Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
Fate Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜
第五話 理想と呪縛と
私はいつかいなくなる。形あるものはいつか失せる。それが自然の摂理だ。摂理に逆らおうとは思わない。不自然な真似をしてまで生きながらえようとは思わない。――ただ。
ただ、せめて。私が生きたという証を残したい。
――その願いが全ての始まりだ。
*
飛行都市「マギニア改」内部
緊急探索司令部
*
ロマネスク様式に作り上げられた分厚い壁ばかりで覆われた窓ひとつない空間を、四方の壁に等間隔で並べられた灯が明るく照らしあげている。壁面を飾るものといえば、炎の灯りと天井近くから吊り下げられた紋章の入った赤い緞帳くらい。そんな飾り気の少ない隙間だらけの広々とした空間は、しかし今、恐ろしいくらいの緊張感で満たされていた。
部屋を満たす緊張感を主に生み出しているのは、最奥にある赤い緞帳の前に立つ、全身を曲線の多いフルプレートの鎧で包み込んだ彼女と、その傍にいる白髪の男性、そして、彼女に付き従う一個小隊の軍隊だ。女性が立つ炎の柔らかい光を浴びて飴色に輝く机の前に広がる空間には、全身を鎧兜で覆った如何にも屈強そうな兵士達が規則正しく並んでおり、総じて鋭い視線を女性の前に立つ五人の集団へと向けている。
「現在、マギニアの代表者は突発的な事態に対応すべく、各所への諸連絡と雑務、事務処理に追われているのでな。代わりにといってはなんだが、代理を任された私、ペルセフォネが君たちのお相手をさせて頂く」
涼やかな声が朗々と部屋に響き渡りる。
「先程君たちはこう言った。『今、世界に危機が訪れている。解決のためには、この飛行船が必要だ』、と」
ペルセフォネの言葉を、彼女の傍に立つ黒鉄の鎧に身を包む、三白眼の彼――ミュラーとよばれる軍人が継いだ。いかにも軍人らしく短く刈り込んだ白髪と顎鬚をたくわえたミュラーは、硬い中にも女性らしい柔らかいさを持ったペルセフォネのそれとは異なり、剣呑な、遊びのない口調をしていた。一言一句違わずに繰り返す生真面目さが、彼のその真面目な態度が、軍人という役職ゆえの飾ったモノでなく、生来の気質によるものだという事を教えてくれている。
「事情を知っているならば聞かせてもらいたい。この世界に何が起こっているのか。そして、世界の異変解決のため、なぜこの飛行船が必要になるのかを」
ミュラーの言葉を聞いたペルセフォネは顔にわずかばかりかかった短い前髪を書き上げると、凛とした視線を机挟んで向かい側にいる集団へ向けた。
「その話が私たちの納得いくものであれば、要望を飲み、協力することも吝かではない」
彼らの物言いは一聞すると多少協力的にも聞こえたが、その言葉の裏側には、嘘偽りあらばこの場でお前たちを処分すると言わんばかりの意思が含まれている。ペルセフォネが言い終えると同時に、五人の冒険者を包囲するようにして佇む兵士たちが、兜の下より放つ一糸乱れぬ圧力をさらに猛烈なものへと変化させた。その威や凄まじく、戦場と勘違いせんばかりの緊張感が部屋の中を包み込む。炎に囲まれた薄暗い部屋の中は、いまや敏感な者でなくとも部屋の温度が数度ほど下がったかのような錯覚を覚させるほどの重苦しさがあった。
「ペルセフォネさんは、この世に存在する全ての生き物に共通する特徴というものをご存知ですか?」
やがて少しばかりの間の沈黙の後、集団うち、ほとんど裸身の状態に等しい格好をした、頭部にツノをたずさえている少女が言葉を発した。
「全ての生物に共通……、ですか?」
返ってきた言葉の意味をペルセフォネは理解できず、思わず鸚鵡返しにセリフを返却した。直後、首を傾げたペルセフォネは視線をミュラーや兵士たちに向けるも、そうして自らの上役から答えを求められた彼らもやはり見当がつかなかったようで、唇を窄めて首をかしげるばかりであった。彼らから答えが帰ってくることはあるまいと直感したペルセフォネは、やがて視線を裸身の少女の周囲に佇む四人へと向ける。視線から答えを求められているのだと理解した四人は、少しばかり首をひねった。
「食べる事、とか?」
やがて四人のうちの一人である全身に白銀の鎧を纏った金髪の女性騎士――女パラディンは、突如として飛んできた質問に首を傾げながらも答えた。
「いえ、師匠。非常に珍しいですが、食事という行為を行わない生物もいます。細かい事かもしれませんが、全て、というのですから、動く、とか、生きている、とか、もっと根本的なことかもしれないですよ」
女パラディンの短い言葉を受けて、軽装のレザーアーマーを纏った、小柄で茶髪のメディックの女性が答える。
「そうね。生き物、突き詰めれば、生きている物、ということで、生きていると言うのは動いて活動するという事なのだから、パラ子よりもメディ子の言う事の方が正しいかもしれないわね」
「むぅ……、ガン子はメディ子側か……。結構自信があったのだがなぁ」
青いダブルコートと帽子を被ったガンナーの女性が、メディックのメディ子の言葉に賛同する意見を返した。女性パラディンのパラ子は、ガン子と呼ばれた女性が自身ではなくメディ子の意見に賛同したことに少しばかり不満気に頬を膨らませ、腕を組む。身動ぎにパラ子の腰まで伸びた金色の長髪が揺れた。その髪の艶やかな動きに触発されたのか、ガン子は自身のパラ子と同じくらいに伸びた髪をかきあげて、優雅に微笑んだ。
「……それで、答えは?」
三人の意見が出揃ったところで、全身を黒装束に包むシノビの男性が端的な問いと鋭い視線を裸身の少女へと投げつける。多くに兵士や二人の指揮官を前にしているにもかかわらず、彼らはどこまでも自然体であった。そんな彼らの気を互いに置かない態度に、緊迫した空気が解れてゆく。そんな空気の変化を文字通り肌身で敏感に感じ取った裸身の少女は、シノビの男性の問いに対して微笑むと、緩やかに口を開く。
「大まかにはガン子さんの言う通りです。――全ての生物は、生き延びて、自らの遺伝子情報や生涯のうちに学習した結果を次世代へと伝えるために、繁殖や進化や発展を行います。情報を蓄積し、研鑽させ、発展させ、発散させる。自らが受け継ぎ、研鑽し、積み重ねた結果を次世代に受け継がせる、広く世に散らす事こそが、全ての生物が無意識のうちに行う、遺伝子の奥底にまで刻み込まれた本懐なのです」
「はぁ……」
裸身の少女の語りに、ペルセフォネは間の抜けた声をあげながら先程のように首を傾げた。言葉には出さなかったが、その仕草には、だからどうしたのか、という無言の訴えかけが含まれていた。
「それで、その生きるという事の意味や生物の特徴がどうしたというのだ」
そんな内心を読み取ったかのように、彼女の傍にいたミュラーと呼ばれる軍人が冷たい口調で問いかける。裸身の少女は自身へと向けられた温度を感じさせない男の冷たい目線を暖かな態度で柔らかく受け止め首肯すると、再びゆっくりと口を開く。場の空気はすっかりこの裸身の少女の支配下に置かれていた。
「その本能は、どのような小さな生き物でも、どのような大きな生き物でも、全ての生命活動を行うものが保有しています。――そう、それがたとえば、星という人からすれば巨大な存在であっても……」
「ほ、星ぃ?」
裸身の少女の口から飛び出した言葉をきいて、メディ子は怪訝そうな顔を浮かべた。素っ頓狂な声をあげた。裸身の少女は、微笑みを崩さないまま視線の向ける先を、ミュラーからメディ子へと向けなおすと、穏やかに頷く。
「はい。人間や他の生物よりも極端に寿命が長く、そして保有する生命力も桁違いに強大な存在であるがゆえに認識されにくいですが、星もまた、この宇宙に生きる生物の一つなのです。星と呼ばれる彼らもまた生きているのです。つまり――」
「――なるほど、つまり、貴女はこう言いたいのか」
疑念の顔を浮かべていたペルセフォネは、裸身の少女の言葉を遮ると、言う。
「星もまた生き物の一つである以上、生きる目的があり――、自らの情報を次世代に受け継がせるために、何かしらの活動をしている。そして今回、死者が蘇り、地上全てにこれまで見たこともないような魔物が跋扈するようになったその原因は、星が本能的に行なっている活動と関係したなにかによって引き起こされたのだ、と」
自らのセリフを取られた少女は、しかし一切不満がない様子でにこやかに微笑むと、ゆっくりと頷く。
「その通りです。元を辿ればこの度の事態は、自らの種を星の海へとばら撒きたい地球と、その身に安寧を提供してくれる母なる大地に留まりたい人間の、それぞれの本能がぶつかり合った結果、起こった出来事なのです」
少女の言葉を最後に、沈黙がその場を支配する。辺りを照らす灯の揺らぎだけが、唯一、この場に時が停止していないことを証明するかのように、一秒ごとに濃淡の変化する輝きを放っていた。
*
???
*
「アーチャー!」
凛は、呪いの塊に飲み込まれたエミヤと響を追いかけ、呪いの塊が開けた空間の狭間へと飛び込んだ。飛び込んだ先にまともな世界が広がっている可能性は低く、むしろ間違いなくまともでない世界が広がっている可能性の方が高いという直感さえあったが、凛に迷いはなかった。
――このままアーチャーを死なせてしまっては死んでも死に切れない
凛は、エミヤという、他人の事ばかりを優先にしたため己の未来も何もかもを失ってしまった、馬鹿で愚かな、しかしだからこそ愛しい彼を幸福にしてやりたいという願った。だからこそ凛は、己の生涯の全てと、己の何よりも愛した伴侶を犠牲にしてまで彼をこの世に引き戻したのだ。
凛にとってエミヤの幸福とは、己と、己も愛した夫との、二人分の悲願だった。凛はそうして彼を幸福にする事こそが、自らと、自らを信じて命をくれた伴侶の人生を胸を張って己と他者に誇れるものとする唯一の手段だと直感していた。凛にとってエミヤという存在が幸福な未来を手にできるかという事は、己と比翼の片割れの生涯の死を無意味なものとしないか否かの分水嶺であり、己の生死などよりも重要な事項だった。
――お願い、無事でいて、アーチャー……!
