Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
第八話 埋まる知識、広がる差
最強の男が知識までも兼ね備えた。
解決は時間の問題に決まっている。
*
毎夜見る悪夢の中に出現した、不快の影の正体を確かめてやろうと、己が心象を表すのだろう赤い部屋が白く染まっていく風景を眺めながら、周囲の気配を探る。
そうして伽藍堂になった肉体を放置して、神経を密に外部へと張り巡らせてみても、しかしその敏と周囲に散らした蜘蛛の糸が反応してくれるのは、やはり毎夜常に現れる己が理性の分身だろう、脳の化け物だけなのだ。
やつは私がこの悪夢の部屋にやってきてからきっかり三分後、定刻通りに現れ、ウェイターの気を引くが如くこちらを一瞥すると、しかし、注文もせずに周囲の机を見渡し、他人の料理が陳列する席の中から好物の品を見つけると、勝手に座り、目の前に並べられたものを貪り出す、強欲で礼儀知らずな律儀者である。
そんな奴の好物は、負の感情がその色を表したかのような、黒いコーヒーだ。
本来は分離不可能に成り果てたはずの記憶と感情の強固な結びつきを、あたかも混ぜ込んだ不可逆の代名詞たるカフェオレのようなそれを、ミルクとコーヒーに戻すかのごとく分離させられ、そうして現れた黒の感情を淡々と処理されてゆく感覚というものは、「これから先の道のり、決して道を間違えることは許さん」と、言外に脅迫されているような感覚を覚えて、ひどく憂鬱な気分になる。
そうして陰鬱な表情を隠しもせずに脳を観察していると、やがて満足したやつは帰ってもゆき、赤と白の混ざった部屋は傍若無人な無銭飲食者を取り逃がして、平穏さを取り戻す。もどかしい感覚だけを食事の代金代わりに、割りの合わない不等価交換の結果、私は現実の中へと引き戻される。
結局、この夜は、常に一対に現れるはずの黒の影がその悪意の気色に満ちた姿を表すことはなかった。己が記憶の中にいるはずの人物の正体はいまだに掴めない。
だが違和感だけはある。常に時間ぴったりやってくる脳の化物と違い、あの心底性格の悪そうな物言いをする影は、こちらの望みをまるで完全に裏切るかのように、望んだ時に現れず、そして望んでいない時にばかり、望んでいないことを好き勝手言って帰ってゆく。その傍若無人ぶりは、理性、というものから最も程遠い、醜悪な感情を感じられる。
―――もしやあの影と、脳は、別の存在なのだろうか
*
二層を攻略して早四日が経過した。朝、鐘の音がなる前に目を覚ましたのは、ひとえに身体中を覆う不快感のおかげである。二層番人を倒したことによりその大密林の湿気が解放されたのか、石畳と漆喰と煉瓦の街であるエトリアは、梅雨でもまだマシと思えるほどの、水をぶちまけたかのような湿気に包まれていた。
そんな空気中を漂う水分から一晩中私をかばいながら、さらには不快な湿度と温度により生み出された寝汗までも吸収してくれた、そんな優しさを持っていた掛け布団は、しかし、朝方にそのおせっかいぶりを遺憾なく発揮してエトリアの朝の冷気までも取り込むことで、まるで冷蔵庫で存分に冷やした水まくらのような物体に成り果てていた。
素直さの裏に隠されていたそそっかしい面を遺憾なく発揮した布切れを、一応は気遣って枕元の方へ追いやると、まだ暗がりの残る部屋の床に足を下ろす。木製の床板がギシリと常よりも鈍い音をたてて、悲鳴をあげた。どうやら今日の彼は、周囲の水気をたっぷりと吸い込んでご機嫌斜めのようである。
やがて寝ぼけた顔のまま鏡面大の前に行き、身だしなみを整える。眉を整え、ヒゲを剃り、髪をセットしようとして、脂のノリが悪いことに気がついた。髪は湿気をたっぷりと含んだ空気と協力することで、いつもより反抗的な態度で整列するのを拒んでくる。
しばらくはその悪童を強制してやろうと格闘していたが、あちらを立てればこちらが立たぬとでも言おうか、直した端から反逆するものが現れるので、適当なところで切り上げてやめた。どうやら今日は、多くのものにそっぽを向かれる日であるらしい。
そうして無駄なあがきをしていると、やがて朝五時を告げる鐘の音が聞こえた。エトリア中の寝坊助を起こす鐘の音を合図に階下へと降りると、女将が机の上に多くの皿を広げて待ち構えていた。
「やぁ、おはようさん」
「ああ。おはよう」
からりと笑いかけてくる女将のインに挨拶を返すと、椅子に座る。食事の最中、女将は鳥の巣に似た頭のことを指摘して、「今日は随分と遊ばせているじゃ無いか」と指摘してくる。
怠惰を見抜かれ、指摘され、恥を覚えた私は、「湿気のせいか、今日は随分聞かん坊でね」と言い訳がましく答えると、彼女はやはりからからと笑って、「たまには息抜きさせてやらないと。きっちりしても見せる相手がいないだろう? 」などと言ってきた。そこで、
「貴女がいるだろう? 」
と、するりと返すと、彼女は「からかっちゃいけないよ」、と言いながら、少しばかり顔を赤らめた。甲斐のある反応をしてくれるものである。やはりこうでなくてはいけない。
さて、そうして平穏を堪能していると、食堂に私以外の客がいないことに気がついた。そういえばここ最近、客の姿を見かけていない。思って聞くと、
「一ヶ月ほど前から、夜討ち朝駆け上等で、帰る時間も告げやしない、そのくせ五時になっても叩きだせない礼儀知らずが逗留しているからねぇ」
と、手痛い言葉を返してくる。言葉の暴力に耳を痛めていると、私は一ヶ月という言葉を聞いてなにかを忘れていると首をひねり、そして今更ながら、一週間ほど前から逗留の代金を支払い忘れていることに気がついた。以前一ヶ月分を前払いしていたので、その後一切代金を支払う機会がなく、騒々しい日々に代金の事を忘却していたのだ。
気づいた瞬間、食事を取る手が止まった。慌てて彼女にそのことを告げ、詫び、今すぐ支払おうと言って立ち上がり、部屋に戻ろうとすると、彼女はやはりからからと笑って、言う。
「慌てなくても、あんたが踏み倒すような輩じゃ無いことは知っているよ。だからまずは、冷めないうちに料理を食べてからにしな」
どうやら知っていて言わなかったらしい。見透かされたかのような言動を受けて、ばつの悪さに足を何度かその場で遊ばせると、しかし、彼女のその慈愛に満ちた視線に負けて、結局彼女の言葉通り席に着き、意趣返しとばかりに言い返してくる彼女にからかわれながら食事で腹を満たす。
―――あいかわらず、この世界は馬鹿げたくらい優しさに満ちている
*
女将の催促が無いのをいいことに、ただ寄生していたことを詫びて、ついでに幾ばくかの違約金を渡そうとすると、女将に大層怒られた。そうして不機嫌になった彼女に追い出されるようにして宿を出る。
夜が開けたばかりの黎明は、冷気と湿気を払う暖かさを十分に発揮できておらず、肌寒い。しかしそれでも街中を歩くと、外套も羽織らずに常の奇天烈な格好がそこいらに見かけられることに驚かされる。
そうしてエトリアに生きる冒険者たちの耐久力に畏敬の念を送っていると、彼らの顔色が以前よりも良いことに気付かされる。はしたなくも聞き耳をたてて情報を収集すると、どうやら彼らの顔色が以前よりも良いのは、新迷宮二層の番人が倒されたことに起因しているようだった。
新迷宮一層の番人を倒したのち、一週間の後、本来復活するはずの番人が復活しないという事態は、一時の間彼らを不安の渦中に叩き込んだ。きっと何か不吉なことが起きるに違いない、という不安は、しかし、その後、約一ヶ月の時を得てしても現実化する事がなく、その上、さらに二層の番人が倒されたという報が発表され、そうして彼らは、「新迷宮は番人が復活しないのが普通である」と判断したようだった。
この辺りの判断の早さを見せつけられると、現金というか、楽観というか、とにかく、エトリアの冒険者というものは、たくましいなと思わされてしまう。
問題が解決したと見れば、もう過去に目を向けない、負の感情を留める手段が知らないとでもいうかのような、その悪夢をみようが知った事でない、と言わんばかりの彼らの態度は、今の自分にとって酷く羨ましく思えた。
*
「む」
「お」
扉をあけて鈴の音をならすと、先客と目が合い、互いに間抜けな声を漏らした。薄暗い空気の中に混じった二つの声は、その場にいる全ての人間の視線を集める効果を発揮して、静かに短い役目を終えて消えてゆく。
「よぉ、あんたも売りにきたのかい? 」
サガが籠手のない片手を小さくひょいとあげて、親しげに声をかけてきた。投げかけられた言葉が外に逃げないうちに扉を閉めると、薄暗い店内に入って同意の言葉を返すと、一同が集まる店内へと足を進める。
いつも鍛冶や冶金などの道具で雑然としている「ヘイ道具屋」は、たった五人だけでも許容人数範囲を多くオーバーしているようで、いつもは道具で一杯の木台の上からは綺麗に一切合切の物が彼らによってどかされたのだろう、地面に乱雑に置かれ、木台はギルド「異邦人」が腕を置く大きめの脇息へと成り果てていた。なんとも厚かましい態度である。
しかし、その道具屋の店主に一切の遠慮をしない態度からは、ヘイと「異邦人」の間にある彼らの気の置けない空気が読み取れるようで、少しばかり羨望の感情が湧く。
「その通りだ。番人のやつを売ろうと思ってな」
答えながら店内を進む。奥へと進んで、さて店主はどこだと見渡してみても、店主を差し置いて堂々とレジ前を占拠する不審者がいるばかりで、いるべき人間が見当たらないことに、まず首をかしげる。
