Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
取り急ぎ元のものが見苦しすぎるので、簡単な修正版を掲載。更なる推敲は後程行います。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。
赤方偏移ノ回廊
遥かなる月の旅
*
星の光が渦巻く空間を、白刃の一閃が斜めに奔る。漆黒の外套が翻り、学帽の三日月銀紋が闇に煌めいた。
「グルゥォォォォ!」
放たれた一閃の向かう先には、威嚇の雄叫びを上げる大きな犬型の魔物の姿がある。一閃は殺意を露わにする攻撃態勢を取る魔物を迎撃すべく、無口な學生姿の男の手によって放たれた刀の一撃だった。
「――」
直後、魔物の挙動に合わせて放たれた刀は、吸い込まれるようにして魔物の喉元へと消えてゆく。男が跳躍ざまに放った一撃は、男より三回りも四回りも大きな魔物の硬い皮膚から強靭な血肉と骨までを切断し、魔物の首の反対側から抜け出ていった。
「グルゥゥゥゥ……!」
自らの体に異物が侵入してくる違和感を感じ取った犬型の魔物が唸り声をあげる。だが魔物がそれ以上の反応を見せるよりも早く、魔物の攻撃に合わせてすれ違いざまに男が放った一撃は体内を突き進み、魔物の頭部と胴体との繋がりを完全に断ち切った。切断された魔物の首が魔物自らが生んだ攻撃の動きによって吹き飛び、あたかも独楽の様に空中へと投げ出される。
「ガァッ!」
切断された魔物の頭部は最後に一矢報いようとでもしたのか、そしてまた、おそらくは直前にしようとしていた攻撃の続きなのだろう、空中を回転するさなか、自らより離れつつある男目掛けて口腔より緑の液を吐き出した。男は毒々しい色合いをしたそれが、浴びればただでは済まない毒である事を一目で理解した。
「――」
しかしすでに攻撃から離脱の動作へと移行していた男は、その足掻きを最小限の動きで回避する。男はそしてそのまま離脱しつつ、とどめと言わんばかりに宙を回転する魔物の首めがけて刀を振り下ろす。
「――」
もはや貴様などはすでに敵でないといわんばかりに刀が、無造作に、しかしそれでいて正確に、魔物の額に目掛けて振るわれる。視線も送らぬまま振るわれた刀が魔物の額と接触した途端、どん、と布の塊を鈍器で殴りつけたような音がした。男の眉間に微かに皺が寄る。思いのほか魔物の頭が固かったためだ。
――刀が伸びてしまわないだろうか。流石にまだまだこの先も戦いが続くだろうこの場面において、唯一の武器となる刀が使い物にならなくなるのは困る。
男の心配事はもはや処理済みの魔物の首になく、すでにそんなところにあった。
「オォッ! オォ、オ……、オ、ォォォォ……」
哀れにも男の関心の外へと置かれてしまった魔物はその一撃により意識を完全に刈り取られたのか、咆哮が徐々に小さくなってゆく。
「カッ――」
やがて呻き声すらも上げるのが億劫になったのか、しかしそれでもなんとか生きた証を残そうとするかのように、切断され独楽の様に回転しながら宙を舞う魔物の首は喉元が振動させてわずかな断末魔を上げると、それきり一言たりとも発さなくなった。遅れてようやく魔物の首の切断面より血液が噴出する。きりもみ舞った頭部の切断面より飛び散る血と体液は篠突く雨となり、あたりへ降り注いだ。魔物の首はそのまま、さまざまな液体をばら撒きながら泥の地面目掛けて一直線に落下してゆく。
「――これで最後か……」
遅れて自らが切断した首より少し離れた場所へと降り立った男は、更に数歩かけて自らの体へと訪れる衝撃を殺しつつ、呟き――
「――いや……」
しかし男は、視線を自らが首の一つを切り飛ばした魔物の胴体へ向けると、自らの言葉を否定した。
「グ、ゲ?」
「ガ……」
男と離れた場所にある首一つ失った魔物の胴体では、胴体に残る二つの頭がその強面に備わった四つの瞳で、いましがた失われた頭の一つを眺めている。地面に転がった頭部はその瞳より完全に生の色が失せてた。魔物は今しがた起きた事実が信じられないといわんばかりに、数瞬前までは自らの体の一部であった頭部へと疑念の視線を飛ばしている。
「グォォォォォォ!」
「ギィィィィィィィィ!」
だがようやく現実と理解が二つの脳に追い付いてやってきたのだろう。目の前の光景を事実として受け入れた魔物は、肉体の一部喪失による悲しみと否定の想いを憎悪と憤怒の念へと変え、残った二つの口からあらんかぎりの思いのたけを咆哮する。それはまさに魔獣と呼ぶにふさわしい叫び声だった。
「――後二つ。やはり悪魔ケルベロスと同じく、一つの頭をつぶした程度では死にはしないか」
男の声に反応して魔物は心の裡から湧き上がる気持ちの全てを自らの体を不備なものとした下手人めがけて向けた。四つの瞳には昏い思いが宿っている。
「グルォォォォォォ!」
「グァァァァァアァ!」
魔物の視線と声は、地獄の底より這いあがった亡者が放つような、殺意と憎悪、怨嗟と憤怒に満ちていた。常人であれば負の感情に染まった睨めつける瞳を見て、声を聴いたその瞬間、背を向けて逃走を試みるだろう。
「――」
しかし男はそんな魔物が自らへと向けてくるあらんかぎりの負の感情こもった視線を平然と受け止めると、むしろ魔物討伐の意志をさらに確乎たるものとして魔物へ向け、悠然と刀を構えた。
「――」
「――」
すると魔物は自らの殺意と憎悪に恐れ戦くどころか戦意を露わに向上させた男の様子に警戒したのか、くぐもった低い唸るような咆哮を放つ威嚇と牽制の行為をやめて、目の前にいる男同様に黙り込む。魔物の突然な変化を見て、男は魔物の意図を悟った。
――威嚇の無意味を悟ったか
威圧、威嚇の咆哮や態度は戦闘において確かに有効な手段だ。野生という命のやり取りが当たり前のように行われる環境下において怯えや委縮はやがて相手の死を招く翼となりうるからこそ、野生の獣は呪い師が呪詛を吐くかのごとく威圧や威嚇の咆哮や唸り声を使用する。けれどそれが有効となるのは威圧や威嚇に対して相手が怯え、委縮する場合においてのみだ。
威圧や威嚇はその行為自体に意識を割く必要があるぶん、隙が生まれやすい。すなわちその行為が無意味に終わるのであれば、それは自らの戦闘力の低下を招く要素となりえてしまう。示威行為というものは、それに対して相手が自らが削いだ以上に戦闘力を低下させるからこそ、威圧、威嚇の行為には意味があるものだ。
しかし今、獣の目の前にて刀を持つ男は自らの示威行為に対して一切揺るがぬ態度を貫いている。目の前の男に示威行為は通じない。魔物はそう悟ったからこそ、自らの戦闘力を低下させるだけの行為をやめて、近いうちに訪れる目の前の男との真剣勝負に備えて全ての意識を対決の瞬間の為のそれへと変換したのだ。
