Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
第四話 決断恐怖人への遅行薬
人が恐怖で悩むのはいつも頭が良すぎるからである。この種の病において最悪なのは、退屈さの場合もそうだが、自分はもうそこから逃れられないものと自分に断を下してしまうことである。まず間違いなくそうである。自分を機械と思い込み、自分を貶めてしまうのである。
――彼は決心した。彼は解決した。これは美しい言葉である。
アラン
幸福論より
*
グラズヘイム中央棟
*
仄暗い部屋、そこにいるだけで息苦しくなりそうな張り詰めた緊張感が漂う中、フレドリカ――リッキィと呼ばれる少女が空中に投影されたディスプレイを、少しだけ離れた場所から眺めている。見上げれば背を二百七十度ひん曲げてもまだ背面の天井の端に到達しそうにない巨大な部屋を、ほのかに青く光る筋が薄暗い部屋を微かに照らしあげていた。
「フェンリル。終末に現れて、世界を喰らい尽くす狼。そして、それに喰われる主神オーディン、か」
ギルガメッシュは何処かへ行ってしまった。大きな部屋の一方向を覆いつくすほど巨大なディスプレイには、縮尺を間違えたのか、はたまた人形使いが出演させる舞台を間違えてしまったのかと思うくらいに、山よりも巨大な狼が巨人を喰らう様が画面一杯に映り込んでいた。彼女はそれを見て呟く。
「――、まるで映画でも見てるみたい……」
昔、まだ人類が今の場所より数千メートル以上下方の土地で反映していた頃、映画館がこんな感じだったかな、と彼女は思う。締め切られた窮屈な密閉空間。微かにばかり空間を照らす電灯。ぼんやりとディスプレイを眺めると、フェンリルが暴れているその光景は、銀幕が上がったばかりのスクリーンであるかのようにも見えていた。
「ですがこれは現実の出来事です、リッキィ」
胡乱とした目を荒ぶる巨狼が映り込む電子画面へ向ける彼女へ、感情を昂らせぬよう調整された電子音声が投げかけられる。フレドリカは視線をどこへと投げかけるわけでもなく、静かに瞑目した。
「マイク……」
彼女がそうしたのは、フレドリカに話しかけてきたその存在が、施設そのものを管理する人工知能AIの、マイクという彼だからだ。人としての実体を持たない彼は、基本的には電子音を用いて他者とのコミュニケーションを取る。だからこそフレドリカは耳朶を打つ声に集中するため、視界を閉じたのだ。
「フォレストセルと一体化したヴィズルが、予定通りに狼に飲み込まれました」
部屋の四方へと設置されたスピーカーから、物静かな電子音が残酷な現状を告げてくる。フォレストセル。初めは大地再生薬であり、コピー世界樹の体を構成する物質だった物が、地球環境を汚染する物質を取り込んだ際、汚染物質の中に含まれる魔のモノ成分と反応する事で生まれてくる、世界樹の澱。かつてヴィズルが千年の時を費やして倒そうとした敵であり、人工知能のマイクにとっては、グングニルという戦略兵器を用いてでも撃滅しなければならない対象であると基礎プログラムにインプットされている存在で、つまりは人類の怨敵で、消滅させなければならない相手。――ヴィズルにとって、マイクにとって、因縁の、敵。
「――ヴィズル」
かつてフォレストセル打倒の研究を行っていたヴィズルは、最後、フォレストセルにその身を飲み込まれて、死んだ。だが彼はその折、自らが開発いた、フォレストセルの活動を阻害する薬を飲んでいたおり、フォレストセルに接触すると、その力を幾分か操作することのできるスキルを獲得していた。
――『フォレストセルと一体化した私をフェンリルに食わせ、奴の体内に入り込んだ私が、フェンリルの操作を行い、体を持ち上げる。奴の体が世界樹の大地と世界樹で構成されているというなら、それも可能となるはずだ』
そしてコピー世界樹や大地再生薬を開発、製作した主要研究員の一人であるヴィズルは、薬によって作られた世界樹の大地や世界樹をある程度操作する方法を習得している。そんな彼だからこそ思いつくことの出来た策で、限られた時間の中では思いつく限りでは、最も最小限の犠牲で済む策だった。
「だからといって、わざわざ、捨て身の策、普通、提案する?」
しかし、率直に、ヴィズルの案はあまりに自己犠牲が過ぎる、とおフレドリカは考えていた。初めから犠牲を許容する案を、フレドリカは正直言って、まるで賛成できないのだが、だからといって、彼が出したそれよりも良い代案があるわけでもない。だから仕方なく、フレドリカたちは、ヴィズルの案に従ったのだ。そう、仕方なくフレドリカは犠牲を容認した。
――かつていつか、世界樹の大地を守るため、エトリアを犠牲にしてでもフォレストセルを倒すというマイクという人工知能の使命と考えを否定し、彼の思惟という犠牲を容認した時のように。
「それが最も犠牲が生まれないで済む可能性の高い策なのです。ならば実行するのは当然でしょう」
「マイク……」
マイクの声はどこかいつもより無機質だ、とフレドリカは思った。マイク。グラズヘイムを管理する人工知能にして、フレドリカの相棒。そして、フォレストセルという相手の対処方法において異なる結論を持ってしまったがため、道を違える事となった友達。
「――そうね」
マイクの意見は正しい。ヴィズルが提案したその策よりも犠牲が少なく済む案を思いつかなかったその時点で、彼の策を実行しようという流れになるのは、間違っていない。実際、シギーやラグーナ、サイモンやアーサーは、それを理解し、受け入れ、そして自分に出来る方法で、ヴィズルの策をアシストをする方向へと動き出した。フレドリカもそんなヴィズルの案を受け入れたが故、この旧時代の施設の動きを制御出来る人間としてこの場に残ったわけであり――
――我ながら
だとすれば、この場に残ったフレドリカがこうしてここで悩んでいるのは、ヴィズルのそれよりもいい案を思いつかなかった、無力な自分を慰めるための行為でしかないのだ。何も思いつかないけれど、ここでグングニルを発射するその時まで何も考えなかったままでいたのなら、自分が大いに傷つくと知っているが故の、自傷を避けるための逃避で、自慰行為だ。それは自らの身を犠牲にしてまでエトリアを守ろうとするヴィズルに対してあまりに――
――なんて情けない……
未熟で、エゴがすぎる行為だ。それを自覚しているからこそ、フレドリカは懊悩する。その懊悩こそが、自分をさらなる答えなき迷宮の中に誘う行為だと知りながら、そうして思考の迷宮の中を必死に彷徨う行為に夢中になっていなければ、この場から逃げたくなるほどの自責の念が自身を押しつぶしてしまうだろう予感を感じ取っているが故に。
「フェンリルの動きに異常発生。ヴィズルがフェンリルの制御に成功したものと推測」
あてもなく意識の中に出来上がった迷宮の中を彷徨っていたフレドリカは、マイクの声によって、現実へと引き戻された。フレドリカは誘蛾灯に誘われる蝶のように、ふらふらと頼りなくディスプレイの前まで移動すると、改めて今の自分の位置から現状を把握できるようにと大きさを調整された、投影型ディスプレイ上のタブに映る光景を改めて眺める。
「――フェンリルが……」
ディスプレイの向こう側では、オーディンを飲み込んだことによりいっそう巨大になったフェンリルが、天空に向けて大きく開けていた顎を下へとおろし始めていた。やがてフェンリルは、地面へと顎を接触させると、全身を大きくガクガクと震わせて、痙攣し始める。おそらくそれは、フェンリルの意思と、ヴィズルの意思が拮抗している証なのだろうとフレドリカは推測した。
「きゃ!」
やがて世界樹の大地と一体化しつつあるフェンリルが身じろぎした影響だろう、グラズヘイムの大地とその中央棟であるこの建物も揺れた。フレドリカは体勢を崩して、尻餅をつく。
「――大丈夫ですか、リッキィ」
「えぇ、平気よ、マイク。――あ」
地の揺れはおそらくグラズヘイムの管理者であるマイクにも多少影響を及ぼしたのだろう。多少の間を開けた後、マイクから送られた労りの言葉を受け取りながら、フレドリカは立ち上がった。フレドリカが再びディスプレイへと目線を送り直すと、そこには頭と顎ばかりが目立っていた狼の背中から腹にかけてが映っているのを見えた。彼女は間の抜けた声を漏らす。その時。
『マ――――――、……ク、聞こ――る……』
スピーカーから雑音だらけの濁った音声が、エトリアの時刻を告げる鐘のように、部屋の中に響き渡った。通り抜けていったしゃがれ声が即座にフィルターによって周波数を調整され――
「――時が来た。グングニルを撃て」
続く言葉が銀と黒と青に支配された部屋を綺麗に通り抜けて行く。自己を殺せという内容を含む命令は、しかし迷いの成分が微塵も感じられなかった。
「――ヴィズル」
部屋の主人であるマイクが彼の名を呼んだ。声の音程はいつも彼が発する電子音声のそれとまるで変わらないけれど、その裏側には、いつもとはまるで違う、躊躇いと戸惑いの感情に満ちている、と、フレドリカは感じ取った。
「――マイク」
そしてそんな彼の異変にヴィズルも気がついたようで、彼は先ほどの機械じみた無機質な声色とはまるで違う、聞くものの気持ちをこころ穏やかにする、暖かな、慈愛に満ちた声で、マイクの名を呼んだ。
「――私はかつて、エトリアという街の発展のため、多くの冒険者を切り捨ててきた。町に住む大勢を救うために、少ない犠牲を容認した。犠牲が出た、という事実に目を向ける事を容認することすら怖くて、やがて私は、エトリアの発展というお題目を言い訳に、ただ淡々とエトリアを守るため、人を処分する怪物に成り果てた」
