Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

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第二十四話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (十一)

スカアハ。それはアイルランド神話において英雄クーフーリンの師であり、影の国の女王とも称されるケルトの女戦士の名前だ。スカアハはクーフーリンが自らの領土――、すなわち影の国に滞在している間、彼に様々な戦闘術を教授した。その中でも特筆すべきであるのは、放てば必ず敵を殺すといわれる必中必殺の魔槍『ゲイボルグ』の使用法と、それ(/ゲイボルグ)をスカアハがクーフーリンに授けたというのことであろう。すなわち、今でこそ英雄クーフーリンの象徴のように扱われる槍の本来の持ち主は彼女であり、また、その本来の使用方法――、投擲すれば敵を必ず殺す技を編み出したのも彼女、スカアハである。

 

「刺し穿つ死翔の槍(/ゲイボルグ)!」

 

ならばこそ、彼女がヘラクレスという英雄の口に咥えられた贋作魔槍「ゲイボルグ」に対してその足でマグネタイトを注ぎ込んだ折、贋作(/フェイク)であるはずの魔槍が真作(/オリジナル)と変わらぬ真価を発揮するのもまた当然の帰結と言えるだろう。そして正式な持ち主である女神スカサハのマグネタイトという魔槍にしてみれば最上級の糧を得たゲイボルグは、現実世界においてライドウという仮初の主が使用していた時よりもいっそう発奮し、活性化した。

 

ヘラクレスの口元に咥えられたゲイボルグは全身から深紅の光を発すると、ヘラクレスの体内に向けての侵攻を再開する。だがヘラクレスは自らの頭上にスカサハという敵対者が突如として現れ、そして槍を蹴ろうとした瞬間、反応し、瞬時にその右腕を伸ばし、ゲイボルグの柄をつかむと、その進行を阻止すべく拳を固く握り締め始めていた。

 

ここに英雄の武具と大英雄は激突する。

 

瞬間、轟、と、ヘラクレスの口元で暴風が巻き起こり、荒れ狂った。暴風はヘラクレスの体内に侵入しようとする傷だらけの贋作魔槍ゲイボルグの力と泥の中より再誕した悪魔ヘラクレスの腕力の拮抗により生まれたものだった。

 

「■■■■■■■■■■ッ!」

 

攻守は拮抗の様子を見せている。ゲイボルグを握り締めるヘラクレスの巨大な右腕が大きく揺れ動く。ヘラクレスという巨体を持つ大英雄の右腕の、ゲイボルグの柄を固く握り締めたその拳から肘に至るまでが大きく振動し、さらには肩口までもが小刻みにぶれている。それを見れば、魔槍と大英雄の間で繰り広げられている戦いがどれほど苛烈なものであるかは容易に想像がつくというものだろう。

 

「■■■■ッ!」

 

ガチガチと耳障りな音は絶え間なく続いていた。ヘラクレスは右腕の力のみならず、上下の歯と咬合力をも駆使してゲイボルグが自らの体内に侵入しようとすることを拒絶しようとしている。対してゲイボルグはそれらの守りを突破してヘラクレスの体内への侵入を試みる。両者の目的は互いに相容れぬ。なぜならばどちらか一方がその目的を果たしたその瞬間に、どちらかもう一方の敗北(/死)が確定するのだから。

 

「■■ッ!」

 

だがその拮抗は徐々に崩れてゆく。今、ゲイボルグは、その細長い身をヘラクレスの口腔内への侵入させつつあった。すなわち今、戦いの天秤はゲイボルグという魔槍の側に傾きつつあるのだ。そうして勝敗の天秤が魔槍の有利に傾く原因は、おそらく罅だらけの深紅の魔槍ゲイボルグのその細身に纏わりついている液体にあるといえるだろう。今、深紅の魔槍ゲイボルグのその細身には鮮紅色と暗褐色の入り混じった液体――、すなわち、人間の血液が纏わりついている。それは先ほど自分の――、葛葉ライドウの右腕がヘラクレスの右拳内部にて引き千切られた折、傷口より噴出し、流出したものだ。

 

「ッ!」

 

血液が拳の内部を濡らし、槍の細身に纏わりついた結果、ヘラクレスの右拳内部の摩擦力と物体保持力は低下し、槍の進行を補助している。ヘラクレスは今、自らが起こした事象によって――、否、パラ子らの連携とライドウの執念が導いた事象によって、窮地へと追い込まれていたのだ。

 

「■■ッ!」

 

やがて自らの不利――、咬合力と右腕の力のみ勝利をもぎ取るのが無理であると悟ったのだろう、ヘラクレスは、左拳の中に保持していたこの身をまるでぼろ雑巾でも捨てるかのように放り出すと、そして左手の人差し指と親指を唇と右拳の間に突っ込み、それら二つの指先にて槍の柄を力一杯摘み始めた。保持面積が拡張し、進行を阻止するための力が増大したためだろう、視線の先ではゲイボルグとヘラクレスが再び拮抗の状態へと移行する。

 

「――ぐ……」

 

そうして二者が激戦を繰り広げるさなかヘラクレスの拳の戒めより解放された自分は、全身の軋みを耐えながら着地した。衝撃によってだろう、切断面より血が噴出する。ふらりと目が眩んだ。

 

――貧血か

 

