Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

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今更ですが、本物語は凛ルートをベースとしたIfの時間軸の物語です。



閑話 月姫

閑話 月姫

 

副題 永遠平和のために

 

Blue Blue Glass Moon, Under The Crimson Air.

 

Cherry blossom is cut out.

Man is lost his―――

 

*

 

「あの……」

「なんだ?」

「その、今更なのですが、なぜ貴方は私を攫ったのかな、と」

「――世界平和のためだ」

「せ、世界平和ですか?」

「そうだ。彼女は世界を恒久的な平穏に保つため、現人類を墓石の下に葬り去るとともに、やがて来る新人類のために自由、従属、平等の原理に基づいた基礎システムを構築しようとしている。そしてそのためには三柱の神の力が必要だと考えている」

「神の……、力?」

「川の女神であり人の意識を誑かし文明の発展を妨げるほどの美貌を持つとされるサラスヴァティ。終末の後、人々に力をもたらすために饗される水霊神獣レヴィアタン、そして、月より人々を見守る女神とされるアルテミス――」

「――」

「これらを三柱の女神の力を用いて、月より人々が滅びの道を歩まぬよう未来永劫彼らを見守るシステムを構築する――、すなわちこの月姫計画と名付けられた計画を実行するためには、サーヴァントシステムを応用して神霊を召喚するための膨大な魔力を制御する事が可能であり、また、神という今この世にない存在を架空の存在を降ろすために虚無の属性を持ち、川、海、湖に共通する属性である水の属性をその身に宿す人間でなければ、成功は叶わない。――だからこそ私たちは、小聖杯であり、先天的に架空の魔術特性を持ち、後天的に水の属性を獲得した、間桐桜。君を攫ったのだ」

 

 

間桐家に来てからというもの、桜という人間に自由はありませんでした。私はただ間桐の魔術を受け継ぐために望まれた存在であり、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。

 

来たその日に、間桐臓硯の手によって体を改造され、蟲を埋め込まれました。数日としないうちに当時名目上間桐家の当主であった人間に嬲られました。それから数年もしないうちに、間桐慎二という兄に犯されました。間桐桜という人間は、間桐家において、道具以外の何者でもありませんでした。私、桜という人間は、間桐に関わる人間の人形として生きる以外に意味を持たせてもらえない、そんな存在でした。

 

人形。そうです。私の存在を一言で言い表すのであれば、そう呼ぶのが最も相応しいでしょう。間桐という狂った人格の持ち主ばかりが住まう家において、私は人形の様に生きるという狂い方を選んだのです。

 

一歩を踏み出せばもっと違う結末があったかもしれない。求めれば助けてくれるだろう人物に心当たりがなかったわけではない。いや、きっと彼らならそれを求めれば、きっと無理してでもでも、私のために手を差し伸べてくれたでしょう。でも私がそう思える様になった時、私はすでに、間桐の家の狂気に体の芯まで犯されていました。

 

当時に間桐の家の当主であった間桐臓硯は、人の命を啜って生きる妖怪でした。彼のために何人もの人間が犠牲になりました。私はそれを知っていながら、その所業を止めようとはしませんでした。私は私が生きるために、他の誰かの命が犠牲になることを許容したのです。

 

それを知った時、きっと先輩や姉さんならば、迷わずそれを止めるために動いたでしょう。でも私にはそれが出来ませんでした。私は怖かったのです。私は自分が一番の人間でした。私は臆病で、醜くて、弱い、汚れた人間でした。こんな汚れきった私のために誰かが傷つくのを見るのは怖かったし、何より、私の好きな先輩や憧れの姉さんにこんなにも汚れきって醜い私を見られるのだけは避けたかった。

 

だから私はこの生き方を許容しました。私は間桐家に住まう私以外の彼らの鬱憤を晴らすための人形でした。そう生きる以外に生きる術を知らない、愚かで臆病な女でした。

 

こんな愚かで汚れた臆病者の私ですが、このような私にとって特別と言える人間が三人ほど存在しました。

 

一人は私の実の姉です。その名を遠坂凛といいました。あの人は遠坂の家に捨てられてしまい汚れきってしまった私と違って、遠坂の家を継いだ、誇り高く、実力も名声も兼ね備えた、とても立派な人間でした。私はあの人に憧れ、そして同時に嫉妬していました。私とあの人はたった一年生まれた年が違うだけなのです。しかし、そのたった一年が、私とあの人の間に覆しようもない溝を生みました。もしあと一年だけ私の方が先に生まれていたら、もしや私こそがあの人のようになれていて、あの人こそ私の様なお人形になっていたのかもしれないと思うと、それだけで直視するに耐えない感情がこみ上げてきます。遠坂凛という存在は私にとって、私の裡からそんな醜い感情を引き出す存在でした。

 

一人は衛宮士郎という、私の先輩です。先輩は汚れた私なんかが近寄るのをためらってしまうくらい立派な先輩でした。先輩はいつだって他人のことを優先にして、自分のことは後回しでした。人からいいように使われても、困ったやつだとちょっとの文句を言うだけで済ませてしまうような、とても心の広い人でした。自分には不可能と思えることでも懸命に挑戦する果敢な人でした。先輩はその優しさをもってして周囲にいる人全てを大らかな気持ちにさせてくれる、そんな人でした。だからこそ私は、そんな先輩に好意を抱いたのです。

 

けれど私の体は汚れていて、先輩は私なんかが隣にいたいと願う事すら烏滸がましいくらい綺麗な理想と思惟と行動力を持った人です。だからそんな先輩が、遠坂凛という美しく、誇り高く、華麗な女性の伴侶となったのも、ある意味では当然だったのかもしれません。

 

結ばれた二人は私を冬木という街において世界へ旅立って行きました。そして私の近くに残った、私にとって特別な人は、ただ一人になりました。

 

その人の名前は――

 

 

聖杯戦争。万能の願望器である聖杯を求めて魔術師と呼ばれる人間より上等で特別な存在が繰り広げる聖杯争奪のための戦い。聖杯戦争を生み出した魔術師御三家の血を引く子孫としての自負と、若い頃に有りがちな世界が僕の思うまま動かぬはずなどないという全能感。そして、そんな全能感を後押しするかのよう我が身のうちに確かにあったその辺にいる一山いくらの凡人よりは優れている才覚と、そんな一山いくらの凡人よりは優れている程度の能力によって獲得してきた些細な結果を誇りながら、大した覚悟もなく世界最高峰の能力を保有する英雄や魔術師が骨肉の争いを繰り広げる戦いへと飛び込んだ人より多少優れた才能しか持たない魔術師にあらざる僕は、その後当然のように聖杯を巡る戦いから脱落し、最後には僕が最も負けたくなかった男と、僕が汚そうとした女に助けられる形で聖杯戦争から離脱させられた。

 

これがこの僕、間桐慎二の聖杯戦争における顛末である。

 

――まったく、我ながら嫌になるね

 

聖杯の泥というこの世の全ての悪を含む毒に飲み込まれた僕が目覚めたのは、聖杯戦争がおわってから数年後のことだった。僕が目覚めたとき、事後処理を含めて全ては終わっていた。全てを終わらせたその女の名前は、遠坂凛といって、僕の同級生の女だった。おもえばアイツは僕が欲する全てを持っていた。僕の欲するものを全て持っていたアイツはそして、僕から唯一こいつだけは僕を裏切るまいと思っていた僕の親友――衛宮士郎すらも奪い去っていった。

 

僕はそれが何より耐えられなかった。お気に入りのおもちゃを、気に入っていた子犬を奪われた気分になった。きっと僕が聖杯戦争の結末なんかや僕の優秀性を周りに知らしめるよりあの女を手に入れる事に執着しだしたのはその時からだった。

 

僕の欲する全てを持っているアイツは、しかしそんなものをまるで価値ないものであるかの様に扱う。僕にはそれが許せなかった。だからこそ僕は遠坂凛を欲した。あの女を僕の手元に置き、僕の伴侶として僕に従属させれば、それだけで僕の足りない部分が埋まるそんな気がしていたからだ。

 

――若い頃の自分の狭量さと視野の狭さ

 

そうだ。僕が聖杯戦争などというものに参加を決意した理由の一つは、遠坂凛という存在を見返したかったからだ。僕があの女を降して万能の杯を手に入れれば、僕はもちろんあの女よりも上の位置にあることになる。僕はそんな僕自身の下衆な支配欲と虚栄心を満たすために聖杯戦争に参加した。

 

当時の僕は、間桐という魔術師の家系の直系の血を受け継ぐものである僕こそがこの世で一番優れており、そんな僕がやる行為は全てにおいて正しく、そして僕には他者の全てを踏みにじる特権があるのだと心底信じきっていた。

 

――それと、笑えるくらいの自分の小者っぷりにはさ

 

けれど僕は参加した聖杯戦争において、僕はそんな僕が踏みにじろうとした女に助けられ、命を拾い上げられた。そして僕は、嫌という程思い知らされることとなったのだ。

 

僕という存在は決して世界の中心やその近くに坐しているような特別な存在ではなく、そんな優雅な彼らに憧れて周りをうろちょろとする、他の雑種なんかよりは多少見栄えのいい、しかし誘蛾の一匹にすぎない存在だったのだ、と。

 

――ま、悔しいけど、たしかに遠坂凛は天才で、見る目のある女で、僕の親友である衛宮士郎の伴侶にふさわしい女だったよ

 

認めたくなどなかった。けれど認めざるを得なかった。遠坂凛は華々しい結果を残し、僕はそんなアイツの華々しい結果を語る際の一つの部品に成り下がった。思い描いていた未来とは真逆の未来が待ち受けていたという事実を、そんな現実と理想の齟齬を僕はどうしても受け入れ難かった。きっと僕が聖杯戦争終結から数年もの間眠り続けていたのにはそんな理由もあるのだろうと僕は考えている。そうだ。おそらく僕は、そんな理想とかけ離れた現実を宥恕できなかったからこそ、頑迷固陋に数年もの間眠りについていたのだ。

 

 

「――おはよう、兄さん」

 

目覚めた時、そこには桜がいた。

 

「こ……、は……」

 

いつもの感覚で声を出そうとするも肺はまともに動いてくれず、掠れた声がひゅうひゅうと部屋に小さく響くばかりだった。おかしい。そう思って視線を桜にやろうとすると、眼球を僅かに動かそうとするだけで酷い痛みが顔面に走り、落涙した。

 

――僕の部屋?

 

霞む眼に映る見慣れた天井が酷く遠い。遠近感が狂っているのか、あるいは狂っているのは僕の周りの世界なのか。まったくもってわけがわからない。ともかく零れ落ちた涙を拭うために布団の下から手を抜き出そうとするも、手は震えるばかりでうまく動いてくれず、体に覆いかぶさっている布団を微かに揺らすだけに留まった。僅かばかりに布団がずれて、冷たい外気が肌を撫ぜてゆく。そんな冷気を浴びた瞬間、そんな刺激にすら耐えられなかったらしく、僕の全身から力が抜けてゆく。どうやら今、自分は布団を持ち上げるどころか、こんな些細な刺激に耐える事すら困難な体であるらしい。まったくもってわけがわからない。

 

「兄さん。無理しないでください。あれから何年も横になったきりだったんですから」

 

やがてその必死と呆然から僕の疑念を察したのだろう、桜は乾いた柔らかなハンカチで僕の頬を拭いながら、僕の身動ぎによって微かにずれた布団を正すと、疑念に対しての解答を口にする。

 

「な……、ね……、ん……?」

 

桜の口から返ってきた答えが信じられず問いを返そうとするも、それを口にする事すらままならない。か細い呼吸音に乗って漏れた言葉の勢いが、何よりも雄弁に桜の言葉が真実であることを告げているようだった。

 

「はい。何年もです」

 

桜は僕の失態から僕が久方ぶりに覚えるさまざまな五感の刺激に戸惑わないよう気遣ったのだろう、小声のゆっくりとした語り口調で色々なことを教えてくれた。僕がここで寝ている理由。僕がなぜこんなにも弱っているのかについて。聖杯戦争の結末。遠坂凛と衛宮士郎の行方。世界情勢の変化。十年もの間に凄まじい技術の進歩があったこと。――そして。

 

つい先ほど、間桐臓硯という、僕の先祖にあたる魔術師が死んだということ。

 

「……死ん、……だ?」

 

聞いた瞬間、顎が地面につくかと思えるくらい落ちた。それほどまでに桜の言った言葉が信じられなかった。当然だ。鼓動が早まり冷や汗が生じた。起きたばかりの体は急激な無茶に悲鳴をあげて、全身からむず痒さと微かな痛みを訴えてくる。衝撃はそれほどまでに大きかった。当然だ。

 

――本当に? あの化け物が?

 

間桐臓硯。この僕、間桐慎二の先祖にして、間桐の家の現当主。――だった男。数百年という長きに渡る時を自らの体を蟲に変換しながら生き延びてきた、外道揃いの魔術師という生き物の中でも最大級の化け物。間桐が冬木の土地にやってきてからというもの、ずっと間桐を支配していた、僕と桜の、事実上の養育の親。

 

「はい……」

 

問いかけに桜は素直に頷いた。桜の態度は嘘を語るそれではなかった。僕は目を剥いて驚いた。僕の醜態を目の当たりにした桜は、少しばかり遠慮がちに語り出す。

 

それは本当にあっという間の出来事だったという。今朝方、いつものように地下の蟲蔵で桜に魔術教育を施していた間桐臓硯は、突如として狼狽しはじめ、蟲蔵をじっくりと見回した後、蟲の中に浸かる桜を見て発狂し、蟲にて作り上げた自らの体を崩壊させて死に至ったのだという。何が起こればあの数百年もの時を生きた化け物が発狂の末に自死などという結末を迎えるのかはわからなかったが、ともかくそんな間桐蔵硯の死によって突如として解放されてしまった桜が途方にくれていたところ、静かになったはずの家の中から機械音によるコールが聞こえ、桜は僕の元へとやってきたというわけだ。

 

――あの妖怪ジジイが死んだ……

 

「は……、はは……」

 

――僕の人生を狂わせたあの妖怪ジジイが死んだのか……っ!

 

「はは……、は……、ははは……」

 

身体中から規則正しさが失われてゆく。自然と笑いがこぼれていた。息が苦しい。苦しいが笑わずにはいられない。如何なる感情によって溢れたものであるかは僕自身にも詳しく説明はできない。嬉しさがあるのは確かだろう。だが、どこか虚しい気持ちも含まれている。かといって何かを悼むような気持ちも混じっている。何に対する想いなのか、胸が痛いのも確かだ。

 

僕はそれらの気持ちに対して適切に表現できる言葉を持ち合わせていない。ただ、事実として、間桐臓硯という男の死は、この僕、間桐慎二の笑いを誘発する出来事であったということだけは間違いようもない真実だった。

 

「兄さん……」

 

桜の声が聞こえてくる。笑いがもたらした活力は僅かばかりに首を桜の方へと向ける力を与えてくれていた。視線の先、桜はいつもと変わらない様子で僕のすぐそばに佇んでいる。十年の月日を得ても、桜の様子は以前僕が見た時とまるで変わっていない。桜は魔術の影響により紫がかった黒髪も、男の欲情を掻き立てる豊満な身体つきも、同じく劣情をもたらす扇情的な弱気の態度も、何一つとして変わらなかった。

 

「わたし、どうすれば……」

 

問うてくる桜の顔には行き先わからぬという事情に不安を抱く表情が浮かび上がるばかりで、臓硯という自らの人生を狂わせた男の死に対するなんらかの感情や、晴れて自由の身になったことに対する喜びなどは一切含まれていなかった。

 

「おまえ……、バカ……じゃ、ないの……? もう、……いい、年の……大人……、なんだろ? そんな……こと、も……、自分……で、判断……できない、のか……」

「ええ。だって私は……」

 

――これまで何一つとして自分で判断なんてしてこなかったのですから

 

続く言葉は諦観に満ちていた。年を経て多少大人の色気を纏うに至っている桜は、その実内面はあの頃から何一つとして変わっていなかった。僕の妹は十年前と変わらず人形だった。この家に来たその時から間桐臓硯の人形として生涯を過ごし、時折僕の父や僕自身にその身を弄ばれた桜は、いまだに変わらず間桐家の人形のままだった。

 

「おまえ……」

「……」

 

桜の無言は続く。そして僕は察した。彼女がなぜ己の身を犯して汚した兄である僕を、憎悪を、嫌悪を、憤怒を、害意を示して然るべき存在である僕をこうして十年もの間世話していたのかを。僕という間桐家にとってのお荷物に過ぎないはずの存在が、この十年、なぜこの間桐の家において生きて惰眠を貪ることができていたのかを。

 

――だから僕を生かしたのか

 

毎日臓硯の世話をも行い、あの男より魔術の手ほどきを受けていた桜は、おそらく臓硯の体調や精神の些細な変化を感じていたに違いない。そう。そしておそらく桜は、そう遠くないうちに臓硯という男になんらかの異変が起こることを予感していた。

 

臓硯の身に何かがあれば、自分は間桐の家の呪縛から解放される。だが、桜はそれを望んでいなかった。遠坂の家より引き取られたあの日よりもう二十年近くも間桐の家の人形として生きてきた桜は、それ以外の生き方など知らなかった。桜は自らの首輪を外されることを望んでいなかった。桜は日常の歯車を突如として自由というギアによって乱されることを嫌っていた。桜は今更人として自由に生きることを拒絶していた。だから桜は、間桐臓硯のスペアとして僕を生かし続けていた。桜はその為だけに、おそらく間桐臓硯に懇願し、自らの身を奴に差し出してまで僕の世話を毎日行っていた。

 

「兄さん……」

 

子犬が縋るかのような視線が僕にまとわりつく。男を奮い立たせる魅力に満ちたその視線は、しかし僕の心に困惑のさざ波を生み出した。しかしそして生まれた困惑のさざ波は、歪んだ喜びのそれへと変換されてゆく。

 

桜。魔術回路というものを持たずに生まれてきたこの僕の代わりに間桐の家の当主になるべくして遠坂の家より養子として引き取られた、優秀な魔術の才能を持つ女。ほとんど全ての分野において秀でた才能をもつ僕が、唯一持っていなかった才能を持っていた女。

 