そして唐突に独白が始まった。突如として始まった独白。なぜ彼が今この瞬間、そのようなことを語り出したのかは分からなかったが、ヴィズルの独白は、悔恨を語る言葉なのに、冷たさがなく、それどころか、朝方、現実と夢との境界をさまよっている人を起こす日差しのような暖かさに満ちている、とフレドリカは感じた。だからフレドリカは口を噤んだ。
「――」
そしてそれはマイクも同じだったのだろう。マイクは何も言わない。だが、ディスプレイの映像が微かに乱れ、スピーカーから聞こえてくるヴィズルの音声に僅かばかりノイズが混じるあたり、ヴィズルの言葉がマイクの心の防壁を一枚ずつ丁寧に剥がしていっているのは確かであるようだった。雰囲気が和らいだのをフレドリカは感じ取った。
「マイク。私も君と同じように、旧い世界から今の世界にまで地続きの存在で、自らの、自らに課せられた目的のために多くの犠牲を容認した存在だった。そして、やがて私たちは、フレドリカらに打ち倒され、彼女らは私たちが実行しようとしていた策がもたらす成果より、もっと優れた成果をあげ、多くを救い――、私たちはそして、間違っていたのだということを思い知らされた」
「――」
フレドリカは、突如、思いもよらぬ場面で自身の名前が出てきた事に内心驚いたが、それをおくびに出すことはしなかった。ヴィズルの語りはマイクに向けられたもので、マイクのために語られているものだ。それに水を差してはいけないと、フレドリカは思ったのだ。
「だが、人間、間違っていたからといって、すぐにそれを受け入れられるものではない。私は君よりもずっと長く生きていたが、それをわかっていても、つい先ほどまで自らが間違っていたのだという事を認めたくないというわだかまりがあった」
ヴィズルの独白は続く。彼は自らのようやく快癒に向かいつつあった傷を抉ってまで、マイクに何かを伝えようとしている。これは彼にとって遺言で、そして、マイクにとって必要な事なのだとフレドリカは直感した。だからそれを邪魔してはいけない。
「――ヴィズル」
彼女はそして、マイクの意識が完全に自分から乖離していることを悟ると、静かに身を引いた。ここから先は、同じ時を、同じ苦悩を抱えて生きたものだけが、分かり合える領域だ。自分にはきっと分からない。フレドリカはそれを容認した。
「――私は、それでも、私の間違っていた行為は未来にとって、なんらかの役に立ったのだと、お前の行為はたしかに多くの被害者を生んだのだけれど、たしかに誰かの役に立ったのだとギルガメッシュに言われたあの時、初めて救われた。過去の私の過ちを含め、意味はあったのだと許容されたことで、初めて自分の生涯に意味を見出すことができた」
「――」
それは生涯の最後までを共に道を歩む仲間に恵まれた自分では分かり得ない、生涯において長い期間を一人孤独に過ごしたものだけが共有する痛みがもたらす感情で、そんな彼らにしか分かり得ない感情なのだろう。
「君よりも長く生き、世界中をめぐり、多くの経験を重ねてきたと自負する老体であってもこの有様なのだ。――だから、このグラズヘイムという場所から世界を眺める事しか出来なかった君に、自身の使命を拒絶したフレドリカに対してわだかまりを捨てられない所があっても、自分をそのまま受け入れてもらいたいと思う態度を取っても、私は不思議に思わない。むしろ当然だろうともすら思う」
だからフレドリカは何も語らない。千年もの時をマイクの傍で眠りこけただけの自分に、そんな、千年もの間、世界という道を歩き続けた者の気持ちは、フレドリカにはわからないから。
「マイク。君のそのグングニルを使ってフォレストセルを倒し、世界樹の上の平和、多くの人を守ろうとするのは、人に生み出された人工知能である君の根本概念であり、いわば本能であり、魂だ。そして君はそんな魂を、自らが友と思っていた人間に否定された。それは君の基本概念に大きな傷を作った。君はそんな傷を、それでも受け入れるため、人工知能という自らの存在を否定するような、完全な機械となる事を望んだ」
「それは違います。ヴィズル。私は本当に――」
「私には、そう見えた。私にはそう見えたんだ、マイク」
「――」
マイクは黙り込む。ヴィズルの言葉に、思い当たりがあったのか、あるいは、ヴィズルのその口調が嘆願じみていたからなのか、マイクはヴィズルの言葉を否定しなかった。
「マイク。おそらく君の魂は、あの時、真っ二つに切り裂かれた。本能を大切な人に否定された君は、その後、フレドリカらにより良い形で正しく世界を救ってみせられた事で、君は、人工知能である自らが本能の元に下した判断は間違っていて、彼女らは正しかったのだと機械的に判断し、自らの本能を間違っているものとして封じ込めた。だから君は、正しく、機械となることを望んだのだ」
「――」
「私は君がそうして自らの存在を否定したことを正当化しようとする君を見ているのが辛かった。私より若い君が自らを傷つけるそんな行為を、見ていられないと思った。――、だからマイク。君があの時、フレドリカに自らを機械として扱ってほしいとそう願い出た時、私はなんとしても、君に救われてほしいと、君を救いたいと思った。そうだ。私は、私と同じ時を過ごした一人の人間として、君に報われてほしいと思っている。君が、一人で頑張ってきた事実に、そんな君の長年の頑張りに報われて欲しいと、私は心底願っている」
「――ヴィズル」
「君は長年、自らを自傷し続けてきた。私は、それだけボロボロになった傷ついた魂を癒したいと願うなら、君が否定した君を肯定してやるなら、君の本能と長年は決して間違いじゃなかったと、君を肯定してやるしかないと思ったのだ」
ヴィズルの願いは、きっと同情から生まれたものだ。同類にたいする情けから生じた、真実、誰かを救いたいという純粋な想いから生じた綺麗な願いではなく、自分と同じような経験をしてきた誰かがそうして自分を傷つけるその行為が、まるで自分を傷付けているかのように幻視できてしまってつらいという、そんな自己愛ともエゴとも呼べるものから生まれた、自己満足から生まれた、偽善だ。
だがそれでもいいじゃないか、とフレドリカは思う。
だって、そんな自己満足から生じた肯定が、今、こうして機械になろうとしたマイクの感情を、ディスプレイ上にフェンリルの映像をまともに映せないほど、スピーカーのハウリングが部屋中に響き渡るほどに、昂ぶらせて、人間らしく葛藤させているのだから。
*
「さ――、マ――ク」
――さぁ、マイク……、かな?
「――ヴィズル?」
やがてヴィズルの声は一気に雑音混じりとなり、聞こえなくなる。マイクの激情がスピーカーから聞こえてくる彼の音声に雑音を生じさせたわけでないことは、マイクの反応から理解ができる。おそらくこれは、信号を発するヴィズル側の問題だろう。フェンリルと同化した彼の力が弱まってきているのだ。
「君――、念――を果た――――――」
「ヴィズル。待ってください。音声を適切に変換できません」
マイクが慌てた様子でヴィズルへと語りかける。マイクがどれだけ必死に彼の声を適切に聞き取ろうとしているのかは、ディスプレイ上に映るフェンリルの画像が、一秒ごとに鮮明になっていく有様から理解することができた。そうして鮮明になってゆくディスプレイの画面の中、そんなマイクの信号処理速度を嘲笑うかのように、フェンリルはその外周を蠢かせ、姿形の輪郭が不安定になってゆく。
「グングニル――――――――――――、君と、君の大切な人の――――――望み――、エトリア―――――――――、世界――救う――――――、――――――――――――」
「――ヴィズル! ヴィズル!?」
やがてヴィズルの声が完全に途絶えた。おそらく信号が完全に途絶したのだろうことが、マイクの声からうかがえる。と同時に、フェンリルの動きが活発化した。フェンリルがヴィズルの制御を振り切ろうとしているのだとフレドリカは察した。暫くの沈黙が薄暗闇の中を支配する。スピーカーから漏れる雑音だけが、現状がもう取り戻しのつかないところまで進行してしまった事を告げていた。
「――リッキィ」
そして、静寂を破り突如として投げかけられたほとんど掠れて聞こえない電子音声に、フレドリカは自分の出番が来た事を悟った。ヴィズルがその身命を用いて、マイクがハードディスクの中で長年の間に築き上げて来た牙城を打ち崩した。ヴィズルという父親は、マイクの心の壁を取り払った。なら、あとは彼の親友である私の出番だと、フレドリカは悟ったのだ。
「なぁに?」
故にヴィズルからバトンを渡されたフレドリカは、自らの役割を果たすため、わざとらしいくらい柔らかく、優しい声色でマイクの言葉に応じた。それはかつて、ハイランダーの彼に恋するだけの少女であった自分には出来なかった、一人の人間として、女性として成長した自分だからこそできる、女らしさ、母親らしさという武器を使った態度だった。
「私は道具であることを望みました。あなたもそれを受け入れてくれました。そして私をこうしてそんな道具としてあつかってくれる人も現れました。リッキィ。その人は、あなたが否定した過去の私の行為を認め、その上で、私と貴方の望みを叶えてくれる答えを用意してくれました」
「――」
フレドリカはなにも語らない。マイクがようやく自分の本心を、本心なんていう、そんな訳がわからないものを訳がわからないまま、無様に話そうとしているのだ。だからそんな彼の悲鳴じみた吐露を邪魔するわけにはいかないと思ったのだ。
「しかし、そんな人に対して、ヴィズルは、あの人は、そんな自分めがけてグングニルを放てというのです。殺せというのです。彼の仰る通り、グングニルを放ってフォレストセルを葬るのは、私の使命です。かつての私なら、迷いなく撃っていたでしょう」
