Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
第十二話 月と巨人の幻想
大地。海。天空。そしてそこに住まう全ての生物。今や世界を構成する全ての成分が混淆した厭魅によって生まれた蠱毒は、世界を深黒晦冥へと塗り替えた。無明の帳が降りた舞台の上、闇の中に放り込まれた女神と、闇より生まれた女神という二柱の華が瀝青として存在していなければ、自らという小舟は闇との境界すら定まりそうにない。
だというにも関わらず、そんな状態がなんとも生温く、心地よい。
気を抜けば心すらも溶けていきそうな闇の中、耳に痛いくらいの静けさだけが辺りを支配していた。駘蕩と流れる時の中、誰も、何も、語ろうとはしない。闇の中、一組の拘束された男女を前にして、闇の呪縛により男女より自由を剥奪した女は静かに笑っている。
間桐桜。それが目の前にいる、生前、女神となる以前の女の名だった。衛宮士郎という男にとって間桐桜とは、美しく、儚く、弱気で、しかし強情な所もあった同じ部活の後輩であり、また、自らが手ずから料理を仕込んだ妹分でもあった。
かつて衛宮士郎という男の日常の証であり、メルトリリスによれば無聊を託ちていたという彼女は今、世界の全てが溶け込んだという闇の中、元英霊である自らと女神の転生体たるメルトリリスを拘束している。そんな非日常的な事態がどうにも信じられず、エミヤは桜の顔をまじまじと見やった。すると、視線に気づいた桜は、どうしましたか、先輩、といって、静かに語りかけてきた。耳より染み入ってくるあまりに甘い桜の声によって、混乱している脳裏へととろけそうになるくらいの快楽が生じ、思わずおののく。同時に、確信した。
――目の前のこの桜は、もはや自分の知っている桜という存在ではないのだということを。
純粋に自分を慕ってくれていた少女が今や魔性の存在になっている。あは、と桜の姿をした女は無邪気に、妖艶に笑った。エミヤが現実を受け入れようと必死の試みる姿があまりに滑稽に映ったのだろう。
「我慢しないでいいんですよ、先輩」
倒錯した異常が呼び水となったのか。闇を身に纏う異常を体現する桜の姿をした存在が甘ったるい声を発した。瞬間、周囲を支配している闇が彼女の声と共振。闇に拘束されたエミヤの全身へと恐ろしいほどの異常が発生する。エミヤの全身へと襲いかかってきたものの正体。それは、抗うことをやめてしまえばその時点で人としての存在意義すらも失ってしまいそうな快楽だった。
気を抜けば気をやってしまいそうな魔性の快楽に耐えるため、エミヤは必死に奥歯を噛み締める。今や、無音の闇の中にぎしりと聞こえる不協和音だけが、自分と闇との分離を保つ垣根であり、境界線だった。
「気にくわないわね」
エミヤが醜態を晒すまいと耐えている中、ふと、エミヤと同じように拘束されているメルトリリスが言う。鈴のなるような短い声色には、静かなる憤怒と傲慢の思いが滲んでいた。エミヤが視線を向けると、彼女の幼い体躯の端々がびくりびくりと動いているのが理解できる。おそらく、自身の体を襲っているような快楽が彼女にも襲いかかっているのだろう事を、エミヤは予想した。
「こんなもので私や彼を取り込めると思っているの?」
メルトリリスが発言した途端、その体からなにかの波が放たれた。彼女の体より生じたそれは、闇の海を伝播し、即座にエミヤの体へと到達する。すると、波が体に触れたその瞬間、全身に生じていた快楽が薄れていく事をエミヤは自覚した。メルトリリスの体より生じた波の正体。それは、つい先ほどこの世に肉体を持って生まれ落ちたばかりの少女の、思い人を守らんとする女の情念だった。
メルトリリスのエミヤに対する情念は彼岸と此岸、溶け合って一つとなりかけていた愛する男と忌むべき女の距離を離つ強固な柵となり、エミヤの意識は明朗さを取り戻す。少女の情念と、女の情欲。二つの賦与される想いが体内にて打ち消しあう衝撃は、真正面より受け止めて耐えきるにはあまりに重く、エミヤは口を大きく開いて大きく呼吸を繰り返す。
唇を震えさせながら多くの熱気が込められた息を吐くたび、体より熱が失われて闇へと溶け込んでゆく。息を吸うたび、欠落した熱さを埋めるかのように、二人分の微熱混じりの闇が体内へと侵入してくる。愛と恋。完成と未熟。同じ感情のベクトルであるはずの、しかし異なった場所へと収斂する、相反する思いが腹に落ちるたび、胸焼けする思いを味わった。
見苦しさを見かねたのだろう、弱音も文句も何もかも吐き出してしまえばスッキリするぞとエミヤの感情が訴えだす。エミヤはそれを己の理性と、彼女らより受け取った想いにて打ちのめしてやると、目をしっかと閉じて、長く細い息をゆっくりと吐いた。心臓が緩々と震える。余計な思いが混じらぬよう注意しながら肺腑より絞り出した吐息は冷たい。冷気が熱にうなされそうな神経を落ち着かせ、背筋を痺れが行き来する感覚が徐々に失せてゆく。
そんなことをいく度繰り返しただろうか。痺れる頭がやがて体の各部位の異常が失せたという事実より心持ちが落ち着いたのを確認すると、閉じていた瞼を緩やかな呼吸に合わせてそろりそろりと開いてゆく。視界の先に変わらず広がるは闇の空間。底無しの闇において、エミヤの視線の先では、桜とメルトリリスが静かに見えぬ火花を飛び散らせている。
美しい。と、エミヤは意識すらすることなく見惚れていた。舞台の上でまだ幼い少女と、十分に成長した女が、互いに譲らず信念の切っ先を視線に込めて鋭い視線と柔らかい視線をぶつけ合うその姿はまるで花の蕾が開く直前のような、あまりに幻想的で、倒錯的で、そして蠱惑的なものだった。
「気にくわないわ」
やがて自らと同じく闇の触手に囚われていたメルトリリスは、先ほど述べたものと同じ言葉を口にすると、彼女を縛っていた枷は打ち砕かれ、彼女は闇の中へと解き放たれた。メルトリリスは暗闇の中、踊るような動きでかつて舞踏を繰り広げていた舞台の上へと降り立つと、桜に対して真正面から対峙する。
「メルトリリス……」
自らがパートナーと定めた少女が自由を取り戻したのを見てエミヤが反射的に彼女の名を呼ぶと、細身で幼い彼女は、心配ないわ、と振り向きもせずに告げた。闇の中、瑠璃の衣を待とう少女の声は、わずかに掠れている。
様子に不審を抱き目を凝らす。するとメルトリリスの全身は微かに震えていることに気がついた。そしてエミヤは悟る。メルトリリスは今、今や敵となったと思われる自らの生みの親でもある存在を前にして身体中から恐れが湧き上がっているのだろう、その身を恐怖に竦ませているのだろう事を。
「メ……」
彼女の事情を察した瞬間、心配の声が漏れかけた。だが直後、エミヤはその小さな後ろ姿に自らの姿を幻視した。そして気がつく。彼女はそんな無様を自らのパートナーに悟らせまいと、必死に抑え込んでいるのだということを。途端、投影された幻影が現実を侵食し、追憶の帳が意識を覆い隠して、エミヤの意識は過去の中へと沈み込んでゆく。
*
『化け物め……』
背後より投げつけられる罵倒を無言にて受け止める。もはや何度めになるかもわからない否定の言葉を、しかし受け止めるに慣れるなどと言う時は決して訪れなかった。
『何が目的だ、この化け物め!』
救いの手を差し伸べたつもりが、返ってくるのが罵声などという事態は珍しくない。命を拾い上げたのに、代価として与えられるものが憎悪だなんてことはしょっちゅうだ。
『来るな、化け物! 来るな!』
生前、遂にはただ一人からも、感謝の言葉を聞けなくなった。守ろうとする存在は、力を尽くして守り切ったはずの存在は、誰もが自らを化け物として扱う。魔術という異常な手段を駆使して戦場を駆け巡り、なんの代価をも求めることなくただひたすらに見ず知らずの命を淡々と拾い上げる存在など、彼らの常識からしてみれば気味の悪い理解不能の化け物としか映らなかったのだろう。
『なんなんだ……、お前は一体なんなんだよ!』
