Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
「タイトルが根暗過ぎる。ダサい。物語を紡いでる人間の陰気さが伝わってくるようだわ。『ガンナー系女子の華麗なる活躍』にすべき。付録に私の人形をつければ読者が三倍に増えてくれるわ」
「いや、ガン子! 今風に『未来世界に転生したモテカワ系美少女戦士パラ子がチート能力を発揮して鬱シナリオをぶっ壊すようです!』か『悪役令嬢系パラ子は二次創作の異世界ファンタジー世界に転生して無双してしまうようです』にしよう! これで私の魅力によって読者の数は十倍になるはずだ!」
「師匠……、流石に事ここに至って読者を増やすなんて色々と手遅れですし、ぶっちゃけこれを書いている人間も望んでないですし、実在するゲームのキャラクターがチートを唄うのはやばいですし、なにより言葉のセンスが微妙に古いですよ……。というか、いいんですか? シリアスな空気ぶち壊しですよ?」
「姫様が転生で女神に!まさに真・女神転生!いや、姫様の美しさを加味するなら今風に、Fate /labyrinth ―罪と罰―の方が……!」
「何処かから電波な発言が!」
「タイトルから世界樹の迷宮がほぼ乖離した! アトラス繋がりでペルソナ風にするにしてもシナリオの救いのなさで繋げんな! 素直に英語の名前だけパクっとけ!」
「ささやき、いのり、えいしょう、ねんじろ!」
「ああ、突っ込まれた事でファラ子の混乱がさらに酷く!?」
「しかも師匠よりさらにセンスが古い!灰にでもなっとけ!」
「果たしてクロスオーバーに求められていたものとは……」
「この根暗野郎! お前はお前でいきなり現れてなに言いだすんだ!」
「……」
「――あら、どうしたのビス男。って何? そのプラカード……」
第二話 それぞれのイニシエーション
「あ、タイトルもうそのままでいくんだ……、って、小さく下に文字が……」
「どうやら最後までプロットとシナリオ組んでるからタイトルを変えたくないみたいね」
「なんだと! じゃあこの個人自作ホームページ全盛時代の入口にあった痛々しい注意書きみたいなセンスが二十年は古い茶番の意味はなんだ!」
「お借りしているキャラクターの原作イメージを崩さないように気をつける努力をしますって意思表示と、それでも多分今後も皆様の原作イメージに削ぐわない行動をするキャラが出てくるでしょうごめんなさいって謝罪と、シリアスな物語を目指したせいで終盤特にさっぱりとした冒険活劇や喜劇的なエンタメ成分が書けない、足りない、で筆が進まず苦しんでいる作者の単なる自己満足らしいわ」
――閑話休題
第二話 それぞれのイニシエーション
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変良いとか言っても、それはその西洋人の見るところであって、私の参考にならない事はないにしても、私にそう思えなければ、到底受け売りをするべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢ではない以上はこれ位の見識は国民もの一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはいけないのです。
――私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。
夏目漱石
私の個人主義より
*
私にかかると、全てのものが虚しくなる。
永遠の闇が降りてきて、太陽は登りも沈みもしない。
貴方には何の問題もないのに、貴方は闇に囚われるのです。
どんな宝であれ、貴方を満足させることはない。
幸も不幸も、何もかもが貴方を悩ませる種となる。
――とどのつまり、人間は一生涯、死ぬときまで満足することは出来ないのです。
ゲーテ
ファウスト第二部第五幕 深夜 憂鬱より
*
かささぎの
渡せる橋に
おく霜の
しろきを見れば
夜ぞふけにきる
中納言家持
新古今和歌集 第6巻 冬620より
*
電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも。
フィリップ・k・デック
―アンドロイドは電気羊の夢を見るか?― より
*
暗闇の中、闇の中に佇む男の姿がある。男は口元を黒い布で覆ったその男は、黒い布の装束を身にまとい、腰に刀を携えていた。
「……」
男は腕を組み、瞼を閉じたままの姿勢を保ったまま、まるで動かない。身動ぐどころか、呼吸すらもしていないのでは無いかと思われるその男は、やがて、静かに口を覆う布の隙間から息を漏らすと、大きく空気を吸いこんで――
*
コマ落ちした古いフィルムを眺めているように、異界と現世の景色が交互に目に映る。異界と現世の境界が薄らいでいる。世界の終焉に向けて時計の針が破滅方向へと進んでいるせいだろう。壊れかけたフィルムがやがて観測者の願いによって新しいフィルムへと入れ替えられる運命にあるように、この世界もまた、生まれ変わりを望むものたちの手によって、新たな世界に生まれ変わるのだ。
誰もが幸福であってほしいと願う者の、つまりは、今現在が幸福でなく生きるのが辛いと思っているが故に、自らにとって幸福な世界に成って欲しいと他人に救済を求める闘争弱者どもの、そんなルサンチマンの中から新たに生まれる世界の名は、エデンの園というたいそうな名前のついた、そんな、他人が醜いと思うものを美しいと思う私が最も嫌う、偽りの楽園だ。
「行くぞ。その為に、まずは荒ぶる自然の中から正義の味方を取り戻す」
そのような醜悪な存在が生まれつつある中、しかし、私の意識は目の前の男に吸い寄せられていた。ああ、なんて極上の――
――素晴らしい、歪みと絶望だ
衛宮士郎は世界に絶望している。口では平和を望みながら、その実、心の奥底では、人間の住まう世界に一片たりとも希望など抱いていないのだ。この男は世界を憎んでいる。この男は人を憎んでいる。この、かつて衛宮士郎という人間であり、英霊エミヤという存在だった男は、おそらくその過程において、恨み妬み嫉み憎しみといった人間の持つ負の感情がもたらす結果を見せられ続けた事で、世界に対して、絶望を抱いている。だからこそ、生き飽きたなどというセリフが出てくるのだ。
――ああ
一体、どれだけ長い間醸造すれば、ここまで極端な人間不信の状態に陥りながら、しかし、他人を救うために身を捨てたいなどと戯言をほざけるようになれるのだろうか。このような呪いの塊のような人間になるためには、人の心が生み出す悪という悪を、人が悪と呼ぶそのあらゆる行為を観察し、踏破し尽くさねば、こんな極致の領域には達することは出来まい。
それは、百年や二百年では足りないはずだ。千年や万年でも程遠い。億や兆を超える年月をかけて、じっくりと、壊れないよう、大事に、丁寧に、人として器が壊れぬよう、丹精込めて、人間に対しての希望を、余すことなく取り除かねば、ここまで芳醇な馥郁たる絶望の香りを放つ極上の状態にまでねじ曲がり、歪むということはないだろう。
いや、そもそも、普通の人間であれば、その前に感情が、心が砕けてしまうだろうし、どんな聖人だって、長く生きるほどに、聖なる願いは自分本位な願いへと擦り変わる。実際、かつては世界の平和を願っていたにもかかわらず、世界を平和にするためには時間が足りないと考え、永遠の命を望みだしたあたりから目的と手段がすり替わるようになり、最終的に自分が何のために永遠を何よりも望んでいたのかを忘れてしまった老人のことを私は知っている。人にとって、時間というものは精神を侵す毒なのだ。
だからこの男の存在は、奇跡の所業が生み出したものだった。人間のあらゆる絶望を収集し、人間という存在そのものに絶望し尽くしておきながら、しかしそれでもそんな絶望の側に傾きたがる自分を恥じて自らに絶望するという、そんなどこまでも絶望に満ちたその存在は、私、言峰綺礼という、人間の苦痛に歪む顔や、苦難に怯える顔を好む存在にとって、この上のない、極上の、甘美たる存在に他ならなかった。
この男は全てに絶望して、この世は地獄と判断し、この苦痛を抱えたまま生きたくないと、心底、死を願っている。しかし同時に、この男は、やはり他人を救うという目的も諦めきれていない。だから、他人を救うために、人を救うだけの感情を失った機能になろうとしているのだ。だがそれを、奴の情念が拒んでいる。
奴の情を感じる機能と自身の取り戻した情念は、死を恐れて、そんな虚像を見て過ごすよりも苦労苦痛があろうがとも、生きて幸福を見つけ出すが良いと忠告しているもだろう。にもかかわらず、エミヤシロウは、必死で自らの感情の意見を無視して、死を選択しようとしている。今奴は自分自身の中で、理性と感情が繰り広げる戦いが引き起こす矛盾から、必死で目を逸らそうとしている。その無様さのなんと心地の良いことか。
――それでこそ人間だ。人間は、そうでなくてはならない
酩酊したような気分の私が、夢見心地から帰ってくると、そうして私の心を揺らしたエミヤという男は、たいそう吹っ切れた顔で手を差し出してきていた。その顔は、私が差し出された手を握ると信じてやまない、無垢な表情をしている。だから私は……
*
「果たして冒険者とは、この様に鬱屈とした性格のものばかりだっただろうか……」
*
「貴様の自殺願望に私を巻き込まないでもらおうか」
「ガッ……」
先ほどまでとは打って変わって、こちらを信じてやまない態度、自らが作り出した涙の薄布の向こう側にて勝手蘭けたイメージの私を投影している様に腹が立ったので、とりあえず目の前の宿敵の息子を思いっきりグーで殴った。額を殴った感触は思いの外良く、奴の額から良い音がなる。それは奴が殴られた衝撃により漏らした息と合わさって、満足の瞬間を邪魔されて苛立ちが湧いた私の溜飲を下すのに、非常に役立ってくれた。
*
???
*
「――む……」
黒装束の男の声が完全に虚空へと消えていった頃、言葉を発した当人の男は少しばかり戸惑った様子で瞑っていた瞼を開けて、後ろを振り向いた。彼の振り向いた先、そこには金髪の妙齢の女性が、全身に金属鎧を着込んだ状態で、彼と似たような姿勢で廊下の壁に背を預けている。
「師匠、ドMの根暗ニンジャが『殴らないのか』って意外そうな顔してます」
やがてひょこり、と、そんな視線を向けられた彼女の横から茶髪の少女が金髪の女性へと声をかけた。師匠と呼ばれた女性は茶髪の少女の呼びかけに対して目を開くと、なんとも苦々しそうに眉を潜めながら言う。
「ほっとけ。今回、珍しく分身回避盾/シノビの意見の方が正しい」
「……!」
シノビと呼ばれた黒装束の男は、頭部のほとんどを覆う黒頭巾の微かに見える顔の部分から見える瞳に驚きの色を浮かべると、瞬時にその場から消え失せた。入れ替わり、後に残ったのは人間の胴体と同じサイズの、小さな樹木の幹ばかりである。
「あ、逃げた」
「いつもと違う対応に戸惑いでもしたか? 『くっ、私は絶対お前になんて屈しない!』『くく、この里に伝わる秘伝の薬があればお主も上の口どころか下の口も正直になる……』『や、やめろー!』『くっくっく、お主の悲鳴はどこにも届かん……』『いやぁ……!』とか女パラディンにやりそうな見た目のくせに童貞みたいな反応しおって」
鎧姿の女性の卑猥な言葉の羅列に反応して、茶髪の少女は着用した白衣を翻しながら振り向くと、ひどく呆れた様子で彼女へジト目を向けた。
「シノビに対する風評被害甚だしいですよ、師匠……。しかもその妄想の女パラディン、自分がモデルですよね? そういう危ない被虐の陵辱嗜好でもあるんですか?」
「うむ、メディ子。これはいつの世も男どもは、私のような可憐で若い美女に対して、メディックであるお前がそのバックの中に潜ませているような危ない秘薬―――」
「秘薬じゃない! 被虐だ!」
「―――を使って陵辱したいと言う嗜好があるだろうと言う判断からだな――」
「聞け!凄まじい自信だな!」
呆れた目線を向けてくるメディ子に対して、師匠と呼ばれたパラディンの女性は自信満々な態度で自身の考えを答えていたが――
「だいたいメディックの鞄の中にそんな危ないお薬は入ってないし、若き美女を自称するなら、せめて肌が水を弾くか、お肌のケアが必要ない年齢のうちに言え!」
そうして自信満々に自らの容姿を褒めていた彼女は、片側の肩からかけているバッグの中にとんでもないものが入っていると言われた他ならぬメディックであるメディ子の言葉によって否定され、余計な言葉の代償として、手厳しい言葉を返されていた。
「――で、師匠。師匠の妄言と都合の良い耳はいつものことだからほおっておくとして、シノビの意見が正しいって、どういうことですか?」
「うむ、メディ子。お前も気づいているだろう?」
しかし、そんな厳しい言葉を投げかけたメディックの少女は、自分がいましがた罵った対象であるパラディンの女性へと平然と話を振り、ほとんど罵られたようなパラディンの女性もまた平然とした態度でメディ子の言葉に再び答える。投げかける方も投げかける方だが、無視できる方も無視できる分だけ、互いに面の皮が厚いといえよう。
「――この、こう、なんか、こう、いつもと違う感じで、街が嫌な方面に変な感じがするというか……」
パラ子はそうして金属の籠手で覆われた両腕を動かすと、物を握りこむような動作をした。
「――ああ、ええ、なんか、こう……、いつもと違いますよね」
「そう、こう、なんか、こう、あれなんだよなぁ……」
メディ子と呼ばれた方も、パラディンの彼女と同様に首を傾げながら手を虚空で動かす。対してパラ子の方も、同じような動作を取り続けている。二人は同じ感想を抱きながらもそれを言い表す言葉が思い浮かばなかったようだった。
「貴方達、語彙力が貧相すぎない?」
やがてそんな二人を、呆れた視線で見つめながら、ダブルのコートにモコモコとしたファーのある帽子を被った格好をしている彼女が奥から出てきた。メディックの少女と同じくらいに幼く見えるパラディンの女性と同じ金髪を靡かせる彼女は、この場で最もしっかりとした雰囲気を纏っていた。
