Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
第六話 激突する人外、見守るは群獣と花々
facta quidem igitur vivendi gratia, existens autem gratia bene vivendi./生きる為に生まれたが、本質的には善く生きる為に存在する。
アリストテレス『政治学』、ギレルムスのラテン語訳より抜粋
*
東京市中条区銀座。異なる世界で、帝都と呼ばれる場所の首都であるという場所に、電車、という乗り物に揺られ、私はやってきていた。銀座はエトリアと比べると、建物の造りなどがしっかりとしている代わり、空気のひどく汚れた場所だった。私の場合、嗅覚と味覚は生物由来の特殊培養の生体素子をフォトニック結晶と連結させており人間と同等レベルの感覚であるがゆえに不都合はない。
だが、人間よりも密に状況を把握するため頭部に備え付けられた赤外線と擬似視界センサーより送られてくる空気中に多く含まれている煤と窒素化合物と硫黄酸化物のデータは、エトリアの通常の空気と比べると異常な量が含有されていると警告を送ってきている。また、人間に聞こえない音域までとらえることが出来る様になった聴覚は、往来を走る自動車の駆動や排気を一々捉えて煩い。
先日の戦闘や、先まで脳内で行なっていた戦闘のシミュレーションでは、手のひらや頬などの一部にしか高感度の触覚が存在しない事をひどく残念に思ったが、この時ばかりだけは全身の肌に高感度センサーが備え付けられていない事に感謝した。もし肌のすべてが高感度センサーで、脳のユニットと直結していたのならば、今頃過敏な全身は空気中に含まれている多くの有害物質に反応して、謎の攻撃を受けているという警告が頭に鳴り響いていただろう。
空気中には、そういった有害物質のほかに放っておくとアンドロの私の白い顔面が真っ黒くなりそうな埃や汚れもあり、これもまた面倒の一因だ。少しの間放置する程度ならば支障はないが、数日ほども放っておくと、関節などに溜まり、やがて稼働の障害となってしまう量が空気中を漂っている。戦闘に支障をきたさないようにする為には、今まで以上に清掃を行う必要があることを理解して、私はひどく億劫に感じた。
これらの要素に対応するため、一旦は、センサーの感度を下げて、警告の基準値を上げ、事象確率予測の比較試行回数と予測エラーの基準値を大幅に下げた設定にして、対処することにした。値を下げるごとにアラートは少なくなり、余計な忠告を出すために割くメモリ領域が減り、頭の中が明朗になってゆく。これでしばらくは問題あるまい。
「さて」
改めて周囲に観察の視線を送る。瞳から赤色の警告色が消えてまともに見える様になった視界の先には、街は活気にあふれ、エミヤや鳴海、執政院の職員たちの様なきちんとした身嗜みの整った人間も多く映っていた。また、彼らと同じくらいの比率で、ブシドーなどが羽織る着物をきっちりと着こなす人も見受けられた。
だが、外見はそうしたきちんとした格好をしたものが多いのに反比例して、身のこなしがしゃんとしている人間が少ない。エトリアでは誰もが無意識のうちに戦闘に適した姿勢を保って生活していたが、この大正の日本という世界では、戦いを意識して体を鍛え、そして姿勢を保っている人間は少ないようだった。私的にこの事実は意外な事であった。なぜなら私は、ここはエミヤの故郷に非常に似通った世界だと聞いていたからだ。
あれほどの御仁が住んでいた世界と似通った場所というからには、強者が大勢いて、そうでない人間もエトリアに住まう人間よりも強いのだろうなと思っていたのだ。しかし、実際のところ、そこいらをうろつく人間のほとんどは、背筋がガタガタで真っ直ぐ背中に芯の入っていないものばかりだ。猫背が悪いとは言わないが、背筋というものがないかのように、一歩ごとにグラグラ、グラグラと上半身も下半身も揺らす人間ばかりというのは見ていて不安になる。
「―――いい姿勢だ」
だからそんな中、時たまにだが、背筋の通った人間が通ると安心する。彼らは銃と剣を身につけ、揃った帽子をかぶり、茶色か白の洋服を着用して胸を張って歩いている。銃と剣を使うというと、噂に聞いたパイレーツという職業だろうか。それにしては堅苦しい感じがあるし、衛兵の様な職業の御仁なのかもしれない。顔も締まりがあって、とても見ていて安心する。
『さて、では、始めようか。ライドウ。どうするつもりだ?』
私がそうして周辺の人間を観察していると、やがてライドウという少年の足元で戦闘に移行できる警戒体勢でゴウトという猫が喋った。自らの足元にいるゴウトを見て頷いた、ライドウという見事に隙の無い綺麗な姿勢を保つ少年は、短鍔の帽子の位置が体の正中線上まっすぐになるよう整えなおすと、我々を見回して首肯した。
「―――調査の範囲は銀座から晴海埠頭まで。二手に分かれましょう。自分は―――」
「あ、ごめん。私、アーチャーから頼まれごとがあるの。悪いけど、私は銀座の方に回してくれないかしら? 」
ライドウの言葉を凜がひらひらと手を遊ばせながら遮った。
「―――了解です。では、自分は晴海町の埠頭から銀座に向かって聞き込みを行います」
「では私たちは―――」
「あ、あんた達は私についてきてちょうだい。荷物持ちと護衛はほしいし、近代日本の常識を知らないあんたらを放って置くわけにもいかないしね」
そして響の言葉をも遮った凜は、我々にさっさと指示を下す。
「……わかりました」
「承知した」
響は勝手に決められたことに不満を持ったようでむくれた面をしたが、確かに一理あると思ったのか、凜の言葉に同意の言葉を送った。私は正直別にどちらでもよかったので素直に従う言葉を発した。彼女の言う通り、私らがこの世界の常識を知らないのは事実なのだから、怒ることもあるまいに、とは思うのだが、そのあたり私の感性は人と違うのだろうから、黙っておいた。たぶん、人としては、響の反応の方が普通なのだろう。
『百貨店に行くのか? 』
などと響の反応から私が勝手に彼女の感情を推し量っていると、ゴウトが凛に尋ねた。皆の視線が一気にライドウから地面のゴウトへとむけられる。それを確認したライドウは豪人を肩に乗せた。視線が再び真正面のライドウ顔面あたりへと戻る。
「ええ。ちょっと日用品が足りなくてね。あの強欲ジジイの店だと、取り扱ってるのが舶来品だから物はいいんだけど、まったく値引きをしてくれないからあそこで買うと高くつくのよね。だから、銀座で国産品を買った方が安上がりらしいのよ。百貨店だとその辺の店で買うよりクオリティもしっかりしてるらしいし」
『なるほどな。まぁ、金王屋の爺さんに関しては、あの爺さんだから仕方あるまい。一応、積極的に取引を行っておれば幾分か値引きをしてくれたりはするのだがな。だからライドウが購入した鏡だけは市価よりも安かっただろう?』
「いやまぁ、そうかもしれないけれどそうなるまでにいくら使えばいいって話よね……。しっかし、その鏡、古いのはわかるんだけど、古いから姿もまともに映らないじゃない。姿見出来ない鏡を何に使う気?」
凛は頭に手を当ててかぶりを振り、響の胸元よりに紐に括り付けられてぶら下がっている、古ぼけた鏡を見た。顔は浮かない様相だ。やはり金王屋の主人から宝石を受け取った際、二割引で物を売ってもらったライドウと異なり一切値引きして貰えなかった事を根に持っているのだろう、ゴウトに呈した疑問の言葉は刺々しい。
『陰陽道における占卜術の中に、響聴卜という呪術がある。元は中国の民間呪術、すなわち雑卜法に属する占卜術であり、本来ならば、竃神に祈りを捧げた後、魔除けの鏡を持って月夜の晩に道行く人物の話を聞く事で尋ね人の無事などを占う方法なのだ。つまり、人探しのための術であるわけだな。もちろん響という少女は専門家でないが故に占卜術を行うことなどできないだろうが、今朝方、竃を訪ねて顔を見せて挨拶を済ませた “響”という名を持つ少女が、魔除けの鏡を懐中に持って聞き込みを行えば、あるいは言峰綺礼という人物の情報が手に入りやすくなるかもしれないかもと思ったが故の、まぁ、験担ぎだな』
「あら、れっきとした魔術理論に基づく行動だったのね。それは失礼したわ」
『良い。魔術、陰陽術は秘するものだからな。他体系の術理など知らなくて当然よ』
私には会話の意味をあまりよく理解できなかったが、どうやら彼らの中では当たり前の常識に基づく会話だったらしく、ゴウトの説明を聞いた凛は、一転して不機嫌な態度を改めると、優雅に微笑んでライドウの肩にいるゴウトに謝罪した。ゴウトはその謝罪を簡単に受け取ると、納得の様子を見せ、凛の謝罪に鷹揚に頷く。なるほど、彼が肩にゴウトを移動させたのはこのためか。これなら周りからはライドウと会話している様にしか見えないだろう。
「あ、あの、これ、ずっと胸元に入れてなきゃいけないんですか?」
『ああ、いや、肌身離さず胸に掲げて持っている必要はない。あくまで験担ぎ程度だからな』
「じゃあ、カバンにしまっちゃいますね……、って、あ、どうしよう……、結構大きい……」
一方、ライドウから鏡を受け取った響は、それをバッグに収めようとしたが、既に様々な道具が詰め込まれた鞄には鏡を入れるスペースがなかったらしく、そんなことを呟いた。
「なら私の腹にバッグから溢れた道具を収納しておこう。まだ余裕があるからな」
「じゃあ……、この特殊弾をお願いします。結構嵩張るので……」
「承知した」
故に私は、数種類の特殊な弾丸を収納した箱を受け取ると、アンドロの空っぽの腹の中へと収める。多少嵩張るので、リフレクターフレームの位置を多少ずらす必要があるのが厄介だ。
『ああ、ついでに近くのミルクホール『新世界』で店主に話を聞いてくるといい。あそこは悪魔召喚師が集い、様々な情報交換を行ったり、あるいは依頼を出す場所だ。我々からの使いだといえば多少顔を立てた反応をしてくれる。ライドウ』
「―――はい」
私が道具をしまい終えたタイミングで、ゴウトの指示に従い、ライドウは懐から名刺を一枚取り出した。見ればエトリア語―――日本語か―――で、“鳴海探偵社助手、葛葉ライドウ”と銘記されている。確か、名刺という身分証明書だったか。紙の左下には、不可思議な文様が刻まれているが、さてなんの意味があるのだろう。
『これを店主に見せれば、あやつの口も少しは軽くなるはずだ』
「―――ヤタガラス協力者としての身分証の様なものです。ヤタガラスの紋様が刻まれたこれを見せれば、響の帯剣や銃の所持、シンの特殊な身なりと弾丸、火薬の保有、凛さんの高価な宝石の所持に関して官警に何か言われた場合も協力的になってくれるはずです」
『官警に見せる場合は、なるべく年寄りの方に見せるといい。最近の若い公僕の奴らには意味を解せぬ者もおるからな』
「あら、ありがとう」
凛がライドウの手から名刺を受け取ると、ライドウは帽子の短鐔を整えた。そして身なりをただした彼は、先ほどまでよりいっそう清廉かつ真っ直ぐな眼差しを浮かべて佇んでいた。なるほど、帽子の位置を正すのは彼なりの意識の切り替え方法なのだろう。
『では、調査開始と行こう。行くぞライドウ。凛も気をつけてな』
「ええ。そちらも気をつけてちょうだい。―――言峰綺礼は一筋縄じゃいかない相手だから」
*
銀座、の北側、ビルとビルの隙間。二階から三階建ての食堂や酒屋が入ったビルヂングの立ち並ぶ路地の最奥に、その建物はあった。
