Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

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第四話 帝都に咲く花々、群がるは男

第四話 帝都に咲く花々、群がるは男 その1

 

「―――エミヤ。お前、うちの探偵社の専属料理人にならないか? 」

 

東京市矢来区築土町、銀楼閣三階。鳴海探偵事務所という札のかかった部屋の中、部屋の一番奥の巨大な所長机の前の安楽椅子にどっしりとこしかけ踏ん反り返っていた所長殿に簡単な料理を用意してやると、鳴海が安楽椅子の上からそんなことを言ってきた。

 

鳴海の背後にある窓から飛び込む光が邪魔をして見えづらいが、鳴海は上機嫌そうに髪を指先で梳きながら、真剣な表情を浮かべている。冗談……、で言っているわけではなさそうだった。

 

今、奴の目の前の所長机に置かれているものは、私の時代なら珍しくもない、喫茶店のモーニングセットのようなものだ。目玉焼きにキャベツをちぎっただけのサラダにバターを塗ったトーストにコーヒー。皿の上に乗っているものにも特別なものはなく、朝方その辺にいた物売りを捕まえて手に入れた卵とキャベツを適当に調理し、部屋の隅にだらしなく置かれていたをパンを軽く炙ってバターを塗っただけの、本当に簡単なものだ。

 

コーヒーを淹れるのには、豆引きと専用の豆があったのでそれを使用して多少手間をかけたが、それが鳴海という男の胸を打った訳でないのは、奴が口をつけていない事からも明らかで、つまり奴が今感動しているのは、奴の目の前にある皿の上の料理である事は確かなのだ。

 

大した手間をかけていないこの程度のもので喜ぶとは、と思わないところがないでもないが、半年という長いブランクで腕が錆び付いていたかもと心配していたものに対して、鳴海という男が見せた喜びようは素直に嬉しいという気持ちもあった。

 

「―――お褒めの言葉はありがたく頂戴するが、その申し出は断らせていただこう。それより冷めるぞ」

「いっけね……!」

 

一瞬心が揺れ動く。だが、無論そんな申し出を受けるわけにもいかないので、丁寧に断りながら食事を勧めると、鳴海は中央に置かれている箸を無視して、フォークとナイフで優雅を心がけて、しかし少し不慣れな様子で朝の食事を再開した。やれやれ、誤魔化しが出来て一安心、といったところか。

 

『あやつの戯言は無視して良いぞ、エミヤ』

「ゴウト」

 

胸をなでおろしていると、棚の行李の上、緑の目をした黒猫が話しかけてきた。猫の名前はゴウトドウジ。葛葉ライドウという少年のお目付役で、霊能を持たない人間には彼の言葉は猫の鳴き声にしか聞こえないという特性を備えている。

 

つまり彼の今の一言は、霊能のない鳴海という男はゴウトの非難こもった一言は、単なる鳴き声としてしか認識できなかったと言うことでもあり、鳴海はゴウトの鳴き声に、「な、お前もそう思うだろ、ゴウト! 」などといって、我同意を得たりと、的外れの返事をした。

 

ゴウトの声が聞こえる人間からすれば少しばかり間抜けに見えるが、言わぬが吉という奴だろう。知らなかった方が幸せというものは世にいくらでも転がっている。真実が人を救うとは限らない。その真理を、万人にとっての正義の味方を目指した私は、嫌という程理解している。

 

『あやつはズボラでまともな朝食の用意をせんからな。朝目が覚めて食事が用意されているという状況が奴を酔わせ、戯言を吐かせたのだろう』

「なるほど、空腹と意外性と奉仕は何よりの調味料、か」

 

私は納得して鳴海の方を向く。すると窓を背にした鳴海は、いかにもお上品そうな手つきでナイフとフォークを使って器用に食事を続けていた。箸も用意してあるのに頑なに使おうとしないのは、鳴海という男が状況に酔っているのだろう事を告げている。

 

『無論、お主の腕前が悪いと言っているわけではない』

 

鳴海のお褒めの言葉が自身の調理した料理に対してのものかもしれないと少しばかり寂しい気持ちを覚えると、それを見抜いたのだろうゴウトが慰めの言葉を発した。

 

『―――、というよりも、お主、大分腕が良いな』

 

彼は行李、棚の上をトントンと跳ねて飛び降りると、床に置かれた皿の上にある肉の叩きを口にすると、舌を出して唇をひとなめしたのち、続けた。

 

「昔取った杵柄という奴さ。料理の腕と茶を煎じるには自信があってね」

『言うだけのことはある。ありがたく馳走になろう』

 

いうとゴウトは、自分用に用意された皿に口をつけると、貪る様にして身をほぐした魚を頬張り始めた。上品な物言いの割に、動物の本能丸出しである。つい先ほどの今度の言葉に一片たりと偽りなどない事を表すかのような見事な食いっぷりだった。

 

「―――エミヤさん」

「ああ、ライドウか」

 

