Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

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第十五話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (三)

飛行都市マギニアの今やすっかり静まり返っている商業地区を歩く女がいる。女の顔はすれ違った全ての人間が振り向かずにはいられないほど整っていた。程よい短さに後ろにまとめられた、枝毛などの荒れた様子の一切ない栗色の髪の毛。迷い無い決意の色に満ちた青い瞳。きゅっと力強く結ばれた唇。余計な主張を一切しない鼻のパーツ。それらがバランスよく配備された整った顔立ちはまた、美しい装飾施されたティアラや大きな水晶イヤリングに飾られている。加えてその細身を包み込む多重円の魔術紋様刻まれた豪奢な鎧など、数えればきりがないほどの特徴が、容姿の整ったその女が高貴なものであること主張していた。

 

「あ、おい、そこのお前! ちょっと、止まれ!」

「ん……? ……わたしか?」

「――こ、これは失礼致しました、ペルセフォネ様!」

 

ペルセフォネ。それがこの美しい女の名前だ。巡回中の兵士は、自らが声をかけた相手が現在飛行都市マギニア改の最高指揮官ペルセフォネであると知って、蒼白になって最敬礼を行う。兵士は槍と盾持つ手を震わせながら額に冷や汗にじませていた。見た目一回り以上も大きな屈強な体躯の兵士が小さな女に向かって恐れ戦く姿があまりにおかしくて、ペルセフォネは苦笑しながら口を開く。

 

「よい。君は任務を私の下した命を忠実に果たそうとしたに過ぎないのだ。気にすることはない」

「は、はい!承知いたしました! ご厚情、感謝致します!」

 

自身が述べた言葉によってあからさまにほっとした表情を浮かべる兵士の姿を見て、ペルセフォネは苦笑の表情を深くする。一方、ペルセフォネの言葉に冷静さを取り戻した兵士は、安堵の表情を浮かべ直してから軽く額の汗をぬぐうと、一転して疑念に満ちた表情を浮かべ、ペルセフォネに向かって尋ねた。

 

「……、しかしペルセフォネ様。このようなご時分、なぜこのような場所に、護衛もつけずにおひとりで……?」

 

兵士の言葉は確かにもっともな疑問だ、とペルセフォネは思う。なにせ今、この飛行都市マギニア改は、世界を救うという目的のため、月を中心に渦巻いている触れただけでこの世のモノとは思えない快楽をもたらすという泥と接触するスレスレにまで近づき、月の奥地へと続くという泥の上へと最も手練れだと思われる四人を送り出し、四人から迷を踏破したという連絡が来るのを待ち続けているという最中だ。ペルセフォネは『彼らからの連絡が有り次第、数名の精鋭部隊と『桜』とマイクを引き連れて、四人が迷宮にひいたアリアドネの糸の導きに従い、我らは月の迷宮の奥地まで転移する計画である』、とマギニア全域に放送で兵士たちに説明を行ったばかりである。故に目の前の兵士からすれば、そんな計画の中心核であり飛行都市マギニア下層に存在する出入り口付近に待機しているはずの存在が、下層よりも一つ上の層であるこの中層の商業居住地区にいるという事態が理解できなかったのだろう。

 

「いや……、少し気になることがあったのでな」

「気になる事……、ですか?」

「ああ……」

 

兵士の事情をさっと思い浮かべたペルセフォネは、しかし自らがどうしてここまで足を運んできたのかをはっきり答えることはなく、歯切れ悪く短い言葉を返すとそれきり黙り込んでしまう。兵士は眉を顰め、困った表情を浮かべた。ペルセフォネはこの任務に忠実な兵士を困らせるのは良くないことだとわかっていつつも、自身がどうしてこの場にまでやってきたのかを説明すると、間違いなく兵士が余計に困惑するだけだろうことを予測して、白眉を歪めて整った顔に苦い表情を浮かべた。その時だ。

 

『おいで、――リア』

 

「――っ!」

 

突如として自身をこの場へと導いた声が脳裏へと響いてきて、ペルセフォネは思わず息を呑み、びくんと身を瞬間震えさせると、目を見開いた。兵士に真実を語れない原因はこれである。脳裏へと響き渡るペルセフォネをどこかへと導こうとする声にはまるで聞き覚えのない声にはしかし、敵意というモノがまるで感じられない。むしろ声は逆に、どこまでもやさしく、ペルセフォネの気持ちを落ち着かせ、自分はこの声の求める場所に向かわなくてはならないのだと思わされてしまうような効力を持っていた。

 

「ぺ、ペルセフォネ様?」

 

ペルセフォネが突如として身を震えさせる反応を見て、兵士は驚愕した様子を見せた。ペルセフォネは兵士の所作から、やはり声はペルセフォネ自身の耳にしか届かないものだということを再認識する。兵士の顔にはこちらに対する気遣いが浮かんでいた。そのことをうれしく思いつつも、ペルセフォネはやはりこのことは誰にも告げぬ方がいいだろうと判断する。

 

――指導者がわけのわからない声に惑わされて動いているなど兵士たちに知れたのなら、動揺が広がってしまう

 

「……、いや、なんでもない」

 

判断したペルセフォネは、何度目になるかわからない言葉を口にすると、揺らいだ自らの体を立て直し、姿勢を完全に元の通りへ戻すと、澄ました顔で何度目になるかわからない用意していた言葉を言う。

 

「……、『桜』の言が正しいものであるのならば、もう少しで決着がつくということになる。世界が元の通りの姿を取り戻した時、所詮は過去の亡霊が一時的にとどまっているに過ぎない存在である私はもはやこの世から失せているだろう。私は私や君たちが救った世界を、この目で見れない。そう思うと、少しさびしくてな。その前に少しばかり今のマギニアの光景を一人見て回りたい気分に駆られたのだ」

「……、ペルセフォネ様……」

 

言い訳を告げると、兵士は何とも言えない表情を浮かべてペルセフォネの名を呼ぶ。兵士の声に含まれている多くの成分は、悲しみであり、また、憐みであった。ペルセフォネは自らが述べた、まったく嘘でないが、完全なる真実でもない言葉によって兵士の同情を誘った自らの行為に少しばかりの罪悪感を覚えつつ、それでも兵士に向けて用意してあった続きの言葉を述べる。

 

「そういうわけで、悪いが、少し一人でこのあたりをうろつくことを許容してくれないだろうか。無論、ミュラーより連絡が有ればすぐに入り口に戻るつもりであるし、気が済み次第、散策は切り上げる予定だ」

「……わかりました。どうぞ、気のすむまでごゆっくりおくつろぎください」

「感謝する」

 

言うと兵士は再び最敬礼をした。声にはわずかばかりのかすれが混じっている。ペルセフォネは兵士の涙声に気付かないふりをすると、彼の礼儀に簡単な応答を返した後、再び先ほどの声が導く方へとその脚を向けて歩み出す。

 

『こっちだよ』

 

声だけの妖精は兵士と別れた途端、再びペルセフォネの脳裏へと現れる。

 

「わかっている。――」

 

電灯だけが照らす暗い街中を進みながら、ペルセフォネは一人つぶやくと、ふと空を見上げた。薄暗闇を見上げれば、白い天井の向こう側の空には、大きな大きな月が浮かんでいる。地上から眺めた折には手中に収めることも可能でなかろうかとの錯覚を覚えさせるほどに小さくしか見えない月は、しかし幻想の薄布を取り払った今や、人間のそんな傲慢と矮小さを嘲笑うかの如く、両手どころか我が身すべてを用いても不可能なくらいの巨大な姿を露わにしていた。月の乾いた大地は、ペルセフォネがこれまで見てきたどんな荒野よりも巨大であり、死のにおいに満ちている。この命の気配がかけらほども見当たらない荒涼とした大地と比べれば、地上のどんな巨大な砂漠や溶岩地帯のような地獄が如き場所であってもましに見えてくるのだから不思議なものだ。

 

「リミットまであと少し、か」

 

月を見ながらペルセフォネは再び呟く。今そうして死の具現であるかのような真の姿を晒した月を、裂け目より生じた泥が覆っていっている。そうして月に纏わりつく泥の行方を追うと、やがてペルセフォネの視線は泥が絶え間なく溢れ出す裂け目のわずかな痕跡を見つけて、ため息を吐いた。

 

「……やはり、もはや裂け目(/ギンヌンガガプ)の隙間も見えないか」

 

裂け目の上下左右に至るまでの隙間という隙間が黒い泥に覆われた今、その裂け目が何処に繋がっていて、泥が何処より排出されているのかを知ることは難しい。しかし泥を見たものは、少なくともその裂け目が命あふるる惑星に繋がっており、泥は惑星が大事に育んできた命が溶け込んだものであることを理解するだろう。泥はそれほどまでに生々しい剥き出しの生命の気配を漂わせている。そうして命あふるる惑星より追い出されるようにして裂け目より寒々しい宇宙空間に向けて飛び出てくる泥は、まるで庇護者を求める迷子であるかのように、周辺の宇宙空間に浮かぶあらゆるものへとその魔手を伸ばしていく。

 

「……、子供……か」

 

黒い泥はまるで、後朝(/きぬぎぬ)の別れの時が訪れるなど認めるものかと我儘を言う大きな子供の腕だった。そのような子供っぽさを備えた泥はまた、あるいまたは同じよう、自らの力を誇るかのように超巨大と言って過言でない人型戦艦にまとわりついてそれよりも巨大な泥巨人を造っている。あるいはまた、世界の成分全てが溶け込んだ自らを一片たりとも日がしてたまるかと主張するかのよう、固まって泥の海を作っており。さらにはまた、自分がいない場所がこの世の楽園であるなど認めるかと言わんばかりに、召喚されたとある神の手によって火星に生まれつつあるエデンの園の内部へと侵入を開始していた。

 

子供っぽいうえに見栄っ張り。吝嗇家の上に狭量で、気まぐれで、おまけに嫉妬深い。泥はまるで女の負の側面を凝縮したかのような性質を備えている。そしてそんな我儘女の如き泥の目的はただ一つ。そんな負の側面ばかり持つ自らの存在を認めないかのよう、自らとそれ以外とが切り離されている世界の状態を拒絶し、自らが溶け込んだ、自らが無条件で認められる世界を作り上げる事。