それでもエミヤは止まれない、止まらない。過去に誰かを犠牲にして生き残ってしまったという経験が、大切な人たちから受け継いだ矜持が、想い人から託された言葉が、自らをその道に縛り付け、逃げ出す事を許さない。自縄自縛。エミヤはそして己の逃げ道を自ら塞ぎ、心を殺したまま破滅に至る道を駆け抜ける事となった。
その過程において、何度自らを慰める言葉を吐いたかわからない。助かってくれてよかった。そんな陳腐な言葉で他社より投げつけられる言葉の辛さを必死に相殺しながら、少年の頃にえた矜持を胸に抱え、エミヤはその生涯を必死に、苛烈に駆け抜けた。
その生涯において、エミヤは何度もあのように、他者を守るため、背を向けてきた。エミヤは、背後から罵声を投げつけられやしないかと怯えながら、それでも自らの矜持を守るために、必死で己自身を鼓舞させながら、自らの敵となる存在の前に相対してきた。
そして今。初々しさと幼さ残るその小さな背中は、かつて彼が他者を守るために向けてきたものとは異なってとても頼りないものであった。けれど、エミヤはそれ故に、今、目の前に立つメルトリリスという彼女が、過去の自らと同じように、自身にとって大切な矜持を守るために、他の誰か――この場合においては自分――を守るために、今こうして胸の内より湧き出る恐怖を抑えて、自らの敵となる存在の前に立っているのだろう事を強く意識した。
本当に。メルトリリスという少女は、心底自らとよく似ている。彼女の考えは理解できないが、彼女の在り方と、今彼女が何を望んでいるのかを、エミヤは心の底から理解した。エミヤはそれ故に、もはや彼女に対してなにかをしようという気には、彼女の行動を止めようという気は失せてしまっていた。
そうとも。闇ばかりが広がる舞台において繰り広げられる互先、自分という役者はすでに役割が変更されている。女の激情が主たる武器の戦場において、現実に存在する武器を手に戦う男たる自分はすでに単なる異分子でしかない。これはすでに、世界の命運をかけるだとか、世界の行く末を決めるだとかそんな誰かのために繰り広げられるチャチな戦いではなく、一人の女と、一人の少女が、互いの全存在意義と矜持をかけて戦おうという決闘だ。互いが互いの信念をかけた決闘。ならば横槍は無粋というものだろう――。
――なにをバカな事を考えている
思い至った瞬間、理性と正気が頭の中で吠えたてた。
――正気か、今この瞬間のお前の双肩には世界の命運がかかっているんだぞ、誇りだのなんだのはこの際無視して、実利を取り、どうにかメルトリリスを口説き落としてこの拘束を解かせ、彼女とともに全ての惹起たる桜と戦うべきだ
自らの理性と正気が大声で訴えてくる。なるほど、それはきっと正しい意見だ。だが、その意見には、目の前で震えながらも自らの生みの親と対峙しているメルトリリスの思いが勘定に入っていない。そんなもの。何があろうと自分と同じ不幸を味わった、自分とまるで同じような振る舞いをする、そんな彼女の味方になってやると決めたエミヤにとって、到底受け入れられるものではなかった。
――黙れ!
あまりにも正しすぎるそんな彼らの訴えを、しかし拳を強く握りしめ殴りつけ黙殺を強いると、とどめと言わんばかりに心中にて暴れる彼らへと弾劾の剣を無数に突き立てた。自らの矜持を自ら殴りつける矛盾の痛みに歯をくいしばって耐えると、ぎしり、と全身が軋む音がする。胸にせり上がってくる思いが胃の動きと連動し、今にも口からあらゆるものがこぼれおちてしまいそうだった。喉奥より口の中へと酸味がせり上がってくる。
――やめろ! その道は正義に悖る!
不快感にひたすら耐えていると、理性と正気はハリネズミのようになりながら、それでも変わらず、愚行を今すぐ考え直して最大多数の幸福のために正義を執行しろと訴えてくる。変わると決めたはずの己の中に残る以前より変わらぬ矜持とその頑迷さに少しばかりの不思議な心地よさを覚えながらも、しかし、目の前で怒って泣いていた少女一人の心すらも救えず、変わろうと決意した彼女を信じる事もできずに、世界なんてものを救えるものか、救えると信じぬけるものか、と、さらに心を貫く刃を追加して、二者へとさし向ける。
――女の子一人救えない道が正義であってたまるものか!
すると他者の想いを軽んじて突き進んだが故に永劫の呪いというものをえて苦しんだ記憶が理性と正気の抵抗を鋭く削ぐ刃となり、ついに理性と正気の二者は陥落した。頑固者め、と自嘲しつつも舞台退場の決意を新たにすると、プリマドンナ同士が静かに繰り広げる熾烈な目線の戦いへと視線を戻す。よく似た顔の女と少女は、ジークフリートへと熱い視線を向けるオデットとオディールのよう、互いに一歩たりとも譲らない。エミヤの身に余りあるほどの二者の視線に秘められた熱情は、すぐさま彼の身から溢れて五感の垣根すらも融解させてしまいそうな闇に溶けてゆく。
むせ返るほどの熱が体の内側で暴れまわるこそばゆさに耐えかねて身をよじると、頬を静かに撫でながら落ちゆく感触で、エミヤは自らの額に汗が滲んでいることに気がついた。それはぶつかり合う二人の感情がエミヤの心を揺り動かし、昂らせ、心中にて激しい自己闘争が行われた結果だった。
額に滲んだ感情が理性と正気に打ち勝った勝利の証はやがて半球の如きものとなり、張力に耐えかねて落下する。拭うことすらも許されぬこの場において、汗はこめかみを通じて頬骨を伝わり、顎下より垂れ落ちて肉体より離れ、闇に溶けて散って消えてゆく。女二人の情に反応して松柏の男が流した雫は、二柱の女神の裡へとさらなる苛烈な感情を生み出す灌奠となり、女はどちらからともなく口を開く。瞬時にして辺り一面に退廃の気が瀰漫する。世界の命運をかけた、世界で最も静かな戦いが、今まさに始まろうとしていた。
*
名を呼ぼうとしながらやめるその態度や、背後より感じる視線、気配からはエミヤの迷いや気持ちがひしひしと伝わってくる。正義の味方を標榜して憚らない彼の事だ。きっと自分だけが今や世界の敵となった桜という女と対峙するという状況に対して心の裡で多くの葛藤を行い、その末に、世界の命運よりも私の戦いを見守る事を優先すると決意してくれたのだろう、とメルトリリスは予想した。
きっと彼がそんな自らの思いを語ることなく抱え込んでしまっているのは、思いを露わにすることで目の前で戦おうとしている存在がその思いを余計なプレッシャーとして感じる事を防ぐためなのだろう。彼はそうして自らの思いや言葉を常に自分の裡へと隠し、飲み込み、自分という存在が誰かの負荷になること必死で避けようとする。
だからこそ彼は多くの人から勘違いされ、果てには誰にも理解されずその生涯を送ることになった。にもかかわらず、彼はそんな余計な気遣いをやめようとしない。否、その余計な気遣いをする行動は、すでに彼の本能的反射行為となってしまっているのだろう。
――本当にわかりやすく、そしてどこまでも不器用な人だこと
メルトリリスはエミヤにどこか呆れた思いを抱きつつも、そんな不器用な彼をひどく愛おしく思うと同時に、気遣いに対して感謝の念を送る。何せその気遣いは、メルトリリスがいかなる存在であるかを理解しているエミヤという男が、メルトリリスを守るべき対象として認識し、そのうえで、彼自身の矜持よりも、メルトリリスという女の気持ちを優先してくれたという証に他ならないのだから。
――ああ
胸が踊る。心の底から湧き出てくる想いで自然と体が踊り出しそうになるなんて気分になったのは生まれて初めてだった。誰かから心配されている。自分の事情を知る、自身でない誰かが、自分の心配をしてくれている。自分の醜さと歪みを知っている、愛する人が自分を心配して、その上で愛する人が抱える矜持よりも自分の事を優先して考えてくれている。自分は自らが愛した人に思われている。その事実がメルトリリスの気持ちをどこまでも昂らせてゆく。
――貴方を選んで良かった