「――まぁ、貴方達が言わんとしてることはわかるわ。なんていうか、どうも私達が冒険してた時と違って、根暗な雰囲気よね。行動や言語の一々が必死すぎて、正直、引くわ」
「それだ、ガン子! 流石はガンナー、弱点を突くのが得意だな!」
ガン子と呼ばれた女ガンナーの発言に、女パラディンは過剰な反応した。まさに我が意を得たりと彼女を遠慮なく指差して反応した女パラディンは、そのまま腕を組むと、大いに頷いて、ガン子の言葉に首を頷かせた。
「そうだ! ガン子のいうとおりだ! どうも根暗で必死で、いちいち悲観的過ぎる! なんだ、あの、いかにも死にたいですオーラを放っている構ってちゃんな住人どもは!召喚された名の売れた伝説の冒険者たちですら影響されつつあるじゃないか!」
「いえ、パラ子。話を聞くところによると、一部の召喚された冒険者たちは、元々どうもそんな感じだったらしいわよ」
「なんだと、馬鹿な!?」
憤慨した様子のパラ子にガン子は語りかける。ガン子の言葉にパラ子はたいそう驚いたと言わんばかりに仰け反った。
「じゃあ、彼らのあの陰気さは元々だってのか!? 私達の時代の冒険者といったら、もっと……、こう……、――私みたいに元気だったぞ!」
「冒険者みんなが師匠みたいに頭チャランポランだったら、世界はとっくに何度か滅びてますよ……」
「どうも召喚された人のうち、元々責任感が強くて真面目だった、それこそ世界のピンチを救ってきた人たちほど、この鬱屈とした雰囲気に飲み込まれているみたいね」
この程度の罵倒とやりとりは彼女にとって日常茶飯事なのだろう、ガン子は、師匠と呼ぶ女性を平然と罵ったメディ子と罵られながら平然としているパラ子を無視して話を進めた。
「まぁ、世界のピンチなんてもんに立ち向かうのは、元々ある程度責任感があるタイプの人だろうから仕方ないって気もしますけど……」
メディ子もガン子のこのような反応には慣れっこらしく、平然と彼女の言葉に反応する。
「それにしても酷すぎない? まるで国中あげてお葬式やってるみたい。側にいるだけで息苦しくなっちゃう。私が珍しくシノビの意見に賛成したくなるくらいには、世界全体が鬱屈としているわ」
「なんていうか、こう、お薬キマっちゃってる連中みたいだったよな。真面目そうな外見の奴なのに首刈りバニ男みたいに根暗ってるっていうか……」
「……誰か来たぞ……」
「おぉ!?」
やがて自らのイメージと合致する適切な表現言葉を探して再び手を虚空に動かしていたパラ子は、自らの頭上より聞こえてきたこえにたいして過剰なまでに驚いて見せた。彼女が頭上を向くと、そこにいたのは――
「戻って来ていたのか、ネクラ!」
「……」
先程からコロコロと名称を変えられているその本人だった。シノビと呼ばれる職業である彼は、その優れた身体能力によって、三メートルほどの低い天井の上から逆さまの姿勢でぶら下がっている。自分が多分、罵られているのだろうと知っているだろうに、しかし彼はパラ子の態度に対して平然と無視を貫くと、瞼を閉じて腕を組んだままの姿勢で黙り込む。これ以上この女と話すことはないと言わんばかりの毅然とした態度だった。
「――あのぅ……」
やがて狭い廊下の向こう側から、彼の忠告と通り、誰かの声がした。声に反応して振り向いた驚いたのち、シノビの彼の後ろかけられたシノビのかしましい彼女たちに話しかけて来たのは、頭部に立派なヘラジカのツノをたずさえた、メディックやガンナーの少女よりも、さらに一回りほど小さい少女だった。
「ん……な!?」
声にシノビから少女へと視線を向けたパラ子は、途端に全身をのけぞらせて、驚きを露わにする。パラ子には頭部のツノが、飾りなのか、生えているのかは、この暗闇ではわからなかった。否、それよりも特筆すべきは――
「なんだこの子! ほとんど裸だぞ!? 」
そうして現れた小さな彼女が、裸身にケープを巻きつけて、乳房と陰部を隠しただけの格好で出てきたということだった。
「おい、根暗男、お前まさか……!」
パラ子は天井からぶら下がるシノビに視線を向けなおし、その眼光を鋭くする。
「いや、このおなごは元々……」
「確保ぉ――!」
シノビの彼が口を開いて言いかけたところ、そんな天井から逆さまにぶら下がっている彼の顔面に対して、メディ子が、叫びながら唸りを上げてざっと人の頭ほどもある大きさの鉄金槌を振るう。柄の部分まで合わせれば少女と同じくらいの大きさはあるそれには遠心力が加わり、シノビのぶら下がっていた空間を瞬時に突き抜ける。まともに食らえば惨劇になること間違いないその一撃はシノビの頭をスイカのように突き抜け、砕き――
「自首しましょう! て言うか突き出しましょう! 世界が混乱している今なら温情がついて懲役も執行猶予くらいですむかもしれません! ――って、これは……!」
「空蝉だとぅ! 」
などはしなかった。否、彼女の鉄金槌は、彼の代わりに樹木を打ち砕いていた。天井より落下した樹木の破片が辺りに飛び散る。ニンジャはメディックの攻撃を先ほど同様に樹木を自身の代わりとすることで防いでいた。メディ子と呼ばれる彼女が砕いたのは、そのシノビが自身の代わりにその空間においた樹木の幹だったのだ。
「いかん、メディ子よ! あの性犯罪者を逃すな! あれが他の少女に毒牙をかけないうちに捕まえないと、奴の仲間である私達の悪評となり広がってしまう!」
やがてあたりを見回したパラ子は廊下の奥、突き当たりの廊下に彼が首に着用している長いマフラーの姿を認めると、迷わず抜剣して突撃する。
「凄まじく保守的な判断からの対応! でも異議なし!」
やがてメディ子もその後に続き、二人は狭い廊下を駆け抜けていく。
「あ、あの……」
そんな三人のやりとりに、声をかけた少女はおずおずとその場に残った唯一の存在――ガン子に対して話しかけた。
「ああ、あの馬鹿どものコントは気にしないで頂戴。いつものことだから。――それで、貴方はだぁれ?」
話題を振られたガン子は、バッサリと仲間のことを言い捨てると、疑念のこもった鋭い視線をほとんど裸の小さな少女へと向けた。少女はようやくまともに自分の話を聞いてくれる人間が現れたことに安堵したのか、顔に花のような笑顔を浮かべると、しかしどこか厳かな雰囲気を含んだ口調で言う。
「――私は人間の無意識のうちに潜む、『生きたい』という願いの結晶であり、代表です。今回は、貴方達をこの世界で生きる意志に溢れた人達と見込んでお願いに来ました」
*
帝都
*
「言峰綺礼……、貴様何を!」
拳で打ち抜いてやった額を抑えながらこちらを見る奴は、思いのほか元気そうな声で私が今しがたくれてやった一撃に対しての文句を言ってくる。その態度から奴の茹だった頭が未だにキチンと冷めていないことに心底呆れた私は、思わずため息が漏らしてしまっていた。
「貴様の妄執と我欲に付き合って犠牲になる気は無いと言っている」
「――何を」
「そのままの意味だ。貴様、自分の先ほどまでの発言と行動を思い返してみると良い」
「――」
あの男の息子は私の投げつけた言葉をまともに正面から受けいれると、奴は腕を組み、真剣な表情を浮かべ、先刻の自らの無様を振り返る事に没頭し始めた。思考を働かせる表情には衛宮切嗣の面影があった。それが非常に腹ただしく、もう一度殴りたくなる衝動にかられる。だが、第四次聖杯戦争の折、縁あってあの男と対峙した際、あの男はこのように投げかけた私の言葉をまともに聞き入れる事はしなかったし、真剣に思考を巡らせるなどと言うこともしなかった。その点を加味すれば、最低限の及第点は超えていると判断した私は、力を入れかけた拳から力を抜く。
――ふん
もちろん、当時、私と奴が完全な敵対関係にあったと言う事情を加味すれば、私の言葉を敵の甘言戯言として一切を切り捨てる衛宮切嗣の態度の方が、敵、あるいは元敵である関係の人間に対して向ける態度としては正しいのだとは私も理解、認識している。だが、だからこそ、そんな男の息子がこうして敵の言葉を一々まともに受けとって見せる事に、違和感を覚えて、その差異が不理解の苛立ちとなり、感情を逆撫でられてしまうのだろう――
「なぜ、私は、あの様な事を口に……」
などと自らの体の不明を嘆いていると、自省を済ませた奴の息子が、自身の口にした言葉がどこからやってきたのかわからないと言う混乱の様子で呟いた。
――ふむ
奴の呆然とした態度と無駄に鋭い眼光を遊ばせるような所作から、今しがた漏らした言葉は、真剣な悩みの末に漏れただということが理解できる。そこで私は、ようやく奴の様なが先ほど世迷いごとを私の前で恥じることなく述べた事情を、完全に把握した。
――なるほど、その何があろうと人類全体を救ってみせようとする妄執さ
衛宮切嗣は人類全体が今すぐ自らの望む理想に変わりはしないのだという真実に絶望して人類全体を自らの傀儡にする事で、永遠に自分にとって優しい世界を作り上げようとした。
――そして幸福の永久持続などという、この世にありもしない結果を求める稚拙な思考
目の前にいる奴の息子は、人類が即座の意識が即座に変わる事はありえないという事実を認め、人類はいつまでたっても平和とは無縁の生き物なのだろうと絶望しながらも、それでもなお人類の為に何か出来ることはないかと悩んだ結果、自らが人類のための傀儡となり、彼らが幸福を見つけられるまで寄り添って少しずつ変えていくことを望んだ。
――なるほど……
衛宮士郎のそれはとても現実的な理想だ。衛宮士郎は、幸福が永久に続かないことを理解している。そこまではいい。だが、それをわかったうえで、奴はすべての人間を救いたいと願っている。何があろうと、永遠の幸福などというものを望む。それは、間違いなく、衛宮切嗣の理想だった。
おそらく長年、衛宮切嗣の思想を自らの行動の軸として活動してきたことで、奴の魂は根本の部分から歪めているのだろう。衛宮切嗣の思想が、衛宮士郎の思考を歪め、永遠の自己犠牲へと衛宮士郎を導いている。つまり。
「貴様も、未だに人間を個人として見ず、数の上でしか見ていない類の人種、という事か」
――衛宮切嗣は、衛宮士郎の中に、まだ生きている
「なに……?」
訝しげな視線が私へと向けられる。その透明な疑念の感情を、しかし、そうして私の心からの憎悪を掻き立てる奴の仕草は、間違いなく、あの宿敵が見せる顔の、所作のコピーだった。だが、奴の視線の中に、憎悪はなかった。その無防備でちぐはぐな様がひどく腹だたしい。
「まるで貴様は、やはり未だ、衛宮切嗣のようだ。人類の集合無意識の生きたいという回答と、貴様の魂の芯にまでへばりついているあの男の思想と、貴様自身が抱える絶望が組み合わさって暴走した結果こそ、先程の妄言をほざくに至ったのか」
「意味が……」
――ああ、気分が悪い。反吐が出そうだ
先ほどまでの幸福感が失せてゆく。私は、いま奴の息子は、確かに、何一つ理解しないままに、借りてきた孔雀の羽を纏うが如きそんな思考をめぐらせ、仕草を模倣して行っているだけなのだと言う事を、心底思い知らされた。安寧を提供してくれる闇の中から、全身を焼き尽くしてしまいそうなほどの光に満ちた場所へと引きずり出された気分だ。ああ、本当に――
「本当に。あの男もやっかいな呪いを残していったものだ。まぁ、その様な極上の呪いだったからこそ、この様な、絶望という絶望を踏破し、収集し終えた男が出来上がってくれたとも考えられる……、と、そう考えると、なるほど、案外奴め。そちら方面の才だけはあったと見える」
「何を――」
少しばかり奴の表情に警戒の色が浮かぶ。そうして他人の言葉に疑念を向ける態度の中に、やはり衛宮切嗣の面影を見つけて、私は心底うんざりとした気分になった。やはり、あの男がこの絶望の化身たる衛宮士郎という男の中で生きている。それが本当に――
――本当に、心底、憎らしい
「貴様、先程のその踊るだの何だのの結論はどうやって導き出した?」
「それは――、自然に脳裏に――」
「浮かんだのだろうな。――、そうだ。物事は等価交換だ。人類の無意識が世界を破滅に至らせる情報を誰かに提示する際には、同時に、そんな世界を救ってみせる方法を誰かに提示する」
「――つまり?」
「世界の残酷さに耐えられなかった弱者どもが、世界の破滅と再誕を願った時、彼らの前にシンという救い主が現れたように、何もかもを救いたいと願う貴様の意志に、人類の無意識のうち、生を望む側が呼応し、貴様の脳裏へと返答を行った」
「――」
「おそらく人類の無意識が貴様の無意識の中に提示した答えと、そして、その先に広がる未来というものは、強欲で救いようのない人類が、有史以来、それでもなんとか滅びずにやってきた方法であったのだろうことも、私には見当がついている。おそらくそれは、今までとまるで変わらない、愛した相手と子をなし、彼らの子らも、成長したのち、また、愛した相手を見つけ、子を持ち、そして世界を続けていくという、そんな、何の変哲もない方法だったのだろう?」
ビクリ、と奴の方が震える。奴のそれは無意識の反応だったのだろうが、その様子を見て、私は自らの推論が正しいのだろうことを、確信した。
「そうだ。多くの人を救う方法なんてのは、実はとても単純で簡単な方法だ。だが、意思を受け取る側の貴様は、貴様の内の、意識や、無意識は、大幅に衛宮切嗣という男の呪いによって歪んだ思想と、そんな思想によって培われた貴様自身のメサイアコンプレックや、抑止力の一端として他者を排斥し続けてきた絶望の経験が、共に、そんな単純な手段で世界が救えるのだという事実を否定した」
奴は私の一言一言に反応し、体を震わせる。そんな悪事を暴かれる子供のような態度を見て、私の確信はよりいっそう、深いものへとなってゆく。