ゴウトと鳴海の良い食べっぷりに一人満足して一人と一匹の食事の様子を眺めていると、扉をあけてライドウが部屋に入ってきた。彼は相変わらず能面のような変化の少ない顔を浮かべている。昨日の夜見せた様な外行き、戦場に向かう様な格好ではなく、詰襟の黒学生服を上下に着込み、独特の三日月のマークが刻まれた銀飾りの黒学帽を被るという、甚く普通の学生の格好をしていた。

 

「―――ご馳走様です。美味しかったです」

 

そう言って普段通りの格好をしたライドウはこちらに会釈をした。やがてライドウが頭を元の位置に戻った顔は多少緩んでおり、上辺やおべっかの言葉ではなく、素直に感謝の気持ちを表したのだという事がわかる。どうやら彼も私の料理を気に入ってくれたようだった。

 

「それは良かった」

 

暖かい気持ちがさらに膨れ上がる。あまりその気がなくとも、人は何かした事に対して他人から礼を言われれば、自尊心を擽られ、気分良くなるものなのだ。思わずこちらの頬も緩んだ。

 

「ほかの皆はどうした? 」

「―――シンさんと響さんは台所で物珍しそうに色々と見回っています」

 

はて、なぜ台所などを見てそのような態度をとるのか―――……ああ、調理にスキルを必要としない器具や台所の造りが珍しいのか。確かにあちらの世界とは異なり、こちらの世界は水をどこかから調達し、炎をマッチなどの発火用品から起こす必要があるし、フライパンにはコイルなど巻かれていない。シンは単純な好奇心から。響は道具屋の娘という立場からそういうものに興味があるのだろうな、と私は推測した。

 

「凛は?」

「―――食事を取った後も、机の前で眉を顰めたまま座っています」

「了解だ」

 

ライドウの言葉を聞いて、いや彼女らしい、と、呆れたような、納得するような感覚を覚えて、苦笑した。朝も早くからの活動に慣れているシンや響と異なり、凛は低血圧で朝に弱い。インと名乗っていた頃はそれでももう少し早くに自我のまともな状態を取り戻していたが、おそらく若返った事で、低血圧の性質を取り戻してしまったのだろう。なんとも難儀な事だ。

 

「ライドウ。今日の予定は? 」

 

全ての面において納得した私は、改めてライドウへ本命の質問を尋ねる。するとライドウは一転して姿勢を正し、緩んでいた口元を一文字に結び、そして真剣な表情で口を開いた。

 

「―――ヤタガラスの使者から連絡がありました。調査の結果、深川街の方では判明しているだけで、今回の件の他に、三名の神隠しが起こっていたとの事です」

「神隠し、というと、悪魔絡みの事件である、という事か」

 

ライドウは頷く。悪魔―――鬼や天狗、神霊や天使などの総称―――は通常、この世界と同じ、しかし人とは異なった異相である“異界”という世界に存在している。この現世と少しばかり情報の“異相”がずれただけの世界は、しかし、そうであるがゆえに、違いが互いを認識することは出来ず、互いの存在が互いに影響し合うこともない。

 

しかし、時たま、その相の境目を突き抜けて、異界の中に迷い込んでしまう者もいる。これが神隠しである。そして、この本来なら不幸な現象に過ぎないそれを、悪用すると―――

 

「―――ヤタガラスの使者が言うには、被害者が最後に目撃された該当地区の近隣には、異常な濃度のマグネタイトの痕跡が残されていたと。―――また、残留マグネタイトはその性質から推測するに、耶蘇教の天使のものであると判明しているようです」

 

マグネタイトは悪魔と言う存在が現世で人々に認識されるための媒介物質であり、どちからかといえば魔力に似た純粋なエネルギー物質であるが、それが悪魔召喚の際に使用された場合、一定の時間は召喚の対象となった悪魔の情報を保有する。そしてそれが耶蘇教―――つまり、キリスト教のものであったとするなら―――

 

「―――……、言峰綺礼か」

 

この日本という異国の土地において、キリスト教の悪魔を呼び出せる人間として思いつく人間をあげれば、例えばフランシスコザビエルだの、高山右近だの、島原の天草四郎だの

ぱっと頭をよぎるが、彼らとは生きた年代が数百年ほどずれている。

 

そしてつい先日、言峰綺礼という男が天使パワーや、ソロネというキリスト教系列の悪魔を召喚したという事実から考えれば、おそらく奴が誘拐の下手人であると考えて間違いないだろう。

 

「―――はい、おそらくは。そこでヤタガラスは、千寿区深川町の神隠しは、昨日、言峰綺礼と言う男が起こした誘拐未遂事件と同一のものであると断定。こちらの調査が勧められています。―――また、言峰綺礼という男がカソック姿、つまり神父の姿をしているということから、外人街が広がる港東区晴海町や、外人などの西洋服姿をした人間の多い中条区銀座付近にも事件の解決に繋がる手がかりがあるかもしれないと、併せて調査の実行が勧められています」

 

ライドウは言いながら、棚の上の行李から、学生服の上に銀管のホルスターを装着した。続けて腰にコルトライトニングが収納されているホルスターをつけると、腰に刀を差して、黒の外套を羽織り、それら全てを布の下へと隠した。それは葛葉ライドウという悪魔召喚師の戦闘兼調査スタイルだ。