放置しておけばこの身が死に至るのは明らかだった。すぐさまヘラクレスより距離を取りつつ、右腕喪失部の傷口を縛り上げるべく、残る左腕をバッグへと伸ばそうとすると――

 

『ライドウッ!』

「ライドウさんっ」

 

自らの名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

「――ゴウトにメディ子さん……」

 

こちらへと駆け寄ってきている一人と一匹に視線を送れば、メディ子の手には自らの千切れた右腕が握られているのが目に映る。

 

『ライドウ! 早く彼女の治療を受けよ!』

「ゴウトさんが泥の地面に落ちる前に回収してくれたんです! 血管も神経も全然汚れてません! 今ならまだ後遺症もなく繋がる可能性が高いです!」

「――……はい!」

 

ゴウトらの言葉を聞いた瞬間、手当をやめて彼らの元へと駆け出した。

 

「沁みますよ! 我慢してくださいね!」

 

やがてヘラクレスより少し離れた場所で合流を果たした途端、メディ子は自分の右腕の傷口を液体をぶっかけてくる。

 

「――っ!」

 

メディ子の振りかけた液体が露わになった神経に触れた途端、痛みの信号が脳内を駆け巡り、眼球の中で閃光が煌いた。

 

「生理食塩水で汚れを洗い流してます! 少しだけ我慢してください!」

 

体……、というよりも千切れた右腕部が痛みから逃れようと暴れそうになるのを、メディ子は見越していたかのように片腕を用いて阻止すると、位置を固定し、もう片方の手に握っている千切れた右腕の断面を押し付け、接合させ――、

 

「ヒーリングっ!」

 

メディックの持つ回復スキルの名前を唱える。するとメディ子の体はわずかに発光した。直後、千切れた右腕と残存している腕部の接合部分をメディ子の体に生まれたものよりもさらに強い光が包み込んでゆく。

 

「――」

 

瞬間、飛び上がりたくなるほどの痛みが薄れてゆく。また、傷口だけではなく、ヘラクレスとの戦いや、彼の握撃によって生じたのだろう全身の痛みまでもが、薄らぎ、こそばゆい感覚へと変化した。そして全身にあった痛みはやがて完全に消え失せてゆく。

 

「――……!」

 

やがて全身から違和感が完全に失せたころ、千切れていた右腕を支えていたメディ子の手の感触と体温とを感じて、目を見張る。千切れていた神経繋がった驚きの現れだろう、右腕部先端の指先がビクンと跳ねて、揺れた。

 

「よかった……、薬の補助がなくても上手くいった……」

 

自分の右腕を支えていたメディ子はその右腕の反射反応から右腕の接合成功を確信したのだろう、ほっと溜息をつくと、そんなことを言う。言動から察するにどうやらメディ子は、薬の補助なしで傷の治療を行うのは初めてであったらしい。すなわちメディ子は、初めての事態であるにもかかわらずおそらくは難易度が高いだろう千切れた腕の接合という治療を、薬の補助なしでぶっつけ本番に行い成功させたのだ。

 

「――助かりました、メディ子さん」

 

千切れた右腕の接合は、おそらく彼女の卓越した技量と、それでも挑み、自分ならばできると自らを信じる度胸がなければ成功しなかっただろう。彼女のそんな技量と度胸、そして思いやりと行動に感謝の言葉を送りつつ、自分の腕を持ち上げ、五指の握って解放し、あるいは肘から先を持ち上げては下ろしを繰り返して、腕の十全さを確かめる。途端、血の気が引いて頭痛が走り、視界がぼやけ、足元がおぼつかなくなり、ふらついた。

 

「あ、ちょ、だめですよ、いきなり動いたりしちゃ! 立ち眩みみたいな症状が出たでしょう!? スキル『ヒーリング』は対象者の傷を治しはするんですが、失われた血液や体液の補填を行ってはくれません! ライドウさんの怪我、本当なら、リザレクションの際に必要となる薬とかネクタルみたいな造血作用ある薬とかが必要になるくらいの、重傷なんですからね!」

「――……はい」

 

メディ子の叱咤を受けて、素直に頭を下げて謝罪を行うと、酸欠状態に陥りふらつく頭を左腕で支えつつ、視線の位置を目の前に固定すると、風が吹き荒れ、耳障りな轟音が響いている方を向きなおす。視線の先ではゲイボルグとヘラクレスの戦いがいまだに続いていた。

 

「ッ――!」

 

だが、自分が視線を向けた途端、ヘラクレスの手中からは甲高い音が鳴り響く。それは二者の戦いの終わりを告げる音色だった。直後、ヘラクレスの上下の歯がガチン、とくっつく。遅れてヘラクレスの右の手中からはパラパラと粉が舞い落ちていった。それはおそらく、ひび割れていた贋作魔槍ゲイボルグの槍の柄が砕けたことによって生まれたものなのだろう。

 

「ッー!」

 

直後、ヘラクレスの鋼鉄色の胴体は一瞬ばかり大きく膨らみ、そして直後、身体のあちらこちらの部位が伸縮を繰り返したかと思うと、すぐ後に元の大きさにまで縮んでゆく。おそらくその現象は、魔槍ゲイボルグがヘラクレスの体内に侵入し、そして体内へと突き進んだゲイボルグの穂先が伝承通り三十の鏃に分裂して四散し、しかし四散したゲイボルグの破片が体内より体外へと抜け出てこなかったがゆえに生まれたものなのだろう。