――手負いの獣、か
肉体の一部を失った魔物は、しかし冷静そのもの。損失を前にしてわめくことなく、冷静に自らの持つ武器の有効性を認識し、効かぬとなれば自慢の武器の一つであろうとあっさりと捨てる胆力と知恵を敵は持っている。
――油断は出来ないか
ならば油断は禁物。そも、野生、弱肉強食の掟が当たり前のように支配する場所で生きている存在は、すなわちこうして目の前に生きているという事実こそが強者の証である。野生という環境において、多くの場合、一度の敗北が死を招く。しかし目の前の彼らは、そんな環境内において発生する戦闘にすべて勝ち残ってきた強者だ。手負いの獣が恐ろしいといわれる所以はそこにある。彼らは死するその時までただの一度の敗北をも知らぬ強者であり、それを自覚する戦士なのだから。
「――」
「――」
「――」
静寂が辺りを包み込む。だがそれは平穏さからくる静けさではない。静けさは、二つ頭の魔物の意識が自らへと刃を向ける男へ放つ純然たる殺意と、男が自らの体に牙爪を突き立てんとする魔物に対して放つ討伐の意志が打ち消しあった結果、偶発的に生まれてきたものだった。それはまるで世界中が近く訪れる決着の予感に固唾を飲んでいる見守っている証のようでもあった。
「――」
失せた言葉の代わり、二つと一つの視線が交錯し、互いの殺意と意図を伝えあう道具となっている。男も魔物も、相手が少しでも隙を見せれば、瞬間とびかかって相手を殺傷せしめてみせるという気配を漂わせていた。
「――」
「――」
さなか、魔物がわずかばかり体を動かす。それは切断部位より出血する様に違和感を感じたが故の身じろぎであった。
「――」
だが魔物のそんなわずか動きを見た男は、瞬間、警戒の気配をさらに濃密なものとして刀を構える。男は相手の一挙手一刀足を見逃さないといわんばかりの観察の瞳を魔物へと向けていた。
「――」
「――」
一方、自身の行為により男が反応して気配が増大した事を察知した魔物は、身じろぎをやめ、静かに身を伏せた。同時に魔物の傷口より噴出する血液の量が目に見えて減少してゆく。魔物は意識的に周辺の筋肉を引き締めて止血を行っていた。血液量の減少が自らの体に悪影響を及ぼすことを魔物は経験則として知っている。
無論、止血行為の最中も男に合わせた視線と意識は決して外さない。自らの怪我の対処をする魔物はしかし、隙あらばその喉元を食い破ってやると言わんばかりの強烈な視線を男に送り続けていた。
「――」
「――」
「――」
男も魔物も動かない。彼らの体において動いているのは六つの瞳だけだった。相手の視線の動きと体の構えから、男と魔物は互いが同じ戦法をとったことを悟る。奇しくも互いが選んだのは先々の先を取る戦法でなく、先の先をとる戦法でもなく、後の先をとるカウンターの戦法だった。自らの首の一つをすでに切り取られたという警戒心が、生来の気質と培ってきた経験に基づく慎重さが、獣と男にそれらの戦法を選択させていた。
「――」
「――」
「――」
男も魔物も、その意思の全てを己の視線の先に映る自らの眼前にいる敵の一挙手一投足へと集中させたまま、一向に動かない。焦れて動いたその瞬間が自らの敗北の時であると悟っているためだ。故に彼らは動かない。互いに動けないまま、刹那の時が一秒にも十秒にも感じられる時間の流れだけが、刻一刻と経過してゆく。
互いが決着の時を拒んでいるかのように、彼らの間に流れる時の流れは遅かった。
*
果たして彼らの中でどれだけの時間が経過したころだろうか。それは時間にしてみればほんの十数秒にも満たない時間だろう。しかしそれはまた、一瞬たりと意識の緩みを許されず、集中という行為により己の時間の感覚を切り刻んでいた両者にとって、永劫のように感じられた時間でもあった。
「――……」
意外にも睨み合いをやめて先に動いたのは意外にも手負いの魔物ではなく、十全な状態を保っている男の方だった。
「――」
男は少しばかり焦れた顔で泥の地面の中へと沈みつつある自らの足を引き抜くと、途端に戒めより解き放たれた虎のような猛然とした勢いで魔物に向けてとびかかってゆく。魔物は男のそんな行為を、なるほど泥の中へと肉体が触れることを嫌ったのかと察知して、ニヤリと笑った。
「グ」
「ギ」
だが魔物は、すぐさま湧き出てくる歓喜の想いとそれによって生じる油断は危険なものであると判断し、気持ちを改めた。多少状況が有利になったとはいえ、敵は自らの首を切り落としたほどの猛者なのだ。そんな決して油断できる相手ではない存在が、猛然とした勢いで魔物へと接近してきている。
「――」
「――」
そして魔物は、猛然と迫る刀へと注意をはらう。なぜならそれは、男の手にしている自らの太く雄々しい首すらも切断する威力を秘めた刀だからだ。刀は獣を切った際に着いた血脂に濡れ、妖しい光を発している。野生にはない知恵を持つ種族に鍛え上げられた鉄のみが放てる色した光を見て、魔物の中の野生の本能はあらんかぎりの警告を発した。警告とはすなわち、この刀を今すぐ最優先で破壊せよ、だ。
――ギ
――グ、ググ
しかし魔物はそんな警告を臆病と判断すると、危険から目を背けたがる本能を思いの力で抑え込み、改めて男の持つ刀へと観察の視線を送る。魔物には野生の獣には珍しい、危険を抑え込む勇気と、危険を乗り越えようとする知恵というものが備わっていた。そして魔物は自らの首一つを切り離した刀に相対すべく、男の持つ牙である刀の考察を開始する。
――ギ、ギ……
――ガ……
自らを手負いの状態へと追い込んだ男が手にする刀は、己の強靭な首を斬り飛ばすほどの脅威を秘めた武器だ。刀は鉄程度であれば弾き飛ばす威力を秘めた自分の硬い毛皮を押しのけ肉体へ侵入し、肉も骨も神経も血管をも断ち切るほどの威力を秘めている。しかしその刀が脅威の威力を発揮したのは、魔物自身が攻撃を仕掛けようとした瞬間だけだ。刀がそれだけの威力や切れ味で魔物の皮と肉を切り裂くことが出来ない事を、男が自分の切り飛ばされた頭の一つを刀で叩きつけた時、力いっぱい刀身押し付けられた額を斬るでなく叩き落すにとどまった事実から、魔物は把握している。
――グ、ゲ……
――グ、ゴ……
何が差異を生んだのか。考えた瞬間、魔物は斬り飛ばされる寸前に自らの首から送られてきた情報を思い出す。あの時、己の首は攻撃のための力を存分発揮するための準備をしている状態だった。攻撃の威力とは寸前の脱力と直後の硬直の落差がそのまま威力へと直結する。だからこそ魔物の首は最大威力の攻撃を放つために最高の脱力を行っていた。思い至ったとき、魔物は同時に、強靭な外皮に覆われた自らの首が刀に切り飛ばされた悟る。
――ギ
――グ
脱力。その現象が起こる攻撃の隙を狙われたのが原因だ。
――ギギ
