Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
第三話 “アーチャー“、”英霊エミヤ“、“衛宮士郎“、そして―――
*
This being human is a guest house. /人間という存在は、みな宿屋のようなものである
Every morning a new arrival. /毎朝、新しい客がやって来る
A joy, a depression, a meanness, some momentary awareness comes as an unexpected visitor. /喜び、憂鬱、卑劣さ、そして一瞬の悟りも思いがけない訪問客としてやって来る
Welcome and entertain them all. /どの客も訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい
Even if they are a crowd of sorrows, who violently sweep your house empty of its furniture, still, treat each guest honorably. /たとえそれが、悲しみの一団だとしても、たとえ、それが家具のない家を荒々しく駆け抜けたとしても、できるかぎり笑いながら立派なもてなしをしなさい
He may be clearing you out for some new delight. /もしかすると訪問者は、あなたの気分を一新し、新しい喜びが入って来られるようにしているのかもしれない
The dark thought, the shame, the malice. /ときには負の感情が齎す邪心や、恥辱、悪意がやって来ても
meet them at the door laughing and invite them in. /扉のところで笑いながら出迎え、中へと招き入れなさい
Be grateful for whatever comes. /どんなものがやって来ても、感謝しなさい
because each has been sent as a guide from beyond. /どれもが、はるか彼方から案内役としてあなたの人生へと送られてきたのだから
— Jellaludin Rumi,/ ジャラール・ウッディーン・ルーミー
translation by Coleman Barks/ コールマン・バークス 訳
*
夢を見た。未来の世界であるというエトリアで生活し始めてから、数えるのも億劫になる程見続けた赤い部屋の悪夢。しかし我が身と両手にこびりついた罪の証たる血の色と香が、まるでそんなものなどなかったとでも言わんばかりに消え去った白い部屋の中、私が忘れてはならなかった感情の終えてしまった伽藍堂の部屋にいるのは、いつも通り赤い外套を纏った私と、見覚えのある黒きカソックを身に纏った奴のみ。
当然のごとく我らは対峙する事となる。奴は部屋の中に私がいる事を認知すると、酷く恍惚とした表情で私の方へと近寄り、そして、なんともなんとも口を三日月の形に歪め、愉快げに笑顔を浮かべて、親しげに声をかけてきた。
「くく、どうしたエミヤシロウ、よもや再びこの場に貴様が来るとは思わなんだぞ」
『夢……? ああ、あの名に縛られた世界での出来事か。あれは私であって私でない』
「―――」
わざとらしいくらいにまで吊り上げられた口と高低差のある上下の眉。満面の笑顔。昨夜、眠りの落ちる直前に出会った奴の事を思い出して違和感を覚える。
―――なんだ
「どうした? 目の前に憎き仇がいるのだぞ? 」
奴は両手を胸に当て、大きく胸を張りながら、私に安い挑発を飛ばしてくる。視線には蔑視と侮蔑のそれが多量に含まれており、いかにも悪党がやるような仕草だった。
「ここまでやっても一言も発しないとは、どうやらよほど腑抜けたようだな」
そのあからさま過ぎるほど真っ直ぐに悪辣な台詞を吐き散らかすその様は、確かに私が想像する、品性下劣かつ、知性の愚劣な、悪党のそれに相違がなかった。しかし、だからこそ違和感。
―――言峰綺礼という男は、悪人であるが悪党でなく、悪辣であるが下劣な男ではない
他人の不幸を喜ぶという社会から見れば悪の側に属する性癖さえ除けば、高い知性と品性と耐久力と分別を持ち合わせた人物だ。人格というものは人の積み上げてきた経験が形作るもの。そして奴は性根こそ腐っていても、元聖堂協会の代行者なのだ。
*
言峰綺礼という男の所属していた聖堂協会は、教義に反したものを熱狂的に排除する者たちによって設立された巨大部門だ。そこに籍を置く人間は、使徒と呼ばれる吸血鬼や幽霊や悪魔といった人と異なる、人以上の能力を持つような人外に対し、洗礼詠唱などを用いて浄化、消去する事を目的とする。
しかし、使徒や幽霊、悪魔といった存在は、大抵人以上のポテンシャルを持ち、そして知恵の回る存在である。一撃で厚い鉄板をぶち破り、物理攻撃を無視し、空を飛び回り、魔術を自在に操る。そんな奴らを相手取り、そして勝利を納めるには、それこそ人並み外れた信心と文字通り肉体を削る鍛錬を必要とする。
そんな命のやり取りを幾十幾百と繰り返し、そしてその全てのおいて生き残った、まさに神の恩寵を受けている事を結果で証明したといえる者だけに与えられる称号。それが、代行者という呼び名であり、奴の人格を歪ませた重みでもあるのだ。