 

そう。おそらく槍はヘラクレスの肉体が持つ物理耐性を貫けなかった。だがしかしだからこそこの度、伝承の通り三十に砕けた槍の破片はヘラクレスの体内においてまるでピンボールのように暴れまわり、かの英雄の皮膚や筋肉、神経や血管、内臓をずたずたに切り裂き、その身の内に秘められた毒と呪いをまき散らすという結果を生み……。

 

そしてだからこそヘラクレスは――

 

「――」

 

こうして声を上げることすらもなく――否、許されずに、その瞳から色を失い、絶命したのだ。

 

「か、勝った、のか……?」

 

近寄ってきたパラ子が誰に尋ねるわけでもなく、言う。

 

「少なくとも、動かなくはなった……、みたいね」

 

同じく寄ってきたガン子が呟いた。

 

「対光反射は希薄。瞳孔の収縮もなく、努力性呼吸、徐呼吸も……、たぶん無くなってますね……」

 

目を細めたメディ子は遠目にヘラクレスの状態を確認すると、言う。すなわち医師であるメディ子は、死んだ者が見せる三徴候のうち、二つの徴候がヘラクレスには認められると述べたのだ。

 

『と、言うことは……』

 

ゴウトが言う。

 

「そうとも」

 

いつの間にか近寄ってきたスカアハがその言葉を引き継いだ。

 

「おばちゃんたちは、あのヘラクレスに勝ったんだ!」

 

スカアハが叫んだ途端、歓声が沸き起こる。パラ子とメディ子は抱き合って喜びあい、ガン子は宙に浮いているスカアハとハイタッチを行い、ゴウトはこちらを見て満足げに頷くと、尻尾をくねらせた。

 

 

皆が喜びに満ちた声を仕草とともに交わしあっている。なるほど、ヘラクレスという悪魔/英雄との間に繰り広げられた戦いの苛烈さを思い返せば、彼らがそうして喜びに浸る気持ちはわからないでもない。けれど自分には、彼らとともに喜びの輪の中に入り、浸れない理由があった。

 

「――」

 

死線を彼らからヘラクレスへと移し、そのまま黒塗りの壁に囲まれた十キロ四方はあろうかという部屋の中央へと移動させる。すると部屋の中央、その中心部たる空中には、部屋に入った時と変わらない姿を保っている球体の姿があった。

 

「――……」

 

悪魔ヘラクレスを生んだ球体は、自らが生んだ存在が死したというにもかかわらず、ただ悠然と宙に浮いて平静を保っている。それがひどく不気味だった。自分はパラ子らの言や、これまで現れた迷宮の魔物を討伐した際の経験からすれば、迷宮の魔物というものは打倒したのち一定時間が経過すると剥ぎ取った一部以外は溶けて再び迷宮の中へと消えていくものである。その法則にしたがうのであれば、ヘラクレスという迷宮の魔物/悪魔が倒された今、それと関連しているだろうあの球体も溶けて消えてゆくような変化を見せるはずなのだ。

 

「――……」

 

しかし今、黒い球体は夜空に浮かぶ新月のように、ただ静かに部屋の中央の一部を黒色に染めるばかりで、溶けるといった変化どころか、表面が波打つ気配すらも見せていない。それは何とも自分の心中の不安を煽り――

 

「――……!」

 

やがてそんな不吉な予感は、ものの見事に的中することとなる。

 

「――球体が……」

 

黒の球体の表面はその静寂を打ち破り、突如として大きく波打ち始めた。呼応するかのように立ち往生したヘラクレスの死骸は溶け、地面の泥の中へと消えてゆく。

 

「……え!?」

「な、なにが……!?」

 

事ここに至ってようやく異変に気づいたらしく、いつものような会話を交わしあっていたメディ子とパラ子が目を見開いて驚きの表情を浮かべながら変化の起きている球体へと視線を向けた。

 

「まさか……」

「いや、そのまさかだろうねぇ……」

 

球体の変化の様子を目撃したガン子は顔を蒼白な色に変化させて呟き、スカアハは眉をひそめながらどこか諦観気味に言った。

 

『そうか……』

 

そしてゴウトがとどめといわんばかりに告げる。

 

『あちらが本体か……!』

 

その言葉を皮切りにしたかのように表面波打つ球体は多くの黒い雫を泥の地面に向けて射出し、やがて地面へと着弾したそれらの黒い雫は先ほどヘラクレスが現れたときと同じよう地面の上で水滴のようにゆっくり跳ねると、やがて形状変化を起こし、様々な姿へと変貌してゆく。

 

「――これは……!」

 

そうして黒い雫が変化した姿は、悪魔召喚師たる自分にとっては見覚えのある姿の物ばかりだった。

 

『あれは……、月に関する悪魔たちか……!』

 