「そんな単純な手段で世界が救えるというのなら、否、世界がすでに救われていたというのであれば、今までの自らの養父が重ねてきた労苦と生涯が、真に徒労だったという結論に達してしまう。自らの過ちを過ちと認めるのは何よりも難しい。貴様にとって、衛宮切嗣が貴様に授けた正しい教えから別の結論の場所に一歩を踏み出すというのは、貴様自身がこれまで歩んできた生涯と労苦の否定に他ならず、今の感情を取り戻した貴様にとって、そんなこれまでとはまるで異なる未知なる道を歩むことが、何よりも恐ろしいものとして映った」
人間が最も恐れるものは、『わけがわからない』未知なるもの、だ。だからこそ人間は、未知に対して、なにかと自分の納得できる理屈と方便を用意して、自分を安心させようとする。しかして、その理屈や方便が用意できなかった場合、あるいは、用意した理屈や方便があまりにも自分にとってあまりに空想に過ぎるものである場合、人間は――
「自らの作り出した固有結界から一歩外の未知なる世界へと踏み出そうとした貴様は、しかし、自らの外側の世界に広がる自らの常識外の法則が無限に闊歩する社会へと一歩を踏み出す事ができなかった」
絶望し、恐れ、一歩を踏み出せなくなる。感情と知識の動物である人間は、未知なる獣の闊歩する平原へと繰り出すのを恐れるのだ。そして、それでも人間がそのような場所に出向かなければならない場合、人はその未知なる場所に、己の理解できるルールを見出すか、あるいは、その場所でも自らが活動できるよう、その場所に敷かれている法則を変えようとする。
「だから貴様は、そこにかつて貴様が軸としていた切嗣の思想を組み込んだ、抑止力システムを構築して、社会を自らにとって生きやすいよう、自らの理屈が通じる世界に変えてやろうという考えに至った。さらに他人を救いたいと思うくせに、人間を信じきることの出来ない貴様は、自らは人と彼らが構成する社会の外側、すなわち、境界に居座る英霊の様な存在となることを望んだ。それがあの醜態の真実、といったところだろう」
「――」
そして衛宮士郎は、後者を選んだ。自らが理解できないことを奴の息子は、思いもよらぬ所から、自分すらも気づいていない解答を聞いた、と言わんばかりの呆けた顔を晒す。
「『滅びに通じる門は広く、命に通じる門は狭く、その道は細く、その道を見出すものは少ない』。マタイ福音書の言葉にある主のお言葉だ。自らの考えを他者の生きる社会に適合させたいのであれば、その社会が定めたイニシエーション/通過儀礼を達成して、世界とそこに住まう人々に対して自らは貴方達と同じく立派な人間であり、そうであると同時に、他人に寄り添い、理解しようとする意思を持っている人間でもあるのだということを示し、認めさせなければならない」
多くの人間が住む場所にて適用されている常識や法則を変更したいなら、彼らに自分の考えや経歴を明かし、自らを認めさせる必要がある。しかし。
「だが、自らの生涯は恥ずべきものとして偽りと過ちだらけであったと断ずる貴様は、だからこそ、自分を恥ずべき絶望に満ちた生涯を公開した際、あるいは、そんな絶望しか持たぬ己を社会が受け入れず、認められず、自分の望みが叶わない可能性の方が高いのではないかと恐れ、そんな偽りと過ちの道を歩んできてしまった自分には何も出来ないと思い込み、無様な己を晒す事を恐れ、逃げた」
自らの手の内と背景を明かすというのは、度胸を必要とする作業だ。少なくとも、自らの生涯を恥じている人間にとって、あるいは、自らの生涯が話そうとしている対象に不愉快を引き起こすような内容であれば、それが本人にとって苦痛と絶望に満ちているのであれば、さらに余計に度胸を必要とする。
「だから貴様は、社会が、他人が望むものと、自らを照らし合わせ、自らの足りない部分を知り、埋めるために研鑽し、価値観を徐々に共有させてゆく労苦を惜しみ、彼らの思考の中に自らのそれを無理やり埋め込む、抑止力システムを望んだのだ」
だから衛宮の息子は、法則化しようとした。自分の考えは、変更要件ではなく、前提条件なのだとして、労せず他人の納得と承認を得ようとした。かつての衛宮切嗣と同じように。
「私にそんな気は――」
「ない、と。――、嘯くのはよくないな、衛宮士郎よ。自分が先ほど言った、世界のシステムを書き換えるとかいう行為は、かつて貴様が正義の味方と崇めた切嗣という男の、理想を軸にして弱者を一方的に無視し切り捨てるやり方や、あるいは貴様が英霊となるまでに他人に正義を押し付けてきた虐殺行為と、一体何が違うというのかね? どちらも同じ、人間個人の中身を見ずに、自らの考えこそが絶対正義であると考え、己が形式に当てはめて世界を支配しようとする行為だろう?」
「む……」
「すなわち、貴様は未だに衛宮切嗣という、世界に対して絶望を抱えた亡霊の呪いから逃れられていないのだ。しかもそれが絶望に浸っている貴様にとって、最も輝かしい最後の希望だから、呪いとわかっていながら、そこから離れようという発想にすら至っていない」
「――」
「自らの気持ちを偽ると辛いだけだ。自身の気持ちを自分くらいは認めてやらねば、他の誰に認められようが、傷として永遠に残ることとなる」
説教してやるも、奴の息子は戸惑った様子ながらも真剣さを崩さないまま、尋ねようとする。奴は今、視線を彷徨わせ、唇を噛み、懊悩の様子を見せていた。私は奴のため、じっと唇を動かさず、視線を固定させたまま、奴から意識を離さない。
「……私は――、だが……」
奴の顔が辛苦に歪む。口元は、そんな歪んだ思想を追い出したいが、しかし、どうにも腹の中どころか、脳や臓腑の奥底にまでへばりついたものが出ていかぬとでもいうかのように、開いては閉じ、開いては閉じを繰りかえしている。そうして苦悩する奴の様は好ましいものだが、苦悩の原因があの衛宮切嗣に起因するものだと考えると、反吐が出そうになる。
――死者の妄念は何より強い、か
奴は今、感情は父から離れようとしているが、理性がそれを拒んでいる状態だ。衛宮切嗣という死者の悪霊が、英霊エミヤの、衛宮士郎という男の魂の奥底にまでへばりつき、奴の意識変革と成長の邪魔をしている。そしてそれらを保有したまま生き続ける事がこれほどまでに苦しいのなら、生きたくないと、いますぐにでも死んでしまいたいと願っている。
これが悪霊の、死者の呪いの恐ろしさだ。魂に刻まれた傷が生きた人間から発せられた言葉や行為であるならば、言い返し、論破するか、あるいは復讐することで呪詛返しも出来ようが、死人は聞く耳も語る口も、体や大事なものを破壊された所でそんな言葉や行為によって傷付く魂をもすでに持たないのだ。死人の言葉や行為によって刻まれた魂の傷は、歪みは、本人に返せない。いつか壊れるその時までそのままだ。そんな面倒なもの、いつもの私なら放っておく類のものであるのだが――
――それはあまりに勿体無い
だが私は、この開かれる前のパンドラの箱の様な、この世の全ての絶望を収集したがごとき存在をこの世から失せさせてしまうというのは、あまりにも惜しいと思った。あれの中から衛宮切嗣という男の存在が消えたのならば、あれの完成度はさらに高まり、生きながらにして、他人の絶望を収取し彼らに救済を与えながら、しかし自らは誰にも救われず、絶望し続けるという、なんとも素晴らしい矛盾と解決不能な苦悩を抱えた人間になるだろう。
――私はそんな、完璧な絶望を最も体現する存在となるだろ奴を見てみたい。
そのためにはまず、魂が傷ついた分を、他の人間の魂の成分で補填してやらないといけない。言葉と行為によってつけられた誰かの魂の傷は、歪みは、同じく、別の誰かの心からの言葉と行為によってでしか、癒されない、戻せない。
――ああ、まったく、なんて手間のかかる
すなわち、この、衛宮切嗣という存在によって救われたと思っている、衛宮切嗣の思想に歪んだ男を元に戻すには、衛宮切嗣がこの男の魂につけていった傷以上の施しを与えて奴の傷を癒してやるか、あるいは歪んだ方向と正反対の方向に無理やり歪ませてやるしかない。楽であるのは断然後者だが、無理やりの手法ではダメだ。
――あの衛宮切嗣という奴は本当に……
それではこの男の、地獄門がごとき儚き美しさが失せてしまう。だからこの在り方が壊れぬ様、巧妙なやり方で、衛宮切嗣と言う名の傷をこの男から取り上げるしかない。ああ、この衛宮の親子は本当に……
――本当に、どこまでも、私を不愉快/愉快にさせてくれる
「な、なんだ!?」
そんな会話のおり、銀座の方面から聞こえてきた破壊音に、奴は慌てて振り向いた。奴の視線の先では、ビルの一棟が狼男によって切り倒され、瓦解の運命を辿っていた。
「どうやら奴は街の破壊にご執心のようだな。あの様子ではあと十分と持たずに銀座は壊滅するだろう」
「ライドウ……!」
奴は唇を噛む。言葉から察するに、狼男の中にいる、帝都の守護者とか言う人間の事をおもんねり、怒りと心配の感情を引き出しているようだった。
――帝都の守護者、葛葉ライドウ……
おそらく奴の息子である衛宮士郎が、抑止力システムの中に自らを組み込もうと考えるようになった一因は、このライドウとかいう男の在り方に憧れたという面もあるのだろう。人々の暮らしを脅かす人ならざる悪魔という存在が日常のすぐ裏側、闇の中を闊歩し、それらによって常に世界の安寧が瓦解寸前の状態でありながら、ライドウやヤタガラスという絶対的な存在によって平和は保たれている。
その存在を知るのは一部の人間のみであり、大衆が気付かぬうちに全ての問題を解決する。まさに物語のお話の中に存在するような、理想的な正義の味方の在り方だ。なるほどその辺りの正義の味方然とした存在が、黄金時代の果て、感情を取り戻した衛宮士郎の中の衛宮切嗣の理性と思想を叩き起こして、奴の息子の思惟を再び侵食し始めたのか。
「――話し合いたいことは山ほどあるが、後回しだ。一旦、あれを止める事を最優先に動く」
「ふむ」
私が奴の息子の思想の移り変わりを考察をしていると、いうやいなや、奴の息子は身を翻して、帝都の建物の屋根へと駆け上がった。一直線に銀座まで最短距離を突っ切る算段なのだろう。悪魔『マンセマット』と化したことにより元英霊である奴と同じ程度の力を手に入れている私は、奴と同様に屋根の上へと跳躍すると、その横にすぐに並び立つ。
「行くぞ」
そうして奴は一言呟き、赤い外套をはためかせながら、私に完全に背を向けた状態で、空中に飛び出した。奴はすでに、私を敵としては認識していないのだ。一度信じるに値すると決めた相手を無邪気とことん信ずるその様を、まるで子供のようであると私は感じた。
だが同時に、奴の持つその身体能力や思惟は、大人のそれに到達している。奴は今、大人と子供の境界にいる存在なのだ。
――なるほど、モラトリアムか
今、母代わりの女/凛の腕の中の安寧から抜けた出した男は、父/衛宮切嗣の幻想を打ち破り、自我を確立し、自らの足で現実へ向けて歩き出そうとしている、まさにモラトリアムの真っ最中の、人の幸福と命の答えを探している青年だった。今、その男は、衛宮切嗣の呪いによって、魂を地に縛り付けられて、混乱の渦中にいる。ならば。
「なるほど、衛宮切嗣の後継者であるアレの中から、貴様の残した呪いの痕跡を殺しきってやる事こそ、お前に対する最大の復讐になるかもしれんな」
「――」
私のつぶやきに反応したのか、こちらに背を向けている奴は、背を揺らした。奴にとっては聞き捨てならないだろう言葉に、しかし奴は何も尋ねてこない。
「――」
「――」
帝都の異界は現世に比べて幾分か暗い雰囲気を放っている。幻想と現実の狭間の中、私と奴は一足飛びに屋根上を蹴り飛ばしながら、高砂の松にも見える建物が次々と狼男の手によって崩れ落ちて行く銀座へと近づいて行く。
*
「すまない、遅くなった」
「アーチャー!」
『エミヤか!』
破壊が進む銀座の中、味方の影を見つけて降り立つと、一人と一匹がすぐさま近寄ってくる。凛とゴウトだ。彼らはそれぞれに、安堵と焦燥の表情を浮かべていた。
「――状況は?」
「最悪。ライドウが狼男になって、シンが死んだわ。おかげで響が今、使い物にならなくなってる。シンの死体の側から動かなかったから、遺骸ごと無理やり引っ張ってきたけど――」
自分たちの木を落ち込ませている原因はそこにあると告げる凛の視線を追うと、ビルの端では響が地面にぺたりとへたり込んでいるのが目に入った。響は今、生気の失せた顔で、アンドロとなったシンの上半身だけを抱きかかえ、虚ろな瞳でシンの動かない遺骸だけに視線を送りながら、彼の遺骸を撫でて続けている。狂気を感じさせる行動には、しかし慕情や母性を感じさせる手付きでもあって、それがいっそう、彼女のその行動を狂気じみたものへと変貌させていた。狂人の様に成り果てた彼女のことも気になったが、それよりも――
「シンが死んだ?」
「ええ。彼の魂の保管されている――、フォトニック純結晶だったかしら。あれをライドウに破壊されてね」
気になるのは、シンの死因だ。尋ねると、凛は頷き、目を伏せる。仕草には、弔いの意味もあったのだろう。だが、そうしてサッとシンへの哀悼を済ませた凛は、いつものような凛とした態度を取り戻した。その切り替えの早さはなんとも彼女らしく、私はそんな彼女に対して頼もしさを覚えた。
「どうして、また」
「彼がそれを望んだからよ」
『――その通りだ』
そうして感情から余分なぜい肉を削ぎ落としたかのような口調に戻った凛の発言に割り込んできたのは、彼女とは逆に、ひどく苦々しい口調のゴウトだった。彼は猫の髭と尻尾と全身とを使用して、器用に人の悲しみの感情を貼り付ける事に成功していた。
「――ゴウト」
『目の前で暴れる狼男。あれはライドウが変貌したものだ。その力は絶大で、未知数。突破口すら定まらん。そして奴は、そんなライドウに挑みたいと言い出した。それは帝都を守るという大義を持つ儂からすれば絶対的に止めねばならぬ愚行であったと同時に、敵の力を図る試金石として必要不可欠な犠牲だったといえよう。あやつはライドウに挑むことを望み、そして死んでいったのだ。――そして儂らはそれを見殺しにした』
「――そうか」
――シンらしい結論と結末だ
『軽蔑の言葉の一つでもぶつけてくれて構わんのだぞ』
ゴウトは視線を逸らさない。その仕草の意味するところは私にもよく理解できたが、だからこそ私が言葉をかけるわけにはいかない。なぜならそれは。