「ヘイはどこだ? 」
いうと、組んだ腕のままダリという男が店の奥を指差した。
「あそこだ」
そうして長身から伸びた指の先を追ってやると、炉の横にある出入口の向こうに見覚えのある巨体を見つけて、私は挨拶の声をかけようとする。
「ヘイ―――」
が、その熊のような巨体がよくみてやればプルプルと震えているのをみて、私は今しがた喉元まで出かけていた愛想の良さを引っ込めた。あの抑えきれぬ激情を、それでもなんとか抑えようとして、それでも抑えきれない発露が体の外に出る状態を、私はよく知っている。
それは。
「―――、だぁ、やってられるか! 」
憤怒だ。
「お前ら! 二層の番人から剥ぎ取ったものだってぇ、裏口からデケェ袋をいくつも持ち込むから期待して開けてみりゃあ、詰まってんのは、虫、虫、虫、虫、虫、虫じゃねぇか! しかも腐っててクセェ! 嫌がらせか、テメェら! 」
ヘイはついに堪忍袋の尾が切れたようで、ついでとばかりに漁っていた麻袋の口を強く握りしめると、ドスドスと大股に歩いてきて、一番近くにいたダリへと押し付けた。
「返す。だから帰れ」
二言には、有無を言わさない迫力があった。仮にここにいるのがその辺にいる一山いくらの冒険者なら、その迫力に押されて退却していたかもしれない。
「まぁ、そういうなってヘイ」
だがここにいるのは、ヘイにとっては不幸なことに、その有象無象に当てはならない、ギルド「異邦人」の五人である。彼らのうち、怒りに燃えるヘイを宥めようと言葉を出したのは、サガという、小さな青年だった。
「これでも可能な限り早く持ってきたんだぜ? それに、それは間違いなく二層の番人から手に入れたものだ。いや、むしろ、二層の番人そのものだ。なぁ、エミヤ」
サガはいって、私に援護の声を求めてくる。そうしてヘイの怒気に満ちた視線がこちらを向いて、「本当なのか」という問いに満ちた瞳を投げかけてくるのを見て、私はサガの手腕に賞賛と罵倒を心中にて送りながら、答えてやる。
「ああ、その通りだ。その、なんだ、君の持っている、その、様々な汁が垂れる袋に詰まっている奴らは、間違いなく番人のそのものだ」
そうして彼の望んでいないだろう回答を返してやると、ヘイは一度天井を仰ぎ見て、そうして諦めるかのように左右に何度もかぶりを振ると、大きなため息を吐いていう。
「まぁ、エミヤが言うなら違いねぇんだろうな」
「ヘイ。おい、お前、そりゃどう言う意味だ」
端的にお前らの話は信用ならんと告げられたサガが抗議の声を上げる。
「ばっか、そりゃオメェ、こんな堆肥にもならんゴミを持ち込む奴らと、あの美しい鱗と皮を持ち込むエミヤ、どっちの言葉を信用するかって言われたら、そりゃオメェ、エミヤに決まってんだろう」
ヘイの迷いのない断言に、サガが何とも悔しげにしかし、何も言えないで押し黙る。それを見て、ピエールという男は意地悪く失笑を漏らし、響が何とも言えない苦笑いを浮かべる。ダリは納得の表情で首を縦に振り、シンはそんな周囲の態度には興味ないといった程で、ずっとこちらに鋭い視線を送ってきている。
「おお、そうだ、エミヤ。この馬鹿どもは放っといて、お前は何を持ってきてくれたんだ? 」
ヘイはその袋をぽいと店の奥へと放り込むと、大股でこちらに進んで尋ねてくる。彼の放り投げた袋の口が開き、その中からおぞましい汁を周囲に撒き散らしながら、ガサガサと音を立てて佃煮の様な状態の玉虫が店の奥へと撒き散らされる。
ヘイはその耳障りを聞きつけて己の所業にすぐさま気づくと、諦観とやり場のない怒りとが混ざった顔をして、一瞬だけ凄まじく眉をひそめると、努めて商売用の顔に作り変えて、もう一度こちらを向く。その顔は覚悟を決めた殉教者のように表情が固定されていた。
私は、あの残状を見ながら、一旦は捨て置いておこうと決心した彼の胆力に感心しながら、持ってきた小さな麻の袋を取り出して、彼の前に差し出す。
「今回の番人から剥ぎ取った品は、あまり量がないのだが……」
言って差し出した袋をヘイは丁寧に奪い取ると、「前回みたいなのをまた持ち込まれたら、身がもたねぇ」と言いながら、その袋の軽さに違和感を持ったのか、一度首をかしげるとその縛りを解き、中身を見る。途端、彼の顔には驚きと呆れが詰めこまれ、体は再び震えだした。
「……、エミヤ、お前、これ」
その体全体を小刻みに動かす様に、先のシンらが持ち込んだ際に彼が見せたものとの共通を見出した私は、何がその起爆剤になったのかはわからないが、言い訳するかのように、言葉を付け足す。
「一応、腐りかけた余計な肉をこそげて、売れそうな部分のみを選別してきたのだが……」
私が差し出した袋に入っているのは、金の羊毛だ。とはいえ半身を消し飛ばし、残りの殆ども宝具でバラバラにしてしまったので、わずかながら無事だった肉体に残ったものを刈り取って持ってきたわけだが、やはり量が少なすぎたのだろうか。
「――――――」
「あぁ―――、ヘイ? 」
「――――――これだよ、これ! 俺はこういうのを求めていたんだよ! 」
不安に陥る私が声をかけたその数秒後、ヘイは大きな声で叫ぶと、私の両手を無理やり掻っ攫って、上下に大きく振る。そうして満足を大いに表現したヘイは、私の後ろにある扉にまで進み、鈴の音を何度も大きく響かせながら扉を乱雑に開閉させると、その間に器用にも表の看板を回収し、さらには閉店の文字を表にして、こちらへと戻ってくる。
「さぁ、今日はこれの加工と使い道を考えるので忙しい。俺は上に行くから、エミヤ、悪いが、値はつけたら後で知らせる! また後で来てくれ! 」
いうとヘイは、異邦人の彼らには見向きもせず、一目散に店の奥に引っ込んで、ドスドスと階上へと消えてゆく。その迫力にあっけにとられてぽかんと眺めていると、やがて同じように口を開けて呆けたサガという男と目があった。彼は下から覗き込むような視線を私に送ると、苦笑いをしてこちらに話しかけて来た。
「よう。災難だったな」
思うに彼らがあの腐った虫の死骸を持ち込んだことが、彼をああまで不安定な心境に追い込んだ原因だと思うのが、彼のその、まるで自分らは無関係だと言わんばかりの態度に呆れたような、感心したような、そんな複雑な思いを抱いて、私は返答する。
「まるで人ごとのようにいうな」
「まぁ、実際、人ごとだし? 」
「面の皮が厚い」
「よく言われる」
言い合って互いに失笑を漏らすと、彼は事実無関係といった程でそのまま話を続けた。
「それにしても一昨日ぶりだな」
「そうだな。クーマのところであって以来か」
言って一同を見渡すと、シンという男の頭に見事な拳紅葉が付いていることに気がついた。さて、何があったのだろうかと、思わずその額を注視すると、彼はその視線に気がついて、額をさすると、静かな視線を二つ隣の少女、響へと向けた。
私はその動きに誘われて彼女の方へと目線を動かす。そうして二人の視線に誘われるように、皆の視線が響に集まると、彼女は己に集まった視線にまずはいちいち目線を返して、次にその視線がシンの額を発端として己に集まった物だと悟ると、顔を赤らめて、下を向いた。
―――なるほど、彼女が原因か
私は以前、半裸のシンが彼女に詰め寄っている光景を思い出して、邪推の元に尋ねる。
「シン、もしやとは思うが、無理やりは良くない 」
「いや――――――」
「違います! 」
シンが言葉を紡ぎきるまえに、響が顔を赤らめて大声をあげた。少女特有の、耳に長く残るソプラノボイスが、鼓膜に多く振動を与える。
「あれは、シンさんがいきなりあんな馬鹿をするから―――」
「ふむ、だが、いや、あの一撃は見事だった」
響の狼狽えた言葉を遮って、多分的外れなのだろう意見をシンが返すと、彼女は呆れたような、諦めたようなため息を吐いて、下を向いた。その言葉だけ聞けば十分に怪しい想像を掻き立てられるそれに反応して、サガが快活な笑いをあげながら、言葉を継ぐ。
「いやね。一昨日のことなんだけどさ。あんたと別れた後、俺らも祝杯をあげた後、夜くらいに解散して、それぞれの寝床に戻ったのさ。まぁ明日―――つまり昨日だな―――はクーマからの依頼で、樹海磁軸を使って番人の間に行って、新迷宮の番人の不在証明を手伝うことになっていたから、早めに帰って道具の手入れをしようって話になってたんだが、その際に、響の噂を聞いてさ」
「うむ、クーマは馬鹿正直に、六人が偶然、番人の間でかち合ったから、協力して倒したと周知しようとしていたわけなんだが、まぁ、その話が公式に広がる前に、六人ということを聞いたそやつらが深読みしたらしくてな」
「なんでも、彼女が準戦闘職であったから、戦闘職五人、プラス一人という、許可されている最大人数で予定通りに挑み、だからこそ番人を倒せたのではないかと考えたらしい」
サガの説明にシンが付け加え、ダリが続くが話の内容がよくわからない。おそらくはエトリアにおいての常識に照らし合わせると、そこの響という少女が私たちと共に戦うことで、なにかの不都合な事態が発生したということは読み取れるのだが、それ以上の情報が読み取れない。
私は少し悩んだが、私が迷宮探索の初心者ということを彼らは知っているわけであるし、聞いても問題ないかと考え、素直に疑問を返すこととした。
「すまない。何が問題なのだ? 」
返すと彼らは驚いて顔を見合わせて、しかし納得した表情で、私の質問に答えようとして、しかし、私のどんな知識がかけていて何が理解できていないのか、というのがわからないらしく、サガは困った顔で聞き返してきた。