――グゲ
魔物はそしてこれまでの経験から、自らの爪や牙を最も深く突き立てられるのは相手が全身に力を込めていない敵であることを思い出していた。相手がたとえば油断するなどしてその身に力を込めていないほどに、爪や牙は深々と突き刺さる。ならばつまりそれこそが魔物である自らが首を斬り飛ばされた原因に他ならないはずだ。すなわち、男は魔物自らが攻撃する瞬間に生まれる脱力の隙を狙って、その柔らかい肉体に刀身を入れ込んだのだ。
――グッ
――ググ……
ならば事前に筋肉を引き締めて皮と肉を断たれる覚悟で臨めば、敵の刃が自らの体を完全に貫かない可能性は高い。魔物はそう予測した。故に魔物は身動き一つとらず、ただ男の攻撃に全身の筋肉を引き締め硬直させて備える。自らの身に攻撃を仕掛けてきたその時が、自らの首の一つを切り飛ばした男の最期の時だと魔物は確信した。
「――」
そんな獣の思惑を知ってか知らずか、男は突撃してくる。男はやがて右手に握っている刀を右後方下向きに引いた。構えから見て男は先ほど同様に、切り上げの攻撃をする姿勢だ。姿勢はすなわち、先ほど男が魔物の首を斬り飛ばした一撃のそれを放つためのそれである。
男は自身の刀がそのままでは魔物である自らに通用しないことを認知している。魔物は、男がそのくらいには賢く強く、そしてこれまで戦ってきた敵の中でも最も強い敵であることを、本能的に察知していた。故に魔物は、おそらく男が伏した自分が突撃してきた男に対して攻撃をしかける寸前を狙う算段なのだと判断する。
だからこそ魔物は、迫りくる敵の攻撃に対し、いかにも敵の喉元に飛びつき食い破ろうと思っていると錯覚するよう、先ほど切り飛ばされた一つの首が行った時以上にいっそう強く低く身構えた。それは四足の獣がとびかかる直前に見せる跳躍の姿勢だった。先ほど死した首が放とうとしていたのは咬む攻撃ではなく、毒液を吹き付ける攻撃であったが、ともあれ途中までの動作が同じであれば、男はこのあと魔物が放つ攻撃も同じであるに違いないと錯覚するだろうと魔物は確信していた。
そして魔物は、突撃してくる男が刀の切っ先の位置をさらに下向きに、身をさらに低く伏せ気味に調整したのを見て、ほくそ笑んだ。その調整は、魔物がとびかかった場合、ちょうど刀が喉元あたりを通過するようされたものだった。
魔物は敵が自らの思い通りの勘違いをし、まんまと罠にかかってくれたことを確信する。あとは予定通りのしかかるような攻撃を行い、それに反応した敵がこちらの首元狙って放つ攻撃を全身の筋肉を硬直させ自らの硬い毛皮と肉で防いでしまえばよい。さすれば魔物の首を斬り飛ばせないという事態に男は混乱し、少なくない隙が生まれるはずだ。
超近距離戦において隙さえ生まれるのであれば、もうこちらのモノだ。そのまま相手の細身にのしかかり、抑え付けてしまえばよい。仮に取っ組み合いとなるにしても、こちらは相手よりも四回りも五回りも大きい。体重差を考えれば、取っ組み合いの最中、刀という男が持つ唯一の牙を弾き飛ばすのは容易だろう。あるいはそんなことをせずとも、泥の地面の中につけこんでしまえば、泥より生まれた生物でないこの男は、そのうち泥のもたらす快楽にやられて動けなくなってしまうだろう。それで自らに勝利は訪れる。
「グル……」
「ギギ……」
考えるほどに自らの勝利を確信させる事実が湧き出てきて、魔物の思考は歓びに満ち溢れる。伏せた魔物の二つの口から違った声色の、しかし同じ感情により生じた厭味ったらしい笑いが漏れだした。魔物は数秒先に訪れる勝利の時を確信して湧き上がってくる歓喜の感情を抑えきれなかったのだ。瞬間、魔物の二つの意識が同時に男より逸れた。
「グ……」
「ギ……」
しかし魔物は、一瞬恍惚の彼方へと旅立ちかけた意識とその危うさに自ら気付くと、無理矢理抑え込み、再び激突の瞬間を計るために視線と意識を男へと向けなおす。――そして。
「――遅い」
「――!?」
「――!?」
一瞬だけ男より意識を外したことが、魔物の決定的な隙となった。一瞬意識を放した次の瞬間、刀を握る男のもう片方の手にしっかと拳銃を握り前に構えられた予想外の姿を見て、魔物が持つ二つの頭は完全に絶句する。男は自らが隠し持っていた牙により魔物の酔いが一気に覚めたのを見て、しかし一切表情を変えないままに突撃した。
*
突撃する男は魔物の気配が獣のそれから狩人のそれへと変化したことにより、魔物が自らの刀の攻撃に対してなんらかの策を練っているだろうことを読んでいた。おそらく魔物は、刀という武器の弱点に気が付いたのだ。日本の刀という武器は西洋の剣と違い、殴りながら乱雑に相手の体を力任せに分断する一撃を放つには長けていない武器である。刀は相手の柔らかい場所を狙いその箇所目掛け正確に振るってやることで、初めて相手の体を切り裂くほどの切れ味と真価を発揮する。
おそらく魔物は、先ほど自らの首が斬り飛ばされた経験から、そんな刀という武器が持つ弱点を見抜いたに違いない。しかしそれでも魔物は愚直に先ほどと同じか、あるいはそれ以上に深く伏せた姿勢を取り、同じような攻撃を仕掛けようとしてきている。
魔物に知恵と胆力があることを、男は先ほど看破している。魔物が男の強さを認めていたように、男も魔物の事を一切侮っていなかった。男は魔物の強かさというものを、互いに気配をぶつけ合った際、嫌というほどに思い知っている。魔物がそうして不用意に動かなかったからこそ、男は自らの身が快楽の泥に沈むよりも前、待ちの戦法を変えて自ら積極的に動かざるを得なくなったのだから。
それほどまでに狡猾さを備えた魔物が愚かしくも先ほどと同じ愚行を繰り返そうとしているというのであれば、そこに何らかの罠が待ち受けているという結論に到達するのは容易だった。間違いなく魔物はこちらの刀攻撃に対して何らかの罠を張っている。おそらくこのままでは刀による攻撃はそのままでは通用しないだろう。
突撃の最中のわずかな時間において、男は早急に対策を練ることを強いられた。男はそして刹那の瞬間に思考を巡らせる。
今現在男が持ちうる武器の中で鉄のように硬い奴の毛皮を貫くことを可能とする武装は刀以外にない。男の手持ちには銃もある。だが38口径の銃から鉄の弾丸を火薬で射出したところで、あの硬い鋼鉄じみた外皮が貫けるとは思えない。接射すれば別かもしれないが、仮にそれでも敵の外皮を貫けない場合は、銃の方が駄目になる可能性が高い。何より接射のため奴と触れ合う距離まで近づくというのであれば、刀を持って敵の懐に飛び込むのと何ら危険性は変わらない。通常弾でも、強化弾でも、ともあれ、ただの銃弾の持つ貫通力では、敵の鋼鉄の外皮を貫けない。
――ならば、普通ではない銃弾を使うまでの事……
ダッ、ダッ、ダッ、ダン!