*
「もう少し反応してくれないと、遊び甲斐がないではないか」
かつては言峰綺礼とう男が代行者として生きていた頃、奴は自らの他人の不幸を愉悦とする性質を認める事が出来ず、自己の醜さの答えを求めて、そうした苦難の道へ自らの置いたという。言峰綺礼という男は、目の前にある正視をしたくないような現実に対しても、真っ向対峙する男なのだ。
そうした苦悩と葛藤の果てに、己の中の悪の性質を認め、許容し、社会から見れば悪側のものであるとはいえ、ある種の聖人の悟りを得た男が、今、そこらのチンピラがメンチを切るような態度で、安い挑発をこちらに放ってきている。それはあまりにも、言峰綺礼という男らしくない態度だった。
いや、よく考えれば、奴がこうして直接的に夢に現れるのがそもそもおかしいのだ。言峰綺礼という男は用心深く、そして、非常に理知的な男だ。人が苦悩し、そして最も絶望する瞬間をこそ最高の快楽として望む奴は、だからこそ、その一瞬の愉悦を得るために、誰にも悟られないよう、相手を絶望の崖から突き落とすまで、水面下にて気取られないよう動く。
鍛錬し、耐え、そして結果を得る。奴は自らが代行者として生きてきた生涯が示すように、欲しいものがある場合、苦難に耐えながら少しずつ積み重ねるという、正道といえばあまりに正道な方法を選択する男なのだ。その遠回りに見える道こそが、最も近道である事を奴は良く知っている。すなわち、戦いを仕掛けて最高の結果を得るのならば、相応の苦労と準備が必要だという事を奴はよく知り尽くしている。
そして言峰綺礼という男は相手を絶望のどん底に落とし込むという結果が見たいなら、相手が最高の結果を得たと幸福の絶頂を感じたその瞬間、相手が積み上げた幻の希望の塔を打ち砕き、最も望んでいない現実を突き付けるのが最も効果的だという事を、奴は実践し、経験している。そんな耐え、そして絶頂するという愉悦を知っている言峰綺礼という男が、目の前にある最高の素材である私を前にして、ある瞬間だけ怒らせるという程度の、奴にとって刹那の快楽を得る程度でしかないだろう事象のため動くという事自体が、そもそもおかしいのだ。
「エミヤシロウ! 聞いているのか! 」
そして激昂した奴の姿を見て、確信した。私の怒りを誘おうと必死に語りかける目の前の男の下卑た面には、言峰綺礼という悪の悟りを得た男が持つ余裕というものがまるでない。自身の思い通りに事が運ばないからといって、そのストレスを相手に向けて発散するような態度をとるような男でない事は、親子二代、自身の死後も加えれば、三度も奴と対峙したこの私が誰よりよく知っている。
「―――貴様は何者だ」
「―――」
静寂が支配する白い空間の中、両手を振り回し、唾液を汚らしくまき散らかしながら罵詈雑言を吐く、駄々をこねる子供のような男に尋ねると、途端奴はピタリとその動きを止めた。
「―――貴様は言峰綺礼ではない。貴様のような、耐えるという事を知らぬ餓鬼のような男が、魔術師殺しと揶揄された衛宮切嗣と最優のサーヴァントであるセイバーを追い詰め、あの地獄を作り出せるはずがない。そうだ。そもそも、私の心象風景は、『無限の剣製』。剣こそが他人の想いの墓標で、大地と空の風景が私の全てだ。このような赤や白の部屋などではありえない―――もう一度聞く。お前は何者だ? 何が目的で私の心の中に、このような偽の心象風景を作り上げた」
そして私は奴を否定した。自身が言峰綺礼でないと断言された時、そして返ってきたのは。
「―――く………は、はは、はははははははははははははははははははははは! 」
哄笑。いや、狂乱の感激か。奴はまさに狂ったかと思うほどに笑い、叫び、声を上げ続ける。それは心からの喜びによるものだった。奴は私が、奴が言峰綺礼という男でない事を見抜いたことに、心底喜び、悶え、笑い声を上げている。
私はただただ、奴の狂笑が治まるのをじっと待った。そうしなければいけない気がしたのだ。やがて奴は私が何一言も発することなく自らの狂態を観察していることに気がつくと、半月の形に大口を開けて、おそらく当人にとって最高の感動を表す笑顔を私に向けてきた。
「―――やっと気付いたか、間抜け」
言峰綺礼の顔をした男は、今までの喋り方とはあまりにも違う、荒々しい知的さに欠けた傍若無人さに満ちた口調で、しかし悪戯に成功した悪餓鬼の如く話しかけてきた。
「―――なぜだ。なぜ貴様は言峰綺礼を騙った」
「決まってるだろ。俺だって最初はそんなつもりはなかったさ。俺は、俺とお前が出会えばすぐにお前は俺が誰だか気付いてくれると信じていた。―――でもよ。お前は、あろうことかお前は、俺のことを、自分の最大の悪の存在、つまりは最大の敵である言峰綺礼と断言して、そして疑わなかった。―――傷ついたぜ。なにせ、俺はお前にとって、悪で、敵であると言われたに等しかったんだからな。―――なぁ、俺は傷付いたんだ。もう、狂ってしまおうかと思うくらい、傷ついた。でもさ。俺は、俺に優しいからよ。だから俺は、お前の望むと通り、言峰綺礼であろうとしてやったんだ」
「―――」
わからない。奴の言っている内容が理解できない。なぜ、そうして間違えられた際に傷つく? 私のことを思ったが故に、言峰綺礼を騙った? なぜ奴が奴に優しいからといって、私に優しくする必要がある?