「それで君が楽になるのならぶつけてやってもいいが、その場に居合わせなかった私に君を責める資格はないと私は思う。同時に、それは、その場でシンの死を受け入れる選択をして見送った君たちが受け入れるべき痛みだと思っている。私に君たちの痛みはわからない。だから私は、あえて何も言おうとは思わない」
『――そうか』
「そうね。そのとおりだわ」
彼らが背負わなければならない傷だからだ。そしてゴウトと凛が納得の姿勢を見せたところ、パチパチと柏手を打つ様な音が私の背後から聞こえてくる。凛とゴウトが反応してそちらに目線を送った瞬間、彼女らの態度の変貌から、その音を発した人物の正体を確信した。
「――素晴らしい。言うではないか。先程境界で戸惑っていた小僧にはとても思えん。――、まぁ、見たところそこの一人と一匹は、正しく理知、理性的な、合理的な判断を下す存在だ。そのような他人との相互理解を求める場合、必要となるのは個人の共感よりも俯瞰の視点からの冷徹な判断。理性の権化のような貴様にとっては交わるに楽な部類か」
『――お、主は!?』
「綺礼!? あんた、なんで……!」
ゴウトと凛は、これまでこれらの現象の下手人として追ってきた人物が突然現れるという異常に対応できず、これまでのしおらしい顔と態度を一気に崩して、凛は背を丸め両手を前に出し警戒した猫の様な姿勢で警戒を露わにし、ゴウトはさらに全身を逆立たせ立ち上がらんばかりの勢いで人間の様に驚いた。
「私が望んで奴と協力関係を結んだ。もはやこの男は、私たちの敵ではない」
『な……』
埒をあけるべく私が述べた言葉に、ゴウトの体から警戒の態度が完全に抜けて、瞳孔が開き、口は半開きになっていく。ゴウトの猫の体の顔に生えた髭が豊かに動き、彼の内面の焦燥と混乱を露わにしていた。おそらく、味方が敵になった直後、敵が味方に、という感情の変動を引き起こす事態が続いたため、彼が冷静を保てる感情の分水嶺を超えてしまったのだろう。
「……そう、わかったわ」
一方、凛は私の言葉を聞いた途端、ふっと肩から力を抜いて、どこか寂しそうに、彼女と地面の微かな虚ろな隙間に目を向けた。凛の歪んだ蛾眉が斧鉞となり、彼女が今しがた抱いたのだろう感情が私の骨の髄にまで染み入る様な気分になる。キリキリと胸が締め付けられる様な思いが熾火となりかけて――
「随分と物分かりが良くなったではないか、凛。貴様にとっては両親の仇がまさに目の前にいるのだぞ? 殺して仇を復讐しようとかは思わんのかね?」
だが、そんな私の胸に残るさしもぐさに余計な火が着かないうち、寂寞の雰囲気を纏っていた凛の態度を崩して、ついでに赤沼へとはまりかけていた私を拾い上げたのは、やはりというべきか、他人から憎悪を向けられることを良しとし、他人が懊悩する様を見て悦に浸る感性を持つ、言峰綺礼という男だった。
「そうね。でも、この馬鹿が貴方を受け入れるといったのよ。だから、私もあんたを受け入れる。ただそれだけのことよ」
だが凛は言峰の挑発の言葉に一切耳を傾けず、平然と私にとって嬉しいことを言った後、同時にお前の存在などどうでもいいと切り捨てた。言峰は無表情な無骨な面の上に、愉快そうな感情を隠しきれないとでもいうかのように口を三日月に歪ませた。
「私を許すと?」
「勘違いしないで、綺礼。私は、私の両親の死因と関係しているあんたを許す気なんてさらさら無いわ。ただ、あんたみたいな外道の存在なんかより、アーチャーの存在の方が私にとってよっぽど重要だから、私はアーチャーの判断を尊重して、一旦私の感情を保留にすると決めただけ。あんたの存在なんて私にとって、その程度のものにすぎないというだけなんだから」
凛は言峰に、きつい口調で返す。その口調の端々にあらわれる刺々しさからは、冷静な態度を保つ彼女が、その実、腹の底では目の前の男をぶち殺してやりたいほどの憤怒を抱えていることが理解できた。
「手厳しい。だが、それでいい。それが正しい。お前は人と社会とモノの道理と言うものをよく理解している」
そんな凛の抑えきれない激情を秘めた口調での回答を聞くと、言峰は、まるでテストで満点の解答を持ち帰った子供を見るかの様な目で彼女を眺め、心底納得したと言わんばかりに、数度首を縦に振り、慈愛の視線を送った。
「ふん……」
「ふ……」
凛はそれをいかにも迷惑だといわんばかりの視線で叩き落とすと、顔を言峰から逸らして、決して受け取らぬという拒絶の姿勢をとった。今のところ、一応は敵対する気はないが、積極的に関わろうとも思わないということだろう。言峰はそんな凛のつれない態度にますます気分をよくしたらしく、笑いまで漏らして、その喜びを表現する。それがいっそう、凛の癇の虫を不機嫌にさせたらしく、また、さらにそんな彼女の懊悩が、よりいっそう、言峰綺礼を昂ぶらせる。なんとも堂々巡りの悪循環だ。
――このままこの男に自由を許しているとさらに厄介なことになりかねない
「言峰。世界を救う方法を知っていると言っていたな。ならばまず、あれを止める方法を教えろ」
思った私は、一旦、この話題を打ち切って、本筋に戻してやることとした。凛とゴウトの視線も自然と言峰と私の二者に集中する。警戒のみだった視線の重苦しい圧は、徐々に期待を含んだ柔らかいものへと変化してゆき……
「いや、もうわからなくなった」
「――なに?」
そして戻ってきた答えに、私は困惑した。
「言峰――」
「そう怒るな。――貴様と合流する直前までは、確かに救う方法を知っていたとも。だが、わからなくなったのだ。黄幡の儀式により、ライドウという強力な存在を祭り上げることで生み出された自然神フェンリルは、やがて角笛の音が時を告げたその後すぐさま神話の狼、フェンリルの下顎となり、地下世界を喰らい尽くす顎とする。また、サコとかいう女が捕縛した方のフェンリルは、もう一つの世界の世界樹の迷宮へと放り込み、蠱毒の儀式によって速やかに狼の上顎となり、残りのもう半分を飲み込み、やがてスルトの炎が世界を焼き尽くしたのち、シンによって世界は再建される――、そういう計画だった」
「だった……」
「だが、その先にあるのは、絶対なる力を持つ神の庇護下でヌクヌクと過ごしながら、誰もが満足のうちに死んでゆくなどという、他者の苦痛や傷、醜いもの喜びとする私にとって、まさに地獄の様な光景が続く未来。――、ただ楽に過ごせるだけなどという、そんなくだらない世界、私は断じて認めない。楽園はこの世にないからこそ、尊き楽園なのだ。だからそんなくだらぬ思想を実現しようとする愚か者共の計画を、この世界を救うことにご執心な貴様を使ってぶち壊してやろうと考え、ついでに世界を救うなどというくだらぬ片棒を担がされる事となる憂さ晴らしの代わりに、おそらくは貴様にとって楽園となる世界を作る計画を自らの手でぶち壊したと言う事実を貴様に突きつけ、貴様を弄って遊ぼうと思っていたわけなのだが――、残念、それは叶わなかった」
言峰は大して残念ではなさそうな顔でそんなとんでもない台詞をさらりと吐いた。
「――――、ライドウがフェンリルではなくライカンスロープとなり、暴れ出す。そんな未来を私は知らない。つまりライドウがそうなった時点で、私の知識はあまり役に立たぬものへと変貌したのだ。――だが、何、案ずることはない。今となっては、私などよりもよほど貴様の方が世界を救う方法や、ライドウを元に戻す方法を知っているはずだ」
「――私が?」
いきなり話をふられた私は、困惑した。その場の視線が集中するのがわかる。言峰に世界を救う方法を聞いた時よりも期待が高まっている、というのを、肌で感じていた。奴よりも私を信頼してくれる気持ちはありがたいし、わからないでもないが、そうは言われてもわからないものはわからないのだ。
「先程、こちらに来る前の問答の折に言っただろう? 世界は、人の集合無意識は、真に答えを求めているものに対しては、求める答えをその個人の無意識のうちに送り込んで来る。つまりは、貴様が真に他人を、世界を救いたいと願っているのであれば、この場面においてどのように動けばよいのか、という答えは、自ずと浮かび上がって来るだろう」
「意味が――」
わからない。そう言いかけて。瞬間、頭に稲光がはしった。脳の内部より生じたそれは、あっという間に目の内側から外側にまで飛び出て、私の意識をある地点へと誘導した。
――あれは
ふらふらとそこへと近づく。その行為に私の意識は介在していなかった。私はただ、私の中から私の行為を眺めているだけ。やがて薄く氷の膜が張った地面の上、幽鬼の様に進んだ私は、未だにライドウがばらまく土埃の中から、銀色の管を見つけだす。
「これは――」
『そ、それは、ライドウの悪魔召喚管!――そうか、なるほど! ライドウに憑いている悪魔だけを調伏して捕縛し、封印しようというのだな、エミヤ!』
「いや、私は」
自分でも事情がよくつかめていないのだ、と釈明をしようとしても、希望を見出したゴウトは身を乗り出し気味に食いついてきて話を聞いてくれそうにない。
『神道系の修行を行なったものでなければまともに管を取り扱うこと、すなわち、悪魔召喚術を使用する事など出来んが、それでも魔力のあるものが用いたのなら、管は、悪魔の情報とマグネタイトを管の中に封じこめる程度の道具にはなってくれる! 再召喚を考えないのであれば、確かに有効な悪魔封印具ではある!』
「――そうか」
だから私は一旦彼の説得を諦めて、彼の話に乗ることにした。
『だが、エミヤ。お主は魂の選り分けができるのか? ライドウは今、人面瘡の様に和合とまでは行かずとも、魂にへばりついて取り込まれている。魂同士が接してしまった奴とライドウとの境界を探り、魂と魂の境界を定め、両者を引き剥がすというのは、仏陀や泰山府君レベルとまではいかなくとも、相応の呪術の腕前がないとできない技だが――』
「いや。残念だが、私にはできない。だが、……」
私は魔術使いで、使えるのも剣に特化した魔術だけ。凛はこの世の全ての表属性の魔術は使えるが、魂の部類に突っ込む架空の属性を扱うには長けていない。それは彼女の妹分である、桜という少女が得意とする魔術だったと微かな記憶に残っているが、もちろん桜はこの場にいない人物なので頼ることができない。だが、この場において、そうした魂の選り分けといった心霊医療の――、心に巣食った悪霊を払う心得があるものを私はよく知っていた。
「言峰綺礼、貴様なら――」
「無論、可能だ。むしろそうした悪霊払いこそが私の本分。適任といって過言ではあるまい」
『――其奴に頼らねばならぬというのか……』
ゴウトは助けを求めるかの様に凛へと視線を送るが、当然そんな心得のない彼女は、首を横にふる。ゴウトは言峰を見て、視線をライドウへと移し、そして言峰へと戻し、そして地面へと落とした。言峰はそんなゴウトの懊悩の様子を見て愉しんでいた。
『ええい、それしかないというのであれば、腹をくくるしかあるまい! 言峰綺礼!』
「なんだ」
『お主の力を借りたい。ライドウを助けるのに力を貸してしてくれ』
そういうと、言峰の足元まで進んでいたゴウトは奴に懇願した。その、震えながらも地面へと擦り付けるくらいの勢いで頭を下ろす様からは、ゴウトがどれほど、ライドウを真剣に助けたいと願っているのかの度合いがわかる様だった。
それはとても真摯に他者に救済と手助けを求める訴えであり、私からはとても美しい行為の様に思える。だが、同時にそれは、私と真逆の感性を、他人の不幸を見て喜ぶ奴にとっては、不愉快極まりない行為に映るはずであり、高い確率で断られるのではと思ったが……。
「よかろう」
しかし、そんな私の心配と懸念とは裏腹に、ゴウトを見下していた言峰は、すんなりと協力に了承の返事を出す。あまりの素直さに、思わずこの男は誰だと思ってしまうくらいには、奴の行動は私にとって不自然極まりないものに映っていた。
『そ、そうか! 感謝する!』
奴の行動が私にとって不可解に映るのは、奴が私にとって持っていないものを持っていて、私にとって理解できないなにかを理解しているからなのだ。殆ど同じ享年であるはずの奴と私との間には、しかし、大きな差があった。奴と私の視線が違う位置にある。それがひどく、――悔しい。
「だが、私一人の力では、今のライドウに心霊医療を施すのは無理だ」
『な、なぜだ!』
「自我を持たぬ者と持つ者を切り離す程度の事、天使マンセマットとなった私にとって容易いことだ。貴様もいったように、ライドウはフェンリルの魂と完全に一体化したわけではなく、人面瘡のように、魂の上に狼の皮を被って狂戦士になっている、という状態だ。だから、そう、そんな悪魔の皮を奴から切り離すだけならば、とても容易いことだ」
『では、なぜ無理と……!?』
「簡単な話だ。荒ぶる神が荒ぶったままの状態での治療はできないということだ。完全に身動きの取れない状態にしろとは言わないが、それでもある程度動きを封じた状態でないと心霊医療による魂の選別という繊細な作業は行えない。多少手荒、かつ魂の分裂、離人症などの精神的後遺症、あるいは身体的欠損などの身体的後遺症が残っても良いというのなら、戦闘の最中無理やり引っぺがしてしまうか、我らの総力を以ってして四肢をもいだのち、というのが最も手早いのだが……」
『それでは元に戻したとしても、ライドウが、ライドウでなくなってしまう!』
「だろうな。だから、奴の身動きを完全に、無傷のままで止める事の出来る方法が必要だ」
『だがあれほどの存在の身動きを止めるというと……、――エミヤ、凛、主らは……』
「ごめん。簡単な行動阻害くらいなら出来るけど、あれを完全に拘束して身動きを止めるとなると、流石に無理」
「――私の魔術は弱者の捕縛や集団の殲滅には向くが、強敵の拘束には向いていない。すまないが期待しないでくれ」
『くっ……』
ゴウトは体をその場で器用に足踏みしてぐるぐると回転して視線を彷徨わせたのち、再び私へと縋るような視線を向けてくる。そのような目で見られてもない袖は振れないのだが……
――ん?