男は魔物の意識が自らより外れたその隙に、腰元のホルスターから取り出した拳銃――コルトライトニングへと青色の印が付いた特殊弾を装填し、立て続けに弾丸が発射した。
「ゲ――」
「グ――」
瞬間的に放たれた四つのマズルフラッシュは合わさって、隙だらけとなった魔物に対して強力な目つぶしとなった。予想外の痛みのない先制攻撃を受けた魔物は、呻き声をあげながら身を硬直させると、反射的に瞼までをも固く閉じこむ。行為により獣の視界が闇に閉ざされる。銃口より放たれた光は、獣から光を完全に奪っていた。
「ギッ!」
「グッ!」
思いもよらぬタイミングで思いもよらぬ攻撃を受けた魔物は、身を硬直させつつ、驚き戸惑う。さなか魔物は驚きに瞬きを繰り返した。しかしそれでも瞳の中でちかちかと暴れまわる光は魔物の眼球より抜け出ていってくれない。直後、光の衝撃を受けて硬直する獣の胴体へと衝撃が襲いかかってきた。光に遅れて男が持つコルトライトニングの銃口から飛び出したうっすらと青く輝く四発の弾丸が魔物の体に突き刺さったのだ。
「――氷結弾」
男は静かにつぶやく。途端、身構え硬化した獣の皮膚にて停止したはずの弾丸が強く発光した。直後、青白い光を放った弾丸の周囲に白い霧が生じる。霧をよく見れば、空気中を漂っていた水蒸気が熱を奪われて氷結した結晶の集まりであることが理解できるだろう。男の言葉通り、獣に打ち込まれた弾丸の周囲では水蒸気と毛と表皮とがまじって凝結するという現象が起こっていた。
男がコルトライトニングという六連式の拳銃より放ったのは氷結弾という、弾頭が着弾した瞬間に中へ秘められた力が発動して周囲に凍結の効果をもたらすという、氷の属性の威力を秘めた特殊な弾丸だ。弾丸は男の知る技術体系によってではなく異なる世界の理により造られたものだったが、男にとってはそれが求めた効果を発揮してくれるのであればどちらでもよいものだった。
男のもつ知識では、目の前の魔物と似た姿を持つケルベロスという悪魔は氷結の攻撃に弱い。だからこそ男は、ケルベロスという悪魔とよく似た魔物に対して氷結の弾丸を撃ち込むという選択したのだが――
「ギ、ギゲッ!」
「ギュギ!」
果たしてその効果は絶大だった。自らの体へと生じた異変が獣の意識を呼んだのだろう、獣は反射的に固く閉じこんでいた目を見開く。魔物の体に残った四つの瞳が、己の体の異変部へと向けられた。
「――」
「――」
そして魔物は、視線の先、自らたちの毛皮が銃弾を受けた部分から中心に真っ白く凍り付いているのをみて、四つの目を同時に見開いて驚愕を露わにした。昏い色をした瞳の奥では瞳孔の収縮と拡散が繰り返されている。瞼をあけたまませわしなく開閉を繰り返すという交感神経と副交感神経の盛んな動きは、まさしく脳の奥にある自律神経の失調により起こっている現象であり、魔物の混乱が無意識下において影響を及ぼしている証といえるだろう。
「――隙だらけだ」
そして獣のそんな隙を男は見逃さない。男はいまだ銃口より煙を吐き出すコルトライトニングを腰のホルスターに素早く収めると、後ろに構えていた刀の柄を素早く両手で持ち込み、迷わず魔物の胴体部、頭部と頭部の間へとその切っ先を突き出した。
「――」
「――」
男の渾身の力で突き出された刀は、冷凍という現象により力の入らなくなった魔物の肉体部位を容易く貫いてゆく。そしてずぶりと侵入した刀は持ち主の意に従って獣の暖かい血肉を斬り裂き、かき分けていった。怜悧さを秘めた刃は、やがてすぐに魔物の胴体の最奥に秘されていた脈動する心臓へと到達する。男は手中より伝わってくる感触で脈動するそれを感じ取ると、迷わずさらに力を込め、魔物の命の源めがけて刀を押し込んだ。
「――」
「――」
刃が心臓を貫いた瞬間、魔物はびくんと一瞬だけ大きく身じろぎ、目を見開いた。その後魔物は、呻き声も上げずに停止する。それからきっちり三秒後、魔物の体に変化は起きた。凍結に驚き目を白黒させていた魔物の瞳からは生気が失せてゆく。瞳の反応に遅れて数瞬後、男は刀の柄に上よりの力がかかってくるのを感じた。
――獣の全身から力が失せていっている
気付いた瞬間、男は突き入れた剣が魔物の加重によって折れてしまうよりも前に、魔物の体内へと突き入れていた刀を素早く抜き取り、身を引いた。
「……」
「……」
男が刀を抜いて下がった途端、物言わぬ骸と化した魔物の体は支えを失ったといわんばかり力なく地面へと崩れ落ちてゆく。魔物の瞼が永久の眠りについた事を示すかのよう、自然と垂れて閉じていった。やがて魔物の瞼が落ち切るころ、男は戦いの終わりを確信する。しかし油断は禁物だ。なにせここは自分の知る常識の範囲外にあるような場所なのだから。
「――…………」
男は自らが殺傷せしめた魔物より距離をあけると、更に周囲への警戒の意志を濃密なものとする。さらにいかなる異常も見逃さないという意志に満ちた視線を周囲に巡らせてあたりを確認すると、その視線の先に危険や異常を告げる兆候が一切見つからないことを確認し――
「――すぅぅぅぅぅぅぅ」
そしてたっぷり数秒ほども周囲を見渡したのちようやく安全を確認した男は、ずれた学帽の位置と崩れた服を軽く整え直すと、溜めこみ押し殺してきた緊張による負荷を外へと放出するかのように、大きく息を吸い込み――
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
小さく長い息を吐きだした。男はそのまま、交互に呼吸を繰り返しす。使い古した二酸化炭素が排出され、新鮮な酸素が体に取り込まれてゆく感覚がたまらない。呼吸を行っていると、体内より排された暖かい吐息と周囲に漂う冷たい空気が撹拌し、温度差にて男の排出した吐息が白く染まっていく。男はそんな日常起こりうる些細な光景をこうして平然と眺められているという事実に、この後も続く戦いが短い間だろうが今ひとたびだけ終わりを告げ、わずかだろうが休息する事の出来る時間が訪れた事を強く実感した。
「――……ふぅ。……?」
やがて思う存分体の中の空気を新鮮なものへと入れ替えた男が呼吸を通常のものへと戻した頃。男は足元に近寄ってくる小さな気配を感じて、そちらへと視線を向けた。しかし予想に反して振り返った視線の先には何もいない――
『流石は十四代目葛葉ライドウ。異世界においてもその刃の冴えが鈍ることはないか』
否、いる。
「――恐縮です」
足元から聞こえてくる声に反応して男――葛葉ライドウは視線を地面へと下げると、軽く会釈をしてその言葉を受け取った。ゴウトの声に自らは『第十四代目葛葉ライドウ』であるという事実を強く実感したライドウは、刀を学生服の胸元より布を取り出すと刀の血を拭うと、速やかに納刀し、黒い外套の中へと我が身ごと仕舞い込む。刀や銃といった一般人が持つには面倒な手続きがいる道具は、争いや異変が終わったのちに別の争いや異変の火種となりえてしまう。そうして市井の人々に無用な諍いや誤解を招きかねない道具をすぐさま仕舞い込むのは、射影の存在として帝都の守護者を務めるライドウにとって、当たり前の行為だった。