「お前のことを信じてたんだぜ? 抱え込んできた他人からの貰っていた罪悪感という重しを全て失った時、そうして自分の中に何にもなくなった時、お前は俺の事を久し振りに認識した。お前が俺の部屋にやってきたときは、俺も胸が踊ったもんだぜ? だから、ああして優しく話しかけてやったんだ」
いや違う。理解したくないのだ。否、奴の言葉が事実であると受け入れるなんて事、“英霊エミヤ”にできるはずはない。それは、“英霊エミヤ”の私が“私/衛宮士郎”でなくなるという事に等しい。だから心はとっくに理解しているが、脳がそれを事実だと認識してくれない。いや、違う。心も脳もとっくに事実だと理解しているけれど、“英霊エミヤ”が、“衛宮士郎”というペルソナが、目の前の影/人間が誰であるかを理解したがらない。
「―――あ」
情動脳と扁桃体が活性化して、危険が迫っている事を促している。ストレスホルモンと神経インパルスが連鎖反応を起こしている。一刻も早くこの場から逃げろと警告しているのだ。血圧が上がり、心臓は破裂してしまいそうなほど脈打っている。これから起こる酸欠に備えて、多量の酸素を吸い込めるよう呼吸は浅くなる。A10神経がこれからやってくる情動の奔流に構えろと全身を覚醒状態へと追い込んだ。
それは他人から自分へ向けられるあらゆる悪意に対して寛容になった理由。他人に解決してやるべき問題が発生すると言う事態を完全に愛するようになった原因。この時代より未来、しかしはるか過去、“英霊エミヤ”という存在が、“正義の味方”になるためには不要と地獄の中で切り捨ててしまったもの。
「あ、その面。ようやく思い出したか。―――いや、ようやく俺を認めたか。なぁ、衛宮士郎。そうだよなぁ。どれだけ目を逸らしても、まさかわからないはずがない。だってよ」
―――そうだ
忘れられるはずがない。私から引きちぎられた、私が正視する事を避けた、私が誰にも望まれない“正義の味方”となってしまった、過去、自分の肉体に置き去りにしてしまった、自分の欠片。
「お前は、俺だもんな。―――俺は、誰も彼も死んでゆく地獄から幼く弱い心しか持たない己を守って生き残るために置き去りにした、“衛宮士郎“という人間の内受容感覚。衛宮切嗣がこの世の全ての悪意の影響をなくすため、「全て尊き理想郷/アヴァロン」という宝具を埋め込んだ際、お前の心の奥底深くに悪の性質であると封印された、人間としての主体性。そしてお前が衛宮切嗣という男から“衛宮“姓を貰った際、“衛宮士郎”として生きてゆくため、無意識の内に脳と体の奥底に罪悪感という名の重しを用いて封印まで施した、衛宮切嗣の願いを受けて“衛宮士郎”が正義の味方としていくために邪魔だと見捨てた、お前本来の肉体が持っていたペルソナ。やがて肉体を失い、魂だけの“英霊エミヤ”という存在になった時、完全に失った自分の欠片―――俺の名前は“×××士郎”。俺は、自らの罪から正視を避けるため望んで心の奥底で眠りについた、お前が悪と呼んだ、自分のために誰かを見捨てる事を許容する、弱く幼いお前自身だ」
「あああああああああぁぁぁぁ! 」
記憶がフラッシュバックする。煉獄と炎。過去の記憶の中に断片化して封印したものが、感情と組み合わさって、余さず統合して蘇る。言葉で言い表すことなんてできなかった。恐ろしい。恐ろしい。ただただ、背筋が凍りつくほど恐ろしい。
「認めたな。もう逃げられねぇぞ。自分の醜さから目を逸らすのは終わりにしようぜ」
言語に絶する体験をした私が、何故あの地獄を恐ろしいと感じたのか、その本質が襲いかかってくる。あの時から死に続けていた私は私の本能を認識することで初めて蘇り、止まっていた時計はようやく今という時に時刻を合わせて動き出した。
理性から作り出された人格“衛宮士郎”が悲鳴を上げている。情動脳は久しぶりの出番に張り切り、いつものように理性脳を凌駕する。全身が虚脱する。真の痛みと不安が心の中へと戻ってきた。どうか帰ってくれと懇願するも、情動は理性の説得になど応じてくれない。
*
「っあ! 」
時計を見ると、まだ朝の五時を過ぎたばかりである事がわかる。窓の外を見ると、帝都の街を日が照らしあげていた。寝汗がひどい。防衛本能は暴走し、脳幹から発せられた暴走した信号は迷走神経をたどり、全身の筋肉と喉元、心臓、胃、結腸に至るまで「周囲の全てはお前の敵だ。戦闘モードを維持しろ」と命令を叫び続けている。
「―――、はっ、はっ、はっ、はっ」
おかげでまともに全身をまともに動かせない。心拍が耳に煩いほど響いてくる。過敏になった耳はどこかから聞こえてくる余計ないびきや時計の針の音と言った余計な雑音まで拾い上げ、触覚は自身の体を覆う布団すら鬱陶しい遺物だと認識している。汗腺が余計な汗を噴出し続けて肌に張り付くのも酷く不快だ。しかしそんな感覚よりも、もっと原始的な部分が悲鳴を上げている事に私は気がつく。
「はっ、はっ、……はぁ、はぁ」
神経の再配線作業が始まっていた。世界樹のある世界にやってきたあの日感じた感動が陳腐に思えるほどの、感情の濁流。知らない。こんな体の内側を作り変えられるような感覚を的確に言い表す言葉を私は持ち合わせていない。あえて一番近いのを探すなら、不快感だ。