魔術回路を持つという理由で、この僕が受け継ぐはずだった間桐の家の当主の座を僕から奪った、この僕が憎悪に身を焦がして滅茶苦茶にしてやりたいと思うほど、この僕の劣等感を刺激し続けた女。そんな女がこの僕に頭を垂れて、僕の指示を待っている。――ああ、まったく。

 

――いったいバカなのはどっちだっていう話だよね

 

本当に、間桐慎二という男は救い難い男だ。今こうして桜という女の本性とその真意を見破るほどの頭を持っていながら、こうして今や間桐の家そのものを受け継いだと言える女が僕に対して首輪のリードを差し出しているという事実に対して喜びを感じているのだから。

 

「とりあえず……、僕の……、体、に……。回復の……、魔術を……かけろ。話が……、しにくいだろ……。そんなことも……、気づか……、ないのか……。この……、グズ……」

「あ……、――――――はい」

 

そしてこの間桐桜という僕の妹も、ほんとうに心底救い難い女だ。こんな十年もの間惰眠を貪っていた男から上から目線の指示を与えられたことに対して、これほどまでに嬉々とした表情を見せるのだから。

 

 

意識が過去から今にこの瞬間と地続きでも、十年もの時が流れていると、どこに何を置いたかすっかり忘れてしまうらしい。僕は見覚えのある、しかしあまり見覚えのないような気がする僕の部屋の中を、記憶の整理とリハビリを兼ねて漁っていた。

 

「ん?」

 

そんなおり、僕が寝ている間にも桜が律儀に清掃していたのだろう部屋の中の、しかしそんなところまでは面倒が見切れなかったのだろう、少しばかり埃が溜まった棚の奥や本の隙間を漁っていると、まるで見覚えのない布の袋が出てきて戸惑った。

 

「……なんだ、こりゃ」

 

袋はえらく丁寧に梱包されていた。その丁寧さからこの袋を置いたのは僕ではなく桜なのだろうという直感を得る。一瞬桜を読んで尋ねてみようとの考えも浮かんだが、いちいちそれをするのも煩わしい。覚えがないとはいえ僕の部屋に置かれているのだから僕に関係したものなのだろう。判断した瞬間、僕は迷わずに布袋の閉じ紐をほどき、中身を取り出した。

 

「……手紙の、束?」

 

ばさりと中身を机の上に転がすと、出てきたのは、やはり僕にとって見覚えのない手紙の束だった。色とりどりのそれらのほとんどは青白赤のトリコロールカラーに彩られた表面に英語の文章が刻まれている。ようはこれらの紙束は、海外から送られてきた手紙だったのだ。

 

「僕の部屋にあんだからToは当然僕宛てだとして送り主は……、……っ!」

 

そのうちの一つを持ち上げ、表面に書かれた名前を見て、息を呑む。全身が痺れるかのような感覚を覚えた。感覚は、長い年月の経過により褪せた手紙の表面に刻まれた、十年前暇さえあれば毎日のようにつるんでいた僕の友人の名前によってもたらされたものだった。

 

「衛宮……、士郎……」

 

衛宮士郎。その男は赤毛の朴念仁のお人好しで、正義の味方になるとかいう馬鹿げた夢を語っていた男。僕の数少ない、親友と呼べる存在。

 

あいつはどこか日常生活を享受する事に居心地の悪さを感じているような男だった。なんというか、誰かのために何かをしてやって、その行為が報われた時にだけ笑顔を見せるような、ドMの極致にあるような男だった。ならばなるほど、そんなあいつからの手紙に記載されているFromの住所というものが、十年前紛争地帯として有名だった地域ばかりである事になんの不思議もないといえるだろう。

 

おそらくあいつは、そんな誇大妄想じみた夢を叶えるための戦場として、そんな争いが繰り広げられている場所を選んだのだろう。あいつはおそらく、この世で行われている戦争を止めるために、自ら虎穴へと飛び込んだ。

 

「は。相変わらずあいつも無駄な足掻きを続けてるってわけか。まったくご苦労なこったね」

 

そんなあいつが戦場で誰かを助けているそんな姿を幻視した瞬間、自然と悪態が溢れて落ちていた。同時にひどく惨めな気持ちを抱く。あいつはこの十年の間、ずっと自分の夢を叶えるために無駄かもしれない努力を続けていた。それに対してこの十年をただ眠って過ごしただけの僕の惨めさといったらどうだ。

 

あいつよりも大半の点において優れた能力を持っていたはずの僕は、十年という年月をただこの十年前からかわらない部屋の中で過ごしていた。窓から見える冬木の街の景色は、僕と僕の部屋の不変に呼応するかのように変わらない。僕と僕の部屋において唯一、十年前と違うものといえば、僕の顔に刻まれたシワの数と、こうして僕の部屋に持ち込まれた衛宮士郎の手紙の存在くらいだろう。

 

そんな些細に過ぎないはずの顔のシワと手紙のシワが、しかしこれまでの十年の間に僕とあいつにできた経験の差を如実に示しているようだった。それを意識した途端、惨めな気持ちは湧き上がる怒りへと変換された。奴がこうして送ってきた手紙に僕を乏す意図が含まれていないだろうことはもちろんあいつの友人である僕が誰より理解している。

 

そうだ。あいつのことは僕がよく理解しているし、僕のことは僕自身がよく理解している。だからこの腹の底から湧き上がってくる怒りは、そんなあいつに対して嫉妬を覚える僕自身に対する怒りなのだ。そう。僕は、かつては同等かそれ以下だったあいつにこうして差をつけられた事に対して腹を立てている無様な僕自身の有り様が心底腹立たしく、故にこうして烈火の如き怒りがこみ上げてきているのだ。

 

――は、まったく、我ながら不毛なこと考えてるよね、マジで

 

自らをそんな気分にした街と手紙がひどく憎らしくて、整理とリハビリをする気が吹き飛んだ。袋についていた埃を払って手紙をベッドの上へと投げ出すと、カーテンを乱雑に閉め、身体を横たえる。ギィ、と金属の錆びついた音が響いた。十年もの間この僕を支え続けていたベッドのスプリングは流石にそれだけの年月に耐えるだけの耐久力を持っていなかったらしく、思っていたよりも硬い感触が返ってくる。それが僕を馬鹿にしているように思えて、僕は異音を立てるベッドに思い切り拳を叩きつけた。手紙と埃が舞い、不快感が増す。

 

――ああ、もう、なにもかも最悪だ

 

憂鬱が憂鬱を連鎖的に呼び込んで、一気に気分が落ちこんだ。鬱屈とした念だけが全身を跋扈している。いやしかし仮にベッドが十全の柔らかさを保っていたのなら、僕の体は血の底にまで沈んでいたかもしれないとくだらないことを考えてしまうくらいには僕は最悪の気分だった。

 

「は……っ、あーあ……、まったく」

 

胸の中に溜まり込んだ息を吐きだしてみても気分はまるで晴れてくれやしない。憂鬱と鬱屈とした感情だけが腹のなかに積もってゆく。吐き出した吐息が部屋に拡散し、部屋の空気をどんよりとしたものへと書き換えてゆく。否、変わっているのは、部屋の空気でなく、自分の心持ちか。

 

「十年、ね」

 

横たわったまま呟く。十年。言葉にすれば二文字にすぎない言葉をこれほどまでに重苦しく感じたことはない。自分は十年という月日を無駄にしたのだ。高校は、まぁ、成績は優秀だったし、出席日数も満たしていたはずだから卒業できているとして、自分の時間はそこで止まっている。

 

高校を卒業してから十年という月日の間に自分は大学に行ったわけでもなければ、就職をしたわけでもない。自分探しなどという時間を過ごしたわけでもなければ、もちろん魔術師としての修行を積んだわけでもない。自分はただ、十年という月日を寝て過ごしていたのだ。

 

「は。まさかこの僕が世間の落ちこぼれどもと同じ位置に並ぶとは思わなかったよ」

 

無論そんな生活を送ったところで問題ないだけの財力を間桐の家は保有している。土地や魔術関連の収入だけで十分生きて行けるだけの収入が間桐家には存在している。実際、自分の父である間桐鵺野も、不労所得を頼りに仕事をせずにのんだくれていた。そうとも、間桐家には僕程度が十年眠りこけていたところで問題ないだけの財力がある。だが、だからといって不労所得に頼りきりになることを僕がよしとするかというと、それはまた別の問題だ。

 

今の僕は世間に言う所の、落ちこぼれと同等の存在だ。だが無論、僕という存在は本来、そんな落ちこぼれどもと一線を画する存在である。ならばこの十年の眠りというハンデを諸共しない活躍をする事こそ、僕のこの鬱屈とした気分を晴らすに相応しい。

 

「さて、と。じゃあこれからどう過ごしたもんかね」

 

学校に行きなおすのは論外だ、今更餓鬼どもに混じって勉強しなおすなんていうのは僕のプライドが許さない。かといってそこらに転がっている凡人どもに混じって汗水垂らすくだらない仕事をするなんて気にもならない。

 

魔術の勉強をするにしても魔術回路を持たない僕に出来ることと言ったら、かつてのように自宅の書庫で知識を溜め込み魔力を使わない錬金術に勤しむか、あるいは、間桐の魔術を受け継いだ桜から教えてもらうくらいのことしかできないだろう。そして僕のプライド的に当然後者は却下したい。

 

となると、やはり魔術の本を読んで自宅警備をするくらいしかやる事の選択肢がないのだが、だからといって目的もなくただ知識を溜め込むだけの作業ほどつまらないものはない。錬金術をつかって媚薬を作り女を漁るというのも、聖杯戦争という魔術のさらなる秘奥を体験した今の身となってはくだらないとしか思えない。つまりは――

 

――手詰まりだ

 

「くそっ! ――ん?」

 

なんともやりきれない思いから逃れるため視線を遊ばせると、ベッドの上へと放り出した手紙の束が目に入る。

 

――そういえばあの馬鹿はどんな風に過ごしているのかね

 

手紙には驚くほどの魅力が秘められていた。おそらく僕がそう感じたのには現実逃避の意味もあったのだろうが、気がついた時には好奇心が心の触手を動かして、僕は投げ出した手紙の束を纏めてこの手にしていた。手紙の表面にはあいつらしい不器用ながらも糞真面目な筆記体で書かれたアルファベットの羅列と、無機質に日付の消印が刻まれている。僕は消印の方へと目を向けると、手紙を次から次へと滑らせながらその日付けを確認し、やがて一番古い手紙を見つけ出すと、おそらくは桜によって開かれたのだろう封筒から中身を取り出した。

 

最初の手紙は、イギリスはロンドンにある日本人街から差し出されたものだった。

 

『慎二。昏睡から目覚めただろうか。そうだとしたら俺は嬉しい』

 

「は、あいつらしい、なんともつまらない書き出しだこと」

 

『書こうかどうか迷ったけれど、頭のいいお前のことだから俺が何処に誰といるかをしれば、すぐにここに何をしにきたのか気付くだろう。だから隠さず正直に書こうと思う。俺は今、魔術の勉強のため、遠坂の弟子としてロンドンの時計塔にやってきている』

 

「ああ、そういやお前、遠坂と同盟組んでたっけ。そんでもって遠坂は聖杯戦争の事後報告のためにロンドンの時計塔に呼び出されたとか桜が言ってたな。……ふぅん。ま、いいんじゃないの。強情な馬鹿者同士お似合いだよ、お前ら」

 

『ロンドンはまぁ、話には聞いていたが、料理がひどい。なんというか、雑だ。セイバーが自分が国を治めていた頃と何一つ進歩がないと憤慨していて、宥めるのに一苦労だ』

 

「そんでもって最初の報告が料理のことかよ。まったく、お前、何しにいったんだよ。……ま、あいつらしいっちゃらしいか」

 

『話は変わるが、慎二。知ってるかわからないが、聖杯戦争の終結した土地である柳洞寺は、その際の争いによって大きな被害を受けている。遠坂を中心とする情報統制含む事後処理を行った魔術協会の人たちの手によって、対外的には、局所的な大地震によって、柳洞寺地下にあった空洞地下の可燃性ガスが爆発、漏れたことによる被害でそうなったという風に片付けられたんだ。そしてその土地で聖杯の泥の影響で昏睡した慎二は、ちょうど友人である一成の元を訪ねた折に事故に巻き込まれた人間として表向きは処理されている。――わけなんだけれど、そんな嘘の事情を知った一成がお前の事をひどく気にしている』

 

「はぁ?」

 

『あいつは仮にも自分の管理する領地で、自分の友人であるお前が昏睡状態に陥ってしまったという事をひどく気にしていた。お前も知っての通り、一成はクソ真面目だからな。自然災害の類で起きた事だから気にするなと言っても聞きはしない。遠坂も、うっかり一成の性格を考えずに最も処理が楽な理由をでっちあげてしまったと反省していた』

 

「はぁぁぁぁぁぁ?」

 

『だからだろう、一成は、シンジが昏睡から目覚めた時、お前が困っているようだったら必ず力になると言っていた。まぁ、そんなことがなくても一成のことだから、お前が本当に困っていたら見返りなく力になってくれていたと思う。もちろん、俺もだ。友達だからな』

 

「……っ」

 

『遠坂も慎二が遠坂に対して聖杯戦争で行ったことは、慎二が反省の様子を見せているのなら一発殴れば今までの事をチャラにしてあげると言っている。なんだかんだといっているけれど、遠坂もお前の事を心配していたんだぞ。――そうそう、もちろん桜もだ』

 

「……」

 

『桜は特に家族であるお前のことを心配していた。と言うよりも、多分、慎二のことを一番気にかけていたのも桜だ。なにせ昏睡状態に陥った慎二がそうして自宅で寝ているのは、桜が言い出したからなんだ。病院でケーブルに繋がれているよりも、自分が回復魔術で面倒見た方が都合がいいと、そう言っていた。昏睡状態の最中も筋肉が萎縮しないよう、目覚めるまでの間は毎日回復魔術をかけるつもりだと言っていた』

 

「……は」

 

『桜は慎二のことを本当に心配していた。桜のためにも慎二が早く目覚めてくれることを願っている。もちろん、俺もはやく慎二が目覚めてくれると嬉しい。藤ねぇも心配していた』

 

「はは……」

 

『とりあえずは一月に一度くらいのペースで手紙を出そうと思う。慎二が目覚めたら桜の方から連絡があると思うけど、目覚めたら慎二の方から連絡をくれると嬉しい。お前は嫌がるかもしれないけど、俺はその方が安心できる。電話代が気になるならコレクトコールで構わない。電話番号と家にいるだろう時間帯を最後に記載しておくから、参考にしてくれ』

 

「ははは……」

 

『それじゃあ慎二。また。次に筆を取る時までに、お前が目覚めてくれていることを願って。 衛宮士郎』

 

手紙はそこで終わっていた。しまいこまれていたというのに何処かより侵入した光により微かに煤けた手紙は紙に落とされたインクも少しばかり薄らいでいたが、そこに刻まれていたこちらへの思いは一欠片たりとも失せていなかった。

 

「衛宮……」

 

便箋に雫が垂れて落ちた。手紙に刻み込まれた思いのうち、心で受け止めきれなかったぶんがひとつ、またひとつと、次々と頬を滑り落ちてゆく。不覚だ、と思った。まさかこの僕が、衛宮如きの手紙でこのような気分にさせられるとは思ってもいなかった。

 

「おまえ、ほんと、ばかじゃないの……」

 

海外から送られてきたその手紙には、一から十まで僕のことに関する心配事しか書かれていなかった。溢れ出る思いに突き動かされるようにして次の手紙を開けると、わざわざ安くない料金を支払って送られてきた手紙にはやはり僕の事を心配する言葉ばかりが刻まれていて、自分の事情についてなどほとんど書き込まれていない。らしいと言ってはらしいかもしれない。そんな衛宮のまっすぐな好意がひどく鋭く胸に突き刺さって、心を刺激する。

 

「これじゃ何のため手紙だかわからないじゃないか……」

 

衛宮は宣言した通り、律儀に一月おきに手紙を出し続けていたようだった。山と積み重なった手紙を開けて中身を読み込むたびに、失われた十年の月日が埋められてゆく。受け入れきれない思いが溢れては、次々と滂沱の涙が流れてゆく。衛宮士郎の手紙は、間桐慎二という男が十年もの間、如何に他の人間に影響を与え続けたのかを克明に記していた。

 

「衛宮……。おまえ、ほんとに、ばかだ。ほんと、ばかな、便利屋だよ……」

 

たまらず積み重なった手紙を胸に抱え込むと、ボロボロと涙がこぼれた。暗澹とした気持ちが全て失せてゆく。こんな気持ちになったのは生まれて初めてのことかもしれない。気に入った女を抱いた時だってこんな暖かい想いを抱いたことはなかったはずだ。

 

「自分にとって何の益にもなりゃしないのに、こんな律儀に手紙なんか書いちゃってさ」

 

僕が目覚めれば桜あたりから衛宮に連絡が入るはずだ。あの衛宮に惚れていた僕の妹なら、間違いなくそうするだろう。だとすればそれに合わせて電話をかけるだけで、僕が目覚めたのなんかわかるはずだ。ならばわざわざこうして一定期間おきに手紙を書く必要なんかない。だというのにもかかわらず、衛宮はこうして律儀に一月毎に手紙を書いていた。衛宮という男は馬鹿だけれど、無駄を無駄とわからぬほどの馬鹿な人間ではない。ならばそんな衛宮がわざわざそんな無駄をした理由は何だ。

 

――そんな事は決まっている

 

「お前、そんなにも、僕のことを心配してくれていたのか」

 

そうだ。衛宮士郎は、間桐慎二のことを心底心配していた。そして間桐慎二という男がいつか目覚めた時、過ぎ去ってしまった時を惜しんで絶望に至らないよう、間桐慎二という男はきちんと誰かに心配されている男だということを知らしめるために、衛宮士郎という男はこうして毎月手紙を書いては律儀に送っていた。

 

「僕はお前のことを便利屋としか扱ってなかったのに……」

 

――衛宮はこんなにも僕の事を心配してくれていた

 

「っ……」

 