ホルスにヤリーロ、トートにツクヨミ、オシリス……、ハトホルにディアナ、アルテミスにヘカーテ。新月の如き黒の球体からは月に関する伝承を持つ悪魔たちが次々と生まれ落ちてくる。そうして黒い雫から変貌する悪魔たちの中には、彼らのような月神と呼ばれる存在以外にも、バビロニア神話における大地母神にして蛇龍神たるティアマト、女神イシュタルの夫にして彼女の穀物庫を守る蜘蛛神のタンムーズ、ヒンドゥー教において髪に三日月飾るシヴァの聖なる牛たるナンディ、月神ソーマと同一視される雄牛アグニ、エジプト神話の創造神たるプタハ神の化身にしてオシリスの雄牛であるアピス、死者を冥界へと導くオシリス随伴神のジャッカル神アヌビスとオオカミ神ウプウアウト、多産と復活の象徴たる蛙神ヘケト、ケルト神話においてアーサー王の語源ともなったとされる豊穣と狩猟の熊女神アルティオなど、月に関連する伝承や、月に関連する伝承を持つ生物の身体的特徴が大いに目立つ悪魔たちの姿もあった。

 

『どうする、ライドウ……!』

 

ゴウトが焦燥を隠そうともせずに尋ねてくる。

 

「――ひとまずは彼らの悪魔としての名を呼ばないようにしましょう。見たところ彼らの姿はさきにヘラクレスが現れた時と同様存在感が薄く、本当の力を発揮できない状態にあるものと推測できます」

『うむ……、我らが名を呼ばぬ限り、あの悪魔らは名を持っていない、ただのよく似た悪魔――、というよりも悪霊に近しい存在にすぎぬということだな。――スカアハやパラ子らもそれでよいな?』

「はいよ、了解さ」

「まぁ、私たちは……」

「その悪魔としての名前なんてもの知らないから……」

「呼びようがないのだけれどね……」

 

一同が提案に肯定したのを見てゴウトは満足げに頷くと、しかし再び顔色を曇らせながら問うてくる。

 

『して、ライドウよ。――勝算はどのくらいだ?』

「――……」

 

問いに対してすぐさま答えを返すことは出来なかった。さなかにも敵は次々と生まれ出でてきており、今や悪魔の敵は数百に達しそうなほどの数にもなっているが故だ。このまま放置していればおそらくそのうち悪魔の数は千を超え、さらに時間が経過すれば万にも達するかもしれない。また、今でこそ先のヘラクレスほど強大な気配を放つ悪魔は姿を見せていないが、これもまた時間が経過すれば、そのうち現れてしまうかもしれない。すなわち敵は数も力も無限である状態――、つまりは彼我の戦力差は無限大対一に等しく、戦力比をそのまま勝算として勘定してしまうのであれば、『こちらの勝つ確率などというものは欠片ほどもない』というふざけた答えしか返せない。仮に戦術や戦略等の係数でこちら側の戦力数を増やして考えられるとしても、やはり勝ち目など限りなく零に近いという答えしか返せない。

 

だがそんな希望が一切みえないなどというふざけた答えを帝都の守護者にして誉れ高き葛葉ライドウの名を継いだ自分が口にするわけにはいかない。口にできない理由にはまた、誇りや矜持のほかにも、一度その言葉を口にしてしまえば言霊となり、先ほどヘラクレスが悪魔としての力を取り戻したよう、不確定な未来は確定した未来となってしまうかもしれないという不安も含まれていた。

 

だからこそ自分は何も答えられない。だが沈黙が何よりも雄弁な返答となったらしく、こちらに顔を向けていたゴウトはさもありなんといわんばかりに無言で頷くと、大きく、そしてゆっくりと、静かに、ため息をこぼした。

 

『ば……、いや、やめておこう』

 

――万事休す、あるいは万策尽きた、だろう

 

おそらくはゴウトが口にしようとした言葉を想定し、そしてゴウトも自分と同じく負の意味こもった言葉が言霊とならないよう口を噤んだのだろうことを理解する。

 

『……ガン子よ』

 

慌てた様子もなく平静に銃器の手入れをしている彼女へと語りかけるゴウトの顔は真剣そのものだ。

 

「なにかしら?」

 

ゴウトから真剣なまなざしを向けられたガン子は、平然とした様子で問い返してくる。その態度は目の前で敵が次々と増えているという状況を前にしているにしては、あまりに不自然なものだった。おそらくゴウトが彼女へと語りかけたのは、彼女がこの集団の中において最もこの番人部屋の仕組みに対して詳しそうであるからか、あるいは、そんな彼女の態度から、彼女がこの窮地から脱出するための、自分たちの知らぬ何かの手法を知っているからこそなのかもしれないと考えたのかもしれない。

 

『この部屋からの脱出は―ー』

「無理ね。番人の部屋の扉は、一度入ってしまえば条件を満たさない限り、開くことは不可能よ」

 

しかしガン子は予想―ー、というよりもゴウトが抱いたのだろう一縷の希望をあっさり否定すると、質問はそれだけか、とでも言わんばかりにふてぶてしく首を傾げた。ゴウトはガン子の態度に多少戸惑った様子を見せつつも、再び口を開く。

 

『条件とは――』

「まぁ、それは、部屋の番人を倒すか、あるいはすでに倒された状態であるか、あるいは……」

「あとは、まぁ、外から誰かが開いてくれるか、アリアドネの糸みたいなのを使うかですね」

 

メディ子が彼女の後ろから現れてガン子の言葉を引き継いだメディ子は、ショルダーバッグから取り出したのだろう一つの糸車――、概念によって神話の能力を得た『アリアドネの糸』を掲げながら言った。

 

「まぁ、とはいえ、このアリアドネの糸はあちらからこちらに来るための磁軸代わりのものになってますし、もし仮に私たちがいつも使っているアリアドネの糸がこの場にあるとしても、こんな周囲に魔物だらけの状況下でアリアドネの糸なんか使えないですけどね……」