『む……』
パチンと鍔元まで刀が収められた音が鳴ったその瞬間、まるでそれが合図であったかのように魔物の胴体が地面を構成する黒い泥の中へと沈みきっていった。見れば先ほどライドウが切り飛ばした首の一つもすでにない。
『フンッ……』
四つの足を小刻みに動かしていたゴウトは首と胴体が泥の中へ埋もれてゆくのをみて不機嫌そうに鼻息をならすと、ライドウの肩の上へと飛び乗った。
『先程よりも沈殿の速度が早まっている。まるで砂の湖。いや、溶岩性の沼だな。絶えず重量を分散させ続け同じ場所に持続的に重量が加わらないようにし続けなければ、やがてこの快楽をもたらす泥の中へ飲み込まれていってしまう。かつて北欧神話のモデルとなった土地であるアイスランドがこのような地質であったと聞くが……、ともあれ、そのようなことについて悠長に話している暇もなさそうだな』
ゴウトは一人勝手に納得した様子をみせると、ライドウへと呼びかけつつ、首を上に向けて空を見上げた。
「――はい」
ゴウトの言葉と所作に反応して、ライドウはゴウトと同様に視線を上へと向ける。一人と一匹の視線の先には、かつて月だったものが映っていた。かつて夜空で無数に煌めく星々よりも燦然と輝いていた月。それは今や、この世のすべての悪を結集したかのような泥に囲まれ、黒い卵のような異形へと変化しつつある。地面に落ちた砂糖菓子が集った蟻に食らい尽くされるが如きそんな無残な有様を見て、誰がかつてあれが白く美しく様々な幻想を紡ぎだす織り手であった月である信じるだろうか。
『月が泥により黒い卵へと完全に変貌を遂げた時が、刻限。すなわち世界の終わりだ。故に我々は月の変態が完全に終わるより以前に――』
「――彼らのために月の最奥への道を切り開かなければならない」
『うむ』
言葉を継いだライドウにゴウトは頷きを返す。
『あの『桜』とかいう女のいうことが正しければ、の話だがな』
続けてゴウトは額に皺を寄せながら、吐き捨るように言った。
『なぁ、ライドウ』
更に続けざま、ゴウトはライドウへと言葉を投げかける。
「――なんでしょうか」
『なぜ信じる気になった?』
「――」
ゴウトが訝し気な表情浮かべながら飛ばした質問に、ライドウは軽くその場での足踏みを繰り返しながら無言を貫く。ライドウは一見して先ほどと変わらない無表情のままだ。しかしライドウのお目付け役であるゴウトは、ライドウの心の中はゴウトの放った言葉によって生まれた様々な考えが渦巻いているだろうことを見抜いていた。さて、ライドウは何をそんなに悩んでいるのか――
『ふむ』
なるほどそうしてよくよく先ほどの自らの発言を思い返してみれば、主語が足りず、意味が複数に捉える事が出来る。おそらくライドウはゴウトの言葉に複数の回答を見つけ出したからこそ、答えあぐねているのだろう。ゴウトは己の主語をはっきりとさせない言葉がライドウの長考を呼んでしまった不肖を嘆くと、ため息を吐き、口を開いた。
『お主やあのペルセフォネという輩はすんなりあの娘らのいうことを信じたようじゃったが、儂にはそれが信じられん。なにせ『桜』という女の語る話によれば、奴らは元々敵側に属する存在であったという。また加えて、あやつらは自分らの目的のために、自分たち以外の全てを利用しようとしたというではないか。無論、自らが敵側に属していた事を自白したという点は、奴らの言葉を信用する材料になるかもしれん。じゃが、だからと言って奴らを完全に信頼する理由にはならん。奴らは心の底でまた我らを利用して何かを企んでいるかもしれん。いや、むしろ何かたくらみと隠し事があるとみて動いた方が間違いなかろう。悪魔を用いた読心術にて奴らの心の底を確かめたわけでもあるまいに、なぜ主は、主らは、奴らを完全に信頼して完全に受け入れたのだ』
「――……」
ゴウトの問いに、ライドウは上へと向けていた視線を地面へと向けた。視線の先、泥の地面は目的地である月にまで途切れ途切れに伸びている。闇の泥に侵される月までの距離はまだ遠い。ライドウは続けて自らの背後へと視線を向けると、今まで自らがたどってきた道に闇ばかりが広がっているのを確認すると、記憶を掘り起こすかのように、腕を組み顎に手を当てながらその場でぐるぐると円を描いて歩き始めた。
*
「それで全てか、『桜』」
豪奢。というよりは勤勉と厳格さが支配する部屋の中、冷徹な声が響き渡る。声は部屋の中央奥、窓際に佇む豪奢な格好をした女性の口から発せられたものだった。女の声はまさしく王と呼ばれる位についたことのあるものしかだせない絶対的な威厳を孕んでいる。その迫力たっぷりの声を聴いて、この場にいるほとんどすべての人間が思わず背筋を正し、質問を投げかけられた存在から言葉が出てくるのを待っていた。
「ええ、これで全てです、ペルセフォネ」
そのような聞くものから反抗の意思を奪うかのような力を持つ言葉を直接投げつけられた『桜』はしかし、迷いない口調で力強く断言すると、まっすぐな視線をペルセフォネへと投げ返す。断言には確かにすべてを語ったのだろうと思わせるだけの説得力があった。実際、部屋の中にいる大勢の兵士の中には、すでに『桜』の言い分を信じたような顔をしてみせる輩もいる。そんな同情めいた顔を浮かべる兵士の中には、ペルセフォネが『桜』の言葉に何を言おうとペルセフォネに反論し、『桜』という女の側についてしまいそうな輩もいる。なるほど『桜』という女の元となった人間、間桐桜とやらの身の上話は、人として情けをかけたくなるほどの悲惨で凄惨な生涯であったといえるだろう。
また『桜』が語った間桐桜の話には、自らが女という兵士たちよりも彼女に近い立場だからこそなのだろう、間桐桜や彼女の絶望から生まれたという桜AIやモリビト『桜』、メルトリリスに対して深く憐憫を覚えたり、同情の想いを抱いたりもした。これがたとえば市井に生きる一般市民であったのならば、ペルセフォネ自身も湧き出てくる思いに負けて彼らに協力するとの判断を下していたかもしれない。
だが自分は命を聞く立場の兵士たちとは異なった立場にある。自分は兵士たちに命を預かりものであり、下手を打てば死に直結しかねない命を下すことの出来る立場にいる存在だ。いくら『桜』の態度と語りに説得力と同情の余地があるからと言って、己の想いに従って間違った判断を下すことは許されない。
「――」
