番求めているものって、何?」
その答えは、もう決まっている。
「そりゃぁ、『今の俺の憧れ』だよ」
「それは、お姉ちゃんのこと、じゃなくて?」
「――違うよ。キャロラインさんが憧れなのは確かに今でも変わらないかもしれない。だけど、それ以上に憧れて、だからこそずっと支えたい人がいるんだ」
人当たりが良くて、俺が初めて出会った際に、ある種の不埒を働いても周りに合わせてくれた彼女。自身の能力は高いはずなのに、一番身近な存在とどうしても比較してしまって、だからいつも何か劣等感を覚えていた彼女。自己研鑽は怠らないけど、だからこそどこか危うい面もよく見れば持ち合わせていて、それを倒れ込まないように背中から守ってやりたい彼女。
「憧れが飛びぬけて、好きと同時に憧れが出来た人」
好きな所は数多あれど、惹かれた理由としては、きっとそれらが挙げられるのだろう。不意打ちのキスは認識するのに十分だっただけで、思えばその前から目でその姿を追っていたんだ。
「俺の今の憧れは、ずっと前からエルスだよ」
それが俺の本心。エルスの舞踏をずっと見てきたから、というのはあるだろうけど、それ以上に高みの追い求める姿に際限がなかったから、今こうして傍でずっとその憧れを見ていられることが嬉しい。俺の夢はエルスが傍にいなくちゃ駄目なんだ、とは流石に恥ずかしくて言えないけど、いつかは言えれば。
「だからさ、見せてくれよ、俺がいつからか憧れるようになった、その姿を、そのまま」
そしてエルスは、ゆっくりと微笑みながら、一言だけ返してくれたんだ。
「――今、その言葉が、私にとっては一番心強いよ」
船を下りてからは、よく覚えていない。とにかくエルスが間に合うようにと一目散に走って、エルスを間に合わせたのを確認したら客席に全力で向かって、辛うじてリアやカスミ姉達を見つけてすぐにエルスの舞踏が始まったから。
そんな状況でも、ひとたび始まれば、全ての意識がエルスに向かい、先程まで全力疾走していたことさえ忘れてしまう。エルスの舞は、先程まで泉で舞っていた時の疲れを一切感じさせないもので、尚且つ先程まで全力疾走していたことすら人に匂わせない完璧な演技だった。
エルスの舞踏が終わった瞬間に、意識を取り戻したような気がする。寝ていたとかそういうんじゃなくて、何が起こったのかわからないというような。俺は今に至るまで何を見ていたのだろう。それこそ幻を見ていたようにも思うし、そう思える位には現実感がまるでない。
だけど、間違いなく、今そこにはそれが『存在していた』。宝石が撥ね、妖精が舞い、星々がこの地上に降り立ったかのような舞踏が。キャロラインさんが言っていた、水しぶきを宝石に変える力。それを今さっきまで、この場所でエルスは人々に見せつけていた。
エルディスとしても文句はない。キャロライン・マリーゴールドの妹としてだからではない、エルステリア・マリーゴールドとしてのその存在がそこにあり、きっと人々もそう認識したはずだ――そんなことを考えていたから、リアやカスミ姉達とはぐれてしまうんだ。
一人祭りの喧騒に取り残される。きっとみんなは俺を探していてくれているんだろうけど、俺からあいつらを探す気力というのは、今の俺にはない。
賑やかな雑踏の中で、急に孤独になったかのような錯覚を覚える。いや実際今の俺は孤独だ。どうして独りで今ここにいるのだろう。今の俺は、彼女が傍にいないと何も出来ないような人間なのに。
「――一騎くん!」
そして、そうして独りで彷徨っているような時も、真っ先に俺を見つけてくれるのは、俺にとって、これから先もずっと憧れであり続ける人なんだ。
「どうしたの?」
あぁ、やっぱり、こんな、恥ずかしいよな。少しばかりなんてもんじゃなくて、俺の頬がしっとりとこんなにも湿っているなんて。
「――なんでもねぇよ、なんでも、こんな……」
そんなぶっらきぼうに答える必要もないだろと自嘲する。無邪気な、だけど素直になれない子供のように、本心を開けっぴろげにするのが、どうしてか今だけは怖くて。
不意に、片頬に手が当てられた。その手は大きくはないけれど、聖母にも似たそれで、すごく温かさが伝わってくる。
あぁ。やっぱり彼女はあの人の姉妹で、だけどこれがエルスなりの愛情表現なんだって。今この瞬間だけ、俺はいつかの子供時代へと回帰する。
「――ずっと、『見守って』いてくれていたんだね」
そうだ。俺がエルスの舞踏を見届けるのはもはや義務だから。だけどキャロラインさんに頼まれたからじゃない、俺が、俺の意思でやりたいことだったから。
「それで、やっぱり最初は、他の誰でもなく一騎くんに尋ねたいんだけどさ」
少しだけもじもじと、だけど勇気を振り絞るかのようにエルスが尋ねる。そんなことしなくても、俺の答えは端から決まっているんだけどな。
「――えっと、私の今の舞踊、どうだった?」
幾ら聖職資格を持っていようと、具体的になんて言えるわけがない。無理に引き延ばそうとしても、ただ陳腐な言葉でいらない修飾をしてしまうだろう。
だから、全てを削ぎ落とし、俺から掛ける言葉は、一つだけ。
「俺が憧れた、『妖精そのもの』だったよ」
いつしか降り出した春の雪は、音もなく町中に降り注ぐ。雑踏が歓声に変わり、やがてどこからかスプリングスノーへの讃美歌が聞こえ始める。
大地への祈りと感謝を。大地からの答えは、きっと妖精が運んできてくれるのだろう。
俺は聖職として、エルスはベルティナとしてそれを形にする。切り口は違っても、求めるものは同じだから。
エルスと手を繋いで、二人して同じ祈りを捧げる。全ては、ずっと、キャロラインさんに見ていてもらえるように。
少なくとも、その願いだけは、俺もエルスも同じだから。