 

そしてメディ子は肩をすくめる。現状をこんな状況下、と例えるあたり、メディ子も今この状況が自分たちにとって圧倒的に不利な状況であることを理解しているのだろう。そしてそれでも彼女は――、彼女たちは、不思議なことにどこか楽観的にすら見える冷静の態度を崩していない。それどころか彼女たちは、この絶望的な状況下を楽しんでいるように見せる節すらある。

 

そして彼女たちのそんな、あまりに常人のそれとはかけ離れている精神性はおそらくきっと――、

 

「だがまぁ、何とかなるだろう!」

 

このどこまでも空気を読まずに、根拠もなく、二人から馬鹿だ阿呆だとの言葉を正面からたたきつけられようと、ただ思うがままに自分や誰かを信じて突き進もうとする彼女の――、パラ子の影響を受けてのことなのだろう、と思う。

 

『ふむ、パラ子よ。もしやと思うが、何か秘策でも……』

「そんなものは、ない!」

 

パラ子はゴウトの言葉を現状に対する打開策などないとバッサリ切り捨ててると、しかし今や血などで薄汚れた青の鎧に覆われた胸を張りながら言う。

 

「でも、だからこそこの状況を何とかしたらたぶん私たちは世界で一番の有名人になれるぞ! そうしたら私たちは一躍して英雄だ!」

「……はっ」

 

パラ子の何とも俗っぽい言葉に対して真っ先に反応したのは、空中を浮遊しているスカアハだ。

 

「あは、あはははは! あぁ、うん、そうだねぇ、その通りだ!」

 

スカアハはそして両手を叩きながらパラ子の言葉を肯定すると、その白く美しい相貌を興奮によってだろうほんのわずか薄紅色に染めながら口を開く。

 

「窮地にあってなお諦めない図太さ! 絶対的な戦力差を前にしてなお笑っていられるそのふてぶてしさ! 名誉を求めて憚らないその強欲! いいね、やっぱり人間はそうじゃないといけないよ!」

 

たぶん彼女はパラ子の姿にかつての弟子、クーフーリンの姿を重ねてみたのだろう。かの英雄クーフーリンは『今日戦士になるものは英雄になるがその生涯は短いものとなる』とのドルイドの予言を聞いておきながら、それでもなお、だからこそ彼は、剣を取る決意をした。彼は細く長い運命よりも、太く短い運命を選び取った。そんな彼を好ましく思ったからこそ、スカアハは彼が弟子となることを許容し、彼に自らの持つ多くの戦闘技術を授けるに至ったのだ。

 

かのプラトンも『国家』の中において、運命とは、運命の三女神のうち過去を司る女神ラケシスの元でいかなる運命の糸を選び取るかを自ら選び、そうして自らが選んだ運命の糸を現在を司る女神クロトに紡錘機にて縒ってもらうことで確実なものとしてもらい、最後に未来を司る女神アポトロスの持つ鋏によって自らが選び、紡いでもらった運命の糸を断ってもらうことで確定化する、つまり運命とは自らの選択によって選び取るものであり、そしてしかしまた同時に、他人――、自分以外の誰かとの関わりによって決定されるものであると述べている。

 

そうとも、英雄クーフーリンがやったよう、かつてプラトンが語ったよう、そして今まさにパラ子がやっているよう、運命(/fate)とは自らの手で選んだ欲望と選択の集約であり、ならばこそその過程にいかなる苦難や絶望、恐怖の窪み(/hollow)が待ち受けていようと「そんなものが何だ」と笑いとばし、果てにどのような死に様が待ち受けていようと「これは自分が必死に選び生き抜いた結果である」と平静不動な心持ち(/ataraxia)の状態にて笑って受け入れるべきものであるのだ。

 

「まったく、ほんとに貴女といると飽きないわ、パラ子」

 

ガン子が言いながらパラ子の右隣に立ち並ぶ。

 

「だからこそ私たちはずっと師匠について回っているんじゃないですか」

 

言いながらメディ子もそれに続いた。新月の如く浮かぶ黒い球体から続々と湧き出てくる悪魔たちを前にしても決してひるまず、むしろ嬉々として立ち向かっていこうとするその様は、まるで運命の糸を縒る三女神(/モイライ)にも見えて――

 

「――そう。その通りです」

 

気が付けば自分も、勝算のない戦いに対して足を踏み出していた。するとスカアハはニヤリと悪戯な笑みを浮かべつつ、自分の隣へと並び浮かぶ。ゴウトは「全く、しようのない奴――、否、奴らだ」と言いつつ、自分もそのしようのない奴らの群れへと加わった。五人と一匹の戦士に対して、相手は無限。弱点も、突破口も、勝算の欠片すらも見当たらない戦いに対して、しかし、運命は自らの手で切り開くと覚悟を決めて、立ち並ぶ。

 

「……よし」

 

そして――、

 

「はい……」

 

やがて世界の運命を決定する戦いの幕が開けようとした――、

 

「じゃあ――」

 

まさにその時――、

 

「いきますか……!」

 

――ギ、ギ、ギ、ギィ……

 

「――っ!?」

 

運命の扉は我ら以外の存在の手によって、先んじて四つの音を立てながら開かれた。

 