「銀座ミルクホール……、っと、ここね」
三階建ての建物、南向きになっていて多少暗がりの建物の壁には、縦長の装飾華美な色付きガラスがはめ込まれている。色とりどりのそれは、脳内の知識から引っ張り出したデータによると、ステンドグラスというものであるらしかった。
「『界世新』……」
さらに近寄ると、三つの文字が正面左上の壁面に書かれているのがわかる。三文字の左端を通る二本の細い配管をたどって視線を下に持ってゆくと、正面には先ほどと同じようなステンドグラスの装飾が施された嵌め殺しの窓が左右等間隔に並んでいるのがわかる。その間には、同じくステンドグラスがはめ込まれた扉があり、扉の上、光を取り入れる部分の装飾もまた、ステンドグラスだった。
「いや、右から左に読んで『新世界』、か。前から思っていたのだが、なぜこちらの世界では、文字の配列の左右が逆さまなのだ?」
「さぁ? 昔の風習だから詳しくはよく知らないわ。噂程度でいいなら、昔は巻物に文字を記載していた名残って言うわね。右利きの人が筆で巻物に記載するなら、右から左に書いた方が便利でしょ?」
「なるほど」
凛は私が納得したのを見ると、扉をあけて中へと足を踏み入れた。
「―――ほう」
一歩踏み入れた途端、感度を落としたアンドロの肌の上からでも感じ取れる、肌を突き刺す様な気配を感じて、思わず声を漏らした。ピリピリと身を削っていくような探る視線。銀座ミルクホールは、まるでエトリアのギルドハウスの一階の様な気配が漂っていた。
店の中は基本的には薄暗く調光されているが、店の奥、カウンターのある場所は目が眩みそうになるほどの照明で照らされていた。そのせいなのかは知らないが、店の奥、カウンターの向こう側にいる店主はサングラスをかけている。店の中には外で見た様な洋装の人間が多かった。だが、彼らが漂わせる雰囲気は、外にいた背筋の通っていない連中とはまるで別物だった。彼らは揃ってしゃんとしている。
いや、それどころか、ライドウが纏っていたような独特の太い存在感のある気配―――おそらく悪魔召喚師独特の気配なのだろう―――を放つ者の中には、死線をくぐり抜けてきた人間のみが放てる、自信と警戒心と殺気が程よくブレンドされた、観察と威圧を兼ねた気配を飛ばしてくるものまでいた。
「な、なんか視線が集中して……」
「へぇ、平和ボケした奴らばかりかと思いきや、やっぱり裏はどこも同じような気配なのね」
基本的にギルドハウスをねぐらにしていた響は、このような圧を他人から飛ばされることになれていないためだろう、少しばかり竦んでいる。一方、そんな響とは異なり、凛は堂々と胸を張って浴びせられる視線と圧を無視し、あるいは跳ね除けると、優雅に店の奥へと足を踏み入れ、店の奥の木製のテーブルの向こう側、光り輝く酒棚の前でグラスを磨いている髪の薄く切ってそろえた店主の下まで進んだ。私は響の背を軽くたたくと、視線と圧を飛ばしてくると輩に同じ程度のそれらを挨拶代わりに返してやり、共に店の奥へと進む。
「貴方がマスターね」
「入口での気配に怖気づかないでここまで平然と入って来られるあたりタダでものでないな。さて、そんな強者のお人たちのご注文は何かな?」
「要件はこれよ」
「ん?」
一足先にカウンターの前に進んでいた凛が店主の言葉に応えるようにして名刺を差し出す。すると、荒々しい雰囲気の店主は傲慢な態度のまま、しかしこちらを探るような気配だけを一気に消失させると、姿勢を崩さないままニヤリと渋く笑って見せた。サングラスの奥にある瞳が歓迎の態度を含んでいる鋭いものへと変化する。途端、周囲からの重苦しい圧力が消え去った。響が深い溜息を吐く。私は少しばかり残念な気持ちを抱いた。なるほど、このような良い気配の人間が集う店の店主である彼もまた、やはり只者ではないというわけだ。
「只者じゃあないとは思ったが、なるほどやはりそっちの関係者か。鳴海探偵社の名刺を持っているってことは、ヤタガラスの新人さんかい? 」
「協力者よ。で、貴方がここの店主で良いのよね?」
「ああ。代理ではあるが、一応、今のところはな」
「聞きたいことがあるんだけれど、尋ねれば素直に答えてもらえるのかしら? 」
「ヤタガラス関連の人間の頼みなら、断ることもできねぇさ。知ってる範囲で答えてやる」
凛は返答に満足したのか、椅子に腰掛けると、バーのカウンターに両手を置くと、奥でグラスを磨いている店主を覗き込んだ。翡翠色の瞳が真っ直ぐとマスターへと向けられる。店主はあからさまに唇を吊り上げると、凜を見て笑いかえした。おそらくどんな質問が飛んでくるのかと楽しみなのだろう。
「言峰綺礼という男を知らない? 神父で、背の高い、いかにも表の人間、って面をしていて、むっつりしている、しかめっ面の男。魔力……、独特のマグネタイトを体から発散していて、多分カソックを纏っているわ」
「いや―――。初めて聞く名前だな。特徴も思いあたらねぇ。お前さんの情夫かい? 」
店主がグラスを磨く手を止め、軽く小指を立たせた。瞬間、凛の体から凄まじい怒気が噴出した。センサーは凜の体温が上昇するのを感知する。周囲にいた人間が思わず戦闘態勢になり、仰け反ってその場から背を引くほどの迫力だった。大型の番人ですらひるませるかもしれないその迫力に、無くなったはずの心臓が高鳴る気分を覚えた。久方ぶりに感じる緊張感に、思わず背筋がざわつく。不謹慎ながらも、今の彼女と共に共闘できたらどれだけ楽しいか、という考えが浮かんだ。
私の不埒な気持ちなど知りもしないだろう凛は非常に苛立った様子で椅子の背もたれに大業に背を預けて仰け反って見せると、そのまま天井向けて大きく先程の店主の言葉を笑うかのように鼻息を荒げて発散させると、勢いよく頭を動かして視線を店主の方へと送り、睨め付けながら言う。
「は、冗談! あいつとそんな関係になるくらいなら、私はあいつをぶっ殺すか、出来なきゃ、舌噛んですぐさまこの世からおさらばするわ! ―――つまらないこと言わないでくれる? 捻り潰すわよ?」
「おお、怖い」
店主は凛の強い殺気と言葉に悪びれることも無く肩をすくめ、グラスを磨く作業に戻る。凛は、自らの威圧が周囲を怖がらせるだけで、態度を改めさせたい当の本人に対して暖簾に腕押し状態であまり意味をなさないものであったことを悟ったのだろう、すぐさま発散せていた気配を鎮静させると、再び口を開く。
「―――まぁいいわ。じゃあ次の質問。深川の神隠しについて何か知っている事はない? 」
「被害にあった人間の名前と遊郭に入った背景だけは判明している。補陀落の一番花魁、『琴水』お付きの新造で、まだ客取りもしてない親に売られた遊女見習い。こいつらの親は、元は山陰の集落のお偉いさん方だったが、たたら事業がダメになったからって残る財産集めて帝都に来て紡績を始めたんだとよ。しかし、始めたはいいが、倉橋黄藩の事業乗っ取りにやられて財を安く買いたたかれ、泣く泣く娘を手放したんだと。娘達もそんな親の事情を知っているから、こちらも泣く泣くながらも、文句ひとつ言わずに進んで遊郭に入ったって話だ」
「そう。その子たちは、親の都合で、身売りされたってことね」
「まぁな。だが、今のご時世、よくある話だ。裏ならなおさらよく転がっている話。あんたほどの人間なら、それくらい承知の上だろう?」
「―――そうね」
―――ん?
凛は冷静な態度で店主の意見に同意をした。一見すると完璧な淑女の態度だったが、しかし、私は一見冷静な凛の体温が上昇したのを感知した。そこは彼女がつい先ほど怒ってみせた際に変化したのと同じ部位で、しかし先程よりも高く温度が上昇していた。間違いない。彼女は今、怒っているのだ。
穏やかな挙措の中になんとも処理しがたい怒りの感情が潜んでいるのを見つけて、私は首を傾げた。確かに親が自らの失敗のツケを払うため娘を売り払うという所業は、非常に信じ難く、気が滅入る内容であったが、激しい怒りの感情を覚えるような類のものではない。さて、一体何が彼女の琴線に触れてしまったというのだろうか。
こういう時サガならばわかったのだろうが、あいにく私には判別がつかない。ふと答えを求めて隣の響を見ると、彼女も同じように一部部位の体温を上昇させ、そして凛とは異なった様子で、肩を震わせていた。彼女も同じような怒りを抱いたというのだろうか?
聞いてみようか、と思った矢先、店主が言葉を続けたので、私は一旦考えを打ち切り、話に集中することとした。
「だがまぁ、そうして身売りされた女どもは全員、年の頃は十五、六。年の頃から言って、完全にお情けで遊郭に迎え入れられた女どもだな。遊郭といえば、十六、七が盛り、十九でトウがたち、二十を超えると年増だ。その年頃に客前に出しても問題ない一人前にする為にゃあ、十になる前、幼い頃からの仕込みが必要となる。いいところのお嬢さんとはいっても、所詮は田舎の村娘であるし、つまりは、普通ならとっくに手遅れの存在で、そんな奴らは身体を安く売った挙句、左か右の河川敷、場末に堕ちるのが精々だ。しかしそんな幼い頃からの教養の仕込みもすんでいない女三人を琴水という一番花魁が拾い上げた。理由はわからん。わかっているのは、そいつらの源氏名が雲州、寿宝、曙光で、それぞれ山陰の絲原、櫻井、田部のお嬢さん方だったっていう事くらいだな。これでご満足かい?」
「ええ、十分よ。感謝するわ。……じゃあ最後の質問。最近、不穏な動きしている人間や集団に心当たりは? 」
マスターは凛の質問に腕を組んで考え込むと、しばらくしたのち、首を振って口を開いた。
「―――さてね。人間、生きてりゃ一つや二つ、隠し事なんてあるもんだからな。いまは復興に発展と、どこも張り切っているから、人の出入りが激しくて誰がどんな不穏なことを企んでいるかなんて、さっぱり分からんよ。―――だが、少なくとも最近、表も裏も静かなもんだぜ。野犬は減ってるし、諍いを起こす馬鹿も減った。そうした軍やヤタガラス、お偉いさん方からの暴徒暴獣鎮圧の金になる依頼が少なくて、ダークサマナーどもは干上がりそうだと管を巻いているよ。そこらにいる奴らのようにな」
*
「凛。君はなぜ先程彼との話し合いにおいて怒りの感情を抱いたのだ?」
響が花を摘みに店の奥に行った際、私は待ち時間を有効に使うため、思い切って先ほど抱いた疑問を彼女にぶつけることにした。
「―――、貴方、ここでそれを聞く? ちょっとデリカシーがないんじゃない?」
凛は突然ぶつけられた質問にバルハラソーダ水という飲み物の入ったグラスの氷を揺らして驚きを表現したが、すぐさま呆れた顔を浮かべなおすと、私を睨め付けてくる。そうして三白眼じみた瞳で覗き込んでくる彼女はなかなかの迫力を持っていた。どうやら私の質問はよほど彼女の琴線を揺さぶるものだったらしい。
「気に障ったのならばすまない。だが、どうしても不思議だったのだ。君はどちらかというと、自らの判断と直感と才能を信じ、他者のことをあまり気にしない、というか、出来ない、私に近い気質の人間だと思っていたのでな。私は彼女らが親に売られた境遇であると聞いた時、彼女らに対して憐れみのような感情を抱いた。だが君が抱いたのは、怒りだった。それも、発露させない、裡に隠すような静かな怒りだ。そのあたりの差異はどこから生まれたのかと思ってな」
「……、妙なところ鋭いくせに、デリカシーがなくて、変に鈍感のね、貴方」
凜はグラスに口をつけると、ソーダ水を一気に飲み干した。空になったグラスの氷が、身を隠すものを失って、透明な体を高鳴らせた。なんとなく彼女はそこで話を打ち切りたいのだと思った。だが、私としては強い彼女がなぜそのような感情を抱いたのかをどうしても知りたかった。