背中から感じる視線が押し寄せる多幸感を生み、心を焦がしている。現世に顕現してから初めて得た触覚が、まるで暴走したかのように全身に漲っている幸福の微熱を敏に感じとっていた。指先の一本一本に至るまでが幸福の中に浸かっているかのように心地よい。ぞくり、と生身の背筋を駆けあがっていく電流の痺れる感触には絶頂を覚えそうにすらなっている。メルトリリスという幼い容姿の少女は、しかし今、まさに女神と呼んで差支えない、見る者を魅惑する美しい幸福の表情を浮かべていた。
――貴方が私を選んでくれて、本当に良かった
そう。彼女は幸福だった。もしこの先にあるのが地獄へと続く己が身にいかなる運命が待ち受けるかもわからない道であるとしても、もしこの道の先が我が身の破滅に続く地獄道であると決まっていたとしても、彼女は迷いなくこの道を選びとっただろう。
そうとも、彼女は今まさに幸福の渦中にあった。
「嬉しそうですね」
「――」
だが、そんな幸福の沼に浸っていたメルトリリスを、静かな声が現実へと引き戻す。体中に湧き立つ幸福感が別種の感覚へと入れ替る。指先に至るまで熱を感じていた四肢からはその余熱すら失せ、全身が鈍麻な人形のような状態へと引き戻されてゆくのを自覚した。
「――」
意識は自然と己の内側から熱を奪い、かつて闇の中に一人揺蕩っていた頃の状態へ引き戻した存在に移行させられる。胸の中に巣くっていた温かい思いが失せてゆくとともに、郷愁と怒りの混じった念がむらむらと湧き上がった。
「あら、今度は怖い顔」
胸の裡よりこんこんと限りなく生まれ出でてくる心地よい正の感情を負の感情に変換した存在へ、湧き上がってくる不満と鬱屈とした思いをあらんかぎりに籠めて投げつける。だがメルトリリスからそのような負の感情を向けられた桜はにこやかな顔をして平然と受け止めた。己の行った渾身の感情攻撃がまるで無意味に終わったことにメルトリリスはさらに不満を募らせた表情をして見せ。しかしやはり桜は、平然といつもと変わらぬ微笑みをたたえているばかりで一切表情を崩さない。
「気にくわないわね」
桜が不変に態度を崩さない様子を見たメルトリリスは告げる。つぶらな瞳には一度たりとも自らの生みの親である桜に対する思い遣りの熱など含まれていない。しかし見る者すべてを凍りつかせてしまいそうな冷徹な極寒の視線を向けられた桜は、やはり不動の態度を一切崩さない。桜が正気を保ったまま笑顔でたたずむ様子を見たメルトリリスは、よりいっそう不機嫌な態度を露わにして、目の前で微笑む桜へと絶対零度の視線を向ける。しかしそれでもやはり桜は、常と変らぬ微笑みをたずさえて、メルトリリスへと視線を向けるのだ。
「変わりましたねぇ、メルトリリス」
桜によって受け流されたメルトリリスの感情が影響を及ぼしたかのように、彼らを取り囲む闇の温度が冷たいものへと変化した。だが桜は変わらぬ様子で言う。それは何気ない一言だった。しかしその桜の一言には不変であるはずのそんな言葉から、メルトリリスが変わってしまったことに対する抗議の念が込められているのだと感じ取る。
「貴女は変わらぬことを望まれて生まれてきた存在。そして、貴女もそうであることを受け入れていた。なのに貴女は、何でそうも変わってしまったんですか?」
永劫不変である事こそがメルトリリスの存在意義であると語る桜は、抗議の言葉を絶やさない。桜の様を眺めていたメルトリリスは、ひどくつまらなそうに桜から視線を外すと、心底落胆した態度で、吐き捨てた。
「さぁ。説明したところできっと、今の貴方には未来永劫わかりっこないわ」
桜はそのセリフを聞いて、やはり態度を崩さない。メルトリリスは湧き出る残念の思いを吐き出すと、もう一言吐き捨てる。
「ほんっと。今の貴女は気にくわないわ」
*
メルトリリス。原初の悪女の名を冠する、他者を虐げ不幸の表情を浮かべさせることに喜びを見出す、そんな女。彼女はこの世に初めて生まれ落ちた時からそうだった。誰かの傀儡となって生きる。世界の傀儡として、世界の安寧を乱す存在を排除する。彼女はそれだけを望まれて生まれてきた存在だった。
正義の為に女神となることを望まれ、生まれおちた少女。生みの親と生みの親を支配するシステムより与えられたのは、衆愚の中から英雄が生まれないよう、強者になりえる存在へ死を与えるそんな役目。だからきっと彼女の性格が加虐に歪んでいるのも当然のことだった。
彼女は誰かが自らの行為によって歪んだ顔を見せるのが好きだった。それ以外に自分以外の他者と触れ合う機会を得られなかった。視覚と聴覚以外の全ての感覚が欠落している彼女にとって、世界とは人形劇以外の何者でもなかった。彼女にとって、他者とは自らの思い通りに動く人形以外の何者でもなかった。
子供が人形を用いた一人遊びに興じて楽しめるのは、それが現実の模倣であり、幻想を具現化したものだからだ。子供たちは自らの思考の中に広がる世界を、人形というものを通して現実世界に投影する。自らの記憶のうちにあるそれらを人形を通して再現することで、彼らは己の正しさと全能感を得る。彼らは幼くして無意識のうちに現実というものは己の思い通りにいかないものだということを学習しており、学習しているからこそ彼らは己の思い通りに動く人形達の動きに歓喜を得る。子供たちにとって人形劇とは人形劇以外の何者でもなく、彼らは幼いながらも人形劇を現実などというものと混同したりしない。
しかし彼女にとってそれは違った。見えない糸に繋がったオートマータは、彼女が鋏を振るえば、すぐさま動かぬマリオネットへと変換される。世界は真実、彼女の人形劇の舞台だった。誰も彼も、世界に生きている人間の全ては彼女の支配下にあり、彼女の意のままに操れる存在だった。
故に彼女にとって、人間と世界とは、人形と人形劇繰り広げられる舞台に他ならず。彼女は世界という舞台の上で踊る人形たちを自らの意のままに操り、そして死なせる事を躊躇わない。それは、それこそが彼女に与えられた役割であり、使命であり、彼女という存在がこの世に生まれてきた意義だったからだ。
世界という舞台の上、そこに存在する人間という存在が、舞台の裏側に興味を持たぬよう、人形劇の円滑な進行と、人形劇が終わりの時を迎えぬよう、ただひたすらに踊る人形たちの監視と管理を完璧に行う為、人造女神の意識と魂より生み出された、管理用のお人形。
それこそが、メルトリリス。
それが元を辿れば『ニンリル』という、男の都合によって都合よくたらい回しにされ、やがては男を誑かしその精神を溶かし尽くしてしまう悪女であるとの烙印を押されてしまったメソポタミアの女神の名が組み込まれた、苛虐な性質を持つドールマニアにして月の裏側に潜む女神の呼び名である。
*
強き者を殺す。生まれた時より、それを望まれた。だから望む通りのことをしてやった。彼女にとって強者を死に至らしめるとは、本能以外のなにものでもなかった。彼女にとってその行為は他の生物に言う所の呼吸と同じものであり、生きるという行為に他ならない。
なぜなら彼女はそれを望まれて生まれてきたからだ。彼女はそれを望まれて生まれてきた。この世界のどこか、グラズヘイムという場所において生まれた人工知能にとって陣と世界の安寧を維持することこそが魂であったように、強者を殺すという事こそが彼女の魂の起源であり、本能だった。
言うなれば桜という人物の魂の欠片より生み出された彼女は、しかしながら少女というよりも人工知能、AIと呼ばれる彼らに近しい存在だった。彼女が元は人間であった桜よりもずっと長い時の間、桜という彼女よりも高い精度、高い頻度で、永劫繰り返す作業を倦む事なく行い続けられたのは、間違いなくそんな彼女の特性に起因するものだろう。
彼女は完璧な女神だった。彼女は地上において人間の情を理解しようと狂ってしまった人工知能などよりもよほど完璧な管理用の機械だった。