故に凛に迷いなどはなかった。そして――
*
「う……」
意識が揺曳としている。数度ほど瞼の開閉を行った。わずかばかりの息苦しさの後、喉元より発せられた振動が呻き声となり、頬骨を伝道して自らの鼓膜までを揺らした。生温い感触が頬と手のひらより感じられる。自らが地面に横たわっているらしい事を悟った凛は。すぐさま両方の掌を地面に立てると、我が身を起こすべく腕と体に力を込めた。
――ッ、つぅッ……
片手に体重を預けると、絹と例えるにしても滑らかすぎる抗いがたい魅力を持った感触が手のひらより伝わってくる。だが同時に、えもいいあらわせぬ不快な感覚が手のひらを通じて脳裏にまで駆け上がってきた。ぞわりと背筋に寒いものが走る。感触がもたらす誘惑と不安に抗うようにして凛が思い切り力を込めて地面を押すと、身体中に軋むような痛みがはしる。同時に軽くめくらみが起きた。寝起きが悪いのはいつもの低血圧の仕業だろう。しかしそれにしてもこの度は特段に調子が悪い。おそらくは酸素が足りていないのだろう。
「すぅ……、――――、はぁ……」
ボヤける視界と脳内を正常に戻してやるべく、思い切り空気を吸い込んで、そして吐き出す。多少湿度が高い感覚はあるも、胎内で燻っていた空気を新鮮なものと入れ替わってゆく感触が心地よい。凛はそのまま数度ほど呼吸を繰り返したのち手で目元をこすり、数度しぱたたかせたのち、瞼を開いた。
「っ……」
すると、突如として目眩いばかりの光が飛び込んでくる。光は数旬前まで暗闇の中で安穏としていた脳にとって処理可能域を遥かに超えていた。凛は反射的に瞼を閉じて両手を重ねて手のひらで瞳をかばった。瞼の裏側では真白い光がチカチカと点滅していた。
「……っ、たく……」
凛は突き刺すような刺激が失せるまで強く瞼を閉じていた。やがて瞳の中よりチカチカとする存在が失せてゆくのを確認すると共に、徐々に腕の中にて閉じてある瞼をゆっくりと開いてゆく。恐る恐るながらも腕を下ろしていった。
「なによ……、これは……」
すると狭くなっている視界を広げてやろうとするかのように圧倒的な光景が飛び込んできて、凛は呆然とした。目の前には夕焼けの黄金というにはいささか暗すぎる朱殷色をしている絹のように滑らかな大地が、それこそ地平線の彼方まで広がっている。地平の彼方まで続く朱殷色は、紫だちたる地平線を境界線として、途端、碧瑠璃色へと移り変わる。
赤と青。生命と、永遠。変化と不変。太古より聖なるものとして崇められてきた二つの相反する色が織り成すコントラストには、まるで、薫陶を授けてくれる人間は一人残らず死滅し、人類という種族自体が地球という星において猖獗を極めてしまった事実を示すかのような落日の雰囲気があった。
『ライドウ。以前お主がアマラ回廊などの異次元へと繋がる空間に飛び込んだ際は……』
「――いえ。このような場所はどこにもありませんでした」
光景に見惚れていると、背後より声が聞こえてきた。
「ライド……」
反応して振り向いた途端、凛は口を開いたままの状態で停止した。視界へ飛び込んできた光景に意識が奪われたのだ。汚れた学帽と破れた学生服をまとったライドウが、不吉の象徴である黒猫を横に置いて倦怠を形にしたかのような薄暗い夕闇色の中に佇むその光景は、なんとも頽廃的で蠱惑的だった。
「――凛さん。ご無事でしたか」
『全く無茶をする。……まぁ、主らを追って迷わず飛び込んだ我らも人のことをどうこうは言えぬか』
それは暮れなずむ学校にある教室の光景のようだった。ボロボロに破れている学生服と学帽を纏う彼が帯刀し、銃を腰にぶら下げているという状況もまた、彼の神秘さを引き立てるための淫靡な雰囲気を引き出すファクターとなっている。ここに椅子や机というものが存在していれば、人気の失せた教室に半裸で黒猫とともに佇む白皙の少年という構図になるその光景は、さぞや素晴らしい一枚絵となっただろう。――そしてそれはまるで。
――あの時の……
暮れに染まったかのような景の中、顔立ちの整った白皙の青年が真剣な目を浮かべている光景は、凛の脳裏を刺激して、彼女の脳裏から過去の記憶を引き出させた。思い出したのは、自らの身に宿った才能を誇り、他人の必死を無駄と切り捨て、慎重を臆病と指摘し、傲慢さすらも若さの特権と言い張って溌剌と胸を張っていた若かりし学生時代の頃、夕暮れの教室で未来に自らの伴侶となる人物と命がけの追いかけっこをしたという記憶だった。もはや数千年以上も昔の出来事であるがゆえに古びて灰色をしていた記憶が感情によって着色を行われ、色鮮やかさを取り戻してゆく。
「……っ、そうだ、アーチャー!」
やがて溢れ出てきた過去の記憶の奔流をただ呆然と受け止めていた凛は、浮き上がってくる記憶の中、今も色濃く鮮明に思い出せるアーチャーとの別離の光景から彼の不在を思い出し、声高に叫んだ。
「アーチャーは……、あのバカはどこに……!?」
呪いに飲まれて消えた彼の姿を求めて踊るように体を回転させながら視線を動かしてやるも、視線は障害物のほとんどないのっぺりとした大地の上を滑って彼方まで到達するばかりで、やはりというか求めた人物の姿は見当たらない。それでも諦めきれず、一縷の希望を求めて少し首を上向きに傾けて地平の境界線より上、碧瑠璃色の空へと改めて視線を向けると、そこには世界樹の上の大地でいつも見ていたような、華美さを誇る星が漠と一面に散らばっていた。空はまさに星の海、と呼ぶに相応しい光景だった。光景のあまりの圧倒的さに、見慣れているはずの凛ですら一瞬言葉を失った。
「あれは……」
だがそうして天然のプラネタリウムに魅せられたのもつかの間の事だった。夜空を眺めていた凛は、やがて目の前に広がる空の中、地球上からは見えるはずのないものが浮かんでいるのを見つけ、呆然とした。アーチャーを探していたことなど瞬時に忘れてしまうほどの衝撃が凛を襲う。
「まさか……」
凛の目に飛び込んできたもの。それは、青と白がよく目立つ、巨大な惑星だった。凛は一度たりとその惑星の全景を肉眼で確認したことはない。けれど、この全てが死滅したかの様な不気味な世界の中で唯一生命の存在を主張するかのようにあざやかに輝くその星を、自らがその生涯を過ごしたその星を、凛はかつて映像や写真などでそれこそ見飽きるほどに何度も見たことがあった。
「地球!?」
叫んだ凛は慌てて周囲を見渡した。凛の視線を追うようにして夜空を眺めたのだろう首を上へと傾けたライドウとゴウトも、先程までの自身と同じよう、眼を見開いて天の一点を見つめている。今しがた自らの目に飛び込んできたそれが夢幻の存在でないと知った凛は、即座に思考を巡らせた。
今自らが立っているのは、空の向こう側に地球の見える場所であり、静寂が支配する、樹木草花の一つすら見当たらない、荒涼とした平坦な大地の上だ。凛には、正義の味方を目指していた伴侶に付き添う形で世界中の紛争地域を飛び回り、また、世界樹のエネルギー源となる龍脈と霊脈選定のために、それこそ地球上のあらゆる所へと足を運んだという自負がある。だがそんな自分であっても、このような遠く四方八方まで赤い滑らかな地面が続く光景は目撃したことがない。近しいものを挙げるとすれば夕日に染まるサハラの光景か、あるいは条件の整った際に見えるウニュ塩池の光景かであるが、それにしても地平の果てに山の端一つ見当たらないという事態は有り得ない。
「……いえ」
そもそも、富士の頂に立つものが富士の遠景を眺めることができぬように、地球という星の僅かばかりに楕円形の全景がこうして見えているのだから、ここは地球の上ではありえない。事実を認識した瞬間、凛の脳裏をある単語がよぎった。
「ということは……、まさか、ここは、月……?」
それはあまりに突拍子も無い結論だった。だが、凛の知識からすると、地球という惑星がこのような大きさの形に見られる場所というものは、地球の周囲を公転する唯一の衛星である月くらいしかありえない。ならば、自分が今立つこの場所は月の地面の上ということになる。
「ありえない……」
しかし凛は、己の脳裏に浮かんだ結論を自ら否定した。そうだ、ここが月の上だなんて、そんなことはありえない。だってようよう視界を広げて見てやれば、月は地球から離れた場所に浮かんでいる。なにより、ここには人間である自分が生存できるような大気組成となっており、いつも通りに自分の体を動かせるだけの重力がある。いつも通りの呼吸が行えて、いつも通りの挙動を行えるこの場所が、重力が地球の六分の一であり、故にまともな大気も存在しない月であるはずがないと、凛は瞬時に結論を導き出した。
「……ええと」
混乱しかけた凛はまず主観を排除して事実だけ整えてやる事とした。この場所は、地球と月の全景が見え、地球上と同じ大気組成となっている。ならば――
「ここは、月でなく、地球でもない、それでいて、地球に近い場所……ということ?」
対立する二つの事実を結びつけると自然と脳裏に浮かび上がってきた結論に、思わず凛は首を横に振る。
――あり得ない
自らの思考が導き出した答えの馬鹿さ加減を自嘲するかのように、一瞬、否定の言葉が口から飛び出しかけた。
「――……っ」
だが魔術師である凛は、アーチャーの用いる、周囲の世界を己の心象風景と入れ替える事で矛盾や不可能を可能とするような世界を作り上げる大魔術や、あるいは、つい先程まで自分がいた、悪魔と呼ばれる存在が作り上げる異界という異常の法則が支配する世界を思い出して、喉元まで出かかったその言葉をぐっと腹の中へと飲み込んだ。そうだ。ありえないということはありえない。もしかしたら、ここが誰かの固有結界内であったり、悪魔がつくりだした異界という可能性だという可能性もあるし、それ以外の特異性によってつくられた領域であるという可能性もあるのだ。
「……そうだ! それよりもアーチャーは……、アーチャーと響は何処に……!?」
固定概念に縛られるという魔術師からすれば噴飯ものの失敗をやらかした凛は、己の無知と弱気を恥じるかのよう硬く歯を噛み締めた。ついで固有結界という大魔術の名前からそんな魔術を行使することの出来る男の存在を思い出した凛は、彼の名を叫び、おまけとばかりに、彼とともに暗黒の中へと消えたもう一人の少女の名を叫ぶ。
――アーチャーのことはわからねぇが、響とかいう嬢ちゃんなら少し離れた場所で横んなってるぜ
やがて己の不肖を誤魔化すかのように必死で四方へと視線を飛ばして二人の捜索を行なっていると、凛の脳裏へ響く声があった。声は魔術的繋がりを通じて脳へと直接語りかけられたものだった。
「ランサー! あなたも無事だったのね!」
――ああ。このまま放置されるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたぜ。……それで、どうするんだ、リン
――……、響を回収してきて頂戴
アーチャーのことにかまけて彼女のことを失念していたとはいえ、彼女の事を気にしていなかったというわけではない。報告を聞いた凛は即時に響の方を一瞥し、今の自分と彼女とが結構な距離――二、三キロほど離れていることを確認すると、回収の指示を出す。
「了解だ。何かあったらすぐに念話で呼び出せよ」
霊体化し常人の目に見えない状態で虚空に留まっていたランサーは、具現化して凛に生声の返事を返してその場より消え失せた。凛はランサーがこの場から消え失せたことを見やると、ふいと視線を逸らして、再び周囲へと目線を向けなおした。
「……」
四方山に茂木どころか、それそのものすら存在しない景色。天を見上げれば、一縷の雲すら存在しない降る程の星が蓋っている空には、銀色に輝く月を押しのけて、地球が清廉な色を携えて己が存在を主張し、滑らかな朱殷色の大地を照らしあげている。
それはなんと異世界的な景色なのだろうか。改めて眺める光景にはやはり違和感のみがこみ上げてくる。天も地も果ても、凛の知る常識よりたった一つの余分が加えられているだけである。手を掲げて違和感を生み出す一つ一つそれぞれに黒い影を落としてやれば、光景は凛のよく知る光景へとすぐさま変貌する。
そう。凛の常識と違うのは天に、地に、果てに、たった一つずつなのである。にもかかわらず、自分はこれほどまでにこの光景に違和感を感じ、そしてその理由を見つけ出そうとしている。自らの持つ常識と異った法則が働いている。自らの常識が通用しない、自らの力が通用しない世界に自らは今足を踏み入れているのかも事態がこれほどまでに焦燥感を覚えさせるのだという事を、凛は改めて認識した。
「まるで地動説の世界ね……」
自らの周囲に広がる世界の形を想像しようとした凛は、不意にまだ人間がたいした測量法を持っていなかった頃に信じられていた説を思い出した。かつて人間は、世界とは自らの足元にある地球を中心としてあるものであり、大地は果てがある浮島のごとき存在であり、果てにある崖からは海の水が轟々と下方に向けて落ちていくと考えていた。
かつて凛がそんな彼らの考えを知ったとき、正しい天測の方法も、地球が丸いということも知識として知っていた凛は、なぜそうも実測を行わないままこのような突飛な発想をしたのだろうかと古人の怠惰と愚かさを憐れんだこともあるが、なるほど、彼らもこんな気分だったのかもしれないと思い、今更ながらに過去の未熟さを恥じ、反省した。
「世界の終わる場所にでも来ちゃったのかしらね……」
「流石は腐っても天の女主人。外套の置き場が違えていればすぐに気付くか」
「……え?」
虚空へと消えるはずだった自制を含む自嘲めいた言葉に対して返ってきた言葉に、凛は驚いて振り向いた。
