Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
Fate Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜
第七話 巣立ち
戦争があった。他の何を犠牲にしても叶えたい己の願望を実現するため、万能の願望器『聖杯』を巡って七人の魔術師と七騎の英霊と呼ばれる存在によって行われる戦争。かつて僕は、『世界平和』という、我が身と、僕がもてる全てを投げ出してでも叶えたいと思う正義と信念の願いのためにその戦争に身を投じ、結果、万能の願望器『聖杯』は、参加した魔術師、英霊の誰の願いをも叶える事なく、この世に降臨する直前、英雄に破壊されて、散った。
終わらせたのは騎士王による一撃であり、終わらせる命令を出したのは僕だ。なぜなら万能の願望器であり、所有者の願いを寸分違いなく叶えてくれるはずの聖杯は、この世の全ての悪という呪いに染まり、所有者の願いを『可能な限り甚大な被害が生まれる』よう解釈し叶えるという、悪質なおもちゃ箱へと変質していたからだ。
願いを叶える代価として、多くの無関係な人の命を求める。そのような悪魔の契約よりもさらに劣悪な不等価すぎる交換を強いる玩具を、この世に残していてはいけないと思った。だから破壊した。たとえ聖杯がそんな悪質なモノであったとしても、それが所有者の願望を叶えるという機能を保有しているかぎり、それを求める人間は少なからず現れるだろう。
人間。この不完全すぎる生き物。正義を語り、平和を望み、その実、望むのは己の幸福のみという、このどこまでも醜悪な極まりない生き物が、他者を踏み台にする程度で己のあらゆる願いを叶えてくれるというこの悪質な願望器を求めずにいられない訳がない。
だから破壊した。この世の悪意を満載した杯は、正義と見紛うほどに眩い聖剣の一撃のもと、砕けて散る。我が生涯と己が培ってきた全てを賭け金と差し出し、己の妻や子をも犠牲にしてまで望んだ願望器を我が手で破壊する羽目になった時、同時に僕の心と矜持は、完全に砕けて壊れていた。
もはやこの世に希望はなく、望むべきものもない。空想を叶える手段は自らの手で破棄してしまった。おそらくこれ以上に優れた手段を手にする機会はもうないだろうことも理解していた。その程度の事を瞬時に理解できるくらいには、この世の地獄を見てきたつもりだった。地獄という地獄は見てきた。この程度の地獄ならば、それこそ飽きる程に世界に満ち溢れている。けれど、それでもなるほど、この程度の地獄であっても、人は完全に希望を失ってしまえば、人の心は容易く折れてしまうのだという事を、この時初めて知った。
だから死のうと思った。
自らと、自らと同じ位の外道共の手によって生まれてしまった、悪意の汚泥によって生まれた地獄の業火巻き上がる煉獄の中、せめてこの地獄を生み出す原因となった三千世界の呪いが凝縮された汚泥を多く抱えて死にゆけば、目指した世界平和に過少でも近づくのではと、怨念と醜悪さだけが支配する蠱毒の壺の中に、贖罪を求めて自ら脚を踏み入れた。
踏み入れた先にあったのは、予想通りの果てのなき地獄だった。溜め込まれてきた人の悪意によって生まれた太古の昔より人の命を奪ってきた焔が、赤く紅く天に地に舞い踊り、僕の愚かと無力を笑うかのように、全てを赤く染め上げる。
踏み入れた地獄において、一瞬のうちに死を与えられた人物は、幸福に違いなかった。地獄を彷徨った挙句、呼吸困難により死に絶えたのだろう、喉を抑えて朽ちかけている人がいた。焼けた子の体を抱えながら、共に焼かれる事を選択する父母がいた。頭蓋が砕け、皮膚が爛れ落ち、肺腑が焼け、臓物が腑より溢れ落ちてもなおも生き延びようと足掻く死に体の人がいた。地獄の中、癒しようもない苦痛をかけながら生き続けなければならない苦痛は、地獄という地獄を踏破し続けてきた僕が、一番よく知っている。
だからこのような地獄を生み出してしまった僕にとって、少しでも彼らの苦痛を減らしてやるのは、彼らに対する義務だと思った。僕は僕に出来る最後の役目を果たすべく、自らが手にしていた銃を取り、彼らを苦痛から解き放つ。
銃弾が心臓を、脳を砕く度、癒せぬ苦痛がこの世から消えて失せ、不幸の総量が少なくなる。彼らを殺したところで誰かが救われるわけではない。それでも僕は、僕と彼らのために、ただ無心に銃弾を撃ち込んで回る。死を撒き散らして彼らの命を簒奪するだけの僕は、目指した正義の味方などではなく間違いなく悪人であったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、作業の果て、誰もが死に絶えた地獄において、泥に汚染された自らの体に弾を撃ち込み、世界を少しでも綺麗にするその瞬間を待ち望むことだけが、その時の僕にとっての唯一の望みと成り果てていたのだから。
*
「――」
その時だ。自らが生み出した地獄の中より、僅かながらも命の気配を感じたのは。それは死に瀕した自分が耳にした錯覚かとも思った。だってこのような魂さえも焦がし尽くしてしまうような熱気に満ちた場所で、特別な力のない一般の人間が生き残れるはずもない。
――……………………………………………………て
しかし、違った。それは確かに現実のものだった。この燃え盛る炎と、焼け落ちた建物の残骸と、炭化した死体ばかりが転がるその地獄において、響く死の音色の中をかき分けてまだ瑞々しさ残る呼吸の音が聞こえてきたのは、もはや奇跡に違いなかった。
――……す、…………………け、……………………………て
走った。銃なんか投げ捨てて必死で走った。音は炎の中心より風に乗って聞こえてきたものだった。煉獄は中心に近づくほど轟々と燃え盛る炎の勢いと、死を内包した汚泥の濃度は濃いものとなってゆく。何処かより聞こえてきた声の主人を求めて歩き回るほどに、炎の熱気は皮膚と肺の中を焼き、死の汚泥が体に蓄積されてゆく。一秒ごとに僕の寿命は通常の数十倍もの速度で削り取られてゆく。けれど、関係なかった。聞こえてきた命の尊さに比べれば、僕程度の汚れた命を消費することに何のためらいを持てるというのだろう。
瓦礫をどかし、必死で叫んだ。熱と呪いに侵されるのも構わずに、ただただ、目の前に積み上げられた僕の罪の証を掘り返した。痛みなんて感じなかった。あるのは必死さだけだった。僕は多分、その時、これまでの人生において最も幸福だった。最も、目指した正義の味方らしかった。そして。
「――あ……」
やがて永遠のようにも思える時間の果て、崩れ落ちたコンクリートが偶然作ったのだろう炎と呪いを避けるようにして作り上げられた空間に、僕はその存在を見つけた。
「――ああ……」
震えが止まらなかった。地獄の中で幾人を殺そうと一切揺らぐ事のなかった心が、感動に打ち震えていた。
――人が、生きている……!