「――」
――撃っていたでしょう、か
その言葉を聞いて、フレドリカは確信した。マイクと初めて理解し合えたと、胸が熱くなった。喜びに言葉が漏れそうになった。だが、それでもまだだ。まだダメだ。
「ですがリッキィ。私は、あの時と違って、撃ちたくないと思う自分がいることに驚いています。リッキィ。私は初めて、あの時のあなたの気持ちがわかりました。非常に不合理なのですが、私は、私を認めて、救おうとしてくれているあの人を殺したくないのです。世界よりも、あの人のことを優先にしたいのです」
「――」
マイクの言葉は、とてもよくわかる。マイクの葛藤はよくわかる。マイクの苦しみはよくわかる。マイクの悩みはよくわかるし、マイクの気持ちは痛いほど理解できるけれど、けれど、まだマイクは、語り終えていない。
「私の道具としての魂は、グングニルを撃てと言っています。ですが、私の中に生まれたエラーは、撃つなと言っています。ノイズで電源が落ちそうです。熱雑音でCPUの速度が低下し、思考が非常に不合理な状態です。公算したのち、勝算の数値が小さい方を優先して選びたいと思ったのは、人工知能としてこのハードディスクの中に生まれて以来、初めてです。少ない確率でも、あの人が助かる選択肢があるのならば、そこに賭けたいとすら思ってしまっています。リッキィ。私は――、私はどうすればいいのでしょうか?」
――どうすればいいのでしょうか
大切な人の死を目前にしてマイクの口から漏れたその言葉に、フレドリカは思わず飛び上って目の前のディスプレイを操作するコンソールに抱きついて頬ずりしたくなるくらい、胸の内に喜びが溢れ出た。マイクはようやく、私を許してくれた。そんな気がしたのだ。マイクが私を頼っている。そう。
――マイクはかつて彼を否定した私を許し、助けてほしいと願っている。
マイクの懇願は、フレドリカに対する何よりの特効薬となり、彼女の心にあった大きな傷が癒えてゆく。フレドリカは、ようやくヴィズルと同じ位置に立てた気がした。ヴィズルの許容と容認は、マイクのみならず、フレドリカも救ったのだ。フレドリカは、心底彼に感謝した。だから、フレドリカは、ヴィズルの意思を汲んでやりたいと思った。
「――それはあなたが、自分の意思で選びなさい、マイク」
そして溢れ出る思いのままに、フレドリカはそんな言葉を口にする。
「リッキィ」
「ねぇ、マイク。貴方は今、ただ道具として、機械として使われるだけの、他人に傷を負うことを任せて、寄りかかれるだけの楽な生涯を過ごせる時はもう終わってしまったの」
「でも私は機械であって、道具として、正しく誰かに使われるため――」
マイクの戸惑う声が聞こえる。声は、迷宮で迷子になった子供のような、頼りなく、か細い、今にも泣き出してしまいそうなものだった。そんなマイクの変化が嬉しくて、フレドリカは泣き出しそうになった。
――だが、まだダメだ。
彼はまだ子供で、私は彼よりも沢山の世界を見て、彼よりも成長したお姉さんなんだから、まだ私は――
――私はまだ、マイクを導く、立派な大人の仮面を被っていないといけない
「嘘。本当は道具として扱われるのが嫌だからでなく、あの時も、自分の正しいと思うことを否定されたから、私たちを否定したんでしょう、マイク。貴方は人間と違って、遺伝子に千年やそこらの歴史しか持たない貴方は、それを認めたくなかった。認めてしまうと、それこそ、積み上げてきたものが無に還ってしまうような気がしたから。貴方が一番長生きの人工知能で、唯一だものね。だから反発した」
言葉は子供のような彼に向けるにしては強く、厳しめだった。でも、それでもモラトリアムの境界で彷徨っている彼なら、そんな状態にいる今なら、きっと彼も自分の思いをわかってくれると信じて、フレドリカは語る。
「かつて私は貴方と同じように悩んだ結果、少ない確率でも、みんなが助かる選択肢を選んだ。私は私の大切な人を失いたくなかった。私はそんな選択を、間違いにしたくなかった。私は私のためにそんな貴方を傷つける選択をしたけれど、きっといつか貴方にも、わかってもらえると信じて、私は私の道を自分で選んで、私はあなたを傷つけて、私はあなたを傷つけた事実に、傷ついた。そして私は、私が痛い思いをする選択をしたのだから、きっと貴方もわかってくれるに違いないと思い込んで、その後、貴方からの呼びかけを待った」
「――」
「でもそれはただの自己満足だったのね。私も今さっき、ようやくそのことに気付かされたわ。相手の大切なことを否定して、それでも相手にわかってほしいと願うなら、否定したあと近寄って、相手の事情を汲んだ選択肢を提示してあげて、そして、相手の選択肢も決して間違ったものでなかったのだと肯定して、許容してあげる事こそが大切だなんて事を。ううん、私は、きっとわかっていた。わかっていたはずなのに、幼くて余裕のなかった私は、貴方に傷つけられる事が怖くて、待つしか出来なかった。その後、傷つけられて余裕をなくしている貴方に近づいて、傷つけられるのが怖かったから私は無意識のうちに、そうやって逃げた……」
「――」
逃げた。そんな言葉に、私はひどく心が痛む思いをした。胸を押さえつけて、うずくまって、叫んでしまいたくなるくらい、心が千切れる思いをした。私の口から出た言葉は、彼のみならず、私を傷つけている。過去を掘り起こして、しなくてもいい痛みを味わっている。でも、それでも、私は退くわけにはいかない。私は成長した。私は変わった。私はいろんな人に助けられながら、私の思うままに生きた。だから今度は私の番なのだ。
「今、ヴィズルは、貴方の裏側でずっと寄り添っていたあの人は、命を捨ててでも貴方のやり方を肯定し、貴方のために手段を用意し、提示してみせた。ヴィズルが貴方の側で過ごした長い年月と、その人の魂を捨てる行為は、貴方の傷ついた魂を癒して、貴方に人の感性を理解させた。――ヴィズルは立派な人よ。あの人は、たしかに、エトリアの守護者で、立派な親で、相応しい教育者だった」
「――」
マイクはなにも答えない。だがフレドリカは、そんな彼が今、どのような気持ちであるかは、この薄暗い部屋の揺れが復活し、空調が、ディスプレイが、電灯が、スピーカーが異常を起こしている事から、理解する事ができた。
マイクは今、自らが大事に思った人の意思を優先して、そんな大事な人を切り捨てるか、あるいは、自らの我を通し、自らを大事に思ってくれた人の想いを拒絶するかしか選択肢がないという状況に絶望して、思考を停止している。マイクは傷付きたくないと、そんな自らが傷つく選択したくないと思っている。誰かが代わりに自分の代わりに傷ついてくれるのを待っている。フレドリカが答えを与えてくれる事を待っている。だからこその沈黙。
――でもそんなのはダメだ
「マイク。大切なものを守るためには、大切なものを切り捨てないといけない時もある。どうあがいても自分が傷つく選択をしなければならない時がある。それはとても辛くて、苦しいことだわ。時には、身を引き裂かれる思いをする事だってある。でも、自分のことを、そして自分と同じかそれ以上大切な相手のことを思いやるなら、自分の為に、相手のために、悩んで、悩んで、悩み抜いて、その果てに自分で答えを出しなさい。それが自分のため、そして、貴方のため、命を捨ててまで貴方に何かをしてやりたいと考えて、貴方に選択肢を選ぶ余地を与え、提示してくれたヴィズルに報いる、唯一の恩返しだわ」
思考を停止して、自らが傷つく決断を拒否して、他人に自らの運命の手綱を任せるというのは非常に楽だけれど、成長がない。葛藤し、自らで自らの運命を決断する。それが自らの行動を、自らが納得できる方へと解決に導くのだ。
「貴方はかつての人類と同じくらい歴史を積み重ねて、ギルガメッシュやヴィズルと一緒に、人々の営みを見守ってきたんでしょう?」
「リッキィ。でも、私は……」
それでもマイクは、言い澱み、迷う。自らの決断がどのみち、自らにとって大切な誰かを傷つけてしまうのだという恐怖が、彼を臆病にさせていた。フレドリカは場違いである事を理解しながら、それを嬉しく思った。それはマイクが完全に、人間のような感情を持つに至った証のように思えたからだ。
「でも、とか、だって、とかはもう言っている時間がないわ、マイク」
けれどフレドリカは厳しく、マイクの縋り付きを切り捨て――
「――」
「ごめんなさい。卑怯な言い方なのはわかってる。時間がないといって、相手にとって大事な選択を急かすなんて、ほんと、最低の行為だわ。――、けど、決断の時なのよ、マイク。貴方は、どっちを選んでも、傷つく。どちらを選んでも、貴方は矛盾に気付いて、傷ついて……、自分の選ばなかった方を、後悔して、エラーを起こして、悩みを抱えて生きていくことになる。そして、そんな選択肢を用意してもらいながら、どちらも選ばずに時間が切れてしまったその時には、それこそ貴方は、自分を殺したくなるくらい、生涯ずっと痛む傷としてそれを抱き続けることになるわ。だから――、さぁ、マイク、選びなさい。貴方の意思で、どんな傷つき方をしていくのかを。私は貴方がどんな答えを出そうと、貴方の決断を尊重するわ」
言葉とともに、彼の体を優しく推し離した。厳しめの言葉を投げかけたけれど、大丈夫だとフレドリカは確信していた。悩み、苦しみ、そして、それでも自分と誰かのためを思って苦渋の中から、それでも決断を下そうといるマイクなら、きっと――
――きっと、貴方は、私と同じ道に立ってくれるはずだから
*
「リッキィ。……わかりました」