「いや、私は鋭くない。今、私が君のその感情の機敏に気づけたのは、この機械の体のおかげだ。本来の私は普通の人の感情の機敏に疎いのだ。だから君の怒りの根源が何であるか理解できないし、かつても、なまじなんでも出来る才能があったせいで、私より弱い、私より才能がない人の気持ちがよく理解できなかった。そのあたり、よくサガや響に怒られたものだ。―――話を戻そう。だが今、私と同じように、才能のある出来る人間である君は、しかし私と違った反応を見せた。だから気になったのだ。だが、答えたくない、あまりに不快な質問だったというなら、忘れてもらって構わない。私も蒸し返す事はしないと誓おう」
真正面から思いをぶつけると、凛はやはり呆れた表情を浮かべたまま、私に訝しげな視線を送って来た。私の言葉の真贋を見極めようとする瞳は、やがて私の意思に嘘がない事を見抜いてくれたようで、彼女は長く重いため息を吐いて、再び私の方を真っ直ぐと見つめてきた。
「―――、まぁいいわ。その馬鹿正直さに免じてちょっとだけ教えてあげる」
いうと凜は、宙を見て目を細めると、昔の記憶を引っ張り出して整理しているのだろう、少しばかり沈黙したのち、躊躇しながらも口を開いた。
「―――……、昔、私が幼い頃、妹がね。さっきの話題の彼女達と同じように、私の親の手によって別の家に養子へと出されたのよ。養子となる本人は望まなかったけれど、同じ穴の狢同士の昔からの約束ってことで、断れなかった。ううん、むしろ、私の親はそれこそが我が子の為にもなると喜んで差し出したわ。ま、その結果、その子、養子に行った家で酷い目にあっちゃってね。その後、妹との間に色々とトラブルがあったから、それを思い出しちゃって、あんまりいい気分じゃなかったのよ」
凛は目尻を緩やかに下げ、しみじみとした口調で告げる。なるほど、彼女は先ほどの娘たちの境遇を自らの妹と重ね合わせて、過去の出来事を想起し、不快になったという事か。私はこれまでダリやサガと付き合ってきた経験から、彼女の言葉に嘘はなく、それは凛の後悔や自責の念からくるものなのだろうとも推測出来たが、しかしそうして告げる彼女の様子には体温の変化が少なかったため、おそらくそれだけではないだろうなと推測した。
「……、だが凛。それは確かに君の不快の感情を引き起こす話ではあったのかもしれないが、君に先程怒りの感情を呼び起こさせたというものとは少し違う気がする」
告げると凜は柳眉をひそめると、不快を隠そうとしない視線を私へとむけて、グラスを店主の方へ押し出すと、挙措で片付けるように指示を出した。そののち、丸い回転いすを動かして私の方へと体をまっすぐ向けなおすと、溜息をつく。
「―――貴方、本当に、デリカシーがないのね」
「すまない」
多分、私の言葉は、彼女にとって真実だったのだろう。私は彼女の後ろめたい部分を見抜き、暴いてしまったのだ。素直に謝罪すると、凛は苦笑いをした。
「……まぁいいわ。―――でもそうね。確かに、考えてみればその通りかもしれないわ。……確かにあの時、私は怒った。むかっ腹がたったわ。多分、娘を売った親に対してじゃなくって、親に売られたっていうのに、泣く泣くながらも素直に従ったって言うその子達の死んだように生きている態度に、きっと私はムカついた。―――多分、私だったら、嫌だったら嫌って言って、親に抗って外の世界に飛び出しただろうから。……、これで満足? 」
そうしてようやく欺瞞や虚勢を取っ払った本心らしきものを凛が語った時、言葉とともに吐き出された重苦しい溜息とは裏腹に、彼女の体温が先程より少ない位に上昇したのを見て、私は、なるほど、それこそが彼女を苛立たせた真の要因なのだと直感した。そして同時に、それがきっと彼女にとって隠したかった気持ちなのだとも理解した。
「ああ。なるほど、それは確かに私も理解できる。なるほど、彼女らは自らの意思で自らにとって善い人生を歩んでいないと感じたから、君は怒ったと言うわけだな」
「ああ、そう。―――そうかもね」
凛は天井を仰ぎ見た。それ以上を話す気は無い、という意思表示だと私は思った。
「ありがとう、凛」
「どういたしまして。―――しかし、貴方、自分の鈍感さを自覚していて素直なのはいいけれど、流石にそこまで行くとちょっと病気の域に突入しているわよ」
「そうかもしれない。だが、これが最も他人との衝突と誤解を防ぐに適した、私なりの対処方法なのだ。鬱陶しいかもしれないが勘弁してほしい」
「……、ま、アーチャーや昔の士郎みたいに一人で裡に溜め込んで、いつのまにか馬鹿やらかすよりかはマシか―――、あ、響が戻ってくるわよ。つまらない話はここまでにして、外出て聞き込みを始めましょう? 」
凜はカウンターの上に札を一枚置くと、そのまま入口へと向かう。店主はそれを受け取ると、静かに凜の背中を見送った。
「承知した」
私は店主に一礼し、響を迎えると、すぐに凜の後を追った。
*
「すまないが、少々、聞きたいことがあるのだがいいだろうか」
「うぉ……っと、随分とモダンな格好のお兄さんだね。何かな?」
「カソックを着用した背の高い男を見かけなかっただろうか? 」
「―――、いや、わからねえな。すまねぇな、兄さん。俺じゃ力になれそうにねぇ」
「そうか。手間を取らせてすまなかった」
「いや、いいってことよ。じゃあな」
*
「あの……、すみません……」
「ん? あっと、お嬢ちゃん。学校はどうしたのかな? 」
「え、えっと、ちょっとお休みしていまして……、その、私、人を探しているのですが、黒髪で背の高い、顰めっ面の神父の男の人を見まけせんでしたか? 」
「ん、んん? なんだい、君、そっちの関係の人かい? ああ、よくみれば、君も異人さんか。―――すまないね。ちょっとわからないな」
「そうですか……」
「まぁ、深くは事情を聞かないけれど、ちゃんと学校には行った方がいいよ」
「はぁ、その、ありがとうございます」
「じゃあね」
*
「ちょっといいかしら? 」
「ん? おや、これは綺麗なお嬢さん。如何したかな? 」
「まぁ、お上手ですこと。いえね。聡明かつ博識な面持ちの貴方にちょっと、お尋ねしてみたいことがあるのですけれど、少々お時間頂いてもよろしいかしら?」
「これはこれは。私めごときが貴方のような美しいお嬢さんのお力になれるのであれば、喜んでご協力いたしましょう」
「ありがとうございます。実はですね……」
*
「うーん、なんか、あんまり収穫ありませんね……」
ミルクホールを出てしばらく聞き込みを行った我々が白煉瓦通りの端で一休みしていると、響が残念そうな口調で述べた。顔には少しばかり疲労の色が見える。高々数時間ほど聞き込み作業を行なった程度で疲れるようなやわな体の作りをしていないことは、彼女を鍛え上げた私が一番よく知っている。となれば、彼女の疲労の源は、精神的負荷がもたらしたものなのだろう。
帝都というなれない場所で、見知らぬ人間相手に聞き込みを行うというのは、やはり普通は疲れるものなのだろうと推測する。私としては単に声をかけて質問するだけなのだから楽な部類の作業に入ると思うのだが、通常、それは気を遣うし、疲れる作業なのだろう。
「みんな、私やシンが話しかけると用事があるといってそそくさとどこかいっちゃうし、話を聞いてくれた人も、言峰の特徴を言って尋ねるとすぐにわからないといって立ち去っちゃうし……」
「まぁ、ねぇ」
響の疲労の色濃く反映する言葉に、凛が苦笑いをする。凛は、聞き込みのために動き回っていたことで多少の肉体的疲労が溜まったらしく、体温が平熱よりも仄かに上昇していたが、いつもと変わらないその平然とした顔と態度から、彼女は響のように精神的負荷をあまり感じていないのだろう事が見受けられた。
―――ふむ
思い返してみれば、彼女は一目、一聞きでその場を立ち去られてしまう響とは異なり、他人に声かけを行う頻度こそ少ないものの、彼女に話しかけられた多くの人は、彼女を受け入れ長い間その聞き込みに付き合い、親身に話を聞いてくれていた。つまり彼女は。
「響。どうやら凛は、我々が粗雑に扱われる事情に心当たりがあるようだ」
「え、そ、そうなんですか? 」
「おそらくな。―――よろしければご教授願えないだろうか」
「そうねぇ。うーんまず、私から見れば大したことじゃないんだけど……」
いうと凛は響の顔と、私の顔や響の髪、そして我々の道具や恰好を指差すと、苦笑いしたまま、言葉を続けた。
「あなたたち、格好こそそこらの学生のそれだけど、男の方は背中やら腹やらマントまでが不自然に膨らんでいるし、女の方も大きな肩がけ鞄を所有していて、さらには二人とも刀の入った袋らしきものを所持している。そこに日本人離れした背格好と、その茶色がかった髪に、白粉塗りたくったみたいに真っ白な面が合わさって、まるきりまともな外見していないんだもの。そりゃ警戒もされるってもんでしょ」
いうと響は自らの茶色みがかった髪をなでて、自身の格好を顧みて、そして凜や周囲の人間を見回した。確かに多少重装備だが、そこまでおかしな格好をしてはいないと思う。おそらく響も私と同じ考えに至り、その部位が一番周りの人と違うと判断したのだろう、自身の髪を触りながら、凜に困惑の視線を向けた。
「え、っと……、ああ、まぁ、確かにこの帝都という国は、黒髪の人が多いですけど」
「見た目で敬遠されているという事だろうか? 」
「そうね。それも一因だわ。日本、特にこの銀座という場所は、好奇心旺盛な人も多いけど、金持ちが集まる土地柄ということもあって、警戒心バリバリなの人も多いしね。ただそれ以上に、聞き方が悪いってのが、最大の原因だと思うわ」
「聞き方? 」
「ええ。貴方達、挨拶するなり、その後の第一声で本題に切り込むじゃない? 」
響が尋ね返すと、凜は教師がやるように宙に向けた人差し指をくるりとまわすと、諭すような口調で言う。
「情報を求めているのだから、それは当然だろう? 結論を先に述べて心当たりがあるかをさっさと聞いてしまった方が時間の浪費も少ない。互いのためになるはずだ」
「そうね。それはその通りよ」
凜は響の方から私の方へと視線を向けなおすと、同意の言葉を述べた。
「でもそれはこっちの事情と理屈だわ。―――いい? 相手は見知らぬ、そのうえ見た目も外国人かカタギの人間じゃなさそうな私たちに話しかけられて警戒心マックスなわけよ。言ってみれば相手からしたら非日常の出来事がいきなり舞い込んできたみたいなものなの。向こうとしてはさっさとそんな相手とは別れて、いつもの日常に戻ってしまいたいわけ。頭が見知らぬ人物を前にして警戒体勢に入っている中、日常の出来事を思い出してくれって頼んだところで、そんなの知ったこっちゃない、ってなるのは当然だと思わない? そんなわけだから、まず最初に必要なのは、頑なになった心をほぐす事。まずは日常の会話で切り込んで、これは日常の延長線上に過ぎないんだって思わせて、警戒を解いてもらう事。そうしてからじゃないと、欲しい情報なんて聞き出せないわよ」
「はぁ」
「なるほど」
「え、シン、今ので理解できたんですか? 」
「ああ」
響は心底驚いた様子で私の方を見つめてきた。彼女が私に対してどういったイメージを抱いているのかわかる態度だったが、いちいち指摘するのも面倒なので、簡単に首肯すると、凜の説明を自分なりの理解に変換した内容を彼女へと話すため、口を開く。