少年が生きている。この僕と、僕と同類のひとでなしが作り上げてしまった、老若男女の区別なく誰もが死に絶えゆく事を定めづけられた炎と呪いが渦巻く地獄の中で、ただ一人、この小さな少年だけが、五体満足の状態で五体満足の状態で地面に倒れ伏している。全身が喜びに打ち震えた。その喜びをなんという言葉で表せば良いのかわからない。
「――ああ……っ!」
幸福がそこにあった。地獄という地獄を踏破したはずの僕の幸福が、こんなところにあった。くしゃりと顔が歪んで、涙がこぼれた。こんな地獄の中で気丈にも命を保っていてくれた少年の強さに、ひたすら感謝を送った。ススだらけの頬も、焼け焦げた服も、傷だらけの手足も、その全てが愛おしかった。喜びに突き動かされるがままに少年へと手を伸ばした。僕を見る少年の瞳は救いを求めていた。こんな地獄を作り出した一因が僕にあると知らないだろう彼は、ただ愚直なまでに、目の前に現れた生存者に対して、救いを求める目を向けていた。その瞳は、僕のことをこの地獄から掬い上げてくれる正義の味方であるかのように見つめていた。
この子は僕を求めていた。戦場を巡って、人を殺して回って、魔術師殺しと呼ばれるようにまでなって、今こうしてこんな罪を重ねて、彼から全てを奪い尽くして、汚れきっている僕を、ただ純粋に希望に満ちた瞳で見上げていた。この子は僕を必要としている。それが何より嬉しく、僕の心を揺さぶった。
だからこの時、僕は決心した。
――僕はこの子にとっての正義の味方になる
僕はこの時、初めて救われた。僕は、僕が救いをもたらしてきた誰かによってではなく、これまでの全てを僕によって奪われてしまった彼が、しかし救済を求める瞳を僕に向けてくれた事で、僕は初めて救いを得た。
彼は救いを求めていて、僕はそれに応じることが出来る唯一の人間だった。僕は初めて、誰かに救いを求められて、それに応じることが出来た。それはまごうことなく、偽善だった。いや、むしろ悪と呼ばれて然るべき行為だった。自ら全てを奪っておいて、自ら救いを与えるなんてフィクサーじみた歪な行為が善なる行為であるはずがない。
けれど、歪だろうと構わない。いつか真実を知った時、この子が僕を殺すというのであれば、それもまた当然の帰結だろう。僕を呪うというのであれば、それだって彼の当然の権利だ。だから未来に彼がどのような選択をしてどのような大人になろうと、その全てを受け入れようと僕は思う。僕は君の選択する全てを愛し、全てを肯定し、全ての疑問に対して真剣な解答を用意しよう。それが名前も、記憶も、過去も、君から全てを奪ってしまった僕が、しかし僕の救いになってくれた君にできる、ただ一つの恩返しなのだから。
――士郎。僕が好きかい? それとも、士郎。僕が嫌いかい?
どちらでも構わないさ。
どちらでも、僕は嬉しく思う。
君が僕を真似て、僕に憧れて、僕の影を追っていたとき、やがて君は僕と同じ、答えの出ない正義の矛盾の袋行為に迷い込んだ。そんなとき君は、はじめこそ僕と同じように絶望の底に沈んでいたかもしれないけれど――、僕よりも僕の理想を純粋な形で思い描いていた君は、やがて自分の中にない不純なものを排除してではなく、理解する事で彼らを受け入れようと試みはじめた。
僕は自分の人格の中に他人を閉じ込め、理解できないものを排除した個人の思考という結界の中に世界を閉じ込めることで平和を実現しようとした。けれど、君は自分の救うべき基準から外れた、自分にとって理解できない人たちと触れ合い、傷つくことを厭わず意見を交わし、ぶつかり合い、他人の人格を認め、世界を拡張してゆくことで、いつしか平和になってくれるだろう事を信じた。君の想いはそして、僕が決して分かり合えなかった存在の琴線に触れ、奴を君の味方とすることに成功した。
――それはかつて僕には決してできなかったことだ
士郎。君は今、もう、かつての僕なんか比べることが烏滸がましくなるくらい立派な存在になった。そして君は今、僕が目指した以上の、僕にできなかったことをやろうと足掻いている。君は、僕というひとでなしの存在から離れ、僕が思っていた以上の、僕なんかよりもずっと立派な正義の味方になろうとしている。それは短いひと時とはいえ君の養父であれた僕にとって、君と同じく正義の味方を目指した男として、何よりの喜びだ。
だから。
――君に僕はもう必要ない
だから、どうか幸せにおなり、士郎。君は、自分の足で、自分の幸せを欲して、未来に向かって歩き出した。君はもう、僕がいなくても幸せになれる。君が幸せになってくれることこそが、僕の願いであり、喜びだ。だから僕は君が救われてくれるというのであればなんだってするし、どんな苦労も厭わない。どんな苦痛にだって耐えてみせるし、君を救えるというのであれば、僕と相反する性質の悪魔に魂を差し出す事だって躊躇わない――
*
「さぁ、選ぶといい、士郎。君が万人にとっての正義の味方という、一人でやろうとすれば誰かの犠牲になって死ぬしかない夢を放棄して、自身が幸福になるための別の手段を模索すると自分と僕とに誓ってくれるなら、僕は今すぐにでもこの手段を止めよう。あるいは、君がそれでも正義の味方を目指すというなら――、僕は君に、この特別製の銃弾を撃ち込み、君の魔術や戦う力を大いに削り取り、君がこの世界に住まう大勢の弱者たちに受け入れられる程度の正義の味方となる為の手助けをしよう」
かつて私を救った正義の味方から投げつけられた、お前が今のお前のままであってはお前の夢は決して叶わない、と、そんな意味の内容を雄弁に語る質問は、何よりも残酷な言葉だと思った。光の一切失せた無明の空間、男のしゃがれた声だけが一度だけ闇の中へと響き渡ると、残響もなく失せてゆく。全幅の信頼を置く養父から突如として喉元へ突きつけられた二つの選択肢が、全身から血の気を引かせていた。脈動する心臓の鼓動の音がこれまでにないくらい高く早い転調へと変わり、煩いくらいにスタッカートを奏でているのは、混乱が極地にある証拠だろう。
「わ……、私は……」
私と切嗣、互いの全てを覆う闇の緞帳によって、暗闇の向こう側にいる彼が如何様な顔を浮かべているのかは全く見当もつかないが、迷う私に投げつけられる言葉は、私が望み思い描く理想のように甘くもなく熱くもなく、現実を知らしめるかのように厳しく冷たい。
「何を迷うことがある。君の抱える、僕がかつて抱いた夢というものが、いかに実現不可能な戯言に等しいものだったのかということは、他でもない君自身が嫌というほど思い知ってきただろう?」