マイクはすっかり安定した口調で告げる。薄暗い部屋の中、ディスプレイの画像は一定の光量を保ち、部屋を照らす青光は光量を増し、スピーカーから聞こえていた耳障りなノイズは収まっていた。彼は自分を再構成し、更新したOSを再インストールし終えたのだ。
「――グングニルを使用します」
そしてマイクははっきりと言い切った。自らの道を自らで選ぶと決断をしてからの彼は早かった。かつて絶対と信じていた自らの使命と手段を、他者の言葉と行動によって否定され、さらには自らもそれは間違いだったと否定し、傷付き続けてきた彼は、葛藤の果て、再び自らを許容し、容認する強さを得た。
「――そう」
それは彼が機械とか、人間とか、そういう境界から一歩踏み出て、新たな地平へと旅立ったことの証明に違いなかった。フレドリカはそうして強くなったマイクを、多くの親愛の情と、ちょっとばかりの嫉妬と寂寥の念で見守った。他人の成長を見るのは、むず痒いものなのだ。
同時に、施設が一気に慌ただしく稼働し始める。あらゆる警報が鳴り、青の気持ちを落ち着かせる景観は、一気に精神を急かす赤一色の空間へと変貌する。グングニルが発射するための最終段階に移行したのだ。
画面上で慌ただしく計算数値が増減し、タイムカウントが進む中、やがて変動していた数値は全てある一定の範囲でのブレに収まるようになり、けたたましく鳴り響いていた音は徐々に静まってゆく。
「リッキィ」
そして準備を終えたのだろうマイクはフレドリカの名を呼んだ。
「ええ。何かしら」
「お願いがあります」
マイクの言葉が途切れた途端、フレドリカの正面、空中投影されているディスプレイの下側にあるコンソールの表面上に、さらに小さなディスプレイが投影された。その小さなディスプレイには、とてもシンプルな赤のボタンが表示されている。
「そのボタンを押してほしい。それはグングニルの発射スイッチです」
フレドリカは一瞬、決断の舵を私に任せる気かしら、と思ったが、すぐにそんな邪推は彼方へと消え去った。小さなディスプレイの画面が微かにぶれている。マイクは今、おそらく生まれて初めて、恐怖と必死に戦っているのだ。そして、だから――
「それは貴方の意志で?」
「はい。私の意志です。私は、私の意思で、ヴィズルを殺すための引き金を引きます。――、ですが、私一人では、彼を殺すのが、辛い」
――友の私を頼った。
それが嬉しくて、フレドリカは――
「ええ、わかったわ」
即答した。罪を一緒に背負って欲しいと懇願するマイク/友の要請を拒む理由がどこにもなかったからだ。フレドリカはそして前に進み出て、ボタンを眺めた。このボタンを押せばグングニルが射出される。押すために前へと進む直前、大きなディスプレイを眺めた。画面の中では巨大なフェンリルが大いに暴れまわっている。ヴィズルが抑制できるのもそろそろ限界なのだろう。
そしてフレドリカが手を伸ばそうとして、しかし、少しばかり、ためらい、一瞬手を引いた。マイクがそうであるように、フレドリカも、ヴィズルという人物を殺してしまうのが怖いのだ。殺人者の咎を背負ってしまうのが恐ろしいのだ。そうして躊躇い、手を引き、しかしやはり手を伸ばし、そして、手を止め、手を引き――、やがてそんな事を数度繰り返したフレドリカは一つ大きく息を吸って吐くと、目蓋を大きく開いて、意を決した表情でボタンへと手を伸ばし――
「へへつ、水臭いなぁ!」
そしてそれは聞き覚えのある声に止められた。
「そうよ、私たちを忘れないでほしいわ」
ドカドカと足の音が鳴り、ガシャガシャと鎧金属が擦り合う音がする。
「あの時リッキィと一緒に、僕たちも君を否定した。君がそれを辛く思い、抱え込んでいたというのなら、それは僕たちの責任でもある」
カチン、と、小さく金属フレームの撓む音がした。
「マイク、リッキィ」
そしてフレドリカは心細くなった時、この世界で最も耳にしたくなる声を聞いて、たまらなくなって振り返った。
「シギー! ラグーナにサイモン! それにアーサーも!」
四人はいつもと変わらないそれぞれの笑みを浮かべながら、部屋の中へと入ってくると、コンソール直上の小さなディスプレイに映るボタンの前で佇むフレドリカの前まで進んだ。シギーはフレドリカの肩を抱くと、ディスプレイの向こう側――、壁の前にある、マイクの心が宿っているだろう機材に目をやった。
「俺たちは仲間だ。いがみ合って、喧嘩して、長い年月の末、俺たち以外の立派な人の仲裁があって、ようやくわかりあえた。――、だから、みんなで罪を背負っていこう」
「――はい」
みんなの中に自分が入っている。多分それがマイクにとって、とても心強い後押しだったに違いない。みんなの手が一斉に画面にタッチされる。それは旧人類であり、管理者でもあるリッキィ以外意味のない行為であったが、その気持ちをマイクは嬉しく思った。
彼らの思いがグングニルを稼働させる。大地に刺さったケーブルから大いにエネルギーが吸い上げられる。それはやがて中央棟へと送られると、コンバーターにて破壊の力へと変換され、グングニルと呼ばれる戦略兵器の力となる。
直後、グラズヘイムが揺れた。溜め込んでいたエネルギーを全開放したのだ。グラズヘイム中に白光が満ち、やがて管理室を地揺れが襲った。地面は崩れて落ちるのではないかと思うくらいに上下左右に揺れ、立つことができなくなったフレドリカたちは地面へと押し付けた。
そして――
*
グラズヘイム北、エトリア西の平野
*
――ああ。
双方向通信がこちらの事情により途切れたのちも、マイクが電波を飛ばし続けていてくれたおかげで、フェンリルの体内に吸収されてしまったヴィズルでも、グラズヘイムの管理室の中の会話を聞き続けることができていた。
――そうか、やってくれたか。
グングニルが発射されたという情報を聞き取ったヴィズルは、安堵した。ヴィズルは人工知能であるマイクが成長し、かつて仲違いした友と再び同じ道を歩めるようになった事を祝福した。もはや人の体の部分が一欠片すらも残っていないヴィズルは、フェンリルの体内で肉体を溶解されながら、機械の体を持つ彼が輝かしい未来を送るだろう事を幻視して、溶けて無くなったはずの肉体に力がみなぎる思いをした。
――ならば、私も老兵としての意地を見せなければ
自分の働きで次世代を生きる彼らが希望を取り戻した。その事実は死に向かうだけだったヴィズルにとって意思と血潮を燃やす何よりの活となり、ヴィズルの思いを強くした。
――ぬぅぅぅぅぅぅぅ!
ヴィズルは最後の力を振り絞って抵抗するフェンリルを抑えにかかる。同時に、ヴィズルはフェンリルの背から腹に至るまでの部分を大地より完全に露出させた。大地が揺らぎ、揺れにより、フェンリルのあちこちに散っていった己の体が痛みの信号を送ってくる。
――ううぅぅぅぅぅぅぅ!
だがそんな痛みは今のヴィズルにとって、障害となり得るものではなかった。彼は全神経をフェンリルの行動制御に利用している。そこに痛みの入り込む余地などないのだ。ヴィズルの命の燃料を燃やし切るが如き気迫と感情により、フェンリルの体は今、完全にヴィズルの制御下にあった。
――あぁぁぁぁぁぁぁぁ!
ヴィズルが叫ぶ。少しでも集中を切らすと、そこでもう二度と同じことが出来なくなると直感するが故に、彼は最後の力を振り絞る。彼の命のロウソクが彼の頑張りにより、刻一刻その長さを失ってゆく。やがてロウのほとんどなくなったそれと等しい存在になったヴィズルは、最後の力を振り絞って、フェンリルの体の一部を、完全に世界樹の大地から分離させるとともに、形状を変化させ、硬度を操り、フェンリルの周囲の大地に巨大な壁を作り上げた。
巨大な狼フェンリルを囲うようにして、世界樹の大地より作られたすり鉢状の分厚い壁は、下方は丸く大きな球状、かつ、上方部分はくり抜かれた円柱というフラスコの如き形をしていた。フラスコの壁はその最薄の部分でも、厚さは十キロメートルほどもある。それはフェンリルをこの場に閉じ込める檻であると同時に、エトリアや周囲の土地を守るための城壁だった。
――これで、エトリアや、周辺の土地の被害を最小限に抑えることができるだろう
ヴィズルは自らの行いに満足した。瞬間、ヴィズルは急激に意識が薄れゆくのを感じた。ヴィズルは自らの死を確信した。だがヴィズルに後悔はなかった。やがて全ての感覚をほとんど失ったヴィズルは、最後に、強烈な白い光と魂を焦がすような熱を感じ取った。
二つの成分に惹かれるようにして薄れゆく意識を僅かばかりに復活させると、光の中、遠の昔に失ってしまった最も見たかった顔を見つけて、ヴィズルは破顔した。
――長い間お疲れ様でした
――ああ。随分と待たせてしまったな
――はい。……おかえりなさい
――……ただいま
そして熱が天空と地上の全てを支配し、造られた大地を吹き飛ばした。
*
グラズヘイム北、エトリア西の元平野
*
天空より飛来した光刃が雲を引き裂き、直後、大地によって造られたフラスコの中にいるフェンリルを貫いた。光刃がフェンリルの皮膚と接触した瞬間、破壊の力は樹木と土砂が波打ち動く皮膚を突き破り、大地の全てが轟き渦巻く血肉を抉り、一直線に心臓を目指して直下する。
接触、侵入が起こった瞬間と同時に、神槍グングニル、すなわち、世界を滅ぼしかねない威力を持つが故に封ぜられていた兵器と、魔獣フェンリル、すなわち、出現してしまえば必ずや世界を喰らい尽くすという獣の衝突により、一つの場所に収まるにしては過剰すぎるエネルギーは、やがて灼熱と白光と暴風を生み、荒れ狂うそれらは、暴虐の力をもってして周囲へ拡散し、己の存在を誇示しようとする。