「……ギルガメッシュ!?」
「如何にも」
すると、輝く金色の髪をかきあげ額と鋭い眼差しを晒し、強力な守護の術式が編み込まれた豪奢な黄金の鎧を身に纏う、戦闘を行う状態の格好をしたギルガメッシュがそこにいた。
「どうしてアンタがここに……?」
「……」
そうして投げかけられた凛の問いかけを、ギルガメッシュは真正面から受け止めたのちにそっぽを向いて、完全に無視をした。顔には、わかりやすく拒絶の意思が浮かんでいる。おそらく、イシュタルの同位体たる自分の疑問に答えてやるものかとでも思っているのだろう。あいも変わらずギルガメッシュは、世界が変わろうと我という存在は不変であると言わんばかりに、傲慢な男だった。
けれど、この全てが少しずつおかしい世界において彼が見せるまるで変わらぬ傲岸不遜な態度に、凛は安堵の気持ちが湧いてくるのを覚えた。同時に理解する。なるほど人間というものは不測の事態であっても、指導者という存在が揺らぐ事なくその場にいるのであればこうも落ち着いていられるのだ。なればギルガメッシュの全ての他者を見下すこの傲慢も、なるほどあながち彼の言う通り、王に必要な資質の一つなのかもしれない。
「………………」
ギルガメッシュの態度に対してそんな理解をした凛は、一切の不服を示さないままに、彼が次の言葉を紡ぐその時を待つ。
「……、チッ」
無視の態度を貫いていたギルガメッシュだったが、如何に無視の態度を続けられようが答えを求めて待つという凛の姿勢に不愉快さを感じたようで、そんな不快の感情を一切隠そうともせずに舌打ちを一つ漏らすと、渋々ながらも顔の位置を正して凛の正面に向ける。
『凛……、だれだ、この男は。只者ではないようだが……』
「――」
両者が見合ったタイミングで話しかけてきたのはゴウトだった。ゴウトの側に控えているライドウは、腰にぶら下げた刀の柄に手をかけた状態であり、あからさまにギルガメッシュを警戒する態度をとっている。
おそらく真面目なライドウのことだから、唐突に現れた存在が凛という自分の協力者に対してに対してあまりに無遠慮かつ失礼な態度を見せたため、彼に対する警戒を密にしているのだろうな、と凛は思った。
「……」
一方、凛が一人考察を行なっている中、一人と一匹から警戒の視線を飛ばされているギルガメッシュは、不機嫌を露わにする顔を保ったまま、自らに対して探るような視線と疑いの態度を向けるという、ギルガメッシュからすればその場で手打ちにしても問題ないくらい無礼な態度をとる不埒者達へと視線を向けた。
「ほう……」
これ以上一つでも気に入らない事態が起きたのであれば、この場で自らを不愉快にさせた存在にその罪を償わせる。殺意に溢れた決意を固めながら一人と一匹の方を振り向いたギルガメッシュだったが、向けた己の睨めつけた視線の先にいたのが刀剣と銃を携える白皙の少年と言葉を喋る猫の組み合わせだったという事実が面白かったのか、処罰の意志が込められていた鋭い視線を変化させると、纏う気配を軟化させた。細められた瞳から漏れる光が好奇心に満ちた色合いへと移り変わって行く。
「とびきり上等な悪魔召喚師に、元人間の式神か。……面白い」
赤い瞳が妖しい色を帯び、眉が艶やかに蠢き、ギルガメッシュはそして面白いおもちゃを見つけた子供のような、喜びと悪戯っ気とが混ざった顔を浮かべた。ギルガメッシュが纏っていた不機嫌のオーラが一気に霧散してゆく。
「――」
『コヤツ、相当出来る……』
態度を軟化させたギルガメッシュとは裏腹に、己らの正体を一瞬で見抜いた慧眼さがライドウ達の警戒をさらに誘ったようで、一人と一匹は態度をますます相手を訝しむものへと変化させた。
「く、くはは。いいぞ。警戒とは不理解の証。そして不理解とは階位が同じところにない証。無意識だろうが貴様らは我の喜ばせ方をよく心得ておる」
自身の言葉や気配に対して一々敏な反応を見せる彼らの警戒の態度がギルガメッシュの琴線に触れたようだった。ギルガメッシュはその顔に浮かべた愉悦の顔色を更に深いものにすると、片手で軽く腹を抱え、もう片方の腕を上下に振りながら、高らかに大笑いした。ギルガメッシュの性格や機敏を把握しきれていないのだろうライドウとゴウトは、彼の態度の変化に対して更に警戒の態度を強める。それがますますギルガメッシュの悦楽を誘い、彼の態度を上機嫌なものへと導いていた。
「ライドウ。ゴウト。この男はギルガメッシュ。私たちの住んでいた世界の管理を行なっていた存在よ。全てのものを己以下の存在と見下しているから、非常に勘に触る言動をするかもしれないけど――、敵じゃないわ」
このままでは埒があかない。事態を見守っていた凛はそう判断すると、仲介役に徹するべく、事情を把握していないらしいライドウらへと情報を提供した。
「――」
警戒を露わにした状態のライドウだったが、凛の言葉を聞くと刀の鍔口から手を離して素直に構えを解いた。ライドウの傍にて戦闘姿勢をとっていたゴウトも、ライドウと異なり未だ完全に納得した様子ではなかったが、一旦は凛の言動とライドウの判断を尊重することにした様で、警戒の姿勢をやめた。
「何処ぞの狂犬とは異なり、よく飼いならされた猟犬よ。……いや、猟猫、か?」
ギルガメッシュは凛の言葉を瞬時に信じて自らへ警戒の態度取ることを停止したライドウらの態度を彼なりのやり方で褒めると、ゴウトを一瞥したのち腕を組みなおし、胸を張る。続けていかにも不承不承と言った体で凛を自らの視界の中に入れると、彼ら二人と一匹に向かって、大きくに両手を広げた。
「ここはヴィーグリーズ……。全ての幻想が終わる土地だ」
ギルガメッシュは壇上で演説する政治屋の様に腕を大袈裟に振ってみせると、よく通る声で厳かに言い放つ。細い指先が世界にかかっていた未知のヴェールをはらうかのように投げ出された。
『ヴィーグリーズ……』
「――それは確か、北欧神話において、神々の決戦が行われる土地……」
「そうだ」
ギルガメッシュの言葉は自信に満ちており、彼の眼前にいる三人へ一聞には突拍子も無い発言が間違いのないものであると信じさせるだけの効力を持っていた。三人が自らの響かせた言葉を解した事に気を良くしたのか、ギルガメッシュはニヤリと笑って見せる。
続けて彼は片方の手を振り上げながら腰を落とし、続けて振り上げた方の手を手刀の形へと変化させると、地面めがけて思い切り振り下ろした。豪奢な黄金の籠手に覆われた手がざくりと地面にめり込み、その後ずむずむと徐々に吸い込まれてゆく。
「この大地は、獣神フェンリルと、巨大蛇ヨルムンガンドの死骸より出来上がったもの」
やがて言葉と共にギルガメッシュが腕を地面から引き抜くと、地面と指先の間に、数条の撓んだ橋がかかった。見れば籠手の軽く折り曲げた指先には、どろりとした赤色の液体が握られている。粘性の高い液体は、大地の表面の赤よりもさらに濃い朱殷色をしていた。
――まるで人間一人をまるごと煮詰めて、煮こごりにしたかのよう
差し出された液体のあまりの毒々しさを見て、凛はそんな事を思った。
「この大地の成分は、ヨルムンガンドの毒液にて極限の状態にまで溶解された世界の全てだ。これには、世界を再構成するための全ての素材、すなわち命の源が詰め込まれておる」
「世界の全てが詰まっているって……、まさか……!?」
思い浮かんだ比喩があながち的外れな表現ではなかった事を知った凛は、与えられた情報から思いつく限り最悪でえげつない結論を導き出し、息を呑んだ。思わず口に手を当ててしまったのは、そのまま続けて言葉を口にすると、自らの予想でしかないその内容が完全に真実となってしまうような錯覚を覚えたからだった。凛はそれほどまでに自らの脳裏が出した結論を恐れていた。
「良い間抜け面だ、イシュタル。語ってやった甲斐があったというものだ」
一方、凛が恐怖に慄いた挙措をとった所を目撃したギルガメッシュは、途端に上機嫌となり、唇を吊り上げて獣のような凶暴な笑みをうかべた。名や生き様が過去の神の力や気配を引き出すこの世界において、凛はイシュタルの性質を強く受け継いでいる。イシュタルといえば、ギルガメッシュが彼にとって唯一の親友と呼べる存在であるエルキドゥを失う原因を作った女神だ。そんな相手に対して意趣返しが出来たことが余程嬉しかったのだろう。
「安心せい。確かに我は全てと言ったが、それは完全に正しい表現ではない」
機嫌を良くしたギルガメッシュは、もはや目的は果たしたと言わんばかりの態度で手を振ると、掌に握った世界の素材を無造作にその辺へと投げ捨る。籠手と地面の間に出来上がった繋がりを纏めて乱雑に断ち切られ、細い糸となり、やがて宙の中に消えて行く。
「ほ……」
紡がれたギルガメッシュの言葉に、凛は口から手を外して胸を撫で下ろし――
「今はまだ、な」
「なっ……」
そして続く言葉に、後ろに倒れこみそうな勢いで仰け反り、大きく息を呑む。
「はは、良い間抜け面だ。語ってやった甲斐があるというものよ。――――、さて……」
凛が見せる一喜一憂の百面相をケラケラと意地悪く笑っていたギルガメッシュだったが、いかなる心境の変化があったのか、突如として首を垢抜けていない素朴な星の光に満ちる空の方向へと向けた。凛は反射的にギルガメッシュの視線を追うが、その小ぶりな瞳に映るのは、先程と変わらない、少しばかり変わった世界の光景ばかりである。
「ではそろそろこの鬱陶しい緞帳を取り払うとしよう」
そしてそのまま頭上に広がる星の海をぐるりと見まわした後、ギルガメッシュは再び不機嫌そうなしかめ面を浮かべると、先ほど地面に手中を突き入れた時の様に今度は何もない虚空へと向けて無造作に手を振り上げた。続けてそのままの姿勢であげた腕を振り下ろした。
――バキン
ギルガメッシュが手刀を着る所作をした途端、鼓膜を微かに揺らす程度の小さな音が鳴る。直後、地球と小さな星々以外が存在しなかった空に、ヒビが入った。ギルガメッシュが手刀を切った手を指揮者がやるように斜め上に振りあげると、ヒビの入った空間は壁が崩れ落ちるかの様にパラパラと砕けて虚空へと散り、空には巨大な裂け目が出現する。
「な……」
凛ははしたなくも口をあんぐりとあけて驚いた。数千メートルも上空にある裂け目はしかししっかりと視認できるほど巨大であり、また、十キロ以上にもわたって空の天蓋をぶち抜いていた。幅広の裂け目からは粘性の低い赤色の液体と、粘性の高い紫がかった紫赤色の液体が凛たちのいる大地に向けて落下して来ており、裂け目と凛の大地との間を繋げている。
「――」
『なんだ……これは』
突如として出現した光景のあまりの迫力に、凛のみならず、冷静さを保っていたライドウ、疑いの目をギルガメッシュへと向け続けていたゴウトも、皆が背を仰け反って驚愕した。唯一、ギルガメッシュだけが、非常に不機嫌そうな顔で、巨大な裂け目を眺めている。
「あれはハイラガード公国付近にあったギンヌンガの裂け目/ギンヌンガガプ、だ。落ちてきている液体は、フェンリルが咀嚼し消化した世界の一部や、近くで倒れたヨルムンガルドの死骸より生じた毒によって融かされつつある世界樹の大地そのもの……。つまりは先ほども言った通り、あの液体の中には世界の全てが詰まっておる、というわけよ」
「ギンヌンガ……」
「――フェンリルにヨルムンガンド……」
『北欧神話にある裂け目に、世界を喰らい尽くすと言われる巨大な狼と蛇……、か』
巨大な裂け目からは地面へ向かって膨大な量の赤と紫赤の混じった混合液が落下している。互いに入り混じる二つの液体のうち、粘性の高い紫赤の液は地面へ向けてたらりたらりと落ちており、せっかく生まれた繋がりを断ってたまるものかと決心したかのように、天と地との間に穴だらけで脆弱ながらも確かな壁を作り上げていた。
そんなどろりとした蠢く壁の上を、赤色の液体はまるで蛇が這うかのごとく垂れ落ちてゆく。だが赤い液体がその壁を十全に利用できるのは落下直後までであり、ほとんど多くは粘性の低さゆえに長い距離を落下する最中に壁より離脱させられる。そして穴だらけの壁より離れた液体は、落差の大きさ故に地面と達する前に分散して空気と絡み合い、滝壺の下部に霧と暴風雨を生み出していた。これがこの大地の湿度の高さの原因なのだろう。
「虹が……」
裂け目から落ちる大量の水が飛び散ることにより生まれる大量の水飛沫は、天と地の間に地上とアースガルドを繋ぐ無数の虹を形作っていた。ゆらゆらと消えては現れる一秒ごとに居場所を変化させる虹が、短くも儚い命の今が盛り時と言わんばかりに、消えては現れ、現れては消えを繰り返しながら壁にある穴と穴の間で折り重なり、無数のアーチ橋を形成しながら天から地上にまで伸びている。それは幻想的な光景だった。
「ビフレスト。この終焉の土地と、世界樹のある大地とを繋ぐ橋だ」
呆けた顔をしていた凛を目敏く見つけたギルガメッシュが、馬鹿にした顔で凛へと語りかけ。凛は納得した。目の前に広がる光景は、伝承にある通り、虹の橋/ビフレストであると同時に、ぐらつく橋/ビフレストでもあったからだ。
ビフレストは、ゆらゆらと頼りなく現れてはその場より消え、別の場所に現れてはまた消えを繰り返し、天と地との間にある穴だらけの壁に橋を作っては泡沫のように消えてゆく。虹の頼りない橋が天と地を儚くつなぐ光景は、終末に現れる光景としては相応しい荘厳さを備えていた。
「綺麗……」
凛はそんな場合ではないという事を重々承知していながらも、思わずそんな事を呟いた。それは雄大な光景を目にした際の反射行動だった。
そこへ。
「ふむ、これでは足らぬか」
――ドンッ!
