Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

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Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen, Tod und Verzweiflung flammet um mich her!
地獄の復讐がわが心に煮え繰りかえり、死と絶望がわが身を焼き尽くす!
Fühlt nicht durch dich Sarastro Todesschmerzen, So bist du meine Tochter nimmermehr.
お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、そう、お前はもはや私の娘ではない……
 
Verstossen sei auf ewig, Verlassen sei auf ewig, Zertrümmert sei'n auf ewig Alle Bande der Natur.
勘当されるのだ、永遠に! 永遠に捨てられ、永遠に忘れ去られる! 血肉を分けたすべての絆が……
Wenn nicht durch dich Sarastro wird erblassen! Hört, Rachegötter, hört der Mutter Schwur!
もしもザラストロが蒼白にならないなら! 聞け、復讐の神々よ、母の呪いを聞け!
 
モーツァルト, -魔笛 第十四番 “夜の女王のアリア”-より


二十五話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (一)

『エクス、カリバー!』

 

聞き覚えのない声が放った聞き覚えのある言葉が聞こえてきた瞬間、闇に亀裂が生まれ、そうして無明の闇に侵入してきた黄金色の光はあっさりと闇を打ち砕き、生じた亀裂からは眩いばかりの光が溢れだす。それはそれは何とも神々しく、何とも幻想的で、なぜかとても胸を打つ光景だった。

 

「――」

 

そしてそれはまた同時に、『桜』の勝ち誇っていた顔を打ち崩す効力も発揮した。先ほどまで自信満々の笑みを浮かべながら自らの子であるというメルトリリスをいじめていた彼女が、しかし今、こうして馬鹿みたいに口を開けて、唖然、悄然とした表情を見せているという姿は何とも小気味がよく――

 

「こんな風に、だ」

 

気づけばそんな言葉を彼女めがけて放っていた。

 

『おい、ライドウ。何やらこの球体の内部、どこか別の場所へと繋がっているようだぞ』

「――本当ですね」

 

やがて闇を貫いていた黄金色の光が完全に失せ、差し込んでくる光が平静さを取り戻したころ、そうして闇にぽっかりと開いた大穴から覚えのある声が聞こえてくる。

 

「うわ、暗! おい、何だこれ! こん中、わけわかんないくらい真っ暗だぞ!」

「うわ……、本当だ」

「……、あら、あれは……」

「おや……」

 

やがて声に遅れ、光と闇の狭間の場所には、四人の女性が姿を現した。そのうちの三人には見覚えがない。外見から察するに、おそらくは冒険者なのだろう。だが――

 

「ライドウちゃん、ゴウトちゃん」

 

そのうちの一人、浮遊している彼女には見覚えがある。悪魔スカアハ。それは英雄クーフーリンの師であり、また、影の国の女王と呼ばれた女傑であり、また、召喚師葛葉ライドウの手持ちの悪魔でもある存在で――、

 

「――なんでしょうか」

『なんだ』

「あんたらの見知っているだろう顔が、そこにあるよ」

 

そうして彼女が告げた途端――

 

「――!」

『なにっ!?』

 

闇の縁に見知った二つの顔が立ち並ぶ。学帽の下にある整った白皙の顔立ちと、真っ黒な毛むくじゃらな猫面。それはまさしく、異なる世界において自らが出会った、正義の味方と呼ぶに相応しい志をもってして活動する、葛葉ライドウと、そのパートナーのゴウトに他ならなかった。

 

「――エミヤさん……」

 

常に能面のような表情を浮かべている彼の顔は珍しく崩れ、唇は上向きの三日月を形作ってゆく。そうして幼さ残る白眉の顔面が喜びに歪んでゆく様は何とも麗しく、同性である自分すらも一瞬見蕩れさせるほどの麗しさを保有していた。

 

――っと、いかんいかん

 

そうして生まれつつあった美しいものを尊いと感じる気持ちと自分を心配する誰かが存在しているということを喜ぶ感情が入り混じって倒錯的な感覚になる前に、それを慌てて振り払う。どうも自分は、自らの感情を素直に認められるようになってからというもの、往々にして、あらゆる物事、出来事に対して常よりも過剰な思いを覚えるようになってしまっている。これが悪いことだとは思わないし、本来ならば人としてあるべき姿なのだと思うとそのような状態に戻れたということに対しての喜びすらも湧き上がってくるが、だからといってこうも制御がしにくいというのもまた困りものだ。

 

「なるほど、あれがアーチャー……、いえ、エミヤですか」

 

言いながら別の顔が光の向こう側から暗闇(/こちら)を覗き込んでくる。その整った顔に見覚えはなく、故に彼女が自分のことをアーチャーなどと呼ぶ理由もわからなかったが、彼女が纏う清然かつ凛とした雰囲気と、女の細身に多重円紋様刻まれた鎧を纏う姿。そして、何より彼女が握りしめている、かつて幾度も私の命を救い、そして今再び私の窮地を救ったその人々の願いの結晶たる聖剣(/エクスカリバー)を見た瞬間、私はその理由をすべて理解した。