 

「ライドウ。君はまずどちらに向かうつもりだ? 」

 

問うと、ライドウは一瞬だけ逡巡した様子を見せた。目が数度左右に泳ぐ。どちらがより有益な手がかりを得られるか考えているのだろう。そして瞬間の間硬直を見せたライドウは、しかしすぐさま元の通りの真剣な表情に戻り、口を開いた。

 

「―――神隠しの方。今ならまだ悪魔の手がかりが残っているかもしれない」

 

なるほど、悪魔側から攻めるつもりか。確かに寡黙かつ老獪な言峰綺礼の足取りを追うよりも、奴に召喚されたばかりのガルムやパワーといった配下の悪魔を追った方が、奴にたどり着く近道かもしれない。いや、パワーという悪魔が我らを見くびり、ガルムという悪魔が言峰綺礼の命令をきちんと聞かず、狩りの真似事という自らの快楽を優先した統制の取れていない様を見るに、確かにそちらから探った方が近道だろう。

 

「ならば私も―――」

「おっと、待ちな! 」

 

同行しよう、と言いかけて、しかしそこで食事を終えて鳴海が口を挟んできた。

 

「―――鳴海さん」

 

鳴海は腕を前に差し出すと、人差指を左右にふりながら、なんとも偉そうに口を鳴らしながら、ライドウへと近づく。

 

「ライドウ、お前さんは、デビルサマナーで鳴海探偵社見習いとはいえ、まだ書生で未成年だ。深川街の事件といやぁ、遊女の神隠し。となりゃあ当然、その遊女が所属してた遊郭に出向いての話の聞き取りをしなきゃなんねぇ。調査のためとはいえ、そんな場所にお前さんを送り込んで、風間のおっさんやおタエちゃんに知られた日にゃあ、あの二人になんて言われるか―――。ライドウその神隠しの件、まずは俺が調査する」

「―――自分は以前、何度か遊郭へ調査に赴き、事件を解決しましたが……」

 

ライドウが鳴海の提案に異議を申し立てると、鳴海はなんとも大げさに伸ばしていた腕を頭に当てて、頭を後ろに逸らし、そして再び腕を前に突き出すと、ライドウへと語りかける。鳴海の顔には、少しばかり呆れた様子が浮かんでいた。

 

「ライドウ。お前、今回、詳しく神隠しの情報、マグネタイトだとかそういう悪魔関連のことばっかで、ヤタガラスの使者からそれ以上詳しく聞いてこなかったろ―――今まで神隠しにあったって客取りもしてない新造未満女の子三人と昨日の一人は、『補陀落』所属の琴水ちゃんお付きの女の子たちだったんだぜ? 」

 

鳴海のセリフにライドウは珍しく動揺した様子を見せた。初めて見る彼の顔に、少しばかり驚く。鳴海が「その補陀落」と言っているあたり、どうやらライドウは遊郭『補陀落』とやらにあまりいい思い出がないらしい。勿論、書生、未成年のライドウが遊郭にいい思い出を持っている方がおかしいのではあるが、そうして常に冷静の態度を保つがみせた様子が私にとって少し意外だったので、少しばかり驚く。案外感情豊かなのだな、と、なんとも失礼な感想まで抱いた。

 

『ふむ、あの娘、一年前にあった時はまだ客も取った事のない新造だったと思うたが』

「今じゃすっかり牙の抜けた花魁『時雨』に変わって、あれよあれよと言う間に補陀落の一番花魁だ。事情を聞くとなりゃあ、そこで琴水ちゃんとも顔を合わせる事になる。お袋さんのこともあるから、お前、一緒だと、気まずいだろ」

「―――しかし」

「なに、まずは調査を行うってんなら、まずは詳しい情報を手に入れてからの方が効率いいだろ!なら探偵であの辺の地理にも詳しいこの俺が行って、それからお前に襷を渡した方がいいに決まってるって! な、そうしろって! そんでもってライドウ。お前は、銀座の聞き取り調査に行け! つまりこれは二面展開の作戦ってわけだ! 」

 

ライドウは鳴海の提案に少し考えるそぶりを見せた後、ゴウトの方へと視線を向けた。視線には曇りがあり、そして、信頼があった。なるほど、お目付役というのは確からしい。

 

「―――ゴウト」

『ま、鳴海の言うことにも一理ある。通常の情報ならこやつでも持ち帰れるだろう。さすれば、後ほどお主が改めて調査した際、通常では分からぬ部分の捜査がしやすくなるという利点もある。だが、時間が経てば、残留マグネタイトの痕跡や、霊能を持たぬ鳴海では調査でいない事であるのも確かだ。どちらがその言峰綺礼とやらに近いかは、儂にもわからん』

「―――」

 

ライドウはゴウトの言葉の言葉に迷った様子を見せた。彼の中では、天秤の秤に乗せられた行く、行かないの選択肢の重しが釣り合っているようだった。

 

「ライドウ」

「エミヤさん」

「その、残留マグネタイトというのは、昨日のあの緑色の光の濃い部分でいいのかね? 」

 