 

卵。泥。海。巨人。神。そして、無。世界に散らばる神話というものを紐解けば、世界の始まりというものは大抵このどれかから始まるものである。泥に宿る意志は、世界の全てがまじった自らの体からそれらを生み出して世界再誕の材料とすることで、世界の全てに宿ろうとしていた。

 

世界の源となる成分をその身に大量に取り込んでいる泥はすでに、虚空に海を作っている。世界を造りあげる、あるいは世界のために斬り分けられる巨人はすでに生まれてしまった。神の存在も火星の大地の向こうにある。あとは纏わりつく泥が完全に月を覆いつくし、卵として変性を遂げてしまえば、それですべてが終わりだ。世界の素材はすべてこの場にそろってしまう事となる。もはや世界が再誕を遂げるその時までの猶予はあまり残されていない。

 

月が泥によって完全に覆われ、卵が完成してしまえばもはや手遅れだ。誰が何をしようが、どうにかして世界を救おうとする行為自体に反応して、世界再誕が起こってしまう。そして泥をどうにかしようとしたものは、創生神か、あるいは世界を生み出した英雄として、泥に宿る意思によって作られた世界の中、未来永劫祭り上げられることとなるだろう。すなわち。世界の転生を止めたいのであれば、そのために足掻くというのであれば、今この時よりかつてヴィーグリーズの大地と呼ばれていた場所から月に向かって伸びる泥が月を完全に覆い隠してしまうまでのその猶予が、そのまま最後の機会となる。

 

「頼んだぞ、冒険者たち……」

 

そんな事態を防ぐために迷宮へと足を踏み入れた者たちの存在を思い起こしながらペルセフォネがつぶやくと、呼応するかのように静かな声が頭に響いてきた。

 

『さぁ、おいで、――トリア』

「――ッ、今、いく」

 

空気を読まぬかのように自らを誘うその声に少しばかり苛立ち混じりの答えを返すと、ペルセフォネは中層、商業居住地区の薄暗闇の中を前を向いて歩きだした。

 

「頼んだぞ、異世界の戦士、葛葉ライドウよ……」

 

ペルセフォネの言葉が暗闇の街の中に残響する事もなく消えてゆく。やがて甲冑と石畳のぶつかる音すらも完全にその場より消え去った頃、誰もいなくなった街の中を照らしあげる電灯がさびしそうに天空に浮かぶ月と泥の道に向けて光を放っていた。

 

 

赤方偏移ノ回廊

天の泥は全て道

 

 

見る者の色彩狂わせる月光と、宝石を砕いてばら撒いたような星明りの波長に満ちた菫色の空間を突き進む存在がある。その存在は漆黒の外套を翻させながら、迷いのない様子で泥の地面の上を疾走していた。悪魔召喚師、『葛葉ライドウ』。それが彼の名前である。ライドウが疾走しているのは、長く触れたものに永劫の眠りへと誘う泥の地面の上だ。少しでもその場にとどまれば即座に自らの体を呑み込んでしまう泥を見て、ライドウの頭にはこの泥の正体というモノの情報を思い出す。

 

ライドウはかつて自らが解決した帝都襲撃事件、『コドクノマレビト』事件における経験から、泥が蠱毒の呪いによって生み出された人の魂や肉体が融けて混ぜられたものだと理解していた。あの事件においては蠱毒の呪いの集合体である泥は、最も背後で糸を引いていたクラリオンという存在が、自らがかつて持っていた宇宙を自由に飛来するほどの力を取り戻すために生み出したものだった。

 

クラリオンという存在は自らの手駒として多くの人間を利用し、帝都の裏側にて暗躍させ、帝都の人々や関連する人々を利用してつくりあげた蠱毒の呪いの術式によって泥を生みだし、自らの力を復活させるための糧とした。このたびの事件においては、『コドクノマレビト』事件の首謀者側の人物が復活し、異世界からやってきたというエミヤたちの敵であるという存在と共に、泥は蠱毒の呪いによって生み出されたものであり、YHVHという唯一神復活のための糧であると語っていたがゆえに、ライドウは泥が蠱毒の呪いによって生み出されたものだと理解していた。そしてまた帝都での戦いにおいて、ライドウ自身が蠱毒の呪いが発動する瞬間を目撃し、蠱毒の呪いに飲み込まれた際に他者すべてを下し自らが頂点に立ちたいという破壊衝動が訪れた出来事から、ライドウはますますそれが蠱毒の呪いによるものであると確信するようになっていた。

 

ライドウの考えは、その時点では間違いなく正しいものだった。否、ライドウの考えは決して間違ったものではなかった。事実として生まれた初めの時点において泥は蠱毒の呪いによって生み出されたものであり、接触したものの肉体を徐々に融解させる毒の如きものだった。少なくとも帝都の側において活動していた者の行為によって生まれた泥は、確実に蠱毒の呪いを発動させた結果、生まれたものに過ぎなかったのだ。

 

だがしかし『桜』という存在の話によれば、蠱毒の呪いと呪いによって生み出された泥は、魔のモノという生命に寄生して精神を糧とする生物や世界樹という地球の地脈に至るまで根を張る巨大な樹木が存在し、そんな世界の在り方と人々の行く末を管理するため人造神が存在する世界の特性と交わり、世界の裏側に潜む桜AIの思想と存在の影響をうけることで、触れたあらゆるものを瞬時に溶かす能力をほぼ失った代わり、触れたものの精神にとてつもない快楽をもたらすものへと変わったのだという。

 

蠱毒の呪いと北欧神話の神話的事象の現象が組み合わさることで生まれたこの泥の中には今、世界樹という世界に存在した多くの生命が融けこんでいる。本来ならば泥は取り込んだ者たちの魂を競い合わせることで最強の魂を生みだし、最強の称号と実力を得た魂に力を集約させることで、最強の存在を作り上げる術式であるはずだった。すなわちあらゆる生命が融け込んだ泥の中は、弱肉強食の掟こそが支配する自然世界の完全縮図であるはずだったのだ。

 

しかしそんな泥の中へやがて人造女神『メルトリリス』の存在が混ざったことにより、事態は一変する。生命の精神の境界を溶かし人々の意識を管理する女神『メルトリリス』は、本来ならば泥の中においても保たれるだった個と個の境界をも融かしつくしてしまったのだ。そして世界樹の世界の裏側にいる存在の影響を受けた泥は徐々に取り込んだものを完全に合一させ、この世から差異というものを完全に失せさせる効力を持つようになっていたのだという。

 

すなわち泥の中という環境の中においては取り込まれた生命体の全ての立場が平等であり、完全に同一な存在となる。全ての場合において誰かと誰かの間に争いが起こるのは、争いの対象となる者同士が完全に同一な個体でなく、完全に同一な環境に身を置いていないが故だ。貴方と私は違う、という事実があらゆる争いの火種となる。しかしながら、すべての物質を同じ状態に溶かして呑み込んでしまう泥の中では、あらゆる物質が完全に同一の状態だ。そこには自らの肉体の右手と左手ほどの差異もない。自己であるとともに他者であり、他者であるとともに自己である。泥の中において他者と自己はすでに完全に同一の個体なのだ。ならばすなわちそこに争いの火種などが生まれる要因は当然なく、故に他者の拒絶などという事態が起きることも決してない。そして蠱毒の呪いによって生み出された呪詛と悪意が渦巻くはずの地獄の坩堝の泥は、快楽渦巻く平和の園と化したのだ。

 

誰かに拒絶されることがないという事、言い換えれば自らのあらゆる行いが完全に認められ肯定されるという事象は、多くの生命にとってすさまじい快楽となるという。承認欲求、所属と愛の欲求、安全の欲求、生理的欲求が同時完全に満たされる快楽はまさに身を蕩かすほどのものであり、一度その泥の闇の檻に精神を囚われてしまえば、多くの人間は二度と現世の光を直視したいとは思わなくなるほどであるらしい。

 

それはおそらく戦乱地帯より安全な地域に非難して一度平和と安寧を知ってしまった人間の多くが元の戦乱渦巻く地域に戻りたがらないようなものなのだろう。完全なる快楽と理解と平和に満ちた世界を知ってしまった人間が、その後多くの拒絶と無理解と他者への悪意に満ち満ちた世界へと戻りたいと思わないようになるのは自然の事だ。ならばそしてそんな彼らがしかし、安全な地帯で快楽だけが滾々と他者から提供される刺激のない状態に飽き、自己実現の欲求を覚えて、自己たちの体を用いて世界を新たに創造したいと望みだすのもまた、自らにないものをこそ心底欲する、隣の芝生の青さを羨み続ける人間の欲望の在り方というモノを考えれば当然と言えるだろう。自らの体を泥の効力によって失い、理性、知性、完成というものを収める器を失った彼らは、どこまでも貪欲に自らにないものを持つ他者を妬み、己の欲望を叶えようとするだけの存在になってしまったのだ。

 

そしてまた、『桜』たちの話によればそんな性質を持つ泥と一体化しつつある桜AIは、そんな彼らの願いに乗じて世界の全てに宿り、完全なる管理者となることを目指しているという。彼女たちはそして、すぐ近くに見える月が完全に呑み込まれたその時が世界再創生が始まるその時であるとも語り、またそんな事態を防ぐためにも、月の迷宮の最奥に潜む壊れた桜AIを排除し、マイクという完全にもとより機械としての魂を持って生まれてきた、しかし今や人の心を介する人工知能のマイクを桜AIの代わりに施設の管理者として据えることで、事態の収拾を図れるとも言っていた。

 

故にライドウとパラ子たちは世界が一人の壊れた女神の箱庭となってしまう事態を防ぐべく、直接的な戦闘力を持たない『桜』たちを月の奥地に送り届ける為、神話的事象の影響をうけて今や名前の通り迷宮にて決して切れることなく道を示すようになった『アリアドネの糸』を垂らしながら、月の奥まで続く泥の地面の迷宮を突き進むこととなったのだ。