「要するに、彼らの感覚としては、迷宮の中で見知らぬ敵に奇襲をかけられたようなものなのだろう。相手の情報がないから警戒する。そんなところに行きなり不意打ち気味に知らない言葉/攻撃をぶつけられるから混乱する。言ってみれば彼らのそれは、見知らぬ敵相手に先制攻撃や奇襲をくらった私たちが一旦撤退して様子を見ようとするようなものなのだ」
「ああ、なるほど」
迷宮での出来事に例えて説明すると、響は即座に理解してくれた。
「随分と冒険者らしい解釈と納得の仕方ねぇ」
凛は繊手で緩やかに自らの頬を撫で上げると、婉然と微笑んだ。傾げられた首の挙動に引きずられて、黒髪が微かに揺れる。彼女のそうした態度は美しく、なるほど、この柔らかな笑みを浮かべる彼女に優しく話しかけられたのなら、警戒心がほぐれるのも納得できる気がした。
「ま、納得いってくれたようならそれでいいわ。じゃあ、次からは気をつけて……!」
「え……」
「―――」
そして凜が苦言を終えようとした瞬間、異変は起こった。私の体のセンサーが、世界が別の位相に変化したことを認知した瞬間、即座に刀袋を解いて、刀身を抜き放つ。戦闘の気配を意識すると同時に、全身を日常モードから戦闘モードに切り替えるよう移行の指示を飛ばす。以前は身を削るような害意と殺意を感じれば勝手に体が戦闘体勢へと切り替わったものだが、機械の体というものは反射的な行動が出来ず、全てをきちんと意識して行う必要がある。このあたりどうにも不便だが、文句を言っていても仕方あるまい。
「これは……」
「異界化!? 」
内心で愚痴を吐いている間にも、周囲の光景は一変していた。往来が人であふれていた銀座という場所は、今や迷宮と変わらない、非日常の空間へと成り果てていた。つい先日、ヤタガラスの使者によって送り込まれ、目撃したばかりの、緑光が地面のあちこちに溢れる不思議な光景。迷宮の三層に似た光景に、該当層の魔物のデータと戦闘経験を引っ張り出した瞬間、その時は訪れた。
「この気配……くるぞ! 」
忠告を発した瞬間、銀座に多く存在する路地から黒い影が飛び出してきた。この世の全ての悪を凝縮したかの様な烈火の色をした体が、目を爛々と輝かせながら四足で俊敏に地面を蹴り上げ、近寄ってくる。体は大きく、四足走行する獣の体は大きく、二メートルは優に越している。影の正体は大型の狼だった。見覚えがある。確かガルム……。
「あの程度の強さの相手なら私たちでも……、って、ちょ、ちょっと待ちなさい! 」
「嘘……、どれだけいるの……!? 」
一瞬余裕の表情を見せた凜と響は、その後、裏路地などから表通りへと飛び出してくるガルムの数を見て、一気に愕然とした表情へと顔面を変化させた。こちらへ襲い掛かってくるガルムは一匹や二匹どころではなかったのだ。全周囲から俊敏に押し寄せる黒い影は百を超える数存在し、私たちの体に牙や爪を突き立てようと接近してくる。一匹ならばどうとでもない筈の敵のその数は、群れればその分だけ脅威度は等比級数的に上昇する。
一閃は……、使用不能。当然か。あれはブシドーのフォーススキルだ。他のどのアンドロのスキルも、この数を相手にするには、少々頼れそうなものはない。ならば
―――今は一時撤退が良策か
そうと決めればあとは逃げ場だけだ。周囲に探知信号/ピンガーを飛ばして周囲の地形を音響にて把握。地形データの測量と解析を終えた脳内コンピューターが私の脳裏に地形と敵の場所データを更新した次の瞬間、たったひとつだけの逃げ場を見つけて、叫んだ。
「跳んで逃げるぞ! 」
「―――援護するわ! 」
「ちょ! 」
私は迷わず二人を抱きかかえると、響と凛はそれぞれに反応を返してくる。即時に意識を切り替えて頼りになる返事を返してくれたのは凛で、頼りない返事を返したのは響だった。私は二人の返事を聞くや否や、剣を持った右手で響を、もともと空であった左手で凛を拘束すると、両足のジャンプユニットを解放し、空めがけて跳躍。
「『ロケットジャンプ』!」
「きゃあ! 」
「軽量、重圧/Es ist gros, Es ist klein……!」
左右の足から体内で合成された特殊推進剤が燃焼して、炎と蒸気が排出され、二人を片手ずつに抱え込んだ私の体を上空へと押し上げた。重力に逆らって大気を切り裂き、自らの体をまっすぐ上に押しやる空気の圧力は、コンピューターが弾き出した事前予想数値より数段重量が軽く、それどころか、以前パワーと言う天使を叩き切った時とは異なり一人でないにもかかわらず、その時感じた感触よりも軽かった。私は予想外の距離まで自らが飛びあがっていることに気がつき、驚いた。
「か、体が急に軽く……! 」
「―――凛か! 」
「ご明察!……よし! 屋上には周囲に敵影はないようね! 」
凛は視界を下に向けて眼下を軽く見渡すと、にぃ、と凶暴な笑みを浮かべて、叫んだ。
「逃げ場が限定されていたのは罠じゃなかったみたいね! すぐに元通りの荷重に戻して、ビルの屋上に向けて落下させるわ! 着地は任せた!」
なるほど。前回の戦いでは飛翔する敵が相手であったが故に後手に回っていたが、どうやらこうして地上を這い駆けずり回る敵との戦いに、彼女は慣れている様だった。なんとも頼り甲斐のあるパートナーの出現に、私は思わず心が躍る。『新世界』での予想通り、やはり彼女との共闘は素晴らしいものだった。戦いが優位に進められる予感に心底喜ぶなどなんとも私らしくないが、悪くない気分だった。いや、攻略し難い敵との戦いに対して、頼りになる味方が出現し、それを喜んだのだからある意味で私らしいといえるのかもしれない。
「任されよう! 」
「戒律引用、重葬は地に還る/Vox Gott Es Atlas……! 」
「こ、今度は急に重く……! 」
くだらないことを考えている間にも、状況は進んでいる。私が了承の返事を返したのち、凛が再びなにやら呪文を発した途端、一転して全身に負荷がかかった。発生した重力異常を感知し、視界モニターにエラー警告を発し続けているコンピューターの忠告してきた。それらをまるきり無視して、現重量、現在の重力加速度における着地負荷の計算を瞬時に脳内のコンピューターに行わせると、足から発している噴射炎を屋上の地面に向け、体勢を調整する。
だが、着地の寸前、腕の中の女性二人の胸部になるべく負荷がかからない様心がけるも、重力加速度の変化という事象があまりに突発かつ予測外過ぎる出来事だったため、脳内のコンピューターは、私の体にかかる衝撃を逃す試みは上手くいかず、腕の中にいる彼らに少しばかり強めの衝撃が伝わる予測をはじき出した。
「すまん! 多少響くぞ!」
「―――! ……助かったわ」
「ぐぇ……! 」
叫ぶと、着地に合わせて二人を強く抱きとめる。足より逃がしきれなかった衝撃が胴体から腕を伝わり二人の体に伝播した。強めの衝撃が体を叩くという不規則の事態にもかかわらず、凜は私の着地とその際の衝撃に合わせて一瞬息を吐くと、すぐさま失った空気を吸い込んで、冷静にいってのけた。どうやらそうした多少の予期せぬ衝撃があることは覚悟済みだったらしい。まことになんとも頼もしい女性だ。一方、未だに混乱状態にあった響は胸部の圧迫に肺の中の空気を意図せず吐き出させられる羽目になったらしく、カエルの潰れた様な声を上げた。うむ、こちらはなんとも、無様である。
「流石だな、凛」
「ありがとう」
凛は当然の事を当然やったまでだ、と言わんばかりの態度で私の礼を受け取った。なるほど、この足りない部分を補う感覚。ダリやエミヤの頼もしさを思い出す。やはり私の眼に狂いはなかったのだ。
「響、大丈夫か? 」
自画自賛もほどほどに、まずは優雅に身嗜みを整えた凛を見習い、私もロケットジャンプからの着地にて硬直している両足に再起動の命令を送ると、咽せている響に声をかけた。
「げほっ、あ、あの……、シン? なんか私の扱い、雑じゃありません? 」
すると彼女は恨みがましい視線を私の方へ向けてくるとともに、口をとがらせて文句をつぶやいた。
「そんな事は―――、来るぞ……!」
そのような扱いをしたつもりは毛頭なかったので否定をすると、直後、ビルの下で動く敵の気配を感じ、周囲に向けてピンガーを飛ばした。すると返ってきた特殊な音波は、奴らが器用に壁の窓部分の出っ張りに足を引っ掛けると、そのまま一足飛びで屋上に向かってきているのがわかる。屋上めがけて跳躍する獣どもの数は、軽く数十を超えていた。一瞬、ガルムとやら程度ならばそんな数でも相手にできない事もない、と思ったが、さすがにこの屋上という狭苦しい場所で多くを相手取るのはいささか不利な状況を招きかねないと判断して、剣を収める。ガルムの数が多すぎるのだ。
「体勢を立て直す! 一旦引くぞ! 捕まれ! 」
「了解! 」
「あ、は、はい! 」
「『ロケットジャンプ』!」
数の多さと地形の不利を認識した私は、再度即時撤退の判断を下し、二人を抱きかかえると、敵の屋上到達が完了する前に、道路を挟んで向こう側のビルの屋上へと再びロケットジャンプを行い、壁を登攀し終えたガルムたちと入れ替わる様に屋上より脱出する。
「テキガニゲルゾ! ―――ムコウガワノビルニダ! アシバヲネラエ! 」
地面を覆い尽くしていたガルムらが私らに向ける視線が屋上より飛び出した私たちと交差し姿を認識した瞬間、おそらくその事を認識した誰かが発した何処から聞こえてきた声に対し、瞬時に反応したガルムは、自らの体の前に炎の球を生み出して、射出した。
「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」―――
「きゃあ! って、え、どこを狙って……」
「あ、ちょ、まず……!」
「いかん! 着地点を狙われたか! 」
どうやら奴らの中にも知恵の回るものがいる様で、放物線を描いて跳躍していた私が着地点と見定めていたビルの屋上が崩落した。炎による倒壊は不規則な噴煙と熱を生み、それらに邪魔されて熱感知センサーはまともに働いてくれない。数秒後の簡単な未来を予測できるはずの脳内コンピューターは、観測の結果から正確な数値を得られないため未来の予測が出来なくなり、エラーを吐き出すばかりの役立たずへと変貌していた。
「熱と瓦礫が邪魔で上手く着地できない! 凛! 」
「なんとかして見せるわ! 要は熱と煙がないところになら着地できるのね!?」
「そうだが……、―――! そうか! 承知した! 」
片腕につかまった凜は吠える。私は一瞬考え込んだが、すぐさま彼女が何を言わんとしているのか理解して、叫んだ。
「いくわよ! 重圧最大/Es ist max gros……! ―――!」
「ぅぉえっ!」
そして凛の詠唱が開始し、そして終了する直前、足の噴射を停止した。そして凜の呪文詠唱が終了すると同時に、すさまじい重力加速度が体へと加わり、私たちは真下へと落下する。おそらくこの事態を予測できていなかったのだろう響は、再びカエルのつぶれたような声をあげた。
「戒律引用、重葬は地に還る/vox Gott Es Atlas……! シン!」
「―――了解だ! 」
だが残念ながら私と凜の動きに翻弄される響の事を気にかけている余裕はない。凜の詠唱が終わり、体にかかる加速度が通常の重力加速度に戻った瞬間、同時にピンガーを放ち、周囲を計測。そうして返ってきたデータの中、真下にちょうどいいクッションがあるのを見つけて、私は微かにほくそ笑んだ。
―――ガルムの体を併用して、可能な限り衝撃を殺す……!