迷っている彼を見かねて問いかけると、ライドウは顔をあげて少しばかり驚いた様子を見せると、しかし、しっかりと瞳をこちらに向けて頷いた。

 

「―――はい」

『そうか、エミヤがいたか』

 

ゴウトはその手があったかと言わんばかりに、緑色の目を光らせた。私は頷き返す。

 

「空間の異常の調査は私の得意分野だ。君の調査対象でもある言峰綺礼という男についてならば私がよく知って居るし、解析の魔術もある。きっと役にたって見せよう」

「―――わかりました」

 

無言ながら彼の真剣な顔からはこちらに対しての信頼が伝わってくる。それを嬉しく思いながらライドウが納得したのを確認すると、私は部屋の中央に置いてある椅子に引っ掛けていた背広を羽織って着込んだ。服装は、鳴海と同じような、黒の三揃えの背広姿。流石にこの時代でいつもの赤外套とボディアーマーでは目立ちすぎると指摘を受けての対処だ。

 

そしていつも纏う赤い外套ではないが、これはこの時代で英霊エミヤが気持ち改めて正義の味方を目指すという私なりの覚悟の証でもある。

 

「お、じゃあ、俺とエミヤで調査って事でいいんだな? 」

「―――はい。鳴海さん、エミヤさん。よろしくお願いします」

「任せておけって! あの辺りは俺の庭だからな! 」

 

言うと鳴海は皿を端に退けて、すぐそばにあった英国製のキャメルの特注上着を羽織ると、「歯を磨いてくるから待ってろよ、エミヤ! 」と言って、部屋の外へと出ていった。

 

「張り切っているようだが、鳴海は探偵としての能力は高いのかね?」

 

肩で風切るように意気揚々としたその態度はとても誘拐事件を前にした探偵の見せるような態度とは思えず、多少不安を抱いた私は、気がつくとライドウへと尋ねていた。

 

「―――鳴海さんはああ見えて、元は陸軍の出らしいですから、おそらく……」

 

ライドウも中々歯に衣着せない発言をする。いや、彼の場合天然で悪気がないのはわかっているが、自分の所属している探偵社の所長を捕まえて問題点を言い切る実直さには思わず感心させられた。

 

『じゃが、今それは関係ないぞ、ライドウ。―――エミヤ。あやつはな。神隠し事件の起こった場所が遊郭という女遊びの場であるから張り切っているに過ぎん。一応、ライドウの事を気遣う気持ちもあるかもしれんがな』

 

ゴウトの溜息が部屋に響く。私は昨日までの鳴海という男が凛にちょっかいかけては迎撃されている光景を思い出して、なるほどとゴウトの言葉に納得した。

 

「やれやれ、面倒なことにならなければいいが」

 

ライドウは学帽の短鍔で顔を隠す。ゴウトはふいと顔を背けた。態度から鳴海が彼らからいかなる評価の感情と信頼を得ているか理解した私は、額に手を当てて首を振った。

 

―――どうやら、ことはそう簡単に運んでくれないらしい

 

ま、それは言峰綺礼という男が事件に絡んでいるとわかった時から決定していた事実であるわけだが。

 

 

「で、真っ昼間っから、男二人で遊郭/女遊びにお出かけ? いいご身分ねぇ」

 

調査の目的とその外出を知らせるため彼女の部屋に入ってその事を述べると、低血圧が齎す頭の靄はとうに吹き飛んでいたらしく、腕を組み、椅子に座る凛は嫌味ったらしく言ってきた。

 

顔の具合によっては耳障りが悪くも聞こえるその言葉を、しかし述べる凛の表情に浮かんでいるものが睨み顰めるといった咎める態度のそれでなく、半目で唇を吊り上げる揶揄う態度のそれであったので、私は安心して同じ口調で言葉を返すこととした。

 

「そうとも。帰ってくる頃には紅と白粉と香水の匂いに塗れているだろうから、―――そうだな。ライドウと一緒に銀座の百貨店にでも行って、樟脳とブラシでも用意しておいてくれ」

「ん―――?」

 

凛は一瞬唇を窄めて眉を顰め、目線を上にやると、すぐさま納得の表情を浮かべて頷いた。

 

「―――マスターに雑用を頼むとはいい度胸してるじゃない」

「英霊を茶坊主、小間使いと呼んだ君ほどではないさ」

 

互いにニヤリと笑い合う。阿吽の呼吸というものは、成功するとなんとも気分が良くなる。そうして私たち独特の親愛表現をすませると、凛は頬を緩めて笑みを浮かべると、鼻を鳴らして口を開いた。

 

「いいわ。それくらい用意しといてあげる。お望み通り、晴海町から銀座の方面で情報を仕入れるついでにね。調査の範囲が広いから護衛と手伝いにあの二人を借りてくわよ」

「感謝する」

「で! も! 条件があるわ! 」

 

凛は、一語一語を力強く区切ってみせると、指をこちらへと突きつけて、告げた。

 

「代わりに、あいつの企みをかんっぜんに暴いてやってちょうだい」

 