 

大勢の悪魔たちと新月のように浮かぶ黒い球体。そしてそれに相対する五人と一匹の存在によって異様な緊迫感漂う空間の中、決して開かれるはずのない入り口の巨大な扉が、音を立てて開かれてゆく。その場にいる誰もの視線がその場所へと集約していた。

 

「ふむ。どうやら間に合ったようですね」

「まぁ、こいつが本気をだしゃ、こんなもんよ」

 

そして扉を開けたその存在は、巨大な黒塗りの扉の下方から現れた。まずもって注目を浴びたのは、黒塗りの扉や周囲の黒泥に対比するかのよう、輝く翼の生えた美しい白馬――すなわち天馬ペガサスだ。穢れ一つないその肢体はまさに神話の時代に存在した幻想種をそのまま具現化したかのような姿であり、もはや一個の芸術品のようですらもある。そして次に注目されたのは、そんな天馬の手綱を引く、おそらくはこちらが扉を開けたのだろう、顔色の悪い男と、天馬に跨る凛々しい女性の一組だ。

 

「伊達に元々稲妻の名前を持つルウィ人の天候神タルフントの戦車を引いていたわけじゃねぇ」

 

血の気がほとんどない真っ青な死人の如き顔色をしている長身の男性は、紫色の妖しい色彩を放つ蛇鱗で作られた鎧を着こんでいる。また、その麗しい色合いの鎧の胸部には大きな刃の貫通痕があり、腰には途方もない力を感じさせる抜き身の剣を携えられていた。そしてその男性の特徴として何より特筆すべきは、男の喉元にある傷痕だろう。遠めに見ても傷とわかるほどの痕跡からは、切断された皮膚、筋肉どころか、血管系すらもが見てとれる。それはどう控えめに見積もっても致命傷と呼ぶほかない切創にほかならず、ならばこそなぜその男がいまだに生存しているのかと、見たものに疑問を抱かせずにはいられない。

 

「そのタルフントという存在の名は聞いたことがないが、なるほど、稲妻に例えられたというその理由はこの身をもってしてよく理解できました」

「そうかい」

 

一方で、そんな死人が如き男の手綱引く天馬に跨る見目の美しい女性は、特殊な多重円紋様の刻まれた豪奢な鎧や特殊な紋章の形をしたティアラなどを身に纏っていた。だがそうして女性が持つ所有物の中で最も特筆すべきであるのは、彼女のその細腕に握られた一振りの十字を模って作られたのだろう両手剣だ。白銀の刀身。柄の近くの刀身に刻まれた十字の紋様。黄金色にて装飾施された柄。蒼天の色に塗りつぶされた握り。そのすべては見事に一体化して、えも言い表せぬ神秘さのようなものを生み出している。それはまるで聖剣と呼ぶに相応しい造形をしていた。

 

『お、お主らは……』

 

またそして、自分たちはその麗しき姿の天馬にこそ見覚えはないが、その死人の如き顔色で馬の手綱引く男性の姿にも、また、聖剣を手にした女性の姿にも見覚えがあった。

 

「――ヘイムダル……!」

 

その男はつい半日ほども前にヴィーグリーズと呼ばれていた場所において大勢の死人を操り戦いを仕掛けてきた、つい先ほどまでこの騒動の首謀者と思われていた人物であり――

 

「――それにペルセフォネさん……!」

 

そんな男のすぐそばにいる女は、自分たちに武器防具、および道具や情報を提供し、月の奥にいるこの騒動の真犯人である『桜AI』を倒すべしとの方針を定めた飛空都市マギニアの代理指導者だ。

 

「ちょ、ちょっと、なんであんた達が一緒に……!?」

 

先ほどまで冷静さはどこへやら、ガン子が慌てた様子で尋ねる。おそらくはパラ子、メディ子ら含めた三人の中において最も理性的に物事を判断する彼女だからこそだろう、今や彼女は目を白黒させていた。

 

「ええ。まぁ、話せば長くなるのですが……」

 

応じてペルセフォネは困ったといわんばかりに思案顔を浮かべると、数瞬ののち頷き――、

 

「とりあえず、彼は今、味方です。それ以上のことは――、目の前の敵を片付けてからにしましょう」

 

言いながら、馬上から降りて剣を構える。

 

「何を……」

 

しようとしているのか。あるいは、言っているのか。多分はそう尋ねようとしたのだろうガン子は、ペルセフォネがその聖剣を構えた見た途端、黙りこくってしまう。彼女の構えた姿勢からはなるほど、先ほど戦った大英雄ヘラクレスにも勝るとも劣らない気配が漂っている。ガン子はそうしたペルセフォネの纏う気配に気圧されて、強制的に口を閉じさせられたのだ。

 

「そこにいると危険です。私の射線上から離れた方がいい」

 

言いながらペルセフォネは両手に持った剣を天に高く掲げる。すると次の瞬間、ペルセフォネの体から膨大な量のマグネタイトが発生した。発生したマグネタイトは彼女の両手を通じて剣へと注がれ、やがて剣が受け止めきれなかったのだろう分のマグネタイトは彼女の周囲にて稲妻の檻が如きものと荒れ狂う暴風へと変貌してゆく。

 

『な、なんだ、あれは……!?』

「わからん! わからんが、確かにここにいると危険であることだけは確かなんだろう!」

 