 

 

疾走するさなか『桜』たちから聞いた事情を思い出し終えたライドウは、改めて周囲の環境に気を配る。するとまず靴裏から伝わってくる独特の感触がライドウの気を引いた。足元を見やれば全てが融け込んだという泥の地面は、何とも言えない独特の感触をしている。例えばこれが雨上がりの上に残った泥のそれであるならば、踏み出した足は一定の深さまでめり込み、しかしその後、泥の下に眠る硬い地面の感触が返ってくるだろう。また、これがたとえば泥炭地の底なし沼であるならば、踏み入れた時点で脚はどこまでも柔らかい地面にめり込んでいくはずだ。だがライドウが感じる感触はそのどちらとも違うものだった。

 

最速で目的地へと辿り着くため全力で一歩を踏み出す必要があるのに、全力を込めて地面を蹴りつけようとすると足が半ばまでめり込んでしまい、あるいは足を滑らせてしまいそうになる。それはまるで弾力性のある餅を踏みつけたかのような心地だった。あるいは練ったそばの塊を足で踏みつけた時のような感触に例えられるかもしれない。なるほど、これがゴウトの言う、地面の下にうごめく溶岩がある感触という奴か、とライドウは思った。

 

とはいえ、多少地面が気味悪くぬかるんでいようが、そんなものがこれまで多くの異界にて異なる法則が支配する世界を踏破してきたライドウにとって、大した障害となるものではない。すぐさま地面を全力疾走するためのコツを見つけたライドウがなんともたとえにくい泥の地面の上を突き進んでいると、ライドウは徐々に自らが不快感を覚えつつあることに気が付いた。

 

不快の原因を求めて意識を割くと、疾走の最中に肌を撫でてゆく風はどこか生ぬるく、また鼻腔にはどこか生臭い香りが入り込んでくる感覚が己の神経を逆撫でている事に気が付ける。ライドウはそして己の不快感の原因が主に触覚と嗅覚から伝わってくる感覚にあることを突き止めた。それらの感覚は、梅雨の季節の帝都のじめじめとしたそれとも違い、ぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた国鉄二頭客車のそれとも違い、無理矢理例えのであるなら屠殺場の中の空気のそれと似ているといえるだろう。それは死に至る直前、自らの運命を察知して絶望した獣たちによって発せられるものだった。その空気を一言で例えるならば、死臭、という言葉が最も適当だろう。

 

ライドウは己がそうした死を目前にした動物の吐く重苦しい息煙の中にでも取り込まれてしまったかのよう錯覚した。死を目前にした者が放つ鬱屈さや倦怠感は、そばにいる生あるものへと嫌悪感をもたらす。ライドウは腹の底から湧き上がってくる生理的嫌悪感から逃げるようにして、意識を遠くへと移した。そうして改めて視線を荒涼とした泥の地面のはるか向こう側、地平の彼方にまで向けてみれば、視界には宝石を砕いたかのような星空が何処までも広がっている。光景は時が止まったかと錯覚するほどに美しかった。それは文明の光という人工のヴェールをのけたものにしか見る事の出来ない、太古の時代にしか見る事の出来ない星空だった。

 

過去の日本人はこれらの星を見て筒を想像し、天を卵型、大地を卵の中に浮かぶ黄身のような如きものであると認識したという。彼らにとってはまた、星や太陽、月が放つ光の存在は卵の殻を貫通して外の世界からやってくるものであり、時間は卵の殻が回転するからこそ生まれるものであったと認識していたという。ならばなるほど、そんな彼らの血をひく自分が宝石砕いたかのような星空をながめて時が止まったかのようであると感じたのは、そんな祖先の感性がよみがえったからなのかもしれない。

 

そんな過去の時代と同じように無数の煌めく星が浮かぶ空は、総じて地上で夜明け頃に見られる菫色をしていた。そらを染める菫色は、ある場所では淡く、ある場所では濃くと、一秒ごとにその揺蕩う領域をゆらゆらと変化させている。星空という本来ならば変化など見えない筈の場所がしかし、漣がたっているよう、ひいては押し寄せ、押し寄せては引いていくような様は何とも神秘的だった。否、その美しさはもはや神の秘蹟そのもの、あるいは悪魔の御業と例えて過言でもあるまい。光景を前にしたライドウは、先ほどまで死に至る獣の吐息に塗れるが如き環境によって自らの心の裡へと生まれつつあった荒波が鎮まってゆくのを感じた。ライドウはそんな自らの気持ちを苛立たせる不快な思いを捨てるかのようにして、息を一つ長く吐き出す。肺腑が失われた空気を求めてもう一度呼吸を命じてくる頃、ライドウの心はすっかり元の通りとなっていた。冷静さを完全に取り戻したライドウは意識を遠くより引き戻し、改めて自らの周囲へ向ける。

 

すると途端、ライドウは不快極まりない生温く生臭い感覚が今なお己の肌身にのしかかってきているのだということを自覚させられた。再び腹底より湧き上がってきた不愉快さは一滴の雫となり、やがて二粒、三粒の水滴へと増えてゆき、清浄さを取り戻したライドウの心を再び穢そうとする。自らの心がそうした不愉快さに乱されつつあるという事態を意外に感じたライドウは、少しばかり眉をひそめた。自らの心がこうまで周囲の環境によって乱されるというのは、世界中の数多の場所、数多の環境の中で幾度となく悪魔との戦いを繰り返してきたライドウにとっても初めての経験だったからだ。

 

ライドウはこれまでに帝都の守護者として多くの悪魔や悪魔使いたちと戦ってきた。ライドウがそうした悪魔と呼ばれる者たちや、悪魔使いと呼ばれる者との戦う場合、多くの場合においてライドウは、この世界と少しばかり異相のずれた悪魔たちや悪魔使いたちの感覚が支配する世界――、すなわち異界と呼ばれる場所に引きずり込まれ、あるいは自ら侵入し、彼らを撃滅してきた。

 

異界、という場所は、その中で働いている法則もまるで現世のものと違っておりでたらめで、悪魔や悪魔使いたちにとって都合のいいようにつくりあげられている。例えばある空間では上下左右が入れ替わっていたり、ある空間においては外の世界にはなかったはずの霧が発生していたりする。異界とは悪魔や悪魔召喚師たちが自らのために生み出す、自らにとって都合の良い空間なのだ。それはエミヤが言った「固有結界」という言葉が、なるほど不思議なほどに適切な例え言葉であると言えるだろう。

 

そうしてライドウが撃滅してきた異界の中には、もちろんライドウにこのような死臭のごとき獣の臭気漂う異界もなかったわけではない。否、一般的に現世に現れる悪魔には低級悪魔と呼ばれる人間よりも動物に近い姿している者が多いがゆえに、むしろそうした獣の心の裡を投影したかのような世界の方が多かった記憶さえある。固有結界を敷いた悪魔が自らが生みだした敵の屍の上で王様気取りで一人勝利に酔う光景を見たことすらもある。

 

無論帝都の守護者『葛葉ライドウ』はそういった悪魔たちの固有結界――、異界に足を運んだとしても、冷静沈着に悪魔を撃滅すべく、心を乱さぬようするための訓練を受けている。悪魔という存在が人の心の隙間に入り込んでくる、人の弱さにつけこむような存在であり、ライドウがそんな悪魔を祓うべくヤタガラスという組織によって選定された悪魔召喚師である以上、それは当然の処置と言えるだろう。だがしかし今、そんな悪魔の誘惑や彼らが生み出す異界の影響を受けぬよう感情を殺す訓練を受けたライドウが、それでも不快感を制御しきれないほどに負の感情が湧き出始めている。とすればそれはいったい何が原因なのだろうか――、

 

――ああ、そうか

 

自らの状態を考察し始めたライドウは、そして数瞬の時間も考えるまでもなく、すぐに気が付いた。己の出した考えに導かれるようにした足元を見れば、そこには世界の生命の全てを含んでいるという泥が一面に広がっている。世界にはこれ以外を発端とするもの以外に何ら存在していない。ならば十中八九、この空気を生み出しているのは、この泥ということになるだろう。獣くさい、というのも、この泥が世界の生命の全てを含んでいるというのならば、納得がいく。おそらく生身に自分がこうして酸素がないらしい宇宙にて生きていられるのも、この泥がそうした空気を生み出しているおかげなのだろう。ならば次に問題となるのは、自分は一体この泥が生み出す空気の何にそんなに感情を苛立たせているのだろうかということだが――、

 

――この空気には、生命の気配が感じられない

 

これもライドウにはすぐさま予想がついた。泥の生み出す空気はただ『死んでいない』だけで、発生する苦難に対して積極的に抗おうとする生き物が放つ独特の熱を放出していないのだ。命の源より発せられる空気は、その辺に存在しているだけで、まるで生きていないのだ。例えば現世においては居場所がないと嘆く悪魔や悪魔使いたちですら、異界の中では生き生きとした様子で暴れまわったりする。彼らが暴走した結果起こりうる良し悪しはいったんおいておくとして、ともあれ彼らは彼らの願いによって生み出された異界において奔放に動き回って激しく呼吸を繰り返し、臭気と熱エネルギーを辺りに撒き散らす。臭気と熱を得た空気は彼らの動きによって撹拌され、あたりへと散らばってゆく。結果として異界は、場所によって濃淡の存在する悪魔の匂いと熱に満ちるようになるのだ。

 

だがこの空気は違う。なぜならこの空気にはそういった生命の生きた証がつくりあげる濃淡が存在していない。ただ漫然と生まれて、漫然と月の方へと流れていっているだけだ。この空気はただ漫然と命がここに存在するという証なのであって、それ以上の何物でもない。生の感覚があるのに、生きたいという意志や気配が感じられない。これに比べればまだ今まで葬ってきた悪魔たちの方が健全に生きているといえるだろうし、こんなものと比べるのもおこがましいが今もなおベッドの上で静かな呼吸を繰り返し眠り続けている知己の少女の方が必死に生きているといえるだろう。

 