現在の初速度と重力加速度、体重から、真下の肉クッションに着地した際にかかる負荷を再計算する。脳内のコンピューターは揺らぎというものがほとんど存在しない正確な計測データをさっさと処理し終えると、すぐさま答えを返してきてくれた。
「悪いがやはり衝撃を完全には逃がせん! 備えろ! 」
「―――っ! 」
「―――いぎっ! 」
忠告からほとんど時間をおかずに私の足がガルムの胴体と接触した。接触の瞬間、足のバーニアを全力稼働させる。私たちの体重とバーニアの噴射をまともに受けたガルムの胴体は真っ二つに裂け、あっという間にマグネタイトとなって散ってゆく。直後、地面と足が接触。直前に最大の威力で足のバーニアを噴射した事で多少は勢いを殺す事に成功したが、それでも殺しきれなかった衝撃により、私の体は予測より少し深いくらい地面にめり込み、同時に、天然の土砂による煙幕があたりにばら撒かれ、一時の間、私たちの姿を隠す目くらましとなる。
「っ、手荒ね……!」
「げほっ、げほっ……、げほっ」
土砂壁を生み出す際に生じた衝撃は、膝のマニピュレーターとモーターの屈伸運動だけでは処理しきることが出来ず、両腕に抱えた彼女らへ処理しきれなかった荷重が伝搬した。凜はその衝撃に歯をくいしばって耐え、響は思いきり歯をかち合わせて、かつんと大きな音を立てた。
事前に覚悟を済ませていた凛は多少歯を噛みしめる程度ですぐさま立ち直ったが、予想外に振り回されてばかりの響はそうもいかなかったようで、着地の衝撃により大きく口を開けてしまい、砂塵を吸い込んでしまったようだった。響は、大きく咳をし、むせていた。
「すまん。だが、これでも精一杯だった」
「わかってるわよ……、で、どうするの? 」
凛の問いかけに、まずは状況を冷静に考える。さて、かつての私なら、一閃と己の能力を信じて突っ込んでいただろうが、今となってはそんな無茶もできない。以前ならばそれでもパッと考えが浮かんだものだが、肉体が機械になったからだろう、今の私は肉体的な直感というものがまるで働かない。
急くとロクな結果にならぬと理解しながらも、迫る状況に脳裏は焦って答えを生み出そうとする。それを無理やり意志と理性で抑え付けて思考にノイズが混ざらないようにするも、焦る頭は上手く答えを出してくれない。それでも焦る頭を落ち着かせ、理性を用いて冷静に答えを求めていると、そんな本能と理性の対立という事態は、不意に向こうの世界においてきたある男のことを私に思い出させた。
―――ああ、ダリはいつもこの様にして戦っていたのから、私に苛々していたのか
体を失ってさまざまな不便を覚えるようになってからと言うもの、あらゆるものが足りないこの体は何もかもが新鮮だ。なるほど、人間、恵まれている時は、その幸福に気付かないものなのだと、人ごとのように思う。失ってから気づき、共感を覚えるあたり、私も賢者ではなく愚者であったということか。
そう考えると、不意に仮にダリというやつが同じような窮地に立たされたとしたならば、奴はどうするだろうかと思い至った。そうだな、きっとダリならば―――
「周囲は全部が敵だ。逃げることはまず不可能だろう。なら、まずは速攻で―――頭を潰す。おそらく先程指示を出したのが頭領だろう。烏合の衆は頭をつぶせば瓦解するという風にそばは決まっているものだ」
「その意見には賛成」
私が自身の知識と経験から結論を導き出すと、凜は、しっかりとうなずいた。
「でもどうやって?」
「それは―――」
「『アギ』ヲツチケムリノナカニホオリコメ! ヤツラハマダソコニイル! 」
「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」
「―――!」
作戦を練る間も無く、炎の球が土煙を引き裂いた。彼女らを抱えてその攻撃を避けると、噴煙の中にいくつもの直線の軌跡が生まれ、避けた炎が我々の背後にあったコンクリートの壁を破壊し、道を作り出してくれた。ああ、これはちょうどいい。
「逃げながら考える! 」
「異議なし! 」
「あ、きゃ、きゃあ! 」
凜は私の腕から飛び出すと、いましがたできた道の中へと飛び込んだ。私はそのまま響を俵のように肩に抱え込むと、凜と同じように今奴らが作ってくれたばかりの道へと身を投じる。
「ニガスナ! オエ! 」
「「「「「オォォォォォォ!」」」」」
背後ではいくつもの雄叫びが重なって聞こえてくる。音圧を背後に私たちは一旦、銀座のビル内部を破壊しながらの撤退を開始した。
*
「で、どうするつもり? 」
「あ、あの、おろして……」
響の小さな訴えに応えて彼女を降ろすと、再び疾走を開始する。凛と響に先行して前へと進むと、前方にある壁を左腕の長い高周波ブレードを解放して上下左右に振って斬り刻む。続けて細かい裂傷ができて脆くなった壁面を右腕のクラッシャーアームを解放して吹き飛ばすと、もうそこは敵のいない、隣の道路だ。私は凜と響が出たのを見計らって、罅を入れておいた天井に高周波ブレードの一撃を叩き込む。すると、振動を加えられた天井が瓦解して、私たちの来た道が塞がれる。これで少しは時間が稼げるだろう。
「それがあれば逃げなくても良かったんじゃない? 」
私の所業を見た凛が呆れたように後ろから話しかけてくる。おそらく単純な破壊力のみを見ての判断なのだろう。フォールディングアームと併用することで最長四メートルの間合いを誇る二メートルの長さの高周波ブレードに、人間の頭くらいの鉄塊くらいなら簡単に粉砕することが出来るクラッシャーアーム。どちらも過去の進んだ技術力によって創り上げられた、優秀な武装だ。どちらも、私の足と体重を用いれば砕ける程度の耐久力しか持たぬガルムという悪魔なら、一撃で葬り去ることが可能であるのはたしかなのだが―――
「いや、静止している物が相手だから簡単にやっているように見えるかもしれないが、動き回る相手めがけてきちんとこの二つの武装をあてるには、相当集中を要するだろう。ガルムという悪魔が一体や二体であるならまだしも、あれのほどの数がいては、とてもじゃないが対処は不可能だ。まだ我が愛刀だけで戦った方が、勝算がある。……、まだ、な」
残念ながら、それをうまく用いるだけの技量が、今の私にはない。それは元々、私の魂の中に、このアンドロでの戦い方が記録されていない故の弊害だ。すなわち、今の私には、クラッシャーアームや高周波ブレードを即座に上手く使える才能がない。
もちろんこの体の製作者であるオランピアが多少調整を施してくれているため、ある程度までなら不自由なく使用、戦闘に使えるが、それはあくまでオランピアが彼女の経験に基づいて、私の戦い方に合うようにと最適化してくれた結果であるがゆえに、私の体と魂、戦い方に完全に適合するものではない。つまりは、今の私はその二つの武装のスキルレベルが低く、素人同然に近い状態であるわけだ。
「そう」
凛は短く無理やり納得したかのような返事をする。その態度に過去の自分の姿を見つけて、なるほど、と理解した。これが、才能があるからこそ、才能のない相手の事を理解できないという奴なのだ。他者視点で見ると、確かにぱっとわかるものだな、と、場違いながら過去の自分が他人からどう見えていたのかを知って、感心する。
『オォォォォォォ! 』
感心した瞬間、獣の叫喚が響いた。ガルムはすぐそこまで迫っている。悠長に選択肢を考えている暇はない。こんな時、以前の自分の体でない事が悔やまれる。あの身体であれば、剣一つで突撃して、次々と湧き出る奴らを全て殲滅すると言い切ることもできたし、そうできる自信も湧いてきたのだろうが、アンドロという身体の初心者である今の私にそれをするのは、まず不可能と理性と脳裏と理性が判断を下している。
―――どうする?
「―――ならどうするの? 」
「そうだな……」
迷いは一瞬。立ち止まって振り返り、二人を見ると、彼女たちは私同様に立ち止まって、私の意見を待ってこちらを見つめていた。二人の瞳には、私の指示を参考にする、あるいは、完全に従うという、強い意志が秘められていいた。
「よし、では―――」
二人の覚悟に背を押される形で全身にオイルが巡りきるよりも早く決断をすませると、私はいましがた思いついた作戦を口にした。
*
壁を背にして背水の陣を敷く。ここが全ての分水嶺。いっとき相手側に傾いている勝負の流れを此方側へと引き戻す最後のチャンス。目の前に続々と集結しつつある。柄にもなく体に緊張が走り、回路を流れる電気信号にノイズが走って、目の前の光景が微かに揺らいだ。
見渡す限りの、敵、敵、敵。視線はどれも純粋な遊びのない殺意に満ちており、一切の遠慮がない。過剰に発達した上顎と下顎の牙同士がぶつかり合い、カチカチと火打ち石を鳴らすような音が響いている。獣どもが身じろぎをするたび、鉄の突起を持つ首輪から伸びた鎖がチャラチャラと音を立てて耳障りな輪唱となっていた。
―――ああ、いい緊張感だ
この張り詰めた糸のような緊張感。全身にぶつけられる殺気で胸の内に秘められている魂の塊であるフォトニック純結晶が震え、体が微振動する。機械の体の中に秘されていた銅線となった神経が肌の表面に浮き出てきたかのような感覚。そうして敏感になったと錯覚するほどに、神経が昂り、削られていくような感覚が心地よい。
失ったはずの触感が蘇っていくような感覚を覚えた。以前あれほど焦がれて望んだ物がここにある。そのような場合でないことは重々承知だが、今私は、死線の上にいる。それが嬉しくて、嬉しくて、たまらない。体が如何なるものに変わろうが、自分の生きるべき場所は、日常の中ではなく、戦場の中にこそあるのだということを再認識する。
「ホカノオンナドモヲドコヘヤッタ……」
地の底にまで響くような声は周囲に群がる下級の悪魔ガルムを従えている敵の長なのだろう、周囲に群がる雑魚とは数段以上格の違う悪魔が冬の寒空の下のようなくすんだ水色をした狼が発したものだ。その姿はライドウが使っていたケルベロスという悪魔に近いが、目の前の獣の纏う強者の雰囲気は彼の使役するその悪魔よりも上だ。
「さてな。聞きたければ、力づくにて聞きだすといい。命乞いの瞬間にならばあるいは口も軽くなるかもしれんぞ」
「―――」
誰かの口調を真似して挑発のセリフを言ってみると、敵はニヤリと獰猛な精気に溢れる笑みを浮かべた。獣の纏う闘気が増す。奴は私のセリフから、私が真に望んでいるものを悟り、そしておそらく同調したからこそ、私の望み通り真正面から物量で押し潰してやろうという気になったのだ。どうやらこの獣は私と似た性格で、戦いを好む性格らしい。
「ナラバオノゾミドオリニシテヤロウ! 」
光線的な獣の雄叫びにより、周囲の獣が発散する闘気が純粋な殺意へと変貌する。先ほどまで微かながらに混じっていた見縊りや侮りの気配は完全に消え去っていた。獣たちは純粋にこの場で生存する権利をかけての戦い、すなわち、野生の戦いに身を投じる覚悟を決めたのだ。
「感謝するぞ、獣の長! 」
「カツテ“カミドモ”ハ、オレノチカラヲオソレテトマショウメンカラブツカロウトシナカッタ! ダガオマエハ、オレヲマエニシテ、コノカズヲマエニシテ、ソレデモマッコウショウブヲノゾンデイル! ドンナイトガアロウトオレハオマエノソノカクゴニ“ケイイ”ヲハラウ! ワガナワハ“フェンリル”!」
奴が発した言葉の内容と名乗りは、私の体をさらに興奮させる効用を持っていた。奴もまた私と同じく、自身の全霊を尽くしての戦いと、自身の力を試す場を求めていた、私の同類なのだ。私は手にしていた剣を構え直すと、全身に施していたアンドロの武装の封印を完全に解きながら、叫ぶ。
「私の名は“シン”! “シン”、だ、“フェンリル”! 」
フェンリルは私の返答に嗤う。眉尻を落とし、その大口を吊り上げた様子は、破顔といってもいい、喜色を含んだ笑みだった。その気持ちはよくわかる。なにせ私も目の前の彼と全く同じ気持ちを抱いているのだから。
「カカレ! “シン”ヲコロセ、ガルムドモ! エンリョナンテスルナヨ! 」
「すぐさま首を頂きに眼前まで参上しよう! 待っているがいい、“フェンリル”! 」
*
一刀を振るう。確固たる意志を以ってして敵を切り裂く。ガルムを真っ二つに切り裂いた刃は稼働の始点から終点までの動きをきちんと意識してやらねば、柔らかい関節部分に余計な負荷がかかってしまう。機会となった体は、以前よりも負荷に強く、そして放置しておけば生身の肉体であった時よりも短い時間で自然回復する分、スキルでの即回復が不可能となっている。交換という手段で即時に直すこともできるが、あいにくそんなものを今現時点持ち合わせていない。つまり現状、破損、イコール、そのままその部位は使用不能になる、というわけだ。
だから無理はできない。以前よりも耐久力と思考が肉体に行動を及ぼす反映までの時間が短くなった代わりに、肉体の動きを細かく微分化し、細かく力の動きを観測し、得られたデータから逐一動きを修正してポイント毎において計算してやらねば、以前のような流麗な動きで一刀を振るうことも満足にできない。それがこの体だ。
もちろんオートでそう言った処理をやることも可能だ。オランピアの組んだプログラムはとても優秀で、生身の肉体であったころの私と寸分違いない剣の軌跡を再現する事が可能だ。だが、今の私はそのデータを用いても、昔の自分のように力を発揮することができない。悲しいかな、どれだけ微分しても誤差が生まれてしまう、デジタル的な機械の限界であった。
一人にて、多く獣を相手にして打倒しないとならない場合に求められるのは、敵の行動に合わせ消耗を抑えるコンピューター的な受身の俯瞰的戦略のそれではなく、機先を制し続け相手の思う通りに動いてやらない動物的な反射と直感に頼る本能的な戦法を可能とする戦術だ。少なくとも私はそう思っている。
以前、人間の肉体であった時なら、肉体の反射と無意識の補正により多数の敵の攻撃に対処できていた。しかし今、機械の体では同じことを行うことが出来ない。機械の体は体内に飛ばす命令こそ瞬時に伝わるものの、細かく細分化した時間関数の一つ一つまでを計算し、どういった動きをするのか細かく意識をして指示を飛ばし、都度生まれる誤差に対応しなければいけない。細分化したデジタルの信号を利用するこの体では、本能的なアナログの動きを完全に再現する事が不可能なのだ。
その誤差が敵の攻撃位置を見誤らせ、自分の体に傷と余計な衝撃を発生させ、ダメージが蓄積されていく。オランピアが組み立ててくれたアンドロの体は強靭だ。それ故に計算の誤差によってガルム程度とぶつかろうがたいした傷になっていないが、それでも傷は傷であり、一つの動き毎に私の体が余計に消耗しているということに他ならない。
それではダメだ。どこから湧いてくるのかしらないが、膨大な数のガルムに対処しきれていない。どうせいつかは死ぬのだ。負けて死ぬのは構わないが、せめて以前の自分くらいは超えてからでないと死ぬに死にきれない。そのためには、今の戦い方では、ダメなのだ。
―――傷を負うのは、攻撃の始点と終点にいちいち意識を取られるからだ
この体になってからというもの、もう千万を超える数シミュレーションを重ねてきたけれど、結局私は、私の中にあるパターン化された動作の中から最も状況に応じて近しい身体動作プログラムを引っ張り出して、動作させているだけに過ぎない。それは私の中にある、過去の状況に置いての最適解であって、状況に応じた現在の最善の解答ではない。今の私は、過去の自分のデータから状況に応じた最適解を導き出そうとするあまり、それが余計な雑念となり、集中をそぎ、戦いの流れを上手く操れない、傷となる因子になってしまっている。
―――なら、過去の自分を再現しようと思うな
本能的な部分に頼る動作はどうあがいても機械の肉体となった自分では人であったころの自分にかなわない。ならば、勝てないというのなら、いっそ滑らかな最小限の挙動で最大限の効率を得ようとする本能的な戦い方こそ自らの最善の戦い方であるという考えを捨ててしまえばいい。それに気を使う事で最高効率が得られないと言うなら、機械の体に適した機械の戦い方というものを編み出せばいいのだ。
―――まずは全力で……!