絶望のどん底に叩き落とされたと思った時、気にかけられているという事実がこんなにも嬉しい。そんなことを知ったのは初めてだった。間桐という、一緒に住まう家族の事情にすら無関心を貫く人間ばかりが集う家において、間桐慎二にはこんなにも心配してくれる誰かが家の中ではなく外にいた。そんな事実が嬉しくて、ただひたすらに涙を流していた。そして。

 

――桜

 

「っ……、つっ……」

 

間桐桜。血の繋がらない僕の妹。僕が何よりも欲していた卓越した魔術の才能を持った、それ故に間桐の家督を継ぐことを運命付けられた女。かつて、魔術回路というものがなくとも間桐の家督を継ぐのは当然長男である僕だと思い込んでいた僕は、やがて間桐臓硯という存在が桜に家督を継がせるつもりだということを知り、酷く嫉妬し、憎悪し、溢れ出る負の感情のままに、桜を押し倒して、犯した。

 

「っ……、ぅあ……っ!」

 

抑えきれず声が大きく漏れた。その後も聖杯戦争が始まるまでの間、僕は僕の妹である桜を気の向くままに虐待して、強姦して、僕の鬱屈とした思いを晴らすための捌け口とした。桜は当然僕の事を嫌っているはずだ。そうでなくてはおかしい。そうでなくてはおかしいのだ。

 

「あぁ……っ! 」

 

しかし衛宮の手紙によれば、桜はそんな憎しみを抱いているはずの僕に対して、心配の念を送り、毎日欠かさずに回復魔術をかけ、身体に不備が出ないように世話をし続けたのだという。衛宮という男が嘘を嫌う人間である事を考えれば、それは確かな真実なのだろう。

 

――ああ

 

だとすれば、僕は。そんな桜を傷つけ続けてきた僕は。

 

――なんて、情けない

 

後悔が胸によぎる。僕が傷つけ続けてきた女の情によって五体満足に生かされ続けたという事実が、あまりにも僕を惨めにした。先ほど湧き上がった安堵の気持ちなど何処かに吹き飛んでしまっていた。それまでの痴愚を後悔した。自らに対する侮蔑の言葉だけが次々と浮かんでは消えてゆく。落ちる涙はいつの間にか別の成分のものへと変質していた。

 

――コンコン

 

「……兄さん?」

「……っ! さ、桜か……!?」

 

絶え間なく押し寄せる自己嫌悪の波に身を任せていると、突如として聞こえてきたノックとその声に、意識は一気に波打ち際から引き上げられた。胸が大きく高鳴る。暗くなりつつある部屋の中、僕と桜とを隔てる扉がやけに頼りなく感じた。

 

「大丈夫ですか? 大きな声が聞こえてきましたけど何か――」

 

ガチャリと音が聞こえた。ノブが回され、扉は今まさに開こうとしている――

 

「くるな!」

「――っ!」

 

慌てて叫ぶと、桜の驚きを表すかのように扉がガタリと上下に揺れ、ノブは元の位置へと戻される。扉は未だに僕と桜の間の境界を保っていた。

 

――こんな惨めな姿を見られずにすんだ

 

そんな事実に安堵すると、今度は桜なんかに対してそのような無様な態度を取ってしまったという羞恥心が湧き上がってきた。なるほど、どうやら、一時の感情の昂りに流されて反省の気持ちが湧いてきたが、僕の基本が傲慢で狭量だという点は変わったわけではないらしい。まぁ当然だ。人間、いっとき感情が昂ぶって反省や後悔の念が浮かんだからといって、そうそう変われるものじゃない。

 

「兄さん? 」

「あ、ああ。大丈夫だ。なんでもない。単にちょっと……。そう。ちょっと、驚いただけだ」

「は、はぁ……」

「そんなことより、桜。飯の準備はできたのか? 起きたばっかで腹減ってんだから、さっさと用意してくんないと困るんだけど」

「あ、はい。それならもう少しで出来ますけど……」

「そうか。じゃあ、出来たら呼びにきてくれ。僕はしばらくベッドで休んでいるから」

「……はい。わかりました」

 

扉の向こう側、桜は少しばかり僕の態度と言動に不信を抱いているようだったが、それに対して疑問を飛ばしてくることはなかった。おそらく、過去の僕が桜にした経験から、僕のいうことに逆らっても良いことはないから従っておこうとでも思ったのだろう。

 

――っ

 

そんな昔と変わらない桜の態度が、僕の後悔の念をいっそう強いものとした。後悔の念は荊となり、僕の心をどこまでも強く痛く締め付ける。この鞭と棘は、きっと、桜に対する負い目や衛宮に対する感謝の思いを消さない限り、消えることはないだろう。だから。

 

――決めた

 

「ああ、決めたとも」

 

決心した僕は、机の上に置かれているパソコンへと手を伸ばす。ボタンを入れると十年の月日が経っているとは思えないほどスムーズにパソコンは動き出していた。

 

――とにかくまずは、動く事から始めよう

 

取り急ぎ僕に似合ったハイソなバイト先でも見つけてやる。手紙には何かあったら一成を頼れだとか、藤村を頼れだとか、そんなことばかりが書かれていたが、冗談じゃない。あいつらに借りを作るなんてのは絶対御免だし、あの唐変木の真面目眼鏡や、センスと無縁な虎教師に任せちゃ、僕の感性と合わないような地味な仕事ばかりを回されるに違いない。あるいは馬鹿みたいに簡単な仕事ばかりを任されるかもしれない。

 

――そんなのは御免だ……!

 

意識を失っていた頃は仕方ないにしても、こうして目覚めたからには、誰かのお情けばかりを頼りにしている穀潰しの状態なんて僕のプライドが許さない。それが魔術師でもない普通の人間になんていうのはさらに御免だ。

 

――見てろよ……!

 

この僕の手にかかれば、高々十年のハンデなんてものは無いに等しいものだということを思い知らせてやる。覚悟を胸にキーボードを叩く。指先は十年のブランクなんて感じさせないくらい、軽やかに動き始めていた。

 

 

魔術というものは本当に便利だ。十年も眠っていた僕が、こうしてリハビリもなしに数日のうちに働きに出られるようになるのだから。

 

「ただいま」

 

見慣れた、しかし知らぬ年月が経過して多少古びた風格を持つようになった扉をあけると、しかし返事はない。玄関から通路の奥まで続く暗がりと、その奥にある扉の向こうにある明かりが、住人が在宅しているという事実を告げていた。

 

――またか

 

苛つきを覚えながら靴を脱ぐと、適当に揃えてからリビングまで一直線に向かう。

 

「おい、桜」

 

扉をあけて即座に呼びかけるも、桜は相変わらず部屋のリビングでぼうっとしていた。部屋の中では僕が朝つけた時のチャンネルのままで固定されているテレビが、静かな部屋には耳煩いくらいの音量で能天気なくだらない番組を垂れ流している。

 

桜は僕が目覚めてからここ数日間、毎日まったく同じような反応と生活リズムを繰り返す事しかしない。決まった時間に起きて、朝食の用意をして、家事と買い物を済ませたら昼から夜にかけてまでリビングでぼーっと過ごして、夜になると僕の食事の用意をしたり朝の残りを食べたりして、寝る。桜の生活はずっとそれの繰り返しだ。僕が指示を出さない限り、それ以外の行動を取ろうなんてことはしない。桜は真実、人形のようだった。

 

「あ……、――――――はい。なんでしょう、兄さん」

 

僕にはその理由が推測できた。

 

おそらく桜は、僕が眠っている間、暇さえあればあの妖怪ジジイに間桐の魔術の教育を施されていたのだろう。きっと桜は一日のうち大半をあの鬱屈とした蟲蔵の中で過ごしていた。それだけが桜の存在意義だった。しかし、今や桜へそれを強いる人物はいなくなってしまった。桜は自由を得た。

 

そう、桜は自由になった。しかし桜は、自由になった時間をどう過ごせばいいのかわからない。学生でない今、勉強をする意味もない。魔術師の本懐といえば魔術の探求にあるものだが、間桐家の支配者であった間桐臓硯という男の意志によって間桐の魔術を極める人形として教育されてきた桜にとって、桜自身の意思で間桐の魔術を極める動機がない。

 

だからこその、停滞。桜がこうして日々ルーチンをこなすだけの漫然とした生活を送っているのは、自らを長い間縛り続けてきた拘束から突如として解き放たれた結果、降って湧いてきた自由をどう扱っていいものか分からず持て余している、と、まぁそんな所だろう。

 

――ほんっと、バカな女

 

そもそもやりたいことなんていうものは自分で見つけるものなのだ。どんな風に生きるかなんていうのは自分の内側から見つけるものだし、やりたい事がないというのならそれを見つけられるよう自ら様々な情報に触れられるよう動くのが当然というものだろう。自らの進む道は自らで見つけ出す。それこそが真っ当な人間の生き方というものだ。

 

そうだ。他人に自らの行動の全ての決定権を預けて舵取りを完全に任せるなんて、正気の沙汰じゃない。まともな人間ならそんな事はしない。まともな人間ならそのような事はしないのだが――、しかし桜は迷わずあっさりとそれをやる。そうだ。桜はまともな女じゃない。桜は間桐の家に住まう住人によってそうとしか生きられないように教育されてきた女なのだ。

 

――桜、おまえ、ほんっと、馬鹿な女だよ

 

桜は、本当に愚かな女だ。そして桜をそんな風にしてしまった一因を担っているこの僕は、それ以上に馬鹿で愚かな男だ。

 

「なんでしょう兄さん、じゃない。この間抜け」

「あ、えっと……」

「飯だよ、飯。机の上に何も用意されてないじゃないか。もしかして台所、冷蔵庫の中の冷や飯を漁って食べろってわけ? は、冗談! 仕事行ってきて腹減ってんだから、さっさとあったかい飯の用意しろ、このグズ!」

「あ……、――――――はい」

 

命令を与えると存在意義を与えられたことが嬉しかったのだろう、桜は儚げに微笑んで台所へと向かう。音も立てずに向かうその様は、いかにもお淑やかで良妻然としていた。

 

僕がかつて付き合っていた女にもこんなタイプの女がいた。控えめというより流されやすく、はっきりとした意思表示時をしないから誰にでも利用されるような、いわゆる男にとって都合のいい女だ。付き合うなら絶対にごめんだけど、利用するならこれ以上ないくらい都合がいい。だから、僕もそういった女を何人か便利な道具としてストックしていた記憶がある。――けれど。

 

――こんなになっても、僕の世話を続けていたのか

 

それが僕の身内であり、僕はそんな女の意志によって世話され続けてきていた。そう考えると、遣る瀬無い思いが胸に湧き上がってくる。それは桜に対する腹立たしさであり、憐憫であり、同時に、そんな桜なんかに面倒を見られ続けてきた僕自身に対する苛立ちでもあった。

 

「さ……、――っ」

 

胸の裡から湧き出てきた相反する属性の思いを留めておくのが面倒だったのだろう、思わず口から自然と言葉が漏れかけて、しかしそれを無理やり飲み込んだ。口から出かけたのはおそらく桜に対する謝罪の言葉であり、感謝の言葉であったのだろうと思う。

 

だがそれを素直に伝えられる僕じゃない。また、これまで桜に対してひどく当たってきた僕が突如としてその態度を変えても、桜は怪訝に感じるだけだろう。僕と桜の間にはそれほどまでに埋め難い溝が存在している。溝を掘ったのは僕であり、桜であり、臓硯であり、鵺野であり、つまりは間桐の家に関わる全ての存在だ。

 

だから僕は十年前の時とほとんど変わらない態度で桜と接する。その上で僕は、桜との間に出来た溝を徐々に埋めていくため、何かをしてやり続けよう。何、時間はたっぷりあるんだ。少しずつ改めていったのなら、桜もそのうち不信感なく変わった僕と自分を受け入れてくれるようになるだろう。

 

 

「――ん、うまい。おまえ、基本的にグズだけど、料理の腕だけは僕も認めてるんだよ」

「……あ、……その、ええと……」

 

間桐の家を継ぐ人間としてこの桜という女が引き取られたのだという事を知った時、僕はそれこそ気が狂いそうになるくらい、陰気な妖怪ジジイと、クソみたいな親父のいる家に引き取られて可哀想だなと思う同情が吹き飛ぶくらいに、桜という女を憎悪した。

 

「……おい、この僕が褒めてるんだぞ。なんでそこで戸惑った態度見せるんだ、このグズ。僕を馬鹿にしてんのか。この僕に褒められたんだからそこは一言、『ありがとうございます』でいいんだよ、このバカ」

「あ……」

 

桜はそんな僕に対して、憎しみを返してくるどころか、憐れむ視線を向けてきた。これがいっそ僕が僕よりも劣った存在に向けるような、見下す視線だったのならまだ耐えられただろう。自分こそが選ばれた人間だなんて思い込んでいたなんて、なんと愚かな勘違いをしていたのかと馬鹿にするような視線だったのならばまだ耐えられた。

 

しかし桜が僕に向けてきたのは、憐憫の視線だった。自分があなたの居場所を奪ってしまってごめんなさい、と。自分が貴方にはない、貴方が欲している才能を持っていた御免なさいと、そんな謝罪と同情とが入り交じった、そんな視線をこの僕へと向けてきたのだ。

 

きっと桜にそんな意図がなかったのはわかっていた。この女は心底そう思っていただけだった。しかし僕には、そんな桜の視線がお前などこの世にいてもいなくても良い存在だと言われているようで、どうにも耐え難かった。僕が焦がれた全ての才能をもっていながら、こんなものは欲しくなかったと視線で訴える桜は、その視線をもってして、僕の憧れと憧れに対して行ってきた努力とそれに費やした時間の、つまりは僕の全てを否定いると僕はそう思えてしまいしかたなかった。

 

僕にはそれが心底耐え難かった。だから僕は、桜を犯して手篭めにした。そんな自分よりも上の位置にいる桜を犯して、穢して、汚して、蹂躙する事で、自分はお前なんかよりも上なんだと思い知らせるため、徹底的に虐め抜いた。僕は小悪党で、僕にとって桜は、自らの優秀さを取り繕う為だけの人形だった。おそらく聖杯戦争において遠坂凛という女に対して嗜虐心を抱き、やはり犯そうと思ったのは、あの女が僕の持っていない全てを持っているという理由以上に、おそらくそうして桜を犯し蹂躙した経験があったからなのだろう。

 

僕はそして桜を虐め抜き、魔術のための道具として扱い、桜が召喚したサーヴァントを奪い取って手駒にして聖杯戦争に参加し――、そして結果、僕は聖杯戦争に敗北して、輝かしい未来を手に入れるどころか、十年もの歳月を無駄にした。

 

「まったく、こんなのあの朴念仁の衛宮にだって出来てたぞ。おまえは曲がりなりにもこの僕の妹なんだから、あんな鈍感で馬鹿正直な馬鹿よりも馬鹿であってもらっちゃ困るんだ」

「えっと……」

 

まぁそれはもういい。起こった事をそうと受け入れられないほど、僕は子供じゃない。僕は自分の欠点や狭量さだって理解している。また、取り戻せないものを取り戻してやろうと思ってしまうほど自分は馬鹿でない。

 

「桜。返事」

 

それにそんなことよりも今は、この桜という僕の妹を立ち直らせる事こそが重要だ。僕がかつて憎んだこの女は、在ろう事か僕に自らが進むべき道を問うてきた。その時僕は気付いてしまったのだ。こんな意志薄弱の女が僕に向ける哀れみに対して僕が憎悪を抱くだけの価値などなかったのだ、と。こんな哀れな女などに十年もの間世話されてしまったという借りを作ってしまった僕は、この借りを返さずにいたのならば僕自身が惨めになるだけだぞ、と。

 

「あ……、ありがとう、ございます?」

「ふん……」

 

僕は僕自身が惨めであると思い続けるなんてごめんだ。だからこそ僕は僕自身のために桜を救うこととした。桜を救うための方法は大雑把に二つあるといえるだろう。

 

「それで、衛宮とは連絡が取れたのか?」

「えっと、それが……、先輩、また違う場所に移動しているみたいで……。携帯も持ってると逆探知が危険とかで持ってないらしく、連絡が……」

「はぁ? あの馬鹿いったい何処にいるってんだよ」

「えっと、確か……」

「ああ、もういいよ。その辺は次に手紙が来た時にわかるだろ。あいつは馬鹿だけど律儀だからさ。それより明日も仕事で早くから出かける。お前はいつも通り、買い物と家事済ませたら僕が帰ってくる前に食事の準備だけ済ませて、後は家で適当に過ごしてろ」

「はい」

 

桜を救う方法の一つはこれだ。桜の望む通り、桜が暇を感じる暇がないほどに細々とした指示を与え続け、桜を僕の人形として扱うこと。これこそが桜が僕に望む、桜が自分の救いだと思っている方法だ。けど、そんな方法を選択するのなんて、僕はごめんだった。

 

どういう意図によって行われた行為であれ、桜の行為は僕を救った。桜は僕を救ったのだ。そして僕は、僕のプライドにかけても、僕の命令に忠実に従うような人形のような人間なんかの意志によって救われたなどと思いたくない。この桜という僕の妹はこの僕を救ったのだから、せめて僕と同じ程度に立派な人間であってくれなければ、この僕は困るのだ。そう。

 

――桜がいつまでたってもこの有様だというのなら、そんな女に助けられたこの僕が、いつまでたっても惨めなままじゃないか……!