不変だった自分が変わって行く。自分の事を大切だと思う自分に変わってゆく。失われていた感覚と価値観が戻ってくる。暴力的なまでの荒々しさで、私の内面は“衛宮士郎”が、“英霊エミヤ”が、把握しきれない本来の自分の体の機能を取り戻して行く。
「あ、……、あぁ」
自分が変わってしまう。いや、戻ってしまう。それが何より怖くてたまらない。本能的な恐怖により生じた収まらない震えを、それでも理性で押さえ込もうと両手に力を込めた。途端訪れるひどい虚脱感。同時に、急激に全身から熱が失われていく感覚を覚えた。
他者とは別の形に発達していた理性を源とする原自己/プロトセルフは今すぐこの場からの撤退し、強烈な外的な刺激をくわえる事で今の脳内の変化を止めろと命じていた。恐怖に靄がかかったような頭だったが、理性からの命令を聞き慣れていた体は、“衛宮士郎”という存在の危険事態を悟ると、すぐさま動いてくれた。
「―――っ! 」
そして私は、逃げるようにして、シャツを羽織って、扉を開け、廊下へと飛び出した。まだ暗い部分の残る廊下は冷たく、そして体から熱を奪って行く。これではダメだ。まだ刺激が足りない。もっと痛みを。もっと重しを。もっと罪悪感を。傷を。どうか誰か私を責めてくれと思った時、上の方から下の階に向けて風が流れている事に気がついた。強い刺激に導かれるようにして逆風の中を進み、短い折り返しの階段を上ってそのまま屋上へ行くと、太陽が山の端から姿をあらわす途中であった。
*
「あ、おはようございます」
「ああ。おはよう」
そして、まだ日が昇ったばかりだというのにもかかわらず、そこには二つの人影があった。シンと響。その二人が手すりに寄りかかりながら帝都を眺めていた。シンは詰襟黒塗りの学生服を着込み、響はワインレッドのセーラー服に身を包んでいた。どうやらだいぶ私よりも大分前に起きていたらしい。真新しさの残る服を着こなす二人は年相応の姿で、とても様になっていた。
「―――やぁ、おはよう」
私は自らの無様さと醜態を隠すべく、さっといつもの“英霊エミヤ“としての仮面を意識的にかぶせて、自己のコントロールを強く試みる。おそらく屋上より階下へ吹き付けていた逆風と、屋上を照らしあげる太陽の光と、他人との接触というイベントが、私の中の理性と大人の代表たる管理者を叩き起こしてくれたのだろう、彼はすぐさま自らの役目を取り戻して、私は“英霊エミヤ”として体裁を取り戻すことに成功した。
「早起きだな」
理性がそんなつまらない常識的な言葉を捻り出した時、私は心底安堵した。私は再び“英霊エミヤ”に戻ることに成功したと思ったからだ。
「いえ……」
「エトリアでの生活に比べればむしろだいぶ遅い。あそこではこんな時間まで寝こけている事ができん。鐘の音に起こされるからな」
「ああ……そういえばそうだったな」
エトリアの宿では朝夕五時を基準に人々は活動をしている。ほとんどの冒険者たちは事前に宿屋との取り決めによって決めた朝夕の五時を過ぎると問答無用で荷物ごと叩き出されるのだ。鏡や水場のないところではまともに身嗜みを整える事は出来ない。気の緩みや装備の手入れ不足は命の危機と直結するのだから、手を抜くわけにもいかない。結果、冒険者は自然と日の出前、鐘がなる前には準備を済ませるために早く起きる事となるのだ。
「ええ。ですから日が昇る前に起きるのは生活習慣みたいなものでして。なんだか自然と体が起きちゃうんですよね」
「私は単純に機械の体だから、設定時間きっちりに目を開けただけの事なのだがな」
「なんかずるいですよねぇ。お布団の誘惑に負けないで済むなんて」
「うむ、体の疲れを完全に把握できるから、その辺りとても便利だな。壊れた部位はスキルによる治療や修理などが効くというのもいい。だが一番便利なのは、いつでも好きな時に頭の中で模擬戦闘のシミュレーターを展開出来る事だな。お陰で、この一晩で、だいぶ自分の動きの無駄をなくすことが出来た。この記憶を持って元の肉体に戻れれば、もっと素晴らしい動きが出来ただろうが―――、うむ、残念といえばそれだけが残念だ」
「―――シンはどんな姿になっても、シンですねぇ」
「当然だ」
響の言葉にシンは迷わず頷いた。機械の体に変わって少しは気に病んでいたかと思った自分が馬鹿らしくなる。どうやら、彼ら的には自身の体が機械になろうと、友人の体が機械になろうと、どうでも良い事であるらしかった。その強さは価値観の違いか、それとも自分というものと真正面から向き合い続けた強さが生み出すものなのか―――
「―――帝都はどうだ? 」
「あ、えっと……」
いつのまにか再び外れかけた“英霊エミヤ”の仮面を深く被り直すと、誤魔化すように話題を転換する。響は考え込み、帝都の景色を見て、体をさすって、そして首をかしげると、やはり首を捻らせながら口を開く。
「なんていうか、じめっとしてますよね。服が肌に張り付く感じがします」
「エトリアは低温低湿の気候だったが、日本は高温多湿だからな。夏のこの時期だと亜熱帯のそれに近くなる」
「亜熱帯……? 」
ああ、そういえば、彼らはエトリアの人間だったか。
「そうだな……、新迷宮の二層のような環境だ」
「―――ああ、なるほど」
「確かにこの環境は、あそこに近いな。一枚羽織ればそれで十分なくらいの温度と湿度―――なるほど、だからここの住人は薄手で、多くはあのような隙間だらけ家に住んでいるのか」