「ああ、そうだな、ええと、どこから説明していいのか……」
「エミヤ、迷宮は一つのギルドにつき五人までしか、また、一時間に五人までしか、潜入してはいけないという法があることを知っているか? 」
サガの言葉をぶった切って、ダリという男が説明を引き継ぐ。淡々と告げる彼は、しかし、話す機会をまっていたといわんばかりに顔が気色に満ちている。どうやら彼は、己の知識を語ることが好きな、いわゆる理系の男というやつなのだろうと勝手に思う。
「いや……、時間は聞いたが、ギルドの方は知らなんだ。ああ、だが、言われてみれば、たしかに、街中を集団で歩く連中や、入り口で待ち合わせている彼らや、迷宮の前でたむろっている連中は基本五人組だな」
「そうだ。調査隊の全滅などの経験則から、迷宮は一時間に五人までしか挑んではならんとエトリアでは決められている。また、迷宮に入った五人は、偶然鉢合わせるくらいならすぐに離れてくれれば問題ないのだが、その後集団で行動すると、迷宮外にまでも魔物が溢れて出てくる可能性があることから、中で合流して六人以上になることも、基本的には禁止されている」
ふむ、経験則と言われると理由は理解できないが、とりあえずは五人以上で行動するのがいけないという点が重要であるらしい。
―――ああ
「もしや君たちのギルドと協力して六人で番人を討伐したのが、まずかったのだろうか? 」
「いや……、いや、それはまあ問題ない。一応、関係はあるのだが、それだけではない」
「どういうことだ? 」
ダリは頷くと、まるで学校の教師が指示棒のごとく、指をくるりと回すと、言う。
「五人まで、と言う点には、実はいくつかの抜け穴がある。例えば、一つは、誰かが戦闘で手こずっているのを発見した場合、あるいは、執政院や酒場の依頼などで、非戦闘要員を、依頼人を迷宮へ連れて行かねばならぬ場合などの、短い間のみ、迷宮に六人以上での行動を許可されるのだ。まぁ、人助けなら、少しの間でも仕方ないと言うことだ。我々冒険者は最大潜入可能人数である五人を基本に戦術を組み立てていることが多いからな」
ああ、なるほど。仲間の数を削って非戦闘要員を数に数え、そうして彼らが生き残る確率を減らすくらいなら、まぁ、一時の間は六人以上でも構わないと言うことか。
「―――それで? 」
「うむ、それで、先ほどの話に戻るのだ。実はこの響という少女は、戦闘職でなく、ツールマスターという準戦闘職で、正式な戦職業でない。だから、数の上では、私たちは、一応、短い間なら、後一人を加えて迷宮へと潜ることを正式に許可されているのだ」
―――なるほど。話が読めてきた
「つまり、そのことを利用して、私と手を組み、そうして予定通りに法の穴をついて、番人を倒したのではないかと邪推する連中が現れたということか」
「ああ。そうして深読みした連中―――その中でも、特に、まだ新迷宮の踏破を諦めていない連中が、番人を討伐したメンバーの一人である響に目をつけてな。我々や君は勧誘不可のお触れが出ている状態であるが、彼女はその守りがない。というか、出し忘れていた。実力が我々よりもずっと劣っていたからな。まあこれは我々の過ちだな」
いうと、そこでダリは咳払いして、一息つくと、また続ける。
「とにかくそこに目をつけて、同じような手段で攻略してやろうと目論んだ連中が、その発表前に、多少強引にでも他より先に勧誘に向かえばその分説得の時間も確保できる、と計画を立てている連中の話を耳にしたのがきっかけだ。―――まぁ、その場で言ってやっても良かったんだが、どうせそんな輩はまた出てくるだろうし、夜も遅かったものだから、明朝、鐘がなる前、日が昇る前にシンを迎えに行かせたんだが……」
ダリは言うと、重くため息を吐いて、続けた。
「この馬鹿、こっそり連れ出してこい、と言うのをそのまま言葉通りに実行しようとしたらしくて、裏路地の二階の窓枠にひっついて、窓を叩いて彼女をおびき出して連れ出そうとしたらしい。あとはまぁ……」
言うと、ダリは響の方へと視線を向けた。すると彼女はその小ぶりな顔を真っ赤にしながら、スカートを両手で握って、顔を伏せる。恥ずかしげな彼女とは裏腹に、シンは前髪をかきあげて、拳の跡を露わにすると、晴れやかに言う。
「窓から現れた彼女に迎えの言葉を言うと、いきなり拳を突き出されたのだ。いやぁ、しかしあの一撃は見事だった。二層の番人の攻撃を見切れた私が見切れない、まさに無我の境地でないと繰り出せない一撃とでも言おうか。うむ、彼女はよい近接職になるぞ」
己の顔面に拳を叩き込まれたことを、しかしシンは、まったく気にせず、誇らしげに言う。その様になんとも返すことができなくて、私は変なら含み笑いを返すことしかできなかった。彼女はそんなシンの言葉を聞いて、耳まで赤くすると、余計に服を握る拳に力を入れた。年頃の少女が武の強さを褒められてもうれしくないのだろう。なんとも不憫な……。
「……いや、まぁ、この馬鹿は放っておいて、とにかくそう言う理由で迎えに行かせた後、とにかく対策を、って事で、クーマのところでの依頼を片付けついでにお願いしに行ったんだ。響も勧誘不可のお触れを出してくれってね」
「それが昨日の昼頃でな。まぁ、それまでの間、街にいるのもあれだから、クーマの番人討伐の確認作業を手伝って、三層磁軸から番人部屋まで案内した後、彼を帰らせた後、迷宮内で一晩過ごしたのだ」
「そうして今朝方糸を使って帰ってきたところ、まぁ、問題は解決していたのですが、忘れていた虫の袋がまぁ、中身が酷いことになっていましてねぇ」
サガに続いてダリが補足し、そうしてピエールがクーマの消えた、店奥の先を指差す。そこには、先程ヘイがぶちまけた、頭部と胴が切り離された、体液と腐った汁にまみれた玉虫の死骸が群れていた。
「麻袋をおいてた、その床にまで虫汁が染み出してたからなぁ。まぁ、とはいえ、処分しないことには仕方ないから持ってきたんだが……」
「あのざまです」
サガの言葉にピエールが口元を意地悪く歪めながら、さらりと告げる。その顔は、イレギュラーな事態を楽しむような、その後、ヘイがどんな気持ちで処分するのかを想像して楽しむような、そんな、暗い愉悦に満ちた、しかし恍惚とした顔をしていた。どうやらこのピエールという男、相当いい性格をしているようだ。
「あまりいい趣味とはいえんな」
「おや、失敬。顔に出ていましたか? 」
「少なくとも迷宮素人の私にもわかるくらいにはな」
私の忠告に、ピエールは悪びれもなく素面で言ってのけるので、皮肉を返してやったが、彼はそれすらも涼し気に受け流した。本当に、良い性格をしている。
「諦めろよ、そいつの性格だ。……、しかし、エミヤ。お前、本当に変な奴だなぁ」
サガはしみじみとこちらを覗き込みながらいう。
「何がかね?」
「だって、お前、そんなに強いのに、どうしてそんなに迷宮のことについては常識がないんだ? なぁ、お前、一体、どうやって迷宮に潜らずそんな強さを身につけたんだ? 」
痛いところを疲れて言葉を返せない。馬鹿正直に、元英霊の人間だなどと告げても理解されないだろうし、あるいは、過去よりの来訪者ですなどと多少誤魔化したところで、かわいそうなものを見る目を送られるだろう未来が容易に想像できる。
そうして私が返答に窮していると、フォローしてくれたのは、まさかのピエールだった。
「まぁ、いいじゃありませんか。いい男に謎はつきものです」
「いや、そういう問題じゃぁ……」
「根掘り葉掘り聞くのははしたないですよ。込み入った話というもの、まだあって間もない人間には言いづらくて当然でしょう。あなただって最初の頃は、なんで冒険者になったのか、その理由、を語ろうとはしなかったでしょう? 」
いうと、サガは渋面をしながら閉口。それをみてピエールはやはり機嫌よく笑う。どうやらこのピエールという男は、性格は悪いが、わきまえているところはあるらしい。本当に、非常に扱いづらい性格をしているのが難点であるが。
「まぁ、それはいいとして、エミヤ」
「なんだね? 」
「あなた、まずはその、迷宮の常識を知らない面をどうにかした方がよろしいかと。おそらく今後も、あなたが強いのに迷宮のあれこれを知らないということを知られると、ここにいる礼儀知らずのように、同じ疑問を投げかけてくる輩がいるでしょうから」
サガは立て続けの罵倒に、もはや噴火寸前だ。ともあれ、まぁ、嫌みを除いて聞いてやれば、ピエールの言うことは的確だ。同じような事態になった時、対処する手段としても、迷宮の常識は知っておいた方がよいだろう。
だがあいにくと、その常識のなさを埋める手段が思い浮かばない。さて、どうしたものかと、首を微かにかしげると、その悩みを見透かしたかのように、ピエールは続けた。
「エミヤ、ギルド長のところへ行くとよいでしょう」
「ギルド長? ゴリンとかいうあの怠惰な男か。何故だ? 」
「初心者に冒険者としての心構えや常識を教えるが彼の役目です。以前、迷宮であなたはその辺りの説明を彼から受けていないとおっしゃっていましたね? あの男がサボったせいで、今あなたはそうやって恥をかいている。ならそのツケは、元凶に支払わせるのが道理というものでしょう」
涼やかに告げるピエールの瞳には、人を食ってかかったような、そうして己の行動の結果、正しく人が少しばかり困るのを喜んでいる節があった。だが。
「まぁ……、そうかもしれんな」
あのゴリンという怠惰を形にしたかのような男のせいで、このような齟齬に戸惑う事態が起こるというなら、たしかにピエールの言うことも一理ある。