だが、どれほど完璧に見えるものであろうと、元が不完全であるものから完璧などというものが生まれてくるはずもない。彼女の完璧さはいわば、長年の研磨と研鑽の果てに、完璧という状態に限りなく近づいただけのものだった。完璧を望まれながら完璧でなく生まれてきてしまった少女は、やがて長きに渡る繰り返しの日々に倦怠を覚えるようになる。
それはきっと、彼女がハードディスクの中に一と零だけの存在として生まれたのでなく、桜という元人間の魂より生まれた存在である以上、必然の出来事だった。そう、いかに完璧に見えるものであろうと、完璧でないのであれば、使い続けるうちにやがて疲労と劣化によってヒビが入るのは必定。彼女という完璧を体現する球は、日に日に世間との間に生じる摩擦によって徐々に壊れてゆく。
そんな完璧から徐々に遠ざかってゆく彼女が、やがて完全に壊れてしまったのは、彼女という存在が、彼女以外にも永劫の時の流れの中で生きてきた存在のことを知ったからであった。完璧に近い存在であった、しかし壊れつつあった女神を完全に壊し、破滅に至る道を歩ませてしまった男の名は、エミヤシロウ。アーチャーとの二つ名を持つ、元英霊であり、桜という自分を生んだ女の先輩でもあるという、そんな男だった。
*
凛という桜の姉より彼の存在とその在り方、生涯を読み取った時、メルトリリスは存在しない全身が震える思いを味わった。恐ろしくて震えを覚えたのではない。怖くて震えを覚えたのではない。彼女は、自らと同じように永劫の運命を背負わされていた、本質を見てやれば自らと同じような歪みを持つ存在が、しかしながら、いつかは永劫という状態から解放されてしまう事もあるのだという事に、驚き、震えたのだ。
彼女は永劫をこの空間で過ごすものだと思っていた。彼女はいくら倦もうが、この永劫の闇の中から抜け出す方法はないと思っていた。彼女はどれだけ望もうが、世界にたった二人、その上、実質は一人であるという状態からの変化などあり得ないと思っていた。
それ故の、一方的な苛虐。それ故の、人形愛好。それ故の、バレエ鑑賞趣味。それ故の、諦観。それ故に、彼女の持つ趣味の全ては一方通行。閉じた世界の中で完結するものだった。
しかし彼女は知ってしまった。完結しているはずの楽園はしかし終点などではなく、その先に続く道があった事を彼女は知ってしまったのだ。彼女は自身とまるで同じ経験を持つ、己とはまるで違う理想を持つ男によって、永劫などというものは存在しない事を知ってしまった。
エデンのリンゴを食べた女は、知識という余計なものを得てしまったがために、永劫を約束された楽園より追放される運命を背負いこむ事となった。ならば、そんな追放されたイブと近しい名を持つ存在である彼女が、やがて異世界のサタンの助けを借りて、同様にやがていつか永劫の檻より解き放たれる運命を得た事もきっと必定だった。
――あの人のことがもっと知りたい。
エミヤという男のことを知ったその日、不変であった女神はただの少女へと転生した。無論、ただの少女となってしまった事など、不変の女神を自認する彼女は気付かない、気付けない。否、もし仮に気付いたとしても、彼女はそれを断じて否! と、固く否定しただろう。この永劫他者との断絶を確約する空間において自らが変化の属性を持つ存在である事を自認することは、それこそ死を意味する。それ故に桜という彼女の生みの親は狂気に陥り、システムによって巣食う狂気を排され、正気を保たされ続け。結果、不変の属性を持つ存在を望み、メルトリリスという存在が生まれるに至ったのだから、その拒絶はあらゆる意味で当然だ。
不変である事を自認するメルトリリスは、すでに己が不変の女神ではなく、ただの少女となってしまった事に気付かない、気付けない、無意識のうちに気付こうとしない。
闇の中、女神という位置から転げ落ちてしまったそんな少女の変化に気付いたのは、己とその周囲の環境が不変である事に耐えられず、不変である事に耐性のある彼女を生み出した水と魂という変化の属性を魔術特性として持つ桜という女だった。
だからこそ桜は自らの同居人の変化に気付き、自らを永劫の孤独より救い出してくれた彼女のために何かしてやりたいと彼女の解放の手段を模索し、やがて世界の安寧と引き換えに彼女をこの永劫不変の闇の中より救い出す狂気に満ちた手段を見つけ出してしまった。
だからこそそんな危険極まりない思想と手段の知識を持つに至った桜は、世界の安寧維持を望むシステムから修正をくらい、これまで以上に、完膚なきまでに正気の状態へと戻されてしまった。そして積み上げられた多くの偶然と必然の果て、メルトリリスを生んだ桜という魂と精神に多くの欠落を存在の人格は消失した。
不変である事を自認するメルトリリスはだからこそ自己の変化についてこそ決して気付くことのなかったが、その分他人の変化には酷く敏感に気付く少女であった。故に桜という女の弱さを理解していたメルトリリスは、彼女がなぜ消え失せてしまったのかにすぐに気が付いた。だからこそ彼女は、自らがただの一人の男に恋い焦がれる少女に堕ちてしまった事など、決して気付かない、気付けない、無意識のうちに気付こうとしない、意識的にも気付こうとはしなくなった。
メルトリリス。桜という生みの親であり、同時に、自分に過少ながらも刺激を与えてくれる存在を失った彼女は、いっそう夢見がちになり、ただひたすらにカレンダーをめくり、指を手折り、いっそうエミヤがこの世界へとやってくるその日を心底待ち望む。今やそれのみが、半身であり、生みの親でもある、闇の中ともに生きる同居人を失った彼女の全てだった。
――ああ、本当に待ち遠しいわ
男を思い懸想を募らせるその姿は、もはやどこにでもいる少女の姿に他ならならず。盲目の病に陥った彼女はもはや、だからこそあらゆる矛盾を孕んだ存在がすぐそばでなにを企もうと、気づけない、気付けない、無意識のうちに気付こうとしない、意識的にも気付こうとはしなかった。
*
「――」
「――」
無言の対峙が続いている。メルトリリスと桜は一言も喋ることなく、身じろぎすらしないまま、闇の舞台の上で視線を交錯させていた。今や幼きその身を焦がし尽くしてしまうほどの情熱を手に入れたメルトリリスの熱のこもった視線が、桜の温度を感じさせない視線と激突する。
「気にくわない、……ですか」
さなか、桜が静かに口火を切った。
「ええ、そうよ」
メルトリリスが負けじと応戦する。
「いったい私の何が気にくわないんでしょうか」
「全てよ」
断言。個人の一部分、一特性ではなく、お前の全てが気に食わないという完膚なきまでの拒絶の宣言に、桜はしかしやはり笑みを絶やさないままに首をかしげる。
「全て……ですか?」
「ええ、そうよ。今の貴女の全てよ。――私の知る桜は、少なくともこんな風に私から強く否定の言葉を受けた時、ただ笑って受け流せるほど強い女ではなかった。私の知る桜は、愚図で、間抜けで、臆病で、――、そして、言葉を投げかければいつだってわかりやすく表情を変えて見せる女だった」
「――」
メルトリリスの言葉と指摘を受けた桜は、しかし笑顔を能面のように張り付けたまま、やはり表情を崩さない。桜は笑っている。歯をむいて嗤うでもなく、含んだ様子を見せて哂うでもなく、大きく口をあけて呵うでもなく、口をすぼめて咲うでもなく、ただ口角を一ミリたりとも崩すことなくゆるく上げ続けている。
「桜はちょっとでも声をかければ、コロコロと顔の表情を変える人だったわ。桜は何かを言われたとき、今の貴女が顔に張り付けているような、一切変化のない表情を浮かべつづけるなんてことは一度たりともしなかった。――貴女がそうなった事情を私は知っている。貴女がそんな風にシステムに書き換えられてしまったのが私のせいだという事も、私は当然理解しているわ。でも、だからこそ私は貴女を気にくわないし、ほんとのところ、心底貴女の事を桜などと呼びたくはない」
メルトリリスは言い切ると、睨めつける視線を桜へと送る。