彼女は、憤慨といっていいほどの感情がこもった力強い言葉で、言い放つ。負けん気強い凛は、色々と因縁ある言峰綺礼という男にしてやられ、後手に回っている今の状況が相当気にくわない様子だった。

 

―――その気持ちはよくわかる

 

自分だって、あの腐れ外道の顔が愉悦に染まっているのを想像するだけで、反吐が出そうになる。奴の企みをつぶせるというのなら、私はどんな苦労でも厭わずやって見せよう。

 

「勿論だ。私としてもあの男が裏でコソコソ暗躍しているうちは、枕を高くして眠れないからな」

「よろしい」

 

奴に対して悪態つくと、凛は私の確かな同意の返事が気に入ったらしく、不遜に頷いた。それに対して私は苦笑に鼻を鳴らす。やがて私たちは、笑みを浮かべあったまま、自然と軽く拳を付き合わせ、互いの健闘を祈りあった。

 

「では行ってくる」

「ええ。気をつけてね、アーチャー」

「君もな」

 

そうして踵を返し、部屋の入り口へと向かう。最中、ふと心配が頭をよぎったので、少しばかり躊躇したが、体を再度反転させると、思いの丈をそのまま告げることとした。

 

「凛」

「なによ」

「いっても無駄かもしれんが、一応言っておこう。何かあったら、すぐにシンと響と共に逃げたまえ。ほかの誰かよりも君の安全の方が大切だからな」

「―――」

 

多少我儘かもしれないが、こうでも言わないと彼女はきっと無茶をする。それはかつて彼女のパートナーであった私が誰より知っていた。告げると凛は呆然とした顔を浮かべてこちらをまじまじとした。さて、変なことを言ったかと思ったが、思い返せば、愛の告白じみたセリフだったかもしれないと気恥ずかしくなって、踵を返して、ドアノブに手をかけた。

 

「アーチャー」

「―――何かね、凛」

 

しかしそうして恥ずかしいと言う感情のままに立ち去ることを彼女は許容してくれなかった。彼女が私の名を呼ぶ声は、尻上がりで、涙声に満ちていたからだ。

 

「……、おめでとう」

「―――ああ。ありがとう」

 

凛は白い肌を震わせて、翡翠色をした瞳から透明な涙を流している。暖かくて、そして尊い。昨日掃除をして埃を払ったばかりの部屋には、まだ微かに銀のかけらが残っていて、太陽の光を浴びてキラキラと部屋を赤く照らして輝いている。明けの光を浴びて、凛という女性は、まるでようやく独り立ちした子を見守るような慕情に満ちた瞳を私へと向けていた。

 

凛の瞳からはハラハラととめどなく涙がこぼれ落ち続けている。その一雫にどれだけの想いが込められているかは、つい先ほど我が身にこびりついた鉄錆を余さず落としたばかりの全身から嫌という程伝わってきた。伝わらないでか。彼女がそれほどの想いを向ける対象は私で、熱を生んだのは私に対する彼女の好意なのだ。これを気付かない方がどうかしている。涙には彼女自身の生涯が報われたことに対する喜びというものが、これっぽっちもなかった。彼女はただ、私という存在が、私自身を救えたことを知り、ただただ、心底喜んでいるのだ。その何と尊いことか!

 

彼女は己の夫の身体と自身、そして両者の余生を犠牲にしたにもかかわらず、ただただ、私の救済だけを喜んでいる。年を得て、子を持ち、そして母性を得た彼女は、そして若さを取り戻した凛は、真摯で、そして美しかった。四分の一入っているドイツの血がなせる技なのか、西洋絵画の完璧な美が、漂う埃によって光の中にぼやけ、周囲の日本の調度家具と空間との間にできた空間と調和している。まるでモネの描くカミーユが、ラトゥールの炎に照らし出されているようだ。

 

その涙が私のためだけに流された物だと思うと胸にくるものがある。思わず美術品のような彼女に手が伸びて、しかし、途中でその浅ましさに気がついた私は、どこかから警備員の如き注意が飛んでくる前に、慌てて向けた手を引っ込めた。恥ずかしさで全身が熱を帯びる。上気した頬の蜃気楼の先には、そんな醜態すらも、得難いものとして喜びに変換している凛の姿が写っている。情動を取り戻した私を、彼女は心底喜んでいた。それがまた胸を衝く。なるほど、想い焦がれるとはよく言ったものだ。この身から生まれた熱はたしかに私を包み込み、そして炎の中に身を投じたかのごとく、焦がしている。

 

熱はやがて肺腑の酸素すら燃やし尽くして、一呼吸する事すら難しくしていた。浅い呼吸が口から漏れる。やがて純粋なる歓喜の炎は精神を昂らせてゆく。熱に茹だった脳は、歓喜を情欲のような不純炎へと変化させていくのを感じた。涙を流す彼女を見て、そして心底喜びを得た私は、しかしそして全身が彼女を求めてしまう前に、逃げるようにしてドアを開けて外へと出る。ドアを閉めると、限界だったのだろう、向こうからは啜り泣きと、嗚咽の声が聞こえてきた。