 

そう思うとひどくむかっ腹がたった。だが、すぐさま桜がそのような達観というか、諦念抱いたような態度を取るようになったのには、間違いなく過去の自分の視野の狭さと観察力の無さと思い込みが影響しているのだとふと思い返し、僕は冷静さを取り戻した。腹のなかでグツグツと煮立ちはじめていた気持ちはすぐさま冷却されてゆく。

 

「あー、…………おい、桜」

 

気持ちを落ち着けた僕は、台所へと向かう桜に呼びかける。

 

「はい、なんでしょうか、兄さん?」

 

桜は食器を片付けようとしたままの姿勢で僕の方を振り向いた。

 

「やっぱさっきのは無しだ。明日からお前もどっかで働け」

 

そこで僕は桜を救うためのもう一つの方法を提案する。すなわち、桜自身が自分の進むべき道を選べるようにしてやる事だ。

 

「……え?」

「僕が働いてるってのに、お前が家でのんべんだらりとしているってのが気にくわないんだよ。そうだな。お前、料理の腕だけはあるんだから、調理師とかの資格をとるもの悪くないかもな。確か、どっかの飲食店で何年か働けば資格とか手に入れられるらしいし、そっち方面でどっか探しとけ」

 

桜が今の今まで自分のやりたいことすら見つけられなかったのには、僕や僕の父が桜を蔑ろにし続けてきた以上に、桜があの妖怪ジジイの監視の下、この家にほとんど軟禁されている状態にあったのが最も強く影響しているのだろうと思う。

 

卒業してからというもの、桜は外界と完全に遮断されたこの家にほとんど篭りきりだったのだという。この狭い家の中、桜はあの間桐の魔術を研鑽する事以外に興味を持たない偏屈な妖怪ジジイと二人きりで過ごしていた。そんな状況であったというのなら、なるほど、魔術というものに関心を持っていない桜が臓硯という祖父を失ったのち、自己の意識で何かをしようと夢見る事がなくなったのにも頷ける。

 

井の中に住まう蛙が大海を知らないように、世の中に何があるかを知らなければ何かになりたいという想いなど湧いてこない。視野狭窄と経験の不足は、自らが進むべき道を選べなくする最大の敵だ。桜は外の世界を知る機会を奪われ続け、それによって人として生きる気力を失った。ならば桜が自ら選ぶようになれるようにするためには、まず、桜を外の世界に放り出す事こそが重要だと僕は考えたのだ。

 

「――でも」

 

我ながら名案だ、と思った僕のその提案を、桜は渋い顔をして受け取った。

 

「なんだよ。僕のいうことに文句あるっていうのか?」

「私――」

 

桜の顔が曇る。じっと体を抱きしめたまま、桜は急に動かなくなった。人形であることを望む桜が僕の命令をすんなりと聞かないなんて思っていなかった。さて、今の指示の何が桜にとって不満だったというだろうか。桜が僕に逆らう意思を見せる事柄と言ったら、それこそ、衛宮に関する出来事が、遠坂に関する事柄か、弓道部での出来事か、あるいは料理の――

 

――ああ

 

「なに、お前、まさか、汚れた自分の体で人が食べるもの作るのはどうかとか考えているわけ?」

「――っ」

 

桜の顔色が変わった。自身の体を抱きしめる力が強まったように見えた。どうやら図星だったらしい。ほんと、つくづくわかりやすい女だ。

 

桜は自らの両肩を抱きしめてカタカタと震えている。十年。おそらく僕が眠っている十年の歳月の間に、あの妖怪ジジイによって相当の虐めと人体改造を施されたに違いない。だからこそのこうまでの過剰反応なのだろう。

 

――くそ、死んでまで僕に迷惑かけやがって……!

 

僕はいまやこの家にいなくなったクソジジイに心の中で悪態をつきながら、桜に向かって口を開く。

 

「お前さ。ほんっと、馬鹿だよな」

 

言葉は自然と出てきていた。

 

「……」

「お前の体が汚れてて、他人に食わせる価値のない料理を作るってんなら、そんなお前の作った料理を美味い美味いって食べて褒めた僕はなんだっていうわけ?」

「……あ」

 

僕の言葉で桜の震えが止まった。桜がまっすぐ僕を見つめてくる。視線は相変わらず縋るような視線だった。桜は救いと肯定を求めていた。桜は葛藤していた。目の前の人間の言葉を信じていいものかと悩み苦しんでいた。桜は僕の言葉を疑っていた。それが酷く気に食わなくて――

 

「お前の言うことが正しいとしたら、僕がとんだマヌケみたいじゃないか。おまえ、僕を馬鹿にしてんのか。そんなくだらないこと気にしてる暇があったら、どっかで働いてこいっていってんだよ、このグズ。そんでもって少しでも僕を楽にさせろ。二度も同じこと言わせんなよ、このバカ」

 

強めに断言し、命令する。それは僕の心からの言葉だった。

 

「あ……、――――――はい」

 

聞いた桜は屈託無く笑った。それは桜がこの家にやって来てからというもの、この家にいるときには決して見せた事のない、珍しく影のない笑みだった。

 

「ふん……。じゃあ僕は寝る」

 

吹っ切れたらしい桜を見て満足した僕は、自室へと向かう。

 

「はい。……あの」

 

リビングを出て二階に向かおうとする寸前、珍しく後ろから僕を呼ぶ声があった。

 

「なんだよ」

「………………おやすみなさい、兄さん」

 

おずおずとしながら、桜は久し振りにそんなことを言った。桜の口から僕に対してそんな言葉を投げかけてくるのは何年振りだろうか。

 

「――――――ああ。おやすみ、桜」

 

機嫌よく返事を返してやると桜が再び屈託無く笑った。僕に向けられる視線には怯えがなかった。桜は久しぶりに、かつて衛宮にだけ向けていたような、無邪気な視線を僕へと向けてきた。さまざまな感情に揺れ動いていた心が穏やかな方向へと変化する。

 

――ああ

 

今夜は久し振りによく眠れそうだ。

 

 

間桐慎二。間桐家の長男にして、頭脳は明晰、容姿も端麗と言って過不足ない、私と血の繋がりのない兄。世界は自分を中心に回っていると信じてやまないタイプの人間で、だからこそ、描いた理想と目の前の現実に乖離があった場合ヒステリックに周囲へとあたり散らすような、自分勝手で、傲慢で、我儘で、まさに小人物を形にしたかのような人間と言っても過言ではない人物。そして。

 

――今や先輩も、姉さんも失ってしまった私に残された、私にとって唯一の、家族

 

「おい」

「あ、はい。なんでしょうか、兄さん」

 

十年の眠りから覚めた兄さんは、だからこそだろう、十年の年月が経過したことを感じさせない態度でいつものように私へと語りかけてくる。

 

「どうだったんだ、仕事は」

「えっと……、はい、皆さん優しい方でしたので……」

「ああ、そう。そりゃよかった」

 

兄さんはいつもと変わらない態度で会話を打ち切ると、ソファに深く腰掛けたままテレビへと目を向けた。テレビからは海外の映像にワイプを引っ付けただけのよくあるくだらない番組が垂れ流されている。兄さんはこのような番組に興味を持つタイプではないが、普通の女の子をひっかけるのには役に立つという理由からよくこういった類の下らない番組のいくつかをザッピングして眺めている。こう言ったコミュニケーションの為にマメな点は、私も見習うべきなのかもしれない。

 

「あー、……だめだ。つまんない。まったく、この十年で随分とテレビの質も下がったもんだね。どの番組を見ても馬鹿な芸能人が素人芸に対して頭の悪い意見を言ってるばっかで、なんの身にもなりゃしない」

 

兄さんは基本的に正直な自分の思いをそのまま告げるタイプの人間だ。つまらないことはつまらないというし、面白くないと感じたら面白くないと本心からいう。そして世の中の大概のことを上手にこなせる兄さんにとって、世の中の大半以上の人間はくだらない存在であり、見下して然るべき存在で、事実兄さんはそうした自分以下の能力しか持たないような人たちに対して平然と見下した態度をとる。

 

だからこそ兄さんは男女ともに敵は多い。だが兄さんにとって自分よりも下の実力の人間の意見や感情というものは、それこそいてもいなくても、あってもなくても変わらないものであるので、兄さんはそうした敵意を向けられることをまるで気にしない。兄さんはそういう意味ではとても心の強い人間である。

 

「おい、桜。腹減った」

「あ、はい。今すぐに用意しますね」

「ああ。早くしてくれよ。お前の飯だけが楽しみで、僕はさっさと帰ってきたんだからな」

 

そして兄さんは同時に、自分の益になる部分において実力を持つ人間、すなわち、兄さんにとって「使える」人間である場合は、迷いなくその腕前を褒める人間でもある。だから兄さんは、多くの人に嫌われている代わりに、例えば先輩のような、馬鹿正直すぎてその高い能力を他人に利用されがちな人からは受けが良かったりする。

 

――それはもう、私が妬いてしまうくらいに

 

「はい」

「ああ」

 

兄さんは基本的に、他人をその純粋な実力のみで評価する。過度に自信たっぷりだったり、色眼鏡をかけて相手を見る癖がある為、もちろん完璧にそんな特性が常に発揮されるというわけではないが、兄さんは基本的にそう言った、とても自分の気持ちに素直な人間である。

 

「うん、美味い。お前、本当に料理だけは一丁前だよなぁ」

 

兄さんは正直だ。そんな兄さんが褒めるといいうことは、兄さんが私の料理の腕前が世間一般の一定水準以上にあると認識している証拠だ。

 

「……ありがとうございます」

「そうそう、それでいいんだ」

 

それが嬉しくて、少しばかりはにかんだ笑みを見せると、兄さんは機嫌よく笑う。そんな子供っぽい態度が懐かしくってさらに笑みを深めると、多分兄さんは自分が機嫌よく笑ったことが私の気分を良くしたのだと勘違いしたのだろう、さらに上機嫌に私の料理を褒めながら口に運ぶ。蟲の体をしていた間桐臓硯は暖かい人間の食事など必要としていなかったから、十年ぶりに出来たそんなやりとりが懐かしくて私はまた――

 

「どうします? まだ、作ろうと思えば作れますけれど」

「ああ、じゃあ、お願いしようかな」

「はい」

 

笑って兄さんが喜びそうな事を進んで行う。歪んでいるとは思う。私と兄さんの在り方があまり褒められた関係でないのは承知の上だ。数年の間私を虐待し、さらには私を強姦した事のある兄に対してこのような感情を抱くのは間違っていると思う。でも、それでも。

 

――兄さんは、私の汚い事情を全部知っての上で、それでも私の事を褒めてくれる唯一の相手であり、そして今や唯一の私のそばにいてくれる、私の家族でもあるのだ

 

私は結局、この間桐という家から逃げることが叶わなかった。たっぷり十年以上かけて間桐臓硯という相手によって手折られた心は、もはや自立心というものを完全に失っていた。私を助け出そうとしてくれるかもしれなかった相手は、五百年を生きた妖怪の老獪な交渉術によりはぐらかされ、ついぞ私を助け出してはくれることはなかった。

 

――それに

 

結局、私のそばに残ったのは、私と同じくこの間桐という家に囚われ、そして生涯を歪まされてしまった間桐慎二という私の血の繋がらない兄さんだけだった。兄さんは自らの体に宿っていた魔術の才能を疎んでいた私と違って、間桐の家に受け継がれてきた魔術というものを誇り、魔力もないのに錬金術を使えるくらいようになるほどの鍛錬を自ら行ってきた。兄さんは、自分こそが当主に相応しい人間であり、それを周囲に人間にわからせてやるという野心を抱いていた。だからこそだろう兄さんは、そして野心を実現させるために聖杯戦争というものに参加し、結果――

 

――今の兄さんは私と同じだ

 

聖杯戦争が集結し、姉さん――遠坂凛の手によって助け出された兄さんは、身動き一つ取れない意識不明の状態で間桐の家へと運び込まれた。遠坂家の手のものによって間桐の家へと運び込まれてきた兄さんの姿に、私は、かつての遠坂時臣の手によって間桐家へと連れてこられた私の姿を見た。

 

――あの時の無力な兄さんは、まさに子供の頃無力だった私に等しかった

 

だから助けた。そうだ。私が間桐臓硯という家長に懇願し、日々の穢れた間桐の魔術に関わる時間を増やしてまで昏睡状態の兄さんを助けたのは、家族だから、兄だからとかいうそういう立派な理由ではない。ただ、そんな無力な兄さんの中に私を見つけてしまったからこそ、私はそんな兄さんを助けようという気になったのだ。

 

先輩はそれを私が兄さんを心配しているからの物だと勘違いしていたけれど、私は私のために、私を助けるような気持ちで兄さんを助けたのだ。私は所詮、私の都合で、私のためにしか動けない人間なのだ。

 

――そして今の兄さんは、十年前の私に等しい

 

また、その後続いた昏睡状態によって、兄さんは十年の月日を失った。今や兄さんはかつての私と同じだ。十年もの間不毛な年月を間桐の家で過ごした兄さんは、今やまさに間桐の家で同じくらい不毛に時を重ねて生きていた私と等しい存在に落ちて来たのだ。

 

――歪んでいるなんていうのは承知の上……

 

今や兄さんは私なのだ。ならばそんな兄さんに対して喜ばれるような行為をする事は、私が私のためにする行為となんら変わりないといえるだろう。ならばこうして兄さんの喜ぶ行為をすることになんの不都合があるというのだろうか。

 

「物分かりが良くなったじゃないか。さすが僕の妹だな」

 

そんな事を思っていながら兄さんの世話をやいていた矢先、しかし兄さんが告げたその言葉を聞いた途端、自然と私の暗澹とした思考は止まり、体が震えだしていた。食器を持つ手はカタカタと震えている。心臓の鼓動が一気に早まった。私の神経を昂ぶらせているそれは恐怖の感情だった。かつて間桐慎二という私の兄が『僕の妹』という言葉を告げる時は、そのあと決まって酷い事をされる時だった。

 

――久しぶりにひどいことをされてしまう

 

そう思った瞬間、私は言い訳と後悔ばかりが支配する私の意識の中から一気に現実へと引き戻されていた。

 

「……はい」

 

体の震えを必死に抑え込みながら考える。はたしていったい兄さんは私に何をしようというのだろうか。ここがリビングである事を考えればいきなり襲いかかってくるということはないだろうが、しかし気まぐれな兄さんのことだから急にそんな気になったと言って襲いかかってくることもありえるかもしれない。

 

そう考えるだけで、体が震えそうになる。私の中にあるスイッチが入って、私は一瞬で誰かに従うだけの人形となる用意が出来ていた。

 

――ああ

 

体が、心が、絶望の未来を予想して冷え込んでゆく。私にとって兄さんは、私と似た存在になった人であり、家族であると同時に、やはり私にとって支配者に等しい人間だった。

 

「あん? どうした。急に陰気な雰囲気だしちゃって」

「……いえ、別に」

「そう。じゃ、さっさとお代わり持ってきてくれる? 腹が膨れてから持ってこられても迷惑だからさ」

 

などと考えていると、しかし私の予想に反して、兄さんは何もしてこなかった。それどころか呑気に食事のおかわりを要求するしまつだった。そんな兄さんの態度に不審を覚えるとともにまた、安堵も覚える。さては兄さんも十年寝ている間に少しばかり性格が柔らかくなったという事なんだろうか、と、淡い期待が胸に湧き上がった。

 

「はい。……わかりました」

 

とにかく自分に危害が加えられないというのであれば、何も文句はない。兄さんの気が変わらないうち、早々に食事の用意を準備する。そして私の拭い切れぬ不安と恐怖に反して、私の心配はやはり杞憂に終わる。結局、この日、兄さんは私に何一つとして酷い事をしないまま、用意された二皿目を平らげると、早々に風呂に入ったのちに部屋へと引き上げていった。

 

リビングには私一人だけが残される。エプロンを椅子にかけると一気に気が抜けて、深々と椅子に背を預けて、ため息をついた。そのまま、吸って、吐くと、鬱屈とした感情ばかりに満たされていた心が驚くほど澄んでゆく。そう。今、間桐の家の空気は、これまで常に纏っていた陰鬱さが信じられないくらいに澄み切っていた。

 

 

僕が目覚めたその日から半月ほどが経過した。季節は秋。山の方からやって来る吹き下ろしの風に乗ってやってきているのだろう、山から川にかけてある住宅街を縫うようにしてある二車線の道路には、赤、黄、と秋色に変色した木の葉が舞い、鬱陶しい。僕が意識を失ったのが十年前の冬であるからして、僕の感覚からすれば約半年以上も時が消し飛んだかのような感覚であったけれど、そうして久方ぶりに眺める秋の景色というものは、やはりかつてと同じように、僕にとっては変わらず目障りかつ邪魔なだけだった。

 

衛宮からの手紙はまだ来ない。どうやら遠坂と共にロンドンを離れていこうというものずっと返信の手紙を返す宛先の定まらない生活を続けているらしく、おかげで衛宮に僕の目覚めを伝える手段もない。もともと高校の頃においても一つの部に定着することなく、フラフラとあちこちをうろついては自発的に機械の修理を行って去ってゆく、通称『穂群原のブラウニー』こと衛宮士郎らしい根無し草なっぷりではあるが、まさか十年たった今までそんな生活を続けているとはおもわなんだ。物好きというか、単純バカというか――

 

――ま、そんな単純バカに感化された僕が言えるセリフじゃないか

 

昔の僕が今の間桐慎二を見たらきっとなに安っぽいヒューマニズムに影響受けてんのさ、とか大笑いするに違いない。今の多少変わった事を自覚している自分ですらそう思うところがあるのだ。ならば昔の、今よりもさらに自己本位な頃の自分だったならば、間違いなく、他人より優れている間桐慎二らしくないと馬鹿を見る目で自分を罵倒していたことだろう。

 

――ほんっと、我ながら馬鹿になったもんだよね

 

そうだ。少なくとも以前までの僕なら、十年もの年月を寝て過ごしたなどと知ったのならば、その後すぐさまなんらかの仕事を探してそれをこなそうなどと考えることはしなかっただろう。感情の捌け口として桜に当たるか、適当な女を引っ掛けてストレスを解消していたはずだ。

 

そう。こんなのは僕のキャラクターじゃない。そういう暑苦しいのは、あの正義馬鹿か、口うるさい生徒会長――ああ、元か――くらいで十分なのだ。そう、十分だ。十分。十分なのだが――

 

――ま、たまにはこういうのも……

 

悪くない。そう思えるようになった自分は、さて成長したのか、劣化したのか。

 

――ふん……

 

そんなくだらないことを考えながら不機嫌に笑い歩く最中、坂道の上方を眺めた。視界の先には間桐の家が映っている。間桐の家は盆地である冬木の街の上の方に存在している。住宅のある場所自体は静かで日中日夜過ごしやすい場所にあるのだが、最も窪んだ場所にある中央の川を挟んで反対側にある駅前の街から歩くとなると短くない坂道を登ることとなってしまうので、少なからず労力と時間がかかってしまうのが欠点だ。

 

――まったく、なんでまたご先祖様もこんな不便な場所に家をつくったもんかね、ええ?