「えぁ……?」
ギルガメッシュがつまらなそうに述べた。途端、見惚れる横面を叩くかのように体を揺さぶる大音量が凛を襲い、凛は思わず上擦り気味の声をあげた。続けて反射的に音の発生した方を向く。すると凛の向けた視線の先に、先程の様に手刀に構えた片手を横に振るった形の体勢で停止したギルガメッシュと、彼から約数キロほど離れた場所へと見えた光景に、凛はさらなる衝撃を受けた。
「こんどはなに……!?」
高さ一キロメートル、横幅十キロメートルにも及ぶ滝と天地を結ぶ虹の橋のすぐ近くに現れたのは、野火のように燃え上がる赤い炎の壁だった。地より空へと向けて伸びる焔の壁の向こう側には、樹木と草木の萌える林と草原があり、視線をさらに奥へと向ければ、天を貫く勢いで屹立する大樹や、地平線の彼方、遠くには脈々と連なる茶色い山峰が存在している。炎が地面より立ち上がる光景という一点を除けば、地球上に幾らでも存在するだろう赤い滑らかな空間を侵食するかのように現れた砂漠地帯の一風景は、そのたった一点、空を焦がす勢いで燃え盛る炎のせいで、ひどく飄然としていてどこか頽廃的かつ現実離れした景色だった。
「もう……」
凛はついにたまらなくなった。歳月を経て老獪さと忍耐は若かりし頃と比べ物にならないほどに強くなった凛だったが、とはいえ、アーチャーという自らの心的支柱を失っている現在、異常な空間の中で予想の範疇外にある出来事が連続して続くという事態に対して優雅の態度を以って対処できるほどの余裕は、今の彼女にはなかった。常に優雅たれとは、遠坂家に代々伝わる家訓であるが、そんな家訓が代々伝わっているということは、それを心掛けねばすぐに優雅さを忘れて暴走してしまいがちな血筋であるという証拠でもある。
「本当になんなのよ!」
凛は今、自らが優雅でない振る舞いをしているという自覚はあった。だが、それを理解しつつも、心の裡に溜まっていた鬱屈を発散するため、目を閉じ、振り上げた両手を思い切り振り下ろしながら、全力で思いの丈を叫ばずにはいられなかった。
ヒステリックなソプラノボイスが、荒涼とした赤く乾いた大地を駆け抜ける。周囲に憚ることなく思いの丈を叫ぶその反応は妥当だとでも答えるかのように、乾いた大地から生じる風が彼女の体を叩いて吹き抜けてゆく。
「はぁ……、はぁ……」
荒く呼吸を繰り返す度に、灼熱に肺腑を焼かれる様な感覚を覚える。凛の体を叩く風は熱を持っていた。熱はおそらく、この赤いカーペットのような大地と、今しがた出現した乾いた大地の間にある炎の壁に炙られて生まれたものだろう。短い呼吸を繰り返して熱い外気を体内へと取り込んでいると、凛はまるで自身がサウナの中にいる様に錯覚した。混乱する頭を巡る煮えたぎる血液が体内に取り込まれた熱と反応をして、全身がさらにカッとなる。
「はぁ……」
だが、そうして体や頭がさらに熱を帯びて行く度、凛はむしろ自身の頭が冷静さを取り戻していっていることに気がついた。熱を帯びたものが全身を巡るその感覚に、凛は覚えがあった。それはかつて、凛の全身隅々にまで張り巡らされていた魔術回路を全開にて励起させ、動作させた時の感覚に似ていた。
「……ふぅ」
凛は全身を走る既視感ある痛みに似た感覚により、一級戦の魔術師として活動していた若かりし全盛期の時代の感覚を取り戻した。静かに目を瞑ると息をつき、深呼吸を行いさらに外気の熱を体内へと取り込み、隅々まで行き渡らせる。
全身を巡る熱が凛の神経を刺激する度、神経を、背骨を通してやってくる信号に反応して脳が痛みを訴えた。そうして痛みの信号が駆け巡るたびに、錆びついた全身が研磨されてゆく感覚を覚え、凛の頭はさらにクリアなものへとなってゆく。全身に絶え間なく痛みが巡るという懐かしい感覚は、凛の意識を若かりし頃、一流魔術師であったときの状態に引き戻しつつあった。
「っぷ」
凛は深呼吸と熱により、持ち前の冷静さと培ってきた戦場の中でも冷静さを失わない胆力を取り戻しつつあった。だが、そうして徐々に熱が彼女の意識を覚醒させつつある最中、やがてその口の隙間から風に混じっていた砂塵が体内へと飛び込み、凛は微かに咳き込んだ。
「ぺっ、ぺっ、……ったく、行儀がなってないんだから……、ん?」
集中を妨げられた事にわずかばかりに苛立ちながら、しかし冷静に飛び込んできた砂礫を嫌味とともに吐き出していると、彼女は口腔内で僅かばかりに血の味を覚えた。さて、今しがたの事象により口の中でも切ったのかしらと考えた凛は視線をあげ……――
「……」
そして見上げた視線の先、風により揺らぎわずかばかりに分断された炎の壁の向こう側とこちら側、砂風渦巻く大地と赤殷の静かなる大地の上に巨大な鉄の軍艦が二隻鎮座しているのを見つけて、凛は完全に思考を停止させられた。巨大な軍艦の向こう側に聳え立つ巨大な樹木の麓には土壁の集落もあり、集落の家々から漏れる明かりが、炎の壁の向こう側の空の上に陽炎を生んでいる。この短い間のうち、目の前の光景に驚かされるのは何度目だろうか。凛はもはやそんな瑣末な事を考えることすら億劫になった。
「あれは火星の大地に、シン、すなわち、YHVHが耕し作り出したエデンの楽園よ。なればそんな楽園/アルカディアにある街に住まうは、奴に誑かされた愚者どもであり、造成された楽園に屹立する巨大な世界樹は、不毛な大地を緑豊かなものとする生命の樹であると同時に、雑種に知恵を与える樹でもあるのだろうよ」
凛が呆然とした事を目ざとく見つけたギルガメッシュは、律儀に解説を開始する。おそらくはイシュタルの転生体でもある凛が間抜けな面を晒しているのが愉快だったが故の挙措なのだろう。
「鉄船は――」
「――見覚えがあります。かつて自分たちの世界において、超力兵団計画という事件が起きました。あれはそんな最中、来たるだろう第二次世界大戦に対して帝国の防備の脆弱さを憂いた陸軍が暴走してつくり上げた決戦兵器。その名も、ヒヒイロノカネで鋳造された金剛型五番戦艦を改良して製作された超力戦艦、オオマガツ、あるいはヤソマガツ――。あれらはおそらく、自分が撃破した、それらの戦艦を回収し、修復したものなのでしょう」
そうして嬉々として語るギルガメッシュだったが、船についての知識はなかった様で、さてあれはなにかしらんと考えたのだろう少しばかり言葉が詰まったところを見計らって、ライドウが言葉を継いだ。よくよく聞いてみればあのような巨大戦艦を自分が撃破したなどととんでも無い事を言っているが、もはやそれが事実であろうとなかろうとどうでもいいと思えるほどに、凛の心は驚くに疲れていた。
『なるほど、黄藩らが帝都で怪しげな動きを見せていたのはこれを回収し、修復するためだったのか。性懲りも無く陸軍が秘密裏のうちに回収した残骸を黄藩が奪った、といったところだろう。ならばさらわれた遊女は……、なるほど、神の金属であるヒヒイロノカネを鍛え直し、鋳造する為の人身御供……』
ライドウの言を、ゴウトがさらに補足する。ゴウトの言葉に、ライドウと凛の顔に曇りが生まれた。
「――だとしたら彼女たちは……」
『おそらくあれらの戦艦を作るための生贄となったのだろう。文字通り鉄血の戦艦、というわけだ。残念ではあるが……もはや彼女たちは生きてはいまい』
ライドウが拳を握りしめた。最悪の予想が当たってしまった、と凛は顔を伏せる。三人は自然と彼女らの鎮魂を願って、黙祷を捧げていた。
「……方舟のつもりなのだろう。そこな雑種どもの世界より運び込んだ戦艦をベースに、我が支配する大地に存在する超金属、ヒヒイロノカネを用いて修理、修復した、な」
わずかにばかり生まれた鎮魂の沈黙を破ったのは、やはり空気を読まないギルガメッシュだった。ギルガメッシュは少しばかり不機嫌そうだった。おそらくその機嫌の悪さは、自身の言葉が不遜にも遮られた事と、ライドウが自身の知識にない事を語ったという事実と、その後続けられた話題が彼からすれば大した価値のない雑種のものへと移ってしまった事が原因なのだろう。
「方舟、か。かつて神が人類を救った道具って割に、随分とまた血生臭い造り方をするもんだこと」
凛はあえてその不機嫌を無視すると、ギルガメッシュの話に合わせた言葉を投げかける。
「――は、何を今更。神というものは人間の血と肉と信仰によってのみ存在を保つ事を可能とする奴らよ。自信の神殿へと捧げられた犠牲と死体の数こそが、神と呼ばれる存在の強大さを証明し、奴らへの信仰をより強固なものへと昇華させるのだ。ならばそんな神の用いる道具が血生臭くないわけがあるまい」
イシュタルたる凛に気を使われたという事実が気に食わなかったのだろうギルガメッシュは多少眉をひそめたが、それでも彼は他人の心遣いを完全に無下とするほどの無粋な心意気の持ち主ではない。ギルガメッシュは少しばかり息を吐くと、凛の軽口に対してすぐさま己が意見を述べた。
「――そうね。そうかもしれないわね」
ギルガメッシュの語る無謬の論理に虚しさを感じた凛は、視線を逸らして下方へと向ける。すると地面の上を微かな風が吹き抜けてゆくのを感じた。ギルガメッシュの言を信じるなら、その乾いた風は火星の大地より生じたものなのだろう。
「火星、か」
凛は視線をあげた。視線の先には、一面に広大な砂地が広がっている。火星。それは地球の隣に存在する、太陽系というスケールからすればすぐ近くにある、しかし、人の身からすれば果てしなく遠い場所にある赤の惑星。ならばこの鉄の味は、火星の表面の大地を覆う酸化鉄がもたらすものなのだろう。
「――」
凛が鼻腔に飛び込みツンと刺激する血の香の如き香りから逃げるようにして凛が目線を地平の端へと持っていくと、傘のように聳え立つ山が見えた。目の前に広がる大地が火星を改造して作り上げられたというものならば、その奥に見える大きな山はおそらく、太陽系において最も高いとされるオリンポス山だろう。
地表より高さ26キロメートルもある山の頂上から地表に向かって直進する風が大量の土砂とともに山の斜面を駆け下りて、凛の立つ生命の溶けた、個体にしてみるなら柔らかい、液体としてみるなら硬い大地に細かい轍を刻んでゆく。だがそうして地面に刻まれた細かい傷跡は、波打ち際に寄せては引く水の流れに遊ばれる白砂の様に、すぐさま、さぁ、と消えて失せてゆく。
おそらくこの世界の素材とかいう赤い大地には、自浄作用というか、生命の性質を兼ね備えているのだろうと凛は推測した。押しては引き、引いては押しと一定のリズムを保ちながら足元では刻印と消失が繰り返されている。
「あ……」
蜃気楼のように現れては消える様に潮騒を目で味わったかのような感覚を呼び起こされた凛は、僅かばかりに頬を緩ませる。直後、遠くの地面を刻むばかりだった風が強く吹き、凛の体を包み込んだ。
「いい匂い……」
風が運んできた鼻腔を叩いて抜けてゆく心地よさに、心をさらに揉みほぐされ、緊張が溶けてゆく。凛はさらに顔を緩ませた。火星の大地に漣立てながら赤い大地へと押し寄せてくる風には、これまでにはなかった濃い緑の匂いが含まれていた。
凛が自らの心を一瞬のうちに鎮めた匂いに誘われるかのようその発生源だろう場所へと目をやると、炎の向こう側、火星の大地に屹立する大樹――世界樹の葉が、枝が、梢が、ざわざわと揺れている事に気がついた。凛は直感した。
「これは世界樹の匂い……」
屹立する大木――世界樹は、山より吹き降りてくる風によって揺らされ、周囲に青々とした匂いを撒き散らしていた。風の乱雑な行為により世界樹からまだ若々しい色合いをした葉が地面へと落とされ、瑞々しさを十分に残す葉は火星の乾いた大地に覆い被さり、寂寞な大地を柔らかな緑色に染めていっている。そんな大樹から落ちた葉によって緑色に侵食される火星の大地に呼応するかのように、凛の立つ大地と乾いた大地との間にある炎の壁が前方へと進み、火星上にあるという楽園が、徐々にその領域を広げてゆく。
赤砂の上を風が吹くたび、砂漠に一本屹立する大樹が風のさざめきによって揺らされ、命の痕跡が見当たらない大地に淋漓と葉が落ち、緑が生まれ、生命の証が広がり、徐々に命が萌えてゆく。その牧歌的ながらも雄大な光景は、まさに御伽噺の中にしか存在しないような幻想的な雰囲気を持っていた。
「我が王国より掠め取った素材を用いて、すでにここまでの土地改造を進めておったか……。痴者め……!」
だがそんな不毛の大地が緑に染まってゆく奇跡の様な光景を目の当たりにしたギルガメッシュは、漂ってくる自然の香りに思わず頬を緩めた凛とは正反対の憤怒の形相を浮かべると、虚空を歪ませ、王の財宝/ゲート・オブ・バビロンより赤い刀身の柄から先端に向けて徐々に細くなる円柱状の形をしている特異な剣を取り出した。
ギルガメッシュは取り出した刀剣を片手にて大上段に構えたのち振り下ろすと、剣の刀身はギルガメッシュの身から迸る激情に呼応するかのように回転を始めた。緩々とした回転はすぐさまに凄まじい速度のものとなり、荒々しい熱気を帯びた風がギルガメッシュの周囲を取り巻いてゆく。
「――げっ、それは……! 」
凛はギルガメッシュの歪んだ顔面のみならず、剣に周囲の全てを吹き飛ばしてなお余りあるだろう魔力が剣に込められているという事実からもまた、ギルガメッシュの腹の中がどれほど煮えくり返っているのかを察し、艶ある黒髪と可憐さと高貴さの同居する美貌を持つ乙女が言うにしてはあまりに品のない悲鳴をあげる。
凛の動揺は当然といえるものだった。なぜならばギルガメッシュが取り出し、発動させたその宝具は、かつて混沌たる世界を切り裂き、天地を分けたとされる神剣だったからだ。周囲に発生した暴風は、発動の余波でしかないだろうにギルガメッシュの怒りに呼応するかのごとく赤熱した刀身より膨大な量の魔力を撒き散らしている。魔力は外部へと発散されている余剰のそれだけで、凛が一度の魔術において平均的に使用する魔力量を軽く凌駕しており、剣の内包する破壊力の凄まじさを示すに一躍買っていた。
「――あれは」
『な、なんだ、この凄まじい魔力は……!』