 

成長し、変化した気丈な彼女はそれでも私に醜態を晒すまいと気を張っていたのだ。その変わらぬ態度すら愛おしくて、もう一度扉を開けてしまいそうになるのを必死でこらえて、他の人間の目がないことを確認して、一息吐いた。

 

熱が体の外へと逃げて行く。規則正しく吐く息は、扉の向こう側で不規則に聞こえてくる彼女のそれ交わることはない。当然だ。私は彼女の伴侶でなく、彼女の騎士なのだ。そして彼女が愛しているのは、今の私ではなく、過去の私なのだ。彼女が私に向けるのは好意であって、愛ではない。手を出すなんて不埒なこと、できるはずもないだろう。

 

その事実にじくりと胸が痛む。痛みは“英霊エミヤが取り戻した幼さ”の発露なのか、あるいは、この元の体となった“凛の夫の衛宮士郎”が発した怒りなのか。わからないが、やがて痛みに耐えていた私が、今まで活用し続けきた理性を総動員して痛みの発散とともに溢れる涙を抑え終えた頃、冷静さを取り戻した頭の中、理性が、扉の前で彼女の泣き止むのを待って部屋に入り、皮肉の一つでも言ったらどうかと告げてくる。自らの頬を叩いて意地の悪いことをほざく理性を感情でとっちめると、それでも扉の向こう側から音が聞こえるのを耳にして扉をあけたい衝動に駆られたが、今度はいつものように理性で感情を抑え込むと、私は静かにその場を立ち去った。

 

あのまま再び部屋に突入して、そして二人でいたら、やがて私は再び昂ぶった感情のまま涙を流し、ただ二人揃って子供のように泣き続ける羽目になると直感したからだ。そうして変な意味でなく、互いに溢れる情を露わにし合うのも悪くないと思ったが、悪くはないとは思ったのだが、その後、いい年した男女が朝から二人揃って気恥ずかしく目を逸らして顔を合わせられないなんて体たらく、ほかの人間に見られたら、それこそ取り戻した情動が認知し銘記する瑞々しいまでの恥ずかしいという感情で、私は憤死してしまう自信があったゆえの勇気ある撤退だったと思いたい。

 

 

千寿区の一角には周囲を水のお堀に囲まれた区画がある。掘りはお歯黒堀りと呼ばれるもので、その区画から遊女が脱走するのを防ぐためのものだ。私と鳴海はその区画唯一の出入り口である大黒門を潜ると、張見世をいくつか通り抜けて、江戸から続くという歴史ある遊郭『補陀落』へと向かった。

 

さて、遊郭の集まる場所、すなわち水商売の人間が集まる場所というと、いかにも小汚い格好をした人間が街を行き交い、路地や整備の行き届いていない汚い場所を想像するかもしれないが、ここは日の本の国。かつて来訪した白人たちが最も清潔な街として驚いたという経歴を持つ江戸の流れを組む帝都は、そんなかつての時代を思わせるかのごとく、整然さを保っていた。

 

呼吸をすれば、化粧の匂いが鼻をつく。反射して鼻腔がマヒしたかのような感覚を覚えた。周囲に漂う空気を払ってあたりを見渡せば、往来を行き交う人々は上から下まできちんとした身なりで、汚れた服装のものも見当たらない。ショーウインドウのマネキンよろしく、張見世で女性が佇む姿さえなければ、遊郭街は普通の街と何一つ変わらない場所だった。

 

「そういやさ」

「ん? 」

「エミヤは遊郭の経験あるのか?」

「……」

 

そうして周囲の様子を観察していると、やがて往来の女性に手を振っていた鳴海はとんでもないことを聞いてきた。思わず絶句して鳴海の顔を見る。鳴海の顔には悪気というものが一切存在せず、これが彼にとっては、日常会話の延長線上である事をありありと告げていた。

 

どうやら鳴海の辞書に載っているデリカシーと言葉は私のそれと違うらしい。なんとも聞きにくいような事をズバリと聞いてくる男だ。

 

―――遊郭は、わたしのいきていた時代の頃にはとっくに無くなっていた、そこにいる女性との擬似恋愛を楽しむ場所だ。故に、この時代に来るまでそもそも接点がなかった。一応、今日昨日で行こうと思えば行けないこともなかったが、惚れた女の元に数度も訪ねる粋を見せなければ体を重ねる事ができない場所に足しげに通う時間的余裕もなければ、通いたいと思う程、私は色狂いではない。

 

「……、いや」

「ほーん、じゃあ初心者ってわけだ」

「―――そうだな」

「―――、っとついだぜ」

 

彼にとっては日常会話の一つだったのだろうか、やがて目的の建物を見つけた鳴海は、一つの遊郭を指差した。張見世を通り抜けて辿り着いた店の入り口には、『補陀落』の屋号が記された四角提灯が天井から吊り下げられていた。鳴海はそのまま迷いなく入り口前の暖簾を潜ると、辺りを見回して、一人の着物を着た年配の女性に声をかける。

 