ライドウはおそらく己が、泥という存在が生きるという事に対して真摯でなく無頓着であるという事実に腹を立てているのだろうと結論づけた。そしてまた、自分がそうして生きるという行為に対して不誠実な存在に対して不愉快を感じられるようになったのは、帝都の守護者である自分が、帝都という街において、多くの生き生きとした人たちと接してきたからこそ感じとれるようになったものなのだろうことをライドウは直感的に理解する。そう考えるとこの不愉快も悪くない。ライドウはそして、一転して気が晴れる思いを味わった。

 

「――敵か」

 

周囲に気を配りながらもそんな詮無きことを考えていたライドウは、やがて己の前方へ二足歩行する魔物の姿を見つけると、瞬時に自らの意志で動く生物に対して湧き出かけた余計な思いと思考の働きを取り除き、自らの体と意識を戦闘のためのモノへと作り変えるためにその場へと留まる。同時、ライドウは敵が自らの存在に気付かないようするため、気配を消失させた。ライドウの異変に気が付き戦闘の予感を察知したゴウトは、ライドウの後ろに跳躍して音もなく着地すると、前方に見える魔物へと視線を送る。魔物は二人の様子にまるで気付いていないようだった。

 

やがて己の意識と肉体を完全に戦闘のものへと変えたライドウが改めて己の少し離れた場所を眺める。するとライドウの目には、蹄のはえた後ろ足にて直立する魔物が目的もなく散策しているようなさまが映った。魔物はあらゆる生命を溶け込んだ泥の中より生まれたからこそなのか、頭部に漆黒の歪んだ角と黄金の鬣を輝かせ、獅子と牡鹿との長所を合成してつくりあげた合成獣のような、異形の獅子(/ゼノライオン)とでも呼ぶがふさわしいような容貌をしている。

 

魔物の姿と特徴を大まかに捉えた直後、戦闘の指針を定めたライドウは、その気配をさらに小さなものとした。ライドウはただ一つの事へと集中し、それ以外の意識の働きを可能な限り斬り捨て、鎮めて、気配をさらに小さなものとした。そしてライドウは羽織る外套の下に秘していた武器、刀剣「赤口葛葉」を露わにすると、刀を鞘より抜きつつ後ろに構え、奇襲を仕掛けるべく速度を上げて疾走し始める。疾走でふきとばぬよう深く被った學生帽の下では双眸が静かな殺意と決意に満ちていた。

 

進路上に立ちふさがる魔物は、全て殺す。ライドウは、この事件を解決して帝都の安全を確保するとともに、自分を泥の中より助け出してくれたエミヤたちに、後方よりやってくる三人の冒険者たち、そして自分と彼らの後ろにいる異世界にて暮らしている無辜の人々の生を取り戻す為ならば、自らの視界に入った魔物はすべて斬り伏せて突き進むというそんな覚悟をしていた。ライドウは今まさに、魔物という存在を殺す為だけの暗殺者と化しているのだ。

 

「グ……? グォ!?」

 

だがそんな殺意も気配も抑えたはずのライドウの急襲に、ゼノライオンはなぜか気が付いた。ゼノライオンがまるで天啓を受けたかのようにライドウの突撃してくる方向を向いたのは、この怠惰さの支配する空間においておそらくライドウのそんな純粋な思いと行動があまりに異なるものだったからだろう。ライドウの方へと視線を向けたゼノライオンは、漆黒の外套翻させながら猛然と襲い掛かってくる学生服の男を見て、素っ頓狂な声を上げ、驚きを獅子の面へと浮かべた。

 

ライドウは菫色の空間の中、一歩踏み出すだけで足を取られる泥の地面の上をしかしまるで影響を受けていないかのように疾駆し、刀を手に流星もかくやと言わんばかりの勢いで自らに迫り来ている。ゼノライオンの両目が敵対者を殺すための武装を手にしながら音もなく迫りくるライドウを認識したその瞬間、魔物の頭の中ではあらんかぎりの警鐘が鳴り響く。かつて多くの人々は夜空、天空より地に落ち行く流星を見て、それを不幸の予兆であると認識したというが、だとすればなるほど、流星のように迫るライドウを見て自らの身の危険を悟った魔物のその感性も非常にまっとうなものだといえるだろう。

 

「――」

 

魔物が自らの事を認識した。魔物の動きからそれを察知した途端、ライドウはもはや気配を隠す意味がなくなったことを悟り、そして気配を隠すために割いていた意識と力をも魔物へと向けると、更に速力を上げた。敵の必滅を誓うライドウの体からは裂帛の気迫が放たれはじめる。初め全身より発せられていたそれはしかし、やがて薄く細く研ぎ澄まされて目の前に魔物に向けてのみ放たれるものへと変化してゆく。ライドウが放つ気配は放たれる大きさに反比例して徐々に濃密なものとなってゆき、しまいには並大抵の悪魔や魔物といった意志ある生物の意識ならば浴びてしまうだけで意識を失ってしまいそうなくらい強大なものへと変化していった。

 

「……ッ!」

 

ライドウの放つ鋭い威圧を全身に浴びたゼノライオンは、一瞬、全身が自然と硬直する。それはゼノライオンの思考がライドウより発せられている威圧感からライドウの殺意を読み取ったから故の硬直ではなく、威圧がゼノライオンの肉体と本能を刺激し、怯えさせた結果の硬直だった。

 

「グ、ガァ!」

 

とはいえゼノライオンはまた、この世界の全てが溶け込んだ泥の中から生まれた魔物であり、泥の中から怠惰さを嫌って出でてきた存在。すなわち、泥のもたらす快楽をはねのけるほどの気概を備えている存在だ。この程度の身を硬直させる程度の威圧、あの泥のもたらす文字通り身をも蕩かしてしまうほどの快楽と比べれば、なんとくすぐったく、抗うに易いものであるというのだろう。

 

「グルルルルル!」

 

ゼノライオンはライドウの威圧によって発生した自らの体の硬直を気合の雄叫び一つで瞬時にはねのけると、続けざまに唸り声をあげながらその歪んだ頭部の黒角へと稲妻を蓄え始めた。ゼノライオンの頭部に生えた左右の角の間を行き来する稲妻はやがて二つに分かれ、弧を描き、角の上に円が作られてゆく。鬣が静電気によりまるで威嚇するかのように逆立った。生まれた稲妻の円と鬣の飾りは、まるでゼノライオンという魔物の生まれの特別性を示す天使の輪、あるいは王冠であるかの様であり――、

 

「――!」

 

そんなゼノライオンの挙動と威嚇を見たライドウは一瞬だけ眉をひそめて見せるが、それでも止まらない。否、それどころかライドウはすぐさま表情を元の無表情へと戻すと、むしろ走る速度をさらにあげたのだ。

 

「――グ……」

 

そんなライドウの所作を見て、ゼノライオンの顔が醜く歪んでいく。獅子の面にはやがて視線だけであらゆる獲物を射殺せそうなくらいの憎悪が生まれ始めていた。この誰をも拒絶しない泥の中より生まれたゼノライオンという新種の魔物は、それ故に他者から向けらえる意思というモノに敏感だ。また、獅子と牡鹿という他の生物に比べても群を抜いて特徴的な鬣と立派な角を持つ生物の合成存在として生まれたゼノライオンは、泥の中から生まれた魔物たちの中でも特段プライドの高い生物である。

 

ゼノライオンが自らの誇る武器と特徴を最大限に活用した技を放ったというにもかかわらず、目の前のこのライドウという男はそれをまるで無価値であるとでも言うかの如く、無視して突っ込んでくる。ゼノライオンはライドウが自分のその行為を取るに足らないものだと判断したのだという事を理解した。それがゼノライオンの矜持をひどく傷つけた。それがゼノライオンの憎悪と激怒を呼んだのだ。

 

「ガァァァァァァッ!」

 

屈辱によりついた己の心の傷は、自らの技を見下した敵を自らの誇る技で屠ることでしか癒す術はない。確信したゼノライオンは己の目的を達成すべく、雄叫びと共に頭上に渦巻かせていた稲妻を放出した。左右の角のプラスとマイナスの電極間に納りらなくなった余剰の電荷が行き場を求めて、あたりへと飛び散ってゆく。ゼノライオンの頭上にて迸っていた稲妻はやがてゼノライオン自身を中心として渦巻き、繭の様に電流の細かい網目を構成した。飛び散る繭はそして直線となり、魔物を覆う傘の様に変化してゆく。雷はまた、周囲の泥を蒸発させているのか、生まれた雷の傘は殷々たる音色を奏でながら徐々にその領域を拡大していった。

 

「――」

 

それはまさに触れたものの命を奪う禍つ雷――、否、禍事の稲妻と呼称するに相応しい技だった。ライドウはゼノライオンの放つ雷の技を見て、その白眉を微かに歪める。ライドウのそんな行為は悪魔の攻撃が自らの予想と異なっている者からきた反応だった。

 

ライドウはこの世界の魔物との戦闘経験こそ少ないものの、元の世界において数えきれないほどの多くの悪魔と戦ってきている。そんな神話や伝承の中より飛び出してきた悪魔という超常存在の中には、無論、雷を操る敵も多く存在していた。悪魔たちは目の前の悪魔が見せるように、雷のような自然現象を我が意をもってして自在に操る。だがそんな悪魔たちが操る雷などの現象は、あくまで悪魔たちがその特異な力を以てして作り出した自然現象の雷に似た何かであり、本物の自然のそれとは異なる性質と威力である場合が多い。例えば本物の雷であればそれはマイナスの電荷からプラスの電荷めがけて放たれる放電が空気中に作り出す道であり、秒速百五十キロにして進み、摂氏にして最低二万五千度以上もの熱を保有するすさまじいものだ。仮に悪魔が放つ雷がそんな自然のそれと遜色ないものであるならば、それはいかにライドウと言えど絶対回避不能かつ間違いなく死に至る絶技となる。

 