「でしょう? ですから、エミヤ。もしこれからお暇でしたら、一緒に、ギルド長のところへ行きませんか? 」
「……、ふむ」
ピエールの突然の提案に、彼の顔を覗き込む。その緑水の瞳には曇りがなく、口元は悪戯っぽく口角が上がっている。私はこの性格が悪いだろう男の親切の提案に、一瞬疑念を抱いて、そしてそれはそのまま、口元からこぼれた。
「ピエール。なんでわざわざ付き合ってくれる」
聞くと、彼はやはり意地悪に口元を歪めていった。
「決まっているじゃないですか。面白そうだからですよ」
*
世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十三階「影の国で修行を重ねた日々」
*
三層を攻略しはじめてから二週間後。早くも三層第十三階を潜る「異邦人」一行は、いつも以上に順調に階層を進めながらも、順調とはいえない連戦の旅路に苦戦を強いられていた。出て来る敵は、四足を持ち大地を駆けるの、犬、猪ばかりである。
たった二種類しか出ない迷宮は、その上とても直線的で、面倒なことは嫌いだとでも言わんばかりに、わかりやすい作りをしていた。しかし現れるたった二種類の獣共は、人よりもずっと大きな体を持ち、こちらを視認した瞬間、嬉々として襲いかかってくる。
その巨体のどこからそれだけのエネルギーを生み出しているのか、風を切るようにして敏捷に動き回り、牙を、爪を、頭部を、鼻先を、一秒でも早く相手に叩き込もうと突進を繰り出しては、ギルドの二人が繰り出す攻撃と防御に遮られ撤退し、そしてまた突撃を繰り返す。防がれれば引き、すぐさま戻っては突撃を繰り返すその様は、さながら槍の刺突によく似ていた。
*
犬、犬、猪、猪。襲いかかる敵に応じる五人のうち、まともに戦えているのは二人だけだ。シンとダリ。近接戦闘を生業とする彼らだけが、獣どもの武器を斬り、突き、払い、叩き、いなし、受け止められる。私たち三人が生きていられるのは、彼と彼がそうして敵の攻撃を本能的に、あるいは理性的に捌き続けているお陰だ。
シンとダリは笑っている。口角を上下対称に歪める二人が脳裏に浮かべる感情を想像するに、真逆の思いをそれぞれ別の対象に向けているのだろう。
シンは強敵の出現に喜んでいるように見える。刃を振るっても仕留めきれず、振り下ろした刀身は皮と脂肪を割いて肉を切るが、それらの分厚さと硬さに負けて骨まで断てないのを見て、獰猛な笑みを浮かべる。
切れぬが、それが良いというかのように、刃を通さない堅さと自らに追いつく速さを持つ敵獣を前にして、シンは無言にて笑みだけを貼り付けながら、彼らの相手を務めている。短い付き合いであるが、私はシンがそういう人間である事を嫌という程理解できていた。
シンは己を打倒しうる牙を持つ獣の襲来を歓迎し、心底喜んでいるのだ。そうなるともう、彼は周囲の環境を、一切関知しない。まさに一秒でも早く相手の体に刃を通す事に持てる力の全てを叩き込むだけの道具になるのだ。近接職はこうして一枚壁を失い、その負担はもう一人の近接職であるダリに降りかかることとなる。
ダリの顔に浮かぶのは、諦めと悟りの中間にあるような、遠い目とへの字である。シンの暴走を諦めつつ、そして後ろに立つ非力な肉体を持つ後衛職を守るのは、前衛に立つ者としての、そして、パラディンという職業である自分の役割だと気負っているのだろうか。
己の役目を十全に果たすべく、ダリは常に優先して味方の位置に気を配り、敵の意識が私たちとシンに向かないよう攻撃と挙動に調整を加えながら、盾と槌を振るっているのがわかる。ダリは後ろにいる彼らを傷つけうる敵の襲来が味方に及ばぬよう、暴走したシンが無茶をせぬよう、味方の安否を気遣い続けているのだ。
そうして諦観の念を得て解脱に至りそう表情のダリは、一人で全周囲の敵に気を配りつつ、四人の面倒をみている。誰よりも重い鎧盾を装備した状態で、誰よりも多く戦場を動き回る彼は、当然のことながら負担は大きいのだろう事が、誰よりも呼気を荒げて、肌から蒸気を絶えず発していることから見て取れる。
だが、その彼の持つ真面目さと責任感から取られる行動は、前衛のシンの更なる暴走を促し、後衛の私たちに安全を提供し、私は彼に発奮させられる。
ピエールは味方の身体能力を引き上げるバードの役割を完全に果たそうとしているのか、一歩も動く事なく目を閉じて高らかにスキルを発動させ続けている。回避も防御も放棄するという選択肢は、シンは必ず敵を倒すし、ダリが攻撃を絶対に防ぐという信頼がなければ出来ない事だろう。己の命運を完全に他人に預ける様は、絶大な信頼の証である。
一方、サガはというと、ピエールのそばで小さくまとまって、待機していた。それは怠惰からくるものではなく、見に回るという彼なりの戦い方だった。新迷宮三層という砂地の上を縦横無尽に駆け回り、その上、属性攻撃に強い敵に対して、出来る選択肢の事の少ない事を自覚している彼は、両の手から巨大な籠手を引き抜いた状態で、ただひたすらに努めて動かず留まり、状況を見守る事に集中する。
三層に現れる犬と猪は耐熱に優れた皮で炎を防ぎ、硬い皮膚で氷の刃を防ぎ、周囲に発散している絶縁の粒子を利用して雷を防ぐ。そのうえ彼らは、一撃にシンの威力程も力を込めなければ、近接の攻撃を通さない。一応近接攻撃を持つがシン程の威力を到底出せず、遠隔からの三属性攻撃を主な手段として戦うサガは、新迷宮三層の敵に対して無力に近かった。
サガは耐性を持つ敵への有効的な手段として「核熱の術式」という、光の柱を射出し、触れた部分の敵体内からほんの一部ずつを原子崩壊させてゆく事で、肉体の崩壊と同時に爆発を引き起こす、堅い敵を切り崩すスキルも習得しているが、過剰な集中と先読みを必要とし、気力の消費が激しいそれは、ひっきりなしに動き回り襲いかかってくる敵に対して乱発するのに適さない。
効率の悪さを嫌う彼は、だからこそ前衛の負担を減らすためじっとして、戦況を見守っている。いざとなれば、それでもスキルを使用して状況を好転させるために。彼はさぼっているのではなく、必死で耐えているのだ。忍耐という戦いの辛さは一層、二層でなにも出来なかった私が一番よく知っている。
そうして以前よりも人の行動の傾向がつかめてきた私というとは、動き回る二人と動かぬ二人との間で、動いては止まり、止まっては動くという挙動を繰り返していた。
私の役割は、道具を使ってギルドのメンバーが効率的に動く事をサポートする事だ。道具によるサポートとはすなわち、道具を使用して攻撃する事であり、回復する事であり、敵の邪魔をする事であり、味方の行動を補助する事だ。
私はシンのように周囲全ての脅威を心配無用と切り捨てて、速度の早い敵の姿を目で追い続ける事が出来ない。かといって、ダリのように周囲全ての敵味方の情報を拾い上げて予測を拾い上げて防御や援護をするという事も出来ない。けれど私は、ピエールのように補助を行うことができるし、サガよりも上手に道具を使うことができる。
だから動く。命を張っている彼らを前にして、出来る事が有るのに何もしないというなどという怠慢を選びたくはなかった。
―――もう数度も戦いを観察したんだ。そろそろ何か気付けてもいい頃だ
だから、出来る事をするため、前段階として、出来る事を探すため、焦燥にはやる気持ちを押さえ込みながら、私は戦況の推移を見守り、観察する。
俊敏に動く獣は、赤く苔むした、湿り気のある柔らかい、しかしさらりとした砂地を苦もなく踏みしめて、地面を走るのではなく、地の上を滑る様に接近してくる。まるで鳥の様だ。なぜダリほども大きな体をあれだけ軽やかに動かす事ができるのか。
素早く動く姿を捉えようとすると霞み、対象をとらえようと拡大と収縮を繰り返す瞳孔は頭を混乱させ、頭痛を生む。過度の使用停止を訴える脳の指令を無視しながら、宙を滑る敵を何とか視線を捉えてやろうと苦戦していると、身を置いている戦場に周囲に尋常じゃない量の砂埃が舞っている事に気がついた。
砂塵と苔は、シンやダリが動くごとに地面を蹴って巻き上げるよりも早く、周囲に薄く広がってゆく。肌が生暖かい風を感じた。
―――風?
戦場に吹き荒れる風は、上下左右から満遍なく体に吹き付けられている。地下へと向かう洞窟である世界樹の迷宮には常にあちらこちらから風が流れてくるが、大抵は大地の流れに沿っている。高いところから低いところへ。
水が低きに落ちるよう、地形の流れに沿って進むのが迷宮のみならず自然の風だ。ならばとりとめのない風は、自然に生じたものでなく、明らかに何者かの意図が絡んだ代物に違いない。さらに鋭く戦場を吟味する。
シンが犬の突進に合わせて一撃を放つ。犬は足を地面につける事なく急制動をして見せると硬質の毛を使って受け流す。そうして敵が真の横を走る抜ける直前、駆け回る子供の首根っこを掴んだ様な急激な挙動を見せた瞬間、敵の足元から砂苔が上がる。風は明らかに犬の足元から噴出していた。それは猪も同様であった。
理屈はわからないが、あの獣どもが素早い動きと変則的な挙動を見せるのは、足元から追い風向かい風を自在に生み出せるかららしい。そしてシンの一撃を交わした犬は、身を屈めて四足を前に突き出すと、再び地面を軽く吹き飛ばして勢いを殺し、背骨を器用に曲げて前後を反転させて、大地に難なく着地し伏せると、弾丸の様に再び突っ込み、そうして再び生じた風が戦場の空気を荒らしていた。
―――そうだ!