ゴウトが戸惑いの言葉を叫び、パラ子がそれに応じた。さなかにもペルセフォネの掲げる剣は変化を起こしてゆく。白銀の刀身はやがて薄い黄金色の光によって包まれはじめ、そうして光が刀身を覆い終えると、続けてその光は切っ先から天へと向けてまっすぐに伸び始め、やがて天と地との間に黄金色の直線を引いてゆく。それはまるで仏の慈悲によって天から垂らされた糸のようにも、あるいは運命を断ち切る刃のようにも見えて――

 

「ライドウちゃん!」

「――ええ……! 皆さん、一旦この場から退きましょう……!」

 

戦慄を覚えたのだろう余裕失せたスカアハの呼びかけを聞きいた瞬間、彼女の提案を皆へと伝えると、その場にいる四人と一匹の一同は寸分の狂いもなく同時に頷き、三々五々に散りながらペルセフォネらのいる入り口付近へと駆け出してゆく。

 

――オ、オォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 

また、そんな自分たちの挙措、あるいはペルセフォネや剣の挙動に呼応するかのよう、遅れて悪魔たちは雄叫びを上げ、突撃を開始した。

 

「……、………………………………、っ!」

 

多数の悪魔たちの突撃を一瞥したペルセフォネは一度だけ顔を上へと向けると目を瞑り、大きく短く息を吸って小さく長い息を吐くと、直後、大きく目を見開くと同時に剣をさらに振りかぶり、口を大きく開くと肺からすべての息を吐き出すかのように胸を揺らして、叫ぶ。

 

「約束された(/エクス)、勝利の剣(/カリバー)ッ!」

 

剣より発せられた黄金の光が悪魔たちに向って放たれる。光はやがて視界のすべてが黄金色に染めあげるほどの奔流となり、彼女の振るった剣の延長線上にいたすべての悪魔たちを呑みこみ、直進した。

 

「アァァァァァァァァァァ!」

 

光はやがてペルセフォネの裂帛の雄叫びに呼応するかのよう、さらに強まってゆく。奔流であった光はそして大海となり、眼球に襲い掛かってくる光の圧はさらに強力なものとなっていった。

 

「――っ!」

 

もはやとてもではないがは目を開けていられない。瞼を瞑っても光は隙間から眼球内へと侵入してくるのだ。動くようになった右腕をも使用して両目を覆い、力一杯瞼を締め付けて、闇を無理やりに作り出し、それでようやく人心地が付く。

 

「アァァァ……」

 

やがてペルセフォネの声が小さくなってゆき、そして完全に消え失せたころ、緩々と光に対する防護壁を解除してゆくと、最後に固く閉じていた瞼を開き――、

 

「――……!」

 

そして驚く。

 

『なんと……』

「こりゃあ……」

 

ゴウトとスカアハは呆然とした表情を浮かべている。

 

「……」

「……」

「……」

 

パラ子たちは言葉もなく、ぽかんと口を開けて驚いていた。

 

「――悪魔たちが……」

 

目の前、番人部屋の中央付近にいた数えるのも億劫になるほどいた悪魔たちが、今や残っていなかったからだ。光の奔流は黒の球体から産み落とされた神話の伝承にある悪魔、神霊たちを一柱たりと余すことなく消し去ったのだ。それはまさしく奇跡としか言い表せない所業だった。

 

「……まだ、残っているようですね」

 

そのような奇跡を起こして見せたペルセフォネは、しかし大して喜ぶこともなく視線を地面から正面へと向けると、やがて少しばかり首を斜め上に傾かせて、左右の眼球の焦点を部屋の中央に合わせる。彼女の向けた視線の先には、先ほど彼女が討滅せしめた悪魔たちを生み出した黒い球体が悠然と宙に浮かんでいた。

 

「一発で壊せないのならば……」

 

言いながらペルセフォネはやがてその場にいる彼女以外の誰かが挙動するよりも早く剣を再び振りかぶると、再び体から膨大な量のマグネタイトを発生させ、剣へと注ぎ込み、刀身より黄金色の光を発生させたのち、振り下ろす。

 

「約束された(/エクス)――、勝利の剣(/カリバー)ッ!」

 

大気が震える。光が空間を直進した。そうして発生した巨大な光の柱は黒の球体を呑みこみ、黄金色の光を浴びたそれはまるで満月のように輝いた。そして再び部屋は目も眩むばかりの光に満たされてゆく――




Twenty-and-eight the phases of the moon, the full and the moon’s dark and all the crescents, twenty-and-eight, and yet but six-and-twenty the cradles that a man must needs be rocked in: For there’s no human life at the full or the dark. From the first crescent to the half, the dream but summons to adventure and the man is always happy like a bird or a beast; 月は二十八の顔を持っている。満月と新月、そしてそれ以外の欠けた状態の月。二十八の月はまた、かけた二十六の状態においては揺籃を必要とする。 満月と新月において、人の生命は存在していないのだ。新月より出でて三日月から上弦までの間、人は常に鳥または獣のように幸せであり、冒険に誘われる。
 