そして彼のその視線の圧力と、そんな彼にしてやれることはないのだという自身の良心の呵責に耐えきれなくなった私が視線を逸らすと、この場所より少し離れたある一点にいた女に目が入った。
「ゴウト、あれは?」
『……、ライドウと儂を結界にてこの場に誘導した悪魔『葛の葉』。呪術師の女だ』
「ほう。君と、彼を手玉に取った、ということか。ならば相当の実力の持ち主だな。……しかし彼女はどうしたというのだ?」
帝都の守護者達を相手に有利に立ち回ったという凄腕の呪術師の女は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた状態で地面に力なく座している。腕は垂れ、手首は顔は伏せられていて表情を見ることすらままならないが、少なくともその様子から彼女がまともな状態でないことだけは理解できた。
「分からん。人体から精製したマグネタイト丸薬を用いての無茶な悪魔召喚のツケで悪魔の意志が壊れたのかもしれんし、彼女と契約していた召喚師があの魔物に飲まれた反動でああなったのかもしれんし、あるいは何か目的あってああしているのかもしれんが――」
そしてゴウトは猫の体の足で、器用に小石を蹴って、『葛の葉』の方へと飛ばした。すると、宙を放物線を描きながら突き進んだそれは、彼女にぶつかる寸前、何も無い空中で突如として方向を変えて、明後日の方向へと飛んでいった。――結界だ。
『外部との干渉を拒む結界をはったまま、一切動こうとしないのでな。一応監視は怠っておらんものの、呪術を使っている節も見えんゆえ、ひとまずは放っておる』
なるほど、よく見れば、彼女の辺りだけ砂埃が不自然な軌跡を描いて空白地帯を作り上げている。その力の抜けた格好を見るにほとんど無意識で自己防衛を行なっているだけなのだろうが、それでもそのような結界を張ることのできる辺り、成る程、相当の術者なのだろうことがうかがえる。
――干渉を拒む結界……、呪術師……
「ふむ、ゴウト。彼女は悪魔だといったな」
『ああ』
「悪魔だというならば、この管に封じ込めて彼女を使役することはできないだろうか?」
ゴウトは仰け反らせて驚くと、視線を私、ライドウ、葛の葉の三者の間で行き来させたのち、しかし、顔を顰めて嘆嗟の悔しげな声で述べる。
『――なるほど、あの様な外界との接触を拒絶する結界を張る事の出来る力量の持ち主だ。たしかにこの場で最も可能性がライドウをも捕縛する強固な結界を張れる可能性があるだろう。……だが、エミヤよ。それは少しばかり難しい』
「何故だ?」
『先ほども言ったが、あの管は、神道系の術者が修行を重ねたのち、自身の霊力で悪魔を使役する為の補助機材。すなわち、神道系の術者以外が用いたところで、管は単にデタラメな悪魔情報とマグネタイトを保管しておくだけの装置に過ぎないものとなる。例えていうなら、本を文字すら判別できん程バラバラにちぎって、ごみ箱に乱雑に保管する様なものよ。どうやろうと、殆どの場合、まともな復元など期待できん。――見たところ、お主や凛、言峰は、西洋魔術の神秘を取り扱う術者。情報やマグネタイトを管の中に一方的に取り込んだり、あるいはなんとか管のうちに取り込んだ管の中の悪魔の情報を利用して別の悪魔に再構成することは出来ても、目の前の悪魔を元のままの形で呼び出し、その実力を十全に発揮させるというのは難しかろう』
ゴウトの言葉をざっとまとめると、専門家以外に管で悪魔の召喚、送還は行えないという事か。類推するに、管は独自言語で書かれたパソコンで、そこに正しく悪魔の情報を保存するには、低級の、きちんとした基礎原理から仕組みを理解しているプログラマがいなければまともな情報の保管は期待できないし、取り出す際にも、知識のある専門家でないと、まともにプログラムは走らず、悪魔はエラーだらけの存在になるという事なのだろう。
「では不可能だと?」
『……そうだな。あるいは、知識がなくとも道具の力を引き出せる者でもおれば話は別なのだろうが、な』
――知識が無くとも道具の力を引き出す――、そんな単語を私はどこかで……
「――ゴウト。理屈などすっ飛ばして、道具の力を引き出せるものがいれば、今の話はあながち不可能ではないのだな?」
『それはそうだが、エミヤ、それはどういう……?』
「スキルという魔術じみた技術が当たり前のようにある世界では、道具の力を引き出す事を専門とした職業についている人間がいた。ツールマスターと呼ばれる彼女たちは、通常の戦闘力に劣る分、フォーススキルとやらを用いる事で、通常より三倍もの力を引き出す事を可能としていた」
私は響へと視線を送る。響は相変わらず壊れた人形の様な状態で、シンの遺骸を撫でていた。
『……まさか』
同じように響を見たゴウトの瞳孔が開く。私が視線を移した意味のするところを理解したようで、ゴウトは驚きを露わに隠そうともしないまま、呟きを漏らした。
「そうだ。響。彼女こそがそのツールマスターと呼ばれる職業の人物であり、おそらくこの場で唯一、この管の力を正しく発揮できる可能性のある人物だ」
*
「だが彼女は……」
「……」
ゴウトが無言のうちに言わんとしていることは、私にも理解できた。響の頬に残る涙痕は、すでに乾いている。それは、涙が彼女の心の裡から様々な感情を流し尽くした証に見えた。そうして魂の重みを、生きる寄る辺を失った今の彼女は、世界の命運などという重荷を背負わせるには、あまりに頼りなく、それどころか、息を吹きかけただけでどこまでも飛んでいってしまいそうだった。
生きていくのに必要なものを全て失ってしまった、とでもいうようなその蒼白の魂抜け落ちた表情に私は見覚えがあった。当然だ。第四次聖杯戦争の大火災で私がそれまでの家族や記憶や全てを失った時に、私や、私と同じく戦火で全てを失った子供達が、その際、面に浮かべていたものとまるで同じなのだから、見紛おう筈もない。
彼女はまさに、今、そんな、少し前まであった理想の状態と今の目の前の現実との格差を受け入れる事が出来ず、幻想と現実の狭間で揺蕩う儚い存在に成り果てていた。
私は、そんな彼女に何かを強いるという事は出来ないと思った。全てを失った折、絶望の淵で停滞したくなる気持ちはよくわかる。私は今、かつての私と同じ気分を味わっているのだろう彼女に対し、同情していた。おそらくゴウトも、そして凛も似たような気分であるに違いない。彼女に憐憫の視線を送ったままなんと声をかけていいのかわからないまま戸惑っているのだ。
――だが
「ふん。世界が滅びかけているというのに、なんとも悠長な事だ」
そんな哀切の空気をいとも容易く、言峰の不機嫌そうな正論が引き裂いた。奴は私から管を奪い取り、その後ズカズカと前に響の前まで突き進むと、それを差し出して言う。
「話は聞いていたな」
「……」
「立て、小娘。貴様に求められた役割を果たすがいい」
「……」
一人の少女の気持ちと、世界の命運。そんなもの、誰がどう考えても、後者の方が優先させるべき事項だ。暗に世界を救えという意味を含んでいる言峰の言葉に、しかし響はやはり無反応だった。響は動かない。そして、言峰もまた、手を差し出したまま、動かない。
「確かシン、とか言ったか」
「……」
シンという名前が出た事で、ぴくり、と彼女の体が反応した。彼女の関心を買う言葉は、やはり今しがた失った男に関する言葉だけであるようだった。言峰は響のそんな反応を静かに唇の端を歪ませると、言葉を続ける。
「なるほど、その男の望みのために、見送れば奴の魂が満たされる反面、自らの魂が引き裂かれると知りながら、貴様は愛しているからこそ、あえてその男を見送った」
「……」
だが響は動かない。――――――否、よく見れば、彼女は微かに全身を細かく震えさせていた。言峰の言葉が彼女の停止した心を無理やり再動させたのだ。それは首根っこを掴んで無理やり立ち上がらせるかのような気遣いのまるでない乱雑な行為であったが、誰も諌める言葉を発する事が出来なかった。世界が滅びかけ、帝都が破壊されつつある今この瞬間、必要なのは、思いやりではなく、厳しくも正しく、真実を告げる、折れた心を奮い立たせる言葉と、言峰の手荒な行為が必要であることを、誰もが理解していたからだ。
「貴様は自身の気持ちを全て押し殺して、奴の想いを成就させるため、シンを見送った。成る程、それは尊い行為だ。美しい思いやりだ。素晴らしい献身と自己犠牲だ」
言葉を紡ぐ言峰の顔、眉尻が微かに歪む。
「――だが、貴様がそうして足を止めるというのであれば、シンとかいう男も無駄死にだな」
*
「ちょ……、綺礼、アンタ……!」
言峰の述べた一切の手心ない言葉は、今の事態を理解しているだろう凛でも放っておくことの出来なかったものであるようで、彼女は怒髪天を吐く勢いで怒りの感情をあらわにすると、迷わず響らの方へと近寄ろうとする。
「待て、凛!」
私はそんな彼女の肩を強く掴んで、それを引き止めた。凛の憮然とした顔がこちらに向けられる。噴出のタイミングをずらされた怒りの感情は、タイミングを逸しさせた私に対する抗議の成分へと変化し、彼女の寄せられた眉目から発せられる鋭い視線が私の眉間を貫いた。
「――アーチャー、どう言うつもり?」
言葉には一切遊びがない。制止の理由が気に食わなかったら、すぐにでも私の手を振り払い、飛び出して言峰綺礼をぶっ飛ばすと、態度が告げていた。ああ、わかる。私だって出来る事なら、絶望のどん底に沈んだ人間の傷を増やすような所業を見過ごしたくなどない。けれど。
「――どれだけ傷が痛かろうと、向き合わないまま放置していれば、大きな膿となる。傷ついた本人の為を思うなら、どれだけ見た目痛ましかろうと、どれだけ恨まれることになろうと、すぐに傷を切開して怪我の処置をした方がいい。傷が癖になり、粉瘤が如きものとなれば、自分でも気付かないうちに過去の傷はその膿み具合は悪化して、やがて全身を捕縛する呪いに変わる。まるで感染症だ。――私はつい先ほど、それを嫌という程思い知った」
「――」
「言峰綺礼の言い方は思い遣りで修飾されておらず、容赦がない。だが、その分、即効性があり、心に響く。自分の生きる意味すら見失いかけている、心臓の鼓動が今にも停止してしまいそうな人を相手にするなら、相応の衝撃が必要だ。――、私には力があって、今にも溺れそうな人の身を救い上げることが出来る。だが、今の私には人の心を救うことが出来ない。力がない人の、今にも折れてしまいそうな人の事を救えるのは、力なき人の感情の機敏を、そんな人の心の弱いところを理解し、擽り、唆し、感情を動かすことが出来るのは、そんな他人の弱い部分を見抜いて、満足させる方法を理解し、実行し、当人に一旦希望を与え、そして後に、それらを奪い、絶望の淵に突き落とすという、趣味の悪い事を繰り返してきた言峰綺礼くらいなものだろう」
「――……」
「それは心の強い君では、すぐに出来ないことだ。どのような傷であっても、自分で気にしないと決めて進むことのできる、世界は自分のものと豪語出来る君だからこそ、無理だ。もちろん時間をかければ別だろうが、今はそんな時間がない。――、だから今は、あの男に任せよう。彼女の心が完全に死んでしまわないうちに傷を切り刻み、悪い部分を取り除き、心臓の鼓動を激しく脈動させ、精神を奮い立たせる事の出来る人間は、今この瞬間、この場において、神父として他人の悩みを聞き続け、他人の傷を切開し、揺り動かして遊び続けてきた奴以外に存在しないのだから」
*
「――」
響はゆっくりと面をあげる。精も魂も涙を流すに費やして身体中の水分が枯れてしまったとでもいうかのように乾いた顔面の上、言峰を見つめる視線だけが鋭く精気に満ちていた。
「憎いか。悔しいか。想い人が悪く言われるのなど聞きたくもない、と。お前なんかに私の、あの人の、何がわかるのか、とそう言いたいのか?」
「――」
響の視線の圧が増した。響はまっすぐ言峰を見つめたまま視線を動かさない。
「わかるとも。シンとやらはお前に何かを託していったという。そしてその何かは、戦闘狂であったというシンの気質を考えるに、戦いに関する事項で、ならばおそらく、目の前の敵を、自分の想いを引き継いだお前に倒してほしい、というその程度のものなのだろう」
「――違う」
言峰の推測を否定して、シンの遺骸を丁寧に地面へと下ろしてゆらりと幽鬼のように立ち上がった響は、キッと鋭い視線を言峰に向けると、怒りの灯った瞳をたずさえて、言峰綺礼と対峙した。
「――違う。シンが私に託していったものはそんなものじゃない……」