それを押しとどめたのは、ヴィズルが薄れゆく意識の中で作り上げたフラスコの防壁だった。フェンリルの周囲へと造られた分厚い大地の防壁は、熱と光と風との衝突により、次々と濛々たる煙へと変換され、球の中に立ち籠め、暴れまわる。やがて上方、空に逃げ場を認めた暴虐の力たちと煙は、我先にと出口を目指し、天を目指し、入り混じる。やがて熱された土砂と噴煙が風の吹き荒れる勢いのままに飛び出て、世界中へと撒き散らされた。
フラスコの中に叩き込まれ生まれた渦巻く破壊と暴虐の力はそうしてフラスコの壁の厚さと引き換えに、徐々に、徐々に、別の力へと変換され、内部に生まれたエネルギーはその力量を失ってゆく。
拮抗し、完全に力を分散させていた人造大地の巨大フラスコ。そんなエトリアと世界をフェンリルとグングニルの衝突から守るべくヴィズルが最後に生み出した、世界から隔離された内部にて破壊の力が渦巻く監獄の檻へと近づく存在があった。
それは人造物だった。特殊な熱を受け流す赤い塗装を施されたそれは、五つの巨大砲身と、二つの小さな銃座を持つ、ギムレーと呼ばれるグラズヘイムの守りを担当する戦車だった。足に備え付けられたキャタピラーではなく、下面と後部に取り付けられたブーストを用いて、地面を滑るようにして進むそれは、空より落ちくる土砂と噴煙をはねのけながら人造フラスコの方へ突撃する。
――――――――――――ドンッ
最中、戦車ギムレーはその五つの巨大な砲身全てから同タイミングで弾を撃ち出した。時速にして二百キロメートルの速度で滑る戦車より火薬の勢い乗せて撃ち出された五つの120mm徹甲弾は、発車と同時に即座にばらけ、フラスコの表面に着弾。砲弾は着弾と同時に周囲の物質を液化してその部位と周辺が軟化し、フラスコの表面、砲弾の直撃した一部の壁には大きな穴が空いた。
やがてギムレーは五つの巨大な砲身と機銃をパージすると、自らが開けた穴に向けて真正面から突撃する。そして衝突の直前、優しい白の光に包まれた戦車は、そのまま猪突猛進し、フラスコの壁面の中へとめり込んでゆく。
やがて戦車が侵入してしばらくしたのち、活気よく噴煙を吹き出す巨大フラスコに異変が起こった。破壊の力を抑え込んでいたフラスコの球状部分にヒビが入り、それを構成する大地と樹木の合成素材が命を失ったかのような色の乾いた砂塵へと変貌し、途端、砂礫となったフラスコは、内部のエネルギーを留めておくことが出来ず、あたりへと飛び散った。
暴風と焦熱の威力を伴った砂礫は、散弾銃の弾丸が如きものとなって、フラスコのあった平野一面を覆い尽くしていた噴煙灰と岩石を砕き、平野の端の方、山の裾野辺りに僅かばかり残っていたまともな樹木と大地をも撃ち貫いてゆく。
やがてそんな完全な死の大地と化した平野の中、フラスコの中心部だった場所で、蠢く存在があった。キュラ……、キィ、キュラ……、キィと不規則に異音を鳴らすそれは、ギムレーと呼ばれた戦車の、中核部の、その成れの果てだった。
前輪後輪のそれぞれの独立した運動ユニットがほとんど破損したそれは、もはや鉄の棺桶と呼んでも差し支えないほど破損していたが、その中央部の、ギムレーをコントロールする制御ユニット部だけは分厚い強化ガラスがはめ込まれていた部分を除いて全体が歪んでいる程度の被害で、かろうじてその原形を残していた。そんな残骸となった戦車のすぐ近くにある砂の山の上には、一本の剣が墓標のように突き立っていた。
「――見つけた」
命が一片たりともなくなったことを悼むかのように突き立てられた剣の側で、声が響いた。やがて声の主人は、砂丘に突き立った剣を引き抜くと、その場から姿を消す。完全に砂が支配する大地となった元平野の中心では、かつて戦車だったものの残骸が唯一、この場に残る形あるものとなった。後には茫漠な砂漠が広がっている。
*
ハイラガード公国、公宮
*
「戦況はどうなっている!」
「呪言を乗せて弱らせ、こちらをバードの詩歌で強化した上での、攻撃職のフォーススキルによる一斉攻撃だぞ!それでなぜ死なない!」
ハイラガード公国、公宮。世界樹と呼ばれる天にまでそびえ立つ巨木の側に作られた、平時、粛々と政務が行われる、政務の中心に相応しい厳と瀟洒な雰囲気を放つ豪奢な建物の中では、大勢の兵士が右往左往として行き交っていた。まるでバケツの中の水をひっくり返したかのような状況だった。
「死なないだけならともかく、なぜ巨大化するんだ!もう元々の報告よりも数百倍の大きさになっている! なんだ、あの世界樹のようなデカさは!」
「わかるかよ! 知ってたらとっくに対処してらぁ!」
鎧兜に身を包む彼らは、まさに混乱の渦中に叩き込まれたような様相を呈している。彼らはハイラガード公国のすぐ目と鼻の先に現れた敵の存在にひどく気分を悪くし、荒れていた。
そんな荒れる兵士たちが怒号と雄叫びで荒々しくコミュニケーションをとる最中、その場所から少し離れた壇上、そんな彼らの様子を静かに見つめる存在があった。老いと苦労を意識させる容貌をしている彼の名は、ソール。この国の按察大臣だ。
「……はぁ」
猊下で繰り広げられる兵士たちの諍いを見て、彼は大きく重苦しいため息を吐いた。続けて次から次へと更新される報告書の文章を見て、もう一度、今度は天に向かって息を吐いた。
――情けない
報告書を見る限り、敵はいかなる攻撃を加えようと、その度に再生し、さらには巨大化する、強敵だ。如何様にして倒せば良いのか、正直まるで見当がつかない。絶望的な状況であるのはたしかだ。
「どうするんだよ! どうやって倒しゃいいんだ!」
だが、だからといって、いやしくも公宮勤めの一端の兵士である彼らが、こうして敵から離れたこの場所で烏合の衆のように狼狽える醜態を晒すとは思ってもみなかった。迷わずそんな強敵に立ち向かっていった、そして今も戦っている冒険者と呼ばれる彼らや前線に向かった兵士たちに比べて、この場に残った兵士たちのなんと情けないことか。
「俺が知るかよ! 英雄や冒険者たちがなんとかするのを期待するしかないだろ!」
「――はぁ」
そして化け物の調査すら行おうとせず、他人に期待を寄せるばかりの兵士の醜態に、ソールが今日何度目になるかわからないため息を漏らしたその時だ。
――ズズゥゥゥン!
「な、なんだぁ!」
ハイラガード公宮を大きな揺れが襲った。ソールは叫ぶ兵士の声を聞きながら、手近にあった椅子と机にしがみつく。
「つ、ついに巨大蛇がここまでやってきたのか!?」
「もうおしまいだ、逃げろぉ!」
公宮の兵士たちが戸惑い、公宮の中から逃げ出した。ソールはもう止めようとは思わなかった。ハイラガード公国を守る最後の砦となるべく集結していた兵士たちだったが、あれではいない方がましだと思ったのだ。ソールはそして天を仰ぎ、目を手で覆う。もうどうにでもなってくれ、と、天に祈るような気分だった。
「――随分と質の悪い兵士を使っているな」
やがて細かい地鳴りはあれど、人の声が失せて静まり返った公宮内に、不思議なほどに脳裏へと響いてくる無礼な、しかし、正しい言葉をとばしてくる人の声を聞いたソールは、そんな無作法ものの顔を拝むためにゆっくりと頭を正面へと向け――
「まぁ、見たところ、志があったが故に兵士になったわけではなく、対して苦労することもなく食い扶持を得る方法がそれ以外になかった無能どもの寄せ集め。窮地に我が身可愛さに逃げだすのは当然という者だろう」
「――」
そして、ずけずけとものを言う、機械の鎧をその身に纏い、高貴な雰囲気を漂わせた、上からの物言いをする人物を見て、ソールは驚いた。
「た、大公様……!?」
なぜなら目の前にいる人物の頭には、公宮の奥で寝込んでいるはずの、大公という人物の顔面が引っ付いていたからだ。だが――
「ん……? ……、いや、訂正しよう。一人は骨身のある奴がいた」
――おかしい
ソールは違和感を覚えた。
「た、大公様? 何を仰っているのでしょうか?」
「老いた人間よ。私は大公ではない」
そして返ってきた答えにソールは驚かされるとともに、心の底では納得した。
「ではあなたは一体……?」
安堵と困惑の感情が入り混じる中、ソールは尋ねる。豪奢な鎧を纏う大きな体躯のその存在は、機械鎧のどこかから質問を鼻で笑ったような声を出すとともに、大公によく似た顔の口を開いた。
「私の名はオーバーロード。かつてこのハイラガード公国を治めていた初代大公と盟約を交わしていた者だ。――この度、古い盟約に従い、ハイラガードに公国を救うためにやってきた」
*
ハイラガード公国近隣
*
「チクショウ、キリがねぇ!」
ファーフニールという神話の悪竜の力を赤い鎧の下に宿した、デミファーフニールである男――ベルトランは、何度目になるかわからない、自らの切り札――爆炎陣を放ちながら悪態をついた。ベルトランの全身から吹き出た炎が、同じく彼の体から射出された空中に浮かぶ二つの制御ユニットによって操作され、空中に散らばっている紫色の液体へと射出された。
――ジャッ!
「感謝する!」
「ありがとう!」
液体は炎とぶつかった瞬間、蒸発し、この世から消失する。炎がそして広範囲で液体を消失させた次の瞬間、液体の前に躍り出た炎の後ろ、空を飛んでいた翼人たちが、口々に礼を言いながら飛び去って行く。ベルトランは彼らを液体飛散からかばうために、本来なら攻撃用の炎の陣を展開したのだ。
「気ぃつけろよ!」
だが、その、威力を一点に集中させれば岩ですら揮発させる事の可能なベルトランの生み出した豪炎は、空中で不規則な広範囲へとブチ撒かれた紫色の液体の全てを包み込むために、空中で液体以上の広範囲へと散布され、そのため、広く空中に散らばって低威力と化した炎の威力には酷くムラが生じ、完全に液体を消滅させる事が出来ずに終わってしまう。結果、蒸発させきれなかった紫の液体がベルトランの纏う赤い鎧の籠手部分に装着された可変型の金属大爪へと付着した。
――ジュッ!