ガルムへ横一線の斬撃を放つ。ガルムの顔面、胴体から尻尾にかけて左から右に抜けた剣の勢いに乗せて、関節の可動に合わせて体をそちらへと持ってゆく。以前なら生身の肉体を気遣って多少緩めていただろう勢いを全く殺す事なく、体の回転に合わせて、即座に剣を握った手のベクトルを無理矢理変更し、最も近くにいる敵の頭に斜めとなった刀身を叩きつける。無茶な可動に関節部分がギシリと悲鳴をあげるが、生身の肉体の時のように痛みは感じない。生身と違って、頑丈な肉体と柔軟性の高い関節は、ある程度の無茶な動きも許容範囲内なのだ。
そうして敵の体内にめり込んだ瞬間の力の減衰を利用してブレーキ代わりにすると、ガルムの頭を切り裂いた剣に乗った勢いを機械の特性を利用して、一瞬で完全にその場に固定させて、無理矢理体をその場にとどめると、その際に生じた衝撃をショック吸収のアブソーバーとスプリングの力を利用して別ベクトルへの移動と推進のエネルギーに変換して、幾分かを敵に突撃するためのエネルギーへと再利用する。瞬時にまっすぐ構えなおした剣が敵の脳天から胴体までを貫いて、ガルムはマグネタイトの光になり消えてゆく。一連の動作が、過去のシミュレーションをなぞって戦っていた時と比べて格段に滑らかな挙動であったことを認識して、体が喜びに打ち震えた。
―――これだ!
機械らしい、一切の曇りがない、直線的かつ人体の可動を超えた動き。壊れたら交換すればいいと言う、機械の長所を生かした戦い方。生身の体での最善の戦い方が自由闊達な一筆書きを描く剣の軌跡にあるとするなら、機械の体での最善の戦い方とはまさに一刀両断したかのような一次関数的な剣の軌跡にある、と、私は悟った。
そう。ジグザグと蜘蛛が巣を張るような直線的な動き、突撃してきた猪が壁にぶつかった後、すぐさま方向転換して、狙いを定めるような直線的な動きの繰り返しで、先の先を取り続け、機先を制し続ける戦い方こそ、今の機械の体である私の動きとして最善であるのだ。私は自らの脳が導き出した結論に従い、剣を振るい続ける。
この戦い方に必要なのは、周囲の観測結果から得られた敵の頭部か胴体をかっさばく最短直線ルートを通過してくれさえすれば良いと切り捨てる思い切りと大雑把さ。そして、その後、得た結果から次の敵撃破という目的達成に向けて最善のルートを構築し続ける敏捷と繊細さだ。
もはや過去となった自分の幻影や理想を追いかけ、羨み、足を止めるのではなく、現実、今出来る事を見据え、その中から最善の手を見つけ出し前に進む原動力とする。もはや取り戻せぬ過去の全盛期も、あったかもしれない理想の未来予想図も、どちらも不要だ。そんなものは切り捨ててしまえばいい。過去でもなく、未来でもなく、今この時、この瞬間、目前に迫る死という結果を避けるため全力を尽くす。
―――生きるからには現れる理不尽に、命尽きるその時まで全力を以ってして抗う。
―――それが、いつか必ず自然の摂理に敗れて死ぬこの私が見つけた、“善い生き方”なのだ。
*
「ヤルナ、シン! 」
「お褒めにあずかり光栄だ、フェンリル! 」
ガルムの群れの奥、フェンリルの賞賛に応えて、その後ガルムを切り裂く。直後、推進剤を燃焼、バーニアを噴射させて体の向きを変え、地面へ向けてほぼ直角に剣を振り下ろし、最も近い位置にいたガルムの炎が空中にいる私を捉える前に一刀両断。ガルムの体は炎と共にマグネタイトになって散ってゆく。機械の体での戦い方を理解した私は、自らの体に仕込まれている武器の使い方も完全に熟知し、使いこなせるようになっていた。
「次! 」
地面ごと叩き割ったのち、その場から離脱しつつ、回避運動を兼ねて回転しつつ、方向転換の最中、近くにいた敵の鼻っ面めがけて左手の高周波ブレードを振り抜く。空中に浮いていた後、遅れて左手の測定計から異常値が送られ、骨を断ったのだという実感を得る。高周波ブレードの振動で敵の体を構成していたマグネタイトに拡散現象が生じた直後、宙に浮いた自らの体の位置を観測し、再制動。手近な敵めがけて再度切り込む。
「次! 次! 次、次、次! 」
今、私は、右手のカムイランケタムと左手の高周波ブレードを用いて、宙空に鋸や三角の軌跡を描きながら敵を斬り続けている。また、右手のクラッシャーアームを展開することで、剣を振るう際、更に敵のダメージを稼げるようにもなっていた。こちらに飛んでくる火球などの余計な攻撃はリフレクターで受け流す。人間の体だった頃には不可能な動きと移動の軌跡を残す事を可能としてくれるのは、体の各部に搭載されている特殊推進剤噴出口と、体内の推進剤生成器官。そして、三半規管の代わりに体の中にある、人間の様に繊細でない代わりに、多少乱暴に扱っても問題ないジャイロスコープと、排熱ユニットのお陰だ。
そうした直線の動作を繰り返すうち、私が戦っている空間には、私の体からの排熱とガルムの生み出す火球の熱などの温度差によって、緋色の蜃気楼が生じるようにもなっていた。温度差により生じた空気中の揺らぎは、ガルムの目をくらまし気をそらす要因となり、その一瞬の隙に私はガルムを葬り去るに一躍買ってくれてもいる。
「ナ、ナンダアイツハ! 」
「マトモナニンゲンジャナイゾ! 」
「その通りだ! その通りだとも! 私はマトモではない! だから死にたくなければ道を開けろ! 」
「ヒ、ヒィィィィィィ! 」
人語の通じる獣は、強烈な言葉にて脅してやると、情けない悲鳴をあげて尻尾を巻いて体を退く・賢明な判断であるのは確かだが、こうもあっさりと逃走されては拍子抜けだ。あちらの迷宮に出現した同じような魔物はどのような相手でも必死に立ち向かってきたものだが、どうやら魔物でも人間と同じくらい知恵が回るようになると、生存の方に天秤が傾くらしい。多少不満がないわけでもないが、ともかく―――
「やってきたぞ、フェンリル! 」
「ヨクキタ、シン! 」
そうして群れていたガルムの数を減らしてやっていると、いつのまにか私とフェンリルの間には、我らが決闘を行うためだけに開かれたような空間が出来上がっていた。即席の円形闘技場においてその外周部にて逃げ腰のガルムが人の代わりに観客を務める中、対峙するのは私とフェンリル、すなわち、やはり人語を話す機械と獣だ。
共に人間としての体を持たない我々は、しかし人間同士の親友がやるように挨拶を交わしあうと、親交を深めるため、私は今まで通り思い切りスラスターを吹かせ瞬時に最高速へと持っていくと、全身全霊の一刀を振り下ろした。今までの中で最高の速度での一撃だ。
フェンリルはそれに反応を見せない。否、視線は私の体を追えているにもかかわらず、攻撃を悠然と眺めている。何か狙っている。それはわかるが、何が狙いだかわからない。機械の体となった私は、データがなければ解析が出来ないのだ。だから思い切り振り切る。―――そして。
「―――なにっ! 」
「ッ……、ミゴトダ!」
全霊をかけての横一線の刃はフェンリルの体に触れた瞬間、摩擦を失ったが如く毛の上を滑って、握った刃があらぬ方向へと抜けていく。やつは私の一撃を受け止めた瞬間だけ少しばかり身じろいで顔を歪めたものの、その場から一歩も動くことなく私の攻撃をいなして見せると、私が驚いた隙に反撃へと転じる機会があったにもかかわらず一切攻撃の様子を見せず、横を通り抜ける私の体をただ見送った。
「ホウ、ワガカラダニ“ブツリコウゲキ”ガキカヌコトヲミヌキ、コウゲキヲヤメタカ」
「それもある……、が、それ以上に、君が戦闘の意思を見せないのに一方的に攻撃をするのは、公平でないと思った」
「フ、フハハハハハハ、ユカイナオトコダ! “アースシンゾク”ノダレモガオソレタコノオレヲマエニシテ、“セイセイドウドウ”タタカオウトスル! オレハオマエノコトガキニイッタゾ、シン! ミトメヨウ! オマエハマルデ“テュール”ノヨウダ! 」
「私も君に好意を抱いたとも。無傷を確信しているとはいえ、敵の攻撃にあえて身を晒しなど、余程自らの戦況分析と自分の長所に自信がなければ出来ない芸当だ。フェンリル。君は、私が出会った敵の中でも、最上位に位置する倒し難い敵であり、だからこそ愛おしい相手だ」
「フハハ、“ソウシソウアイ”ダナ。―――ナラバ」
「ああ。これ以上、互いに余計な言葉はいるまい」
即席出来上がったコロッセオにおいて、フェンリルは私から距離をとった。フェンリルは低く構え、獅子に力を入れる。全身の力を利用して最速にて突進し、私の攻撃を剛柔備えられた毛でいなし、爪と牙をつきたてようという算段なのだろう。
私は周囲のガルムを一旦完全に注意を向ける要素から排除すると、目の前にいる難敵にのみ意識を集中する。私も奴と同じく、体を斜めに傾けて居合に似た前傾姿勢を取ると、地についた足で地面を強く踏みしめるフェンリルと目線が合った。
「―――」
「―――」
フェンリルが笑う。私も笑いかえす。我々は似た者同士だ。あまりに強すぎる力を持っていたが故に、孤独だったもの同士。わたしには奴の気持ちがよくわかる。やつは、かつてエミヤという男を見つけた時のように、目の前に現れた私という自分と同等かそれ以上の実力を持つ相手を目の前にして、自身の全力を出して、認め合いたいのだ。街の中、安全な場所で暮らしていると、満たされないつらさが全身を支配したときの、脳が緩やかに死んでいくような倦怠感が全身に襲い掛かってくる。おそらく奴は今まで、そういった感覚を覚えていたのだろう。ああ、私には奴の気持ちがよくわかる。
だからこそ、逃げたくない。真正面からフェンリルという相手に付き合ってやりたい。背を向け、相手を失望させるような事をしたくはない。奴に共感を覚えてしまった今、それは自分を裏切ると同等の行為として私の心は感じるだろうからだ。そう。今や私は、もはや時間稼ぎをするという目的など、彼方向こうにいってしまっていた。
否、どのみち、フェンリルが私という存在に完全に注視し、周囲の部下に無言の態度で待機を命じ、決闘という誇り高き選択肢を取った時点で、私はこの決闘の勝利に活路への希望を見出すしか、進む道はないのだ。
「イザ」
無理矢理誰かに向けての言い訳をひねり出すと、そんな私の懊悩をかき消すかのように、フェンリルは古式ゆかしく告げた。先ほどまでの懸念や思案は何処へやら、その言葉に心が躍った。奴との決戦に備え、機械のセンサーが鋭敏化させると、同時にデータ処理量が増した。余計な作業が増え、処理に割かれる分は思考が遅くなるはずだったが、頭はやけにクリアだった。ノイズがまるで存在していない。おそらく意識が完全に奴を倒すと言う一つの事に集中したからだろう。明確な目的ができた事で、余計な階層が閉じられたのだ。要らぬ意識を切り捨てると、逆に機械の体が疼くような錯覚を感じた。
「尋常に」
疼痛にも似たそれを抑えながら、続きの言葉を返してやると、フェンリルは笑みを深めた。凶暴な瞳と大きな口は、私という強敵を前に喜びを隠しきれずウズウズとしている。奴の気持ちはよくわかる。私も、もう胸のざわつきが抑えきれないのだ。
「ショウブ/勝負!」
そして私たちは、互いの親交をさらに深めるため、己らの最も信ずる武器を手に飛び出した。
*
「あの、馬鹿……! 撹乱や掃討じゃなくて、一騎討ちを始めてる……! 」
シンとフェンリルが死闘を繰り広げる場所から少し南側に離れた銀座のビルの上、ガルムの目と鼻から逃れるために、視覚に潜むとともに、認識阻害の魔術を発動した凜は、慌てて魔術をキャンセルすると、樟脳を回収して、憎々しげに言った。凜は、エミヤから言われて買ってあった樟脳―――犬はこの匂いを嫌うらしい―――を魔術で作り出した風でばらまき、シンや自分がガルムの群れを出し抜いてフェンリルを奇襲して仕留める機会を作りそうとしていたのだ。
「え、と、あ、本当だ……! な、なんで……!? 」
「―――会話を拾うに、どうやらあの獣型の悪魔、フェンリルの方からもちかけた勝負にみたいね。シンはそれに乗っかる形で、その一騎討ちを受けたみたい」
「―――シン」