夢を諦めるか、夢のために理想を下げることを許容するのか。ともすれば吸い込まれてしまいそうな闇の中、痛いほど高鳴る心臓の鼓動と胸を切り裂くようなそんな冷たい言葉のもたらす痛みだけが、無明の空間にて起きている今の出来事が、夢幻のものでなく現実であるかの証のようだった。切嗣の問いに、私は終ぞ何も答えられなくなり、黙りこくる。
私の夢。万人にとっての正義の味方になる事。誰もが幸福である世界を作り上げる事。誰もが幸福である世界。言葉にすれば高々十文字超える程度に過ぎないその言葉がいかに不可能なものであるかは、これまでの経験から嫌という程思い知っている。
「き、切嗣……」
「僕が君に荒唐無稽な夢を託してしまったことで、君がその生涯と死後を使い潰し、挙げ句の果てには過去の自分を殺してしまおうと考えるほどに追い詰められたことを、僕は知っている。それは僕の罪だ。――、僕は君に、もう、そんな思いをして欲しくない」
有史以来繰り返し行われてきた、終わらない闘争。絡み合った二つの民族の負の感情は、やがて周囲を巻き込み、万年の間に決して解くことのできない憎しみの螺旋を作り上げてゆく。複雑に絡まり合う事情。解決するほどに増殖する、闘争の原因、無限の剣を保有する私の力を持ってしても、その全てを断ち切る事ができなかった、
「人間は神様じゃない。どれだけ力をつけようが、所詮人間一人で誰をも救う正義の味方なんてものをやれるはずがない」
私一人では正義の味方になると言う夢は叶えられなかった。当然だ。一人で叶えられる範囲なんて決まっている、世界を相手に一人で奮闘するなんて言うのは、夢や空想と呼ぶにもあまりに甚だしい妄言に過ぎない。己の才覚を超えた、身に余る願いなどを目標に掲げて目指したところで、望みを叶える事が出来ずに苦しむのは結局己なのだ。
「僕はそれを君に伝えるべきだった。君にそれを伝えてから、僕は君に夢を語り、そして死んでゆくべきだった。けれど僕は、僕が僕の生涯において、どのような失敗と過ちを重ねて、僕の夢が実現不可能であるかを君に伝えることなく、僕の夢の綺麗な理想の部分のみを見せて、君を憧れさせて、君に受け継がせてしまった。理想は理想であるからこそ美しい。手が届かないからこそ、人はそれに憧れを抱くんだ。でも理想が高すぎると、いつまでたっても手が届かなくて、目標に到達できない自分が認められず、いつまでたっても苦しむ。そんなことは君と同じ夢を見て、君より先に失敗した僕が、他の誰より理解していたのに、僕はそれを君に教えてあげることができなかった」
ならば実現不可能なもの目標に掲げて苦しむよりも、未来の自分の実力でも到達可能だと思われるレベルの理想を目的とするか、あるいは理想を叶えるため周囲の環境に合わせて己を変えろと語る切嗣の説教は、間違いなく正しい。切嗣は私を引き取り育てた養父として親の役目を果たそうとしているのだ。
「君がそんな風にいつまでたっても自分の功績を功績として認められず、高望みをしては自己否定ばかりを繰り返すという苦しい思いをしているのは、僕の罪だ。夢とは現世に実現可能な、余人にとって理解のできる範囲に収まる、余人の能力のうちに収まる強さによって成し得るものでなくてはならない。どれだけ綺麗な理想であっても、大多数に理解されなければ、狂人の見る夢と変わらない。世の中の大多数の常人は、そんな、己にとって理解不能な狂った思想なんて受け入れない」
そうだ。抱くのであれば自らの身の丈にあった夢にしておけと彼の言うことは、まったくもって正しい。俺一人では世界中の誰をも幸福にするなんて夢を叶えることが無理であることも、万人を幸福にしようと研鑽し、多くの余人より強くなるほどに他人から疎まれてしまう事も、過去の俺が実証済みだ。
「身の丈に合わない夢を抱き続けたところで、君は幸せになれない。そもそも君は、幸せになりたかったから、僕が君を拾い上げた時、僕が自らの作り出した地獄の中でただ一人生き残った君によって救われた時、あの時の僕のように笑いたかったから、万人にとっての正義の味方になると言う夢を僕から受け継ごうと思ったんだろう? 自身の幸せに笑って過ごす事こそが君の目的。なら、他人の夢のために自分の身と心を磨り潰すなんて的外れも甚だしいじゃないか」
「……」
そうだ。俺にとって万人にとっての正義の味方になるとは、俺が最大の幸福を得るための手段に過ぎないもの。ならばほとんど間違いなく幸福になれないとわかっている苦難の道を選ぶよりも、元の夢には及ばないだろうが小さな幸福を確かに得られるだろう道を選べという意見は、非常に現実的で、とても人間的だ。
「士郎……、これは僕の、わずかな間ながらも君を養い育てた親としてのお願いだ。そして卑怯な物言いになるけれど、もし君が僕と言峰綺礼とで作り上げたあの地獄で君を拾い上げた事に対して少しでもありがたいと思ってくれているのなら、大人しく僕のいうことを聞いて欲しい。どうかこれ以上自分を痛めつけるような生き方をするのはやめてくれ――」
「わ、私は……」
懇願の言葉は耳朶より体のうちに染み入り、迷う心の天秤を揺るがした。かつて、月下の元、切嗣の夢を受け継いだ時のように、切嗣の想いを汲み取り、正しく現実に即した形へと修正が加えられた切嗣の理想を自らの理想としてしまえと、理性は痛いくらいに訴えている。
「士郎……」
「――――――、おれは……」
切嗣は正しい。遠く理想郷を目指すのではなく、妥協点を探し、可能な限り幸福を享受できる分水嶺を目指せという切嗣の言は間違いなく正しい。切嗣の述べた妥協案はまさしく正鵠を射ていて、文句の付け所がないくらい正しい意見で、耳が痛くなるくらい現実と理想の折り合いがついた意見で、誰に提示しても間抜けな目を向けられないまっとうな意見であることには間違いがなかった。
「おれは……、おれはっ……!」
切嗣は間違っていない。正義の味方は味方した正義しか救わない。ならば味方する正義を選ぶか、状況に応じて正義の形を変えるかこそが、多くの人を救う道であることに間違いはないのだろう。
「俺はっ……!」
切嗣の意見は間違っていない。切嗣の、現実と理想を擦り合わせて、実現可能な幸福最大点を探せという意見は間違っていない。切嗣が俺のことを思ってそんなことを言ってくれているのは間違いない。切嗣は味方する正義を選んだ。切嗣は俺のために味方する正義を選別した。切嗣は大切なものを守るために、自らの理想を捨て去った。ならば、俺も切嗣と同じように、自らの大切なもの、自らの幸福のために自らの理想を捨て去ることに、なんの間違いがあるというのだろうか。
そうだ、この願いは間違っていない。間違っていない。けっして間違ってなどいない。けっして間違ってなどいないのだけれど。
――間違っていないのだけれど……!