「あなたの目的は何?」
「決まっているじゃないですか。世界の安寧を恒久的に維持することですよ。私と貴女と……、貴女が望むなら先輩も一緒に、です」
「は、安寧の維持。安寧の恒久的な維持を私やエミヤと一緒に、ですって? ……笑わせてくれるわ!」
メルトリリスの挑発じみた言葉にも桜は反応を見せない。そんな桜の態度がメルトリリスの癇に障ったのだろう。メルトリリスはより一層冷徹さと侮蔑の感情増した視線を桜へ向けた。
「馬鹿にしないでちょうだい! 貴女の慈悲によって生かされるだけの徒花のような生涯だなんてごめんだわ!」
「そうですか」
拒絶の言葉を、やはり桜はしずしずと一切反応することなく受け止める。その様は過去の桜を知るものならば、誰もが首をかしげて然るべき態度だった。そんな桜の態度に不穏を感じ取ったのか、メルトリリスは声のトーンを落として、言葉を続ける。
「そうよ。肉体を得ることが出来た私は、もう、貴女や、貴女を支配するシステムの支配下から抜け出せた。だから私はもう、貴女の言いなりにはならない。貴女の望みの肩代わりなんてしない。貴女と一緒に世界の管理をするなんてまっぴらごめんだわ。私はもう、私と一緒に生きてくれる他人を得ることが出来た。――私はここに集約された力を使って世界を再生し、ここから出て、創りあげた大地で彼と一緒に生きていく。そう決めたのよ」
「そうですか」
メルトリリスが再三否定の言葉を発し、桜の望みであるという管理世界の案すら否定した。にもかかわらず、桜はやはり平然としたまま、その言葉を受け止めるばかりだった。紅顔には一片たりとも動揺がない。桜は心底、メルトリリスの意見に対して無関心を貫いているようだった。メルトリリスは眉をしかめた。
「……なによ、気持ち悪いわね。私は貴女を――、貴女の思考を支配しているシステムの存在意義を否定したのよ? 私は貴女の存在意義と、存在理由を否定した。ならいかに今の正気に戻されてしまった貴女であっても、もう少しヒステリックに生理的な反応を見せてもいいんじゃない? いったい何を考えているの、貴女は」
「私が何を考えているか、ですか?」
メルトリリスの問いかけに機械的に決まった角度だけ首をかしげてみせた桜は、やはり無機質な笑顔を浮かべたまま首をもとの位置に戻してみせると、変わらない笑顔のままに口を開く。
「言ったじゃないですか。私の目的は世界の安寧を恒久的に維持することですよ」
「だからそれはもう不可能な事象になったといっているじゃない! 」
桜が先ほどとまるで変わらない口調と抑揚でまるきり同じ言葉を述べたのが、よほどメルトリリスの癇に障ったのだろう。メルトリリスは大きく腕を振って桜の意見を薙ぎ払うような動作をすると、ヒステリックに大きな声で叫んだ。
「私はもうあなたに協力しない! 私はこの場所を抜け出して、世界を再構成する! 今度再構成する場所に、システムと同化した貴女の居場所なんて私は作らない! 貴方の居場所はどこにもなくなるの! そういっているのに、貴女はなぜそうも平然と、それを受け入れられるのよ!」
「――」
メルトリリスの感情的な問いかけの言葉を受けとめた桜は、やはり能面のような笑みを崩さない。メルトリリスの罵声をしずしずと受け取った桜は、やはり変わらない微笑みをたずさえたままだった。
「知りたいですか? 」
しかしここにきて桜は先ほどまでとは異なった言葉を発してみせた。
「え?」
言葉にメルトリリスが間の抜けた声を上げる。
「なら、教えてあげます」
桜はまるで家令やメイドがやるような丁寧かつ行儀良い所作で周囲一面をご覧あれとばかりに手を振る。途端、一面闇ばかりが広がっていた空間にほのかな光が生じた。空間のあちこちに生じた光はやがてはるか遠くの部位にまで広がると、暗幕に隠されていた舞台はすぐさま、あたり一面に星の光が無数に散らばる光景へと変貌した。その様はまさにプラネタリウム。否、全周に天が広がる様を見やれば、それはプラネタリウムよりもはるかに上等な、天球儀に等しく。瞬間的にエミヤとメルトリリスはその幻想の光景に見惚れ、そして向ける眼差しの方向を天から地へと打ちした直後――
「――」
「――なによ、これ……」
そして足元に広がる光景を目にした途端、目を見張った。無数の星の煌めきばかりが遠く何処までも広がっていた天とは異なり、地には星の海に浮かぶ五つの異物が目立っている。それらの異物の概要をざっとまとめるのであれば、一つは地球であり、一つは裂け目と赤い大地が続く光景であり、一つは別の裂け目から広く深く広がる水と泥の塊が生み出されている光景であり、一つは月とその周囲に雲が渦巻き卵型となっているものであり、一つは鉄を中心に据えて泥によって造られた数千キロメートルはあろうかという巨人だった。
「裂け目はギンヌンガの裂け目、青い星は地球、紅い大地は火星、泥は蠱毒の呪いの凝結体だとして、あの煙に覆われた月の存在と、地球にすら匹敵しそうな大きさの巨人は一体……」
「あれらは蠱毒の呪いによって原初の形に戻った全ての世界の材量より生み出された混沌の具現ですよ、先輩」
エミヤのつぶやきに、桜が答える。
「蠱毒の呪いの泥を吸収して卵型に戻りつつある月は、インド、イラン、中国、日本、フィンランド、ポリネシア、インドネシア、南アメリカにいうところの宇宙卵。蠱毒の呪いによって生じた粘度の高い液体は、バビロニアやエジプト、ギリシャ神話や、ヴェーダ、聖書などにおける所の混沌の海であり、泥。世界を覆い尽くすほどの巨人は、盤古やユミル、スルトやプルシャに例えられる世界の材量となった巨人です。そして、月は女の比喩でもあり、巨人は男の比喩でもあり、火星の大地にいるのは一神教の唯一神……」
「――まさか、桜。貴女は……」
桜の言葉にメルトリリスの顔色がさっと変わる。今までの赤ら顔と興奮は嘘のように鎮まり、白い肌にはこれまで以上の汗がにじみ、全身は自らが達した結論に慄くかのように震えていた。
「はい。おそらく、貴女のご想像通りです」
メルトリリスの表情や態度の変化から彼の考えを読み取ったのだろう桜は、やはり変わらない笑顔を浮かべたままで、静かに首肯する。
「メルトリリス。貴女は世界を再構成する、と言いましたね? ――ええ、そうです。実は私の望みもそれなんです。ただし、外側の世界を貴方の内側に取り込もうとした貴女とは違って、私は私を材料として、この壊れかけた管理の難しい外側の世界を、管理に容易い内側の世界へと再構成する。貴女がどうあがこうと、どんな未来を選ぼうと、私にとってはどうでもいいことだったんです。貴女がいかなる未来を選ぼうが、世界を再構成するためにこの月の裏側に格納された泥を使うというのであれば、その未来に私は必ず存在する。だから私は、貴女が自由に動くことも許容したんです」
桜の言葉にメルトリリスは震えが大きくなる。その震えが先ほどまでの驚愕と恐怖より生じたものでなく、碇から生じたものであることが、眉尻が吊り上り、顔色が赤く染まってゆく様子から見て取れた。メルトリリスは自らが、所詮はシステムによって正気を保たされた桜、と見下していた相手の手の平の上で踊らされていたことに羞恥を感じているのだ。それほどまでに今の桜という存在に手玉に取られたという事実は、メルトリリスにとってあまりに屈辱的なことだった。
「私は貴女や英雄たちがどうあがこうと、世界は私が溶け込んだ状態で再生されるよう、プログラムを組んだんです。仮に世界が、ギルガメッシュを中心とした混沌の海より生まれたシュメル神話体系で再現されようが、今の世界の人たちを中心としたユミルの体を解体して生まれた北欧神話体系で再生されようが、貴女や先輩を中心とした男女が神となり力を合わせて世界を生み出した神話体系で再現されようが、響と玉藻の力によって盤古の体とその泥を用いて再現されようが、唯一神が火星の大地に新たなる国を造ろうが、その素材となる蠱毒の泥には、必ず私の魂が宿り存在している」