しかしシンは、そんな策略を待つことなく、自らの力のみでフェンリルの元までたどり着くと、どうやったのかは知らないが、シンはフェンリルという悪魔の心を擽り、周りのガルムたちを押しのけて、乱戦という不利な状況から、決闘という一対一の自身にとって有利な状況に持ち込む事に成功したのだ。流石はシンだ。凛の言葉を聞いて私は誇らしい気持ちになった。
「ったく、あの馬鹿……」
しかし凛はそんな私とは違って、悪態を吐くと、舌打ちをした。凛は酷く不機嫌そうだった。私は凛がそうして眉をひそめ、眼下に苦い顔を向ける理由がわからなかった。
「なによ、何か言いたいことあるなら、きちんと言いなさい」
凛は非常に鋭い声音で冷たく切り捨てるようにいった。私はその豹変ぶりに驚きながらも、尋ねる。
「……えっと、もともと二人の話だと、何処からともなく湧き出てくるガルムの親玉であるフェンリルを仕留めるのが目的なのでしょう? こうした作業も周囲の親玉を仕留めるための準備していたのであって、けど、期せずして、その機会をこちらで作らずとも、シンがフェンリルを仕留める絶好の機会はやってきた。なのに、なんで機嫌が悪そうなのかなって……」
すると凛は、私の質問に少し驚いた表情を見せたが、すぐさま気を取り直したらしく、自分を落ち着かせるためだろう、ため息を吐いて、まっすぐ私の方を見た。
「あのね、響。私はたしかにあの犬達の親玉をみつけて、攻撃の機会を作り出して、そいつを撃破する事で一体多の状況を打破しようとするシンの話に乗ったわ。でも私がその作戦に賛成したのは、意識の外から攻撃されるという予想外の行為がフェンリルという悪魔相手に最大の隙を生み、一方的に命を刈り取れるという有利な状況を作り出せるかもしれないと思ったからこそなの。けれど今、フェンリルという悪魔は、シンという男を強烈に意識して、ガルムの肉盾で隔離された空間のコロッセオのような空間の中で戦ってしまっている。今、この戦いはなんでもありの戦争から、ルールの定まった一騎討ちになってしまったのよ」
凛は酷く疲れた様子で、シンとフェンリルの一騎討ちの様子を眺めた。シンは敵の苛烈な攻撃を前に攻めあぐね回避に専念している。多分敵の隙を狙って一撃を狙っているのだろう。そしてその一撃が私たちの命運を決める一撃になるだろうことも、私にはなんとなく予測できていた。
「は、はぁ。でも、シンが親玉を倒せば問題ないんじゃ……」
私たちにとって、そうやってシンの一撃に命運を託すのはよくあることだ。そうして彼に命綱を渡して、私たちから命運を託されたシンが、それでも変わらない態度で機を伺いながら戦い、そして勝利を勝ち取るのもいつものことだ。私には凛が何を危惧しているのかわからなかった。
「わからない? つまりこれで、私たちは完全に手出しできなくなっちゃったのよ。迂闊に手を出せば矛先がこっちを向く。そうすれば、敵は勝負を受けたシンよりも、勝負の邪魔をしたこちらを許そうとせず、私たちを殺しにかかるでしょう。そうなれば、あとは後手、後手に回るのは目に見えてるわ。つまりこの戦いで私たちが生き残れるかどうかの行方は、完全にシンという彼の手に委ねられてしまったの。もう私に出来ることは、シンの勝利を祈るくらいしかできなくなっちゃったのよ」
私は凛が述べた最後の言葉で、ようやく彼女の考えと、思いが理解できた。なるほど、凛は自らの命運を他人、それも、出会って日の浅いシンに託す事が不安なのだ。彼女はきっと、自らの手で自らの運命を勝ち取りたかった。だからシンの親玉を一緒に叩く提案に賛成したけれど、でも、だからこそ、シンが一人で敵を倒す状況に持ち込んだ事を嫌ったのだ。
彼女はシンという男の強さと頼もしさを知らない。一応一回は戦闘を見ているが、それも大した強さでない相手との戦闘だったから、頼りにしていいのか判別しかねているのだ。あるいはエミヤのパートナーだといっていたし、彼の強さが基準になっているのかもしれない。
―――ああ、それなら理解ができる。
あのシンですら羨む強さを持っているエミヤが凛の強さの基準なら、不安になる気持ちも分からなくもない。私だって、シンより下の強さの人に命運を託す事となったら、同じような不安を抱くだろう。その気持ちはよくわかる。だけど。
「―――なんだ。そんな事ですか」
私は、シンのことをエミヤみたいに信じてもらえない事がちょっとばかり悔しくて、意地悪に胸を張ると、凛の言葉を軽くあしらってみせた。
「は……?」
凛は、私が、現状、窮地であると認識している場所において、なぜこのような楽観的な意見を述べて自分を小馬鹿にしたような態度を取るのか理解できなかったようで、心底不思議そうにあっけに取られた顔をすると、覗き込むようにして私の顔を見つめた。凛のそんな反応が小気味良くて、私は性格が悪い事を自覚しながらも、それでも胸を張って告げる。
「冒険者っていう職業は、いつだって他人に命を預けています。世の中は、特に、世界樹の迷宮は、理不尽で、起きて欲しくないことなんていくらでも起こる、協力し、信頼しあわないと生きていけない場所でした。だから私たちはいつだって、全力で一緒に迷宮に潜ると決めた仲間の判断と行動を信じ抜きます。だから、こんな事態は、いつものことなんです」
「―――」
「凜がエミヤを信じているように、私はシンの強さと判断と彼が勝つことを信じています。あの人は戦いの事となると暴走気味になりますが、だからといって勝算のない戦いを挑むほど馬鹿じゃありません。シンは強いんです。私は彼が勝つと信じています。だから、凜もシンの勝利を信じてほしい」
凛は再びあっけに取られた顔をしてみせた。しかし口を開いたその顔は、今度は猜疑心のような負の感情より生じた暗い雰囲気のものでなく、純然たる驚愕の感情から生じたものであると感じられた。
「―――参ったわね。こんな小娘に諭されるとは、私も歳をとったって事か」
凛はそういって額に手を当てて雅やかな挙措でかぶりを振ると、吹っ切れた顔をしてこちらを向いた。瞳は、自らの命運を無理やり勝ちとろうと企画していた、辣腕家じみた剃刀のように冷たい色が消え、一転して慈愛を含んだ優しいものへと変化していた。
「そうね。常に最悪の未来を想像して動き続けても仕方ないものね。“他人を信じて、まかせろ”、か。ふふ、私自身があいつに口を酸っぱくして言ってたことが返ってくるとは思わなかったわ。ま、長く一緒にいると自然と意識も変わっちゃうってことかしら。―――悪い気はしないけど、あいつの影響で感性が鈍ったのかと思うと、ムカつきもするわね」
「は、はぁ」
「ああ、気にしないで頂戴。こっちの事情だから。……、そうね。そういうことなら、彼を信じて待ちましょうか」
「―――はい」
凜が納得してくれたことに満足した私は、凛と共にビルの屋上の特等席から、一人と一匹の決闘の様子を眺める。フェンリルはしなやかで優雅な動きで攻撃と回避を繰り返している。まるで新迷宮の三層の番人のようだと思った。どうやら四足で地を這い駆ける獣というものは、皆同じように敵の周りを飛び回って跳ねまわって走駆して翻弄し、牙と爪を用いて敵を切り裂く戦い方を好むらしい。
一方で、シンはなんとも彼らしくない、力づくでの戦い方をしていた。彼は一振りごとに、足から火を吹き、背中の板や両腕の伸びる追加腕などを利用しては大きく敵との距離をとる回避運動をしている。その後、反撃に転じる際も、例えば右手の剣を振る軌跡も、左手の自身の体に引っ付いた大きな剣を振るう際も、やはり同じように全力でふるって、あるいは全力で自らの動きを止めて、シンはジグザグに動いて、反撃に転じている。
シンの一撃が、攻撃ごとに大きく宙を空振り、大地を割る。反撃の際に叩き込もうとしているのが刺突のような一点突破を試みるようなものであるあたり、おそらくあの獣は、三層の番人のように、毛が硬く、斬撃がまともに通らないのだろうな、と思った。だがああして、叩き潰すような一撃や、刺突を繰り返しているのだ。
しかし、それしか方法がないというのはわかるのだが、あのような急制動移動と力づくでの攻撃を繰り返していては体がもたないだろうとも思った。だが、シンという男がその戦い方を選択したのだから、案外あれが今のアンドロの体にとっての最適解なのかもしれないと思い直す。
「うーん、しっかし、あのシンって言うなんていうか、セイバーとかランサーみたいな華やかさや峻烈さがあるって言うのとも違うし、アーチャーみたいな緻密さと計画性がある感じでもない。なんていうか、バーサーカーの無茶苦茶さに近いわね……。本能的に近くの脅威を力づくで機械的に排除しようとしているっていうか……、あいつ、ホントに元はブシドーなの?」
そしてどうやら凛も先程までの私と同じような疑問を抱いたらしく、彼女は首を傾げた。
「ええ、そうですよ。―――でも凛の疑問はもっともです。今のシンの戦い方は、前のシンの戦い方と違いますから」
「あら、そうなの? 」
「はい。以前のシンはもっと繊細に剣を振るって、最小の動きで最大限の結果を手に入れる様な戦い方をしていました。多分、それが以前のシンにとって一番いい戦い方だったからなんでしょう。でもそれは出来なくなった。だから、戦い方を変えた」
「―――なるほど」
「シンはいつだって、現状を否定せず、ただ真っ直ぐ受け止めて、そして自分が持てる能力全てを発揮するために最大限の努力と模索をする人なんです。だから私は、今のあの“無茶苦茶に見える戦い方をする”シンも、ある意味でシンらしい姿だと思います」
*
「ヤルナ……! 」
「そちらこそ……!」
フェンリルはひらりと身を捩って刺突を避けて、爪を繰り出してくる。爪は鋭く、かすっただけでアンドロのボディに易々と傷をつけてゆく。また、その太い四足から繰り出される一撃は、まともに食らえばフレームが歪むだろう事を脳内のコンピューターは算出している。
つまり一撃たりと攻撃は食らえない。そして斬撃が効かないのは、これまでの戦いにて証明されてしまっている。私の持つ武器の中で有効打となりそうなものは、カムイランケタムや高周波ブレードを用いて、目や口の中を狙う刺突攻撃か、あるいは奴が体躯を折り曲げた瞬間を狙っての叩き潰すようなクラッシャーアームでも一撃。
しかしそれは奴も重々承知であるのだろう、奴は自らの口を大きく開けるような攻撃や、自信の体を縮めさせて、硬直する隙を作ってしまうような攻撃はしてこない。
そうこうしている間にも、体内にはどんどん熱が溜まりつつある。奴の速度に対抗するべく、体の動作の仕事量を最大にするべくアンドロのスキル『オーバーヒート』を用いて、威力と速度を上げる稼働をさせているためだ。熱は機械の体にとって最も忌むべき敵の一つ。熱はアンドロの回路の電気抵抗や稼働効率に多大な影響を与えるため、現在私の体は、一秒ごとに効率が落ち続け、動作限界時間が刻一刻と近づいて来ている。回路が熱で融解する時も近い。特殊に加工された生体部品は四十度を超えても凝固する事はないが、それも限界に達しつつある。お陰でだいぶ体のキレが落ちてきた。
「ドウシタ、シン! ウゴキガニブクナッテキテイルゾ! 」
「っ、ちぃ! 」
そうして体の動きの鈍さを意識した思考の隙を狙い、フェンリルの罵声と爪が飛んでくる。遅れながらもなんとか咄嗟に左腕を振り上げて奴の攻撃を捌くが、長いブレードの間を掻い潜って繰り出されたフェンリルの一撃は私のアンドロの顔面を大きく削り、右頬から右耳の辺りに等間隔な三爪の傷跡が刻まれた。
「―――っ!」
同時に、視界に微かながらもノイズが走り、直後、右視界の下部に不明瞭な部分と暗闇が生まれる。視界がブラックアウトするよりも早く敵の攻撃を払うため、私は瞬時に私の右から背後に抜けたフェンリルめがけて右腕に握った刃を振るう。すると背後へと振り回した刃はフェンリルの体を捉えた。硬質のものをぶん殴った感触が手のひらのセンサーより伝わってくる。遅れて打撲音が聞こえた。
背後に振り抜いた剣は物理攻撃無効の概念があるためフェンリルの体に切創をつけることはなかったが、それでもほとんど無意識のうちに繰り出した刀の一撃は、奴の体に衝撃だけは与えたらしく、呻き声を上げたフェンリルは地面を蹴って大きく跳躍すると、離れた場所に着地した。フェンリルはそして少しばかり苦い表情を浮かべるも、さらに私との距離を開けた。一旦の仕切り直しの空気が流れた。そして。