 

――セイバー……

 

ギルガメッシュの言を信じるならば、この世界のスキルーー、新人類のために旧人類が開発した生き抜くための術は、過去の世界において英雄、英霊、あるいは神と呼ばれた彼らのデータを参考にして作られている。それ故にスキル、というものの中には、過去に生きた旧人類のすべての歴史が記憶として詰まっている。そしてまた、新人類と呼ばれる彼らはそんなスキルを日常において行使することによって、過去の彼らのデータは新人類の無意識の中に蓄積するようになり、やがては彼らの行動理念や行動そのもの、あるいは生み出すものに影響を与えるようになり―ー。やがてそれらが極まった時、それは力として結実し、新人類と呼ばれる彼らをさらに高いところへと引き上げるようにもなる。簡単に言ってしまうならば彼らは、旧世代の技術や記憶と新しい人類の力の融合によって、過去に存在した遺物を再現したり、過去に英雄と呼ばれた彼らの技の完全模倣やさらにその先への進化を可能とする、そんな存在になることが出来るのだ。

 

無論、人の身にて英霊の位にまで上るには、過去の奇跡の御業を模倣するには、過去の宝具に等しき物品を生み出すには、相当の才覚と相応の鍛錬と適当な環境と霊格の高さを備えている必要がある。だが例えば事実としてそんなサムライの職業スキル『つばめ返し』を極めた男が、『つばめ返し』のオリジナルである佐々木小次郎の領域―ー、すなわちまさに剣鬼、あるいは戦いの化身と呼べる領域にまで一気に駆け上がった男――シンが示しているように、それは決して不可能な事象ではない。

 

――解析開始(/トレース・オン)

 

そしてまた、例えば解析魔術を発動させて目の前の彼女が持つその聖剣を見てやれば、その剣がいかなる素材によって出来ているかということを人である我が身にて知れたという事実が、彼女の剣はかつてセイバーと呼ばれたわたしのよく知る彼女が持っていた星の生み出した聖剣でない、かつてのそれとは異なった手法にて生み出された人造聖剣であることを示している。しかしそれでも目の前の彼女はその人造聖剣をかつての彼女(/セイバー)のように『勝利すべき黄金の剣(/エクスカリバー)』と呼び、模倣して作られた人造聖剣はそんな彼女の思いに呼応して、かつて『勝利すべき黄金の剣(/エクスカリバー)』と呼ばれていた聖剣とまるで同じ効力を発揮していた。

 

すなわちならば、我が目の前において、騎士王の持っていた聖剣と同じ姿を持つ剣を手にしている彼女は、セイバーと同じような生涯を送ったか、あるいは同じような名を持つか、あるいは同じような技術を持つはずの、かつて聖杯戦争において自らのパートナーであった彼女とまるで同じような雰囲気を纏う彼女は、まさにセイバーの後継者と呼ぶに相応しく――

 

――時を超え、再び私を助けてくれるのか……

 

そのような場合でないと理解しつつも、胸からあふれ出てくる思いは脳や体を支配して、この身を感傷の渦中の中へと叩き込む。陳腐なまでに使い古された言い回しをするならば、私と彼女との絆は、運命、と呼んでも差し支えないだろう域にあるのかもしれないなどという思い上がりの勘違いに等しいだろう考えすら湧き上がってくるのだから、心底今のこの身は救いようがない。

 

「エミヤ……」

「……!」

 

そして見知らぬ冒険者たち、悪魔スカアハ、ライドウ、セイバーによく似た誰かに引き続き現れた顔が、私のそんな思いをさらに増長させる一躍を担うこととなる。

 

――ヘイ……!

 

今はヘイムダルという名で呼ばれている、かつてはヘイという名で呼ばれていた、自分がこの世界に降り立った際、初めて自分に声をかけてきてくれた、初めて自分のことを気にかけ、そして食料を与えてすらくれた、しかしやがて自らの懊悩故に私たちの敵として回ってしまったはずのそんな存在が、今目の前にはいた。また、いつか自分が彼に売り払った紫蛇の鱗鎧を纏った彼のその傍らには、これまた見覚えのある天馬が佇んでいる。

 

――そして、ペガサス……!