But while the moon is rounding towards the full he follows whatever whim’s most difficult among whims not impossible, and though scarred as with the cat-o’-nine-tails of the mind,  his body moulded from within his body grows comelier. Eleven pass, and then athenae takes Achilles by the hair, Hector is in the dust, Nietzsche is born, because the heroes’ crescent is the twelfth. And yet, twice born, twice buried, grow he must, before the full moon, helpless as a worm.  The thirteenth moon but sets the soul at war in its own being, and when that war’s begun there is no muscle in the arm; and after under the frenzy of the fourteenth moon the soul begins to tremble into stillness, to die into the labyrinth of itself.  しかし、その一方で、満月に近づくにつれ、人の精神は九尾の猫のような気まぐれさを得るようになり――、やがてその体もまた、精神に呼応するかのように美しく変化してゆく。やがて十一日が経過し、十二という英雄を表す整数の月が到来すると――、戦女神アテナはアキレスの命を刈り取り、新月闇夜を司る女神ヘカテーは塵に還り、ニーチェ(/人間らしい人間)が生まれるのだ 。しかし、満月以前に二回の生まれ変わりを経験して人間として成長しても――、人は以後、まるで虫のように無力な存在と化してしまう。十三夜において魂の内部では力なき戦争が勃発し、そして、十四夜直前、魂は満月の狂乱の下で自らの生み出した迷宮の中に死ぬ事を予感し、静寂に震え始める。
 
All thought becomes an image and the soul becomes a body: that body and that soul too perfect at the full to lie in a cradle, too lonely for the traffic of the world: Body and soul cast out and cast away beyond the visible world.
全ての思考は空想に堕ち、魂は肉体に宿り……、そして心身は揺籃に眠るために相応しくない完璧さを取り戻し、やがて――、世界から切り離されて孤独となる。   完璧たる肉体と魂は、現実世界に許容すれず、追い出されてしまうのだ。
 
When the moon’s full those creatures of the full are met on the waste hills by country men who shudder and hurry by: body and soul estranged amid the strangeness of themselves, caught up in contemplation, the mind’s eye fixed upon images that once were thought, for separate, perfect, and immovable images can break the solitude of lovely, satisfied, indifferent eyes.月が満月の顔であるとき……、それは我が心の中にいる男が身震いしながら荒れ果てた丘の上を急ぐに例えられるだろう。自身の奇妙さに疎遠となった肉体と魂は、熟考によって、ある思考――自らより分離した完璧かつ完全な投影の創造は、自己愛と自己満足によって生まれた固有結界を打ち破るための手法を心眼にて見極めことが出来るようになる――
 
And after that the crumbling of the moon. The soul remembering its loneliness shudders in many cradles; all is changed, it would be the World’s servant, and as it serves, choosing whatever task’s most difficult among tasks not impossible, it takes upon the body and upon the soul the coarseness of the drudge. そして、その後、月は砕かれる。孤独を抱えている魂のほとんどは揺籃の中で打ち震えるだろう。そしてすべては変わってゆく。それらはすべて世界の使い魔(/霊長の抑止力)となるのだ。そして世界の役に立つべく、不可能ではないが最も心が傷つく仕事をやらされ続け、魂は徐々に薄汚れてゆく。
 
Because you are forgotten, half out of life, and never wrote a book your thought is clear. Reformer, merchant, statesman, learned man, dutiful husband, honest wife by turn, cradle upon cradle, and all in flight and all deformed because there is no deformity but saves us from a dream. 貴方が自らを忘れてしまったのは、貴方がこれまでの生涯において、自らの真なる願いを見定めていなかったからだ。改革者、商人、政治家、学問のある男性、忠実な夫、正直な妻……、すなわち彼ら揺籃を起源として持つ者たちは皆、思うがまま空を飛び、我儘であり続けることで、誰かを悪夢から救うに至るのだから。
 
Because all dark, like those that are all light, they are cast beyond the verge, and in a cloud, crying to one another like the bats; and having no desire they cannot tell what’s good or bad, or what it is to triumph at the perfection of one’s own obedience; 新月、満月において、彼らはついに限界を迎え、空の果てで、まるで蝙蝠のように目が見えぬと泣き叫ぶ。それは彼らが我、すなわち、自らの欲望(/願い)というもの見定めなかった彼らは、自らが満足する勝利条件を自らで見定めることが出来ていないからだ。
 
And yet they speak what’s blown into the mind;さらに彼らは自らの心に吹く風について、何とも味気ない、形のない、何かが生まれる以前の状態であると語り始める。
 
Deformed beyond deformity, unformed, insipid as the dough before it is baked, they change their bodies at a word.しかしやがて欠けていた月が再び円に近づくにつれ、彼の心の中のわだかまりは混ざり、練り上げられ、やがて自然な願いを見出すようになるだろう。
 
When all the dough has been so kneaded up that it can take what form cook Nature fancy the first thin crescent is wheeled round once more. Hunchback and saint and fool are the last crescents. The burning bow that once could shoot an arrow out of the up and down, the wagon wheel of beauty’s cruelty and wisdom’s chatter, out of that raving tide is drawn betwixt deformity of body and of mind. そして満ち欠けの最終においては人は、自らの願いから目をそらす人と聖人と愚者ばかりになる。かつて上弦下弦の合間に満ち欠けの間に存在し、残酷さと機知に富んだ美しいおしゃべりという名の矢を放っていた燃え盛る弓とは、心身の変化の間に描かれる荒れ狂う潮流に他ならないのだ。
 
William Butler Yeats, -the phase of the moon-
ウィリアム・バトラー・イェーツ 月の諸相より
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