だが実際、これまでライドウはこれまでの戦いの中、多くの悪魔から雷を放たれ、ある時はそれを回避し、ある時はそれをその身で受けてきた。仮に悪魔の放つ者が自然のそれと遜色ないというのであれば、それは今ここにライドウが生存しているという事実こそが世の道理に合わない事象となる。すなわち、こうして多くの雷を操る悪魔たちと対峙したライドウが生きているというその事実こそが、悪魔たちの放つ雷は、悪魔たちがその力を以てして作り出す、自然現象に似たものであるという証明に他ならないものとなるだろう。そうして自らが生み出したものだからこそ、悪魔たちは雷に見えるそれを自在に操ることが出来るのだ。ライドウはそういった経験や知識を持つがゆえに、このたびの魔物、ゼノライオンも、角と角の間に留めている雷にこちらへと放つつもりなのだろうと予測した。

 

だがしかし、この魔物の場合は違った。この魔物から放出雷はきちんと、高い電位から低い電位に向かって進んでいる。あれだけ殺気を飛ばしてきた魔物がしかし自ら目掛けて雷を飛ばしてこないことも、魔物が雷を自在に操れるわけでない代わり、きちんと自然の理に則った雷を生み出しているという証明になると言えるだろう。すなわち、いかなる方法にてそれだけのエネルギーを生み出しているのかは知らないが、ゼノライオンは生み出した雷の動きを自在に操れない代わりに、自然の雷を生み出せし、ある程度の制御を可能とする魔物であるのだ。

 

「――」

 

それが本物の雷である以上、直撃すれば、いかに永世無極、一天多界に一切の敵ない、悪魔召喚皇とまで謳われたライドウとて、ただでは済まないことは道理。もし仮に奴の周囲へとしかれた雷条網の一つに掠めるだけでも、皮膚は焼け、血液が蒸発し、肉体はやがて周囲で蒸発している泥の地面と同じく黒焦げの運命をたどることになるだろう。運悪く直撃したのならば一部のみならず全身が黒焦げとなり、その日がライドウの命日になることは明らかだ。であるのならば、ゼノライオンの作り出した雷の傘はまさしく攻防一体兼ね備えたものであり――、決して侮ることのできないものである。ライドウは魔物の攻撃をそう認識しなおした。

 

「――だが」

 

けれどしかし、それが悪魔の力によって生み出されたものではなく自然の雷を利用した技であろうが、打ち破る方法がないわけではない。ゼノライオンの攻撃がいかなる種類のモノかを見破ったライドウは、瞬時に魔物の技を破る技を思いつくことに成功していた。

 

「――ふっ!」

 

ライドウはその疾走の速度を緩めないまま手にしていた刀を振りかぶると、自らの体に発生していた力全てを乗せて思い切り泥の地面へと叩きつけ、手にしていた刀を思い切り投擲する。ライドウが投擲した刀「赤口葛葉」は空中をそのまま直進し、やがて雷の傘と激突するとひどく甲高い音を立てはじめた。耳障りな高周波が一瞬辺りを駆け抜けてゆく。だが拮抗は一瞬、特殊な加工を施された刀身は雷の威力におびえることなく直進し、抵抗を打ち破って雷の壁を突き抜けていった。

 

「!?」

 

ライドウの投擲した剣の先端が雷の防衛網を破って現れた瞬間、ゼノライオンは驚きに目を見開く。自らが絶対のものである信じる技が破られた事にショックは大きく、動揺がゼノライオンの体の動きを一瞬硬直させていた。そんな中、雷の青い尾を引きながら直進した赤熱している雷纏いし刃が、ゼノライオンの命を奪うべくその肉体の目前まで迫り――、

 

「グルゥゥゥゥ!」

 

しかしその刀の切っ先がゼノライオンの胴体への侵入を果たすことはない。キンッ、金属同士がぶつかりあった甲高い音が一瞬だけ響くと、火花が散り、直後、刀はゼノライオン前方の地面へと深く突き刺さる。それは動揺より見事立ち直ったゼノライオンは、蹄の生えた前足にて突撃する刀を叩き落としたことによって発生した結果だった。。

 

「――グ」

 

自分は相手の目論見をつぶしたのだ。そう判断したゼノライオンは一瞬笑みを浮かべた。ゼノライオンの生み出す雷が感情の動きに比例するかのようにその勢いをまし、雷条網の隙間がさらに狭いものとなってゆく。事実、ゼノライオンは有頂天になっていた。唯一の武器であるそれを投擲した敵はもはや丸腰だ。後は叩き殺すも噛み殺すも焼き殺すも、生殺与奪の権利は自分にある――

 

「グゲッ!?」

 

と、そこまで考えたゼノライオンは、しかし突如として再び驚愕の声を上げた。三日月に歪めかけた口が大きく開き、獅子の顔は困惑の色に染まってゆく。違和感を覚えて視線を向けた先では、顔の周りに生える黄金の鬣が燃えていた。それはライドウの剣とゼノライオンの蹄がぶつかり合った衝撃によって生まれた火花が、顔の鬣の一房へと燃え移った事により起こった現象だ。周囲に燃え移った火はやがて炎となり、立派な鬣は炎の首輪へと変化していく。そうして炎の首輪は見る間に燃え盛る火炎へと変化して、同時にゼノライオンの角の上で回転する雷の動きが乱れが生じ、ゼノライオンの周囲を取り巻く雷条網の網目の隙間がみるまに大きなものとなってゆく。

 

「グ、グギャァァァァァ!」

 

炎はあっという間にゼノライオンの顔を包み込んだ。生まれた炎はやがて体表に生える繊毛へも燃え移り、ゼノライオンの全身を包み込んでゆく。たまらなくなったゼノライオンは、自然と地面に倒れ込み、転がると、苦痛の悲鳴をあげながらもんどりうちはじめた。もはや操る余力もなくなったのか、ゼノライオンが角より生み出していた雷が完全に停止する。ゼノライオンの行為により、全身を軽く燻していた炎だけは消え去ってゆく。しかしゼノライオンが最も鎮火を望んでいた炎の首輪だけは、皮肉にも豊富な鬣という燃料がなくならぬ限り消え失せてくれそうになかった。

 

「ギャ、グ、ギィィィィ!」

「――」

 

炎が見る間に火傷の領域を広げてゆく。肌を焼く灼熱の痛みに耐え切れず悲鳴あげて地面を転がるゼノライオンの姿を無言にて目に収めたライドウは、取り出しかけていた銃をホルスターに納めなおすと、今まで以上の速度で泥の上を駆け始める。ライドウの元々の狙いは導電性が高い材質で作られており、しかし同時に雷を発散させる加工の施された刀を投擲する事でゼノライオンの雷の包囲網を突破し、生まれた隙間から見える奴の体へと特殊弾丸――、この場合は火炎弾を顔面に撃ち込み、そして生まれるだろう意識の隙と雷の隙間を狙って自らの体をねじ込み、投擲した剣を拾って敵の命を奪うことにあった。

 

どのような生命であっても意外な事態には、意識の空隙が生まれるものである。それを自らの動きによって意図的に生みだすこと事がライドウの予定であったわけだが、ともあれ当初の予定とは違うはものの、むしろ事態が好転方向へと進んでくれたのは確かだと判断したライドウは、当初の予定通り、ゼノライオンの命を奪うべく、突進する。疾走する姿には一切迷いが見られず、ライドウの一意専心が素直に表れていた。

 

「――」

 

やがて地面を転げるゼノライオンに超接近したライドウは、付近に転がる魔物が弾き飛ばした自らの刀を拾いあげると、漆黒の外套を空中に翻させながら、まっすぐに跳躍する。そしてライドウは流星のように空中を直進すると、炎の首輪にもがき苦しむ魔物の脳天めがけ流れるような動きで刀を振りぬいた。

 

「――」

 

白刃が放たれた瞬間、全ての音がライドウの周囲から消え失せた。煌めいた一文字は、空中に雷にも劣らぬ美しさの光の尾だけをわずかな時ばかり残して、ライドウの接近に備えて起き上がろうとした魔物の正面から後頭部までをまっすぐに切り裂き、通り抜けてゆく。魔物とすれ違う最中、集中した意識は鉄と肉の焼けた匂いを捉えていた。つんと鼻腔をわずかにくすぐる生臭い感触がライドウの心の裡にある予感をもたらしてゆく。

 

「ギ……」

 

ライドウの刀はゼノライオンの頭を前から後ろにかけてまで両断していた。切断面からは脳と脳髄、脳漿と血液が覗く。ゼノライオンとすれ違う最中、自らの刀が生み出しつつあるその光景を見て、ライドウは先に抱いた予感通り、自らの刀がこのまま敵を絶命に導くだろう事を確信した。ライドウはそして自らの手によって過去形になりつつある魔物の後頭部を思い切りけり飛ばすと、魔物と距離を地面に戻るための推進力として利用する。蹴りの衝撃によって魔物の切断面から血潮が舞い散った。そんな衝撃が止めとなったのだろう、驚愕の色に染まっていた魔物の瞳からはやがて生の色すらも失せてゆく。そして――

 

「ギャ――」

「――なっ!?」

 

勝利を確信したライドウは、泥の中より突如黄金色をした不定形の魔物が自らの目の前に現れたのを見て驚愕した。

 

「ギィ!」

「――く……!」

 

視線が交錯し、その瞳と行動から魔物の殺意と敵意を読み取ったライドウは慌てて刀を構え直そうとする。泥の中より出現した魔物は、これまでにライドウがであったことのない魔物だった。魔物はその全身が黄金色に輝く液体のようなもので構成されているという、なんとも豪奢な出で立ちをしていた。見た目からして栄耀の潜航者とでも名付けようか、その魔物は海の軟体生物イカのような形へと変化を遂げていた。その胴に形作られた顔らしき部分では不気味に目と口が赤く光っている。また、不定形の魔物の中心部分には、うっすらとひずんだ球体が浮かんでいるのが透けて見えていた。

 

スライムという悪魔に代表されるように、この手の不定形の魔物は、液の体という切っても切っても再生するという厄介な特性を持つ代わり、自らの体を任意の形に保つ力場を発生させる核の部分を破壊すれば体を保つことが出来なくなり倒れるのが定石だ。ならばおそらくはあれこそがこの不定形の魔物の核であり弱点なのだろうとライドウは判断し、即座に刀を構え直すと、そこに狙いを定めた。