 

冬木の大きな霊脈の上に作った、というご先祖様が現在の場所に家を建てた理屈は知ってはいるものの、もう少し住居としての利便性を考えろと文句を言いたかった。学生の頃はそうも感じなかったが、流石に十年もの時が経過するとあの頃と同じと言うわけにはいかないらしい。

 

自分は年をとった。かつての傍若無人だった頃の僕と比べれば平和ボケしたような考えを受け入れられるようになったのもそのせいだろう。思考どころか肉体すらもあの頃より衰えていて、一歩を踏み出すごとに体が疲労の蓄積を訴え、嫌味のように足裏は湿気た朽葉が気持ちの悪いぞと伝えてくる。まるで僕の変化を嘲笑っているようじゃあないかと自嘲しながら、それら全てをしっかと踏みしめてただ前に歩く。自宅である間桐の家はもうすぐそこだった。かつては鬱屈とした雰囲気を纏っている家に帰るのが億劫だったものだが、そうして今か今かと待ち人からの手紙を待ちわびるいまや、こうして急な坂道続く帰路を歩くのですら少し楽しい心持ちになれていた。

 

――ん?

 

そんな無駄な労苦を楽しんでいる最中、唐突に僕の視界に一人の男が飛び込んできた。そいつは中肉中背のスーツ姿で、印象に残らない顔立ちをしていた。裾と手首の僅かなすき間と首から顔にかけてまで続く肌の白さから察するに、恐らくは外人だろう。違和感といえば、まだ冬でもないのに両手に黒い手袋をはめているところだろうか。そこそこ値の張りそうなシワのないスリーピースをかっちりと着込み、まだ真新しい旅行タグのついたスーツケースを片手にしているあたり、恐らくはこの街の住人ではあるまい。そんな男が、僕の家の塀の前で僕の家をじっと見て立ち止まっている。僕はうんざりした。

 

――またか

 

「おい。そこ僕の家だぞ。大きくて古い家が珍しいのはわかるけど、悪いけど邪魔だからさっさとどいてくんない? 迷惑なんだよね」

 

間桐の家はこの冬木という街においても古い歴史を持つ家で周囲にある家々と比べても頭一つ抜けて大きな家だ。だからまぁ、時折こういった街の外からやってきた連中が物珍しさから目立つ僕の家をわざわざ見に来ることも珍しくない。おそらくこいつもそういった礼儀というものを知らない連中の一人なのだろうとあたりをつけた文句だったのだが――

 

「間桐――、慎二だな?」

 

どうやらそんな僕の予想は外れてしまっていたらしい。突如として見知らぬ人間から話しかけられたことで内心に僅かばかりの驚きが湧く。が、滲み出るような驚き以上に、そいつの不遜な態度が気に食わない。他の有象無象ならともかく、この間桐の家の前で、今や他でない間桐の当主である僕に対してそんな態度を取ってもらっては困るというものだ。

 

「ああ? なんだ、おたく、この僕に用があったってわけ? 」

「いや、お前に用はない。用があるのは、貴様の妹にだ」

「あん?」

 

ひどく腹たつ事に、外国人にしてはやけに流暢な物言いで僕の言葉を否定したそいつは、よりにもよって僕ではなく僕の妹に用があるなどとほざいている。訝しげに観察の視線を向けてやると、その男は懐から一枚のエアメールを取り出してその真新しい表面をこちらへと向けてきた。From Japan, To London.送り主は桜で、その宛先は――

 

「時計塔。――――――ああ、そういうこと。おたく、そっち方面の関係者ってわけ?」

「如何にも。この度、間桐臓硯の死亡報告を受けて、その事後処理対応のためにやってきた」

「ふぅん、そう」

 

なるほど。ならばこの男が僕に用がないと言う理由も、僕に対してムカつく態度をとる事に、腹が立つことだが理解ができる。おそらく今、間桐の正式な当主は桜という事になっているのだろう。まぁ、当然の事だ。僕は十年眠りきりだったし、何より僕には魔術回路がない。

 

時計塔の連中は魔術回路の数と血統こそが優秀な魔術師の証だと考えるような連中ばかりと聞く。そんな奴らに取って魔術回路のない僕など、それこそ路傍の石よりも価値のない存在だと思っているからこそ、このように僕を見下したかのような態度をとるのだろう。

 

「で、その時計塔からの使者様がなんで僕のうちの前で間抜け面晒しているわけ? 桜に用があるってんならさっさと呼び鈴鳴らして入りゃいいじゃないか」

「そのつもりだったが、何度鳴らしても返事がない。だからこうして家の住人の誰かが帰ってくるのを待っていたというわけだ」

「ふぅん……」

 

そんな事を言うそいつを尻目に、僕は自宅を眺めた。間桐の家は一階のリビング部分の明かりがついてはいるものの、まるで家自体が死んでしまっているかのように驚くほど沈黙を保っている。

 

「まぁいいや。お前、桜に用があるんだろ?」

 

そんないつもとは違う自宅の様を眺めながら、僕はそいつの横を通過する。

 

「ああ」

 

話しかけるとそいつは期待を込めた瞳をこちらへと送ってきた。僕はその視線を無視して自分の背後へと追いやりながら歩くと自宅の前に設置された鉄格子の扉を通り抜けて――

 

「そう。じゃ、ま、残念だったね」

「む?」

「お前みたいなムカつく敵にうちの敷居を跨がせやしないってんだよ、この間抜け!」

 

そのまま鉄門を締めると鞄の中からこの家の真価を発揮させるための書物を取り出しつつ、玄関まで一気に駆け抜ける。最中、本を抜き出して腕を振るうと、背後では自宅より飛び出た数匹の蟲が、無礼な訪問者に向かって飛びかかった。

 

「なにっ!?」

「舐めてもらっちゃ困るね! 魔術回路を持ってないとは言え、この僕は間桐の人間で、ここは間桐の家という魔術師の要塞だ! 招かざる客に対しての堅牢な防衛機能の使い方くらいは当然熟知しているさ!」

 

僕が敵と見定めたそいつへと向かうのは、男性器によく似た見た目の造形をした間桐の改造蟲だ。男の股間にぶら下がっていてもおかしくない見た目をしたそいつは男性器でいえば亀頭にあたる先端部位の、いわゆる尿道口に当たる部分が口となっており、口の内側には鋭い歯が揃っている。グロテスクかつ趣味の悪い見た目には正直辟易とするが、見慣れた僕であってもこうして嫌悪感を抱く程度には相対した人間の正気や気力を削ぐ効力があり、実際有用なのだから仕方ない。ともあれそのような蟲を敵めがけて発射した僕が玄関までたどり着いた後に振り向くと――

 

「――役立たずめ」

 

時計塔からやってきたと嘯く魔術師に殺到した蟲どもは、いつの間にやらそいつの前方を庇うようにして作りだされていた魔術防壁に遮られ、一匹たりとも目的を果たせずに地面に落ちていた。魔術師はどうやら静止の結界、というよりは、物理的攻撃を防ぐ魔術障壁のようなものを作り出して、攻撃を防いだようだった。叩き落とされた蟲どもがガチガチと歯を鳴らす音だけが静かな空間の中で耳障りなくらいに大きく響いている。

 

「ちっ……! 面倒くさいヤツ……」

「……貴様。これはどう言うつもりだ」

「どう言うつもりかって? ――は、お前の方こそどう言うつもりでウチに来たんだよ。ウチには死んだ妖怪ジジイが張った結界がかけてあってね。その効力の一つに、訪問者の害意を察知し、もしも訪問者に害意があった場合は特定の相手にだけが伝わるってのがあって、間桐の人間に対して害意を持った人間がチャイムを鳴らしても、桜には伝わらないようになっているのさ」

「――」

「おおかた、桜は衛宮に似て甘ちゃんな所があるし、あのジジイは桜のことを間桐の後継者として可愛がっていたから、桜を敵意を持った人間と相対させるのを嫌ったがため処置だろうさ。だからこそそんな輩が訪ねてきた際には自分が代わりに応対できるよう、敵をぶっ殺す為の仕掛けとともにそんな面倒な仕掛けをつくったってんだろうけど――、ま、とにかく、そんな仕掛けにまんまと引っかかったお前は、僕たちに取って敵だってことだ。そんな僕たちに害意を持つ敵を攻撃して何が悪いってのさ! 」

「――っ!」

 

魔術回路を持たない奴にとって見下す対象だったのだろう僕という相手に自らの間抜けさを見抜かれたのがよほど悔しかったらしく、奴はギリ……と、二十メートルは離れた場所にも聞こえてくるくらい大きな歯ぎしりの音を立てた。

 

奴の悔しげな所作に多少溜飲が下がる。だがもちろん、油断はしない。油断などができる状況じゃあない。そんなことは鋼鉄にも歯型を残せるほどの咬合力を持つ、弾丸ほどの速さで飛翔する蟲が、一切その威力を発揮することも出来ずに魔術防壁の前に敗れたことから十分理解出来てしまう。目の前にいるそいつは少なくとも、拳大ほどの巨大な弾丸を防ぐ事ができるほど守りに長けた優秀な魔術師であるのだ。

 

「慎重に事を進めたかったが仕方ない。邪魔をするというのなら容赦はしない。――どけ、小僧」

 

やがて怒りに身を震わせていたそいつは苛つきを隠そうともしない様子で呟くと、途端に地中より伸びた土の槍が自らの周囲に落ちた蟲どもへと突き刺さった。人工生命体である蟲の末期の奇声が気味悪く周囲に響き渡る。

 

――無詠唱魔術……!

 

一工程の呪文や仕草を見せることもなく魔術を発動させるというのは、相当の実力がないとできないことだ。どうやら目の前のこいつはやはり無能などではなく、攻守共に長けた一流の魔術師であるらしい。

 

「は、なんでこの僕がお前なんかの命令に従わなきゃならないんだよ!」

 

言いながら身を引き、慎重に奴へと観察の視線を向けなおす。奴は僕と視線が合った途端、いかにも魔術師然とした怜悧な目つきで構える僕を強く睨んでくる。

 

「もう一度警告する。邪魔だ、どけ。一本の魔術回路すら持たない貴様には欠片も用はない」

「ムカつくね。この僕を無視して桜だけを付け狙うその根性といい、ほんっとお前、気にくわないよ! 」

 

奴の警告が発せられたと同時に再び間桐家の防衛機構を働かせる。霊脈より吸い取った魔力が即座に蟲の形状をした攻撃の意思を持つ物理現象へと変換され、間桐の家は再び万全の迎撃体制へと移行した。

 

「だからさっさと死んじまえよ、お前」

 

敵意を含んだ言葉を発するとともに、間桐家の攻撃機構を働かせる。間桐の家の敷地内の四方八方から飛び出した空を埋め尽くすほどのグロテスクな見た目の蟲の群れは、宙を滑空しながら魔術師めがけて殺到した。

 

この度僕は、先ほど魔術師が自らの前方にのみ魔術障壁を張ったのを参考に、蟲一体あたりの威力よりも数を重視してに全周囲から奴を襲えるよう、蟲どもを量産した。そして生みだされた蟲の群れは、蟲一体が保有する威力こそ先ほどの数匹の蟲のそれにこそ劣るものの、回避の不可能性を保有するとともに、ショットガンをぶっ放した時以上の威力をもつ殺傷性の高い武器となっている。

 

「――っ!」

 

奴の顔に驚きの表情が浮かんだ次の瞬間、破砕音が響き渡る。蟲はあっという間に魔術師のいたあたりに到着すると、次の瞬間には地面を砕き、砂埃を宙に巻き上げ、奴の姿を見えなくしてしまっていた。門前があっという間に砂塵で覆われてゆく。そしてしばらくの間は、閑静な住宅街に耳障りな音が鳴り響き続けていた。

 

それでも家々から人が出てこないのは、間桐の敷地から周囲数十メートルの位置にまで消音と人払いの魔術結界が張られているお陰だ。張られた結界の効力により、間桐の敷地とそこから数十メートルの区域内から生じた音について人々は関心を持たなくなるし、そこで起きている出来事についても同様となる。

 

「そろそろ死んだか?」

 

やがて舞い上がる塵の量が薄くなったのを見計らって、僕は消音の結界が敷かれているのを良い事に思い切りぶっ放していた蟲による攻撃を中断すべく、攻撃停止を間桐の家へと命令した。書物を通して僕の意思が間桐の家へと伝わり、稼働中のシステムが停止する。射出音が小さくなってゆくにつれて、同時に破砕音の大きさも小さくなってゆく。遅れて蟲が地面と衝突した事により生まれ続けていた土煙がさらに薄れていった。

 

魔術師というものは魔術というものを信奉するあまり、彼らの用いる魔術防壁というものは物理圧力に対する防護よりも純粋な魔力攻撃に対する防護壁として展開される場合が多い。それを見越しての、物理圧力を強めた蟲による圧殺攻撃は、まともに食らったのであれば、人間はおろか魔術師であったとしても肉片一つすら残らないはずの攻撃だった。――しかし。

 

「――訂正しよう。魔術回路がないとはいえ、さすがは御三家に連なるもの。相手を敵と見るや否や必殺の攻撃を仕掛けるその判断の速さと迷わない手並みは見事だ」

「な……」

「だが残念だったな。御三家と呼ばれる間桐の家の魔術と、その魔術師の工房とも言える自宅という場所を私は侮っていない」

 

塵一つすらも残らぬような物量の蟲による攻撃を真正面から食らったはずのそいつは、平然と土煙の中から姿を表しながらそう言った。煙が腫れてゆくとともに、奴の姿が露わになってゆく。無傷のまま平然と立ちふさがる奴。開かれたスーツケース。おそらくそこより飛び出したのだろう無数の石が奴を守護するかのように奴の周囲の空間を飛び回っている。そしてその石に書かれているのは――

 

「――……っ! ルーン魔術か……っ!」

 

ルーン文字。北欧神話においてオーディンが首を吊り蘇ったのちに持ち帰ったとされる、この世の理を表しているとされている力ある文字の群れだった。神の用いていた文字の真なる力を引き出す男は僕の言葉を聞いて、笑う。嗤う。

 

「如何にも。言葉にすれば力となる故にその貴き名を呼ぶ事は出来ぬが、古く血筋を辿れば原初においてフサルクのルーン以前にあった文字までを開発した祖に辿り着く我らの血筋は、魔術師ならざるものにまで知られてしまい神秘の力が薄まってしまったルーンの力というものを最大限に引き出すことを可能とするし、貴様ら通常の魔術師には知られていないルーンをも受け継いでいる」

 

やがてルーン文字の刻まれた石の群れを操っていたそいつは間桐の門前に敷かれた結界へと近づくと、手袋を外し、自らの指を差し出した。

 

「そう。それは例えばこのような――」

 

男のものと思えぬほど細い指先がルーンの刻まれた石の結界より出でて結界より出でる際、その指先がルーンの石によって僅かばかりに切り裂かれた。ポタリ、と、赤い血が地面へ垂れる。僕は直感した。何をしようとしているのかは知らない。わからないが――

 

――何かわからないけど、これはやばい……!

 

差し出された指先はこれまでとは比べ物にならないくらい不吉な気配を含んでいた。悪寒は瞬時に背筋を駆け上がる。何かは知らないが、魔術師が自らの血を流して何かをしようとしているというその行為自体が、まず持ってやばい。

 

魔術回路を持たぬとはいえ魔術の知識を多く納めた僕の脳裏を刺激し、奴のその行為を止めろと警告を繰り返していた。僕は全身を貫く寒気に押される形で、再び慌てて蟲の攻撃の第二射を放とうとする。やつが何をしようとしているかはわからない。しかし、あれをさせるわけにはいかない。

 

「よせ! 」

 

少しでも時間を稼ぐ目的で僕が警告の言葉を放つと同時に魔術師が嗤った。それは先ほどまで浮かべていた僕を侮るものではなく、純粋に、教師が出来のいい生徒を褒めるかのような、そんな喜色の笑みだった。

 

「良い勘をしている。第六感は魔術師にとって何より重要なスキルだ。もし君に魔術回路があったのであれば、君は素晴らしい魔術師となっただろう。互いに過去より秘蹟を継いだ家に関わるもの同士、もしかしたら私達は友人に慣れていたかもしれない。――だが」

 

奴は僕の言葉を無視して指を結界に近づける。

 

「僕は動くなと言ったぞ!」

 

僕は反射的に蟲の群れを放っていた。間桐の家のあちらこちらより出現した先程よりも大量の蟲が、目の前の僕に悪寒を発生させた源へと殺到する。それは紛れもなく今の僕にできる最大最速の攻撃だった。――しかし。

 

「だが、残念。手遅れだ」

 

蟲が魔術師の露わになった指先部分へと到達してその細い指先を食いちぎるよりも先に、魔術師の血が間桐の家の結界へと触れた。そして次の瞬間、目に見えぬはずの結界に、目にも映らない速度で血文字が刻まれた。

 

血文字は奴がその身に収めているというルーンにも見えたが、僕はあんな形状のルーン文字を知らない。故に戸惑う。戸惑った僕は、ルーンという魔術がその文字の名を呼ばねば真なる力を発動しないというルールを思い出し、慌てて蟲の向かう先をその細い指先から喉元へと変更した。そして攻撃箇所変更の命令を受けた蟲たちは、僕の迷いに呼応して僅かばかりに遅くなりながらもすぐさまその喉元へと向かおうとして――

 

「――/初期化」

 

それが致命的な隙となってしまった。蟲が奴の喉元食いちぎるよりも先に、奴の口よりなんらかの言葉が発せられた。奴が発したその言葉を僕は聞き取る事ができなかった。いや、言葉の意味を理解することはできたが、奴が何という言葉をもってして初期化という意味を僕に理解させたのか、僕にはさっぱり理解ができなかった。まさかかつてバベルの塔が崩れる前に語られていたとされる統一言語でも語ったとでもいうのだろうか。

 

「な……っ」

 

などと今しがた起きた不可思議についての考察を行なっていると、突如として奴へと殺到していた蟲はすべからく力を失って地に堕ち、間桐の家を覆っていた堅牢強固なはずの防御結界は、まるで空気に溶けてゆくかのように自然に消滅した。

 

「――嘘……、だろ?」

 