ライドウとゴウトは瞬時に警戒の体勢をとった。ギルガメッシュは驚く彼らを完全に無視して、なおも剣へと魔力を注ぎ込む。やがて剣の周囲に空気の断層が生まれ、神剣により生まれた風の乱気流が、緑の楽園から流れ来る空気の流れを歪めていった。天へと切っ先を向けられた剣より生まれた耳をつんざく暴風は、やがて天に向かって逆巻く巨大な竜巻となり、同時に神剣はもはやこれ以上内包されている破壊の威力を抑えていることは出来ないとでも叫ぶかのように、緋色の閃光を周囲へと撒き散らす。
「ちょ、ちょっと、ギルガメッシュ!」
凛は慌てて呼びかけるが、空気の断層が声を遮ったのか、ギルガメッシュは一切反応を示さない。あるいは、怒り心頭となり、言葉が届かない状態であるのかもしれないし、または、イシュタルたる凛の言葉なぞ耳にする価値もないと思っているのかもしれない。ともあれ事実としてギルガメッシュは凛の呼びかけを完全に無視すると、剣を再び振りかぶる。一度真名を解放されれば秘められし暴虐の力のままに空間を喰らい尽くすそれは、我が秘めたる暴力に畏怖し驚愕せよと言わんばかりに耳障りな音をあげて、ギルガメッシュを中心とした柔らかい朱殷色の大地の上に、円状の深い傷を刻んでゆく。
「殺す。我の持ち物を盗み出し、あまつさえは無断にて利用した痴れ者には報いを与えねばならん」
持ち物が人の心を映す鏡であるとするなれば、刀身より煌々と放たれる直視してしまえば目が潰れかけないほど光と逆巻く暴風を放つ剣というものは、ギルガメッシュがどれほど怒り心頭であるかを表しているに違いなかった。
「そんなものをぶっ放したら、あの街とか船とかがひどいことに……! アンタの言が正しいのなら、あれ、多分、エトリアから消えた人たちが住んで――」
「行動には責任が伴うのが当然だ! 我が庇護を捨て、ましてや嘲笑うかのように神の下へと走った者共の都合など、我が知ったことか! 愚かな者共よ! かつて天に手をかけようとした怪物ウルリクンミと愚かな巨人ウペルリを切り離した、空と呼ばれるものの上にない時、地なる名のものの下にない時、天地を切り離した神剣の力にて散れることを光栄に思うがいい! ――天地乖離す開闢の剣!/エヌマ・エリシュ!」
だが、そんな凛の訴えを完全に無視して、ギルガメッシュから一切の容赦も躊躇もない一撃が放たれた。ギルガメッシュの振り下ろした刀身から放たれた光と風の乱舞する暴力は、火星から吹いていた柔らかい風が作り出していた細かい轍を掻き消しながら逆走し、突き進む空間にある全てを粉々に掘削粉砕しながら、緑の領域へと直進する。剣によって生み出された衝撃は、円柱状に此方の大地と彼方の大地との狭間を刻み込み、目に見える形で空気の断層を生み出していた。
「ちょ……!」
『いかん、ライドウ、構えろ!』
「――!」
剣より巻き起こされる暴風はまた、凛やライドウの体を激しく叩き、彼らをその場から吹き飛ばそうと押しかけてくる。ライドウは柔らかい地面に刀を深く突き立てると己の体をその場に固定する楔の代わりとすると、さっとゴウトと凛を片手に抱きかかえ、姿勢を低くし、もう片方の手で思い切り柄を握り締めた。
「〜〜〜!」
ライドウに抱え込まれた凛は、頬を真っ赤に染めた。眉目秀麗な年下の男の裸胸に抱かれるという事態は、実年齢こそ数千年を超えているものの、年若い感覚を取り戻した凛にとって刺さるものがあったらしい。彼の胸の内に守られた凛は、己の浮気を亡き夫に謝りつつも、体を叩く吹き荒ぶ暴風に、ギルガメッシュの放った一撃が創世神話の叙事詩の名を持つ宝具にふさわしき破壊のものであることを再認識させられていた。この大気を揺るがし、大地を掘削するする宝具の威力の前には、例え広域にわたって空へ舞い上がる炎の壁も、その向こう側にある巨大な戦艦も、その周囲にあった街も、恐らくはそれらの中にいるのだろうエトリアより消えた人々も、全ては暴風の力によってバラバラに切り裂かれ、火星の大地の中に還っていってしまうだろう。
――……ごめんなさい
目の前で命が失われるだろうという予測と幻視をした凛は、事態を防ぐことが出来なかったという事に罪悪感を抱き、思わず目を伏せた。だが直後軽くかぶりを振って決心すると、ライドウの胸の中、顔中を叩く暴風の影響を最小限にするべく瞼を細く開き、視線をまっすぐ目の前へと向ける。せめて己が止めることの出来なかった事象によって引き起こされる結果を目にし、その過程と結末を脳裏に記録しておこうと考えたのだ。――だが。
「嘘――」
凛は自らの視界に映ったものが信じられず、一言漏らした後、口を押さえて絶句した。ギルガメッシュの放った鉄の戦艦が存在する直前までの地面を融解させ、沸騰させ、消滅させながら直進する神剣による一撃は、しかし鉄の戦艦と炎の壁の前に存在する薄い壁の様なものにぶち当たった瞬間、瞬時に霧散し、虚空の中へと消えていっていた。それはかつて天と地とを乖離させたという謂れを持つ剣から放たれた力の結末としては、あまりにあっけないものだった。凛は自分が自滅覚悟で全魔力を行使したところで起こせるかどうかわからぬほどの破壊の力をいとも容易く防ぐその現象を目の当たりにして、二の句を継げなくなっていた。ライドウとゴウトも同様のようだった。
「通じぬか……っ! 空間の遮断……、東の楽園、ケルピムの持つ炎の剣……――炎の剣の概念による、外部からの穢れの侵入を完全隔離する、楽園を守るための防塵壁! ええい、まったくもって忌々しい……!」
一方、ギルガメッシュは今しがた起きた現象がいかなる理屈によってもたらされたのかを事前に理解していたようだった。ギルガメッシュは己が下した審判の結果を敵に反映させる事はやはり今の所できないのだと悟ると、苛立たしさを隠そうともしない態度で文句を吐き捨て、同時にエヌマ・エリシュの発動を停止する。
宝具の発動停止に伴い、荒ぶ光と風が徐々に収まってゆく。やがて彼我の大地をまっすぐ貫いていた暴風が完全に収まり、ギルガメッシュによって掘削された赤殷の地面がいかなる理屈によるものなのか盛り上がり元の通りの景観に復元を果たした頃、凛はライドウの胸の内よりふらふらと出でて自身の足で大地に立ち、周囲を眺めた。
眼前に広がる光景は、真に、ギルガメッシュが力を振るう以前に戻っていた。凛はここがたしかに自身の生まれ育った地球でも、ライドウの存在した時空の地球でもない、自分たちのいた世界とは違う法則の働く世界であることを再び強く意識し、背筋に少しばかり寒気が走った。
自らの常識が通用しない世界というものは、かくも人の不安を煽るものなのか――
「波濤の軍馬にかけてあったサコの隠蔽が破られたんでどうしたのかと思いきや――」
凛が少しばかり怯んだ時、全く揺るぐことなく天に向けてそびえ立つ炎の壁の向こう側から、大地に轍を刻む風に乗るかのようにして、声が聞こえてきた。そのしゃがれた声に凛は聞き覚えがあった。凛は他の二人と一匹がやったのと同じように、反射的に目を見張って声の聞こえてきた方向を眺める。
「なるほど、シンの力と相性の悪い、バアルに連なる神の血を引く者に睨みを効かされたんじゃ、それも仕方ねぇ」
すると凛は、今自身らがいる場所より二百メートルほど先、鉄の船の上にひとりの背高の男が立っている事に気がついた。赤い光を放つ剣を持ったその男は地上より高さ数十メートルもある船上からひらりと身を翻して飛び降りると、赤殷色の地面へと音もなく着地する。凛は慌てて眼球へ強化の魔術を叩き込む。凛の魔術が徐々に眼球の能力を上げて遠くの光景が近くに見えるようになるにつれ、徐々にその男の姿が露わとなってゆく。
「だが、ちょうどよかった。これで全てに決着をつけることができる」
着地した男が顔を上げる。背中から表腹にかけて刺さっている木の枝の処置を一切行わないまま、どこか二振りの二刀を腰に帯刀する、美しい紫の鱗軽鎧を身に纏ったいかにも歴戦の英雄然としたその顔に凛は見覚えがあった。凛は口元を押さえながら、反射的にその名を呼んだ。
「あんたは確か、――ダリとかいう……!?」
遠くにいるはずの名を呼ばれた血の気の失せた青い顔色をしたダリは耳聡くその言葉に反応し、視線の先を凛へと向けた。凛とダリとの視線が合う。ダリがこちらへと向ける胡乱とした視線には絶望も希望も存在しておらず、それどころか、あらゆる感情が欠如しているかのように見えた。己へと向けられた視線を見て、凛の背筋にゾッと寒いものが走った。
――人形みたいに冷たい目……、まるで……
それは透明の、というのとも、純粋な、と例えられるような視線とも違う、完全にただ、眼球を動かした結果、その水晶体の先が凛を向いただけなのだという結果の、それ以上に意味を持たない、未来も過去も現在も写っていない視線だった。
――昔の桜みたい……
そんなもはや硝子玉を透過しているのと変わらぬ魂の宿らない人形のような視線は、凛はかつて魔術師たちのくだらない見栄や誇りのために己を大事にする想いと感情と失ってしまった妹――桜の事を思い出させていた。
――我ながら最悪な連想をするわね……
特殊な事情により今しがた目の前の男が浮かべているような目をするようになってしまった、苗字の違う、しかし血の繋がった妹の事を思い出した凛は、即座に人形と妹という単語を結びつけた自らを蔑み、酷く自己嫌悪した。他者からもたらされた嫌悪感と、自己に対する嫌悪の感情により、凛の美貌が大きく歪む。
「なるほど、力に覚醒したものの体を奪い、そこに自らの魂を埋め込む事で、その力をも奪ったのか。森の王バルドルをヤドリギで殺した者は、新たな森の王となる。なければあるところから持って来ればいい、か。ふん、生意気なことに理に適っているわ。それにしても死者の体に別の魂を入れて弄ぶとは……、は、下衆らしい、いい趣味をしておる」
怨敵イシュタルの生まれ変わりである凛の顔が痛苦に歪んだことが、我を通せなかったという事実により不機嫌の極みにあった彼の機嫌を多少良い方向へと動かしたらしく、ギルガメッシュは一歩前に進み出ながら、ダリへと言葉を投げ掛けた。
「惜しいが、違うな。それだけじゃあない。俺らの世界では名の持つ意味が全てにおいて優先され、体よりも魂の方が上位にある。すなわち、ヘイがダリを殺し、ヘイ/hei の魂がミスティルトン/mという繋がりによってダリ/dallと結びつけられたのなら、それはバルドルではなく終末を見定め、角笛にてその時を知らせる番人、ヘイムダル/heimdallとなる。――そう、すなわち、世界の裏で暗躍していたトリックスター。自然と人との間に生まれた巨人、すなわちロキのごとき半神半人の存在であるオメェさんを、このオーディンの嵐たる場所で殺せる存在にな」
ダリ――ヘイムダルはギルガメッシュの言葉を聞くと、冷たい瞳のまま、冷たく言葉を投げ捨てた。遠目に見える顔は相変わらず人形のように感情が浮かんでいない。
「ほう、このヴィーグリーズという戦場にて我を殺すとな? 」
無表情を貫くヘイムダルから最後の言葉を受け取った途端、愉悦と嫌悪の表情ばかりを浮かべていたギルガメッシュの顔に興味の色が混じった。ギルガメッシュは腕を組み、顎を上げると、自らを殺すと述べる遠くにいる存在を器用に睥睨する。
「面白い。朽ちた肉体にしがみつく意地汚い魂だけの分際でよく言う。雑種にしては珍しく笑える冗談をほざくではないか」
瞬間、その端正な柳眉は愉悦に歪み、ギルガメッシュの視線が功労者に対して送る視線から、道化を見る視線へと変貌した。ギルガメッシュの声色は今やそのほとんどが好奇心というものによって構成されていると凛は感じた。それは自らという完璧な存在を殺せるものはいないと確信しているが故の傲慢から生じる声音なのだろう。
「相変わらずの自信過剰な……」
――いやそうでもねぇさ
その傲岸不遜かつ豪放磊落な態度に目眩を覚えそうになった凛がポツリと呟くと、答えを期待してのものでなかった誰にも聞こえなかったはずの心の声に対して響く応えが返って来て、凛は軽く驚いた。だがそれが自らの使い魔からの交信による、魔術的なものだということに気付いた凛は、即時自らの精神状態を、通常のものから、魔術師としての彼女のものへと瞬時に書き換えると、心の中へと聞こえてくる声に応対する。
――ランサー?
――ああ。ったく、何かあったらすぐに呼び出すっつうから、嬢ちゃんを回収して近くまできた後は周囲を警戒してたんだが……、その様子じゃあ、俺のことを忘れてただろ、リン
凛がランサーの指先が示す方向へと視線を向けると、そこには気絶しているらしい響が横たわっていた。先ほどに暴風で多少髪や服に乱れはあるものの、それ以外に傷は見当たらない。凛はまず彼女が無事であるという事実に安堵し、次いで、ランサーのことを失念していた自身の至らなさを反省すると、自らの失態を誤魔化すかのように多少口早に尋ねた。
――響は無事なの?
――ああ。大した外傷はねぇ。中も重要器官にはダメージがないらしい。
――へぇ……、あの凄まじい呪いの塊と接触してよくまぁ……
――呪いと一体化していた玉藻が借体形成の術を使って己の身を響に食わせたみたいだな。なんでも九尾の狐を食べると、蠱の呪いが効かなくなるとか
――食者不蟲……、山海経……だったかしら
――まぁ、とはいえあの玉藻とかいう悪魔のネーちゃんが嬢ちゃんの体を乗っ取るまでの間に幾分か蠱毒と接触しちまったらしい。で、僅かばかりの接触時間とはいえ、あの蠱毒とやらは人間に対して強烈な毒性があるらしくてな。毒抜きと治療の必要があるから、嬢ちゃんの内臓のダメージが抜けるまでは体に宿ったままの状態で治療を続けるんだと
――そう……
ランサーの言葉を聞いた凛は彼女が無事である理由を聞いて納得して胸をなでおろし、息を吐いた。ため息が虚空へと消えてゆく。が、空を湿らせた吐息が完全に霧散するよりも以前に、『蠱毒の毒性は人間に対して強烈な毒性を持つ』というランサーの言から改めて蠱毒の危険性を認識した凛は、未だに姿を表さないアーチャーがその毒の中に消えてしまったのだと言うことを思い出し、一抹の不安が生まれた。晴れかけた凛の頭の中に陰りが生じる。
――大丈夫か?