「違う? 何が違うというのかね? 世界の命運をかけた戦いにおいて、最後の最後まで自己の満足を優先した男が他人に託すなんていう願いは、大抵所詮、その程度のものだ。しかし、そんな男の小さな自己満足すらも貴様は受け取らず、そうして自分の世界に閉じこもって果たしてやろうとしないのだから、成る程、やはりシンという男は、無駄に、無意味に、世界にとって何の意味もなく死んだのだといっても過言ではあるまい」
「――違う!」
響はそして彼女にとって的外れな事ばかりを言う、まるでさも全てを理解したような言葉でシンと響の思いを語ってみせる言峰の言葉を、嘘をさも真実のように騙るなと、大きな声で、否定し、叫んだ。
「違う! シンは! あの人は――!」
「叫ぶ元気があるか。私を否定する気力と体力が残っていたのか。――そして、そうであるのに、何もしないなどという選択を取ろうとしたのか。であるならば、やはりシンとやらは無駄死にといっても過言ではあるまい。貴様は、奴のように、戦って死のうとしなかったのだから。奴の死は貴様に、何の傷も残して逝かなかった、ということになる」
「――っ!」
「――違うと。そう主張したいのならば立ち上がって私の口を閉じるために行動するがいい。気に食わないというなら憎悪を糧に立ち上がり、行為を以ってして私の言っている事は何一つ正しくなんかないと、シンとやらは無駄死にではなく、なにかしら世界の役に立って死んだのだ、貴様に何か託して逝ったのだと証明してみせろ。少なくとも、あそこにいる衛宮の小倅は、極めて不愉快ながらも、かつて、そうやって養父の思想を受け継いだ後、私の言葉を否定して、叩き潰して、自らの中で結論を出し、世界に己の存在を刻みつけて逝ったぞ。――もっとも、今では、揺れ動く感情に振り回されて無様を晒しているがな」
「――貸してください」
響は差し出されていた言峰の手から乱暴に管を奪い取ると、決意を秘めた瞳で葛の葉の前まで突き進む。人形のようだった響は、今なお人形のような姿を晒す葛の葉と対峙する。はたから見ているとその図は、つい先ほどの言峰綺礼と響の対峙する姿そのもので、なんとも皮肉な光景のように見えた。
やがて響はいずこから鏡を取り出して胸元に飾ると、結った紐が解けないように固く結びあげ、ゴウトへと話しかけることもなく、管を構えて大きく息を飲む。そして。
「――取り次ぎ給え」
口から飛び出した言葉は、先程まで失意の底にてうなだれていた彼女が発したとは思えないほどに、はっきりとした迷いのない言葉だった。
「掛けまくも畏き、伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等諸諸の禍事、罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を、聞こし食せと恐み恐みも白す――」
次いで、吐き出された息と共に飛び出してきたのは、長い、祈願のための、ある宗教に伝わる言葉の羅列だった。言葉には一切のよどみや迷いがなく、まるでプロフェッショナルの魔術師が行っているかのような迫力があった。その光景に、私や凛はもちろん、特にゴウトが目が飛び出したかと幻視できそうなほどをひん剥いてさらなる驚きを露わにした。
『ばかな……、なぜ彼女が祓詞を……』
響が口にしているのは、神道における祓詞と呼ばれる神事の儀式の前に唱えられる呪文。祓の宗教とも呼ばれる神道において、その言葉の群は、神に奏上すればあらゆる罪や穢れ、厄を落とす事の出来る、最も強力な祓の言霊だ。
『彼女は向こう側の住人で、素人ではないのか!?』
一応、一般の場でもよく唱えられるし、神棚がある家では毎朝唱えるものがいるほどには浸透している呪文ではある。だが、とはいえ、神道の知識を何も持たぬ筈の響がいきなりそのような言葉を口にし、さらには、韻も、音律も完全なもので行ったのだから、これは驚くべき事態だ。ゴウトの驚愕もわかると言うものである。
「いや、そのはずだが……」
『では何故!?』
「貴様もこちら側の人間であるなら、あのような状態の人間を見たことがないわけではあるまい」
混乱するゴウトを諭すように話しかけてきたのは、彼女をそのような状態に追い込んだ言峰という人物、その人だった。奴はこの場にてただ一人、平然と、つまらない事態を眺めるかのように、涼しい視線をして、祓詞を紡ぎ続ける彼女の様子を見守っていた。
「死を望みつつ、それでも想い人の願いを叶えるためには、生きて存続させた社会の中で抗い続けるしかないと悟った彼女は今、この事態を打破したいと無心に願い、祈っている。生と死の境界にいる者の真剣な祈りは、人類の集合無意識という、境界の向こう側にいる存在に届きうる。それらは彼女の必死な生きたいという願いに呼応して、神託という形で彼女に解決の手段を与えたのだ。いわゆる、トランスだな。つまり今彼女は、自らの体を依り代に、神との交信を行い、自らの、周囲の願いを神――この場合は悪魔か――に伝える巫女になっている、というわけだ」
「――」
彼女の祓詞に応じて悪魔が顔を上げた。葛の葉から、瞳の奥にいかなる神が宿っているのか目利きしてやろうかと言わんばかりの視線が響へと向けられ、葛の葉と響との視線を目合する。やがてみとのまぐわいにも似た見合いをどちらからともなく終えると、悪魔『葛の葉』は言葉を発した。
「貴方は何故私の力を求めるのですか?」
葛の葉は静かに尋ねる。葛の葉の問いかける言葉には、響が嘘偽りの言葉を返すようであれば、即座に交渉が打ち切られてしまいそうな、そんな張り詰めた雰囲気があった。まるで乾いた蜘蛛の糸の上にいるような気分だ。
「それがあの人の望みだからです」
だが響はそんなか細い糸のだろうが知ったことではないと言わんばかりに、迷わず答えた。葛の葉は、そんな捨て身の響に慈しむような、それでいて哀れむような、視線を返した。ライカンスロープと化したライドウが帝都を破砕音の間隙を通るようにして、葛の葉は言う。
「男は扇を置いていってはくれなかったのでしょう? 身勝手な男のことなど、朧月夜の儚き思い出として夢幻の中に忘れてしまえば楽になりますよ?」
古風な言い回しをするのは、彼女が古い神霊に属しているからだろう。交通網通信網が発達していなかった時代、一夜を共にした男女は、互いの存在が人恋しさが生み出した夢幻でなかった事の証明として、互いの扇を交換し合う習慣があった。それになぞらえ、葛の葉はシンのことなど忘れてしまうのが、響にとって最も楽な生き方だと諭すように告げたのだ。
「シンは扇の代わりに、刀を託していってくれました」
しかし響は、それは確かに楽な生き方かもしれないけれど、シンがいたと言う証明は確かにここにあって、そんな彼を忘れることなどできないと、誇らしげにそんな生き方を響は凛然と拒絶する。
「太刀。ならば確かにそれは秋扇/飽き扇でないのでしょう。ですが、枕元に置かれたのが扇ではなく願いを断つ刃であるというならば、それはどうか自分を追いかけて淵なき虚無の近江路に迷い込んでくれるなという彼なりの思い遣りなのでは?」
「――それは違うと思います」
「違う?」
「ええ。そういう見方もあるかもしれません。けどその解釈は、あまりに夢と救いがない。――、私はこの太刀と痛みが無いと、もう自分が自分だと思えません。私は彼を愛していて、彼は私を求めてくれたから、だから私は、この痛みを抱えていきたいと思います」
「愛していた、ですか? 愛している、ではなく?」
「はい。そしてそれは、つい先ほど恋に戻ってしまいましたから――」
「――」
会話のうち、どの言葉が葛の葉の琴線を繁く動かしたのかはわからない。しかし、響が紡ぎ、縒り合わせた言葉は、確かに葛の葉の心を打ったらしく、彼女は立ち上がり、穏やかに、嫋やかな笑み浮かべてみせると、自身の周囲に貼っていた結界を消した。
結界が雲霞の消えるが如く霧散した途端、葛の葉の周囲に空気が黄金色に輝く。空気は異界の暗がりに太陽の明けの色にも似た眩い光が生じ、やがて外界との接触をたち、岩戸に閉じこもっていた葛の葉は、再び隔離された場所から世俗へと姿を現した。
「名は?」
「響です」
「響。内外の風気僅かに発すれば、必ず響くを名付けて声といふなり。声とは響きが』本体であり、字は名の表現であり、それは必ず、本質である大日如来を現している。五大皆響有。十界具言語。六塵悉文字。法身是実相。なるほど、私たちの出会いは、密教と空海と大日如来の縁に基づいた、運命の出会いでしたか」
「は、はぁ……?」
「では響。――管を」
「……、はい」
彼女は自ら進んで、響に悪魔封印の管を差し出すように告げると、管の縁をスライドさせて管の内部を露わにさせた。管が目の前の悪魔の情報とマグネタイトを吸い込もうとするのと、葛の葉のその姿が陽炎のように薄れて揺らぐのは同時だった。やがて葛の葉の姿が完全に消えると、響の手中にある管は再度スライドし、元の通りの状態に戻る。そして。
「あ――」
葛の葉を収容した管は、すぐさまカタカタと震えだす。解放を望んでいるのだろう。響はすぐさまその訴えに応じて、管をスライドさせると、一端の悪魔召喚師のように、叫んだ。
「召喚!」
声とともに管の中から悪魔が飛び出す。閃爍した緑色の輝きが鮮やかに周囲の空間へと広がると、管のスライドした付近から、再構成されたマグネタイトの塊が、太陽の中から飛び出るコロナが飛び出るかのように、ゆらりと飛び出してやがて女の姿を形作っていく。
太陽から零れ落ちたかのような桃色の髪の毛。解けば腰まで達しそうな髪を括るは、青い薔薇のように儚く薄いリボン。まだ少女然とした体を隠す高貴な青色の着物は、しかし隠された神秘を見せびらかすかのように肩口がバッサリと切り取られており、胸部、腹部を隠す衣服と、両腕の振袖部分が完全に分離していた。また、瑞々しい太ももを見せつけるかの着物の下部は切り取られ、代わりに滑らかな足袋が膝上までを長く覆い隠している。また、そんな淫靡な格好をした少女の頭部と尻部には、舎利の色に似た玉を抱えているという、聖なる狐の耳と尻尾が生えていた。
やがて響に召喚された彼女は、閉じていた目蓋を開くと、目の前で管を構える少女を見て、先ほどまでとは打って変わって、純粋な、向日葵のような少女然とした明るい笑みを浮かべると、目の前にいる召喚主へと飛びついた。
「わっ……!」
「超絶美少女狐、葛の葉、あらため、玉藻! 相手がどんな姿になろうが気にせず恋して愛しぬいた強靭無敵なイケ魂乙女の純粋さに心打たれて、お力になるべくただいま参上です!」
唐突に抱きつかれた響は、おそらく先ほどまでとはまるで態度の異なる悪魔の様子に混乱しているのだろう、あたふたとした様子だ。
「え、えーっと、く、葛の葉さん?」
「いえ。安倍清明がらみの縁用いての召喚であったが故に葛の葉としてこの世に生まれ落ちましたが、私は今、アスカの鏡と神道の術式、そして響の純粋な想いにより、人に仇なすそんざいである妖狐としてではなく、古くは漢王朝、かつて人の世を守った霊獣九尾狐の力の一つとして、変生いたしました。ですから、どうぞ、玉藻、と。そうおよびください」
「――、ええと、じゃあ……、――よろしくお願いします、玉藻」
「はい! よくできました! あーん、なんて素直ないい子なんでしょう! これが誰かに恋してるイケ魂じゃなかったら即座に攫って挙式してハネムーンなのに! 」
「あ、あは、あははははは……」
響は目の前の人物が見せる真剣と遊びの態度の落差に思いっきり混乱しているらしく、乾いた笑いを漏らすばかりだった。
*
「ゴウト」
一方、目の前で起きた出来事を私たちが観察していると、響が葛の葉、改め、玉藻を再召喚したのを果たしたあたりで、凛は私の手から残った管をひったくると、ゴウトの方を向いて、凛は管を左右に揺らしながら尋ねた。
『なんだ、凛』
「貴方、さっき、管の中の悪魔の情報とマグネタイトを使って、別の悪魔として再召喚することが可能って言っていたわよね?」
その言葉で、私も、ゴウトも、彼女がなぜそのような質問をしたのか、今から何をしようと考えているのか、理解した。
『できなくもない。その管の中に込められているのは、悪魔のクーフーリンの情報とマグネタイト。ライドウでなければ正しくそれはクーフーリンの姿を取らないが、その管の中身がクーフーリンの情報とマグネタイトである事に変わりはない。だから、その管に秘められたマグネタイトを使って再召喚を行えば、一応、理屈の上では、クーフーリンを呼び出すことができるだろう』
「――ふむ」
「ほう、クーフーリン」
「あら、管の悪魔はクーフーリンなの」