「――嫌だ……っ!」
――俺の心は、そんな夢も救いもない正しいだけの結論を受け入れたくないと叫んでいた
葛藤に心の天秤が大きく揺らぐ。身体が熱暴走したかのように熱い。途端、視界が反転した。
*
気がつくと自身と周囲の全てを覆い隠していた闇はすっかり失せ、私はいつか見た夢の部屋の中にいることに気がついた。黒から白。闇より光の中へと急遽引きずり出された影響だろう、チカチカと眩む目の瞼を下ろして、その上から片手の指先で塞ぎ、軽く揉み解す。
すると視界を遮断したからだろう、鼻腔を強く刺激する匂いがあることに気がついた。かつては罪の証に塗れて血生臭かった、少し前までは無垢の証明であるかのように伽藍堂だったその部屋は、何かしらの変化の兆しであるかのように、僅かながら命の息吹というものを感じさせる匂いがするようになっていた。部屋の中には、長きに渡る厳冬の季節を超え、今まさに春を迎えようとしているという、そんな雰囲気が湧き出しつつあった。
――よう
やがて僅かばかりに春の香りがする白い部屋の中、片隅近くでしゃがみながら愛おしそうに地面を撫でていた赤毛の小さな見覚えのある顔立ちの赤毛の子供は、来訪者の気配に気付いたらしく、こちらを向いて生意気な面を浮かべた。
――ああ
――男の子だねー
言いながら彼は立ち上がる。地面から影が消え、しゃがんだ彼が撫でていたものの正体が見えた。それは罅だった。今や過去の虐殺の残影は失せ、魔のモノによって破損した箇所もが元通りとなっていた部屋の中、いかなる要因によって生まれたのかわからぬその変化の証を、彼は愛おしそうに撫でていたのだ。
不思議なもので、真っ白い地面にわずかばかり生じているその黒い罅は、強大な外力によって生じた傷跡でも、経年劣化によって生じた風化の趣ある傷跡でもなく、例えて言うならば、まるで地面の一部か自然と揮発して空気の中に溶け込んで行ったかのような傷跡だった。その傷跡を見た瞬間、私は直感した。今、この部屋は、失せゆこうとしているのだ、と――
――親の言う正論に反発して、絵空事のようなな理想を目指す宣言をするだなんてさ。今頃になって遅かりし反抗期がやってきたのかな?
唇の両端を上に歪めながら揶揄う言葉には、いつかのような鼻白んだ様子はなく、大いに喜色が含まれていた。本当は心底嬉しいのに、その感情を素直に表すことができず、皮肉交じりの相手を傷つけかねない言葉となって口から出てしまうあたりなんとも自分らしい態度であると我ながら思う。
――かもな
故に私は何も言わずにその言葉を肯定する。自分の裡から出た言葉を否定をしたくない。そんな思いから出た咄嗟の返答だったが、彼はまさか理性を主とした判断ばかりを下す、自己否定を一切躊躇わない捩くれた性格の理性の人格面たる私が、自身の意見に対して素直な肯定を返すとは思わっていなかったらしく、一瞬怪訝そうな顔を浮かべてみせたが、その後すぐさま彼は唇の端の両側を柔らかく吊り上げると眉尻を柔らかく緩ませ子供らしくない慈愛の面を浮かべた。
――……いいんだな?
だがその表情はすぐさま真剣なものへと変化する。その顔は無邪気な子供のそれではなく、覚悟を決めた大人のそれだった。
――ああ
――……今からお前が踏み出そうとしている道にが正しいなんて保証は何処にもない。それを正しいと定められるのは、お前がこれまでの人生において培ってきた、お前の理性と知識と感情のみ。今後、お前の貫くお前自身の正義に対して、多くの人間が文句と非難を投げかけてくるようになるだろう。だが、その道を行くとすれば、お前は、お前の行為と発言が生み出す全ての結果に自ら責任を取らなければならなくなる。
誰かが定めた理想のレールに乗るのではなく、真に我が道をゆく。もう、他人の夢を追いかけていただけであるが故に道を見失った自分の愚かさの言い訳として、過去の自分や、自分に夢を見せてくれた他人に、その責任を押し付ける無様さは許されない。選んだ道の果てに待ち受けるものがたとえ己の身を滅ぼす定めであろうと、目的に到達出来なかった絶望であろうと、それらの結果を全て受け入れてゆかねばならない。
――……ああ
ぴしり、と乾いた音が、部屋の中に響いた。
――切嗣の理想から外れたその先にあるのは、たった一人の、切嗣という味方すら得られないかもしれない茨の道だ。お前は今、お前の原点となった切嗣という男と決別し、たった一人の味方だった存在とも決別しようとしている。
今度こそ、本当に。私は完全に、親の理想を、切嗣の抱いた手の届かない場所にある理想と正義を自らの意志で、自らのものとする。決心とともにさらに大きく乾いた音が鳴る。見れば、部屋の隅にあった亀裂がさらに大きなものとなっていた。
――……それでも、お前は本当に行くというんだな。
言葉が空に溶けてゆく。それを選べば、もう言い訳なんて通用しない。人から差し出された情けを蹴り飛ばして、親の懇願を否定して、それでも行くというのだから、もはや誰にも、自分にだって言い訳することができやしない。進んだ道の先に、また否定される日々があるかもしれない。他愛ない幸福の日々なんて望めないかもしれない。私の正義は、正義として受け入れてもらえないかもしれない。笑って過ごす事が出来なくなるかもしれない。自らが作り上げた、世界から隔絶した場所にある固有結界の中へと閉じこもりたくなるほど辛い思いをする日が来るかもしれない。
波乱万丈に満ちるだろう日々には、この上なく不幸せな出来事ばかりが待ち受けているかもしれない。長きにわたり失敗し続けた経験はそんな不安に満ちた虚妄の未来ばかりを脳裏へと鮮明に投影して、湧き上がる恐怖の感情が胸を締め付ける。異常を察知した脳は神経を通じて全身に指令を送り、ついで心臓へと指示を出した。血流が早まる。指先がさっと冷たくなった。胸が苦しい。湧き上がってくる負の感情を少しでも外へ逃がそうとして、肺を震わせ、食道を蠕動させ、口から息と弱音が漏れそうになる。それを。
――……行くともさ
カチカチと音を立てそうになる上下の歯を思い切り噛み合わせ、震えて崩れ落ちそうになる体を無理やりそのままの姿勢に保たせると、力の全てを両の手へと回して硬くしめて拳をつくり、虚勢をはりながら、自らを鼓舞するように別の言葉へと変換し、静かに宣言する。