 

「ギゲッ――」

 

栄耀の潜航者がライドウの所作に反応して攻撃を仕掛けようとする。ゲル状の体が不気味に蠢いた。

 

「――遅い」

 

しかしライドウは栄耀の潜航者がゲル状の体を変化させて何らかの行動に映るより以前、自らの進路上に立ちふさがった魔物の命を刈り取るべく、自らが手にもつ刀剣『赤口葛葉』を魔物の核めがけて横に振りぬく。ライドウの動きは跳躍と攻撃の直後にあっても流麗さを保たれていた。ライドウの手によって振りぬかれた魔を滅するために鍛え上げられた刀は、その一糸乱れぬ動きによって栄耀の潜航者の中心にあるだろう核めがけて直進し――

 

「ギ……!」

「――な……」

 

そうして必殺を狙って放たれた剣の一撃はしかし、栄耀の潜航者の核を守る滑らかな外皮部分と接触した途端、皮膚に沿ってライドウの意図しない方向へと逸れてゆく。見れば魔物のゲル状皮膚は刀の刃と並行して動くよう変形し、今なお不気味に蠢いていた。瞬間、ライドウは自らの行為が失策であったことを悟る。おそらく栄耀の潜航者は、視線の交錯したあの一瞬にてライドウの狙いを読み取り、核への攻撃を防ぐために自らの体を変化させたのだ。そうして刀はまんまと栄耀の潜航者の意図通り、ライドウの意図せぬ方向へと滑らされ、無力化されたというわけだ。

 

「――くっ!」

 

滑った勢いが予想外の力となり、空中を直進していたライドウの体は己の予定とは異なった方向へと導かれてゆく。それに伴い、人間を廃人に導く威力を秘めた泥との接触時刻が予定よりも早くライドウの目の前に迫ってきていた。ライドウの心にわずかばかりの焦りが生まれる。

 

――触れただけでこの世のモノとは思えない快楽を提供するという泥と接触するのはまずい……

 

判断したライドウは、慌てて刀を握る拳にさらなる力を込めて振い、己の体を回転させる力とした。そしてライドウは、空中に浮かぶ体を多少強引に体を回転させると、両足を地面へ向け、素手の両手が泥の地面につかぬよう着地する。

 

――グッ……!

 

力を十全に受け流すことが叶わなかったライドウの両足へと着地の際の衝撃が襲い掛かり、じんと痺れる感覚がライドウの背筋を駆けあがってきた。脳内がわずかばかりに熱を帯びる。衝撃はライドウに伏虎のような姿勢を取らせていた。同時、ライドウの靴裏と接した泥の部位が着地の衝撃に耐え切れず、黒い革靴が半分ほど泥の中へとずぶりと沈んでゆく。沈降の速度は思いのほか早く、すぐにでも泥が服の裏にまで侵入してきそうな勢いだった。

 

――まずいっ……!

 

泥のもたらす魔性の快楽が人を破滅へと導く化身であることを知るライドウは、即座に泥に沈みつつある自らの足を引き抜こうと瞬時に判断し、決意し、実行に移そうとする。しかし――

 

「ギギャァ!」

「――!」

 

ライドウの着地の硬直と泥に気と足を取られたその隙を、彼の敵対者である栄耀の潜航者が見逃してくれるわけはなかった。つるりとした黄金色の美脚に思い切り力を込めていた栄耀の潜航者は、ライドウのその隙を待っていたといわんばかりに脚部の力を完全開放して泥の地面へと撃ち込んだ。途端、泥の地面がはじけた。触手じみた足より発生した力をすべて地面に放出した栄耀の潜航者の黄金の体が、一直線に片足膝を立てて体勢を立て直そうと試みているライドウめがけて、撃ち出されたのだ。栄耀の潜航者はまるでかつて戦艦より放たれる46㎝口径砲の一撃と見紛うほどの勢いでライドウへと突き進んでくる。

 

――回避は、不能……!

 

大砲の砲弾もかくやという勢いで迫る敵の突撃を、体勢崩れた状態の自分では回避する事など不可能だ。そう判断したライドウはとっさに両腕を盾として用い受け止める判断をすると、左右の腕を体の前へと差しだし、盾のように構えた。それは栄耀の潜航者の見た目が自らの体よりも小さいがゆえに受け止めても問題ないだろうと考えての行動だった。――しかし。

 

「――……ぐっ!」

 

それがライドウの二つ目の失策だった。栄耀の潜航者をその両腕で受け止めた直後、ライドウは自らの見通しが甘かったことを知る。想像以上の衝撃が両腕より伝わってくる。

 

「――ゥ、ッ……!」

 

予想外の衝撃はライドウにうめき声をあげさせた。すさまじい圧迫感が両腕の向こう側から伝わってくる。みしみしと耳障りな音がしたのは一瞬、みき、びしっ、と不愉快な音が体内を通して耳に伝わってきた。

 

「――っ、っ……!」

 

覚えのあるその嫌な音を聞いて、ライドウは直後訪れるだろうモノを察知して身構える。直後、予想通りにやってきたつんざく痛みが、ライドウの脳内を駆け巡った。

 

「――ぐぁ……!」

 

思わず手放しそうになった刀を強く握りしめると更に灼熱の痛みが腕より訪れた。瞬間、ライドウは自らの体に起きた状況を察知する。

 

――前腕部、橈骨か尺骨が折れたか……!

 

「ギ、ギギ!」

 

重すぎる一撃(/ヘビードロップ)により自らの両腕は使い物にならなくなった。己の体の異常を確認した途端、自らの両手の向こう側にいる栄耀の潜航者の口から、敵対者であるライドウに大打撃を与えたことを喜ぶかのよう失笑が漏れるのを、ライドウは聞く。ライドウは瞬間的に自らが敵と接触中であることを思い出した。そしてライドウはそんな敵を己の体より突き放すべく、折れた両腕に無理矢理力を込めようとして――

 

「――っ!」

 

途端、先ほどをはるかに上回る突き刺すような痛みが脳裏を駆け巡り、その行為は中断させられてしまう。痛みに誘引されてライドウが反射的に服に隠れて見えないが己の腕へと目をやると、本来ならば左右共にまっすぐであるはずの腕がある部位よりずれている事に気が付いた。

 

――単なる骨折ではなく、完全骨折……!

 

瞬間、ライドウは思った以上に自らの両腕が重い傷を負ったことを思い知る。どうやら自分の両腕の前腕部の骨は、二本あるうちの二本とも、すなわち合計四本の骨が完全に断裂してしまっているらしい。

 

「ギギッ!」

 

ライドウが己の両腕が重い傷を負っていると自覚した瞬間、おそらくライドウの顔色の変化からその事実を読み取ったのだろう、栄耀の潜航者はライドウの苦痛と苦難をいっそう喜ぶかのように赤い目口を喜びに歪めて笑い声を漏らした。悪くなってゆくライドウの顔色とは反対に、己の攻撃が獲物に大打撃を与え事がよほどうれしいのだろう、栄耀の潜航者の顔色はどんどんつややかなものへと変化していった。まるで栄耀の潜航者に己の生気を吸い取られているようだ、とライドウは感じた。

 

「キ!」

 

さらに直後、ライドウの折れた腕に張り付いた栄耀の潜航者は、ゲル状の体を折れた腕に徐々に絡みつかせながら、その真っ赤な口をタコのように伸ばしてライドウの体へと近づけてくる。栄耀の潜航者はその見た目に反してひどく重く、腕を動かすことどころか、体を動かすことすらもままならない。近づいてくる栄耀の潜航者の深紅色の口は、まるで人の血を求めて針を伸ばす蚊の針のようにも見えた。不気味な口づけ行為を目撃した瞬間、吸引、という言葉がライドウの頭によぎる。背筋に悪寒が走った。敵の狙いはわからない。わからないが――

 

――何かがまずい……!

 

「――くっ……」

 

己の不利を把握したライドウは反射的に敵を遠ざけるべく、自らの前腕部に引っ付く重い敵を振り払おうと再び両腕に力を込めようとしてしまった。それは意識してものものでなく、反射的なものだった。瞬間、ライドウは己が三度目の不肖を起こしてしまった事を悟った。不肖に気付いた脳が停止命令を下すよりも先んじて脳より発せられた命令が、神経を伝導してゆく。そうしてやがて骨折周辺の筋肉へと到達したそれらの命令は、脳の指令通りに腕周辺の筋肉を稼働させるべく収縮を開始しようとした。瞬間――

 

「――ッ」

 

三度訪れた脳髄を貫通する痛みによって、ライドウの試みは再び阻害されてしまう。痛みに歯を食いしばるライドウは、反射的に行ってしまった己の愚行を恥じるとともに、いまだに骨が腕の中に納まっていて服を傷つけていないという事態に感謝した。流石のライドウも一撃で自らの両腕を砕く強敵を前にして開放骨折に至る傷を負うような事態は避けたいし、何よりライドウは触れただけで危険な泥の地面を突き進むにあたって服が破れるという事態もなるべく避けたいとも思っていたからだ。ともあれ脳を焼き切るかのような灼熱の痛みに、ライドウはもはや両腕がまともに使えなくなったことを心底理解させられた。このまま無理に両腕を動かせば左右共に骨が外部へと露出しかねない。

 

――両腕がまともに使えないなら……!