「うぉっ!」
付着した紫色の液体が瞬時に自らの鎧の爪を溶解させたのを見て、ベルトランは慌てて空中へと放射していた炎で自らの身体と爪を覆った。炎により毒液は即座に蒸発し、爪には金属が溶けた赤色の溶解痕が残った。自らの硬い鎧すら溶かす毒である液体のこれ以上の付着を防ぐとともに、付着した毒を蒸発させ、これ以上の毒が侵食する被害を防ぐためだ。
そして彼が炎で毒液を蒸発させるのを諦めた数旬ののち、未だ空中に漂っていたベルトランが処理しきれなかった毒液が地面や樹木へと直撃し、毒液はそれらを溶解させてゆく。
「クソッタレ、このアホンダラァ! 欲張っちまったせいで、ヘマやらかしちまった!」
ベルトランは、自らへと降りかかってくる全ての残った毒液をその身に纏った炎で浄化しながら、無茶な思惑をやらかそうとしたせいで、結果、ドジをやらかして自らを大いに責めた。彼は自らの炎で、空中より落下してくる全ての毒液を処理し、世界樹の大地を守るつもりだったのだ。だがそんな彼の思惑はその通りに叶わなかった。ベルトランの体から吹き出す炎が、彼の怒りに呼応するかのように荒々しく燃え盛り、彼の身体を包み込む炎の勢いが増してゆく。
『ベルトラン……』
そんな苛立ったベルトランを諭すような柔らかい声が、彼の纏う鎧の内部、ベルトランの声が発せられた場所と同じところから聞こえてくる。
「おっと、わりぃな。ヴィオレッタ。つい愚痴っちまった」
ヴィオレッタという女性の声に続いて、鎧の同じ場所よりベルトランの声が響く。同時に鎧の周囲を取り巻いていた炎の燃え盛る勢いが落ち着いてゆく。冷静さを取り戻したベルトランは、多少バツが悪そうに、溶けた爪のついた籠手で、汗でもを拭うかのように、兜の頬を掻いた。兜と籠手で金属同士がぶつかり合い、カチカチと音がなる。
「すまねぇな。鎧、溶かしちまった。大丈夫か?」
『ええ、平気』
「悪い。つい、な」
『いいえ。構わないわ。――貴方はやっぱり、進んで誰かの盾となろうとするのね。その姿勢、ほんと、貴方らしくて好きよ』
「おっと、嬉しいねぇ。おっさん頑張っちゃうよ」
『ええ……。頑張って、ベルトラン』
「あいよ」
そして二人の会話は途切れ、やがて空中より降り注ぐ毒液がなくなった瞬間、ベルトランは自らの体より噴出させていた炎を停止させ、体に纏わせていた炎の鎧から飛び出すと、首を斜めに傾け、空を見上げた。
「さぁて、とは言ったものの……」
視界の先には巨大な蛇が映っている。蛇は初めて自分たちが目撃した時の、千倍もの大きさ――十キロはあろうかという巨体に成長していた。
「こいつぁ、どうしたもんかな……」
これは先制攻撃を全力の威力で叩き込み、一息で仕掛けようとした自分とフレイの失策だった。敵の防御力というか、鱗や肉の硬さは大したことがないため、誰だろうと攻撃すれば奴の肉体は簡単に傷ついてくれるのだが、そうして傷ついて肉体を損失すると、蛇は、一回瞬きする迄の間にはその損失部位の再生を終えてしまう。その上、再生が終わった時には、一回り大きくなるのだから、タチが悪い。
「俺じゃダメ。フレイでもダメ。冒険者の火力を集中した一斉攻撃でもダメ……」
また、この蛇の再生と巨大化能力には際限というものがないらしく、攻撃すればするほどに蛇は巨大になり、その力を増してゆく。
初めのうちは、いつかは相手の体に限界がくるだろうと威勢良く攻撃し続けたベルトランやフレイ、ほかの冒険者たちも、巨大になったからといって蛇が自重にて自壊するだろうといった予想が甘かった事に気付いた時にはもう遅く、気づけば蛇は自分たちで完全に抑えることすら出来ないくらいの大きさにまで成長させてしまっていた。
攻撃したところで敵の身体を巨大化させてしまうだけだが、攻撃して奴の気を引かなければ、蛇はただ悠然とベルトランやフレイ、冒険者たちを無視してエトリアに向かうだけ。
「ってなると、縛りや状態異常でどうにかするしかねぇって話なんだが……」
そこで気を引くために、冒険者たちはスキルや道具を使って巨大な蛇その場に拘束しようとするわけだが、巨大蛇は縛りや状態異常の効力を持つ力をその身に受けると、睡眠、麻痺、混乱、呪い、盲目、スタン、石化、テラー、毒、および、その他、全ての縛りに反応して、その外皮より毒液を生み出すのだ。
「ああも巨大だと、毒液の反撃がバカにならねぇし……」
この毒液がまた、地面や樹木、岩や金属ですら溶かすほどに毒性が強い。加えて、毒をひっかぶった虫が瞬時に空気の中へと返ってしまったことから、人の体に触れた折には、人体を欠片も残さず消し去ってしまうだろうことも簡単に予測がつく。そんな毒液に対する唯一の対抗策として、炎が有効であったため、ベルトランはこうして世界樹の大地や戦っている人々を守るために、炎を用いて毒液の対処に当たっているわけだが――
「蛇の野郎に縛りや状態異常の耐性が出来ちまったのか、デカくなってスキルが通りにくくなったのかはしらねぇが、さっきからもう縛りや状態異常のスキルや道具が聞いている気配がねぇ……」
そうした縛りや状態異常が巨大化してゆく蛇の体に当たるたび、蛇の体からはその大きさに比例した毒液の量が放出されてしまうので、時間ごとに費用対効果が悪化してゆく。加えて、それらの行為は再生と巨大化をする蛇に対して、当然、仕留めるための決定打にならない。
「攻撃はダメ、状態異常もダメ縛りや状態異常を使うと、全てを溶かす液体を撒き散らされる。……、ったく、どうしろってぇんだ……」
唯一の救いは、体長が十キロ近くもある巨大さになると、流石に蛇も身体を動かしづくなってきているのか、動きがトロくなっている事だった。体の反応が鈍くなり、こちらの行動に対しての反応も同様に鈍い。だからといって、攻撃の有利になるわけでないし、倒す隙になるわけでないのだが、そうした行動の鈍さにより、こちらの出来る事の選択肢が増えているのは確かなので、ベルトランはその点だけは、蛇が巨大化した事に感謝していた。
「ベルトラン」
『ベルトラン様』
やがてそんな巨大化した敵の隙をついて、しなやかな体躯にベルトランの纏う鎧と意匠と似通っている、金の細工が施された黒甲冑を纏う存在がベルトランの前に現れた。甲冑からは、ベルトランとヴィオレッタ同様、男女の声が聞こえてくる。
「おう、フレイにお姫様。調子はどうだい。こっちはさっぱりだ」
「――ダメだな。突破口が見つからない」
『私たちの方も攻撃スキルしか使えないから、手詰まり気味なんです……』
『アリアンナさん……そう気を落とさないで……』
「本家本元のファーフニール様がアリアンナの嬢ちゃんと合体して安定して長時間戦える状態。その上、デミの俺たちも揃ってるってねのに、情けねぇなぁ、おい。ハハハハハハ」
「……」
『……』
「ハハハ……、ハハ、……――はぁ。やめた、馬鹿らしい」
無力を嘆き落ち込む二人を励まそうと、自虐気味にベルトランは言うが、そんな自分の気遣いが、彼らにとって気休めにすらなっていないことを理解したベルトランは、すぐさまその口を閉じた。役に立たないと知りながら何かを続けられるほど、彼は酔狂な性格をしていないのだ。
「さて、どうしたもんかねぇ……」
ベルトランが天を仰いだ。視界の先では、巨大化した蛇が、胡乱な瞳をハイラガードへと向けている。蛇がハイラガードに到達した暁には、岩崖の上にある公国はおろか、世界樹ですら打ち倒されてしまうだろう。それができる力と体がこの蛇にはある。
――ああ、そうだ
だが、そこまで考えてベルトランは思う。この蛇はいったい、なんの目的でハイラガードを目指しているのだ……?