念話のために凛の脳裏とチャンネルをつなげているランサーはそんな凛の感情の機敏を感じ取ったらしく、慮った言葉を投げかけてきた。短いながらも思いやりに満ちた言葉は凛の頭の中にあった不安を幾分か払拭する役割を果たし、冷静さを取り戻す気付け薬となり、彼女の気を落ち着かせる。凛は一見平然とした面持ちを保つと、ランサーに返事をした。
――平気よ。アーチャーには聖骸布の守りがあるし、蠱毒の呪いを浄化出来る神父もアイツの後を追った。だからアーチャーは大丈夫のはずよ。心配するだけ損ってなもんでしょ
――……そうかい
ランサーは、己が凛へと投げかけた彼女への心配の言葉を、この場にいないアーチャーに対する心配の言葉と捉え、さらには己を鼓舞するかのようにアーチャーの無事を断言する言葉を吐いた凛の反応を見て、凛が未だに十全な状態でないことを悟った。どう控えめに見ても凛は未だに冷静さを取り戻してはいない。だが、凛が大丈夫であると気概を震わせ己の心の裡に湧き上がってくる不安をかき消そうとしているのに、わざわざそんな事を指摘して彼女の虚勢を崩そうと思えるほど、ランサーは気の回らない男ではない。
――話を戻そう。あの金ピカの手足の所作をよく見てみな
この話題を続ければ凛の精神が再び不安定な状態に陥るかもしれない。そう判断したランサーは、凛を正常な状態でなくする話題から意識をそらすべく、別の話題を振る。
「よい、道化よ。今この時だけ戯言を許そう。さて、ではヘイムダルとやら。我を殺すとほざく貴様は、次にどんな愉快な讒言にて我を愉しませてくれるのだ?」
凛はランサーの思いやりに満ちた言葉の真意に気付くことなく、おそらくはそんな余裕もないのだろう、素直にランサーの指示に従って、平然と自らの殺害方法を尋ねるギルガメッシュへと観察の目を向けた。すると神経が張り詰め、多少気が散っているとはいえ、一流の魔術師であり、同時に一定以上の中国武術をその身に習得している凛は、腕を組んでいるギルガメッシュが、体を半身にした状態で背を軽く引き気味に、後ろの足へと重心を預け、歩幅を小さく保ちながら軽く前足の踵を浮かせるという構えを取っていることに気がついた。
――あれは……、猫足立ち……?
――へぇ、嬢ちゃんたちの言い方じゃそういうのかい? ……そうだ。いつもなら両手を組みどっしりと相手を正面から見据える様な奴が、見ての通り、警戒を露わにいつでも動ける姿勢をとってやがる。姿勢奴さん、相当、ヘイムダルのことを警戒しているぜ
――なるほどね……
そこで凛はようやくランサーの言わんとしている事を理解し、同時にギルガメッシュがいかなる思惑にてヘイムダルに対峙しているのかをも推測することができた。一見、ギルガメッシュは傲慢に相手を見下しているだけのように思えるが、実のところ彼はおそらく、そうして相手を挑発することにより相手から怒りの感情を引き出し、婉曲的に情報を聞き出そうとしているのだ。
ギルガメッシュは傲慢で、自身の力に絶対的な自信を持ち、あらゆる存在は己以下と考える男だ。平時のギルガメッシュならば、自らの意に背く存在や、あるいは自らにとって気にくわない存在が目の前に現れた際、それこそ先程彼が火星の大地に向けてやったよう、即座に排除しようと動くはずである。
ギルガメッシュにとって、己を不快にさせる存在とは、この世にあってはならない、即時この世から抹消してしかるべき排除対象に他ならない。そのような天上天下唯我独尊を地でいき、前進制圧完全勝利こそが自らの戦における華であり使命であると考えるような男が、しかし今、己の下した判決に逆らい、己を殺すなどとのたまう、彼にしてみれば万死を与えても足りぬだろう相手に対して、搦め手を用い情報を引き出そうとする態度をとっている。
そんな事実は、なるほど、ランサーのいう通り、すなわち、ギルガメッシュという存在が、目の前にいるヘイムダルという男に対して、最大限の警戒を行なっているという事実を表しているに他ならない。
「知りたいか?」
そんなギルガメッシュの思惑を知ってか知らずかは、わからない。だがヘイムダルはギルガメッシュの挑発に応じるかのように、巨躯の背後から一メートルはあろうかという巨大な角笛を取り出すと、構えた。角笛はギルガメッシュが纏う黄金の鎧にも負けぬくらいに煌々と輝いている。吹き口から発音部分にかけて徐々に太くなる角笛の胴体にはいくつもの節が存在しており、節と節の間の部分にはシャーマンや動物らしき絵が古代の壁画風に刻まれていた。中でも最も特筆すべきなのは――
――角笛の吹口付近に刻まれているのは……ルーン文字かしら
――へ、見慣れた文言が刻まれてらぁ
――ここからじゃ全文見えない筈だけれど……わかるの、ランサー?
――勿論。昔、俺らの使っていた角笛には良く刻まれてた文言だからな。力を発揮されても困るからルーン文字をそのまま発音してやる事は出来ないが……、そうだな、別の言語に翻訳して言うなら、『EKHEIMDALLR、LOKIA、HORNA、TAWIDO』ってところだな
――アイスランド……、いえ、古ノルド語かしら? えっと現代ドイツ語に直すと、ich Heimdall Lokis feind das Horn machteになるわけだから、……『ロキの敵である自分、すなわち、ヘイムダルがこの角笛を作った』?
――大正解だ
「それはもちろん、この俺が作り出した宝具『終末に英雄を呼ぶ角笛/偽ギャラルホルン』で、だ」
凛がランサーの助力を得て角笛に刻まれたルーン文字の解読を済ませると同時に、凛の導き出した結論に対する答えを述べるかのようにヘイは手にした宝具の名を呼び、続けてそれの口噛み部分に唇を当てて角笛に息を吹き込んだ。
――ブゥゥゥゥゥゥゥ、ブォォォォォォォ
重厚かつ絢爛な見た目からは想像もつかない柔らかで軽やかな音色が、次々と角笛の口より飛び出してくる。弦楽器が奏でるそれにも似たヘイムダルの奏でる角笛の音は、大地を揺るがし、天を駆け抜けながら、凛の元へもやってきて、彼女の耳から体内へと飛び込んだ。
途端、その音色の心地よさに、凛は一瞬ばかり意識を持っていかれそうになる。角笛から響く音色は、まさに歴史に名を連ねる神が奏でるにふさわしい格調高さと蠱惑的なものだった。抗い難い魔性を持つその音色は、例えるならば、あらゆる人を強制的に魅了し従属させたと言われているセイレーンの歌声か、あるいはそんなセイレーンの歌に拮抗したと言われるオルフェウスの竪琴の音色といったところだろうか。
「っ……!」
ヘイムダルの角笛から生まれる音は風に乗って凛らの耳元へと馳せ参じ、耳孔より脳裏に侵入すると、鼓膜を揺らしては心酔させるメロディにて思考を蕩けさせてゆく。凛は、茫洋たる彼方へと消え去りそうになる意識を、歯を噛み締めて、無理やりこの場に押しとどめると、反射反応として両手で耳を防ぎ、その音色の誘惑に抵抗した。
――気をぬくと意識が剥奪される
終末の折、世界中にギャラルホルン/角笛の音を届ける役目を持つヘイムダルを自称するだけのことはある。凛はどこか他人事のように感心する。耳を塞いでいた凛は、音の影響にて魂が落伍してしまわぬよう、ぱっと耳から両の手を話すと、頬を強く叩き、痛みで音を中和すると改めて麗しき音色を奏でるヘイムダルの方へと視線を送る。
「……なっ」
すると目線を上げた凛は、視界に飛び込んできた光景を見て、息をのんだ。それはギャラルホルンと呼ばれた笛の効力なのだろう。ヘイムダルが笛を一吹きし、人心を掌握するかのような音色が周囲に響き渡るごとに、地面より冒険者にとっての一分隊である五人の集団が地面より現れ増殖する。単音ごとに一分隊ほども現れる彼らは、一小節ごとに約一個中隊もの数が出揃い、見る間に千の数を超える軍勢となってゆく。
――なんて
それだけでも驚くべき光景なのだが、それ以上に特筆すべきは、彼らのその醜悪な外見の有様だろう。彼らは見ただけで鼻をつんざく腐臭が想像できてしまいそうなくらい腐汁が滴る肉を骨身に纏っていた。
ビデオテープを巻き戻すかの様にゆっくりと再生してゆく彼らの体は、胴体や頭部、あるいは四肢の一部が欠損していたり、あるいは、毒か酸などの刺激物によってだろう皮膚が爛れており、また、あるものは肉がこそげ落ち、血管や神経、骨身が露わとなっている。赤殷の地面より生まれくる彼らのほとんどは、纏う衣服は破れ、血が染み込み、手に持った剣や銃身は壊れ、鎧は砕け、その身は腐乱した肉が骨身に張り付いているといった体裁をしていた。
――なんて……
彼らはどう控えめに見ても、人としての生涯を終えている連中だった。凛は蘇ってくる彼らの事情を知らない。凛は彼らが如何なる場所で生まれたのかを知らない。彼らが如何なる生涯を送り、そして如何なる原因によって死んだのかを知らない。しかし五体不満足の状態である身体やあちらこちらが破損しチグハグで不揃いな装備を身に纏っており、共通点がほとんどない彼らの頭部に付随する暗く濁った瞳を見た瞬間、凛は、自身の戦場や危険地区を渡り歩いてきたという経験から、如何なる人格であるかすら知らない彼らが如何なる場所にて死んでいった、おそらくいかなる感情を抱えて死んでいったのかを理解した。
――なんておぞましい目……
グズグズの体の上にボロボロの衣服装備を纏う彼らの瞳の奥にあるのは無念だった。怨念だった。未練だった。彼らはその身のうちに怒りの感情を抱えていた。それはかつて、旧人類と呼ばれる負の感情をぶつけ合い、争いを繰り返す人類がまだ生存していた頃、長きにわたり自らの伴侶とともに戦場を駆け抜けた凛ですらほとんど見たことのない、陰気の極にある凶吝の瞳だった。
――でも
それは唐突に死の運命を与えられた人間が浮かべる瞳だった。彼らの体に残る傷の付いた跡の方向やその深さから察するに彼らはおそらく、死ぬ覚悟もしていなかったにも関わらず突如として致命傷を負い、予想だにしなかった死を得てしまったのだ。死は如何なる生物をも呑み込む奈落であり、生の果てだ。生を望みながら叶わなかった死の淵に追いやられた者の心の裡より出でる負の情念は、深く、限りない。淵の向こう側に存在する死という無明の闇を覗き込んで恐れを抱かない人間など、それこそ、相当の狂人か、相応の覚悟と強靭な精神をもつ、すなわち正常から大きく外れた人間くらいのものだろう。
――なんで……
なるほど、ならばその様な瞳を浮かべるというのも納得がいく。おそらく彼らは元々普通の人間だったが、唐突に死を与えられた人間なのだ。死が目前に迫った時、死への恐怖が狂気となり、かつて他人を救う為に尽力した善人が、あらゆる他人の犠牲を容認してでも自身の生存を望むようになった事例を、凛は何例も知っている。
自らの妹である桜が、死のもたらす恐怖に囚われ狂った魔術師の老人の妄執の犠牲となり、身体を聖杯もどきに改造されてしまった挙句に死んでしまったのだってその一例だ。
――なんで……
死は厭い。死は苦しい。死は疎ましい。死は恐ろしい。死に怯えるのは正しく、死を目前にした時、人が負に属するさまざまな感情を抱いてしまうのは当然の反応だ。普通の人間に対して理不尽にやってきた死を受け入れられるような狂気にも等しい精神性を求めるというのは酷である言うことを、凛は嫌という程に理解している。
――どうして……
けれど、ただ一つ。彼らがどうしてそのような瞳を浮かべているのか過去を推測し、事態を理解する事のできる凛にとっても、ただ一つだけ、理解できぬことがあった。それは。
――そんな愛憎入り混じった目を私たちに向けるの?