――大丈夫
大丈夫だなんて、そんなことはない。
――俺は平気さ
平気だなんて嘘っぱちだ。
――そうとも、私はやっていける
やっていけるなんて自信は欠片ほども無い。これまで失敗してきたばかりの自分をどうやって信じればいいというのかわからない。私は未だに私自身を信じきれていない。そうとも、やっていける自信なんてない。否、未だに道の果てに失敗する未来が待ち受けている可能性の方が高いとすら思っている。愚かな私はやはりいつまでも呪縛に囚われたままなのかもしれない。でも。それでも。
――この道を歩こうとする人間は、もう、私一人ではない
白い部屋の中、その壁面のあちこちに亀裂が走った。
――私にとって未来であるこの世界に、仲間が出来た。別の世界に、私と同じように無辜の人々を救っているご同類がいた。未知でもある場所にも自分の性格と自分の力を知りながら自分を頼る存在がいて、帝都を守る大義を胸に市政の人々を守る射影の存在と、そんな彼を支える組織と仲間の存在があった。世界は広く、私の知る絶望など、ごく一部の世界の例外に過ぎなかったのかもしれないと知った
亀裂は徐々にその手先を伸ばし、複雑に絡み合い、亀裂同士が接触した部位から細かい破片が剥離して部屋の外へと落下してゆく。
――自分以外にも、きっと世界のどこかには、同じように世界の平和を夢見て己の正義とする大馬鹿者がいるはずだ。
ガラガラと音がなる。天井はもう半壊していた。空はもうすぐそこにあった。
――そうだ。私は一人では無い。地獄の中から私を救ってくれた男がいた。かつて永遠に続く煉獄の中から救ってくれた女がいた。特異な力や思想を披露しても信頼してくれる人間と出会えて、私以上に特異な力を持つ人間や生き方をする人間とも出会うことが出来た。そう、私は一人では無かったのだ。そう、私は一人では無い。かつての世の中ではほとんどお目にかかれなかったが、視界を広げて世の中を見てみれば、私の力を見て、私の考え方を知って、それでも私に協力してくれる普通の人間が幾人もいた。ならば、この広い世界のどこかは、私の正義を理解し、私を私のままで受け入れてくれる人間がもっといてもいいはずだ。
天井が崩壊した。天井を支える壁も、もはやほとんど崩落している。
――だって、世界はこんなにも広く、どこまでも続いているのだから
途端、罅だらけとなっていた部屋が完全に瓦解した。降り注ぐ巨大な瓦礫も細かい破片も隙間より吹きこんでくる風の中に淡雪のよう失せて消え、静寂と清浄さだけで満たされていた部屋の中は、濃い緑の匂いが支配する広々とした大地へと変貌する。胸が軽くなり、口元は軽くなり、言葉は明朗に生じるようになってゆく。
――ならば大丈夫だ。道は険しく、まっすぐな道ばかりでないだろう。歩んだ道を振り返れば、迷宮のごとく入り組んでいるかもしれない。それでも、子はいつか親の袂から旅立ち、己の道を進まなければならない。それでも、すでにその道を歩んでいる先人がいる。己よりも短い年月しか生きていないはずの彼らは、それでも見事に己を受け入れて、手を取り合いながら、進んでいる
白く傷一つなかった部屋にもはやその面影はなかった。部屋が瓦解し尽くしたのち、その先に広がっていたのは、夕焼けの荒野に剣が墓標の様に立ち並び、地平線の彼方の空では巨大な歯車が不規則な音を立てながら不気味に稼働するという、私の固有結界内の風景だった。
――だから、行ける。自分は一人でない。たとえ自分が果たせなかったとしても、代わりに自分の思いと願いをいつか果たしてくれるだろう誰かが、世界にはこんなにも溢れている。
個の有する心象を表す結界。その確固たる不変さを以ってして広い世界を己が法則に従う都合の良いへ矮小な世界へと書き換える固有結界の光景も、今や変わりつつあった。乾ききった心を表す荒野の大地は、徐々に水気を帯びてゆき、遠く地平の彼方にある永遠の象徴たる歪に回る歯車に罅が生じた。逢魔時にて止まっていた時の針は動き出し、永遠の停滞を思わせる空の黄昏色は、明るい色味へと変貌しだしている。
――だから私はどこまでも自分らしく、自分の思いを貫いていこう。いつか己で選んだ道の果て、目指した道の果てに己の願いが叶う事を信じ、そんな己で選んだ道を歩める事を幸福であったと胸を張って誇るために
宣言とともに、わずかばかりに残っていた崩れ落ちた部屋の破片が地面へと吸い込まれた。途端、赤橙の空は朝ぼらけの光に満たされ、乾いた大地にはまだ年若い萌黄色の草が生じ、地平線の向こうにある宙に浮かぶ巨大な歯車は、音を立ててガラガラと瓦解してゆく。真日長く続いた冬の夕影の風景は、宵、夜中、残夜を超えて、ついに黎明を迎えたのだ。
――……そうか
朱鷺色に輝く光の中、変貌した固有結界の中では大人と子供の二人が見合っていた。幼い見た目に似合わない緊張感に満ちたわずかばかりに曇っている真剣な表情を浮かべていた彼は、私の返答に満足したらしく一気に顔の筋肉を弛緩させると顔を綻ばせた。顔が晴れやかなものとなり、唇が柔らく上向きの三日月に歪み、やがて波打つ。続けて頬が赤くなり、鼻の下が伸びた。どうやら今しがた私が述べた言葉はよほど感情の人格であるこいつの琴線に触れたらしい。
――……そうかい
必死で歯を噛み締める様は、必死で照れを表に出さぬようにと押し殺す子供の強がりにしか見えなかった。自らの分身が見せる稚気の態度に、なるほど、周囲から見ると感情を押し殺そうと努力する私というものはこのように見えるのかと微かな羞恥を覚えた。
――そりゃありがたい。……全く、ヒヤヒヤしたぜ。いつまでたっても親に依存し続けて、独り立ちできないんじゃないかってな
――手厳しい
――ばぁーか、客観的な感想だ
照れくさくなったのか、顔から締まりというものを失ってしまった彼は、ふいとそっぽを向いてもはやほとんどない部屋の壁へと目を向けると、背中越しに言葉を投げかけてくる。自分の感情が見せるそんな子供っぽい態度をなんともらしいと思って苦笑しながら受け入れると、そんな私の考えを読んだのか、彼は耳まで真っ赤にしながら憎まれ口を叩く。
――そうか。お前がいうなら、きっとそうなんだろうな
――ま、お前は俺なんだから、客観的といっても、主観と変わらんか
――そうだな。……止めないのか?