言うとシンは少し遠く、昔の日本の風情を残す家屋が群れている場所を指差した。街の表通りには瓦の乗った立派な作りの日本屋敷が並び、少し離れて裏路地や川沿いへと目を向けると、完全に木だけで建造された造りの長屋が数多く並んでいる。なるほど、そう理解されたか。
「いや―――、あれは経済的な理由だろう」
「そうか」
私が苦笑いすると、シンはあっさりと首を縦にふる。
「それにしてもエミヤさん。街の景色、なんかぼやけてみえませんか?」
シンのそんな態度に苦笑していると、シンの指先を追っていて隣の区、千寿区深川の方へ目線を送っていた響は、瞼を細めて広げてと繰り返し、そしてやがて目をこすると言った。シンは響の言葉に反応して、アンドロ特有の機械のセンサーの視線を向けた。
「ふむ……、霧などは発生していないようだが……」
「―――ああ、なるほど。それはエトリアとの気候の違いだな」
「気候の違い?」
響は再び首を傾げた。
「エトリアは低温低湿で空気の汚れも少なかったからな。空気に散乱する水分や埃がほとんど存在しないから、どこまでも遠くまで見渡す事ができた。だが先ほども言った通り、日本は高温多湿。その上、帝都は今まさに文明開化の最中で黒い煙を吐き出す工場が建てられている。深川の街には紡績工場もあると聞いた。だから、空気中の水分や埃が光の進行の邪魔をして景色がぼやけて見えたのだろう」
「はぁー」
推測を言うと、響は胸の中の空気を吐き出すと、気の抜けた顔をした。あの顔だとおそらく理解できていまい。さて、わかりにくかっただろうかと自分のセリフを思い返すと、文明開化だの、紡績工場だのと、電気機械と馴染みの少なかった人にはわかりにくいだろう言葉を使って説明してしまった事に気がつく。
「なるほど。空気中に障害物が散乱しているから、光が通りにくいと」
「その通り」
さて、どう失態を取り戻そうかと思っていると、シンがバッサリとした補足をしてくれた。顔からは判別がつきにくいが、彼は今の説明の内容をきちんと理解してくれたらしい。剣のこと以外に興味がないと言い切る彼が機械知識についてあれこれ知っていたとも考え難いし、アンドロ化によってその辺りの知識も補填されたのだろうか。
「視界がぼやけるって事ですか?」
「ああ。だがそれはそれで良いものであったりするのだよ。そう言った見えるけど見えない、といった状態は想像力を生む土壌となり、牧谿、雪舟から、ムラを活かす画風となって長谷川等伯の松林図屏風といった芸術作品へと繋がった。温度が高いのは地熱が聞いているからであるし―――、そうだ、ここには天空都市だったエトリアにはない、温泉というものがある。地下からそのまま引いてきた湯に浸かるんだ。この時代なら銭湯で入れる可能性もある。疲れが体から抜けていく感覚は気持ちがいいぞ。きっと気にいる―――」
と、そこまで語って、話を聞いていた二人のうち、特に響の方が驚いた表情を浮かべて、背を逸らしている事に気がつく。勢いに気圧されたかのような態度を見て、思う。
―――またやってしまったか
「……、エミヤさん、帝都の事情に詳しいですね……」
響は目をパチクリとさせながら呟いた。シンも、アンドロの無表情の上には、しかし呆けた様子が浮かんでいる。おそらく一方的に知識をまくしたてられた事に驚いたのだろう。
「ああ、まぁ、日本人だから、この程度は、な」
そんな一方的な知識によるマウンティング行為を気恥ずかしいと感じて、少しばかり言葉を区切りながら適当に誤魔化す。今朝はどうも調子がおかしい。こうまでペラペラと一方的に知識を披露する人格ではなかったはずだ。心理的に負荷がかかっていると早口になるというし、あるいは、否、やはり自らの自我とやらと相対したことが原因なのだろうか―――
「ふむ、やはり人は生まれ故郷について語るとなると饒舌でいい顔になるものなのだな」
「―――」
などと、再び自らの行いに嫌悪感を抱き、そんな心を弱いと断じて自虐に浸ろうとすると、私の心の中に住まう批判者が本能に対して悪であると結論を下す前に、シンは私の先ほどの理性の失態、情動のままの言葉を肯定した。
「あ、それはたしかに。エミヤさん、珍しく険のない顔をしてました」
そして続く響の肯定の言葉により、今の私/理性と過去の私/本能の断片は、脳裏にて関係性を失うよりも早く繋がりが強化され、“英霊エミヤ”という男が故郷について自らの情動の赴くままに知識を語るという行為は、世間や他人に受け入れられる行為であるという事を確かにした。
「―――そうなのか?」
価値のない存在だと信じていた自らの過去を、凛というもはや“衛宮士郎”という存在と身内同然の人間以外に肯定された事が信じられず、思わず聞き返した。
「ああ。エミヤ。今さっき貴方が見せた笑顔は、何時もあなたがしているような常駐戦場を意識した緊迫感に満ちたものではなく、エトリアで見たことのないような、なんとも人間らしい笑顔だった」
人間らしい笑顔。その言葉は先程自らが過去に置き去りにしてきた心と対峙した私を心底揺さぶった。私はおそらく、私の最も欲しかった言葉を、思いがけない所からかけられて、無意識のうちに魂の奥底に封じ込めていた、過去、自分を失った時の記憶が蘇っていくのを実感した。
*