「ごめんください。補陀落の遣手の方とお見受けいたしましたが」

「はい。―――失礼ですが、どちら様でしょうか? 」

「私、鳴海探偵事務所の所長、鳴海昌平と申します。琴水さんにお会いする事は出来ますか?」

 

琴水。その名が出た途端、年配の女性の媚びを売るような目線は一気に鋭くなった。伸ばした背筋は一層張り詰めたものとなり、体の前で組んでいる手に力が入ったのがわかる。態度からはこちらを探る疑念の様子がありありと見て取れた。

 

「琴水ならば、先ほど警察の事情聴取を終えたばかりでして……、探偵さんと仰られましたが、それは警察の方からのご依頼を受けてのことでしょうか? 」

「いえ。ですが、遊女の神隠しについてお尋ねしたいことがございまして参上致しました」

「……、でしたら―――」

 

言葉を聞いて一旦拒否の姿勢を見せた年配の遣手の女性に、鳴海は素早く自身の名刺を差し出す。手慣れた様子だ。こうして拒否されるのも予想済みだった、ということか。私は鳴海の探偵としての手並みを拝見し、彼の探偵としての評価を上方修正する。

 

「おっと、ですが、公的な機関からの依頼での調査です。ぜひご協力願いたい」

「はぁ―――」

 

遣手はそしてその名刺の中央を眺めたのち、端に視線をやった。遠慮のない、そして疑り深い懸念の視線で眺めていた彼女は、やがて左下の隅を見た途端、素早く背を正して、深々と頭を下げた。あまりの急変さに少しばかり驚く。

 

「―――これは失礼しました。ヤタガラスの関係者の方でしたか」

「やはりご存知でしたか」

「どうぞこちらに」

 

遣手は体の前で組んでいた手を解くと、一転して歓迎の姿勢を見せ、鳴海と私を招き入れる所作をする。鳴海は帽子をダービーハットを胸に当てたまま軽く頭を下げると、簡単に感謝の意を示した。

 

「―――どうした、エミヤ」

 

店内の暖簾の前で遣手の女性の急激な変貌に戸惑っていると、鳴海が声をかけてくる。

 

「いや―――、頑なな彼女が急激に態度を変えたので、何をしたのかと思ってね」

「ああ、ほら、これ」

 

鳴海はそう言って先ほど女性へと差し出した名刺を私の前に突き出した。それを受け取り表面を見ると、中央にはでかでかと「鳴海探偵事務所 所長 鳴海昌平」と刻まれ、住所や電話番号、そして見覚えのある紋様が刻まれていた。

 

「ほれここ」

 

そして鳴海は、その、見覚えのある紋様を指差す。真円の陰陽のマークの中、開いた目と閉じた目が刻まれた独特の紋様は、何を隠そう、ヤタガラスの紋様である。

 

「本来なら管警の人間や軍関係者しか知らないんだけど、年配の人や、一部悪魔の事件と関わった事のある人間は、これがヤタガラスの紋様だということを知っている。ついでに言うと、前者は帝都守護の任務に関係あるやつくらいの認識程度しかないけど、後者は悪魔という存在について知っているから、この紋様を見ればたちまち協力的になってくれる。―――なにせ事件が、警察官なんていう真っ当な手段じゃ解決できないことを、身に染みて知っているからな」

 

「身に染みて知っている」。鳴海が最後に付け加えたその言葉には、なんとも自責と実感の念がこもっていた。私は鳴海に同情した。その声色の含まれている自らの無力さを嘆く想いは、私が生前、自らの力及ばず助けられなかった人々を前にして、嫌という程味わったことのあるものだったからだ。

 

おそらく、彼も、ライドウという若く才のある悪魔召喚師の側にいながら、自らに霊能が無い事で同じような想いを抱くに至ったのだろう。

 

「―――なるほど」

「さ、納得したら、さっさと店に入ろうぜ。琴水ちゃんを待たせるのも、遣り手の彼女を待たせるのも悪い。早く事件の手がかりを掴んで、ライドウに知らせてやろう」

 

そして鳴海は私の声に反応すると顔をしかめ、しまったという表情を浮かべた。しかしすぐに顔の上にわざとらしいくらいにやけた笑顔を貼り付けると、ダービーハットを持ったままドタドタと土間へ進み、器用に履物を脱いだ。気を遣わせまいとしたのだろう。見かけや評判の軽薄さによらず、気の配れる男だ。

 

「了解だ」

 

鳴海は靴を脱いで木の靴箱の中に入れる。感心した私は、彼に習い、同じように気にしないふりをして、黒塗りの靴を脱ぐと彼の隣の箱に収納した。

 

 

「琴水はあの事件で母親を失ってからというもの頭角を表し、あれよあれよという間に当時の一番花魁の時雨を抜いて、この店で一番の売れっ子花魁になりました」

 

先導してくれる遣手について、西洋装飾のなされた取手の階段を上る。鳴海曰く、この補陀落という歴史の古い遊郭は江戸時代の風情を感じさせため、当時の趣を残した造りをしているとのことらしく、見渡して見れば、たしかに壁や天井は西洋の頑丈な構造になっているが、床は年季の入った木材で整えられており、壁を見れば、部屋の扉は障子で出来ている。