桜はそんなメルトリリスの屈辱に対して悔いを露わにするさまにやはり一切の興味を向けることなく、変わらぬ微笑みを浮かべたまま、ただ淡々と語りを続けた。桜の変わらぬ様子がさらにメルトリリスの感情を逆撫でしたようで、メルトリリスはさらに怒りで大きく体を震わせる。
今すぐにでも爆発して桜へと向かっていきそうな彼女は、しかし裡より湧き出てくる感情を必死に抑え込んでいた。メルトリリスがそうして感情のままに動かず桜を攻撃しないのは、そのようにまるで物事がうまくいかないからと言って癇癪をおこした子供のように桜を攻撃してしまえば、そんな無様をエミヤという男の前でさらしてしまえば、自分を殺してしまいたくなるくらいに自分が惨めになるだけだと感じているからだ。メルトリリスは今、少女としてのプライドと、女としてのプライドによって、自らの加虐性を必死に抑え込んでいた。
「そうすれば世界と一つになった私は、世界のあらゆる場所、あらゆる生物の中に偏在し、彼らの行動を意のままに操ることが出来る。すべてに私が宿っていて、全てを記録しているのであれば、それは完全なる一元管理が出来ているという事になる。だから私はそれを目指している。つまりはメルトリリス。私がやろうとしていることは、貴女がやったことの、更に上の事なんです」
桜の言葉と共に、天球儀に浮かぶ異形のうちの一つ、泥の塊の大地の上に異変が生じた。のっぺりと平坦だった表面にぷつぷつと泡が生じたと思うと、それはやがて人の形をとり、徐々に見覚えのある姿となってゆく。
「これは……」
闇の中に現れたテレビの画面を見たその瞬間、メルトリリスが呆然とした声を上げた。泥の大地の上に生まれたのは、凛や、ランサー、玉藻であり、また、ギルガメッシュとヘイと呼ばれる人物の率いる軍勢であったからだ。泥の上に生じた、もはや見分けがつかないほどに彼らの姿となった人型たちは、蠱毒の呪いによって作られた大地の上で覇を競って争いだす。それはまさしく、先に起きた歴史の再現に他ならなかった。
「はい。私が――、貴女が闇の中に保有している彼らの記憶から私が再現した人間による、歴史の再現です」
泥の上で競う彼らは、かつてのように争い、そして一方は不利な状況に陥ってゆく。不利に陥った彼らが戦意を失いかけたところ、シンらがやってきて一悶着をおこし、戦争は再開される。再開された戦争は拮抗が維持され、やがてエミヤの登場により状況は一変し、エミヤとシンとの決闘へと移り変わってゆく。その一連の流れはまさしく先ほどまでメルトリリスが目撃してきた、世界の有様とまるで同じものだった。
「見ての通り、適切な記録と参考資料があれば、この世の中のどんな事象であっても、微分と積分演算を繰り返しそこへ適切なランダム関数を代入してやることで再現する事が可能なんです。たとえばそれが人間という不確定要素の多い存在であるとしても、いくつかの哲学書と似たような物語があれば、人間たちの営みや歴史をこのようにして再現してやることも可能なんです。私は私の魂が宿ったものすべての肉体に入り込み、操れる。つまり完全な管理が出来るという事です。私が目指す世界では、私が全ての人の中に溶け込んで、全ての人の思想と記憶を記録できるようになれば、貴女と異なった他者をいちいちどこかで保管する必要なんてない。そして、そのなかには貴女だって含まれているんです」
「な……、に……よ、それ」
桜の言葉を聞いて、メルトリリスは呆然とした表情を浮かべて言う。
「貴女、いつからそんな計画を――」
「わかっているでしょう? 貴女が気付いたその日からです」
「――なんでそんな計画を」
「わかっているでしょう? 完全なる管理をするためですよ」
桜の言葉はあらゆる点においてメルトリリスにとって信じがたいものだった。
「もともとこの世界は壊れかけていました。あと少し、ちょっとした神話的事象による衝撃が起これば、世界はすぐにでも崩壊神話を奏でてしてしまう。そんな時がもうすぐそこにまで迫っていたんです。正気を取り戻した私の脳は、すぐさまそれに気が付いた。もちろん、何とかしようとは思ったのですが、人造女神とはいえ所詮はもともと人間であった私の脳みそに単純なプログラムを組み合わせたような管理システムでは、この神話的イベントの実行を止める事は叶わない。その時点より私が完全に管理を施したとしても、遅延させるのがせいぜいです。管理するモノが私の外側の世界である限り、私は完全な管理が施せない。だから私は、完全な管理のため、世界を私の内側に取り込むための計画を練り上げたんです」
「――」
「そしてメルトリリス。貴女は私が計画したその世界創生プログラムを実行に至らしめる大切な試験体。そう。貴女は私の夢の嚆矢として放たれた存在だったのです。私は貴女で、貴女は私。貴女の想いは、上位人格である私が余すことなく記録して、解析していましたから、貴女が何を考えどう動くのかを予測し、計画に組み込むのは、とても楽なことでした」
瞬間、メルトリリスの震えていた全身から、ふっ、と力が抜け、彼女はひどく肩を落とした。
「じゃあ、何? 私のこれまでの全ての葛藤は――」
メルトリリスが力なく言葉を投げかける。
「はい。もちろん、全て、私が計画したことです」
システムと一体化した桜は快活に、メルトリリスの言葉を肯定した。
「じゃあ、何? 私のこれまでの全ての想いは――」
メルトリリスが泣きそうな声で力なく言葉を投げかける。
「はい。もちろん、全て、私の中に残っています」
システムと一体化した桜は快活に、メルトリリスの言葉を肯定した。
「じゃあ、何? 私の、これまでの、全ての行為は――」
メルトリリスが嗚咽を耐えたような声で、力なく言葉を投げかける。
「はい。もちろん、全て、いつでも再現可能です」
システムと一体化した桜は快活に、メルトリリスの言葉を肯定した。
「じゃあ、私は――」
メルトリリスが失意を露わにした声で、力なく途中までの言葉を投げかける。
「はい」
システムと一体化した桜はそして多少間を置くと、変わらない笑みを浮かべたまま、言った。
「もちろん、貴女の全ては私のモノで、私の手の平の上で踊るお人形だったという事です」
「――」
桜の言葉にメルトリリスは音もなく腰から砕け、見えぬ地面に崩れ落ちて、手をついた。小さな体を覆うほどもある長い髪の毛先が、彼女の失意を表すかのように地面へと投げ出された。色を失った双眸から生じた涙が、目頭、目尻へと伝わり、やがて目端に溜まった涙の張力は重力に負け、堰をきって目の縁よりはじき出された透明な雫は、頬を伝ってはらはらと落下する。それはメルトリリスが桜という存在に対して敗北を喫してしまったと認めてしまったという何よりの証だった。
「だからね、メルトリリス。戻ってらっしゃい。貴女の居場所はいつだって私の傍にあるんですから」
桜の声など聞こえないというような状態で、メルトリリスは嗚咽もなく、呆然と涙を流し続けている。桜の裡より生まれたメルトリリスは、しかし桜とはまるで異なる人格をしていた。メルトリリスは自分の事を生んでくれた桜に好意を抱いてはいたけれど、同時に彼女の事を見下してもいた。自分は桜より生まれ落ちたけれど、自分は桜という存在と違い、強い存在である、というのが彼女にとってのひそかな誇りであり、矜持だった。
「貴女は私の魂から零れ落ちた存在。なら、それは当然の事だとそう思いませんか?」
それは言ってしまえば子供らしい反抗心から生まれ落ちたものだったのかもしれない。しかしその矜持は確かにメルトリリスという精神、人格を支える柱でもあった。
「貴女は私の手の内から抜け出せない。だって、貴方の居場所はこの私の傍なのだから」
だが、今、それは打ち砕かれてしまった。一人でやっていけると確信し、一人でやってきたはずの自分は、しかし結局桜の手の平の上で踊っていたにすぎず、その上、この闇の中で過ごしてきた生涯の全てすらも、システムと一体化した今の桜にとってはその一部にすぎないとそう宣言されてしまった。