ゴウトの口から飛び出た名前に、私と言峰、凛が反応する。クーフーリン。魔槍ゲイボルグを中心とした槍術を極めたうえ、原初のルーン魔術をも収めている、戦士にして、ドルイドでもある、ケルトの大英雄にして、第五次聖杯戦争においてランサーとして召喚され、言峰綺礼の手駒として動き、数々の場面において私たちの前に現れては、ある時は味方、ある時は敵として戦った、私たちにとって縁の深い相手。性格はきわめて単純かつ、快活で、昨日、味方の友であったとしても、今日敵に回ったのなら迷いなく殺せる、自らの信念に背くものを嫌いと正直に言う、そんな、純粋な戦士然としたわかりやすい男。
「ああ。だが、――どうだろうか。その管に宿る悪魔クーフーリンは誇り高き悪魔で、ライドウの忠実なしもべ。凛が再召喚できたとしても、そうそう簡単に主人の鞍替え要求に応じるとは思えんが……」
私たち三者三様の反応をどう解釈したのか、怪訝そうな顔をしながらもそう続けるゴウトは、そのまま言葉を続けて自らの懸念を語った。
「えぇ、でも、まぁ、それなら大丈夫でしょ」
だが、凛はそんなゴウトの心配を軽く受け流すと、管を見て、ニヤリと笑う。
『なに?』
「ここに、クーフーリンと縁の深い存在が三人もいるのよ? 一人は彼の元使役者で彼に殺された人物。一人は過去で彼に一度心臓を貫かれた人物で、未来には数度、彼と殺しあった仲。一人は、クーフーリンと、マスターとして対峙して、そして協力者として一緒にアーチャーと戦った人間なんだから。それに私が行う術式でなら、多分、悪魔クーフーリンではなく、英霊クーフーリンとして召喚されるはずよ」
『?、??』
ゴウトは訳がわからないといった体で、首をひねり、傾げ、ぐるぐると振り回した。凛はそれを見ると、いたずらっぽく笑った。
「まぁ、とにかく期待はできるってことよ。ライドウを助けるための戦力が増えるんだから、文句はないでしょう?」
『あ、ああ』
ゴウトは相変わらず理解不能の四文字を顔に貼り付けていたが、それでも、凛の申し出がライドウという、彼にとってかけがえのない存在を救う一手となる事だけは真に理解したらしく、彼は凛の申出に許可を出す。凛はゴウトの戸惑う様子を見て、なんともしてやったりとの笑みを深めた。
「じゃあ、やるわよ。アーチャー! 綺礼! ちょっとこっちに来なさい!」
呼びかけには、迷いがなかった。
「ああ」
「わかった」
だからだろう、私と言峰は、迷いなく彼女の指示に従い、彼女の側へと近寄った。
*
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
薄暗闇の中、凛の通る声が銀座の大通りに響く。破砕音をすり抜けるようにして届く声が奏上するのは、かつてこの身がサーヴァントとして使役された折に聞いた、世に名高き英雄を呼び寄せ、自らのパートナーとして使役させていただきたいと請い願うための呪文だ。
地面の上に真円と六芒、三角などのいくつかの意味ある図形と呪文を組み合わせて、我々の血を混ぜて描かれた魔法陣の上で、銀の管が開かれる。神道式の手順に則ったものでなく、西洋使い魔を召喚する際の手順に沿って乱雑にスライドされた管からは、自らの召喚が正しい使役者でない事を拒むかのように、内部のマグネタイトと悪魔の情報が四方八方上方にまで飛び散り、しかし、魔法陣の外に飛び出る事が出来ず、魔法陣の内部で荒々しく飛び回る。
「閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
抵抗し、魔法陣の空間の中で暴れまわっていたマグネタイトの奔流がピタリと収まる。ようやくマグネタイトの持つ悪魔の情報と縁と誓約が、ライドウの住む世界のモノから、凛や私たちの住む世界の法則のものに切り替わったのだ。
ライドウの内気魔力/マナであったマグネタイトはやがて、外気魔力/オドとなり、凛の起動した魔術回路がそれらを収集し、彼女は悪魔のマグネタイトを自らの身の内へと取り込んで行く。
「―――――Anfang/セット、――――――――告げる」
凛が苦しげに言葉を発して、次の工程へと移行した。苦しげなのは、当然であるとは思う。凛は今、聖杯という英霊召喚のサポートをしてくれる存在の力を借りる事なく、単独で英霊を召喚しようとしているのだ。
聖杯の力を借りずに、生身だけで英霊を召喚する。それは状態を多少大げさに例えていうなら、機械の力を借りる事なく、自動車の果たす運動と同じ成果を自らの身体のみで得ようとするようなものだ。凛は今、そんな奇跡を成し遂げるために、自らの体を、エンジン、燃料タンク、アクセル、ブレーキ、信号を伝える電気回路の代理へと変換し、召喚の儀を行なっている。おそらくこれほどの奇跡の所業は、一流と呼ばれる魔術師の中でも、さらに指折りの人間にしかなし得ないものであり、それは、私がかつて彼女に召喚された頃の若かりし凛であるならば、このような奇跡を成し遂げることは出来なかっただろう。
しかし今、そんな奇跡の所業を彼女は実現する。それは凛が魔術というものに対して、生涯、どれだけ真剣に、真正面から取り組んできたのかが一目でわかる光景だった。長い道のりをしっかりと歩んできたもののみが持つ、そんな流麗な技術と、老獪な手際と、確かな強かさを、見た目があの頃とまるで変わらない彼女は持っていた。
――ああ
凛は成長していた。かつて私と同じ時を生きた彼女は、私とは格段に違う存在へとなっていた。彼女は前に進んでいる。だがそんな彼女と同じ時を、あるいはそれ以上の時を過ごしたはずの私は、しかし未だ、かつての悩みと同じか、あるいはそれとは別の場所かもしれないが、ただどこかでぐるぐると軸もなく途方にくれるばかりで、歩みを止めている。
――ああ……
こんな思いを抱く事が、場違いであることはわかっている。筋も違えば、術理も違う。そんな何もかもが違う状態であることは承知の上で、しかしそれでも、私はこう思わざるを得なかった。
――悔しい
「――――告げる」
――いけない
気を取直して、自らに喝を入れなおす。そのようなこと、今考えている時では無い。魔法陣の中に緊迫した空気が走った。凛を中心として、私と言峰は、対極の位置に配されている。私、凛、言峰には、それぞれ、第五次聖杯戦争において、クーフーリンと縁のある存在であり、だからこそ、クーフーリン召喚の触媒として私と言峰は陣の内部で、マグネタイトの奔流に肌を擽られながら、ただじっと佇んでいる。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の槍に。我ら三名の縁と悪魔の管に秘められし縁を寄るベとし、この意、この理に従うならば応えよ」
凛は目を閉じた。魔法陣の中で荒れ狂う、マグネタイトに、第五要素という存在に目を潰されないようにするためだ。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、悪魔の管に秘められしマグネタイトより変生し、来たれ、天秤の守り手よ―――!」
凛の叫びに呼応するかのように、魔法陣の内部から眩い光が発せられる。そして――
*
魔法陣の中心、荒れ狂うマグネタイトが収束したのち、凛より少し離れた場所に、その男はいた。意志に満ち溢れた鋭い眼光。一目で彼の性格が理解できる、さっぱりとした顔面。一目で優れた戦士とわかるしなやかな体躯。そんな体を包み込むのは、黒いライダースーツのような装束だ。装束は、かつて第五次聖杯戦争において私と戦った時は異なっていた。体の稼働を邪魔しないように、肩部などの一部以外に鎧の取り付けられていない装束の上には、グラズヘイムで見たような、青く発行する光の線が体の筋に沿って走っており、全身を鮮やかに照らしあげている。額が完全に露わになる程に前髪をあげ油で固めているのは、髪が視界を遮り、戦闘の妨げにならないようにとの配慮だろう。また、そのように近接戦闘にでありながら、犬のテールのように後ろ髪が長く伸びているあたりが、クーフーリンが優れた呪術師/ドルイドであるという一面を示すかのようだった。
「サーヴァント、ランサー、もとい、悪魔クーフーリン。召喚者の願いに応じて参上した」
戦場によく通る声が、空間に響き渡る。その声質は、非日常に属する凛が魔法陣の中で発していた凛然とした声とはまた違った、戦場を生業とするものが発する事の出来る、静かながらも、聞き取りやすい、素直な声音だった。
「――なんてな。……よう、嬢ちゃん。――、いや、リン。いい女になったな」
そして、ついで飛び出したその一言に、肩にのしかかっていた緊張が解けていく思いがした。
「ランサー!」
「へっ、まぁ、その呼び方のが聞き慣れてるからそれでいいや」
クーフーリン――ランサーはあの時とは違った姿形をしていながら、いつかの時とまるで変わらぬ様子で凛に話しかける。目の前の彼は、ライドウの使役する悪魔ではなく、そんな悪魔を元に、凛の側の理屈と術理で再構成された第五次聖杯戦争の英霊に近しいクーフーリンとして、再構成されてくれたのだ。安堵した私は、一歩を踏み出して奴へと声をかける。
「「久しぶりだなランサー」」
そして奇しくも私の台詞は、私のかつての怨敵と同時のタイミングとなった。
「げっ……!」
ランサーはそして自らの身に降ってきた二つの声に顔をしかめる。それが今、魔法陣の中心にいるランサーを中心として、彼の左右横側、魔法陣の対極の縁にいる私と言峰という存在のせいであることは明らかだった。
正当な英雄である彼は、真正面からの互いの刃と刃をぶつけあい、存分に己の持つ技術をぶつけ合うという、血の滾るような戦闘と白黒はっきりとした決着のつけかたを好む。対して、私や、言峰は、ランサーである彼自身の誇りを汚す、他人が怒るような言葉を平然と吐き、彼が邪道といような、盤場外での戦術を用いて人心掌握、裏切り、甘言、不意打ちに暗殺といった、あらゆる手段をとる堂々と使って、結果を掠め取る。
真っ直ぐな彼にとって、そんな私達は、火と水、氷と炭、熱と水蒸気であり、決して容易に受け入れられる存在では無いに違いない。だからこそ、彼は、そのように顔を歪めたのだ。
「おい、リン。こいつら……」
そうしてしかめっ面をしたランサーはリンから、彼女の足元の魔法陣、そして、その魔法陣の紋様から、外周円の境界に立っている私たちを眺めると、さすがにルーン魔術を収めた一流の呪術師でもある彼は事情を察したらしく、顔をひどくうんざりとしたものへと変貌させながら、言葉を吐き捨てる。
「やっとマスターに恵まれたと思ったら、今度は同僚にこれかよ……」
ランサーは自分へと近寄ってきた私と言峰に睨め付ける視線を交互に送る。
「まぁ、そういうな」
「気持ちはわかるが、そうも言っていられない事態だ。悪いが手を貸して欲しい」
「あ?」
私は腕を伸ばして、人差し指である一点を指し示した。ランサーは私の伸ばした指先に視線を送ると、その伸びた指の先に刀一つで帝都の街を切り壊すライドウの存在を見つけ、ぽかんと口を開いて呆けた顔をしてみせた。そして少しばかり呆けた表情を浮かべていた彼は、しかしすぐさま左右に大きく限界の高さまで口角をあげる、凶暴な犬のような笑みをうかべて、喜色をあらわにした。
「あれが敵ってわけか?」
「ライドウと呼ばれる、帝都最強の存在が、悪魔に取り憑かれた状態だ。見ての通り、刀一本で全てを切り裂く、もはや、自然災害といっても過言では無い、暴力の化身だ。――あれを無傷のまま捕縛したい。世界最強の狼男に挑んで、生け捕りにするという難事を達成するために、君の力を借り受けたいのだ」
私がランサーに頼んだそれは控えめにも無茶苦茶な要求だった。狼男となったライドウは手にした刀一つで、全ての人造物を破壊する。その一刀は容易に天を裂き、地を裂く。また、手にしている刀が祓魔の剣という、ソロネほどの上級天使であっても平然と切り裂く、英霊や悪魔、人を容易に斬り裂く刃なのだ。
そんな攻撃手段を持つ相手は、さらに加えて、アンドロ化したシンという、おそらくは世界樹のある世界において、ほぼ最速の男が一切その動きについていくことが出来なかったという速度を保有している。
例えるなら、家屋や自然を破壊し尽くす、台風や嵐の権化のような存在を無傷のまま捕縛したいという、そんなほとんど無茶無謀な願いを――
「ああ、いいぜ。あれと戦えるってんなら、協力してやる」
ランサーはしかし迷いなく、承諾した。
「あの速さ。あの力。あの体幹に、あの迷いのなさ。天分の才を持つ人間が極限まで練り上げた戦いの技術が、体の芯にまで染み付いているあの身のこなし。――いいね。ゾクゾクする。全力で戦って、なお勝機がほとんどなさそうだってぇのは久しぶりだ。大抵は針の穴ほどの勝ち筋が見えてくるってなもんだが、そんな小さな隙間すら殆ど見えねぇ。――なんとも燃えてくるじゃねぇか。こんなに楽しく戦えそうなのは、本当に久しぶりだ」