―――あの日。あの誰も彼もが死んでゆく地獄の中で、自らが生き残るため助けを求める彼らから目を逸らし、耳を塞いで、脅威から自身を守るという生物としては当然の自己保全の行為などは、しかし幼かった“×××士郎”にとって悪以外の何者でもなかった。己の本能的行為を醜いと感じてしまったとして幼い理性の心は、その矛盾に耐えきれず、本能の一部を切り離し、分断させた状態で、仮死状態に陥ったのだ。
心の一部は欠損したそんな状態の私を発見し、存命させたのが衛宮切嗣というわけだ。衛宮切嗣が私に埋め込んだ、脅威的な再生と肉体保全能力を持つセイバーの宝具「全て遠き理想郷/アヴァロン」によって、心が死んだままの状態で蘇生させられた“×××士郎”は、“×××士郎にとって醜い、自己保全の機能を持たない士郎”として生き延びた。
そうして地獄の中から無垢な“士郎”という存在が生まれた。無垢な“士郎”はまだ幼かった“×××士郎”という存在にとって、自らの生存の為に自らの両親や生存を望む人々を置き去りにして生きのびてしまったという事実や自らの醜さから心を守るには都合の良い存在であった為、彼は“士郎”という存在に自らの体を明け渡す事を無意識のうちに許容した。
あるいは、所有者に擬似的な不老不死性を与える彼女の宝具/アヴァロンも、“×××士郎”の心が死んだ状態を保ち、“士郎”という第二のペルソナが体の所有権を握っている状態を保つにちょうどよかったのかもしれない。
とにかく、魂の奥底、あるいは肉体の奥底へ自己を大切にするという保全機能を持つ私を切り取って封じ込めた私は、確かに昔誰かに言われたように、文字通り、生物として最も大切な“自分を大切にする”という本能を失った状態で、無色の“士郎”として誕生したのだ。
その際、衛宮切嗣は自らが作り出してしまった地獄の中で自らの手で私の命を拾い上げるという行為によって、自分自身を救った。しかしそんな衛宮切嗣の自己憐憫の行為を、他人どころか自分の心をも切り捨ててまで生き残ってしまった“自己保全機能を失った士郎”は、死地において自己の保全ではなく、他人を優先しそして救ったという事実を、まさに“正義の行為”そのものであると思い込んだ。
だからこそ私はその時衛宮切嗣という男が見せた、なんとも幸せそうな笑顔に、ひどく惹かれ、彼の目指していたという“正義の味方/衛宮切嗣”に憧れた。 やがて衛宮切嗣によって“衛宮”の姓を与えられた私は、その後、そして衛宮切嗣から理想を聞いた月夜の晩に、 “×××士郎”の意識を乗っ取る形で、“士郎”ではなく“衛宮士郎/正義の味方”として誕生したのだ。
やがて成長するにつれて、無垢だった“衛宮士郎”はさまざまな自己保全行動を罪として認識し、人よりも多くの罪悪感を抱え込む事となる。それはアヴァロンという宝具を所有者に返し、肉体が本能を微かに取り戻した後も続き、自らの心が感じる罪悪感は、“衛宮士郎”という人格を保つための鎧となり、重しとなり、過去に封印した幼心が顕現しないための要素ともなった。
しかしそうして正義の味方として誕生したはずの衛宮士郎は、自己を大切にする機能を失っているため本質的には他者を必要せず、しかし人という他人との繋がりを頼りにする“人間”という社会的な動物の中で“正義の味方という理想の存在を目指す衛宮士郎”として生きる為に心の奥底では他者との社会的な繋がりを軽視しながら、あるいは理解できないまま、他人に自らの信じる正義を押し付け続けて、地獄を邁進した。
だから、恐れられ、理解されず、否、異端として理解され、そして―――
―――そんな旅路の果てに掴んだ結果を受け入れる事が出来ず、それまでの自分を否定し、自分すら救うことが出来なかった
*
I am the bone of my sword. /“衛宮士郎”は本来人間が持つ機能を持っていない
Steel is my body, and fire is my blood. /自己を大事と思う心を醜いと切り捨て、弱い自分を否定した
I have created over a thousand blades. /いくら他者と接触しようとそんな己を変える事が出来ず
Unknown to Death. /ただ一方的に自らの考える救いと正義を押し付けるばかりで
Nor known to Life. /だからこそ誰にも受け入れられてもらえなかった
Have withstood pain to create many weapons. /しかし私はそんな彼らの抵抗と不理解という世の不条理に抗う自身の姿こそが“正義の味方”として正しい姿と自惚れた
Yet, those hands will never hold anything. /だから彼らにとって、私の正義は真に独善でしかなく
So as I pray, UNLIMITED BLADE WORKS /“衛宮士郎”という存在は、自らの心の奥底に封じ込めた“×××士郎”という未熟な己を守るための剣に過ぎなかったのだ
*
結局その、幼い自分自身を私が肉体の奥底に追放し続けるという現実逃避は、英霊として存在を固定されるまで続き、そして自己保全機能を失った状態のまま、“衛宮士郎”は“英霊エミヤ”として固定されてしまった。
しかしあの運命の日、凛の手によって世界樹という魔のモノが巣食う世界に、“英霊という情報と魂の存在に過ぎない“状態から“衛宮士郎の肉体“を得て転生した私は、そこに住まう魔のモノという存在によって溜め込んでいた全ての罪悪感という名の鎧と重しを失い、やがて私の心象風景のさらに奥底、幼い頃肉体の中に切り捨て、封じたはずの、“衛宮士郎”が醜く弱いと感じる自分自身と対峙する事となったのだ。