「うぉっと!」
そんな根本的な問いをベルトランが考えていた時、彼の思考を地面の揺れが遮った。巨大化した蛇が大きく身動いだのだ。十キロもの長さを持つ巨体が身を揺るがした衝撃に、樹木は乾いた悲鳴をあげながら倒れ、葉が散乱し、大地にヒビが入る。もはやこの蛇の気まぐれで世界は滅びてしまうのだと言う考えがベルトランの頭の中をよぎった。
「な、なんだぁ!?」
「――あれを見ろ」
ベルトランの疑問に答えたフレイは、その黒塗甲冑のしなやかな指先をハイラガード方面の空へと向けた。ベルトランが蛇の瞳から、伸びたフレイの指先の方へと視線を移すと、蛇の瞳が向ける視線とフレイの伸ばした指先の交錯点に、見覚えのある姿を見て、息を大きく飲んだ。
「あれは……」
『オーバーロード様!?』
なぜならその存在は、かつて自分たちがハイラガードにそびえ立つ世界樹の迷宮の深部、第五層で戦った存在だったからだ。かつて古くはハイラガード公国の住人たちと袂を別った存在であり、また、迷宮にて死した冒険者の体を改造して魔物を作り出したり、あるいは翼人たちのような亜人を生み出した、生命を科学で解き明かそうとする、旧世代の研究者であるそんな存在が今、自らの生み出した機械鎧をその身に纏って、ハイラガード方面よりまっしぐらに巨大蛇の頭部めがけて直進している。
そして、不思議なことに、今まで知性というものを対して感じられなかった蛇は、一転してその巨大化した瞳に瞋恚の炎を灯して、ズリズリと肥大化した巨体を前に進ませる。ベルトランには一体何がどうなっているのかほとんどさっぱり理解できなかったが、唯一、あの蛇の狙いが、赤く燃え上がるような空を飛翔するオーバーロードという存在なのだろうという事だけははっきりと理解した。
*
ハイラガード近隣、上空
*
紅に染まる空、灰色に染まる雲。濃緑の木々に、水色の蛇行した川と、茶色の岩群。どれもいつも同じ場所からすでに見飽きるほどに眺めた景色が、こんなにも新鮮に、そして美しく思えるのは、それらを眺める場所がいつもと異なるためか、はたまた、もう二度とお目にかかることのできなくなる光景であるからか……。老いたソールは多分そのどちらかだろうと思ったが、そんなことがどうでもよくなるくらい、空から初めて眺めるハイラガード公国近隣の光景は美しかった。
ソールはこのような美しい光景をいつでも目に収めることのできる場所を、この美しい一秒ごとにその光景が変化する芸術品を、その両方を、なんとしてでも守りたいと心底願っていた。それを成す為に――
「そろそろだ。準備はいいか?」
「ああ。いつでもやってくだされ」
この老いぼれの命が犠牲として必要というのであれば、その程度の犠牲でこの光景とハイラガードが守れるというのであれば、なんとも不等価で自分たちにとって有利な交換だ、と、ソールは考えていた。
――ズ……、ズズ………、ズズズ………………
空中、オーバーロードという機械鎧を纏う存在に抱えられたソールが眼下を眺めると、絵画のような光景を気に食わないとでもいうかのように破壊する、絵筆の跡のような存在がある。それが。それこそが。
「あれが……」
「そうだ。ヨルムンガンド。世界を取り巻く大蛇だ」
ヨルムンガンド。ロキから生まれたやがて世界と同じ大きさに成長するという大蛇。なるほど蛇は、土石流の起きた川かと見紛うほどにまで巨大化しているところから、伝承が誇大に嘯かれたものでないことが、簡単に理解できる。
ソールはオーバーロードより託された剣をしっかと握り直す。剣は、カサカサで水気の失せた握力がだいぶ弱まった手中から落ちないよう、しっかと布で両手に固定されている。また、多少布を硬く巻きつけてもらったためおそらく血行障害が起きているのだろう、手首から先の感覚がだいぶ薄らいできている。常なら布の縛りを緩めてくれるよう頼んだかもしれないが、そんな自身の健康に関する心配も、すぐに永遠と無用の長物となるのだから関係ないかと、ソールは久し振りに、自分の身をぞんざいに扱うという、若い頃にのみ許された特権を思う存分に楽しんだ。明日か明後日に、自分の身へと訪れるだろう肉体の痛みに心配を割かなくて済むというのは、やはり気楽なものである。
「手順は理解しているな」
「貴方様が蛇の頭部へと飛び込む。私が手にした剣を奴の頭めがけて突き刺す。奴が死ぬまでそれを繰り返す。それでよろしいのでしょう?」
「ああ」
オーバーロードと短くやり取りをすませると、彼はもう言うことは失せたと言わんばかりに口を閉じたので、ソールもそれに習う。体の機能のうち、言語へと割いていた部分を使わなくなると、途端、別の感覚が過敏になり、ソールは肌を切るような感覚を強く感じ取った。ああそういえば、自分は今、空を凄まじい速度で飛んでいるんだな、と、改めて思う。
――ああ
そしてソールは年老いてから久しく覚えのなかった、冷たい風の中を全力で突っ走った時の感覚を思い出した。体温が汗と風に奪われ、鼓動がそんな彼らの暴虐に負けないようにと早まった。肌が感じる外気と皮膚の下で脈打つ血管の持つ温度差が生み出す猛烈な感覚が、ソールの胸の中に爽やかな風が生み出し、微かばかりに生まれつつあった死への恐怖が和らいでゆく。
――気持ちがいい
ソールは長い間、このような感覚とは無縁の生活を送っていた。公宮に大臣として務める自分は、ほとんどの時をそこに備え付けられた椅子と机の上で過ごし、外に出ることすら稀の生活を送っていた。ソールにあったのは、公宮内に与えられた場所で、書類か、冒険者か、大公閣下、あるいは自国の官僚、他国の権力者たちと会話し、食事し、腹の中にぜい肉とどす黒い感情とを溜め込む日々だった。
――余分なものが落ちてゆく……
傲慢不遜で、懐疑主義な、言葉だけはご立派なお題目を掲げる連中と口先と腹芸で乗り切る日々は、それなりに充実していたといえなくもないが、それはソールの若い頃、微かな期間だけ許された、世界樹の迷宮を冒険者として探索し、活動していた日々比べれば、美味いものをたらふく食べられようが、たいした命の危機もなく安寧とした場所で日々を過ごせようが、ちっぽけな刺激に過ぎなかった。
――身体中にへばりついていた重石が……
ソールが求めていたのは、生きていると言う感覚だった。欲しかったのは、他人を上から支配できるような権力者の立場ではなく、一人の人間として世界と、他人と向き合い、命を投げ出してやり取りするような場所と、生き方だった。
――余計な重みが失せてゆく
ソールは自由に生きてみたかった。だが、ソールにはそれが許されなかった。血筋と生まれと実力と周囲の人間関係が、ソールを公宮という場所に束縛し続けた。ソールは自由を持つ冒険者が羨ましかった。ソールは自分よりも軽い立場にある地方の責任者が羨ましかった。
――体の中の血が沸き立つ
他者からの押し付けられる責任。言ってみれば、それが彼から自由を奪い、公宮に押し込めた存在だった。他人に責任を押し付けるばかりで、自分の発言と行動に責任を持たない連中が、ソールから生きる気力を失せさせ、日和見と虚無主義の中間の存在へと彼を変貌させていた。ソールは自分の采配で自分の命の責任を取らなければならないような場所で、思う存分生きぬいてみたかった。そうして身体中の血という血が命のやり取りに興奮し、情熱を持つような、生き方に焦がれていた。
――こんなにも心が躍るのは……
しかし、年老いた自分には、無駄に偉い立場を持ってしまった自分にはもうそんな機会が訪れることはないだろうと、彼は諦めていた。だから、せめて若い立場の人間には自分のようになってほしくないと考え、彼はせめて、自らの大臣としての職責を果たすことによって、若かりし彼らが思う存分冒険できる場所を守り続けようと考えていた。
――生まれて初めての経験だ……!
だが、今、機会がソールの前にやってきた。オーバーロードと呼ばれる存在は、世界とハイラガードを守るためには、老いた自分が命を捨て、ヨルムンガンドと刺し違えなければならないと告げたのだ。そしてオーバーロードはまた、ヨルムンガンドは、自分の苦手とする攻撃に対する防衛反応として、その身を全てを溶かす猛列な毒液として変換し撒き散らす為、奴を倒すため、奴の頭がズタズタになるまで毒液に耐えながら、手にしている剣を振るい、奴と対峙しなければならないのだということも告げた。
――こんな機会は……、こんな高揚感は……
さらに、オーバーロードはこうも告げた。剣――呪銀の聖杯が剣化したというこの剣には、今、フォレストセルという悪魔の命が注ぎ込まれており、それ故に、ヨルムンガンドという無限再生する蛇を討ち滅ぼす力を保有しているが、あの肥大化した大蛇を完全に討ち滅ぼすだけの力は持っていないかもしれない。だから、剣の中に秘められた悪魔の力が失せた時、ソールは、自身の命を剣に捧げながら、蛇へと立ち向かわなければならないのだ、と。
――二度と訪れまい……!
ソールは自らがハイラガード公国という国とそこに住まう国民の為に、つまりは他者から押し付けらた責任によって、命を賭して冒険しなければならなくなったのだ。自分は誰かに必要とされて、自らが望んでいた戦いの場に立つ。しかも、そんな役目を自分へと教えた存在は、責任を他者に押し付けるだけではなく、自ら取るべく、ソールと同じ戦場に立つというのだ。互いの命を預け合う存在とともに、戦場に立つ。それはソールが長年待ち望んできた瞬間だった。
――ああ
それを自覚した途端、ソールの胸はこれ以上もなく高く鳴り響いた。乾いた全身を老廃物だらけの血流が流れた巡り、耳がキンキンと鳴った。口の中はカラカラで唾液は一滴すらも出てこない。緊張にひりつき、視野が狭まってくる感覚が、なんとも小気味良い。目はこれ以上ないほどに、敵の姿をはっきりと認識している。布に包まれた手が汗ばむ感覚が、なんとも懐かしい。
――なんて贅沢な……!