なぜそうした突然の死によって引き起こされたはずの負の感情の矛先が、彼らの死の原因と無関係であるはずの自分たちに向けられているのか。なぜそうした負の感情に満ちた視線を向けておきながら、その瞳のうちには、それ以外の羨望の感情も宿っているかのように見えるのか。なぜ彼らが無関係なはずの自分たちに対してそのような憎悪と羨望とが入り混じったような目を向けるのか。凛にはそれがまるで理解できなかった。
「本来ならこのギャラルホルンという笛は、オーディンに選ばれた強者であるエインヘリヤルをヴァルハラである月よりヴィーグリーズの地に招く、転送機能しか持たない移動用の宝具だ。しかし、俺が自らの手で諸王の聖杯をベースにいくつかの材料を用いて作り出したこの偽ギャラルホルン/角笛は、俺のような、生涯においてオーディンに選ばれるような成果を出すことのできず、さまざまな無念を残して死んでいった俺のような人間の魂をこの場所へと呼び寄せ、体を与える力を持つに至った」
角笛から口を放したヘイムダルは言う。凛は今や言葉一つ発しない死兵の影に隠れた彼の表情を見てやる事は不可能となっていたが、人垣の向こう側から聞こえてくる淡々とした口調の中には、多分に苦渋の念が込められていると感じた。
「なるほど。諸王の聖杯は才あるものにしか用いることが出来ない魔術兵装。故にいくつかの触媒を用いてその性質を劣化変質させ、凡人たる己であっても使用可能な様に作り変えたのか……」
ヘイムダルの独白はギルガメッシュの関心を誘ったらしく、黄金の華美な鎧を纏う英雄は端正な顔を愉快一色に染めあげると、如何にも相手を見下す冷たい視線を群勢の向こう側にいるのだろうヘイムダルがいる方角へと向けた。
「なるほど、そうして創り出した生涯の時間の多くを無為に浪費し、結果、大した成果を出すこともできずに死んでいった矮小で愚かな雑種どもを操り、その力を頼り、我を殺し、世界を我が物にしようというわけか……」
その言葉尻は小さくなってゆく。
「ふん! その執念だけは褒めてやろう……。だが、――――醜いな」
そして突如として鼻息を荒げたギルガメッシュは、遠慮なく言葉の刃を死兵の群勢の向こう側にいるヘイムダルに投げつけた。
「宝具を用いて生み出した有象無象の陰に隠れ、そうして他人の力を当てにして誰かが問題を解決してくれる事を願い、自分は蚊帳の外の安全な場所から成果だけを掠め取ろうとする。――――は、これを醜悪と言わずして何をそうと言う。そんな性根腐った女神/イシュタルのような性格の持ち主だからこそ、貴様は何もなし得ることが出来なかったのだ。いやはやそういった意味では、生涯の大半以上を無駄に過ごし、結果として世に蔓延る有象無象の雑種の一つの中に落ち着く程度の成果しか得られず、しかしながらその結果が人生を不毛な所業に費やした愚かさをそうであると認めることすら出来ず、世界にしがみついて呪いを撒き散らす奴らを冥府より呼び出すその宝具は、まさに神などという存在に救いを求め縋った貴様にお似合いの、悍ましく浅ましい宝具よな」
「……」
ギルガメッシュの挑発に、ヘイムダルは何も答えない。人並みの僅かばかりの隙間から見えるヘイムダルの顔には、怒りの色はなく、悲しみの色もなかった。沈黙の態度を以ってして、ギルガメッシュの挑発への返答とするヘイムダルの顔に浮かぶのは、諦観と納得の色ばかり。
「貴様らのような矮小かつ意志脆弱たる半端な雑種がいくら集まろうと、英雄王たる我を筆頭とした英雄らに敵う道理などない。英雄とはそう言った有象無象の愚者どもを寄せつけぬ比類なき強さと才覚と胆力を保有しているからこその称号……。なれば貴様ら凡百どもが如何に足掻こうが、我に刃を届かせる事のできる道理など万が一にもあり得ぬわ」
人波の向こう側、気を抜けば見失ってしまいそうな消沈した雰囲気を持つ彼の沈黙は、ギルガメッシュの言を肯定する態度に等しかった。凛はヘイムダルの発言と今しがたの彼が見せるその態度から、ヘイムダルがギルガメッシュの言った内容を覆すことの出来ない真実として認めているのだという事を悟り、彼を憐れんだ。ギルガメッシュの言が事実であるのであれば、それはあまりに救いがない。
ギルガメッシュの周囲の空間が歪み、王の財宝/ゲート・オブ・バビロンが開かれた。煌びやかな宝具が次々と姿を現す。現れた武器の数はざっと数千を越しており、そこには旧人類が伝承に生み出してきた宝具ばかりではなく、新人類がその歴史の中で作り上げてきた武器も含まれていた。ライドウとゴウトが、現れた宝具に秘められている力を見抜いたのだろう、目を見張る。
「さて、では処刑の時間だ、愚者どもよ。我が手にかかり直々に死ねる事を喜ぶが――」
「――……だ」
やがて沈黙を保っていたヘイムダルは、ギルガメッシュの言葉を遮ると、ほとんど掠れて聞こえない言葉を漏らすと同時にその手に持った巨大な笛を強く握りしめた。途端、死と腐臭を纏っていた冒険者たちの体を白い光が包み込む。光はすぐさま彼らの体内へと侵入を果たし、彼らの欠損や防具の破損を修理修復してゆく。凛はその白の光に見覚えがあった。
光は、回復スキルと呼ばれる擬似魔術がもたらすものだった。白き光が死臭と腐肉に塗れた彼らと接触した途端、彼らを死に至らしめた傷はみるみると失せてゆき、彼らの肉体と装備は十全なものへと戻ってゆく。しかし欠損した肉体が回復し、元の生気に満ちた色を取り戻してゆくのとは裏腹に、彼らの眼球の中にある憎悪と恐怖が混濁して合成されたかのような、希望の光が灯らない仄暗い瞳の色は変わらなかった。
「……む?」
「そうだ。その通りだ。そうとも。俺らは雑種だ。俺は所詮半端な人間で、ただ漫然と生涯を浪費してばかりの人間だった。俺らは選ばれた血筋や世界に選ばれるほどの才能も、運も、根性も、人脈も持ち合わせておらず、そしてそんな力の差を覆すだけの努力を行えなかったが故に、大した功をあげることもできずに死んでいった、歴史を振り返れば幾らでも存在する、所詮は世界に選ばれなかった落伍者の集団だ」
死者と生者の数が入れ替わり、通常の人間と変わらぬ様相の集団が凛の視界一面を覆い尽くす程に増えてゆく。ギルガメッシュが向ける疑念と侮蔑の視線にまっすぐと見つめ返す視線を返しながら、ヘイムダルは淡々と己を乏す内容の言葉を語り出す。
「これが逆恨みだという事は知っている。みっともないという事は承知の上だ。的外れな嫉妬だという事も十分理解している」
語るヘイムダルの態度は一見飄々としており、それだけならば平静に見えないこともない。
「でもダメなんだ。お前らが迷宮の魔物や番人や、三竜や、それ以上の化け物の姿をしたやつ違う姿をしていたというのなら、まだ耐えられた。生息域が違うのなら、姿形がまるで違うのなら、種族として完全に違う存在であると言うのなら、俺たちは平気だったんだ。でも、同じ場所で暮らして、同じような姿をして、同じような声で喋るお前らはダメだ。耐えられない。お前らの存在は、同じ姿をした何者にもなれなかった俺らの生涯をあまりに惨めなものにする。このままじゃ、他の世界に生まれ変わったとしても、俺たちはこの惨めさを抱えたまま過ごさなきゃならない。――――、自らと同じ姿をした、しかし自らと隔絶した力や才能を持つ存在がすぐ隣にいて、目眩むような活躍をしている。俺らはそんなお前らの才能が通常と隔絶しているという事を比較するための材料として、平凡の道を平然と生きてゆけるほど強くはないんだ」
だが凛が強化を施した眼球でヘイムダルの様子をよくよく観察してやれば、彼の大角笛を握る手が細かく震えている事に気が付ける。凛はヘイムダルの内心が徐々に穏やかでない状態になりつつあることを察した。同時に、彼らがなぜあのような憎悪に満ちた視線を自分たちへと向けるのかを理解した。
「そうだ。俺たちは弱い」
きっと彼らは、生涯において自身の存在がまるで羽虫のように思えてしまうような強大な力を持つ才人と出会い、自分では絶対に届かない領域というものが存在する事を知ってしまったのだ。どれだけ手を伸ばそうが、自分程度では届かない領域がある。彼らはそれでも諦めきれず、手を伸ばして、努力を重ね、自分より強い憧れた存在になろう、望みを叶えやろうと克己し、そして――、しかし願い叶わず、果ててしまった。
「俺たちはかつて他の人間よりも少しばかり才能があったが故に、一流になりたいと、有名になりたいと、金持ちになりたいと、歴史に名を残すような人物になりたいと、俗ながらも大きな願いを抱えていた人間だった」
凛にはその感情がよく理解できた。彼らの抱えるそれは、かつて凛自身がアーチャーを救いたいと心底願い、しかし救済のための手段を思いつくこともできずに懊悩していた頃感じていたものと同種の、絶望。
「願いというものは、叶えようとするものが自身にとって大きければ大きいほど、その苦悩や苦労も大きなものとなる。自身にとって大きすぎる目標であればあるほど、苦悩を取り除くためには、長く真剣に取り組む必要があるし、出来ないことを出来るようにする為には相応の辛苦に耐えて、耐えて、耐えて、そして継続して努力する必要がある。――でも半端な俺たちにはそれが出来なかった」
凛はほとんど完璧とも言える生涯において、アーチャーという凛にとっての恩人を助けられなかったことだけが心残りだった。他の成し遂げてきた成果が完璧すぎたせいで、その失敗は凛の生涯において最も大きな汚点となり、凛を最も苦しめる存在へとなってゆき――
、やがて凛は、その苦しみから逃れるために、アーチャーを救おうと決心した。
脳裏へと焼きつき忘れ得ぬ思い出がある。聖杯戦争が終わったあの日、アーチャーの力を借りて聖杯の泥から抜け出したあの時、朝焼けの中で彼が浮かべたさっぱりとした表情を覚えている。誰よりも他人のために尽くし、しかし誰よりも他人から裏切られ、だからこそ誰よりも他人を憎む権利を持っているはずなのに、けれどもそんな権利を行使することなく、ただ笑いながら朝焼けの中に消えていった、正義の味方を馬鹿にするくせに正義漢で、冷酷冷静を嘯くくせに他人に甘く子供っぽいところがある彼のことを、凛は一時たりとも忘れたことがない。
凛はアーチャーの記憶を見た。正義の味方を目指して、平和を望んで、しかし、戦争によって生まれる犠牲を可能な限り少なくするために、他人に犠牲を強いる生き方しかできなかった、そんな血塗られた歩みを、見てしまった。長きに渡る地獄を邁進するさなか、己の信念を裏切り、僅かにばかり残っていた人らしい感情を磨耗させ、ただ決めたことを成すためだけの機械に変化してゆく彼の姿を、嫌という程目に焼き付けてしまった。
そんなアーチャーが永劫続く地獄のさなかに手に入れた正義の味方に変わる願いを、希望を、凜と凜の伴侶は、自らの願いのために否定した。アーチャーが地獄の中で見つけた自傷行為の果てにある自死に救いを求めるというその願いは、誰がどう見ても歪んでいた。
自己否定の極みにあるその願いは間違いなく歪んでいるものだった。その願いは間違いなく歪んでいたが――、それでもそれは、その時のアーチャーにとって、永劫という檻の中から彼を救い出せる唯一の可能性だったのは確かだった。
凛たちは、そんなアーチャーの真摯な願いを、凛たちの願いのために否定した。正義の味方、誰をも救える正義の味方などというものを目指すと標榜豪語する凛の伴侶と、それを支えると決めた凛は、その実、救いを求めた誰かを切り捨てる事からスタートしていた。
その事実が、凛と凛の伴侶である衛宮士郎に罪悪感を植え付け、それから逃げるようにして彼らは強くなった。その矛盾が、その身を捨ててでもアーチャーを抑止の輪からひっぺがし、未来の世界に彼を転生させるという、世界に敷かれた道理を蹴り飛ばし無理無茶無謀を貫き通すような奇跡を起こさせた。
凛が自らの生涯を誰に対しても胸を張って誇れるものにすることができたのは、自らの力を大きく超えている願いを叶えることができたのは、そんな毎日毎晩、凛自身を苛む苦しみがあったからこそといえるだろう。
そう。精神的負荷は人を成長させ、願いを叶えるための力となる。凛はそんな痛苦と試練に耐えきる才覚と自助努力があったからこそ、自らの無謀とも呼べるだけの願い叶える事を可能としたのだ。
――でも
「そうだ。俺たちの悩みなんてものは、スキルや道具といった過去から受けがれてきたモノによって、大概が解決してしまう。解決しない悩みなんてものはほとんど存在しない。いや、例え死ぬほど辛い目にあったとしても、大抵次の日には不思議と心から消失してしまうから、辛さという行動の糧となる心の燃料がない。俺たちは、執念というものを持てなかったんだ。だから俺たちは、苦しいことに耐えた果てにある栄光の未来よりも、今目の前にある刹那的な快楽を優先して行動をおこしてしまう。故にいつまでたっても本当に叶えたい願いを叶えることは出来なかった」
しかし、彼らの場合はそれが出来なかった。凛の世界に巣食っていたクラリオンという魔物は彼らの負の感情という精神的負荷となるものを片っ端から吸収してしまうため、どんな負の感情を抱こうと、例えば今彼が語っているような悲嘆であったとしても、次の日には消えてしまう。
結果、彼らは日々の生活の中でほとんど悩みなんてものを持たずに滔々と生きる事ができてきた。けれど、彼らはそんな精神的ストレスの要因となる感情を吸収する存在に寄りかかり続けてしまってきたせいで、強さを得る機会を、弱さを克服して一流に近づく機会を損失し続けてしまった。