ペルセフォネは言語と視線にて雄弁な意思を返された『桜』の言葉の真偽を量るべく、無言のまま焦点を変え、視線を『桜』の全身へと移行させた。そしてペルセフォネが広げた視界で全身を観察してみると、頭の左右に生えたヘラジカの角も、浅黒い肌をした簡単な布で身を包んだだけの幼い裸身も、『桜』の身は一切揺らいでいない。
王族であり、人を測るに長けたペルセフォネは、自らの視線や大衆の視線が持つ威力というものを知っている。心に何らかの疾しさを持っている人間は、自らのような権力を持った人間や大勢の人間に囲まれつつ視線や意識を向けられた場合、たとえその人間が悪人と呼ぶほどの悪事を行っていない人物であっても、過去に犯した小さな罪の意識を思い出して動揺し、体のどこかしらに不自然な挙動を見せてしまうものだ。王族という肩書と大衆という群の力というものはそれほどまでに多くの普通の感性を持つ人間に対して効力を発揮する。
しかし目の前にいるこの『桜』という女はどうだ。そんな一般の法則など非一般的な環境から生まれ落ちた自分には関係ありませんよと言わんばかりに、権力者と大衆を前に澄ました顔と堂々とした態度を貫いている。付け加えるのならばこの女は、自分たちに対して何一つ悪いことをしていない悪人ではなく、自分たちを利用した挙句、果てには我々の乗った飛行都市マギニアを方舟代わりとして地球の外側、無限に広がる星の海にむかって追放しようと企んだほどの大悪党だ。
「――」
疾しさがあって当然の相手に対して、しかし『桜』は一切表情も態度も崩さずに微笑んでいる。やがて『桜』はペルセフォネが自らに観察の視線を送っていることに気付くと、一切態度を崩すことなくペルセフォネの視線に向けて微笑みを返した。その様子を見てペルセフォネは目を細める。仮にこれが嘘をついたものの態度だとするのならば、なるほど『桜』という女は少なくとも真偽を見抜くに長けた自らの目を曇らせるくらいには相当の強かさを持った大人物であるのは確かだろう。
――なんとも人間味の欠けた女だ
ペルセフォネは思わず感心した。どれだけ図太い神経をしていれば、相手の命とその後の運命を決定づけるような嘘をついた相手に対して、華やかな笑顔を浮かべて芍薬のように佇んでいられるのか。ペルセフォネにはまるで見当もつかなかった。
――この女の反応からその真意を探るのは難しい
判断したペルセフォネは無言でその視線を『桜』の隣に佇む存在へと動かした。視線の先には、陶器のような真っ白い顔をしたアンドロの姿が目に映る。そのアンドロは一般的に知られる者たちと違って、羽織るマントの下から機械で構成された背骨だけが覗くという特異な点にだけ目を瞑れば、少し顔色の悪い人間にしか見えないほど精巧な外見の作りをしていた。
「彼女のいっていることに偽りは一片たりともありませんよ、ペルセフォネ」
一見して人のようにしか見えない特殊な体を持つアンドロ――マイクは、ペルセフォネの向けた視線に顔面に張り付いた人工皮膚を撓ませていかにも友好的に微笑んでみせると、大げさに両手を広げて敵意がないことをアピールし、口を開いてどこか不自然さ残る口調でしかし流暢に『桜』を肯定する言葉を発した。
「信じていただけるかはわかりませんが、エトリアのすぐ近くにて遥か昔の時より世界樹と新人類の守護を務めてきたこの私。人工知能である『マイク』が保証いたしましょう」
続けてマイクは、両手を広げて笑顔を浮かべた姿勢のまま、無機質な言葉を紡いだ。人がやるにしてはあまりに不自然なそんな挙措は、アンドロという機械の体を持つ者によくみられる特徴だった。
「……こうしてこの場所から多くの冒険者たちを目にしてきた。無論、その中には貴公のような機械の体を持った冒険者がいなかったわけではない」
機械という電気の命令があって初めて動く体であるアンドロは、肉体の反射という抗えない性質を持つ人間とは異なり、あらゆる行為にたいして意識的に命令を下さなければ体が動かない。故に本来、肉の体というものを持たないアンドロたちには、先ほどペルセフォネが行ったような肉体の持つ自然な反応を利用した善悪真偽の判断術は通じない。――だが。
「だが、人がやるように自らの裡より湧き出る恐怖を抑え込みながら私の眼前に立つアンドロと出会ったのはこれが初めてだ」
いかなる理屈かは知らないが、目の前にいるアンドロが人に似た所作、挙措を自然と行うというのであれば、話は別だ。
「――」
視線へ変わるとペルセフォネの言葉にマイクは自身の状態に気付いたのだろう、体の震えがピタリと止まっていた。ペルセフォネは、マイクの体がほんの少しばかり機械らしくない様子で不規則に小刻みに震えている様子を見つけ、自らの裡にあった驚くという感情がやがて微笑ましいという段階を経過して、慈愛のものへと変化してゆくことを自覚した。
「なるほど。少なくとも、貴公が普通のアンドロではない、というのは本当らしいな」
自らの裡より湧き出た恐怖により震るという人のような所作をしかし指摘された瞬間に止めてみせるというなんとも人間とも機械とも判別しづらい所作をみて、ペルセフォネは苦笑しながら告げる。さてマイクの場合は、人間らしいといわれるのと、機械らしいといわれるのと、どちらの方が好みなのだろうかという詮無き考えが自然と浮かんできた。
――肉の体を持つくせに機械らしい反応をしてみせる『桜』といい、機械の体を持つくせに肉を持つかのような反応を見せるマイクといい、なんとも面白いコンビではないか。
ペルセフォネにはそんなくだらないことを考える余裕すら生まれてきていた。マイクの態度はペルセフォネの凝り固まった疑念を一気に解消させたのだ。
「――」
一方、ペルセフォネの言葉を受けたマイクは、浮かべていた満面の笑みを消し、能面のような顔を浮かべていた。マイクは何も語らない。マイクの顔は一切変化しない。だがペルセフォネの指摘がマイクのなんらかの琴線に触れて彼を不機嫌にした事だけは、自身を見て面白そうに笑うペルセフォネをキュルキュルと一定のリズムで瞳孔の収縮を繰り返してみるマイクの様子からその場の誰もが理解できていた。マイクのそれは、誰がどう見ても子供が虚勢を暴かれて不貞腐れているかのような、実に人間らしい態度だった。
「素直さは美徳だ。だがもう少し狡猾さを身につけるといい。そなたのそれはまるで子供のそれだ」
そんなマイクの様を見てペルセフォネは再び苦笑しつつ指摘する。ペルセフォネの自らを子供扱いする態度に反応して、マイクは反論するためだろうか、体を動かしかけた。しかし自らがペルセフォネの言葉に殊更反応して見せるとそれこそまさにペルセフォネが例えるよう子供っぽさの証であると気付いたようで、やがて反論の牙を手折られたマイクは動かしかけた体を寸分たがわず元の位置に戻すと、所在なさげに顔をそむけてその場に佇む。
「ふふっ……」
そんなマイクの挙措を見て、ペルセフォネはさらに優しい視線を彼へと投げかける。