あまりあっけない結末に思考が停止した。この場から逃げ出そうという気が起こらなくなるくらい強固に自分たちをこの地に縛り付けていた、そしてそんな堅牢さを以ってして自分たちを守っていた数百年ものの結界が、こうもあっけなく消滅したという事実に、理解が追いついてこなかった。

 

「これが隠されたあるルーン文字の効力だ。古く北欧において太陽とは狼に挟み撃ちにされる程度の存在であり、やがて死したのち復活する存在でもあった。そしてそれ故に、それらの文字の中間に属するこの文字の意味は太陽狼、すなわち、全ての力ある存在を死に追い込む存在、いう意味を持ち、全ての特異な力によって作られた状態を元に戻す効力を持っている」

 

やがてそんな信じられぬ現象を起こしたそいつは、平然と今しがた自らが起こした現象について語ってくれる。懇切丁寧な態度の裏側には自慢のようなものが含まれており、なるほど今しがたの信じられぬ現象は、確かに目の前にいるこの魔術師の意志によって引き起こされたものなのだということを、僕は否応もなく理解させられた。

 

「……くそっ!」

 

理解が脳裏に及んだ瞬間、正気を取り戻した脳は再び目の前の脅威たる存在への攻撃を命じてくる。凍結していた体はその命を聞いた瞬間、再び間桐の家の防衛機構に命を下すべく動こうとする。

 

だが――

 

「遅い」

「がっ……!」

 

魔術師は僕が間桐の家の防衛機構へと命を下すよりも先に、僕の首根っこを掴んで玄関の扉へと押し付けた。瞬間的に十数メートルもの距離を詰めた反動がモロに僕の体へと襲いかかり、背中から抜けていった衝撃が年季の入った玄関の扉を吹き飛ばす。僕は首根っこを掴まれた状態で自らの家に帰宅する羽目となり、続けて数百年もの間堅牢を保っていた守りは完全に破られ、間桐の家は外と内の境界を失い、呆気なくその隠匿しておくべき秘蹟に満ちた内部へ招かれざる客が足を踏み入れる。水の属性である間桐の家独特の、肌にまとわりつくような空気は、今や完全に霧散してしまっていた。

 

「抵抗するな。お前に魔術の才能がないことも当然調査済みだ。その才能がないお前にこの状況を覆すことなどできやしない。……本来ならば隠匿すべき魔術を見た一般人は消すのが我ら魔術師に課せられた使命である。――だが、私は、私個人として、お前が気に入った。貴様に魔術師としての才はない。だが貴様には、魔術に携わる者として、自らとそれに属するもの以外は敵と判断し、即座に排除を試みるだけの覚悟が備わっている。貴様は魔術師でないが、同時に、魔術に携わる者として十分な素質を備えた者である。故に私は、大人しくしていればお前に危害は加えない。我々はお前の命を我々は必要としていないからな」

 

魔術師の男は僕が死なぬように気を使いながら、抵抗出来ない程度の力で僕の首を締め付け続けながら、なんとも上から目線な言葉を吐きやがる。要はこいつは、僕は魔術師という存在とは認めないけれど、魔術師に仕える下僕に相応しい存在であるとして僕のことを気に入ったと、そう言っているのだ。

 

「ムカつくね……っ! お前、ほんっと、僕のムカつくことばっか言ってくれるよ! 」

 

それが僕のプライドをひどく傷つけた。まだ自由の効く両腕をやつが僕の首に添えている片腕へと持っていくと、思い切り力を込めて可能な限りの抵抗を試みる。

 

「ここまで実力差があることを理解していながら、間桐の領域に踏み入らせまいと抵抗をやめない。なるほど、やはり君は魔術師に仕える者として素晴らしい存在だ」

「誰が……、ぐぅ……っ!」

 

自己完結するばかりで僕の心理などまるで解そうとしない如何にも魔術師然としたその男は、勝手に納得した挙句、僕の首を絞める力をさらに強め、さらに高く僕の体を浮き上がらせる。自重によって呼吸器が狭まる。息苦しさが増した。視界がぼやけてくる。耳鳴りがして、徐々に意識が薄れてゆく。悔しい。苦しい。思いは螺旋を描きぐるぐると頭の中を駆け回る。どれだけ暴れまわっても無駄だと悟った賢しい脳がそして僕の意識に対して気絶を命ずるその直前に――

 

「な、なに、今の音……。なんで結界が……?」

 

玄関から続く長い廊下の奥にある台所へと続くリビングの扉が開かれ、桜が戸惑った声をあげながら姿を現した。僕の首を締め付けていた力が微かに弱まる。途端、ブラックアウトしかけていた意識に夜光が射し込む。目の奥に飛び込んできた僅かな光によって僕はかろうじてその場に意識を保つ事ができていた。

 

「――ほう」

 

魔術師の視線が廊下の奥へと向けられる。ぼやける視界の中へ奴の目が細まり、眉尻が下がったのが映りこむ。魔術師の顔は、目的の宝を目前にして喜ぶ子供のそれに変化しつつあった。首の締め付けが弱まると同時に頭へと巡る血液量が増え、多少正常さを取り戻した思考は、事ここまで至っておきながら未だに状況を把握せず、呑気に魔術師とにらめっこしているのだろう僕の愚かな妹に対しての怒りで満たされてゆく。

 

――この……!

 

「ようやくご当主のお出ましか」

「え、あ、どちらさ……に、兄さん!?」

 

――グズめ!

 

呑気に魔術師へと素性を尋ねかけた桜は、その折に魔術師が手にしている存在が僕であることに漸く気付いたようで、素っ頓狂な悲鳴をあげた。途端、魔術師は僕の首に添えていた腕を離し、僕を解放する。

 

「――っ、くはっ!」

 

奴の腕という支えを失ったことにより、僕の体は重力に従って短い距離を落下し、両腕に全ての力を込めていた僕は、脚部に力を込める事ができず、崩れ落ちるようにして地面へと倒れ伏してしまっていた。

 

「っあ、っは、っは、はっ……」

「兄さん!」

 

解放されたにもかかわらず、全身に力が入らない。息が苦しい。解放によって唐突に多量の血が脳内を循環し、目の奥がチカチカした。えずいていると、桜が近寄ろうと駆け寄る気配に気づく。

 

「お初めお目にかかる、間桐の現当主殿」

 

だが桜が廊下を駆け出そうとするよりも前に魔術師は僕と桜との間に体をねじ込み、桜が僕に接近するのを妨げた。

 

「あ、え、あの、えっと……」

 

途切れ途切れの呼吸を整えてなんとか地面を這いつくばりながら体を反転させて面をあげると、顔を見知らぬ魔術師から突如として話しかけられ戸惑う桜の姿が目に映る。桜は恐怖と不安に戸惑い、魔術師と僕とに視線を交互させていた。どうやら此の期に及んでこのグズは、自分の身を守るための判断を自らで下すことすら出来ないらしい。

 

「私の名は――」

「何やってんだこのグズ! こんなやつどう見ても敵だろう! わかったらさっさと逃げろ、桜! こいつの狙いはお前だ! 」

「え……、えっ? 」

 

だから僕は桜のご期待通り、代わりに情報をくれてやり、同時に指示を出してやる。しかし望み通りに自身に対して具体的な指示を出されたはずの桜は、やはり戸惑って僕と魔術師とを見比べるばかりでその場から動こうとしない。

 

「貴様……っ! 邪魔をしなければなにもしないと――」

「なめてもらっちゃ困るね……! 僕は間桐家の当主で、桜は僕の妹だ! 僕は僕の事を見下すお前の事が気にくわないし、僕は僕の周りにあるものを誰かに好き勝手されるのが一番腹たつんだよ! だから誰がお前のいう通りになんて動いてやるもんか、このバァカ! ――ガ……っ!?」

 

叫ぶと同時に這い蹲った僕の体の上より圧が加わったのが感じられた。魔術回路のない僕にははっきりと分からなかったが、状況から推測するに、それはおそらく魔術師が僕を始末するための魔術回路を励起させてなんらかの魔術を使った証なのだろうと僕は判断した。

 

――く、そ……

 

このままでは奴の思い通りになってしまう。僕はそれだけは避けたかった。だからこそ僕は奴の目的であるらしい桜に僕を放っておいて逃げろと指示を出したわけだが、しかしそうして指示を出された桜は、どういった理由なのか走らないがあいもからわず呆然としているばかりで、その場から動く素振りすら見せていなかった。

 

――ああ、もう、この馬鹿が!

 

「――」

 

地に伏したまま、握りしめていた本に意志を伝えると、僕の命を受けた本が熱を帯びた。手のひらが焼けるような感触を覚えた途端、胸が昂ぶる。

 

――この家の機能はまだ完全には死んでいない

 

どうやらこの男のルーン文字は、一度発動した魔術をかき消す効力を保有してはいるが、新たに発動させる魔術を阻害する効力を持っているわけではいないようだった。

 

――なら……!

 

「む、貴様、何を……」

 

本を通して意志を間桐の家へと伝える。途端、家のあちこちから蟲が湧き出して桜の足元へと群れを為した。

 

「に、兄さ……きゃっ!」

 

群れた蟲達はそのまま桜をその身の上に持ち上げると、桜を廊下のすぐそばにある隠し扉からその内側へと運び込む。桜を飲み込んだ隠し部屋はすぐさまその扉を堅く閉じ、桜と外界との関係性を完全に遮断した。

 

「いいか桜! 蟲を使って常に外の様子を見張って観察しろ! 工房の結界が破られてもいいよう、何重にも魔術防壁をかけて破れられるたびに新しい防壁を張り続けろ! いいな!」

『に、兄さん!?』

「桜!」

『は、はい!』

 

命令に対して、鈍重な石壁の向こう側からは、桜の戸惑いがちな籠もった声が聞こえてくる。此の期に及んでそんなはっきりとしない態度をとる桜が気に食わなくて思い切り名を叫ぶと、漸くはっきりとした返事が聞こえてきて、僕はようやく安堵した。

 

――これで桜は安心だ

 

「――生殺与奪を握られたこの状況においてよく吠え、よく抵抗した」

 

自らの行為と目的の達成を邪魔された魔術師は冷たい声で述べる。同時に僕が手にしていた本はルーンの石によって廊下の奥へと弾き飛ばされた。これでもう僕の抵抗の手段はまるでない。僕は完全に無防備になってしまっていた。

 

「は、お前になんか褒められても全然嬉しくないね!」

 

本来ならば命乞いでもするのがこの場における正しいやり方なのだろう。けれど僕は、全身を凍えさせるような凛洌さを持つその声に対して、僕が怯えかけているという事実が何よりも気に食わなくて、押し寄せる恐怖に必死と耐えながら強がりの声を出す。すると体は思いのほか従順に僕の思いに反応し、精一杯の虚勢をはる事を可能とさせてくれていた。

 

「だが、その立派な覚悟と行動は今、私の邪魔だ。私たちはどうしても小聖杯が必要なのだ。前言を撤回して悪いが、間桐慎二。お前にはここで消えてもらう事としよう」

 

僕が言葉を話し終えると同時に、奴の体から発せられる圧力が高まった。全身を貫く悪寒がさらに強くなる。目の前に迫る死の予感に体はみっともなく震えていた。かつての聖杯戦争の時と同じように、僕のすぐ目の前には強者の手による死が迫っている。

 

死。二度と覚めぬ眠り。かつての僕が死ぬほど恐れた、僕がこの世から消えてしまうという現象。それが今再びこうして目の前に迫っている。でも――

 

――はん、まったく、そんなものがどうしたってんだ

 

不思議と以前死に瀕した時のような恐怖はなかった。そんないつかは必ず訪れてしまうものなんかよりも、今の僕の気持ちの方が大切に決まっているからだ。そうだ。こいつは僕を見下した、僕の家族に手を出そうとしたムカつく奴だ。だから邪魔する。するとこいつは腹をたてる。そうすると僕が嬉しい。自分が見下していた相手に自分の計画を邪魔される腹立たしさは、かつて聖杯戦争において衛宮士郎という男に邪魔をされた僕が誰よりも知っている。だから邪魔をする。一分の隙もない当然の結論だ。

 

僕は自分の導き出した答えと、そんな思い描いた未来を実現させつつある自分の手腕の良さに満足しつつあった。だからこそだろう、僕はまったくもってこんな、僕の妹を守るためだけに行った愚かしいだけの行為を後悔していなかった。

 

「最後に言い残すことはあるか」

 

男の手が赤く光る。呼応して奴のスーツケースよりルーンの石が浮かび上がった。同時に僕の体がまるで動かなくなる。おそらくこれ以上抵抗されないように体を固定する魔術かなにかをかけているのだろう。そんな中において、唯一、僕の口だけが自由を得ていた。遺言くらいは聞いてやるという奴なりの慈悲らしい。こいつは最後まで僕を見下すことをやめない。それが先ほどまで満足していた僕を何より腹立たせた。

 

――ほんっとにムカつく奴だよ、オマエ……!

 

だから。

 

「はん、お生憎様、魔術師でもない僕にまんまとしてやられたオマエになんか残してやる言葉なんてないね! あえていうなら、ざまあみろ、だ!」

 

全力で僕も見下し返してやる。魔術師の慈悲を一切の躊躇なく無碍にしてやる事こそが、今の僕にできる唯一の、そして最後の抵抗だった。

 

「そうか――」

「――っ!」

 

男の声が極寒のそれと化す。それきり僕は口の自由すらも奪われた。全身はもうまるで動かない。まるでピン刺しの昆虫にでもされたような気分だった。そんな標本にされる昆虫との唯一の違いは、奴は殺した僕の死体を決して丁寧には扱わないという点くらいだろう。奴は間違いなく、最後まで自身に抵抗の意志を示し続けた僕を跡形もなく消し去るに違いない。こいつからはそんなコミュ障気味な魔術師にありがちな完璧主義者の気配がプンプンとしていた。

 

「ならば――」

「――」

 

言葉と同時に背中にとてつもない熱を感じた。夜の闇の中、電気も付いていない家の廊下の暗がりが一気に白く照らしあげられる。目眩さが視界の全てを支配した。光の直射をモロに浴びている首筋がチリチリと熱い。

 

――僕は死ぬのか

 

そう思うと、今更ながらに恐怖心が湧き上がった。怖い。死の恐怖が全身へ行き渡る。心臓が耳煩いくらいに高鳴っていた。体が負の感情の熱を帯びてゆく。だからだろうか、頬と手のひらから伝わってくる床の冷たさがひどく気持ちよかった。やがて不快感はなくなってゆく。気付くと頭の中は静かだった。嫉妬と憎悪に満ちた十数年の月日がモノクロのまま頭をよぎってゆく。一瞬の間に駆け抜けていった悪意ばかりに彩られた走馬灯はやがていつか心臓を貫かれた記憶まで辿り着くと、途端に年月が十年ばかり吹き飛んだ。

 

直後、瞼の裏に、つい先日より半月ばかりの日々が映り出す。途端、光景が色付いた。それは決して華々しい日々ではなかった。映るのはかつて十年前の自分が望んでいた魔術師として大成した姿ではなく自分の妹である桜と過ごしたくだらない日々ばかりだったけれど、ただそれだけの心底平凡な日々に、自分は心底満足していたらしかった。

 

――ああ、なんだ

 

今更ながらに気付いた自分が望んでいたものの平凡さに、僕は心底呆れていた。混乱する頭は自身が最も幸せに過ごしていた日々ばかりをリフレインし、一瞬の間に半月の記憶が幾度となく繰り返される。やがてそれは、いつかの夜、おずおずとながら桜が僕へと見せた、笑顔へと変わった。それは僕の記憶にある限り、もっとも、綺麗な、心から僕に向けられた感謝の笑みだった。

 

――僕はもう、欲しいものを手にいれていたのか

 

桜のそんな笑みを見た瞬間、全身を支配していた恐怖が消え失せた。なるほど、これは巧妙だ。人間の体というものはよくできていると心底思う。こんなものを見せられては、もう、満足して死ぬ以外にもう選択肢などないじゃないか――

 

――桜……

 

桜。僕のただ一人の妹。ただ一人、僕の世話を見続けるためにこの街に残る選択をした、僕のただ一人残った家族。なんともセンチメンタルで愚かな理由だけれど、そんな僕のことを世話してくれた奴のために死ぬというのなら、こんな死に方も――、悪くはない。

 

――はっ

 

自分のロマンチズムに思わず心中で嘆息が漏れる。だが悪い気分ではなかった。僕はかつての僕が望んでいた魔術師として大成する未来を手に入れることはできなかったけれど、僕という存在が生きて何かを成し遂げた証をこの世に残せたというのであれば――

 

――もう未練なんてない

 

「死ね」

 

思ったと同時に、宣告。そして熱が放たれた。死の気配が近づく。そして僕は――

 

 

私の日常が崩れるのはいつも突然だ。家を揺るがす衝撃。耳をつんざく轟音。音もなく消えてしまった魔術結界。唐突に起こったそのすべての出来事の意味をまるで理解できなかった私は、エプロンを外すことも忘れて台所を出て、リビングを通過して、玄関へと続く扉を開く。すると。

 

「ようやくご当主のお出ましか」

 

扉の壊れた玄関にまるで見覚えのない人物が立っているのを見つけて、私は呆然とした。わけがわからない。頭の中は混乱と恐怖で真っ白く染め上げられていた。

 

「え、あ、どちらさ……に、兄さん!?」

 

それでもなんとか現状を把握しようと、情報を集めるために件の人物へと言葉をぶつけようとしたその時、その人物が手にしているものの正体に気付いて、私は反射的に大声をあげていた。急転直下に次々と入ってくる情報の奔流に驚いて体がまったくうごいてくれない。

 

「――っ、くはっ、っあ、っは、っは、はっ……」

「兄さん!」

 

硬直した私の体を動かしてくれたのは、宙より地面へと投げ出された兄さんが苦しそうながらも呼吸を再開したという事実だった。

 

「お初めお目にかかる、間桐の現当主殿」

「あ、え、あの、えっと……」

 

そうして兄さんに近づこうとした私と兄さんの間に、先程まで兄さんを苦しめていたその男は割り込んでくる。男が間桐の当主と私を呼ぶ事実と、そんな男がじっとしていてもわかるほど迸る魔力をあたり撒き散らしていることから、私はその男が魔術師であることをようやく理解した。