―――今の衝撃で視界の方にも多少影響が出たか
直前のフェンリルの攻撃と、私がフェンリルの体を殴った際の衝撃で、右の顔面に走っている回路が完全に千切れたらしく、右の視界は大きくブラックアウトしていた。これで一定の方向からの攻撃に完全に無防備になってしまった。
―――もはや長くは戦えない
悟った私は腹をくくると、愛刀のカムイランケタムを納刀すると、腰に帯刀した状態に戻し、右の拳を服の中、腹部へと突き入れ、左手の高周波ブレードを後ろ手に構えた。そして背部から攻撃を弾くリフレクターと、リフレクターの角度を変更するコンダクターを解放し、右半身に寄せる形で即席の盾を作ると、固く握りしめた拳を腹から引き抜き、クラッシャーアームの展開を始める。フェンリルは私が納刀し、今までと違った姿勢と武装を構えたのを見ると、口元を歪めた。
「―――ナニカタクランデイルナ? 」
「勿論。君を倒すために、全霊を以ってして企みを練っているとも」
「フ、フハハハハ! ソレハタシカニソウダロウトモ! 」
正直に策略を練っていることを告げると、フェンリルは心底愉快そうに笑い、そして全身に込める力をさらに力強いものへする。ひとしきり笑ったフェンリルは、その四足で思い切り地面を踏み締め、頭部を地面とスレスレの位置にまで構えた。姿勢は奴が全力で攻撃を仕掛けるという合図にほかならなかった。フェンリルは私の戦い方の変化から、私の限界が近いとを悟り、だからこそ、消耗戦の末の勝利などというチンケなやり方で勝ち星を得るのでなく、真正面から叩きのめす事でも完璧な勝利を求めたのだ。奴はやはり誇り高い獣だ。
「礼を言うぞ、フェンリル」
「ソレハコチラノセリフダ、シン。オマエハイッサイヒキョウナオコナイヲシナイ、スバラシイニンゲンダッタ」
「―――いくぞ」
「―――オウ」
もはや言葉はいらない。一撃を叩き込む。その思いの元、私とフェンリルは彼我の距離をゼロにする為動き出した。最高速で駆けてくるフェンリルに対して、私は本来なら攻撃を防ぐための背中のリフレクターを私と奴との狭間に配置し、前方に展開させたリフレクターのすぐ後方に右腕のクラッシャーアームを展開させ始めた。同時に高周波ブレードを展開させた左腕を後ろに引き、つまり、右手を直突の構えに、そして左手を刺突の構えにしてフェンリルの攻撃に備える。
フェンリルは自分の真正面に設置された罠を見て、笑みをふかめると、それでもまっすぐ直進してくる。どのような小細工であろうと、自分の身体能力と概念武装で真正面から打ち破ってみせるという気概は見事なものだ。だからその期待に応えるべく、私も真正面から抜かりなく奴を迎撃するための準備を整える。
迫り来るフェンリルの “物理攻撃を完全無効化する”という概念的な鉄壁の守りは確かに脅威だ。しかし、その概念武装は攻撃が奴の体を傷つける事を完全に無効化はするけれど、攻撃の際に生まれる衝撃などの威力まで完全に無効化する訳ではないらしい。
先程、咄嗟に繰り出したカムイランケタムの刀身が、奴の体を傷つけることはなかったけれど、奴の体に衝撃を与え、奴が一旦退いた事が、その証明と言えるだろう。その事実から想定するに、おそらくフェンリルの概念は厳密に言えば、“物理攻撃の完全無効”ではなく、“自身の体に傷が残る攻撃を外皮にて防ぐ”能力なのだ。
―――つまり、そこに勝機がある
私はフェンリルの接近に合わせてリフレクターユニットを地面に等間隔に突き刺すと、即席の壁盾とする。奴よりも比重の大きな金属の板だ。ぶつかってくれればそれだけで多少の衝撃が伝わってくれるはずである。無論、この程度の小細工がフェンリルに通用するとは思っていない。
しかし、足止めや、あるいは突撃の方向を指定する程度の壁にはなるはずだ。奴がそうして私の前に出来た壁を避けるために方向を転換するために一瞬速度を緩めるか、あるいはそのまま壁の直前で跳躍するかを選択するだろう。私の狙いはその瞬間だ。
速度が緩まったところを右手のクラッシャーアームで奴を拘束し、そのまま地面にたたきつけるもよし。あるいは左手の高周波ブレードを奴の体に叩きつけ、剣より発生する衝撃を叩き込むのもよし。そうすればあとは―――
「アマイゾ、シン! 『アギダイン』!」
「―――なにっ!? 」
勝利に向けての皮算用を弾いていた私は、フェンリルの言葉と行動に、たしかに自らの考えが浅はかだった事を思い知る。疾走するフェンリルの口が大きく開いたかと思うと、その口腔から、ガルムのそれとは比較にならない熱量を秘めた火炎の業火球が生まれ、前方へと吐き出された。疾走の勢いが加算された火球は即座に前方にあるリフレクターと接触すると、火焔と暴風を撒き散らし、生まれた火柱は天を焼く勢いで直上する。
「しまった、センサーが……!」
リフレクターと火球が接触したことにより生まれた熱と風が熱感知と赤外線と衝撃感知センサーに予想外の多大なノイズを発生させ、私は周囲の状況の把握が不可能となった。肉体であれば本能と勘でなんとか補えただろうが、機械の体となった今、それもままならない。
―――やられる……!
「……ォ! 」
直感が敗北の未来を予測した瞬間、過剰なノイズに真っ白になる視界と、全身がアトランダムな衝撃を感知する中、それでもなんとか機能を保っていた音声感知機能が、熱風吹き荒れる中、フェンリルの雄叫びらしきものを捕らえてくれた。場所は右斜め前方宙空。
「そこだ! 『ロケットパンチ』!」
もはや手がかりの失せた私は、今しがた聞こえてきた音の場所にフェンリルがいると仮定し、先ほどまでのフェンリルの動きと現在地からフェンリルの挙動を予測すると、誤差修正を済ませたのち、右腕の展開させたクラッシャーアームの右拳の中に握りこんでいたものを指と指の狭間に押し出して先端を拳の前面に固定すると、腕の肘から先をパージし、前方へ撃ちだした。熱風を押しのけて直進した拳が、数旬後の着弾予測の時刻と重なった瞬間。
「―――……オォォォ!」
「―――っ!」
周囲にて荒ぶっていた風と熱を押しのける暴風が着弾地点より発生し、やがて正常の機能を取り戻した音声センサーへとフェンリルの悲鳴が飛び込んできた。拳に挟み込んだ弾丸はライドウのくれた特殊弾で、『衝撃弾』という弾丸だ。着弾と同時に弾頭より衝撃を生み出すその弾が、おそらくフェンリルの体のどこかに当たったのだろうことが、その痛みを押し殺した呻き声じみた咆哮から伝わってくる。私は勝利を確信した。そして。
「おや、まだ動けますか。ではもう一発。『SAKO Rk95』、『終焉留める存在無き紐/グレイプニル』」
「オォォォォォォ! 」
勝利の余韻が脳裏へと押し寄せかけたその瞬間、幼げな声とともにタン、と短い銃声が響き、フェンリルの苦渋に満ちた叫び声が続いた。反射的に音響システムを起動させると、ピンガーを周囲に向けて発信する。そうして熱の無くなった空間の中をすぐさま泳いで往復した音波は、フェンリルのすぐそばに誰か小さな人型の生物が佇んでいる事を教えてくれた。
「フェンリル!?」
そしてやがて周囲からノイズの元となる熱と風がなくなりセンサーの機能が十全に動くようになった頃、慌ててフェンリルの方を見ると、彼の全身には白い紐が巻きついており、そして地面に縫い付けられているのが目に入った。紐はまるで縺れ糸のように自動的にフェンリルの全身へと絡みつき、彼の動きを拘束していた。
「―――グルゥゥゥ、ウッ、グゥゥゥ! コ、コレハ! コノヒモハ!」
「二発でもたりない、と。では念には念を入れて一マガジン分は使っておきますか」
全身を縛り上げられたフェンリルは必死に引きちぎろうとするも、続く銃声は、その二十九回も炸裂音を響かせ、秒速十五万回転以上の弾丸がフェンリルの体に瞬時に着弾した。すると、弾丸の弾頭は瞬時に白い紐へと変化し、先程と同様フェンリルの体に巻きついてゆく。紐はフェンリルがそれから逃れようと暴れれば暴れるほど、もがけばもがくほどに紐は体へと食い込んで、やがてその全身を覆っていった。
「―――! ――――――!」
「無駄です。『終焉留める存在無き紐/グレイプニル』は、フェンリルを捕縛するという目的のためだけに、頭部用、腕用、脚用の三種類の縺れ糸を特殊加工して7・62×39ミリの聖水加工済銀特殊弾頭に練りこんだ弾丸型概念武装です。それをマガジンとチェンバーの分、合わせて三十二発余さず叩き込みました。いかに“フェンリル/貴方”が“テュール”のようであると認めた“人物/シン”に “フェンリル”と認められれようと、―――いえ、“フェンリル”として認められ、テュールの腕を噛み砕いた“フェンリル/貴方”だからこそ、銀の弾丸という狼殺しの弾丸としても性質も兼ね備えた『終焉留める存在無き紐/グレイプニル』の束縛から逃れることはできません」
「―――ッ! ――――――ッ! ―――ッ!」
フェンリルは口元から頭部、胴体、四足にかけてまでぐるぐる巻きに捕縛され、動けない。彼をそうして完全拘束してみせた下手人は、ゆっくりとした足取りでフェンリルのすぐ真横に移動すると、空になったマガジンを交換し、彼の傍に落ちていた私のパージした腕を拾い上げた。硝煙を発する銃口をフェンリルの方から私へと向けなおした小さな彼女は、短くまとめられた黒髪をかきあげ、白衣を翻す。私はその姿に見覚えがあった。
「……、君は」
「オ、オマエハ、オレタチノショウカンシャ! オマエ! ナゼフェンリルヲウッタ! 」
「ガルムたち。申し訳ありませんが、今、貴方達に用はありません」
「―――何!?」
やがて遠く向こう側、突撃銃のマガジンを入れ替える女性の声がその場に響き渡った瞬間、ガルムたちの声が一斉に聞こえなくなった。ガルムたちは彼女の言葉に素直にしたがって口を閉じたのか―――、いや、違う。
「―――! ―――!」
ガルムは薄い緞帳の向こう側、光の遮蔽された空間の向こう側で困惑しながら口をパクつかせ、そして周囲を必死の形相で見回していた。その様子から、ガルムたちは、目の前にいる私とフェンリル、そして体に対して大きな突撃銃を構えた彼女を見失っているのだと私は直感した。
「―――君は何者だ。どうして私達は君に気付かなかったのだ」
肉体の第六感は失われていても、魂が持つ直感が目の前の見覚えのある少女は危険であると告げ、思わずそんな疑問の言葉が口をついて出た。彼女は体躯と見た目に合わない妖艶な笑みを浮かべると、言った。
「シンである貴方がそれを望むのでしたら、私は答えましょう。名は全ての力の源。名に込められた意味を知るものは、その力を十全に発揮することができる。私の名は“サコ/sako、saco”。AK47より発展した銃の名を持つ私は、兄という“光/o(ヘブライ語)”を失い、しかし“神の息吹/er、el(ヘブライ語)”を受けたことにより、同時に“サケル/sacer(ヘブライ語)”、すなわち、“法の外に遺棄された存在/homo sacer(ヘブライ語)”ともなった。私は、『SAKO Rk95』という銃の名を冠するからこそ、このような体で突撃銃から弾丸を発射しようとその反動に悩まされることはないし、“homo sacer/ホモ・サケル”という剥き出しの生という概念の名を持つからこそ、銃を撃ち他者を傷つけるというその寸前までその瞬間まで誰からも認知されることはないのです」
サコ、いや、サケルという彼女は、不敵にも、敵であるだろう私に対して自らの能力を易々と明かす。しかし彼女がそうして語る態度には嘘がなく、だからこそ私を不安と混乱の渦中へと叩き込んだ。
第六話 終了
この物語に登場する外国語は、主にラテン語、ヘブライ語、ルーン語、ドイツ語、アイスランド語、フランス語のアルファベット26文字変換バージョンを利用しています。本来ならば言語に合わせ、元々の文字を使うのがよろしいのでしょうが、使っているソフトが対応していないので没としました。ただし、今後の話は複数の言語を元に話を組み立てており、そのままですとわかりにくい部分もあると考えたので、今回から元の言語が何かわかりにくそうな部分は試験的に注釈をつけることにしました。ご了承ください。