獣の起こす大気の変化と彼ら動きを見て、思考が働く前に、敵影を追い続けていた脳が援護の手段を導き出す。直感に従い、道具袋の底へと手を突っ込んで、毒香の袋を取り出す。毒は一層の毒蛇から抽出して作り上げた特別製のもので、一息体内に入り込めば、一瞬で融解を引き起こす効力を持っている。
最初に旧迷宮でアークピクシー狩りをして石祓いのバングルを手に入れ、毒祓いのタリスマンがなければ、到底入手は出来なかっただろう。いやその今までは不明だった敵の毒を解明するに一躍買ったのが、エミヤだというからまぁ。そのあたりやはり彼はすごい人物なのだなと思う。閑話休題。
ともあれこの粉は、そういったすさまじい効力を持つ代わりに、空気よりも重く、下の方に沈殿する性質を持っている。重い粉末は上手く散布するのに手間取るし、ツールマスターの私では狙いすましても単体相手でないと使えないしで、素早い敵相手では出番がないかと思っていたが、そんな事もないらしい。
「毒香を撒きます! 気をつけて! 」
使用を一方的に宣言すると、私は迷わず厳重に縛った口を広げて、頑丈な袋を地面に叩きつける。袋の中から紫の粉末が地面との激突により低く濃く散り、戦場舞う辻風にて素早く赤土と苔に混じり、黒い毒風が広く薄く散ってゆく。
シンから離脱をした犬。ダリが受け止めた猪。前衛の隙を窺っていただろう犬。後衛を攻撃する瞬間を窺っていただろう猪。毒煙は地面に低く伏せていた彼らの体の下半分を包み込む。
「な、なにを! 」
期せずして発生した煙は敵の攻撃の瞬間を見えにくくし、守りを担当していたダリは戸惑ったような声を上げる。しまった、このデメリットは考えていなかった。申し訳ありませんと心の中で謝罪する。けど。
「大丈夫! すぐ敵に効くはずです! 」
疑問の声にすぐさま顔を向けて回答して、敵の方へ向きなおす。唖然とした表情を浮かべる三人は逡巡の様子を見せながらも自らの態勢を維持し、シンは迷いを見せず、煙に覆われた敵へと斬りかかる。直後、敵に起きた異変は劇的だった。
「――――――! 」
戦場を飛び回っていた四匹の獣は突如として血反吐を吐き、地面に崩れ落ちた。周囲に広まっていた獣臭に酸い臭気が混じる。肉の焼ける音が響き、獣の顎から口元にかけて喉が変色を起こして爛れていく。
遅れて獣共の喉元に空いた複数の穴からは、びちゃと血液と体液が零れ落ち、ひゅうと呼吸の努力が虚しく漏れた。大きな体の制動を自在に操り、風を生んでいた足先も、同様に崩壊と壊死を開始している。四匹はもはや死に体だった。
「よし! 」
狙った効果以上の出来栄え。無意識に毒を投擲した手である事も忘れて、固く握り締めた。
「よくやった、響! 」
上段に構えたシンが吠えて敵に突っ込み、動かぬ敵の首を切り落とし、苦しむ敵を介錯する。そんな事を都合四度ほど繰り返して、戦場はようやく静まり返った。周囲を自在に吹き遊んでいたに風の代わりに自然の飄風が吹き、毒、土、苔の混ざったワインレッドの煙をどこか遠くへと運んでゆく。そうして静閑さを取りもどした空気を感じて、響は昂りを沈めた。
―――やっと腰を落ち着けられる
息を吐いて戦闘終了と思ったのもつかの間、律儀に順番を待っていたかの様に、どこから遠吠えが聞こえた。うんざりした気持ちで顔を上げると、一人を除く皆に同様の表情が浮かんでいるのを確認する。そうして皆で仲良く首を縦に振り合うと、手際よく敵の解体を済ませ、風の導きに従って迷宮の奥へと進む。
ちらりとシンに目をやったと、逃げるという選択肢に不満げで渋々の様子だ。横顔を見ていると、気付かれたようで、目があった。彼は一転してニヤリと笑うと、小さな声でよくやった、と言った。言葉に胸の奥に暖かさを覚える。
溢れ出た想いに私は自然と笑みを浮かべた。そうして彼の言葉で先程の戦闘を思い出すと、その後、袋の中に手をやって、毒香の数を確認する。
―――袋はあと五つ。それが切れたら帰還を提案してみようかしら
物怖じせずに提案をしてみよう、と思えるようなったのは、きっと、彼のおかげなのだろう。誇張無しで心情を語る彼の口から出る言葉は、ほかの誰よりも真剣そのもので、褒められるのが素直に嬉しいと思える。だから苦しくとも頑張ろうと思えるのだ。
私はこの探索が終わったら感謝の言葉でも送ってみようかと思ったが、先日自分を驚かせた彼の失態を思い出して、止めようと強く思った。事情は後でわかったが、あのやり方はない。私はまだあの時の、嬉しさと怒りの混ざった出来事を消化しきれていない。まぁ、そのうち嫌な記憶も薄れるだろうから、そんな心持ちになった時にでも礼を言えばいいだろう。
*
―――ありゃ、やばい
響のやつ、ダリと同じで、理を詰め、冷静に事を進める性格であるのに、気質はどちらかというとシンに近く、己の理でよしと判断したら即座に行動に移す直感型だ。これまで響が気質を発揮せず大人しかったのは、己の実力が未熟と判断していたからか。
けれど、彼女はこれまでの積んできた経験とそれに伴った成長で自信を培ってきていた。そして先の戦いで己の理と知識から導き出した直感的選択が、新迷宮の敵にも通用するのを知ってしまった。
だからこれから彼女はきっと、良いと思った行動を迷わず宣言して実行に移すようになるはずだ。シンのように何も言わずに突っ込むよりはましだけれど、だからといって、宣言即行動も困る。特に今回のように、味方の体調にまで影響を及ぼしそうな道具の使用の際には、もう少しだけ詳細に説明して欲しいと思うわけだ。
戦闘終了後それとなく指摘した際に君の言った、「このくらい大丈夫ですよ」の「これくらい」は、君がツールマスターで、道具の知識が他の人よりも豊富にあるから「大丈夫」とわかるのであって、道具のプロフェッショナルでない他の人は「このくらい」がわからないのだと言う事を認識していて欲しかった。指摘するまで続くよなぁ、このすれちがい。
どこか暇を見つけて指摘しないといけないな。見た目紫のあからさまに有害そうに見える煙を、注意直後、身構える間も無く周囲に撒かれては、結果大丈夫だとしても、堪らない気持ちになるね。敵に毒が効いて可憐な笑顔を浮かべた時には背筋に寒いものが走ったよ、俺。
わかるけどね、予想が当たっていて敵に効果的な手段を選択出来た時の喜びで嬉しくて笑顔浮かべたんだろうな、とか。でも、だからといって、一歩間違えていればああなってたのが自分たちだったかもと思うと、素直に一緒に喜べない。
もう少し常識があるタイプだと考えていたが、ちと見直す必要がある。新入りの成長が早いのは大歓迎だけれど、戦い方を把握しきれぬうちに率先を見せられると、足並みを揃えるのに一苦労だ。シンとピエールはまぁいいのだろうけど、ダリあたりは愚痴りそう。
うーむ、でも自惚れって成長に重要だし、常識を常識と知るには時間が必要だから、こればかりは耐えてもらわないとなぁ。彼女が入ったばかりの頃に抱いた不安とは違って、成長速度が早すぎるという贅沢な悩みだけれど、暫くは頭の痛くなる日々が続きそうだね、こりゃ。
―――ああ、そうだ
新入りといえば、彼女より迷宮の常識に欠けていた、迷宮常識を習得するべくギルド長の元で知識の学習に励んでいた彼は、今頃どうしているのかな。
*
世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十一階「鍛冶屋の番犬を殺した少年が猛犬の誓いを立てた場所」
*
ギルド「異邦人」の彼らからギルド長の情報をもらい、ともに押しかけて、半ば脅迫じみたやり取りの後、ゴリンの元で迷宮やエトリアの常識、道具や素材について学ぶこと、二週間。
億劫と怠惰を信条とする彼が逃げ回ったのと、他の初心者との兼ね合いとで、三日もかからないという講習の時間がやけに伸びる羽目になったが、私はなんとかいわゆる「冒険者」の常識を身につけて、再びこの迷宮へと足を運んでいた。
樹海磁軸を使用して、地面に降り立つと、まず新たに手に入れた深度計を確認して、大まかな現在の位置を確認。磁軸のある位置の深さを地図の片隅に忘れぬよう多少大きめに記載する。こうしてちまちまと迷宮の深さと階層を小刻みに記録しておけば、たとえ転移の罠が仕込まれた場所でも、大まかに自分の位置が把握できるのだという。
これを知らないことを告げると、ゴリンはどうやって新迷宮二層を攻略したのかと驚いていたが、無視してやった。前回必死になってやったクライミングが全て徒労だったということを知った私の、せめてもの意趣返しだ。せいぜい首を傾げて頭を悩ますがいい。
その後、地面を確認すると、他の冒険者がつけた足跡を見つけることができる。あとはそれをトレースして行けば、何もない状況よりかは、幾分か楽に地図を作ることができる。まぁ、この辺りは、知識を得る以前からやっていたことだから、問題はない。
そうして他の冒険者が突き進んだのだろう足跡を追って、強化の魔術を全身に叩き込み、進む。常より多少速度を落としての、私にとって安全歩行に等しい進撃は、もちろんいつもより余分に探索の時間を必要とするが、その慎重の代価として、私に安寧の時間を多く与えてくれていた。
―――なるほど、知識の有無でここまで違うものなのか
二時間ほど突き進んでも、未だに魔物は姿を表さない。もちろん私が気配を殺して進むお陰もあるのだろう。だがとはいえ、迷宮にある「探索範囲」のルールを守り、人の通れる場所をかけるだけで、二層の密林のよう、瞬きごとに違う敵が現れるという状況に陥らないのは、私に新鮮な気分を味あわせてくれていた。
赤に囲まれた閉塞の不満も、時間の流れの中に薄れてゆく。かつては異常を訴えていた感覚も、多少穏やかになった迷宮探索にすっかり怠慢を決め込んでいて、目の前に広がる赤の演出を日常の一部として認識するほどに弛緩させていた。
そうして怠惰に任せるまま、周囲の光景に改めて観察の目を送る。
まず、いの一番に飛び込んでくるのは、そのふんわりとした明るさだ。天井の塞がれている昼の三層は、今までのようにどこからともなく入り込んでくる光ではなく、周囲の枯れ木の枝や、珊瑚、海藻、砂、苔、果ては樹木の淵に溜まった水などが放つ燐光によってその冥とした明るさを保たれていた。
周囲の燐とした淡い光を頼りに習った通り、努めて人道を外れないことを心がけて足を進めると、やがて珊瑚の群生地にたどり着く。赤く輝く樹海の中、周囲の色を塗り替えるかのように鮮やかな色彩を誇るそれの集団に近づくと、適当なところを狙って、少しばかり力を入れて、折る。
一回の探索で一つの群生地から回収できる機会は厳密に決められているので多少慎重にやったのだが、かえってそれがいけなかったのか、その鮮やかな岩サンゴは、とてつもなく大きな音を立てて枝の分かれ目あたりで折れてしまった。
―――しまった、これではメディカⅳ一個分にしかならないか。
残念に思いながら、慌てて周囲を警戒する。こうした伐採だの、採掘だの、採取だのの活動の際、ああっ、と思った瞬間、魔物現れたりするらしいので、気が抜いてはいけないらしい。
そうしてしばらく周囲に気配を送ってみるも、敵は現れない。やがて一切の気配がないことを確認すると、私は伐採した岩サンゴを特別製の袋に包んでしまい込む。柔らかい皮の中にねばつく液体が仕込まれたそれは、転移の際に壊れやすいものを持ち帰るのに必須とか。