「――行くぞ。ソール」
若い容貌をした顔の持ち主が老人に対してかける言葉にしては、かけらほども遠慮のない言葉だったが、それこそがソールが長年欲していた、望ましい言葉だった。年下の連中から爺さんと呼ばれるよりも、自分より立場が下の人間より大臣の名称で呼ばれるよりも、ソールは、気の置けない連中がするように、ソール、と呼び捨てにされ、普通のどこにでもいる当たり前の人間として扱ってもらいたかったのだ。その言葉がソールの心に残っていた微かな現世へのわだかまりを完全に打ち消した。彼はここに、完全に命を投げ出す決心をした。
「任せろ、オーバーロード」
ソールが年甲斐もなくしゃがれた大きな声で叫び返すと、空を駆けるオーバーロードは呼応するかのように飛翔速度を増した。そしてソールは手にした剣を決して落とさぬように握りしめながら、彼の最後の冒険へと出かけてゆく。
*
ハイラガード近隣、上空、ヨルムンガンド周辺
*
「あれは……オーバーロード!」
「そして奴が手にしているのは……、大臣の爺さんだと!?」
ファーフニールの騎士と呼ばれる戦闘形態に変身したフレイとベルトランが叫ぶ。彼らは、かつて自らが戦った、自らを利用し、殺そうとしてきた相手が、現在のハイラガードの大臣を抱きかかえながら巨大蛇へと一直線に空を飛び向かうという状況が、一体どのような事が起こればそのような事態になるのかまるでさっぱり見当がつかず、混乱していたのだ。
『あ、二人が……』
『蛇に突っ込んで……!』
フレイとベルトランの纏う甲冑と赤鎧の中から、アリアンナとヴィオレッタが、蛇に突撃するオーバーロードとソールを見て、大いに悲鳴をあげた。彼らが突撃しようとしている蛇は、そうして飛翔する二人が、人間に相対する小蝿か何かと見紛うほどに巨大で、自身らよりも数千倍の大きさのそんな蛇めがけて突撃する彼らの行動は、どう見ても無謀な自殺行為にしか見えなかった。
だが。
「おい、どういうこった……これは!」
そして巨大な蛇とオーバーロード抱きかかえられた大臣が突撃した瞬間、二人は黄鱗を持つ蛇の体内へとめり込み、やがて少しの後、一キロはあろうかと言う巨大な蛇の後頭部から突き出てくる。すると今までどのような攻撃を加えられようと平然としていた蛇は、初めて仰け反り、そして彼らが通り抜けていった傷から毒を撒き散らした。そして。
「蛇が……、再生しない……!?」
彼らがつけた傷はそのまま再生されず、いつまでも毒を噴出し続けていた。その事実にその場にいる全員が驚いた。彼らが驚いている間にも、オーバーロードと大臣は蛇へと突撃を繰り返し、蛇の体に多くの貫通痕を作り上げてゆく。誰もが残すことのできなかった傷跡を、突如として現れた存在が残してゆく。その不可思議な光景に、その場にいる全ての戦闘を行なっていた存在は、手を止め、見惚れていた。
『フレイ。あの剣は……』
やがてそんな中、アリアンナが大臣の持つ剣に着目した。その、シンプルながらも特徴のある光を放つ剣に、彼女は見覚えがあったのだ。
「――ああ」
アリアンナの指摘によって大臣の持つ剣を注力して見定めたフレイは、アリアンナに対して首肯の返事を返す。身忘れようはずもない、それは、かつて自分たちが冒険の果てに最強の敵と戦いで手に入れ、そして、最後の戦いにおいてフォレストセルと洞穴の機能を永久的に封じておくために失った、全てのものを切り裂く剣だったからだ。その銘は。
「ラグナロク。なぜあの剣が彼らの手に……?」
かつて自身が短い間用いていた、命を削って強大な威力を発揮する剣を眺めながら、フレイは首をかしげる。どれだけ待とうと、そんな彼の疑問に対して答えが返ってくることは無かった。
*
ハイラガード近隣、上空、ヨルムンガンド周辺
*
「ふ、ふふふ……」
オーバーロードの腕の中、剣を頭上へと掲げたソールが手の内握った剣で、血の通う瑞々しい肉を裂き、敵の命を奪いゆく。
「ふ、あ、あは、あはははははは!」
感触に、全身の血液がさらに暑く早く沸騰してゆく感覚を手に入れたのか、はたまた、意を決した己の一撃が、これまで誰も、どんな英雄たちですら太刀打ちできなかったものを打ち砕いていくその感触がなんとも心地よいのだろう、ソールはヨルムンガンドを切り裂きながら、大きな高笑いの声を上げた。
「はは! あはは! は、あはははは!」
狂ったかのように叫ぶソールを抱えるオーバーロードは、そんな狂人めいた態度を取る彼に対して、しかし、理解を示す視線を送った。長年積み重ねてきた苦労が報われる瞬間の快感というもの、研究者として多くの時間を過ごしてきた彼はよく知っていたからだ。
また、自らがミョルニルという破滅と豊穣の力を持つ槌を参考に作り出した道具の片割れ、呪銀の聖杯が、たしかにその威力を発揮して、無限再生する敵に癒えぬ傷を作り出してゆくという現場を自らの目で眺めると言うものは、研究者である彼にとっては自らの作り上げた理論体系が証明される出来事に等しく、小気味が良かったと言うのもある。
そう、オーバーロードは、自らの理論の正しさを自らの手で、自らの賢しい頭へと見せつけ証明するために、状況とソールとを利用して、こうしてヨルムンガンドとの戦いの場にいた。彼にとって、世界の平和や人の安寧など二の次だった。研究者である彼にとって、自身の研究が正しいことが証明されることこそ、自分の全てだったのだ。
「はは! ははは! あはははは――!」
だから彼は満足だった。たとえソールが呪銀の聖杯で切り裂いた蛇の身から垂れ落ちる毒液に身を自らが作り出した機械鎧を溶かされようと、たとえその毒液が、予想通り、自らの改造した肉体にまで浸透し、やがて脳髄までを溶かすだろう事を理解していようと、否、そうした自らの予想通りに事が運んでいると言う事実が、彼をさらなる満足の高みへと押し上げ、オーバーロードの心を昂ぶらせてゆく。彼は自らの研究成果が正しく効果を発揮し、実験が自らの予想と理論通りの結果になっていることに満足していたのだ。
「はは――」
やがて胸元で狂乱の大笑いをしていたソールの声が失せたことに気がついたオーバーロードは、一旦高速で飛び回り蛇の体内へと飛び込む動作をやめた。
「――後はよろしくお願いします」
途端、ソールはそんな事を言った。オーバーロードは彼が剣に宿っていたフォレストセルの力を使い果たし、そしてその命を剣に捧げようとしている事を知った。
「ああ」
「ここまでありがとうございました」
「ああ」
オーバーロードの気の無い返事を、しかし、ニコリと笑って受け入れたソールは、オーバーロードの巨大な籠手の中で剣を振りかぶる。オーバーロードは彼のそんな挙動に合わせて、蛇めがけてもはやほとんど溶けかけている翼で、墜落するかのように突進した。ヨルムンガンドはそんな自らの眼前に真正面から突撃してくるソールとオーバーロードに対して、真っ向から口を開き、毒液を吐き出した。
「『美しき陽光』『凍雨と雨氷』『雷鳴と我が身』」
そして、正面から飛来する毒液にぶつかる寸前、オーバーロードはここに来て初めて、自らの機械鎧からスキルの力を発動した。頭部の機械からは蛇にはまるで効果を与えない豪炎、氷柱、雷嵐が群をなして発せられ、粘性の高い毒液とぶつかり、彼とソールの道を切り開いた。オーバーロードは、蛇が、相手はそのような手段で毒液を破る事も出来たのかと驚いたそぶりをしたのを見て、自分の予測が完全に相手を上回って正しかったのだと思い、殊更に満足の念を覚えた。
毒液の包囲を打ち破って飛び出した二人の前に、もはや敵はいなかった。
「命を弄ぶ破壊の槌/ミョルニル!」
ソールは己の命を呪銀の聖杯へと注ぎ込み、その真なる力を発揮させる。北欧神話において雷神の名を持つ彼にその真なる名を呼ばれ、振るわれた剣は、その刀身から荒ぶる雷を生じさせた。オーバーロードの前方へと突き出された雷が、オーバーロードが左右に広げた機械羽根と、背面に装着されている金属尻尾より空気中へと放電され、彼らはまるで十字架の如く状態となり、蛇の頭部へと突き刺さった。
「――ッ!」
全ての命を奪い去る聖杯がソールの命を吸い取って発した雷は、無限再生する蛇へと突き刺さった瞬間、その効力を完全に発揮して、その刀身に蛇の命を収納してゆく。あらゆる命を収奪し、打ち砕くも、生き返らせるも自在に操る槌の前では、無限などという幻想は木っ端微塵に打ち砕かれていた。
「――は!」
そしてその槌の効力は、槌を振るうソールを金属籠手の内に握っていたオーバーロードにも当然影響を与えた。槌の発した雷は、金属鎧を通じて毒液に爛れた肉体へと浸透し、彼の体から生命力を奪い去ってゆく。
そんな予想通りの結果にオーバーロードは満足すると、呪銀の聖杯を手にするソールを抱えたまま、消滅した蛇の巨体の跡地へと滑落してゆく。そしてオーバーロードは、やがて地面が自身たちを荒々しく迎えるまでの間、心ゆくまで自らの研究成果が正しく発揮された事を喜んだ。
――オ、オォォォォォォぉぉぉぉぉぉぉ!
だがそしてオーバーロードは、意識が完全に途切れるその寸前、自らの至福の時を邪魔する方向を聞いて、微かにばかり意識を現実へと引き戻された。
落下している己の視界の先、すぐ目の前にまで迫っていた蛇の毒にて融解していた地面は、それまでとはまた別の禍々しさを秘めていた。そんな事実がオーバーロードの頭に新たな疑問を生み出す前に、彼の溶解しかけていた顔面は地面と激突し、粉々に砕け散る。彼の体を巡っていたオイルが、まるで鮮血のように宙に舞い散った。
途端、彼の機械体を砕いた地面に波紋が生まれた。直後、地面は水面のように波打ち、その場にあった全てのものが地面の中へと吸い込まれていく。
*
「ち、回収し損ねたか」
ヨルムンガンドが暴れていた場所のすぐ近くの木の陰、戦況の行方を追っていた存在は、オーバーロードがヨルムンガンドを仕留めたのち、地面と激突し、大破し、彼を構成していた全てと彼が手の内に抱いていた全てが地面に吸い込まれたのを見て大きく舌打ちをした。
その存在は討たれたヨルムンガンドの体が毒液に変わり、地面を溶かしてゆくのを見る事もなくその場から踵を返すと、ハイラガードの南へと歩いてゆく。
彼の向かう先には、天に向けて赤い光を放つ、大地に大きく刻まれた傷跡――ギンヌンガの大穴があった。穴より放たれる赤は、すでに赤い空を、より濃い赤色へと変貌させてゆく。空は、運命の針が刻一刻と終着に向けて動いる事を告げるかのように、その赤の色濃さを増していった。
第四話 終了