また、旧人類が彼らのことを思って仕掛けた、新人類と呼ばれる彼らが世界樹の大地の上で電気の文明を発展させることが出来なくなるようにする陣。すなわち、思考誘導陣や、過酷な世界でも生きてゆけるようにと旧人類が作り上げた、スキルという努力なしに技術の均一化と維持を保証する技術もまた、彼らをそのような怠惰の方向へと傾きやすい生物にしてしまった一因として影響しているのだろう。
新人類たる彼らは、負の感情の消失と思考誘導とスキルという三重の仕掛けによって、徹底的に発展を阻害され続けてきた。仕組まれた罠をかいくぐって己の抱いた願いを完全に叶えることができるのは、抱いた願いの方面に対しての余程合致した才能のあるものか、折れぬ克己心というものを持ちえて生まれてきた才人。あるいは、大望など抱かずに日々の小さな生活に充実と満足を得ている人間くらいなもの。
それ以外の人間、すなわち彼ら自身が言う通り、半端に才能があったが故に大望を抱いてしまった彼らは、抱える願いを達成することは絶対に叶わない。自身にとって大言壮語たる空想がごとき分不相応な夢を目指したものは無念を残して死んでいくこととなる。月にやがて己が巨人となる幻想を見た愚者は、かつて万人にとっての正義の味方などという絵空事を目指したアーチャーのように、必ず不幸な結末を得る。自らの愚かさが、自らの身を滅ぼす要因となるのは、世の常というものだろう。
「やがて俺らは死が近づきそれを意識するようになった時、全ての死に瀕した生物がやるように、死の運命を覆すためこれまでの生涯を振り返った。――そして絶望した。俺たちは結局、俺たちの願いを叶えられていない。しかもそうして俺たちが願いを叶える事が出来なかったのは、俺たち自身がお前のいう通り無意味に時間を浪費してしまったが故なんだ。誰も恨む事ができない。否、そこのギルガメッシュという英雄だ言うように、快楽に押し流されて日々を過ごしていた自分以外に、恨む対象なんていないかったんだ」
この世界に住む多くのものはそんな当たり前の真理を理解しているし、彼らも当然そんなことは承知の上だったはずだ。けれどそんな彼らでも、やはり自分の愚かさを見つめながら死に行くという、絶望の上に絶望を積み重ねるが如き行為は、願いを叶えられなかったという絶望を得てしまった彼らにとって、死に勝る耐え難い苦痛となったのだろう。
「醜いものを直視した後に美しいものを思い出して中和したくなるのは、生物の本能なんだろう。やがて醜悪な自分自身を見つめ直すことに耐えられなくなった俺らは、俺に大望を抱かせる発端となった、俺らにとって強い光を放つ憧れの人物の事を強く思うようになった。死の間際に自らの脳裏へと浮かんだ彼ら強者の姿は、死が生み出す恐怖と、魂が抜け落ちる直前に生まれた羨望や絶望と結びつき、やがて総じて強者への負の感情へと変換された」
だから彼らはそんな絶望を祓ってくれるほどに眩く輝く希望を求め、そしてかつて自らが憧れた存在を想起した。しかして想起した彼らがかつて憧れたはずの理想は、今の彼らからすれば汚泥にまみれたような自身たちと比較した時、あまりにも輝かしすぎて、彼らはそれが耐えられなくなった。
「お門違いだという事は自覚している。正しいか間違っているかで言えば、疑いようもなく間違っている行為だろう。けれど俺たちはもう止まれない。世界に対して何も残せなかったが故に死んでも死に切れず無念の色に染まった魂を世界に残したこいつたちは、こんな自分でも必要と言ってくれた守護者の為にも――、俺はもう引くことが出来ねぇんだ」
彼らには出来て、なぜ自分にできなかったのか。自分に彼らほど才能がないのがいけなかったのか、運がないのがいけなかったのか。そんな未来永劫答えの出ない問題を前に、彼らの魂は死んでも死に切れず、怨念という形で大地にへばりついていた。彼らはかつて輝かしいものに憧れていたからこそ、今、そんな富と栄光を持ちうる目の前の英雄を憎しまずにいられない。それはなんという皮肉な運命なのだろうか。愛憎半ばする様を全身で体現するように彼らの姿は、まさに亡霊と呼ぶに相応しく――
「俺たちはもう止まれない。お前が英雄として極まった存在で、お前の周りにいる英雄たちが極限にまで鍛え上げた術理や武装で俺たちの夢を押し潰そうというのなら、矮小半端で脆弱な俺たちはお前らという強大な個の群の全てを飲みこめるだけの数を用意して、お前たちという強者に打ち勝ち、自らの道を切り開こう」
やがて瞳の中に入り混じっていた羨望の色を完全に憎悪のそれのみで塗りつぶした彼らは、各々の武器を抜いて構えを取た。彼らの一斉の動作に、ヴィーグリーズの大地が嵐の予兆を恐れるかのようにずしりと揺れる。亡霊たちの薄ら暗い念に応じるかのように、ヘイムダルの後ろに存在する軍艦の砲が稼働し、その砲口が一斉に凛らのギルガメッシュの方へと向けられた。凛は周囲の空気が一気に冷え込んだ感覚を覚える。同時に、百千を超える数の剣や銃口を向けられたという以外の事情によって、久方ぶりにやってきた死の予感に、背筋がこれ以上ないくらいに冷たくなる思いをした。
だが百千を超える殺意の視線を向けられた当の本人であるギルガメッシュは、自らへと殺到するそれらの視線をまるで気にすることなく腕を組んだ視線を崩さないまま、ヘイムダルの方へと視線を送り返していた。おそらく、暴君として有名だった王であり、天上天下唯我独尊を押し貫く傲慢さを気質として備える彼にとって、そのように多くの人間から畏怖や憎しみの感情を向けられているのは慣れているのだろう。有象無象の感情の機敏などいちいち気にしていられないというような思惑が彼の態度からは見てとれる。
「つけあがるなよ、雑種。いかなる力を持とうが、所詮貴様らは塵芥。借りた翼で飛ぶには能わず、地に這う蛆虫のさざめきが、天の果てで輝く綺羅星たる英雄王の懐に届くなどという事はありえん」
冷たく言い放つギルガメッシュの言葉には常の彼には似合わないほどの熱量が含まれており、凛は全身を震え上がらせた。ギルガメッシュという英霊はプライドが高く、それ故に他者からの挑発に対して非常に過敏に反応する精神の沸点の非常に低い英霊だ。そんな彼が見下している相手からその様な挑発の言葉を投げかけられた場合、その後ギルガメッシュがどんな反応をして見せるのかは、火を見るより明らかだった。
イシュタルと同一化している凛が最も恐れたのは、ギルガメッシュが一も二もなく我を忘れて全力を発揮して戦いだすという事態だった。女神イシュタルの転生体として生まれ変わった凛の頭の中にはイシュタルの記憶が存在しており、記憶は、ギルガメッシュという半神半人の英霊が周囲に対しての遠慮をしない状態で力を完全解放した場合、こんな100k㎢程度の大きさしかない大地を瞬時に吹き飛ばしてしまうのは容易い事だと告げているのだ。
――頼むから暴走だけはしないで頂戴……
「だが――――、なるほど。今の時代に珍しい、燃え滾るその野心。そして足りぬのならば迷わず別の場所から補おうとする行動力。は、その、自らの身を焦がし尽くしてもなお消えぬ天も地までも燃やし尽くさんとする激情と強欲が、星の目に叶ったというわけか」
だがそんな凛の懸念を他所に、誰を対象にしたわけでもない、強いていうならば天に向けての行った必死の祈りが通じたわけではあるまいが、静かにヘイムダルの語りを聞いていたギルガメッシュは、突きつけられた言葉と砲口、そして圧力に対して、あきれた様子の、しかし過少ならず喜びの色をも含んだ不思議な視線をヘイムダルらへと送る。
「如何に他人のためを唄おうと、その平然を装う仮面の下には、グツグツと煮えたぎる野心がある。それも世界の中心かつ最強たる我を下し、我が財を奪おうとする強欲が、貴様の裡には存在している。――――、なるほど、欲こそは全ての原動力。どうせ狙うならば頂点を狙いたいという雄の本能に従う野生といい、貴様のその愚かしいまでのひりつく渇きを癒そうとする強欲は、いやはや、たしかにまったくもって悪くない」
ギルガメッシュは、さらに彼らに激励するかのような言葉を紡ぎ出した。ギルガメッシュの見せたあまりに予想外な口調と態度に、凛は、はしたなくも目をひんむくほどに驚く。口ぶりには彼が最初の頃ヘイムダルへと向けていた怒りや侮蔑といった負の成分は含まれておらず、むしろ、歓喜や歓迎の意が多分に含まれていた。
「――――気が変わった」
ギルガメッシュは腕を振り上げる。途端、彼の周囲の空間が歪み、彼の周囲を取り囲んでいた武器が全て消え失せる。
「子はいつか親の袂より離れるもの」
続けてギルガメッシュが軽く腕を横に振ると、彼の真横から上に広い空間が先ほど火星の大地や空間が現れた時に勝るとも劣らないほども大きく歪み、歪んだ空間の先端からは鋭い金属の塊が現れた。
「遠く遡れば我が子孫に辿り着く貴様らが、我の治める星を飛び出し、遥かなる星の海へと旅立つ一歩を踏み出すというのであれば、子らがそれを実現できるかどうかをはかるは、祖たる我の定め」
徐々にあらわにする金属の先端は、やがて時間の経過とともに、船の帆先の衝角である事が理解できるようになる。ギルガメッシュの横に現れたそれは、屋根を持ち、船の先端から中心にかけて煉瓦造りの街並が並ぶ、巨大な飛行船である事が判明した。
「だが、大人が子供に本気で力を振るう事ほどみっともないことはない。ましてや我は、我であるが故に貴様らとは隔絶した力を持つ超的な存在。本気を出せば貴様らなど塵芥に等しい存在である。故に……、まずは貴様らに我と同じ場所に立つ資格があるかを試させてもらう。試金石は――――、貴様らと同じ地平に立ち、しかし貴様らよりも先にいる存在である此奴らの方が相応しかろう」
やがてエンジン音を轟かせながら空中に浮かぶ全長二、三キロメートルはあろうかという巨大な飛行船の全貌が完全に現れたのを見計らって、ギルガメッシュは再び腕を振るった。途端、先ほどと同じように王の財宝/ゲート・オブ・バビロンが開き、その内からはドサドサと見覚えのある格好の人間――月より召喚された冒険者たちが落ちてくる。ギルガメッシュの周囲から前方には千にも達するほどの冒険者たちがそこには呼び出されていた。
「な、なんだぁ! 何が起きたんだ!」
「いきなり地軸の光みたいなので呼び出されて……、って、なんですか、この景色! 飛行船からどこに私たちは……、ってなんだこの大軍は!」
「随分と殺気立っているわね……。まともな話し合いで住む雰囲気じゃないわ」
「ヴィーグリーズの地にやってきた半神半人の神たる我が、船より死者の軍団を召喚した。――――、我にロキの役割を望む貴様らにとって思い通りの展開だろう?」
ギルガメッシュは突如として呼び出されしどろもどろの冒険者たちを完全に無視すると、呼び出した彼らの間を通ってスタスタと歩いてゆく。迷いない歩みを見てほとんど全ての冒険者たちが彼に注目し、また、少なくなく存在する勘の鋭い冒険者たちは彼こそが自分たちをこの地に招いた張本人である事を悟っていたが、そんな自らをこの地に招いた彼に質問を飛ばし、その歩みを止めようとするものは誰一人としていなかった。
我の邪魔をしてはならない。そう告げるかのような迫力をギルガメッシュは纏っていた。
「我より劣るこやつらに限っていうのであれば、その力は無限でなく、貴様らよりも多少先んじた場所にいる連中でしかない。なれば、貴様ら程度であっても死力と知力を尽くせば勝ちの目が見えてくるやもしれぬぞ?」
やがて自らが呼び出した彼らの後ろへと完全に引っ込んだギルガメッシュは、振り向くと、壇上にて指揮者がやるように大業に手を広げると、眼前にてざわつきかけた全ての存在に視線を送った後、さけんだ。一転して再び静寂が辺りを支配する。
「さぁ、ヘイムダルを名乗る偽りの英雄よ! 自らの願いを叶えたいと欲するのであれば、まずは我の指揮する我の召喚した軍団を悉く打ち破り、自らの力を証明し、我の身元に馳せ参じてみよ! 我が名はギルガメッシュ! 旧人類最古の英雄王にして、新人類最新最後の守護者なり! 我が職業はプリンスとショーグンのスキルを併せ持つ、指揮特化特別職たるキング! 我を愉しませたのなれば、我も貴様の望む通り、貴様の望む役を演じてやらんでもない!」
ギルガメッシュは誰もが注目する最中、詩を吟じるかのような大声で宣戦布告を行う。
「ふ、ふふ。ふふふふふふ……」
静寂を切り裂いたのは、遠く、ギルガメッシュがいる場所とは真反対の場所、火星の大地がある方から聞こえてくる低き笑い声だった。
「――――やれ!」
ギルガメッシュの宣告に応じて、ヘイムダルが自らの作り上げた軍団へと指示を飛ばす。指揮官の攻撃命令により、敵軍のあちらこちらから檄が上がり、ヘイムダルの前で構えていた冒険者たちが次々に各々の武器を片手に陣形を整え、突撃を開始した。
「し、師匠、どうしますか!?」
「どうするもこうするもない! 見ず知らずのやつらに一方的にやられてやる義理はない! ここはひとつ、やられる前にやってしまおう!」
「短絡的ね。でも、今ばかりはその馬鹿みたいな意見に賛成しておこうかしら」
ギルガメッシュに状況把握もままならないまま呼び出された冒険者たちは、突然の展開に混乱しながらも、あるいは不本意ながらも、訳も分からずにやられてやることは出来ないと言わんばかりに、戦いに応じて各々の獲物を抜く。そして終末の土地はオーディンの嵐が吹き荒れる場所へと変貌する。世界の行く末を決める戦の幕が開けた。
第5話終了