「――」
それがさらにマイクの不機嫌を誘ったようで、マイクはますます身を固くした。
「あまり彼をいじめないでください、ペルセフォネ」
『桜』はそんなマイクの様子に見かねたのだろう、ペルセフォネとマイクの視線の交錯が途切れるようマイクの前に進み出ると言う。ペルセフォネが視線をマイクから『桜』に移すと、途端『桜』は再び口を開いた。
「子供相手に大人気ないですよ」
『桜の』言葉にペルセフォネは、マイクというこの世界樹の世界が始まる以前よりあったという人工知能の事情を思い出す。マイクは旧人類より与えられたいくつかの使命を果たす為、生まれた時より与えられた知識だけをもとに、己とは違う存在である他者と接する事をほとんどせずに世界の裏側で一人淡々と使命を果たしてきた。
そんな一人ぼっちだったマイクは、やがて冷凍睡眠(/コールドスリープ)より目覚めた旧人類である彼の知り合いである少女と出会い、果てに旧人類から与えらえた使命を否定される。不変であることを基本概念とする彼にとって、使命の否定はマイクの存在意義と魂の否定に等しかった。
そして彼は奇妙な運命の果て、やがて多くの人に支えられながら、自らという不変であるはずの存在に変化をもたらすことに成功する。彼は月より甦った多くの人たちの行為と善意により、初めて自らの違和感として感じたことを違和感として受け入れ、『成長』したのだ。
赤子ですら生まれた瞬間より成長するという。それを考えるならば、彼はつい先ほどまで子供どころか赤子以前に等しい存在だったといえるだろう。
そう。マイクはつい先ほど赤子以前の状態から子供に成長したばかりの存在なのだ。ならば、なるほど――
「そうだな。その通りだ」
そんな子供に成長したばかりのマイクの素直さを指摘して彼を不快にさせる事の、なんと大人げないことか。
「でしょう?」
「ふ……」
ペルセフォネが自らの意図を理解したことを察知した『桜』と『桜』の言わんとしたことを理解したペルセフォネは、自然と視線を交えると苦笑しあう。世界の滅亡目前だというにもかかわらず、会話はあまりにも日常の明るい雰囲気に満ち溢れていた。
「――」
そんな二人の片割れのすぐ後ろでは、一人のアンドロが、まるで母親同士の会話に立ち入れない子供のよう、不貞腐れた様子でなんとも居心地悪そうに佇んでいる。もしこの場に事情を知らぬ第三者がいて、三人が特異な格好や見た目さえしていなければ、この井戸端で繰り広げられていてもおかしくないだろうこの会話を聞いて誰がこの二人と一人の会話こそに世界の命運と行く末がかかっているものであると理解するだろうか。
「それで、いかがでしょうか」
やがてそんな事態を引き起こした一因を担っている存在の分身である『桜』は、どこまでも自然にペルセフォネへと問いかけた。
「――」
まるで今日の献立はお気に召したかしらとでも尋ねるかのよう投げかけられた問いによって、しかし部屋の中に漂っていた弛緩した空気が変化する。ペルセフォネが発する威圧的な気配によって、平穏の空気は一転して剣呑さと厳格さばかりが支配する戦場(/非日常)のものへと戻っていた。
「――」
マギニア女王としての仮面を被りなおしたペルセフォネは『桜』の問いに答えない。正直に言ってしまえば、マイクをかばう『桜』の態度から、彼女に対する不信の感情は消えてしまっている。やっかいなことにたったあれだけのやり取りで、ペルセフォネは自身が『桜』やマイクという存在を信じたがっているのだという事を自覚した。
ひどく理不尽だがこうなってしまうと、一度信じたいという方向へと傾いてしまった天秤の秤を理性という重しで元に戻してやることは難しい。他人を信じたいという気持ちは人の目を曇らせる劇薬だ。一度このような気持ちを抱いてしまえば、冷静な判断を下すことは難しくなる。信じたいという気持ちが天秤の片方の秤に乗せられた不信の材料を覆す無限の重しとなるのだ。
ペルセフォネの感情は『桜』を信用してもよいかもしれないと思い始めている。しかしそれでもペルセフォネの理性は、『桜』の話は、はいそうですかと信じるにしては、あまりに彼女の論拠によるものが多すぎると文句を言い、屈しそうになる己の心に待ったをかけていた。ペルセフォネが無言を貫いているの、そんな感情と理性、幻想と現実の対立によるものだ。ペルセフォネは今、自らが冷静な判断を下せない状態にあることを自覚した。
――今の自分では冷静な判断は難しい。
今の自分はまさに広大な海の上にぽつんと投げ出された船の船長だ。周囲三百六十度を見渡しても陸地は見当たらず、それどころか陸地に繋がる手がかりすらも転がっていない。雲も鳥も波すらも存在しない凪いだ空間においてしかし船と船員の安全を守るべく、船長たるみずからは船が見事陸地にたどり着くルートを見出す必要がある。自分は残された最後の武器である勘と経験という名の羅針盤を頼りに、正確な航路図を白紙の地図の上に生み出さなければならない。
しかしその羅針盤は今、かつて古い時代に魔女モルガンがアーサー王と呼ばれた英雄の生涯をかき乱したように、目の前の『桜』という女が生み出す蜃気楼(/ファタ・モルガナ)によって正常さを失っている。単なる光の屈折現象にすぎないその蜃気楼という現象にしかし古来より多くの船乗りたちが幻惑され、多くの船が水底に沈められてきた。そして蜃気楼は時に、数多く蜃気楼という現象と対面してきた豊かな経験を積んだ船乗りですらも欺くものとなる。本来であればそれを蜃気楼と一目で見破れるはずの経験豊かな彼らがしかしそんな魔女の幻惑に騙されてしまうのは、決まって、目の前に現れた蜃気楼を決して幻のモノでないと信じたいと願っているその時だ。信じたいという気持ちが彼らの持つ羅針盤の正確さを妨げる。信じたい、という気持ちは、物事を正確に把握する事を妨げる何よりの毒である。今の自分はまさにそんな彼らと同じ状況に陥ってしまっているのだ。
情に絆されつつある自らの状態を冷静に判断したペルセフォネは、迷った瞳で視線を彷徨わせる。すると部屋中を見て回った視線はやがて自然とライドウへと辿り着いていた。ペルセフォネはライドウを見つめる。ペルセフォネの視線を受けたライドウはすぐさまその視線に気づいて彼女を見返した。ライドウとペルセフォネの視線はやがて交錯する。その瞬間を過ぎ去ると視線はすぐさま相手の瞳へと続く光をたどり、瞳の中へと到達する。自分たちと同じく『桜』の話を聞いていたライドウの瞳は、しかし一片たりとも揺るいでいなかった。
――そうか。異世界の人物であるという彼ならば……
そんな彼の不変の態度からペルセフォネは、異世界の人物であるライドウこそこの場において最も『桜』やマイクの語る神話的事象云々とやらの真偽を尋ねるにふさわしい人物であると判断する。ライドウは己を見つめてくるペルセフォネの瞳の中に『貴公はどう考えるか』という質問の光を見つけた。そしてライドウは顎に手を当て自らの考えをまとめると、やがて口を開き――