そうして岩サンゴを袋に入れると、次に粘ついた粘液の上についた砂を液体ごと軽く掬って外へと捨てた。世界樹の地面を作る土や砂は、転移の際に自動的に体や持ち物から省かれてしまうらしく、袋に入っていると、破けてしまう場合が多いらしい。
ちなみにこの法則に気がついたのは遥か昔、まだ旧迷宮が発見された当初。気づいたのは樹海磁軸の周囲の地面を掘り進めて、下の階層に行こうとした馬鹿だとか。
地面を掘り、土を袋に詰め、そうしてある程度掘ったところで魔物が大量に押し寄せた際、掘った土ごと転移しようと土を入れてある麻袋を持ってアリアドネの糸を使用したら、見事に土だけ転送されず、破れた麻袋だけが回収出来たとか。
ちなみにその後、勝手に掟を破って迷宮を傷つけ、あまつさえは全土で禁止されている許可のない土掘削を行ったということで、当時の院長であるヴィズルという男にこっぴどく叱られた上、追放されたらしい。そうしてその次の日に院長が確認しに行くと、全ての土が元の通りになっていたと言っていた、との記録も残っているらしい。
いやしかし、なんと、迷宮は自動修復機能まで兼ね備えているのか。土や砂が持ち帰れないという理屈でいうなら、人体や人の服などに入り込んでいる砂や埃はどうなるのだろうと思ったが、まぁ、どうせこの世界の細かな法則やスキルのことは今のところ考えてもわからないのだ。ならば考えたところでしかたあるまい。
―――さて、では「世界樹の冒険者」らしく、色々と余計なことをしながら進むとしようか
*
そうして前回よりはいわゆる「世界樹の冒険者」らしく私が道を安全歩行で進んでいると、ようやく敵が現れてくれた。前方、役百メートルほど先に現れたその犬は、私を見つけた瞬間、嬉々として砂地を飛ぶようにして飛びかかってくる。
―――六時間か
私は時計の蓋を開いて軽く敵出現までの時間を確認して、その後、胸元にしまい込むと、いつもの双剣を投影して、いつもの両腕をだらりとした戦闘体勢をとる。まるで滑空するかのごとく迫る犬は、時速換算すれば60キロくらいは速度が出ているだろう。まるでバイクの突進だ。
その速度は私が強化してあたりを飛び回る速度よりも10キロほども速く、五秒もしないうちに、私の目前まで来ると、そのまま牙を向いて襲いかかって来る。まぁ、普通の人間なら十分に即死が狙える速度と言えるだろう。
だが。
「悪いが貴様より早い男を相手にしたことがある。私を殺したければ、二倍とは言わんが、せめて瞬間だけでもあと一・五倍は速度をあげてからこい」
長々と忠告しながら、強化を施して、敵の進路を予測。回避と同時に剣を進路上に置き、大きく開かれた口めがけて宝具「干将・莫耶」の二刀を通してやる。軽い金属音、いつもより少しばかり重い感触。
おそらくは硬いのだろう牙、皮膚、骨は、宝具の前ではまるで紙くず同然に刃を通すこととなり、牙から頭部を抜けてそのしなやかな背骨から尾っぽまでを綺麗に両断された犬は、勢いよく放物落下運動を行うと、砂浜の上を滑ってゆく。やがて切断面から致死量の血が流れて、絶命を証明してくれる。
「……ふむ」
―――また一匹か
どうやらこの層の敵は、敵をみた瞬間、嬉々として襲いかかって来る躾の悪さとは裏腹に、騎士道精神に溢れているらしく、常に一体づつでしか襲いかかってこない。その潔さに好感を覚えながら、私は敵の解体をすませると、周囲を見渡す。
やはり流石に三層までくれば目も慣れてくれたのか、その赤の光景を見ても特に対して眼球は痛みを訴えない。五感が慣れを覚えて心理的負荷が減るのは通常悪い事でないが、平穏な日常と切り離された迷宮という場所では、慣れは油断となり、油断は死に直結する。死と私とを繋げようと試みる異常を、きちんと異常として認識するため、私はいつも以上に気を張り、周囲への警戒を密にした。
疑う。地面をくり抜いて敵が出てくるかもしれない。赤い地面に生えた毒々しい色合いの茸は魔物が擬態した姿で、胞子を空気に混ぜて私の身体に異常を引き起こそうとしてるのやもしれぬ。辻風の運んでくる葉の擦れる音の中に、気配を殺した獣の足音が混ざっているかもしれない。鼻孔を擽る青臭さに、腐臭は混じっていないか。露わにしている顔と首と両手首から先の肌が触るのは、常ごろ迷宮に吹いている自然な風であるだろうか。果たして本当に魔力の残り香はないのか。
眼耳鼻舌身の五感に魔術の要素を加えて感知を行い、己の第六感が働かぬ事を確認しつつ、海底の如き光景の中、緩々と歩を進める。新たに迷宮の知識を得て、接敵と危機を忌避して慎重の警戒に務める自分は、いつになく臆病を頼りにしている。これが英霊にまで昇格した男の姿か、と自嘲気味に笑う。
吐息に漏れた音が、海水を思わせる三層の空気の中へ静かに溶けて消えた。そうして残るのは寂寞とした生暖かさだけである。迷宮の三層は、一層と二層の喧騒が嘘のように、静けさを保っている。
気配を殺し、己を殺し、唯々自然の中を目的地など無い彷徨い、一般の人の如く地上を歩き、探索する。迷宮は攻略の意思をはっきりと示す私に対して、しかしこれまでとは一転して、驚くほどの寛容さを持って私を迎え入れている。
なるほど「異邦人」ギルドである彼らの言う通り、迷宮の事を知って探索を行うのと、知らずに行うのではまるで効率が違う。ギルド長に指導を頼み、たっぷり二週間を旧迷宮の魔物の習性なども含めて、迷宮に共通する常識の習得に費やした甲斐があったというものだ。
さて、ひどく億劫そうに物を教えることを拒絶するギルド長を、半ば脅すような形で私への教育を強要してくれた彼らは、その知識習得の機会を与えてくれたことに対して代価を求めなかったが、一方的に恩を売りつけられるのはどうも性に合わない。
さて、番人討伐の際に作った借りも含めると、見合った代価を払うためには何を礼とすれば、好意的な行動として受け取ってもらえるだろうか。
*
好情というものは親切心や思いやりを抱く状態だという。親切心や思いやりを抱くには、相手の事情や思考を理解し、自らが彼の立場であるならこうされると嬉しいだろうな、と想像する事が必要となる。とすれば、自らの立場に置き換えた時、己の天凛で大抵の事態の解決を望める私は、立ち行かないと言う状態を想像できない私は、他人に好意を抱く事が難しい人間であり、抱かれるのが難しい人間だった。
物心ついた頃、既に大抵の事をやってのけることの出来た私は、親切や思いやりの行動を受け取った記憶が殆どない。私にとって同じ立場で物事を考えて、私の益となるような施しを与えてくれる人は、大抵、一回りも二回りも年齢を重ねた大人で、そんな彼らが私に与えるものは、ほとんどが、同い年の誰が困っているから助けてやれという言葉だった。
私は同年代の彼らから敬意を向けられる様になった。やがて時間の経過に伴い私の出来ないことがよりいっそう減って行くと、大人たちですら出来ない事をやれる私は、好意でなく敬意を向けられるようになる。そうして村の殆どの出来事が私一人で解決出来る様になった時、初めて私は私の理解者がいなくなったと落胆している自分に気がついた。
好意が理解の証だとしたら、敬意は不理解の証明だ。敬いとは、己に出来ない事をやってのけるものに向けられる感情だ。原因が結果に至る課程は真似できないし、理解し難いが、出した結果が優れている事はわかるので、自分より高い存在と認めて礼を尽くす。
好意の遣り取りには己と同格の相手が必要で、敬意を抱くには己より優れた位置にある人の存在が必要だ。だから人が日々の生活で経験する全ての分野においての才能に秀でた私は、「不動」の代名詞の様な村の中で、万能に優れた人間だった私は、村の殆どの人間に好意を抱くことができなくなってゆき、やがて私が敬意のみを向けてくる彼らに抱く感情に返せる感情は、彼らが私に向けるものとは別種の感情のみとなっていた。
そんなおり、長老に冒険者という存在を紹介され、そして彼らの活躍を目にした時、およそ数年ぶりに他人に情け以外の、敬意という感情を抱いた時、私は初めて自らの狭窄に気がついた。彼らの、特に彼の百匹同時の首を落とす一撃は、私の狭い世界を切り開く一撃にもなり、彼らへの敬意は私を冒険者という職業になる事を決心させたのだ。
彼の繰り出した一撃は私にとって、怠惰と飽きに満ちた人生を一変させる祝福と行っても良い。祝福を受けた私は、すぐ近くに様々な難題があった事に初めて気がついた。己の矮小さを心底喜びながら、世界に用意されていたいくつもの難題の中から、私は最も難題であろう三竜討伐という事を目的にする事を決める。
難題に挑む事を決めると、同じく三竜討伐を目的とする仲間と知り合うことができた。冒険者として駆け出しだった私は、同じく駆け出しである彼らと同じ程度の実力しか持っておらず、故に私は久方ぶりに好意を育むことができた。
だが、ここでもまた才能という呪いは、私の祝福に満ちた日々の生活を妨げを再開する。日常を生きる才にあふれた私は、冒険者として非日常を生きる為の才も備えていたようで、手を抜く事の出来ない私の実力は彼らの中でも抜きん出てゆく。
私は日々、己の実力が向上して行くにつれて、幸福の基準値が高まりつつあるのを感じていた。そして基準値の高まる速度は、響の両親であるマギとアムの加入で加速度を増す。純粋な敬意だけを抱かせてくれる実力を持っていた彼らとの出会いは、喜ばしいものであったが、同時に、幸福の基準値の高さを、さらに上昇させるという悩みの一因となった。
それはワイバーンに負けた事に起因する。奴に負けた時は、胸が踊ったもので一時はその伸びが滞ったが、その後、マギとアムの指導により、私はかつてあの冒険者が放ったフォーススキル「一閃」を会得する。そして直後、私が戦闘で試しに放ったフォーススキルは、かつて見た彼の一撃の鋭さを超えていた。
私は既に彼を超えているかもしれないという予感はあった。だが私はその事を認めたくなかったのだ。憧れを超えてしまったという事実は、きっと、憧憬の感情を陳腐なものへとすり替える。陳腐なものに成り下がった憧憬は、先の実力の証明と合わさり、全ての難題を簡易なものへと変化させてしまう。
村に住んでいた頃の私なら、別段、気にもしなかっただろうよくある変化は、憧憬により難題という希望を知ってしまった私にとって、何より恐ろしい毒となっていた。だから私は愚かしくも、事実を事実として認めず、こう結論づけた。
―――私は百の獣を一度に屠った訳でない。だから私はまだ彼に劣っているはずだ。
己に対する卑下は、己の持つ本来の実力を貶めて、私の成長の遅滞という結果になる。そして皮肉な事に、私にとって緩やかとなった成長は、仲間たちと同じ速度であった。本来の実力を発揮しないという侮辱は表面的には平穏の日々を呼び寄せて、私は再び、仲間と共に難題に挑めるという幸福に満ちた日々を取り戻したのだ。
己を偽って手に入れた仮初めの日常は、幸福であったが、憂いに満ちた日々だった。己が全力出し切れていないという当時の己では気づけなかった裡の不満は、剣先へと影響を及ぼし、私の剣から繊細さを奪い、そして私は、憧れより習得した居合という攻撃手段で敵を倒すことが出来なくした。
当時の私は、敵も強くなり、今の攻撃手段ではついて行けなくなるかもしれないから、戦闘スタイルを変える、と豪語していたが、今考えればなんのことはない。迷いが剣の腕を鈍らせていただけなのだ。