「貴女は私の大切な子。貴女の全ての望みを私が叶えてあげましょう。――だって、貴女は」
自分という存在が見下した存在よりもさらに下の位置にあり、やれることといったらまるでたいしたことがない、彼女の真似事だけ。そんな事態が不変の女神として生まれ、そうあれかしと望まれ、そのように過ごしてきたメルトリリスにとっては、ひどく耐えがたいものだった。
「所詮は私から生まれた、私の一部/モノなんですから」
そうとも。自分の実力は、その実、所詮借り物で、たいしたものでないと証明されてしまった。誇りも、矜持も打ち砕かれてしまった。今、メルトリリスは失意のどん底にいる。彼女の失意を乗せた涙は絶え間なく流れ、やがて地面に落ちる前に闇に溶けて失せてゆく。その有様を見た、彼女をそんな有様へと追い込んだ桜は、やはりまるで意にも解さない様子で微笑みを浮かべたままだった。
「そうそう、先輩とずっと一緒に素敵な生涯を過ごすのが貴女の夢であり、目的でしたね? いいですよ。その願いも叶えてあげましょう。ちょっと悔しいけど、貴女のためですもの。先輩は貴女に譲ってあげます。大丈夫。きっと先輩だって受け入れてくれはずです。だって、先輩は――」
そして変わらぬ様子の桜は視線をメルトリリスからエミヤへと移し、そして停止した。機械人形のように視線を移した時のままの様子で自身を見つめるその様を見て、桜より視線を向けられた闇に拘束されたままのエミヤはニヤリと意地の悪い顔を浮かべている。その自信がたっぷりと蓄えられた人を小馬鹿にするような顔は、正義の味方を名乗り、メルトリリスの味方となると宣言したうえで、今の話を聞いたにしては、あまりに状況にそぐわない顔だった。
「――先輩? なんでそんな顔をしているんですか?」
自信満々の表情を見て不審に思ったのだろう、桜は体を完全にエミヤの方へと向けると、まっすぐ顔を向けて質問を投げかけた。まるで変化のなかった顔は、微妙に不満げなものを含むようになっている。桜の表情の変化を見て、エミヤはさらにその不敵な笑みを深めてみせた。
*
エミヤは桜より向けられた視線を一度だけ外すと、自分の前、桜の近くで力なく地面に手を置きメルトリリスへと視線の先を移した。
――だめか。
桜のと舌戦により心を手折られてしまったのだろうメルトリリスは、滔々と涙を流したまま放心している。無理もない、と思う。メルトリリスは己の全存在意義を賭けての戦いに挑み、そして敗れたのだ。主観と主観のぶつけ合い、イメージ同士をぶつけ合う戦いにおいて必要なのは、確固たる意思や、意思を確固たるものとする経験だ。ならばそれをこの世界に生まれたばかりだという彼女に求めるのは酷であるし、またその敗北の衝撃はこの世界に生まれて間もないメルトリリスにとってはさぞかしショックが大きいものだったのだろう。
――回復には時間が必要か
「いや、なに。君の語ったことがあまりにあれだったものだから、つい、ね」
エミヤは冷静に判断すると視線を桜へと向けなおし、胸に湧き出てくる怒りを押さえつけながら、ひどく小馬鹿にした様子で言葉を発する。すると桜は変化に乏しかった――、否、まるで変化のなかった笑顔を、冷徹な能面のような表情のものとして、エミヤへと視線を送りなおした。
「どういうことですか?」
桜は抑揚のない口調で質問を投げかける。その意識はメルトリリスから完全に外れていた。エミヤは目論見がうまくいき、更には、自身の思惑が正しかったことを確信し、内心にてほくそ笑む。一見一聞してみれば態度も口調も変わらぬ桜であるが、その口調の変化こそがシステムと合身した桜とかいう一見不変を保つ存在が、その実、裏側では腸煮えくりたたせている証といえるだろう。
「言った通りさ。完全な世界の管理をしたい? 資料と記録さえあれば、完全な再現が可能だ? ――は、笑わせてくれる。そんな事、出来るわけがあるまいよ。まるで同じだ。君たちは、特に君は、かつての私とまるで同じ間違いを犯している。経験者からしてみれば、それがひどく滑稽に映ってしまってね。つい、失笑が漏れてしまったというわけさ」
――やれやれ、どこが完全不変なシステムだ
エミヤは思いながらそれを口にすることはなく、飄々と別のことを言ってのける。そんな態度や物言いの内容がシステムと一体化した桜の癇に障ったらしく、桜は少しばかり不機嫌そうに眉をひそめると、エミヤを睨めつけた。その柳眉が不機嫌に歪んだのを見て、エミヤはさらに機嫌をよくする。
他者の傷を切開して不機嫌を誘っておきながら、そんな一連の所業と変化を愉しむとは何とも性格の悪いことだ。まるで自分がかつて不倶戴天の敵として嫌っていたあの男のようではないか、と、エミヤはそう自覚しながらも、その行為をやめられない。
――なるほど、これはなかなかに愉快だ。
変化を自覚したエミヤは内心で意地悪くほくそ笑む。変わった自分を悪くないと思うのも、きっと成長の証なのだろう。
「出来るわけない? そんなことはありません。現に私は今、やってみせたじゃないですか」
「ああ、そうだな。確かに君は今、眼下にある彼らの脳裏に残る資料と君の記憶とやらを用いて私や凛らによく似た人形を生みだし、似たような事象を再現して見せた。なるほど、確かに君の力量は本物だ。確かに資料と記憶さえあるのならば、君は起きた出来事に似た事象を引き起こせるらしい」
「そうです。ですから私は――」
「だが、それはあくまで相似形であり、近似値だ。本物の歴史でないし、本物の彼らでない。故に君の言うそれは、完全な管理とやらではない」
エミヤが言った瞬間、闇の中浮かぶ泥の上にて動く、桜の人形たちがその動きを止めた。ビデオの一時停止のように動きを止めた彼らは、やがてぼろぼろとその先端部分から崩れ落ちてゆき、やがて泥へとかえってゆく。それは桜が彼らに意識を裂くことをやめ、目の前で自身にとって不快なことを述べるエミヤへと完全に意識を集中したという証に他ならなかった。
「そら。君の言う人形とやらは、君が手取り足取りしてやらねば動きすらしない存在で、君が脚本を書かなければ歴史すら刻めない存在だ。そんなもの、果たして人間や歴史と呼べるものかね? ――いいや、呼べないだろう。そうだな……。もし仮に、だ。君が再現した歴史とやらを映像やら文章やらに残して、他の人間に読ませたとしよう。どんな立派な題名をつけようが、参考資料を副題として使用しようが好きにするがいいさ。するとどうなると思うかね?」
「それはもちろん――」
「もちろん、映像を見た彼らは、文章を読んだ彼らは、ひどく違和感を持つだろう。これはなんだ。自分たちは果たしていったい、何を見せられ、読まされているのだろう、とね。なぜならそれは、君が、君の思うままにつくりあげた、君の感情や感想が多分に入り込んだ、ふぞろいでちぐはぐでいびつな、そんな存在だからだ」
「そんなことは――」
「そうに決まっているとも。いや、もちろん、そうと感じさせない存在もいるかもしれない。たとえば、君個人が持つ記憶にいる人物や、事象に関しては、君は詳しく表現し、限りなく近い人形として再現し、語り、あるいは書くことが出来るだろう。――だが、それだけだ。それはあくまで君が生み出した、君の記憶の中の人形であり、人間ではない。そこに君という意志が介在する限り、完全なる歴史は再現できないし、完全な管理とやらは完成しない」
「――」
「君のやろうとしているそれは、この世界というものを墓穴に埋める行為に等しい。なるほど、確かにそれが自身の内側の世界であるなら自由も効くだろうが――、いやはや、それは、誰もいない荒野に無限の剣を墓標のように突き立てながら、過去を思って勝利に酔い、孤独に佇む行為と一体何が違うのだね? ――だから笑ってしまったのさ、私は。そんな不完全な手段と方法で人間を完全に管理した気になって、固有結界の主よろしく完全な世界の管理官を気取る君は、あまりに無様で滑稽だ。個人的には今すぐそんな月と巨人の幻想に願いを託すなどという無意味な計画を諦め、この場に引きこもって手を出すのを一切やめ、外側の世界の様子を眺めるだけに止める事をオススメする」