ランサーは心の内側から湧き上がってくるものを抑えきれないとでもいうかのように、全身から殺意と喜色が入り混じった、純粋な戦士の清澄な闘気を発散させ、ライドウを見やった。すると、一町ほども遠く程の位置で暴れていたライドウは、そんなランサーの気概を敏感に察知したようで、破壊の手を止めて、迷いなく自らへと意志を叩きつけてくるランサーの方を見やった。
ランサーはそんなライドウの様子を見て、心底嬉しそうに、湧き上がる衝動を抑えきれないとでもいうかのように全身を喜びに震わせると、赤き魔槍ゲイボルグを虚空より取り出して、その穂先を遠くの地にて己を見つけているライドウへと突きつけた。
途端、ライドウはランサーめがけて一直線に、飛ぶが如く、自らが破壊した街跡を跳躍しながら迫ってくる。ライカンスロープとなったライドウは、ランサーの純粋な闘気に迷わず応えたのだ。
「さらに勘も良ければノリもいい! こりゃまじで最上の大物だ!」
ランサーはそれを見て、子供のようにはしゃぎながら、呼応して、ライドウめがけて飛び出して、その場から姿を消した。互いの速度はそれぞれの名に縁があるかのような、雷光と神風。音を置き去りにするほどの神速の動きですぐさま対峙した二人は、そのまま互いの刀と空間を埋め尽くさんばかりの眩い光を発しながら、互いの戦いの為の技術を惜しみなくぶつけ合い出した。
「ちょ、ランサー! ――、ああ、もう! アーチャー、綺礼、ゴウト、響、玉藻、行くわよ!」
凛は音頭をあげると、暴走気味に突っ込んだランサーを慌てて追いかけ、駆け出す。
「アーチャーは弓で、玉藻は呪術で援護! 私と響はサポート、ゴウトはアドバイザー! 綺礼は心霊医療の準備! 良いわね!」
「ああ……わかっ――」
――ブォォォォォォォォォォ
凛が走りながら出した指示に、誰かの返事が帰る前に角笛の音が鳴り響く。開戦の合図が如きそれは、しかし、世界の終わりを告げるかのような、重苦しい音だった。
*
グラズヘイム中央棟、管理室。
*
グラズヘイムを襲っていた翼人――天使の軍団を討伐し終えたギルガメッシュとヴィズル、ハイランダーの一同は、グラズヘイムの管理人であるマイクの本体がある管理室へとやって来ていた。グラズヘイムに襲いかかってくる敵を討伐し終えたというのに、部屋の中の空気は酷くどんよりとしており、空気は冷え切っていた。
ピエールの死が、ギルガメッシュの、ヴィズルの、クーマの、ハイランダーら一同の胸の裡に様々な負の感情を呼び起こし、彼らはそれぞれの胸の裡に湧き出た感情を処理するため、それぞれの方法で、彼の死を悼んでいたからだ。誰も彼も声をあげる事なく、淡々と、管理室の薄暗い部屋の中、最も入り口から遠い場所にある部屋の奥で、宙に投影された透明なコンソールを操作し、コンソールと同じく空中に投影されているディスプレイの映像を手早く切り替え続けている。
そんな折。
――ブォォォォォォォォォォ
間延びした、しかしはっきりと耳朶を打つ陽気な音色が世界に響き渡った。
「何この……」
何処かより聞こえてきたその音色は、まるで新たな生命の誕生を祝福するが如く――
「これは……」
あるいは、物事の終わりに対して、人々が別離の事実に負の感情を抱かず済むようにとの気遣いを伴って――
「笛の音?」
密閉された空間の中にすら入り込んで来たその音色は、ディスプレイの向こう側に移る世界中のあらゆる場所の空気を振動させ、人々に戦いの時がやって来たことを高らかに宣言した。
*
管理室、殆どの面子が笛の音を聞いてポカンとした表情を浮かべる中で、唯一、ギルガメッシュだけが、苛立ち、そして焦燥した表情を浮かべた。
「まさかこんなに早く! マイク! 世界に異変は!」
「――新迷宮のあった場所から何かが出現。エトリアの方へと向かっています」
ギルガメッシュの声に反応して、マイクが一瞬の沈黙の後、電子音声を返す。マイクはそのたった一瞬の間に、世界中の光景を検討し、そして異変を見つけ出したのだ。
「エトリアにだと!?」
そしてマイクの述べた、エトリア、という言葉を聞いて真っ先に過剰に反応して見せたのは、ヴィズルだ。彼がそうして冷静の面を外して声を荒げる様に、クーマやハイランダーら一行のメンバーは、驚くタイミングを逸してしまっていた。
一同が呆然とした直後、目の前のディスプレイの画面を、ある一枚の映像が覆い尽くす。
「――これは」
「狼の……」
「頭?」
「しかし、なんて大きさだ……」
空中に投影されたディスプレイの上に映像を見た一同は疑問と驚愕の声をあげた。それはあまりにも現実離れした光景だった。巨大なディスプレイの向こう側、ここから少し離れた新迷宮という施設が存在した場所には、今、黒々とした毛並みをした、その辺の山よりも大きな狼の頭部の上半分が現れ、エトリアに向けて緩々と進んでいる光景が映っている。
「ウェ……、気持ち悪りぃ……」
映像を見た瞬間、アーサーが舌を出して、上頭部のみ出現した狼に対して嫌悪感を露わにした。そうした彼の態度を責めるものは、この場において誰一人として存在しなかった。半分だけの狼の頭部は、それほどまでにまともな生物の定義から外れていたからだ。
まず地上の地面を覆い尽くす巨大な狼の頭部は不定形だ。巨大な狼の目のように見える部分、自然に存在する狼なら鋭い眼光が宿っているその瞳は虚で、視線は虚空を彷徨うばかりで、生気というものが一切感じられない。これなら骸となった生物の屍の方が生き絶えたという事実と腐敗の生々しさがあるぶん、まだ、生き物であると認めてやれるだろう。それほどまでに、狼の形をした巨大な存在には生き物の魂というものが宿っているようには見えなかった。
また、そんな無機質な存在を唯一、狼のようであると誤認させてくれる風に靡く黒、茶、緑と入り混じる体毛のように見える外観部分は、よくよく観察してやるとそれは毛でなく、汚泥や砂地、あるいは木々や緑樹の残骸であることに気が付ける。一見して俯瞰視点から観ると、地面を喰らうようにエトリアへと進んでいるように見える狼の頭部的存在は、その実、自らの体と接触した全てを取り込みながら、その頭部の領域を拡大し、狼の頭部のような形を作り上げているものであることがわかる。
「フェンリルの上顎か……」
ギルガメッシュが呟いた。
「なんだよ、それ!」
アーサーは即座に反応してギルガメッシュに叫びを返す。その言葉にギルガメッシュはジロリと冷徹の視線を向けた。ギルガメッシュの視線は、王である自らに対しての慇懃無礼な言葉遣いをする輩に対する憤りと、蒙昧無知な人間に対する憐れみと、ただ子供のように感情を撒き散らす輩に対する侮蔑に満ちていた。アーサーはその視線にたじろぐ。自らの視線によりをたじろぐアーサーの姿を見たギルガメッシュは、そんな彼の態度を、そして、そんな態度をとったアーサーに気をかけてしまった自らの矮小さを鼻で傲慢に笑ってみせると、いつものような傲岸不遜な態度で腕を組み、蔑んだ視線をアーサーへと向けた。それはまさに、子供の癇癪には付き合ってられん、と言わんばかりの相手を全力で睥睨する態度だった。
「――まぁ、よい。特別に教えてやろう。……あれの名はフェンリル。角笛/ギャラルホルンが吹かれた終焉の時、世界の全てを喰らい尽くす存在にして、その後訪れる世界再誕の折、全ての生命の素材ともなる狼だ」
「――再誕……っ、まさか、もう始まったというのか!?」
ギルガメッシュの言葉にサイモンが、眼鏡が反応した。サイモンは眼鏡のずれた様子に気がつく事もなく、白衣が肩から多少ずれ落ちるのを気にもしないという、所作の端々に焦りを露わにさせながら、ディスプレイに映る存在へと視線を向けた。ギルガメッシュはアーサーからサイモンへと視線を移すと、少しばかり感心の視線を送る。
「こちらの餓鬼と違ってよく知っているではないか、雑種――、そうとも。笛の音と共に、世界を終焉に導く戦いの時は訪れる。北欧神話における黄昏の時代の直前の時だ」
サイモンの言葉に少しばかり気を良くしたギルガメッシュは、訥々と語り出し……。
「斧の時代、剣の時代、盾は大いに傷つき、風の時代は終わり、狼の時代が到来する。斧の時代とは、人が自然を切り開いていた時代。剣の時代とは、人が人と争っていた時代。盾が大いに傷つくとは、旧人類の滅亡を示唆し、そして、風の時代とは、人が己の中の醜悪さと争う時代を意味する。そして狼の時代とは文字通り……」
「現れたフェンリルの上顎は空をかすめ、地面を削りながら、炎がフェンリルの胎内から生じ、巨大な蛇、ヨルムンガンドは世界を融かす毒液を大地と天空の全てに吐きながら進撃し、……、そして、笛の音はヴィーグリーズの平野に集結した巨人を討つため、武装した英雄たちもまた、かの平野に集結する。――ラグナロクの始まりを告げる微かな狭間の時代という事か」
サイモンに続いてヴィズルがギルガメッシュの言葉を奪ってその後を語る。自らの語りを邪魔をする行為に、ギルガメッシュはギロリと殺意混じりの視線をヴィズルへと向けたが、彼はその常人であれば肝を何度潰されるかわからない視線を平然と見返すと、やがてそれをまるで無視して、別の場所へと意識を移す。
「マイク。フェンリルがエトリアへと向かっているというのは本当か?」
「――はい。理由は不明ですし、速度も安定していないため正確な到達時刻を申し上げることは出来ませんが、少なくとも、あと一時間としないうちフェンリルはエトリアに到達し、エトリアの街はフェンリルに呑みこまれてしまうでしょう」
「そんな!?」
マイクの冷静な回答に、フレドリカが悲痛な叫び声をあげた。
「一時間」
「一時間ですか……」
一方、ヴィズルとクーマと、初代エトリアの院長よ、現エトリアの為政者は、唸り声を上げるにとどまり、悩ましげに眉間にしわを寄せ、目蓋を閉じて、思索に耽る姿勢をとった。
「――、一時間。今すぐ戻って避難指示を出し、皆をエトリアから避難させるにしても一時間じゃあ、到底足りませんね……。緊急の鐘を鳴らして、エトリアの街に散らばっている人を集めて、事情を説明して、皆を納得をさせて、退避させるならば、少なくともあとその三倍の猶予は欲しい」
やがて目を閉じたまま呟いたクーマの言葉に反応して、ヴィズルは閉じていた目蓋を開けて彼の方を見やると、彼の意見に呼応して頷いた。
「ああ。数千年の間に拡大した街の規模と、そんな街に散らばっている彼らの事を考えるにそのくらいの時間は必要だろう。――だがクーマ。それは根本的な解決になっていない」
ヴィズルの指摘に、クーマは渋面を返した。
「それはそうでしょうとも。街を捨てて逃げるだけですからね」
「立ち向かおうとは考えないのか?」
「あれを倒す手段が思い浮かぶなら、そうしても良かったんですがね。あいにくと、私の知識の中には、周囲の地形と同化して、巨大化しながら突き進む化け物相手に、それを完全消滅させることのできる手段というものが無くてですね……。まぁ、おっしゃる通り、苦肉の策ですよ」
クーマはヴィズルの苦言を粛々と受けとめ、強く拳を握りしめた。自らの力の無さを認め、それでも最低限、街の為政者という自分の背中に背負い込んだ責任を果たすべくせめて街の人々だけでも助けようとするクーマのその態度をみて、ヴィズルは静かに柔和な笑みを浮かべて見せると、続けてそれを唇を上に釣り上げた不敵な表情へと変させ、そしてディスプレイに映るフェンリルを見上げた。
「君がきちんとした為政者でよかった。これで私も安心して役目を果たすことができる」
「――はぁ……?」
打って変わって自分を責めていたヴィズルが自分を称賛したという事実に、クーマは小首を傾げて、素っ頓狂で間の抜けた声をあげた。己の背に課せられた責任を果たすことの一体何がそんなにヴィズルの琴線に触れたのかまるで皆目見当もつかないと言った体裁のクーマの態度に、ヴィズルは益々機嫌を良くすると、意識をディスプレイの向こう側にいる存在へと向けた。
「マイク。喜ぶといい。君の本懐を果たす時がやってきたぞ」
「――それはどういう意味ですか、ヴィズル」
マイクの電子音声は、少しばかり音調と音程がいつもと乱れていた。ヴィズルはマイクの異変から、マイクは自分が今、何を言わんとしているのかを理解しながらもあえて無視したのだという人間臭い挙動をした事に苦笑しながら、こちらもあえてそんな彼の変化に気づかないフリをして、簡潔に答えた。
「エトリアを救うためにはまともな手段じゃあ、あの巨大な敵は倒せない。必要なのは少なくともあの巨大な奴の心臓までを木っ端微塵に吹き飛ばせるような戦略兵器だ。――、だから使おう、マイク。過去の人間が未来の人を思って製造した戦略兵器、グングニルを」
第二話 終了