私は、居合という技量を必要とする攻撃手段を捨てて、上段からの振り下ろしという力を主とする攻撃に頼る事にした。そうして身体能力に頼った戦法は、居合で戦っていた時ほど私の趣味と合致した戦法ではなかったけれど、だからこそ私は難題に挑戦しているのだ、と思い込む事を可能とさせて、事実を認めない醜さから目を背ける材料となっていた。
そして私は、事実から目を背けるために言い訳を行い、自説を補強するために別の材料を使い難題を作り出すという、なんとも無様な醜態から目を背け続けていた。そうして己の真なる気持ちを隠しながらの日々の憂いは、私を正常から捻じ曲げていく。
やがて壊れかけた心は、間違いなく悲報であるはずの、私はマギとアムの訃報を聞いた瞬間すら、「ああ、これで課題達成が遠のいてくれた」と、どこか安堵の気持ちを抱く最悪を体現するほどに擦り切れていた。
そんな偽りと憂いに満ちた日々を壊したのは、響が新迷宮に行こうと提案してくれ事を端に発する。彼女を加えたのは、直感が彼女なら新迷宮でもやっていけるだろうと告げた以上に、多分は「素人を連れて迷宮に行く」のが難題に思えたからだろう。私はそういう、どこまでも身勝手な人間なのだ。
しかしそうして、己の才と身勝手に増長する私の常識を、エトリアの新迷宮一層を単独で攻略したエミヤという男がぶち壊した。単独での迷宮攻略がという信じがたい偉業をなしたという知らせが、仮初めを身に纏う憂いに満ちた日々へ打ち込まれる釘となり、二層で彼が番人と戦っている光景を見た瞬間、私は再び己が己に抱いていた過信を打ち砕かれる事となる。それは、私にとってあまりにも衝撃的な場面だった。
才ある自分の目ですら霞むような斬撃を、彼は難なく避けている。私がピエールに強化をしてもらっても出来るかわからない動きをしている彼の姿を見た瞬間、私は完全に自分の上をゆく人間、というものを初めて知ることが出来た。
戦闘において、私は彼に敵わないかもしれない。そんな実感を得られた時、私は燻っていた思いを全て捨て去る事に成功した。迷いによって剛の道を選んだ私の剣は、迷いの断捨と共に柔を取り戻し、剛柔一体の剣となった一閃は、剛よく柔を断ち、柔よく剛を制す、過去の柵全てを切り捨てる一撃となる。
―――ああ、そうだ、これが憧れの強さだ
あの日、あの時、あの一撃を繰り出した瞬間、私は久しぶりに他者に敬意と好意を抱ける余裕に満ちた日常へと戻って来ることが出来たのだ。
ああ、そういえば、響がこの前繰り出した一撃は素晴らしかった。暗がりと無意識に助けられたとはいえ、まさか私が反応できない一撃をくりだすとは思わなんだ。そういえば、彼女は、私は三連にしか見えなかったのを同時と言っていたな。もしや彼女も近接職として鍛え上げれば光る逸材なのやもしれん。なんとも好ましい。
先ほどの迷いなき行動といい、おとなしそうな外見と裏腹に、意外と肝が座っている。私が迷いを捨てたきっかけを作ってくれた恩を返すためにも、今度、暇を見つけて剣を教えてみるとしよう。
*
世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十一階「鍛冶屋の番犬を殺した少年が猛犬の誓いを立てた場所」
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世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十二階「予言のあった日に青年が力を誇示した御前」
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世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十三階「影の国で修行を重ねた日々」
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世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十四階「四枝の浅瀬」
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世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十五階「誓約と闘争に満ちた生涯を駆け抜けた英雄」
*
三層の探索を開始してから、早くも五度目の探索を行うときには、一か月の時が経過していた。たった一度の探索で、しかも一週間に満たない期間で、さっさと一層を攻略できるほどの短さの迷宮は、現れる敵の猛然としたやる気とは裏腹に、作りはとても簡単で、まるで冒険者を惑わせてやろうという気が感じられなかった。まるで面倒ごとを嫌うそんな性質は、とても迷宮らしくないと思うが、その潔さは私的には好意に値する。
「あ、門ですね」
などと考えているとわかりきった事を響が言った。目の前にあるのは、番人が待機する広間の直前にある門だ。番人と広間と門は、様々な姿を見せる世界樹が、その内観を一変させる直前に現れ、異なる風景と風景の繋がりを拒絶するかのように、冒険者の前に立ちふさがる。
私はその白く美しい門の表面に一切の汚れがないのを見て、非常に喜ばしい気持ちを抱いた。汗も脂肪も体液も付着していない新雪のような白は、広間の先が未踏の処女地である事を示している。これは新迷宮に潜り始めてから一度たりとまともに番人と戦えていない私にとって、僥倖と呼ぶより他ない知らせであった。
門の下をくぐって先にある広場へ抜ければ、新迷宮の番人と戦える。前回、少しだけ戦えた新迷宮の番人が、旧世界樹の番人と桁違いの強さを持つ敵だったのを考えてみれば、今回もそれに劣らぬ強敵が待ち受けているはずだ。
もしかすると己の実力をはるかに上回る強敵かもしれないと思うと、それだけで胸の鼓動が激しく脈を打つ。余計な迷いを捨てた今、その喜びは以前よりも大きいものとなっていた。
強敵との戦い。己の実力以上を発揮せねば勝てぬやもという難題は、天より才という呪いを与えられた私が最も望むものである。さて、敵はどんな姿形をしているのだろう。一層の番人は迷宮に多く現れた蛇で、二層も同じく虫が中心の編成とくれば、この先にいるのは、この三層でよく戦ってきた犬の姿をした敵である可能性が高い。
犬だとすれば、どのような戦いをするのであろうか。やはり攻撃が直撃する手前でカクンと方向を曲げる動きをするのだろうか。あの獣どもの、空気を取り込んで圧縮し解き放つことで急制動を操り翻弄する手並みは素晴らしかった。
また、おそらくは繊細な体内を守るために発達したのだろう、炎氷雷を防ぐ分厚く固い皮と脂肪、そして硬く太い毛も見事である。加えて、毛の生える方向に沿って一撃を叩き込もうとすれば急制動で斬突壊攻撃の方向をそらして致命を避ける技術は、高い自己再生能力と相まって犬に見事な高火力高機動高耐久を実現させ、犬を強敵に仕上げていた。
惜しむべくは、圧縮した空気と熱を噴出するための繊細な器官と管が四肢を通して骨の下の体内を巡らせていて、一本でも破損させてしまえばそれだけで敵の動きは格段に鈍くなる事。
そして、圧縮で生じた熱を冷却するためだろう、体のあちらこちらに熱交換のための入り口と思わしき通風孔があるので、響がやったように細かい毒でも散布させてやれば、すぐさま大量の毒が全身に張り巡らされた空気管を通って体内をめぐり、倒れてしまう事か。
体の機能を攻撃と回避と受け流しのために特化させている彼らは、その分とても脆弱だ。機能特化させたものの宿命とでも言おうか、一つのことに特化させすぎていて、特化した行動が通用しない相手が現れると何もできないし、動きの軸となる部分を狙われ瑕疵を負うと、途端に何もできなくなるというわけだ。
彼らは素晴らしい猟犬だった。だが、もう慣れてしまった。もう私は戦術を確立してしまったし、私達は戦略を確立してしまった。一体だけなら私の振り上げた攻撃に対して敵が回避する瞬間に四肢の動きから逃走方向を予測して、スキル「ツバメ返し」を繰り出せば、足の一本は確実に持っていって終わりだし、数の多い場合なら響が一層蛇の毒香をまけばそれで終わりだ。此度の敵は、別段あたりに撒くだけでもその毒を吸い込んで滅してくれる。
彼らは素晴らしい好敵手だったが、彼らの技能ではもはや私達を傷つける事は出来ないだろう。三層に現れる敵は彼ら以外、大した強さを持つものはいない。そうなると新迷宮の三層にて強敵との戦いに興じたいという望みの叶う機会があるのなら、もはや門の先にいるだろう番人が最後の希望だ。
―――ああ、一体どのような敵が待ち受けているのだろうか。
思考は出口のない袋小路を彷徨う。道は暗く、足元は険しい。一寸先は闇の中、路地裏に潜むかもしれぬ敵の姿を想像して、ああではない、こうではないと考えながら結論の出ない難しき問題に挑むのも、また私の好むところだ。
「それで、どうするよ」
暗夜行路のでこぼこ砂利道を行く呑気な旅人へ突如水を打ち、熱を冷まして私を現実に引き戻したのはサガの一言だった。いや、いけない。現実存在する迷宮の中で空想に浸り油断を晒すなどまともな冒険者のやることではない。そうとも。
「決まっている。まだ未到の場所があって、それが手の届く場所にあるなら、足を踏み入れて謎を解き明かすのが、冒険者の常道。すなわち、踏み倒して進むのみ」
「やっぱりかー……。一応言っておくけど、今までの広間で戦ってきた奴らと違って、完全に前情報なしなんだからな。もう少しばかり準備をしてもいいんじゃないかって思うけど」
「サガの言う通りだ。これまでは順調だったかもしれんが、我々は探索に潜ってよりほぼ丸一日かけて迷宮を進み、道具を消耗し疲労を重ねている。ここは一度、エトリアへ戻って、もう一度新迷宮一層、二層などで素材を揃え、万全の態勢を整えてからにしよう。何、二週間もあれば万全に揃えられるはずだ」
「そうそう、ダリの言う通り。それにシン。この前お前が倒した玉虫から入手した羽、実はお前が一騎打ちで倒した奴が落とした奴だけすげぇ頑丈で、いい剣が出来上がるらしいじゃないか。薄緑の刀身のすげぇ綺麗な奴になるらしいぜ。あと数日もあればシリカに頼んだ精錬鋳造がヘイの店に届くわけだし、それを取ってからでも遅くないだろ? 」
サガは私を諭そうと、そんな事まで言ってくる。万難を排そうとするのは、冒険者として当然のこと。だが難を求む私としては、では、あとどれほど準備をすれば万全と言える状態になるというのか。道具を目一杯持って来て、疲労の全くない状態でここまで来れるのか、そもそもサガの言う通り、敵の情報がまるでないのに、果たしてどうやって万全と言うのを判断するのか、と突っ込みたい。
背反する思いは一言の文句となり、口よりこぼれ落ちた。
「そうしてまたもや彼に先を越されるのを待てというのか? 」
一言は盛り上がった空気を一気に静かにした。サガは珍しく顔を引きつらせた状態で停止し、同意を得て喜びを露わにしていたダリは私の思惑を察したのか一気に顔を曇らせた。ピエールは二人の変貌を見て静かに笑みを浮かべている。響だけがどう反応していいのかわからないといった面をみせて狼狽えていた。