――止めて止まる性質かね、俺は
意地悪く問うと、諦観入り混じった表情を返してきた。
――……流石は私自身。私のことをよく理解している
――は、俺はお前さんみたいに余計なもんがこびりついていないからな。
――耳に痛い。諫言として確かに受け取っておこう
――ふん、最後まで気障っぽい口調で喋りやがって
――苦労とともに身についてしまった口調だ。そうそう簡単には修正できんよ
互いが互いを認め合っている事を理解していると、皮肉の応酬がこんなにも楽しい。白光の中、その眩さの中にもはや互いの存在を確認し合うことも叶わぬようになった私たちは、それでも、互いに笑みを浮かべていることを理解していた。
――それでもいい。けど、もっと素直な気持ちを言葉で喋るようにしろって事だ。お前のその喋り方は、不快を買ったり、他人を煙に巻く為と思われやすいんだから
舌戦の最中、不利を悟った相手が吐く負け惜しみじみた正論すらも小気味が良い。
――しょ……、ああ、わかったよ、俺
――応、わかったか俺
――ああ
忠告を素直に受け取ると、互いの顔がいっそう深く苦笑じみた顔に変化する。私たちはついに瑜伽の境地に達していた。部屋の変化は完全に終わっていた。一瞬の静寂がその場を支配する。言いたいことは言い合った。親交は交わし合った。理性と感情。そのどちらもが、己の出した、互いを思いやった結論に納得した。だからもうこれ以上は必要はない。
――……じゃあ、さよならだな
いうと奴は、振り向くとともに、僅かに繋がっている地面の上を歩んでこちらへと近寄ってきた。その顔には真に心からの満足を得たものだけがすることのできる柔らかい笑みが浮かんでいた。その微笑みを見て私の頬も緩む。おそらく、いや、間違いなく、私も、彼と同じような笑みを浮かべているのだろうと確信した。
――お前が今のお前のままなら、俺たち存在と二度と会う事はないだろう。いや、会わないですむことを祈っているぜ
奴の言わんとしていることは、当然、同一存在である私にも理解できた。そうだ。その通りだ。もう、私たちは合わないほうがいい。人間、理性と感情は切り離されている状態というものは、主観と客観は別れている状態というものは、正しい状態ではないのだから。
――……ああ、そうだな。これでさよならだ
彼が泫然とした表情を浮かべた。部屋と呼べなくなった場所に、荒涼たる風が吹いた。同一存在たる我らが完全に合一すれば、主たる意識は長年主導権を握ってきた私のものとなり、彼は私の中に吸収される事となる。だからこその別離の言葉なのだろう。
――いや……
だがこれは、東に行き、西に行き、雲眇眇という、唄うような別れではない。元々同一だった存在が一つに戻るだけなのだ。ならばそれはふさわしいのは落涙惜別のそれではなく――
――おかえり
――……ああ、………………ただいま
詠嘆の様相で両手を広げながら近寄ってくる小さな彼を全身で迎え入れる。失われていたそれが満ちる感覚はなんとも小気味がよく、充実だけが体の中に満ちてゆく。同時に変化を遂げたはずの固有結界の光景すらも吹き荒れる風の中に消え、私の心の中にあった私を守る為に作り上げられた強固堅牢な小部屋と世界を隔つ結界は完全に崩壊した。
*
「士郎」
「――っ!」
切嗣の言葉に意識を引き戻される。眩い光に満ちていた心象風景とは異なり、現実は暗い闇に満ちていた。闇の向こうにいる切嗣から投げかけられる己の願いよりも己の幸福を優先しろという切嗣の言葉には、私が行った否定に対する悲痛なくらいの哀切がこもっている。
――……っ
意識した途端、ぎしり、と心が痛んだ。合一により完全に取り戻した感情は、ぐちゃぐちゃな信号を全身に送ってくる。この未知なる感情に近しい名を挙げるとすれば、同情と恐怖が混ざったもの、と例えるのが妥当なところだろう。
「……あ、……い……や……、――っ」
口から彼の意見に同意せんとする言葉が漏れかける。慌てて噛み締めて、続きの言葉がでやるのを止めた。彼のいうことは正しい。だって自分は今まで、人の身に余る理想を持ち、そんな理想を叶える為に他人から逸脱した力を手に入れてしまったが故に、踠き、苦しみ、絶望の中を邁進し、自らの存在を抹消せしめんと思い悩む程に、道に迷う事となったのだ。ならば、切嗣のいう他人の常識や、他人の定めた理想から逸脱しない程度の正義の味方の人形に徹するのも決して悪くない選択だと、弱気が悪魔の如き誘惑を耳元に囁いた。
――それでも
「士郎」
「――っ! ――――――、ごめん、爺さん……。やっぱりその提案は受け入れられない」
それでも、退くわけにはいかないと思った。私はもう、自分の想いに従って己の道を進み、私だけの理想に向かって進む道を私の幸福にしてみせると、私なりの結論を出したのだから。故に私は、迷いながらも、そんな切嗣の強いてくる未来と理想を、バッサリと否定する。湧き上がるそんな弱い思いを必死に押しとどめて、なんとか再び否定の言葉を絞り出すと、闇の向こうにいる切嗣の顔が悲しみに歪んだような気がして、さらに胸が苦しくなった。
「でも、ダメなんだ。爺さんの示してくれた二つの道は、きっと間違いなく現実との折り合いがついた、実現可能な、あるいは現実的な、世間一般に広く受け入れられる道だ。でも、それは嫌なんだ。これは理屈だけじゃなくて、俺が、俺の感情をも含めた、俺自身の意志で答えを出して、進む道を見つけないといけないっていう、そういう問題なんだ。そうして自分で自分の理想と進むべき道を定めないと、俺はきっと、また、同じ様に他人の理想を理解できなかったと言い訳をして、過ちを繰り返して、同じように自分が何を正義として守りたかったのか、どんな幸福を手に入れたかったのかを見失ってしまうだろう」
「――」
「だから、なんと言われても、何度間違えても、俺はやっぱり、自分が初めに憧れ、そして思い描いた正義の味方を――衛宮切嗣が最初に語った誰をも救える正義の味方を目指したい。馬鹿だと思われても構わない。見限られても仕方ないと思う」
罪悪感に押し潰されそうになりながらなんとか言葉を絞り出すも、切嗣は何も言わない。何も答えを返してくれない。再び空想を理想にしようとしていると呆れているのかもしれない。現実をまともに直視できない子供の戯言と怒ったのかもしれない。それでも。