 

己の体の状況を判断し終えたライドウは瞬時に自らの失態を返上すべく、次の案を瞬時に練ると、実行すべく動き出す。迷っている暇などなかった。敵の気味悪い唇はすでにこちらの顔面目前にまで迫っていたからだ。もはや一刻の猶予もないのは火を見るよりも明らかだった。ライドウは刀握る右腕に「刀を放すな」との無茶な肉体酷使の命令を引き続き出し続けながら、泥の中へと沈みつつあった足先とひざを動かして全力で後退すると、両手の先で口を伸ばしてくる敵より我が身より遠ざけるべく痛みに耐えながら左右の腕の隙間を少しだけこじ開け、自らの左右の腕引っ付いた栄耀の潜航者と無理矢理距離をとり、ライドウの身より離れたことで落下しかけている栄耀の潜航者の黄金の体へと思い切り蹴りを叩き込んだ。

 

「――っ、ぐっ!」

 

そうして靴の裏が栄耀の潜航者と接触した直後、ライドウはまるで鉄の塊を蹴ったかのような錯覚を覚えた。同時に蹴りの衝撃が栄耀の潜航者と接触している腕の部分に伝わり、ライドウの頭にこれまでない以上の鋭い痛みがはしる。栄耀の潜航者は見た目の通り黄金で出来ているかのような重量を持っていた。それは靴の裏から伝わってくるジンジンとした痛みがかき消されるほどに強く、ライドウの頭をこれ以上ないくらいに刺激する。瞬間、ライドウの脳裏にふつふつとある疑念が湧き出てきた。

 

――はたして本当に自分はこの存在を蹴り飛ばせるのだろうか

 

「――ッァ!」

 

湧き出た疑念と弱気が黒い染みとなって心を支配するよりも以前、ライドウは活の入った声を上げると、湧き出た疑念を痛みごと吹き飛ばすかのよう目を細めて歯を食いしばり、靴が泥に沈んでゆくのも、折れた腕が悲鳴を上げるのもお構いなしに足腰へとさらなる力をこめて、栄耀の潜航者の硬いゲル状の体を思い切り蹴り込んだ。

 

「――ギ?」

 

すると火事場の力が働きでもしたのかライドウの一念と努力は見事に発揮された。弾丸の形状へとその身を変化させていた栄耀の潜航者が間抜けな声を上げながら、靴裏より離れて水平方向へと飛んでゆく。

 

「ギッ!」

 

重い重量を持つあるはずの自らの身が細身のライドウに吹き飛ばされたのが意外だったのだろう、栄耀の潜航者は伸ばしていた口をすぼめると少しばかり驚いた表情を浮かべ、そして直後短く感心したかのような声を上げる。

 

「ギ」

 

だがしかしライドウの行為など所詮は一時しのぎの些細なことだとでも判断したのか、栄耀の潜航者は瞬時に元の不気味な作り笑いを浮かべなおすと、やがてドズンッ、と重苦しい音を立てて泥に着地した。そして栄耀の潜航者は蹴り飛ばされたときの勢いのままに初めの時の様に泥の中へと消えてゆく。全霊の攻撃を放つのに夢中で一瞬敵から視線を外してしまったライドウが遅ればせながら栄耀の潜航者の着地地点付近へと目を向けた時にはもう遅く、栄耀の潜航者はすでに再び黒い泥の向こう側へとその身を完全に隠してしまっていた。

 

「――くっ」

 

一瞬目線を切ってしまった事によって生じた隙が、己に敵の姿を見失わせるという事態を招いてしまっている。己の失態を悟ったライドウは泥の中より訪れるだろう敵の攻撃に備えるべく、反射的に愛刀「赤口葛葉」を手に身構えようとした。

 

「――ッ……!」

 

しかし両腕を動かした瞬間に生じた痛みによって、ライドウは右手から刀を落としてしまう。魔を祓う威力を発揮する刀身が鍔の部位近くまで、するりと泥の中へと消えていった。ライドウは慌てて刀へと手を伸ばそうとしたが、しかしそうして伸ばしかけた手が体の内側から訪れる痛みに絶え間なく震え続けているのを見て、自身の手がもはや何かを掴み取るのは不可能である状態となってしまた事を悟った。ライドウは続けて折れた左腕に視線を送るも、こちらもやはり同様に震えと痛みが断続的に伝わってきており、まともに使えそうにない。

 

――どうする……

 

『ライドウ!』

「――ゴウト……」

 

意図しない動作として武器を落としてしまった様子にライドウの異常を察知したのだろう、ライドウの邪魔にならぬよう少し離れた位置で戦いを見守っていたゴウトが慌てて駆け寄ってきた。

 

『これは……!』

 

そしてライドウへと近寄ったゴウトは、余裕があったはずの服の隙間を埋めてパンパンに腫れ上がったライドウの両腕を見て絶句した。粉砕か、分断かは知らないが、ともあれライドウの両腕はどう見ても完全に折れている。ゴウトが続けざまにライドウの顔を見やると、常に冷徹と余裕の仮面を崩さないはずの彼の顔には尋常でないほどの量の冷や汗が生じているのを見つけて驚いた。その様にゴウトは、ライドウが不自由となった両手から如何程の痛みが生じているのかを察知した。

 

『――ライドウ』

「――問題、ありません」

 

ゴウトより心配の視線と言葉を受けたライドウはどう考えても強がりにしか聞こえない言葉を宣言すると、泥の中へと沈みつつあった刀身の鍔を蹴り上げて垂直に刀を浮き上がらせたのち、器用に体を傾けて「赤口葛葉」を腰元の鞘へと納めた。ちん、と小気味のいい鍔鳴りの音があたりに響き渡る。

 

「たとえ折れていようと、この程度の傷であればスカアハのディアラハンで――」

 

大道芸のような方法で自らの愛刀を鞘に納めたライドウは、直後、胸元を露わにして胸のホルスターのある場所に目を向け、そしてわずかに口を開いただけの姿勢で停止した。ライドウの目がわずかばかりの驚きの色に染まり、やがて自身の間抜けを責める感情が浮かび上がってゆく。ゴウトは目を伏せて言う。

 

『――ライドウ。お主が契約し悪魔を納めていた管は、すべてあの泥の中へと飲み込まれてしまったではないか』

 

ゴウトの言葉に改めて現状を思い出したライドウは己の不明を恥じて、下唇を強く噛み締めた。端正な顔が忸怩たる思いによって歪む。ゴウトはそのミスを異なる世界、異なった法則の支配する世界に身をおいて連戦を繰り広げるという事態に精神的疲労が重なった結果の引き起こされたものなのだろうと判断し、人間である以上致し方ないことかと考え、それ以上ライドウのミスを責めようとはしなかった。

 

『どうする、ライドウ』

「――折れた手を治す手段なら、他にもあります」

 

ライドウは羽織った外套をさらにめくって胸元を大きく露わにすると、わずかに身じろいで外套の裾までを上げ、迷宮へと旅立つ前に装着した、小型と名付けられるには少々大きすぎる、人の頭ほどもある「小型腰つきバック」という名前のそれへと目を向けた。周囲への警戒を怠ることなく続けながら述べるライドウの言葉を聞いたゴウトは、目を輝かせてその冒険者御用達のショルダーバックを見つめた。

 

『なるほど、そういえばそのバックの中には――』

「はい。この世界産の傷薬――メディカが入っています」

 

この小型バックは迷宮という危険な場所を探索する事が当たり前に行われる世界において、戦闘を行う冒険者たちの道具が激しい戦闘のさなかでも決して壊れないよう考えられて設計されたというものだ。ペルセフォネより持たされたそんな小型バックの中には今、彼女の配下の手によってライドウの探索の役に立つだろうと詰め込まれた道具が大量に詰め込まれている。ライドウは身をよじって、そのうちの一つのメディカ――正確にはメディカⅣという、対象者が内臓破裂ほどの重傷を負っていようがたちまち治すという傷薬を取り出そうとして――

 

「――っ……!」

 

瞬間、腕より伝わった鋭い痛みが脳裏を暴れまわり、ライドウは身じろいだ。動作の中断の揺れが骨折箇所周辺の筋肉の炎症箇所を広げ、ライドウの脳裏へとさらなる痛みの信号を巡らせる。ライドウの端正な顔立ちの眉間には醜く大きく皺が寄った。痛みを必死にこらえながら、ライドウは考える。

 

――自分は両腕の骨折を治すために小型バックの中からメディカⅣを取り出したい。しかし両腕を使わなければメディカⅣを取り出せない……

 

ライドウは重症に陥った冒険者にありがちな、パラドックスに陥ってしまっていた。

 

『無理をするな、ライドウ。儂がなんとかしてやろう』

 

そうしてライドウが矛盾の解決を求めて思考を働かせていると、さなかゴウトより第三者の手を借りるという案が提供され、ライドウは驚きに目を見開いた。なるほど自分の両腕が使えない以上、両腕を使う必要がある出来事と直面した場合には、誰かの手を借りるしかない。それは聞いてみれば当然の案だろう。だが自分はそれを思いつかなかった。どうやら肉体の怪我は思った以上に自分の精神から余裕というモノを奪って言っていたらしい。

 

「――お願いします」

 

己の余裕のなさに気付いたライドウは、さっさとそんな状態を解消すべく、迷いなくゴウトの提案に乗った。

 

『うむ』

 

ライドウはゴウトが頷くのを見ると器用に肩から上腕部のみを動かして骨折部位である前腕部を心臓の上へと持ってくる。同時、再び痛みが脳裏で暴れまわった。これまでで最も大きく骨折箇所を動かしたからだろう、痛みはこれまでの中でも最も強いものである。だがライドウは痛みに反応しそうになる体を意志の力で無理矢理抑え込むと、上腕の力だけで外套を大きくめくり、バッグがゴウトの目に完全に映るようにした。

 

『うむ、いいぞ。……ああ、悪い、もう少し裾を上げてくれ』

「――……っ、……はい」

 

ゴウトの言葉にライドウは再び痛みを堪えながら裾を上げる事に注力する。怠ることなく周囲へと飛ばしていた警戒の意識がわずかに薄れ、ゴウトと小型のバックへと大きく注意が向けられた。

 

『……よし、よし、いいぞ、ライドウ、ばっちりだ』

 

やがて小型の腰つきバックが裾野あげられた外套の中より完全に姿を現したのを見て、ゴウトは上機嫌に言う。

 

「――恐縮です」

『さて、ではまず一度跳躍してその蓋を――』

 

ライドウは痛みに耐えながらも几帳面な返事を返した。そしてゴウトが今後の予定を語ろうとした、その直後の出来事だ。

 

「ギャッ!」

 