そして切り捨てたとはいえ自身の分身なのだから本来ならばその存在を認識した瞬間に気付いても良さそうなものだが、しかしその我欲を伴う自己保全という本能という名の自分は、“世界平和を目指す正義の味方”という“衛宮士郎”/存在からしてみれば悪と断じてやまない存在であり、だからこそ“英霊エミヤ”にとって最大の悪の存在である“言峰綺礼”であると私は思い込んだ。
そして自らが幼き頃失った仮面の一つであるそれを“言峰綺礼”として断定した私は、私という自分自身に存在を“言峰綺礼である”と断定された奴は、“英霊エミヤの望む通り“、正しく“英霊エミヤにとって悪の化身である言峰綺礼像“を演じ続けたのだ。
つまりあの悪夢の正体は、かつて私が“衛宮士郎“として生き延びるために切り捨てた現実を、しかし、そんな醜い我欲を持つ私は私でないと否定したいがための私が現実逃避した結果であり、同時に辛過ぎて正視できなかった食べ物も水も与えられず、私からも見捨てられた、注意を向けてもらいたがっている幼い自己という名をした獣の、必死の雄叫びだったのだ。
*
そして今朝、“衛宮士郎“が人間でない獣と断じた自身との統合を果たした私は、だからこそ自己の発見に戸惑い、懊悩し、ストレスホルモンが全身に異常を発露させたのだ。しかし私は、そんな醜い自分を見たくなくて、再び自己の殻に閉じこもろうと、思考を放棄し、肉体を落ち着かせる事で悪い夢を見たのだと、心の中の現実からの逃避を試みた。
しかし、その先にいたシンと響が私にそれを許さなかった。彼らはそうして本能を取り戻した私を許容したのだ。そうして変化した私を彼らは何気なく、そして自然に受け入れた。彼らが述べた言葉は、腹の中にストンと落ち込んで、そして長年の分裂状態は、彼らの手によって、統合されてしまったのだ。
それを心地よいと感じる自分がいる。他人からの理解を心底喜ぶ自分がいる。もう、非常事態ではないのだ、全身の緊張を解いても良いのだと、自己を保全しよう囁く自分がいる。そしてそんな“自分”を“受け入れてしまった“自分がそこにいる。
もう私は、あの他人も自分の心も切り裂き弔った墓標の如く剣だけが並ぶ吹き荒ぶ世界に、戻れない。戻りたいとも思わない。色がついたのを感じた。呼吸をすれば匂いを濃く感じる幸福。立っているだけで太陽の光は肌を痛いくらいに焼き、しかしそうして熱を帯びた肌から熱を奪っていく風が、なんとも心地よい。
訪れる感覚全てが新鮮だ。思いもかけぬ訪問客のその全てが愛おしい。なるほど、この感覚が、幻でも白昼夢でもなく、今を生きるという事なのだ。
―――ああ、私はようやく自分を自分の中から救い出し、真に私/自分を取り戻した
この喜びを言葉にするなんてことはできない。無粋だのなんだのではなく、感情の初心者である私は、この初めての感覚をなんという言葉で表現すれば良いのか、わからないのだ。
「―――そうか」
そうして喪失していた体と自己を取り戻し、統合した自分は、あえていう言葉で表現するなら、なんとも満ち足りた気持ちで彼らへと返事を返していた。意識してのものではない。緊張した体が反射として、意思のこもらないものではない。それは、真に私の脳が、魂が、心が、神経という肉体を通して、彼らの言葉に反応してのものだった。
「ああ」
「はい。―――あの、生意気言うようですが、エミヤさん、昨日から、すごく余裕のある、いい顔をしていますよ」
―――余裕、か
なるほど、いつもの感覚とは異なるが、言われてみれば確かにこれは余裕あると言う気持ちに近いかもしれない。思い返せば、同じ世界の延長線上であるにもかかわらず、常識も法則も異なった世界でかつての夢―――正義の味方になろうという願いを叶えようと猛進していた。衛宮切嗣という男から受け継いだ願いを叶えようと、凛の恩義に応えようと、私は突っ走っていたのだ。
そうして切嗣の願いを尊いものだと感じて受け継ごうと思ったのは確かで、凛の後押しがあったとはいえ、再び与えられた人生で切嗣から受け継いだ願いを果たそうと考え一歩踏み出したのが、自分が尊いと感じた情動が元であったのは確かだ。そのことに後悔など一欠片すらもないし、エトリアという、人同士の争いがなく、そして死の脅威が自然災害の如きもののみである世界は、私のような正義の味方を目指す人間にとっては、確かに理想郷のような世界であった。
だが、その世界で過ごし、正義の味方を目指す私に余裕があったかといえばそれは―――
なかった。間違いなくそう言い切れる。何せあそこには私の慣れ親しんだ文化の匂いがしない。東欧からイスラム世界あたりの文化の中で暮らしたことがなかったという訳でないが、何をするにしてもスキルというものを使えるのが前提で、服装に対する意識や、日常生活の習慣の差異など、ともかく何から何まで違和感だらけだった。
身に染み付いた習慣があまり役に立たない、異なった文化の世界の中で、ただ一人、正義の味方を目指して黙々と剣を振るい続ける日々は、充実していた。だがそれが、世界の中でただ一人、自分だけが他人と異なる人間だという差異からの逃避と等しかったのも確かだ。