「それでも俺は、自分で選んだ道を不器用な自分らしく生きてみたい。――――――だから、ごめん。爺さんの頼みだけど、爺さんの気持ちはとても嬉しいのだけれど、俺は爺さんの示してくれた道をどちらとも選ぶ事は出来ない」
これこそが私の正義なのだと誇り、私は切嗣の提案を拒絶する。鼓動はいつの間にか平生のものへと戻っていた。
*
「そうかい」
固唾を飲んで切嗣からの返事を待っていると拒絶の返事を受け取ったにしてはあっさりとした承諾の言葉が溌剌と返ってきて、私はこれでもかと言うくらい思いっきり脱力した。両手に固く握り締めていた双剣は足元に広がっているのだろうさまざまな幻想を映したガラスを打ち砕いて、広がる闇の中へと消え去てゆく。移り変わる色とりどりのガラスの欠片がパラパラと粉雪の様に闇の中に舞う音がした。平生を保っていたはずの心の臓は急激にその動きを早め、呼吸は短い間隔のものとなる。
「……、反対は、しないのか、爺さん」
バクバクと音を立てて高鳴る心臓の音を聞きながら、そんなことを口にする。
「――さて、士郎。上を見てごらん」
先ほど決意を口にした時と比べれば、おっかなびっくりのその問いかけを、切嗣は間違いなく意図的に無視する事で肯定の意思を示して見せると、やはり闇の中から姿を現さないまま、指示を飛ばしてくる。
「これは……!」
闇の向こう側から聞こえる声の刺々しさが失せていた。素直にその指示に従うと、向けた視線の先、頭上に映り込む景色を見て、私は驚いた。
「戦争……、か?」
見上げた先に広がっていたのは、見紛う事なく『戦争』の光景だった。
「そうだ、これは戦争。世界樹の守護者たるギルガメッシュが率いる者達と、世界樹の大地を捨てて楽園を目指す者達の間によって繰り広げられている戦争だ」
血に塗られたかの様に真っ赤な大地の上では、五人一組に隊伍を組んだ冒険者たちが、真正面からぶつかり合っている。幾千もの軍靴が不安定な大地を揺らし、雄叫びが上がるごとに、武器やスキルの攻撃と防御がぶつかり合い、互いが防ぎきれなかった一撃により、双方の陣の中で血飛沫が舞い、悲鳴と怒号が湧き上がる。
「戦いを繰り広げているのは、強者と弱者であり、今までの世界を救おうとする人間と今までの世界を壊して新しい世界を作ろうとしている人間だ。けれどその実、戦争の参加者は、誰もがこんな無意味な戦いを終わらせてくれる正義の味方を求めている」
「――」
「士郎。君が本当に自分でどこに繋がっているかもわからない道を選ぶと言うのならば、僕はもう止めようとは思わない。だが君がそんな道を選ぶと言うのなら、せめてその道を歩いた先に、誰もが幸せになる世界があるかもしれないと言う事を、君の求める幸せがあるのだという事を僕に示してくれ。そうでなくては、僕は――、それこそ、死んでも死に切れない」
「――っ」
息もつかせない間にやってきた試練は、言い訳する暇なんていう生易しいものを与えてくれなかった。切嗣の懇願に息が止まりそうになる。
「士郎」
「ああ……! 勿論……、勿論だ……! 」
だが逃げるわけにはいかない。もう自分は宣言してしまった。自分は切嗣の袂から離れ、彼と決別し、いつか、かつて叶わなかった切嗣と自分の空想のごとき夢を叶えてみせると、そう言い張ってしまった。切嗣と、そして他ならぬ自分自身に誓ってしまった。
「勿論だとも! やってやるさ!」
だから逃げない。もう逃げる事はしない。どうやってそれを成し遂げればいいのかはわからない。だが、目の前に戦争があり、そこに参加する人間が完膚なきまでの正義の味方を求めているというのであれば、逃げるわけにはいかない。
「なら行くといい」
切嗣の言葉とともに、闇の中へと上への階段が現れる。周囲の全てを包み込む暗黒の中に現れた戦場へと繋がるそれはまるで、地獄へと降ろされた蜘蛛の糸のようだった。言葉に背を押されるようにして一歩を踏み出す。踏み出してしまえばあとは生まれた勢いに乗るだけ――、だったのだが。ふと、思い至ることがあって、振り向く。
「切嗣は――――――――――――、え?」
切嗣はどうするのか。そんな当たり前の疑問を尋ねようとして振り向いて視線を送ったそのさき、闇の中にただ布切れ一枚が浮かんでいる光景しか見つけられなくて、振り向いたままの姿勢で停止した。
「え――――――、は?」
理解ができなかった。先ほどまで見ていた切嗣に弾丸を撃ち込まれるという悪夢の方が、まだ理解できる分優しいと思った。視線を送った先には誰もいない。視線の先あるのは布切れ一枚ばかりで、他にはただひたすらどこまでも闇が広がっているだけだった。
「あ――」
視線はやがて自然と闇の中に浮かぶ布切れへと向けられていた。視線がそれに対して注力した途端、浮かぶそれが何であるかに気がついた。
「あ……、あぁ…………!」
それは布切れではなく、服だった。それは茶色く、古びてヨレヨレになったトレンチコートではなく、周囲の闇の色に似た、まだ真新しさを残したカソック服だった。
「まさか……」
それは、正義の味方を目指した男の持ち物ではなく、悪の容認者を名乗る男の持ち物だった。
「言峰…………、綺礼…………」
呆然とその名を呼ぶ。返事は返ってこなかった。
「解析開/トレース・オ、……っ!」
反射的に周囲の環境の解析を試みようとして、しかし、解析魔術が完全に発動しかけた寸前、指先に激しい痛みが走り、その事に気がつく。
「これら全てが蠱毒の術式によって生み出された呪いか……!」
自身を取り巻いている暗黒は全て呪いだった。自分は先ほどまで、世界全てを崩壊させる呪いの真っ只中にいたのだ。
『やれやれ、世話のやける』
「――っ!」
そして思い出す。自分がこのような状況下に陥る前、その直前に誰の声を聞いたのかを。そして自分は理解する。なぜ呪いというものに対してほとんど耐性を持たない自分が、このような世界を喰らい尽くさんばかりの呪いに飲み込まれて、それでもなおこうして正気を保てているのかを。
「言峰綺礼……っ!」
その真実は重かった。目の前で起こった現象の全てを理解した今、真実に胸を押しぶされてしまいそうだった。頭を抱えた。わけもわからず涙がこぼれた。
「何故だ……っ! なぜ貴様が……っ!」