 

「私の名は――」

「何やってんだこのグズ! こんなやつどう見ても敵だろう! わかったらさっさと逃げろ、桜! こいつの狙いはお前だ! 」

「え……、えっ? 」

 

私の態度から、自分の正体が魔術師であることを間桐桜は理解した、と察したのだろう、男が状況にそぐわないほど丁寧に腰を折って自己紹介をしようとしたその瞬間、兄さんの罵声混じりの声が飛んできた。

 

魔術師の不自然な態度。そしてそれ以上に、あの自分勝手な兄さんが自分の事よりも私の事を優先しているという理解不能な事態が私の頭を混乱させて、私の体は再び硬直させられてしまっていた。なるほど、その時の私は、兄さんが言うよう、たしかにグズだった。

 

「貴様……っ! 邪魔をしなければなにもしないと――」

「なめてもらっちゃ困るね……! 僕は間桐家の当主で、桜は僕の妹だ!」

「――」

 

そんなおり、そうして混乱の渦中において硬直していた体に兄さんのそんな言葉が飛び込んでくる。途端、口を押さえて絶句した。

 

――僕の妹

 

兄さんの口にした言葉が信じられなかった。兄さんが口にした言葉と、それにいかなる意味が込められているかを知り、私は心底驚愕した。心が震えた。一瞬理解ができなかった。信じられない事だがどうやら私の兄は――

 

「僕は僕の事を見下すお前の事が気にくわないし、僕は僕の周りにあるものを誰かに好き勝手されるのが一番腹たつんだよ! だから誰がお前のいう通りになんて動いてやるもんか、このバァカ!」

 

――この私を守るそのために、目の前にいる魔術師と戦っているらしい。

 

「む、貴様、何を……」

「に、兄さ……きゃっ!」

 

驚愕が身体中を支配するさなか、突如として足元から伝わってきた悍ましくも慣れ親しんだ感触に体の硬直が解除される。驚いた頭は即座に今しがた自らの感情を多く引き出した兄へと意識を向けようとするも、体の方は突如として動きだした足元の蟲達に対応すべく反応してしまっていた。不安定に弄ばれる私の体では、倒れ込んだ私の兄である間桐慎二に対して助け舟を出すことができない。私の体は戸惑いを抱えた状態のまま、私にとって最も忌まわしい場所である、蟲蔵の中へと運び込まれてゆく。

 

『いいか桜! 蟲を使って常に外の様子を見張って観察しろ! 工房の結界が破られてもいいよう、何重にも魔術防壁をかけ続けて破れられるたび新しい防壁を張り直せ! いいな!』

「に、兄さん!?」

 

蟲蔵の重い石の扉が閉じられた瞬間、兄さんから指示が飛んでくる。兄の身を捨てての献身行動が信じられず、兄の指示が理解できず、私は混乱する頭のまま、石の扉に張り付いて兄を呼ぶ。十何年もの間私をこの場所から逃さないようにするべく立ち塞がっていた蟲蔵の扉が、私をこの場所に閉じ込めるためでなく、私を外敵から守るために機能していると言う事態が、なんとも皮肉に感じられていた。

 

『桜!』

「は、はい!」

 

混迷する事態を前にして剥離しかけていた意識を、兄さんの呼びかけがその場へと押しとどめる。言われるがままに魔術回路を起動させ、蟲蔵の結界を強化して幾重にも貼り重ねると、その瞬間に、石扉の外から魔術師の男の重苦しい声が聞こえてきた。

 

『――生殺与奪を握られたこの状況においてよく吠え、よく抵抗した』

『は、お前になんか褒められても全然嬉しくないね!』

『だが、その立派な覚悟と行動は今、私の邪魔だ。私たちはどうしても小聖杯が必要なのだ。前言を撤回して悪いが、間桐慎二。お前にはここで消えてもらう事としよう』

 

壁の外に感じられる魔力が強くなった。宣告に全身から血の気が引いて行く。兄さんが殺されてしまう。恐怖に体が慄いた。どうにかしなければならないと思ったが、体は動いてくれなかった。小聖杯が必要、という言葉が私の体をその場へと縫い付けていた。小聖杯とは私の事だ。それは間桐臓硯に改造された、私の体のことだった。

 

魔術師の狙いは私だった。そうとわかった瞬間、先程のそれを上回る恐怖が全身を覆い尽くしていた。重圧はまともに息をする事すら不可能とし、即時に私の体を過呼吸の状態へと叩き込む。息が苦しい。胸が苦しい。――だれか、だれか、助けてほしい。

 

『最後に言い残すことはあるか』

 

痛苦と懊悩が身体中を駆け巡っている最中も、状況は刻一刻と進んでいる。兄さんが処刑されてしまうその瞬間はもうすぐそこまで迫っていた。ここにいるのは私だけで、私だけが兄さんを助けることのできる唯一の人間だった。

 

――兄さんの言いつけを破って助けに出るか、兄さんの言う通り蟲蔵にこもって状況が過ぎ去るのを待つのか

 

兄の命を取るか、私の安全を取るのか。私は選択を迫られていた。そんな選択など望んでいなかった。もちろん人として正しいのは兄の命を取る方だろう。私の好きだった先輩なら、間違いなくそうしただろう。私の憧れだった私の姉さんだったのなら、いい案を思いついたかもしれない。とにかく彼らなら、迷わずこの状況下において蟲蔵を飛び出して兄さんを助け出そうとしたはずだ。

 

そして私の中の彼らに憧れる心は、この場から飛び出して兄さんを助け出せと言っていた。しかし私の中の魔術師としての心と、保身を望む私の醜さは、兄さんの言う通り、この場に留まり、嵐が過ぎ去るのを待つべきだと告げていた。――ああ。

 

――私、一体、どうしたら……

 

押し迫る状況。どちらを選んでも傷つく選択。そんなものをしたくなどなかった。そんなものをして来た事などなかった。だって私は常に支配され続けてきた。私には常に先導者がいた。私の支配者が選ぶ道はどれも苦しいことばかりだったけれど、私はそんな彼らの手によって、常に死なないギリギリのラインを渡り、私はこうして生きてこられたのだ。

 

――だれか……

 

自分で自分の生き方を決めるなんてことも考えたこともなかった。誰かに救ってほしい。そんな依存こそが私の本質だった。助けてほしいとそう思った瞬間、好きだった先輩の顔が闇の中に薄白く浮かびあがってきた。

 

――先輩……

 

衛宮士郎。正義の味方なんて空想にすぎないようなものを目指していた、綺麗な心を持った先輩。そうだ。私は先輩がそんな先輩だったから憧れた。憧れて、憧れて、憧れ続けて。やがて穢れた私でも近くにいたいと思うくらいに憧れて、近くにいるために料理をしたいと思うくらいに憧れて、少しでも近くに居続けたいと思うくらいに憧れて、しかし、いつしか目指していた正義の味方になるため、私の前から消え去ってしまった、そんな先輩。

 

先輩は立派だった。先輩は自分の進むべき道を自分で選び、そして旅立った。私も本当はそんな先輩について行きたかったけれど――、私はそんな先輩について行きたいと一言を言うこともできずにいた。だってその時、私はすでに間桐の家に捕らわれ続けていた。私は間桐の家の呪いで穢れきっていた。

 

私は醜かった。呪いで穢れきっていて、私は先輩の重荷にしかならない女だった。だから私はそんな先輩には相応しくないと知っていたからこそ、私は先輩に何も言わずに全てを諦めて舵取りを他人に委ねて――

 

『はん、お生憎様、魔術師でもない僕にまんまとしてやられたオマエになんか残してやる言葉なんてないね! あえていうなら、ざまあみろ、だ!』

「――兄さん!?」

 

あまりにも重すぎる選択を迫ってくる現実からの逃避を行なっている頭に、突如としてそんな声が飛び込んでくる。声は瞬間的に外で傷だらけで伏しながらも命乞い一つの言葉すらも発しないまま死にゆこうとしている兄さんの姿を幻視させた。兄さんのそんな覚悟の思いがこもった言葉が私の醜い虚飾を剥がして、真実が露わとなる。

 

――違う

 

そうだ、違う。私がそうして先輩に何も言わなかったのは、何も先輩が私の体に纏わり付いている穢れによって汚れてしまうのを嫌ったわけじゃない。私はただ傷つくのが怖かっただけだ。私は先輩に真実を話して、助けを求めて、私が汚れきった女であると知られるのが怖かった。真実を話せば、きっとそんな先輩のことだから、先輩はなんとしても私のことを助けようと試みただろう。聖杯戦争終結直後の騎士王であるセイバーさんをサーヴァントとして携えていた姉さんがすぐ近くにいた頃の先輩であったなら、私は完膚なきまでにこの薄汚れた蔵から救い出されていたかもしれない。

 

しかしそれは同時に、私の汚れきっている姿を憧れの先輩に晒すと言うことでもある。私はそれが嫌だった。私は先輩に汚れていると言うことを知られたくなかった。他の誰かにならば知られても構わない。けれど私は先輩にだけは、どうしてもそれを知られたくはなかった。

 

真実を知った時、それでも先輩ならば、嫌な顔一つせずに私を受け入れてくれるだろう。もしかしたら同情して、姉さんではなく私をパートナーとして選んでくれていたかもしれない。そうだ。だからこそ私は、先輩に語らなかった。

 

そうして、他人の同情を誘い、あまつさえは、傷つくことを嫌がって欲しがるばかりの自分が嫌いだった。呪いなどを除外したとしても、こんなにも醜い自分の内面を見られて、先輩に失望されるのが怖かった。知られたら先輩とこれまでの関係でいられない。先輩はきっと許してくれるだろう。姉さんもきっと、怒りながら私を受け入れてくれるはずだ。でも、そんなことになったら、他でもない私自身がそれを許容できないし、受け入れられない。

 

だから諦めた。私は私が傷つくのが嫌だった。私から傷つく選択をするのが嫌だった。だからこそ私は諦めた。だからこそ私は、私を絶対に傷つけない、しかし私のすぐそばにいてくれる存在を望んだ。そうだ。私が兄さんを助けたのは、そんな薄汚い保身と承認欲求こそが全ての理由で真実だ。私は人形でありたかった。私は私を傷つけない人形が欲しかった。私はこんな薄汚れた私と言う存在が、しかし誰かに欲される存在であることを証明したかった。だからこそ私は、間桐慎二という、私の汚れの全てを知る、私の家族を助けたのだ。

 

「そうか――」

 

そして兄さんは私と同じく間桐の泥に汚れた存在だった。私を汚した間桐の人間だった。私と同じく自己保身ばかりを優先して、事故の欲求のままに女を貪り、自らのプライドが傷つけられる事をなによりも嫌う人間だった。そう。

 

――そのはずだった

 

なのに。

 

――ああ

 

「ならば――」

 

瞬間、この半月の出来事が思い出された。目覚めた時に兄さんは兄さんのままだった。けれど自室に戻った後、兄さんは変わった。兄さんは態度こそ昔のそれと変わらなかったけれど、纏う雰囲気は、かつての兄さんのそれと異なっていた。

 

『――ん、うまい。おまえ、基本的にグズだけど、料理の腕だけは僕も認めてるんだよ』

 

兄さんは変わっていた。兄さんは、言葉こそいつものように私を虐めるような口調だったけれど、その中に含まれている成分は、いつか私がこの家に引き取られてきてから私が魔術の教育を施されていると知るまでの兄さんのようだった。

 

『お前さ。ほんっと、馬鹿だよな』

 

そう。兄さんは、いつか、私を家族としてみてくれていた頃の兄さんに戻っていた。

 

『お前の体が汚れてて、他人に食わせる価値のない料理を作るってんなら、そんなお前の作った料理を美味い美味いって食べて褒めた僕はなんだっていうわけ?』

 

兄さんは私がどれほど汚れているかを知っている。でも兄さんは、そんな私がどれだけ汚れた存在であるかを知っていながら、そんなことをまるで気にしないと断言して、十年の眠りから起きた人さんは、いつかかつて姉さんが私に向けてきてくれたような、あるいは先輩が姉代わりであった藤村先生に向けていたような、そんな、家族に向けるような、愛情のこもった優しい瞳と遠慮のない言葉を私へと向けてくれていた。

 

『お前の言うことが正しいとしたら、僕がとんだマヌケみたいじゃないか。おまえ、僕を馬鹿にしてんのか。そんなくだらないこと気にしてる暇があったら、どっかで働いてこいっていってんだよ、このグズ。そんでもって少しでも僕を楽にさせろ。二度も同じこと言わせんなよ、このバカ』

 

兄さんは今、私にとって、唯一の家族であり、理解者だった。そんな兄さんは今、傷だらけになりながら、私を守るために死にゆこうとしている。私の汚れを知って、しかしそんなものがどうしたと言うんだと言い切ってくれた人が、今、私の為に死のうとしている。兄さんが死のうとしている。兄さんが死んでしまえば、この呪われた家に私は一人ぼっちになってしまう。――ああ、それは。

 

「死ね」

 

――なんて、辛く、耐え難い出来事なのだろうか

 

「やめて!」

 

思った瞬間、私は瞬間的に結界を解除して蟲蔵の中から飛び出していた。石蔵より廊下へと飛び出したその瞬間、廊下に満ちていた熱気が肌を焼き、私のそばにいた蟲達が悲鳴をあげながら蟲蔵の奥へと引っ込んで行く。

 

「――」

「――」

 

その場にある二つの視線が私へと集中する。視線は二つとも意外なものを見る目だった。一つは状況を驚いてのそれであり、一つは私の行動を責めてのそれだった。

 

――この、グズが!

 

そう。兄さんが向ける視線は私の行為を責めていた。その視線から先ほどの指示がどれほど私の事を思っての行為なのかを悟り、私の心に喜びが満ち溢れた。行動の代償がこんな嬉しい痛みなら大歓迎だと思った。これまで胸にあったわだかまりが全部吹き飛んでゆく。伏した兄さんが命をかけて私を守ろうとしているその事実に、意識は驚くほどの明朗さを取り戻していっていた。

 

「……、やめて、ください」

「おい、このマヌケ。グズ。誰がそこから出ていいって言った」

 

兄さんが私を罵倒する。罵倒されるたび、私は自分の選択が間違っていなかったのだと、自分を褒めたくなる。私は初めて、自分の行動を自分で認められつつあった。私の行動が兄さんにとって望まぬものと知るほどに、私はそうして兄さんに対する好意が大きくなり、同時に私自身を好きになれてゆく。兄さんの素直じゃない愛情表現は、私を着実に成長させてくれていた。

 

「……事情はわかりませんが――」

 

魔術師の目を見る。中肉中背ながらも、その体のうちに秘められている魔力量は膨大だった。傍にあるスーツケースから飛び出したのだろうルーンの刻まれている石群も、それだけでいつぞや私が召喚したライダーというサーヴァントと戦えてしまいそうな気配を発している。目の前にいる男は間違いなく一流と呼ばれる魔術師だ。私はそう確信した。

 

「――貴方の狙いは私なのでしょう?」

 

確信したが故に抵抗を諦めた。ここは間桐の家で、すなわち私の領域だ。全力で抵抗すればそれこそ目の前の魔術師は倒せる可能性だってある。けれどそんなことになれば、魔術回路を持たない、魔術を使えない兄さんは、間違いなく、死ぬ。

 

「大人しくあなたについていくと誓います」

 

兄さんが死ぬ。私のたった一人の家族が失われる。私を家族と呼んでくれた、私のそばにい続けてくれた人が死んでしまう。私が傷つくのはいくらだって耐えられる。でも、私の代わりに私の兄さんが傷つき、そして死に至る。そんなこと、とてもじゃないけれど、弱い私には耐えられそうに、ない。

 

「だからこれ以上兄さんを傷つけるのをやめてください」

 

だから素直に相手に従うことにした。兄さんが傷つくくらいなら、私が傷つく方がマシだと思っての行動だった。そう思えるようになった自分が少しだけ誇らしかった。

 

「……承知した。こちらとしても君の身柄が確保できるのであれば、依存ない」

「やめろ! おい、桜! 僕の命令だ! そんな奴に従うな! お前は僕の命令だけ聞いてりゃいいんだよ!」

 

魔術師は承諾し、兄さんが吠える。兄さんの言葉は真剣で必死だった。そうしてがなりたてる兄さんは以前のままに兄さんで、しかし言葉に含まれている指示の成分が以前までと真逆のものである事を感じるほどに、私は私の選択の正しさを確信し、だからこそ私は――

 

「ごめんなさい、兄さん」

 

兄さんの言う事を聞けない。

 

「桜! おい、お前! やめろ! ――ぐ……っ!」

 

兄さんが暴れようとした。そんな兄さんを魔術師が魔術を使って抑え込んだ。兄さんの体にさらなる重圧がかかる。魔術によって兄さんは瞬時にその場へと再び縫いとめられていた。その手並みは魔術回路の励起から魔術の発動に至るまで全ての工程が鮮やかで、私はこの魔術師の腕前が相当高いのだと言う事を悟るとともに、事情はわからないけれど確かにこの魔術師は兄さんを殺す気がないらしい事を知り、私は安堵した。

 

「――」

 

私は私の意志で廊下へと一歩を踏みだす。私が確かに自らの意思でついてくる事を確信したのだろう、魔術師が家の外に出た。私を閉じ込めていた間桐の家の扉はすでに存在せず、外への出口は完全に開かれていた。玄関から飛び込んでくる月光が、傷だらけの兄さんを誇らしく照らし、私の進む道までを明るく照らしあげてくれている。

 

「桜! ……おい、……この、……グズ!」

 

横を通り過ぎようとすると、地面に這い蹲っている兄さんが、私の足へと腕を伸ばしてきた。

 

「このバカ! トン……――ぐ……っ!」

 

そして伸ばされた腕が私の足へと到達するより前に、叫ぶ兄さんの声がいきなり小さくなる。どうやら魔術師が兄さんの体にかけている重圧の力を増やしたようだった。ザリザリと耳障りな音がする。発生源を見ると、音は重圧の魔術をかけられているのに無理やり動かした影響で、兄さんの服と掌の表面が削れる事によって生まれていた。

 

「――っ」

 