―――なるほど、余裕がなかった、か
あの異世界のごとき未来世界の街、スキルを使うことが当たり前の街「エトリア」と比べれば、並行世界であるとはいえ、帝都は私が知り、そして慣れ親しんできた機械文明と日本文化の匂いが濃く残る場所だ。
この世界において私は、“異世界人”でありながら、ある意味で“異邦人”でなく、“同郷の人間”なのだ。無論、西暦2000年の世界と西暦1921年という差異があるゆえ、細かな違いこそあるだろうが、この世界は私の知る常識が大半以上は通じる場所なのだ。まるで知らない法則性が多く支配するような未来世界よりも、類似性が多い過去並行世界は、おそらく私の余裕というものに繋がり、そしてその前後の常識の落差が余裕を生んだ。
そして、世界樹の世界により自らの鎧と重しを失った私は、この世界に辿り着きそして余裕を得た事で、過去の肉体の中に置き去りにしてきた、未解決のまま封じ込めた幼き自分という存在に気付き、対峙する事となり、そして、統合することが出来たのだ。
「あ、ご、ごめんなさい。なんか、すごく生意気言っちゃって……、その、ご―――」
響は私の長い沈黙を不興の証として認識したのか、謝罪の言葉を発しようとした。
「ごめんな―――」
「いや!」
私はその時、慌てて彼女の言葉を遮った。そうして“衛宮士郎“が失った“×××士郎”を得て、真に“人間の士郎”にしてくれた片割れに、謝罪の言葉なんて言って欲しくなかったのだ。
「―――ありがとう」
「……えっ? 」
そうだ。恩人に謝罪なんてして欲しくない。無意識のうちにでも、何かをしてもらったのなら、礼を言うのが、正しい“人間”の在り方だ。
「余裕がなかった。確かにきっとその通りだ。そして今、私はとても余裕があると感じている。―――君たちの言葉に、私はとても救われた。だから、ありがとう」
自身だってまだ統合によるあれこれの弊害を処理し切れていないのだ。今、深く理由を告げても、彼女たちは戸惑い混乱するだけだろう。だから今はそれだけでいい。深く語らずとも、それだけで彼女たちは、きっと自分のことを理解してくれる。
「―――響」
「はい。どういたしまして」
シンが響の背を叩いた。彼の励ましを受けるような形で、響は私の礼を受け取る。それでいい。はじめの歩み寄りなんて、その程度でいいのだ。彼女のくれた短い返事の中には、たしかな肯定に満ちている。その心地よさに身を委ねながら、私はしばしの間、銀楼閣の屋上から懐かしむには古すぎる日本の風景を楽しんだ。
平屋の家が並び、どこもほとんどが地面の路地。木製の橋の欄干には擬宝珠が当然のように並んでいる。コンクリートのビルはまだ所々にしか存在しておらず、電柱と電線など数えるのも容易い。街から視線を外して遠くまで視界を通すと、広がる田園風景。強化していない目では響の言う通り、山の端を見ようとしても、ぼやけて、エトリアのようによく見ることができない。
―――ああこれはたしかに日本の原風景だ
ぼやけ霞んだ景色の、自然のままの風景は醜く、しかし同時に美しく見える。そし後天的に切り開かれて作られた人工の建物は、着飾ったように美しく、しかし、醜い部分も多分に含んでいた。そうして生の目が俯瞰して捉える日本の原風景は、エトリアでよく見た西洋絵画のような必要な要素だけをハッキリと捉えた美貌だけではなく、薄らぼんやりとした美醜入り混じる光景でありながら、調和の美を誇っていた。
あらすじに書いております通り、これは“英霊エミヤ“という男がいつか異世界で楔から解き放たれて、自由に生きる。そういう物語です。
Fate というシリーズでは、アーチャーである“英霊エミヤ”は「永遠に救われない、報われない存在」として扱われています。私は悩み、苦しみ、それでも前に進もうとして、自己を殺してしまおうと思うほど思いつめてしまうエミヤというキャラクターがとても人間らしくて好きです。
しかしFate というシリーズでは概念が全てを支配しています。だからその法則に従って考えると、英霊エミヤというキャラクターが原作通りのままだと、永遠に救われない状態で固定されてしまうと私は感じました。自己矛盾に気付きながら、それでも自分の為にと自ら地獄を邁進した彼がそんな結末しか存在しない事が、心底認められなかった。
私は“英霊エミヤ“という存在が「永遠に救われない、報われない存在」という状態で固定化されてしまっている概念を覆して、「いつか救われる存在」か、あるいはせめて「いつか救われる可能性のある存在」にしたかった。
そのための集大成が今回の話です。非難、アンチ成分、原作のエミヤを否定していると感じる方もいらっしゃるでしょう。オリジナルのキャラによって救われるなんてとんでもないメアリースーだと仰られる方もいらっしゃるでしょう。整合性がないと言われるかもしれません。
ただ、どうしても英霊エミヤとは「いつか救われる存在」か、あるいはせめて「いつか救われる可能性のある存在」だと多くの方に認識していただきたいため、不意打ちの形ではありますが、エミヤという英霊を変化させました。このような変化もエミヤという英霊の救いの形の一つかもしれないと思っていただければ、これまで彼の救いを求めて物語を紡いできた私にとって、それ以上の喜びはありません。
どうか、英霊エミヤという存在がいつか救われますように。