 

「ええ、お噂はかねがね聞いております。なんでも、売れっ子スタァすぎて、彼女の身の回りの世話をする新造が何人いても足りないとか」

「はい。ですから、彼女には今、五人の新造が付いています。今日は事情を聞きたいとの要請を受けて警察署に行く予定でしたから全ての客を断りましたので店にいますが、本来なら今日も―――」

「流石は深川の大夫、松浪の娘さん、というわけですか。人気者ですなぁ」

「よくご存知で」

 

話についていけないので周りを観察していると、通りすがりに着飾った遊女たちがひらひらと手を振ってくる。白粉塗りたくっているので細かくは分からないが、見た目まだ二十にも達していない、若そうな女性が遊郭にいるという身の上が気になった。憐れむのは筋違いだろうが、かといって、そうとも割り切れないのが、我ながらなんとも甘く女々しい。

 

「琴水は以前の事件の記憶を失っております。ですから―――」

「ええ。よく存じております。ですから、必要以上に無用な詮索は行わないつもりです」

 

鳴海の言葉を聞いた遣手の女は肩の力を抜いて溜息をつくと、やがてある部屋の立ち止まると、ピタリと足を止めて、振り向いた。

 

「こちらが琴水の部屋です。―――琴水さん、いますか?」

「―――どうぞ」

 

入室許可を得ると、遣手は障子を開けて中へと足を踏み入れる。途端、風に乗って鼻腔に畳と白粉の匂いが広がった。するりと脳髄に入り込んできたい草の匂いが記憶を刺激。電気信号が伝達物質を伝わって側頭部の島皮質を刺激。微かに線香の香りも混じっている。仏壇と多少不純物が混じっているとはいえ、かつて武家屋敷に住んでいた私は懐かしさを覚えて、少しばかり雰囲気に浸った。

 

―――っと、いかん

 

一呼吸で気を取り直し、改めて部屋を見回すと、部屋は八畳と六畳の通し部屋だった。部屋の隅には、鏡の乗っかった小道具箱や真新しい洋燈が置かれており、床の間には花が活けてあり、壁の掛け軸の中では枯れ木にモズが踊っていた。モズの真剣な眼光は獲物を狙っている。もちろん贋作ではあるが、宮本武蔵とはまた、遊女のイメージに合わない。

 

「―――私なりの決意の証です。私はこの場で責任を果たすと決めたのです」

 

さて、この部屋の主人であり、高い教養を持つはずの一番花魁でもある琴水という女性が、なんの意図もなくそんな絵を飾るわけもないし、どんな考えのもとこの絵を置いたのだろうか、などと考えていると、凛と通った声が疑問を解消してくれた。声は大きいわけではないが、よく空間に響く、重い意志のこもったものだった。

 

「琴水さん、こちらは―――」

 

遣手が声の主人の名を呼ぶ。すると、部屋の奥、窓際の天空回廊の際から細身の女性の名が現れた。振り向いた彼女は結った髪と髪飾りこそ華美であるものの、少女と女性の中間位のまだ少女としての幼さが残ったような儚げな体躯をしていた。

 

「お一方は存じあげております。―――ご無沙汰しております、鳴海さん」

 

窓際にいた彼女はゆっくりと両手のひら全体を床について、深々と頭を下げた。その動作は洗練されており、結ってある髪に刺された櫛と簪はまるで揺れない。行儀がよく、礼儀作法を知っており、品もある。なるほど、一番である理由が一目で理解できる態度に、思わず感心して、ほぅ、と言葉を漏らした。

 

「やぁ、琴水ちゃん! 久しぶり! ずいぶん出世したね! 」

 

琴水の言葉に気を良くした様子の鳴海が大げさな身振りで声をかけると、面をあげた事で彼女の全身像が露わになった。彼女が面をゆっくりとあげるとその品のいい顔には、細い体とまだ幼さ残る面に見合わない、芯の通った、しかしどこか壊れてしまいそうな、矛盾した美しさがあった。

 

「ええ。おかげさまで」

 

そういって彼女は儚げに微笑み、そしておそらく無意識にだろう、しなを作った。そうして女性らしいラインを強調する彼女からは、花魁、といった華やかさや、粋、といった強い言葉からはかけ離れた、嫋やかな雰囲気が生まれた。その場にいるだけで周囲の空間の色合いを鮮やかする仕草と、色気ある空気。なるほど、恋を求めてやってくる好色な男たちが夢中になるわけだ、と勝手ながら判断する。

 

「こいつの名前はエミヤ。俺の探偵事務所のお手伝いだ。―――で、さ。早速で悪いんだけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ。話、聞かせてもらってもいいかな? 」

 

 




この物語において。最初以外の場面でエミヤという男が取り戻した情動に基づいて感情を揺り動かされるのは、記憶を持ち、若い姿を持った、エミヤの記憶の中の凜と姿が一致した場合だけと決めていました。お陰でここまで引っ張ることになりましたが、エミヤの気持ちがかけてとても気分がいいです。

ご一読ありがとうございました。
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