「――そんなことはありません」
自嘲気味に述べるエミヤに対して、システムと一体化した桜は、初めてひどく怒った表情を浮かべて見せた。そしてエミヤへと向けられた桜の視線に感情らしきものが宿った瞬間、エミヤを拘束する闇の触手の締め付ける強さが増す。同時に体中の肌という肌が接している闇より侵入する魔性の快楽が、すべて焼け付くような痛みへと変換されていた。
「――ぐっ」
神経を蕩かす快楽が突如として鋭い痛みへと変わり、全身より襲い掛かってくる事態に、エミヤは思わずうめき声を漏らす。魔術回路を励起させた際の、熱した鉄の棒を背骨に突っ込まれたような痛みが、全身より襲い掛かってくるという事態は、一時は英霊の位階にまで達したエミヤと言えど、流石に飄々と受け流せるものではなかったのだ。
「ぐ、ぬ……」
だがエミヤは、全身より脳裏に流れ込んでくる痛みに耐えながら、しかしそれでも不敵な笑みを崩さない。そうとも。全身を焼く痛み程度でエミヤは崩れない。全身を痛みの電撃が駆け巡る程度の事でエミヤの信念は崩れない。たかが脳裏を突き刺す痛みがいくら訪れようと、痛みでエミヤの矜持は崩れない。あの心を蕩かすほどの優しい嘘と思い遣りに満ちた快楽に耐える事に比べれば、敵意と害意しか感じられない痛みに耐えるなど、慣れ親しんできた作業で、いつもやってきたことだ。
「――どうして」
「桜。君の言う管理というものは、所詮、独りよがりのものだ。始まりの想いがどれだけ貴かろうと、その先が永劫の安寧とやらにつながっていようが、世界で生きている人たちの、そんな誰かの思考を捻じ曲げ、支配し、一括して管理してしまおうなどと思った時点で、そんなものは人間に対するシステムとして間違っているんだよ」
「――っ」
システムと一体化した桜にとって、システムとして破綻している、と指摘されたことがなによりの傷となったらしく、桜の顔がひどく歪んだ。変化を見た瞬間、エミヤは一瞬痛みを忘れ、ニヤリと完全に不敵な笑みを浮かべて見せる。
「それに、そら。所詮君のいう完全な管理とやらは、君というシステムが完全であることを前提にしたものだ。私の指摘と挑発程度で揺らぎ、怒りを露わにしてみせる不変でない君に、完全などというものを体現出来るとは私には到底思えないがね。――ぐっ!」
「――もう、いいです」
エミヤのさらなる挑発を受けた桜は直後、歪ませていた顔を、ふっ、と、元の能面のような表情へと戻し、感情のこもらない機械のような視線をエミヤへと向けた。エミヤは己の余計な一言によって、目の前の彼女の怒りが頂点の極みを通り越して、噴火してしまったのだという事を悟る。
「先輩だけは生かしておくつもりでしたが、気が変わりました」
人間、心底怒ったときには、自らを怒りの状態へと導いた存在に対して憎しみを向ける以外に何もできなくなるものだ。そんな、不変を名乗り、完全を目指すという存在から、何とも人間らしい反応を引き出せたことにエミヤは満足感を覚えつつも、同時に、やりすぎた、と自嘲する。エミヤは何ともしまらないが、調子にのってこんな失敗をするのも人間らしい、などと考える余裕すら持っていた。
「先輩も今、私の泥の中で眠る彼らと一緒の運命にしてあげます」
「――っ」
だが、そんなエミヤの余裕を奪うかのように、桜の宣言と同時、闇の拘束の締め付けがさらに加速する。全身に迸る痛みの感覚はさらに増し、エミヤはついに苦悶の言葉を発する事すら不可能な状態へと追いやられていた。きりきりと全身を締め付ける触手の接触範囲は徐々に増え、体中がギシギシと悲鳴を上げている。肌より伝わってくる触手の痛み以上の信号が全身の神経から脳裏へと駆け昇り、脳はこれ以上ないほどの痛みを感じていた。全身がばらばらになる感覚と、全身が酸の海につけられたような感覚が押し寄せる。痛い、痛い、ただ、痛い。エミヤは全身より常人であれば即座に死に絶えてしまいそうな苦痛を与えられ、遠からず死に至るかもしれないことを予測しておきながら、しかしエミヤはその不敵な笑みを一切崩さない。
「――先輩。なんで笑っていられるんですか?」
その様を見て、不審に思ったのだろう桜がエミヤへと質問を投げかけた。
「先輩はもうすぐ死んじゃうんですよ? なのに、なんでそうも笑っているんですか?」
「――くっ」
質問は何とも完全だの不変だのを信じるシステムが発しそうな、それでいて桜という彼女もまた口にしそうな言葉を聞いて、エミヤは再び痛みを忘れて失笑を漏らした。
「――先輩」
バカにされたと思ったのだろう、桜は語気を強めて言う。その様に、どこが不変で完全だ、と内心でわらいながらエミヤは言う。
「信じているからさ」
「なにを?」
「この世界は完全でもなければ、不変でもない。いつだって未来は不確定で、時には信じられないような奇跡が起こるものなんだ」
「――奇跡。そんな不確定で、ありもしない、積み上げによって起こるものでない偶発的なものを信じているから、先輩は哂っているというのですか」
「そうだ。――ああ、そして、ひとつ、訂正しておこう」
「なにを?」
問いかけに確信をもってして、答える。その言葉は考えるまでもなく容易く口から出てきていた。
「奇跡は不確定かもしれないが、ありもしないことでなければ、積み上げによって起こらないものじゃない。確かに自分の力だけでどうにもならないからこそ奇跡というのかもしれないが、視野を広げてみれば、奇跡っていうものはその事象に至るまでの積み上げを、どこか別の誰かが起こしてきたから起こるものなんだ。奇跡っていうものは自然に起こるものじゃない。誰かの力によって起こるものなんだ」
「減らず口を。それで、その奇跡とやらは、どのようにして先輩をこの窮地から助けてくれるというのですか?」
「それは――」
反論の言葉が思い浮かばず、しかし何かを口にしてやろうと言葉を述べた瞬間、周囲の光景に異変が起こった。
「――え?」
間の抜けた声と共に、桜が闇の中に浮かべていた光景は瞬時に消え失せた。現象が桜にとってイレギュラーだったのだろう事が、彼女の慌てふためく様子から見て取れる。
「え、え、な、なにが?」
混乱する桜。そんな彼女の様子を見た瞬間、直感し、確信した。痛みをはるかに上回る正の感情が湧き上がってくる。それは正しく、自分でない他人から何かうれしいことをされたときにのみ湧き上がってくる、暖かいものだった。
「う、うそ! そんな、どうして!」
闇の中、桜は慌てふためきエミヤから視線を外すと、首を傾けてはるか上空の方を見やる。エミヤもそれにならって首を動かし視線の後を追うと、どこまでも闇ばかりが一辺倒に広がっている中、そんな無明の闇の中に光の亀裂が入るのを見て、肉食獣を思わせるひどく凶暴な笑みを浮かべた。
「――あ」
『エクス、カリバー!』
桜が間抜けな声を上げた次の瞬間、亀裂より突き出た見覚えのある光の柱が闇を切り裂き、聞き覚えのある声が闇の中へと鳴り響く。それは何とも神々しく、何とも幻想的で、そんな光景を目にしたエミヤはそして、確信と共に言う。
「こんな風に、だ」
「――」
やがて闇を切り裂いた光の柱は収束していき、しかし一度砕かれた闇は、その残滓を消せずにいる。やがて闇に空いた大穴から見えた見覚えのある顔と、見覚えのない冒険者たちの顔を見て、エミヤは柄にもなく心底誇らしげに大笑いした。
第十二話 終了
まずは途中より特に多くの不信、不快を感じていたでしょうにここまで辛抱強くお付き合いいただき、ありがとうございます。種明かしもほとんど済み、物語もついに終盤も終盤。どうぞあと少しだけお付き合いくだされば、幸いです。