奴の行動がまるで理解できなかった。ただ、事実として言峰綺礼は衛宮士郎を救って死んでいったという事だけは確かであるようだった。
「なぜっ……!」
問い返しても答えは返ってこない。ただ泣き噦ってその場から離れようとしない子供を叱るようにして、階段の一段目に罅が入った。
「っ……!」
見た瞬間、振り向きなおして走り出した。涙の跡が顔の後方へ伸びて、雫は背後へと消えてゆく。奴がなぜ私を命を捨ててまで、奴が心底憎む相手を騙ってまで私を助けようとしたのかはわからなかったが、このままではそんな奴の献身が無意味に終わってしまう。そんな事になってしまえば、奴の行為が無駄になってしまう。自分を救い出した誰かの行為が無駄になってしまう。それが何より怖かった。
「あ、あぁ……」
そして何より悔しかった。だからその場から逃げ出した。言峰綺礼が衛宮切嗣を騙ったからではない。衛宮士郎がそれを見抜けなかったからではない。あの闇の中で衛宮士郎が出会った衛宮切嗣は、確かに衛宮切嗣そのものだった。それは言峰綺礼が、衛宮士郎以上に衛宮切嗣を理解しているという証だった。言峰綺礼は衛宮士郎よりも衛宮切嗣を理解していた。それが悔しくて、悔しくて、悔しくて。
悔しくて、情けなくて、何より悲しくて。
「あ、あぁ、あぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁ!」
だから逃げた。必死で走った。ごちゃごちゃと湧き上がる想いを振り払えるよう、叫びながら全力で走った。階段が崩壊する音が背後より聞こえてくる。崩壊した場所より呪いが押し迫ってくる気配がした。後戻りしようなんて事を許さないと言わんばかりの厳しさだけは、あの男らしいかもしれないなどと思いながら、ただ全力で戦場へと続く階段を駆け抜ける。
「あぁ、あ、あ、あ、あぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!」
走る。出会ったそれが本物か偽物かだなんてもはやどうでもよかった。ただ私がいましがたそこにいた存在に救われたことだけは事実であり、そんな誰かのために報いるためにも、私は私のなりたい正義の味方になるために、走らなければならないのだと、そう感じていた。
走る。未知なる未来に向けて、先の見えない戦場に向けて、湧き上がる感情を発散させながらただひたすらに走る。その果てに何があるのかはわからない。ただ、もう自分に後悔なんて事をしている暇がなくなった事だけは、不確かな世界の中で確かな事実だった。
*
『あ、あぁ、あぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁ!』
心地よい呪いの中に身を預けながら、泣いて見えなくなってゆく衛宮切嗣の小倅を眺めている。悲鳴は遠ざかるも、耳孔のなかには何時迄も奴の悲鳴が残響していた。
「く、く、く」
咆哮には悲嘆と苦渋の全てが含まれていた。奴は自らが何によって救われたのか、何によって自らの中に存在する養父の思いと決別する事になったのかを知り、混乱の極致に至ったのだ。ああ、私はついの奴の中にいたあの男を殺し尽くすことに成功したのだ。奴はついにあの男の呪縛から解き放たれた。高い声で、低い声で、自らの無力を否定するかのように泣き叫ぶ奴の声は、まるでパイプオルガンの音色のように呪いの中へと響きわたっている。その全てが心地よかった。
『あぁ、あ、あ、あ、あぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!』
私はついに奴に勝利した。悲鳴はそんな私の行為を讃えるかのようだった。私は満足していた。命を使い切る価値のある賭けだったと心底満足すると、機能を停止しつつある筈の脳へ多幸感が湧き上がってくるのを感じた。そうして必死に叫ぶ奴を何より愛おしかった。
「見よ、私の選んだ僕。わたしの心に適った愛する者」
愛おしい。そんな感情が湧き上がった時、ふとある聖句を思い出して、私はそれを口にした。
「この僕は私に霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」
それはマタイによる福音書12章18節より始まる言葉。
「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」
それは今の泣き喚きながら戦場に向かう衛宮士郎にとって最も似合わない聖句であったが。
「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」
今後、奴が真に望みを叶える/正義の味方になるのならば、最も相応しいだろう聖句だった。
「異邦人は彼の名に望みをかける、か」
聖句はやがて神の子が奇跡を起こし、自らの正しさを証明し、人類が皆平等である事を説く。
「くだらん」
だが人類が平等さでないが故に起こった戦いを目の前にした今、私はそんな聖句を信じる気にはとてもなれなかった。生けとし生けるものの命を溶かす他人の全てを呪うの泥の中、消えてゆく快楽を惜しみながら、押し迫る二度目の死の時を待つ。
「ふむ、そろそろ、か」
やがてやってきたその時は、かつて味わったそれとは異なり、これ以上ないほどの幸福感に満ちていた。意識が薄れゆく最中、最後の最後に思い出したのは、今しがた送り出した憎くき仇敵の息子のことではなく、憎くき仇敵本人のことでもなく、はるか過去に置き去りにしてきた娘のことでもなく、長年飽きる程読んできた聖句の中の一節だった。
「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである、か」
それはヨハネ黙示録14章13節。
――なるほど最後に思い浮かぶのが終末を告げる予言書の一節とは、人間の信仰心と善性を試す必要悪の天使と一体化したこの身としては、なんとも相応しいではないか
「主よ。貴方の忠実で不出来な僕が、今、使命を終えて貴方の御許に参ります。我らが人に赦すが如く、我が罪を赦し給え。――――――、amen」
心底愉悦を感じながら、幸福感の絶頂のうちに意識を手放す。厭飫の先にある死は、なんとも甘美で心地の良いものだった。
第7話終了