兄さんの裸掌と床の間には、真新しい擦血痕が残されていた。なんとも無茶な事をする。けれどその無茶が自分のためではなく、私の為だと思うと、それだけで胸の内が熱くなった。

 

「兄さん……」

 

溢れる想いに素直に従い、しゃがみこんで兄さんの体に触れると同時に魔術回路を励起させた。直後の魔術の発動に伴って私の体に多少の快楽が生まれた。引き換えに、兄さんの傷が癒されてゆく。

 

「本当に不出来な妹でごめんなさい。でも、最後に一回だけ、兄さんの妹として、わがままを許してください」

「さ……、く……、ら……」

 

同時に回復魔術の力によってそれまで以上の無茶が効くようになったと判断したのか、傷が癒えつつある兄さんの腕はこれまで以上の素早さと力強さを伴った動きで魔術を発動している私の腕へと伸びてきた。血液が潤滑剤になったのか、兄さんの手はこれまで以上に滑らかな動きで床へとおりていた私の腕をつかもうとして――

 

「そこまでだ」

「ぎ……っ」

 

しかし兄さんの腕は虚空を切ることすらなく、魔術師の用いる重力変化魔術によって再び地面へと縫い付けられる。兄さんの顔が苦痛に歪んだ。肉体の露わになっている部分のあちらこちらが鬱血したかのように変色しつつある。その痛みに堪えるかのように歯ぎしりするその顔を見ているのがつらくて兄さんの体にそんな現象を引き起こしている張本人である魔術師の顔を眺めると、冷たい視線で私たちを眺めているその男はしかし私の意図を読み取ったようで、途端に兄さんの体のあちこちの箇所に発生していた血液の滞りが失せて行き、皮膚上の変色が薄らいでゆく。

 

「……はっ、ぁ……っ!」

「兄さん……」

 

唐突な過度の重圧からの解放により身体中の器官が驚いたようで、兄さんの呼吸は乱れ、全身が軽く震えている。突如として大量の血液が流れ込んだ影響だろう、目の焦点が定まっていない。意識が朦朧としているのかもしれない。そんな兄さんの状態が今だけは都合が良かった。

 

「私を最後まで家族として扱ってくれて、ありがとう――」

 

礼を言って兄さんの手に触れると、ズシリと肩が外れるかと思うほどの重みがのしかかってきた。指先で触れただけでこれなのだ。もしこうして伏しているのが私であり、全身にこれほどの重圧を加えられたのなら、それこそ動くどころか全身の骨が折れてしまいそうだ。

 

そんな事を思うと、改めてこれほどまでの重圧に耐え、しかもその上で私の身を気遣ってくれた兄さんに感謝の気持ちが湧き上がる。まるで先輩がそこにいるみたいだ、と思った。

 

「――――――、桜!」

「さよなら、兄さん」

 

兄さんが手を伸ばしてくる。虚空へと伸びたそれに応じる事なく、私は玄関から外に出た。雲間伸びてきた月明かりが私を照らしあげる。自らの意思で踏み出した一歩を歓迎するかのように、空には綺麗な満月が浮かんでいた。

 

 

「あの、バカっ!」

 

全身にかかっていた負荷が消失するのと同時に、頭痛、立ちくらみ、気怠さを訴える全身の弱音を全て無視して、起き上がり、そのまま玄関から飛び出した。

 

「桜!」

 

玄関を飛び出てその名を叫ぶも、声に反応するものはすでに誰一人として存在しなかった。妹を奪われた無様な男の声だけが妹の手によって再度張り巡らされた結界の中にこだまする。消音の敷かれた間桐の家の敷地内は嫌になるくらい静寂で、驚くほどに生気が失せていた。それらの全てが僕の無様の証のようで――

 

「〜〜っ!」

 

僕は思わず拳を握りしめていた。魔術師に対する憎みと僕の言うことに従わなかった桜への怒り。そしてなにより魔術師相手に何もできなかった自分の無様さを憎悪して、強く、硬く、拳を握りしめていた。拳を握った腕が震えている。頭は今すぐにでも溜め込んだ力を解放しろと訴えていた。そして。

 

「あ……っ、の、クソバカ野郎!」

 

湧き上がる激情を残らず込めて、あらん限りの力を込めて外壁を殴りつけた。途端、鮮血が舞う。強化の魔術なんていうものを使えない、武術を納めたわけでもない、鍛えていたわけでもない僕の腕は、防護の魔術がかけられた堅牢な外壁の前にあえなく敗れていた。

 

瞬間的に鋭い痛みが脳裏へと届き、愚行をやめろと訴えてくる。だがそんな冷静な意見など知るかと言わんばかりに、皮がめくれるのも無視して、僕は全力での殴打を続けていた。

 

「誰が! お前は! 僕の! あの! ――っ!」

 

怒りと憎しみで言語中枢なんてまともに働いてくれなかった。ぐちゃぐちゃとした思いがそれ以外の全ての体の訴えを無視させていた。

 

「どいつもこいつも、この僕をなめやがってぇぇぇぇぇぇ!」

 

殴る。僕の拳はやわで、間桐の壁はうんざりするくらい堅牢だった。僕の拳から血が流れ、脳を突き刺す痛みが走り、そうして間桐の家の堅牢さが証明されるほどに、そんな堅牢さを誇るにもかかわらず、家族一人守ってくれなかった無能さに腹がたつ。だからさらに力を込めて殴り、僕の拳は余計に血に塗れ、脳髄を激痛が走り回ってゆく。

 

「クソ! クソ、クソ!」

 

痛みがさらに腹立たしさを誘発して、僕は余計に腹立たしくなる。そして、何より腹立たしかったのは、そんな便利な道具を持っていながら、家族一人すらまともに守る事が出来なかった自分自身だった。

 

「クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソォォォォォォォォ!」

 

僕は僕の無力を責めるために、堅牢な道具めがけて僕の拳を打ち付ける。堅牢なだけで役に立たない聳え立つ間桐の家は、まさに僕自身だった。実力が伴っていないくせに理想だけは高く、結果として、何一つとして目的を達成する事が出来ない。

 

「馬鹿が! 誰がかばってくれと言った! 誰が守ってくれと言った! 誰が哀れんだ目を向けろといった! 誰がお前のわがままを聞いてやるといった!」

 

守るべきだった相手に守られてしまった。そうして見下していた相手が、自分よりも立派で、自分に対して憐憫の視線を向けていた。

 

「誰がっ!」

 

――そんな目を僕に向けろと言った!

 

殴打が止まる。出来事は、昔、桜が僕を差し置いて間桐臓硯から次代間桐の魔術師としての教育を受けていたのを目撃した時の事を思い出させて、僕のコンプレックスをこれでもかとくらい位に刺激する。――ああ。

 

――あの頃から僕は何一つとして成長していない

 

「――っ、こっ、の……っ!」

 

あの時から僕は一歩も成長してなくて、僕と桜の関係性は何一つとして変わっていなかった。桜は僕の優れた魔術師の妹で、僕はそんな桜よりも劣った、魔術師に憧れるだけの凡人だった。怒りではらわたが煮えくり返っていた。惨めさに我が身が焼き尽くされそうだった。追いかけて湧き上がってきた激情を込めようとさらに拳を強く握りしめると、これまでにないくらい鋭い痛みが脳天を直撃した。

 

「――〜〜っ!」

 

僕の頭は肉がすでに抉れつつあった腕の怪我が骨まで到達したかもしれないと判断した時点で自己防衛本能を働かせ、やるにしてもせめて腕の使用ではなく足を使用しての八つ当たりにしておけとの命を下してくる。

 

「役立たず! クソ! あのクソ野郎! 桜め!」

 

はたして言葉は誰に対する罵倒だったのか。怒りの感情を発露させる事すら貫き通せない自分の情けない根性に尚更腹が立ち、足を思い切り振りかぶると、壁を思い切り蹴りとばし、そのまま連打する。すぐさま軟弱な僕の足の裏は痛んだ。ヤスリをかけたかのように靴の裏が削れてゆく。殴打から蹴打に変えた事で痛みは軽減した。しかし欠落した痛みの足りないを埋めるかのよう、より多くの自責の念が湧き上がり、僕は余計に苦しくなる。

 

「――はっ……、はっ……」

 

息苦しさに気がついた時にはやがて靴の裏が削れきり、足裏が露わになっていた。足の裏からは鮮血が舞い、しかしやはり壁に傷は一つたりともついていなかった。

 

「は、はは……」

 

不毛な行為を繰り返している自分と、自分の無力さが唐突に情けなくなって、僕は力なく膝から崩れ落ちた。血だらけとなった両手で地面を掻く。爪痕が地面へと残されていた。魔術のかかっていない地面であるならば、非力な僕であっても影響を及ぼす事ができる。そんな事実が自分の無力さをいっそう露わにしているようだった。

 

――は……っ!

 

「まったく、情けないったりゃありゃしない……っ!」

 

無力の証明を力一杯握りしめる。冷たい土塊は体から熱を奪ってゆく。動かした拳がズキズキと痛んだ。ぬるりと拳の表面から血が垂れ落ちる。抉れた肉を風が撫ぜる感触が気持ち悪かった。しかし何より、気持ち悪いのは――

 

――心のどこかで助かったと安堵している僕自身だ……!

 

「はっ、ははっ……」

 

こうして怒りの発散をするその態度にすらも自己を慰めて満足させるための虚飾が混じっており、空疎な虚栄心から生まれたものに過ぎない部分が多数混じっていること。殴って自分を痛めつけたのだって、僕は桜を攫われて無様を晒した自分にこんなにも怒っていると自分に知らしめるための儀式にすぎない一面があるという事実だった。

 

自らの行動の分析し終えた瞬間、薄々気付いていた自分の浅ましい本質を確信していやになる。僕はどこまでも真剣になる事が出来ず、『慎二』という名前の通り、慎みが二番目に来る気質だった。魔術以外のおおよそ全ての出来事を上手くこなせてしまう僕は、だからこそ真剣に何かに取り組む事が出来ない。自身の感情の発露ですら、痛みに阻害されてしまいこのザマだ。

 

――まったく、ホントに情けないのは誰だっていう話だよね……!

 

虚飾。虚栄。虚妄に虚勢。虚実に虚偽に虚言に、そして空虚と虚無。僕の人生はそんなものばかりだ。たいして欲しくもないものはすぐに手に入るくせに、心底望んだものは手に入らない。どれだけ望んだとしても、望んだものは望んだはし、掌から溢れて消えてゆく。

 

結局僕の手にはなにも残らない。僕の手は望んだものをなに一つとして手に入れられない。それは魔術といった非日常の僕にとって手の届かない領域のみならず、僕と僕の家族の平穏といった、すぐそこにあった日常のささやかな幸せさえも――

 

「――っ!」

 

手に入れることが出来な――

 

――はっ、冗談!

 

思いかけた瞬間、弱気をかみ殺す勢いで、ギリギリと歯を噛み締めた。

 

――誰がそんなこと認めてたまるものか!

 

「おい、桜! 聞こえているか! 」

 

土塊を握りしめたまま立ち上がると、砕けそうなくらい食いしばっていた歯を解放して、大きな声で叫ぶ。きっとこの声は桜に届かない。そんなことは承知の上で、僕はそれでも全力で空へ向かって咆哮する。

 

「よくもこの僕のいうことに背いたな、このグズめ! お仕置きだ! 僕はいつか絶対にお前を取り戻す! そして、お前にまたひどいことをしてやる! 絶対に! 絶対にだ!」

 

この誓いすらも、自分を情けない格好つけるための虚飾に過ぎないかもしれない。誰にも聞かれぬ、僕自身信じきれていない、真剣さを伴わないこんな行為に価値などないだろう。けれどいつか必ず、真剣にやり遂げ、真実にする。

 

――僕は間桐の家の長男で、僕の名前は間桐慎二だ。なら、出来ないはずがない!

 

「だから待ってろ桜! たとえどれほど時間が経過しようと、たとえどれだけ姿が変わろうと――、たとえ名前が変わっていようと、いつか必ず僕はお前を取り戻してみせる!」

 

――なぜなら

 

「お前は僕の妹なんだからな!」

 

僕は僕の名前に誓い、握りしめていた土塊を天にばらまく。血に染まった砂塵と未だに止まらぬ血液が舞い、視界を赤く染め上げた。見上げれば夜空には満月が不気味に浮かんでいる。月はいつまでも惨めな僕のことを見下ろしていた。

 

 

「……兄さん?」

 

これまでに聞いたこともないような兄さんの雄叫びが聞こえた気がして振り向く。防音、防弾処理の施されたガラス越しの向こう側からは月明かりに照らされた光景が飛び込んでくるばかりで、音などほとんど聞こえてこない。僅かにばかり聞こえてくるのは、エンジンの稼働音と、クーラーの少しばかり大きな風の音に、二人分の呼吸音だけだ。微細に耳をくすぐるそれらの細かな音がその場にある全てだった。

 

「どうした?」

「いえ……なんでも」

「そうか」

 

それきりその男はなにも言わない。男は私に対して魔術の拘束すらおこなうことなく、ただハンドルを握り続けるばかりだった。なめているのだろうかという考えが一瞬頭をよぎり、不意をうてば倒せるかもしれないと考慮もしたが、やめた。私がそんな僅かな稚気を抱いた瞬間、運転席にいる男の気配が膨れ上がったからだ。

 

その対応によってこの人の真意に気がつく。この人はなめているとか油断しているとかではなく、先ほど間桐の家で私に言った通り、私がなにもしなければ危害を加えないという誓いを守っているだけなのだ。この人はその気になれば迷わず私を攻撃してでも拘束する。間桐の家の防衛を打ち破るほどの実力をもっているのなら、今この場で戦いにおいては素人の魔術師に過ぎない私が抗ったところで、私はあっけなく拘束されるだけだろう。この人はそれができる実力の持ち主だ。なら――

 

――無駄な抵抗、ですね

 

抵抗の完全に無意味を悟ると、今度こそ完全に力を抜いて柔らかい背もたれに身を預けた。途端、魔術師の男が纏っていた剣呑な空気が霧散する。肩の力を抜いて窓の外を観ると、見慣れた冬木の風景が流れてゆく。そういえば自動車に乗るのなんて久しぶりだ。大抵の魔術師がそうであるように、私のところの祖父も自動車含む機械をあまり空いてはいなかった。所詮は魔術師でない人間が発明したものを嫌う傾向が、魔術師にはある。

 

この人は時計塔の魔術師だと聴いている。ロンドンの時計塔といえば世界中の魔術師が集う、それこそ魔術師という存在の聖地みたいなところで、それ故にそこに集まる魔術師も、そういった古い考え方を踏襲したものばかりであると聞く。そんなところから来た伝統を重んじていそうな魔術師のくせに機械はふつうに使うんだな、と、考えると、少しばかり愉快な気分になった。

 

そこで気付く。

 

――ああ、そういえば。

 

「あの……」

「なんだ?」

「その、今更なのですが、なぜ貴方は私を攫ったのかな、と」

 

 

「だからこそ私たちは、小聖杯であり、先天的に架空の魔術特性を持ち、後天的に水の属性を獲得した、間桐桜。君を攫ったのだ」

 

男の言葉を聞いた途端に緊張がほどけ、全身から力が抜けた。力なく深く背もたれに身を預ける。

 

「――そうですか」

 

息を深く吸い込んでから吐くと、憂いを帯びた吐息がクーラーから垂れ流される温風の中へと搔き消えてゆく。

 

「納得したか?」

「――納得はできていません。でも、貴方達の目的の理解はしました」

 

上品な布地に覆われた車の天井を見上げと、目を瞑った。世界平和。そんな私から最も程遠い、先輩が目指していたもののために私が必要とされているという皮肉じみた事態がなんとも可笑しかった。

 

「なぜ笑う?」

「――え?」

「この計画が実行されればお前の身は完全に聖杯として変換され、その存在を固定される。それは人間としての死に等しいはずだ。なのになぜ君は笑ったのだ?」

「――えっと……」

 

なんと説明したら良いのだろうか。そう悩んでいると先輩の顔が浮かび、自然と答えまでもが浮かび上がってきた。

 

「きっと嬉しいからです」

「嬉しい?」

「はい。私は昔、先輩と同じ道を歩こうと考えるなんて烏滸がましいと思っていました。いえ、今でもそう思っていますし、こんな汚れた体で先輩に会いたくないとも考えています。でも――」

「……」

「そんな私でも、先輩が目指した夢と同じ夢を見ることはできるし、必要されることもあるんだな、って、そう思って……、そう思ったら、ちょっと、嬉しくて……」

 

――でも

 

「ああ、でも――」

 

――出来ることなら

 

「一度でいいからそんな夢を先輩の隣で見て、先輩と一緒にその道を歩いてみたかったな」

「……」

「そして、出来ることなら、綺麗になった体で先輩と一緒に正義の味方の道を歩きながら、ようやく私を家族として認めてくれた兄さんとずっと一緒に暮らしてみたかった――」

 

男はなにも言わない。車はいずこかに向かって疾走を続けている。ゆらゆらと揺られながら、私はそんな叶いもしないだろう夢想を、いつか叶えばいいな、なんて馬鹿みたいな事を考えながら、私を必要とするその人の元へと運ばれていく。

 

夢は叶わないからこそ夢という。けれどいつかあるいはこの夢が叶うのだとしたら――、私はどんな事をしてでもそれを叶える為に、あらゆる手段を講じてでも成し遂げようとするだろう――

 

 

Blue Blue Glass Moon, Under The Crimson Air.

 

Cherry blossom is cut out.

Man is lost his soul fragment.

 

――Will I go ?

To be sure, I will.

 

閑話 月姫 終了




いつもお読みになってくださり、ありがとうございます。

やろうとしてる事を詰め込みすぎていて、話の本筋が理解しにくい。キャラが増えすぎて管理しきれなくなってきている傾向が見受けられる。我ながら大きな反省点です。書いてる本人ですらこう思っているのですから、ご一読くださっている皆様に至りましては、さらに理解が難解なものとなっているでしょう。真に申し訳ありません。

読み返してみると、私自身なんだこりゃ、と思うところもチラホラと出てきています。が、一度はこのまま最後まで突っ走ることとします。完成形をみてから、修正すべき所を修正したいと思います。どうかご了承ください。

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