一緒に冒険をするようになってからまだ日の浅い彼女は別にするとして、長い付き合いになる男三人の気持ちは手に取るようにわかる。理性より組み上げた論理でガチガチに身を固めてしまっているが、サガとダリの二人も実のところ、早く迷宮の番人に挑みたいのだ。
本能から生み出された本心を、サガもダリも皆の安全を第一として抑圧しているが、サガはそうして見たことも聞いたこともない敵の素材を手に入れたいというし、ダリだって、実はそうして見たことのない場所の扉を開くという経験を欲していると言っていた。
―――だからそこを突く
「ヘイによれば、ろくに迷宮の事を知らぬのに一層、二層をあっさりと攻略したあの御仁は、先の二週間で知識を蓄えた結果、現在もう十四階を進んでいるという。携帯磁軸を持っている私たちが一々、一階一階の安全な場所ごとに衛兵に協力を仰いで、転移場所を確保しながら進んでいるのに対してこれだ。二週間はあった猶予はもうない。彼は我々が一月ちまちまとかけてきたところを、たった二週間で踏破して、すぐそこまでやってきているのだ。とすれば、もし我々がエトリアに戻って、我々が万全の準備とやらを整えている間に彼がこの階層までやってくれば、その勢いのままにあっさりと三層を攻略してしまうかもしれない。すると我らは再び後手に回ってしまうわけだが、さてその時、彼に追いつく機会など、今後無いに等しくなると思わないだろうか」
淡々と予想を述べる。私にしては珍しく多くの言葉を喋ったのは、それだけ先に進みたい気持ちが強いからだろう。あるいは、私より強い、憧れの彼に負けたくないのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
予想は彼がとても順調に探索を進めて、今後も単独での攻略が順調に進むだろうという楽観の前提にあるものだが、彼のやった実績から考えるに、十分に起こりうる可能性のある未来予想図だ。
迷宮の知識を身につけた彼が本気で迷宮攻略に乗り出せば、あっという間に謎めいた迷宮から未知の要素が失せかねない。そうすると、未知の迷宮を踏破して力の証明とし、五層に潜むだろう三竜を討伐するという目的の達成は遠ざかってしまう。
私はもとより、未知との出会いを目的として二年の時を重ねてきた彼らもそれは避けたい事態のはず。ならきっと。
「―――ああ、わかったよ。行きゃいいんだろ、行きゃ! 」
籠手を収納してガシガシと頭を素手で掻き毟ると、サガがやけくそ気味に叫んだ。考えていた案が諸々瓦解した時に見せる彼の癖だ。やはりあの小さな頭の中を全力稼働させて色々な事に気を回し、小賢しい事を多々考えていたのだろう、叫び、頭の中の思案を全て捨て去った彼は、だが心なしかさっぱりとした面持ちをしている。
溜め込んでいた余計なものを吐き出してすっきりしたのだろう、と思う。頭の回転が速いのは結構だが、やはり一人で溜め込む所がサガの悪い癖だ。うじうじと不満を溜め込んでいるとろくな結果が生まれないという事は当然であるし、つい先日までの己の経験で実感もしたばかりだ。細部まで余計で満たされた脳内は、たまさかには洗い流してやらねばならない。
「―――その意見には一理ある。だが、このまま突っ込むのには賛成できない」
迷いを見せたダリは、だが本能より生じたはずの迷いを抑え切って、誘惑を言い退けた。流石は我がギルド随一の頭でっかち。この程度の誘惑では流されはしないか。
だが、その譲歩が引き出せれば、いけるかもしれない。
「どうすれば納得するのだろうか」
「体調を整えて、装備の修繕と最低限の道具を取り揃える。一週間もあれば可能なはずだ」
「遅い。それだけの時が経てば、きっと彼なら先を行く」
「そうかもしれない。だが、そうならない可能性だってある。なにより安全には代えられん」
睨み合う。睨め付けてくるダリの目は、お前の気持ちなど知ったことか、皆のためにも絶対に引かないという覚悟に満ちている。恐らく私がなんと言おうと、己がこうと決めた分水嶺から引かない強さが彼にはある。
―――だめか
彼と私は平行線だ。リスクを好む私とリスクを嫌うダリでは、己の主張はどこまでいっても交差しない。こういう時、両者の主張をうまく折衷させた案を出すのはサガの役目なのだが、彼はもう細かい事を考える事はごめんだとばかりに、顔を体ごと背けさせて明後日の方向を向いている。こうなった彼は、1日は放置しないとまともになってくれない。
「んー、少しよろしいでしょうか」
思惑が外れて困ったそぶりを見せていると、だんまりであったピエールが口を挟んでくる。
奴の度が過ぎる言動はなかなか目に余る部分もあるが、とはいえ、サガ以上に柔軟な思考を持っている奴は、真剣になってくれれば、サガ以上に的確な意見をくれる。私はそんな期待を込めて問う。
「なんだ」
「要するに、あのエミヤという彼に先を越されるのがいけないから、潜るタイミングを早めていつにするのかを議論されているのですよね?」
「そう……だな。……ああ、そうだ。時期を早めるというのはシンに誘導されたようで少々気分は良くないが、結果的にそうなっているな」
「なら、こういうのはどうでしょう」
*
「異邦人」一同が新迷宮三層奥の扉に到達してから、一週間後。再び門の前にやってきた一同には、一人の同行者が加わっていた。赤い外套を纏った、背の高い男。しっかりと鍛え上げられた事がわかる肉体の上に黒いボディアーマーを着込こみ、鷹のように鋭い視線を周囲に向けるその男の名前は、今一番、エトリアで有名な男、エミヤだ。
*
「便利なものだな、携帯磁軸というものは。まさか本当に、持ち運び可能な転移装置があるとは思わなんだ」
彼は周囲の景色を眺めて感心した様子で言った。単独で迷宮に潜って平然と帰還できる彼が実力的に雲の上の人であることに間違いはなく、予想だにしなかった格上から頂いたお褒めの言葉に、少しばかり照れる。
「便利ですよね、これ。やろうと思えば、どんな場所にでも設置出来ますから」
携帯磁軸は、磁軸を設置した場所と地上の石碑を行き来出来るようにする便利な道具だ。ただしどこにでも設置出来るというわけでなく、魔物の出現がない場所か、もしくは衛兵が常に待機している場所―――階ごとの境目とか―――以外は設置が許されていない。
「本来なら衛兵や研究者とか、迷宮探索を専門としない奴らの犠牲を減らす為に開発されたものだから、迷宮探索本職の人間が設置する際にはいちいち申請と許可がいるけどね。うちには本来なら探索職でないツールマスターの響が常に探索メンバーにいるから、その辺りの面倒が全てすっ飛ばせるって訳だ」
「だからといってあまりあちこちに設置すると文句が出るだろうがな」
「おれたちの都合のいい場所に設置ってだけでも結構あれなのに、そこに六人できたからなぁ。設置復活の兆候を見せない、未知の番人の調査っていう苦しい言い訳で、今回はその辺に甘いクーマが特別に許可してくれたから通してもらえただけで、普通はどっちもあり得ねぇよな。特に六人の方」
うん、それはきっとその通りだ。今日私たちは、他ギルドのメンバーであるエミヤを加えた六人という人数で迷宮入り口より転移した。六人というのは、迷宮が活性化するかしないかの境目である人数だ。人を拒む迷宮は、多くの人間が一度に足を踏み入れることを好まず、迷宮よりの帰還率は、六人を境目として途端に著しく減少する。
だから執政院は六人以上の徒党を組んで迷宮に入る事を固く禁じているが、例えば未知の道具の鑑定の為に学者を連れて行くとか、研究、観察を目的とした依頼人を連れて行く場合に限って、一時的に縛りは緩和され、六人での入宮が許可される。
身に迫り来る危険は勿論跳ね上がるが、謎の解明や、依頼人が暴走して迷宮に入り込み無駄に命を散らす事態を防ぐ為には仕方ないというわけだ。まぁ、同じ死ぬなら覚悟した強い冒険者いた方が生存率は格段に上がるわけであるし。
「しかし、本当に良かったのかよ、エミヤ。共同戦線なんて張らなくても、お前なら先に進めるんじゃないか? お前だけの手柄じゃなくなるんだぜ? 」
「うむ、サガの言う通りだ。不躾といえばあまりにも不躾な願いを受けて貰っておいてなんだが、今からでも遅くはない。断ってくれて構わんのだぞ」
「シン、お前、今更」
「だが、ダリ。いくらなんでも競争相手である現役の冒険者に向かって、貴方の方が優れているから私達の探索を手伝ってくれ、というのは、あまりに良識に欠けている気がしないか」
「市井のあいだじゃあ、割と普通に行われますけどねぇ。しかし、貴方の口から良識という言葉が出てくるとは思いませんでしたよ、シン」
シンの問いに、ピエールが嫌味ったらしく指摘をする。エミヤはやりとりを見ると苦笑を浮かべて、涼しげな顔で述べた。
「安心したまえ。今更断る気はないよ。君たちには少なからず借りを作っている。この程度の事で礼になるならお安い御用というやつだ。迷宮について基本の知識を得たとはいえ、応用が効くかは別であるし、諸々の部分で君たちに劣るだろうからな。何より私が求めているのは、名誉でなく、実利だ」
名ではなく実を取ると述べた彼の顔に迷いは見えず、心底そう思っているのだろう事が窺えた。
「結果、というと、やはり、あの、赤死病の……? 」
「ああ。それの解明と撲滅が私の目的だ」
断言した彼の顔は真剣さに満ちていた。なぜ彼が赤死病の謎に挑むのかはわからないが、生半可な決心と覚悟でない事が言動と単独でも迷宮に挑む姿勢から窺える。店の存続を理由に軽率な判断で謎の解明を考え、両親の死を理由に、寄生するような形で強いギルドへと入り込んだ自分とはまるで違う、意志と実力。対比すると己の矮小さが浮き彫りになった気がして、少しばかり心が痛む。
でも、なんでだろう。そう断言して遠くを見つめる横顔には、どこか自分にたいして必死に言い聞かせているような感じがして、少しばかりの違和感がある。なんていうか、そう。
―――少し、迷っている?
「―――響? 」
「あ、……はい、何ですか? 」
「そろそろ挑む。準備は万全か?」
シンが問いかけてくる。考えていたところに突如として話を振られ、驚きながらも反応し辺りを見回すと、他の面子はエミヤも含めて準備をとっくに済ませており、後は自分だけだった。慌てて道具袋の中のチェックを済ませると、全身の装備に不備がない事を確認する。
「問題ありません!」
少しばかりどもって上ずりながらも、報告をする。シンは頷くと、改めてエミヤの方を向いていった。
「よろしいか」
「いつでも」
「では打ち合わせ通りに」
行って前に進み出たシンは白い扉に手をかけて、前に押し込む。対して力を入れられていない手によって開かれた扉は重厚な音を立てて真っ直ぐ奥に進むと止まり、左右に等しい速度で開いてゆく。
世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜
第八話 埋まる知識、広がる実力差
終了
三層を一気に投稿しようかと思ったのですが、長いので分けました。もう片方は、推敲が終わり次第投稿したいと思います。次がターニングポイントなので、次の次の話以降は、一話からばら撒いてきた伏線回収と矛盾をなくす作業を加えるので、少々投稿に時間がかかるかようになると思います。五日~一週間くらいを目安にしていただければと思います。
全二十話位を予定しておりますので、世界樹クロス発売前には全話を投稿したいものです。