*
「――あの時も言いましたが、『自分には彼らが嘘をついているようには見えなかった』。それが理由です」
『ほんとうに、そんな理由で奴らを信じようというのか?』
「――はい」
ゴウトの呆れの感情を多分に含んだ声に、しかしライドウは静かに頷き返した。
『あやつが嘘をついている、とは思わないのか。あれをそうして大勢を操り、自らの願望をかなえようとした悪党だぞ』
「――嘘を吐く人ではあるのでしょう。ですが自分には……」
『自分には?』
「――あの『桜』という女性が、帝都の中や外で出会ってきた、どこにでもいる女性――特に、母と呼ばれるような女性たちと変わらない存在に見えたのです」
『――』
ライドウの言葉にゴウトは目を見張らせて沈黙する。
「――かつて……」
ゴウトの様子を見て、ライドウは再び言葉を発した。
「――かつて自分にも母がいました。母は自分に対しても他人に対しても厳しく、我が子である自分(/ライドウ)に対しても厳しい人でした」
『……』
「――母は自分に対し、ことあるごとに自分が『葛葉ライドウ』となる身である事を自覚しろと言っていました。母は本当に厳しい人でした。ですが母は同時に、我が子である自分の為ならば、その身を差し出すのにためらわない、自らが我が子や帝都の害となるのであれば、自らを刀に貫けと言うにためらわない強さを持った人でした」
『……そうか。そうであったな。お主は、あの時、守護霊鑑である母君に出会い……』
「あの『桜』という女性は、そんな母と彼女はおなじ気配をしていました。彼女は我が子であるというメルトリリスという女性の為ならば、あらゆる存在を敵としてまわすにためらわず、どんな存在にでも平然と嘘をついてみせるでしょう。母でないにしろ、同じように、自分の大切なものの為ならば身体だろうが心だろうが差し出す強さを持つ女性を、自分は帝都を中心に起こった事件を通じて何人も目撃してきました。そんな自分が彼女の言葉に嘘偽りはない、とそう感じたのです。この、十四代目葛葉ライドウである自分が、そう判断したのです。自分は彼女らは信じるに足りる人物であると、そう判断し、そう信じようと選択したのです」
そこまで言うと、ライドウは今まで以上に強い意志を瞳に浮かべると、己の方に乗るゴウト目掛けて断言した。
「ゴウト。それ以上に説得力のある説明が自分には出来そうにありません」
『――は、くは、くはははははは!』
ライドウの言葉を聞いたゴウトは息を漏らすと、続けざまに笑った。笑い声に鬱屈とした負の感情はかけらほど含まれておらず、なんともせいせいとしたものだった。ライドウの言葉は、ゴウトが先ほどまで抱えていた疑念を欠片も残さずに討滅してみせたのだ。
『葛葉ライドウであるお主が正しいと判断した! なるほど、それは確かにそれ以上に説得力のある言葉は見当たらぬな! いやはや少なくとも儂の口からは出てきそうにもない! なるほど、それは道理だ! いやはやまったく、天晴れだな、十四代目葛葉ライドウ! 』
ゴウトは心底愉快だと言わんばかりに笑う。笑いには大いに歓喜の成分が含まれていた。ゴウトは何より、自らが手塩にかけて育ててきた存在が、ついにはそのような物言いをするようになった事が、たまらなく愉快だった。
ライドウの肩に乗っかっていた猫のすがたをしたゴウトは、身を揺らしながら大笑いすると、やがて満足したと言わんばかりに揺れを止めて、ライドウの肩から泥の地面の上へと飛び降りる。そしてゴウトは、その四足に装備した泥の上においてある程度の浮力を確保された調整された靴で器用に音もなく着地すると、ライドウの方を見上げながら言った。
『現ライドウである主がそういうのであれば、儂はその意に従うしかない。いやはや、なるほど、まったく立派になったものだ』
「――恐縮です」
『――それに……、む?』
一所に留まらぬよう注意して歩き回るゴウトは言いかけると、唐突に後ろを振り向く。
「――」
猫の察知能力は人よりも高い。おそらくゴウトは何らかの異常を察知したのだろう思ったライドウは、ゴウトの視線の先を追う。するとライドウは彼方で光るものがあることに気付く。輝き方から見てそれは双眼鏡の輝きであることをライドウは判断した。すなわち今視線を向けている先には、人がいるという事だ。やがて光は失せ、代わり、視線の先には人影が見えるようになる。
「…………ーい」
人影はやがて声を発するようになった。
「おーい!」
映る人影は聞こえてくる声と共に徐々に大きなものとなってゆき、その人数や姿までが露わとなっていく。
「ようやく追いついたぞ、ライドウ!」
「あ、お疲れ様です。お怪我はありませんか?」
「先行して安全を確保するといって敵の群れに突撃していった時には驚いたけど、まさかそれを本当にやりきるとはね……。有言実行のそのお手並み、驚き通り越して脱帽するわ」
遠くより近づいてくる人影はやがて見覚えのある三人の女性のものとなり、ライドウとゴウトにそれぞれの言葉を投げかけてきた。単騎にて突撃したライドウに遅れてやってきた女性たちは、パラ子、メディ子、ガン子と呼ばれる、パラディン、メディック、ガンナーという職業の冒険者たちだった。
「――いえ、問題ありません。恐縮です」
ライドウは彼女たちの方を向き、彼女たちの内の一人、メディ子が肩からひっさげているショルダーバックの口よりアリアドネの糸が伸びていることを確認しつつ、彼女たちの言葉にそれぞれ応対する。ライドウの顔には当然の務めを当然果たしただけであるという謙遜ない笑みの表情が浮かんでいた。
『では十四代目。お主のその判断が間違っていないことを確かめにいくとしようか』
ゴウトはライドウと共に彼女たちの無事を見届けると、再び前を向きなおして宣言する。
「――はい」
言葉にライドウもまた振り向き、迷宮の前を見据えた。前方に広がるは天空に聳える月へと続く迷い道。空間も時間も歪んだ、この世にあらざる場所。桜AIという、旧人類の思いやりがつくりあげてしまった悪魔が最奥に待ち受ける迷宮。
「――あの最奥に……」
また『桜』は、そんな桜の迷宮の最奥、桜AIのいる場所では、自らを蠱毒の泥の中より救い上げてくれた存在であるエミヤたちがとらわれているだろうという。
――ならば今度は自分の番だ
「――行きます。自分が再び先行して安全を確認、確保します。皆さんはアリアドネの糸を切らさないよう、注意してついてきてください」
ライドウは想いと決意を新たにすると、一人の女の狂気と暴走によって起こってしまったという事態を収束させるべく、再び先陣切って漆黒の外套を翻しながら走り始めた。