栄耀の潜航者が叫び声をあげながら、ライドウの背後のすぐ近くの泥の中より飛び出してきた。泥という要素に邪魔されたのか栄耀の潜航者の勢いは先ほどの攻撃のそれには及ばないものの、それでも今のライドウたちにとっては十分に驚異的な速度で彼へと迫りくる。

 

『――な……!』

「――……!」

 

ゴウトとライドウは驚き、身を固くした。栄耀の潜航者は唇を三日月の様に歪め、凶暴な笑みを浮かべている。その表情を見た途端、ゴウトとライドウはこの栄耀の潜航者という魔物が、ライドウが治癒のために気を逸らす隙を虎視眈々と狙っていたのだという事に気が付いた。二人は同時に栄耀の潜航者の狡猾さに驚愕する。両腕に重傷を負ったライドウを手負いとして見縊る事なく、ライドウがゴウトと薬に気を逸らし、意識を集中させ、体勢を崩したそのわずか一瞬の隙をついて奇襲をしかけてくるのだから狡猾という以外に例えようもないだろう。

 

『ライドウ! ……くっ!』

 

獣の本能か、猫のゴウトが先に敵の奇襲に反応して身を伏せようとして、しかしやめた。否、ゴウトは泥の滑る特性と、泥自身が持つまともに触れたものへとてつもない快楽をもたらすという特性によって、行為をやめさせられてしまったのだ。

 

『快楽の泥……、この地面の上では……!』

 

ゴウトはその顎や腹が完全に泥と設置する直前に泥の持つ危険性を思い出してしまった。その一瞬の迷いが命取りとなり、ゴウトはライドウを救うために栄耀の潜航者めがけて体当たりを仕掛ける機会を失ってしまったのだ。

 

『ライドウ!』

 

ゴウトは我が身の不自由さととれる選択肢の少なさを嘆きつつ、再びその名を叫んだ。ゴウトの叫びが高らかに空間に響きわたる。叫びはどうかライドウが敵の攻撃を避けてくれますようにとの祈りの念に満ちていた。ゴウトの声に導かれるようにして、ライドウは視線を栄耀の潜航者へと向けようとした。しかし。

 

「――っ」

 

所作の初め、振り返ろうとするその行為によって発生する腕の痛みが邪魔をして、ライドウは迎撃の体勢を整えるどころか、振り返って背後から襲いかかる敵の姿をその目に捉える事すらもまともに行えない。折れて頭のすぐそばに置かれている役に立たなくなった腕先が、目の前で柳の様にゆらりと揺れた。

 

「ギッ!」

 

ライドウが痛みに悶える姿を見て栄耀の潜航者が歓喜の声を上げる。獲物があまりに自らの思い通りの罠にはまってくれたことが嬉しかったのだろう。声はライドウに見えない敵の顔が満面喜色に染まっているところを幻視させた。同時にライドウはその喜びの色濃く表れた声から栄耀の潜航者の位置を把握する。

 

――まずい

 

そして得た情報はライドウの焦燥を呼んでいた。敵はあと数秒もしないうちに自らの体へと到達する。その事実はライドウの心に冷たさを提供した。背筋の冷える思いがライドウの思考を高速で回転させ始める。ライドウはそして必死の思いで打開策を探しはじめた。

 

――このままでは自分は背中で奴の攻撃を受けなければならない

 

一応、背中の耐久は正面よりも高いと言われている。しかし、敵の攻撃は人間の腕の骨を容易に砕くほどの威力を秘めているのだ。ならばその大砲のような威力を秘めたそのような衝撃を背中でまともに受けたのならば、それこそ筋肉や脂肪、血管どころか、背骨や内臓にまで衝撃がいたり、粉砕される可能性の方が高い。仮にもっと軽いダメージで済むとしても、少なくとも十数秒ほどは身動きが取れなくなるほどの大怪我や衝撃を受けてしまうだろうことは必至。

 

――どうする

 

短い間とはいえ命のやり取りをした経験から、ライドウは栄耀の潜航者が十数秒もの致命的な隙を見逃してくれるような生易しい敵でないことを承知している。だからこそライドウはこのまま背中で受けるなどという怠惰な策に身を任せてやるつもりは毛頭なかった。

 

刻一刻と刻限が迫る中、ライドウはあと数秒すらもないこの間に敵の攻撃に対する対応方法を必死に考えている。しかしどれだけ思考を巡らせようと、ライドウの脳裏に解決策が浮かんでくることはなく、むしろ最悪の結論しか浮かんでこない。なにせ自分の両腕は折れて使い物にならないし、体勢は完全に崩れてしまっていてまともに身動きすることもままならない。すなわち回避も防御も不能なのだ。

 

――いや……、違う……

 

そうとも違う。確かにもはやまともに動かない両腕と、腕から伝わってくる痛みに阻害されてまともに動かせない我が身ではあるが、痛みに耐えて奴の正面を向く程度のことは可能であるし、さすれば腕を盾として差し出すことだってできる。

 

――腕を犠牲にすれば……!

 

無論、仮にこの折れて力の入らない腕が奴の攻撃を防ぐ盾として使うことが出来たとしても、腕が完全に盾としての役割を果たしてくれることはないだろう。折れた腕はもはや錆びてボロボロの盾のようなものである。腐食だらけで穴ぼこが空き、下手をすれば持ち上げただけで瓦解しそうな盾。それが今の自らの両腕の状態だ。

 

こんなボロボロの盾では一度だって敵の攻撃を防ぐことすらも難しいだろう。とはいえそんな盾であっても運が良ければ奴の突撃が腕を砕く衝撃にてあらぬ方向へとそれてくれるかもしれない。そうして腕が使い物にならくなり戦闘続行が不可能になるとしても、逃げて体勢を立て直す時間に変換するくらいは確保できるだろう。ライドウは、栄耀の潜航者は突撃の勢いこそすさまじいものの、空中でその勢いを止めたり、方向を突如として変換するような真似は出来ないらしい事を察知していた。おそらく栄耀の潜航者は、一度攻撃を外した際には、再度攻撃するために身構える必要があるのだろう。だからこそ栄耀の潜航者は、先ほどライドウが蹴り飛ばした時に空中で転身せず、ライドウの腕を折って泥の中に消えた後、即座に攻撃してこなかったのだ。

 

――だが……

 

無論、そうして腕を命を拾い上げる代償とした差し出すとして、戦艦の砲撃を思わせる栄耀の潜航者の突撃は腕を砕いてライドウの胸部へと到達する可能性の方が高い。否、むしろ十中八九、敵の突撃は自らの頼りない守りを打ち砕くだろう。先の衝撃から察するに、敵の体当たりの直撃を受けた胸骨と肋骨は確実に粉砕されてしまうに違いない。否、下手をすれば心臓や肺臓までもがつぶされる可能性すら高いと言えるだろう。そのような命を失う事態になる事と比べれば、腕を差し出すという案は何とも現実的なものに思われた。

 

――運が良ければ腕を砕いたその衝撃で、敵の進行方向がそれてくれる『かも』しれない

 

そんな一割に満たない確率に賭けて我が身を犠牲にするというのは、愚策であり下策だ。出来る事ならライドウは、そのような馬鹿な真似をしたくなかった。しかし、今の両腕が砕け、体勢を崩したライドウには、もはや選択肢はあまり残されていない。そしてそうしてとれる策の中では、腕を差し出して盾代わりに使うという案は、最も現実的、かつある種の希望も持てる策だった。

 

――どのみち戦闘不能になるのならば……!

 

ライドウは覚悟を決めると、一縷の望みを託して痛みに耐えながら体をねじり始めた。

 

「――っ」

 

途端、じくじくとした痛みと灼熱の焼鏝を押し付けられるような痛みとは別に、腕の内側から突き刺されたような鋭い痛みが、ライドウの頭へと襲い掛かってくる。ライドウの行為によって砕けた骨が無理な稼働により動いて腕の内側の周辺組織を傷ついてゆく。本能が怪我の上に怪我を重ねるその愚行を止めさせようとしているのだろう、とライドウは考えた。

 

大の大人でも絹を裂いたような悲鳴を上げておかしくない痛みをライドウは鋼鉄の覚悟と意志で必死に無視すると、栄耀の潜航者へと体の正面を向け、肩をすぼめて力の入らない両腕を無理矢理くっつけると盾のように構える。そうして出来上がった守りを構えるライドウの気配は、先ほど怪我を負う以前までのライドウが放っていたものと比べると、あまりにも貧相で頼りないものだった。

 

「ギ!」

 

ライドウのそんな足掻きを見た途端、栄耀の潜航者が声を上げる。それは侮りと確信に満ちた声色だった。敵はライドウの思惑を読み取り、そしてそんなことをしても無駄なあがきに終わるぞと嘲笑っているのだ。余裕に満ちた敵の笑い声に、ライドウはおそらく敵がこの防御というにはあまりに些細な守りを簡単にこじ開けてくるだろう予感を抱く。

 

百戦錬磨たる自らの予感が外れるということは、これまでにまずないことだった。ならばおそらく、この守りは簡単に突破されてしまうのだろう。そしてそれでも勢い衰えない敵は、無防備な自身の胸を簡単に打ち砕くに違いない。ライドウの予感が確信に変わってゆく。このまま何も手を打たなければ、そんな最悪の未来が待っている。だがもはやライドウが敵の行動に対して出来る事は――、このような無駄なあがき以外に、ない。

 

――やられる

 

ライドウの最悪の予感を確信した。その時。

 

「ドラッグバレット!」

 

砲弾のような速度で迫りくる栄耀の潜航者を追い越して、聞き覚えのある声と発砲音がライドウの耳へと到達した。直後、ライドウは栄耀の潜航者の体の後ろから、それ以上の速度で迫りくる白く光る銃弾を見つける。白く光るその小さな弾丸は、殺意に満ちた黄金色の大砲弾と比べると、とても優しい生と希望の光を放っていた。

 

「受けとめなさい、ライドウ!」

「――っ!」

 

遅れて聞こえた声にライドウは自らの直感の正しさを確信する。だからライドウは迷わず、声の通りに、自らへと向かってくる弾丸を壊れたその両腕で受け止めた。

 

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