 

その見目に麗しい幻想種たる天馬は、見紛えようなく自らを生前――、第五次聖杯戦争時において追い詰めたライダーたるメデューサが駆っていた存在(/メデューサの子ども)であり、また、『桜』という、目の前で目を白黒させている彼女の前身たる少女が契約していた英霊――、つまりはエミヤシロウたる自身の関係者と言える存在であり――

 

――『運命』……か

 

「――――――――くっ、く、くく……」

 

つい先ほど陳腐と切り捨てたはずの言葉でしか言い表せない巡り合わせは不思議な高揚感を呼び、我が身の内から笑いの感情を引きずり出す。

 

「……!!」

「は、あは、あは、あは、あははははははははは!」

 

目の前にいる『桜』が向けてくる驚愕と不信の視線なんて気にもならなかった。自らの身がこうも不思議な縁で繋がれている誰かに助けられたという事実が、何よりもおかしかった。その事実は不思議と自分はこの世界に一人で生きているのではないということを実感させたのだ。そうとも、自分の行為が自分の運命を生み出した―ー、なるほど、これこそが親鸞の言うところの自業自得、という奴なのだろう。ならばこうして誰かを助けたいと願い行動し続けていれば、いずれは矮小なこの身であっても他力本願の――つまりは正義の味方の境地に至れるかもしれないと考えると、それだけで胸が躍る思いがする。

 

「あは、あは、あはははははははは!」

「――――――く……!」

 

湧き上がる感情に突き動かされるがまま笑い続けている私を見て何を思ったのか、『桜』は下唇をそれこそ血が滲むのではないかと思うくらい強く噛み締めると、側にいた泥の地面に手をつき俯き打ちひしがれているメルトリリスを抱き寄せたのち、滑るようにして闇の中を目にも止まらぬ速度で移動してゆく。

 

「――あ」

『ま、まてっ!』

 

ライドウのどこか間延びした単音の声と慌てたゴウトの制止の声をよそに、やがて桜は溶けるようにして闇の中へと消えていった。そうして視界の中から桜の姿が消え失せた途端、辺りを包み込んでいた闇は瞬時にして消え失せる。そして現れたのは小さな――もちろん、通常の感覚からすればとても大きな――部屋だった。

 

「これは――」

 

その部屋はまるでシンケルがモーツァルトのために制作したという舞台のようだった。半円のドーム状に作られた部屋の中央には三日月のゴンドラがつるされ、泥の地面の上に微かに浮いている。ライドウたちが覗いている砕かれた壁面を除けば、壁という壁は色鮮やかな夜空の色に染め上げられており――、そんな夜空にはまた星々の煌めきがすべてのRGB色を使用しても足りないだろう数程刻まれていた。

 

「『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え……』、か」

 

いかにも人工的に作られたこの部屋を作りしものがいかなる目的をもってして部屋をこのような作りにしたのかはわからない。だがこの復讐のため短剣を自らの娘に託そうとする夜の女王が君臨する場面のために作られたという舞台とそっくりな造りの部屋は、なるほど、娘とも呼べる存在であるはずの自分の分身――、すなわちメルトリリスを自らの人形にせしめようとするあの『桜』という存在を現すにあるぴったりの情景であるように感じられる。なるほど、ならば――

 

――『桜』があのように歪んでしまうのもまた運命だったのかもしれない……

 

『エミヤ!』

 

現実拒絶症の悲観主義者が言いそうなことを考えていると、壁面に刻まれていた傷口より飛び出してきたゴウトは見事な着地を決めたのち、こちらへと近寄りながら話しかけてくる。

 

「ゴウト……無事で何よりだ……」

『それよりエミヤ! 今のは―ー』

「ああ。『桜』――、人工知能によって変質してしまった『桜』だ」

『やはりか! ならばあれの後を追えば、『桜AI』の脳へとたどり着ける可能性が高いというわけだ!』

「ふむ……?」

 

彼の言葉を聞いて多くの疑問があふれ出す。その表情や言動から察するに、どうやら彼は―ー、彼らは自分らの知らない、しかし、それでいてこのもはや週末に向かいつつある世界を救えるような、そんな手段を見つけているらしい。

 

「おい! あれを見ろ!」

「む?」

 

そうしてこちらがそれについての質問を飛ばすよりも早く聞こえてきたいつの間にやら近くにまでやってきていた青い軽鎧を着た女性の声に導かれ、彼女が指さす方を向く。するとその細指の先、天を埋め尽くすかの如く数多の星が刻まれた壁面をよく見てやると、『桜』の逃げた方向にある壁面のうちの一部には縦長長方の形に線が刻まれていることに気が付ける。

 

「なるほど、あれが……」

「――この部屋の出口……」

 

言葉の後に沈黙の帳があたりを包み込む。そうして私は空間の狭間より降りてきた彼らと目配せをして見せると、無言にて踵を返し、『桜』が出て行ったのだろう部屋の出口へと歩を進めた。

 

 

「はっ、はっ、はっ」

 

走る。走る。走る。薄暗い―ー、否、闇だけが支配するその通路を、メルトリリスという存在を抱えながら、ただひたすらに突っ走る。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

息苦しさなんて感じない。両手から感じる重みなんて軽石のようだった。怒りはとっくに冷めている。そうとも、先輩の否定の言葉によって茹った頭はとっくのとうに冷静さを取り戻していた。

 

「はっ、はっ」

 

走る。目的地なんて定まっていない。この月面に作られた最低限の機能しか保有していない場所はとても狭く、逃げ場なんてそれこそもうどこにもないに等しい。それでも逃げて。逃げて。逃げて。逃げて。逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げつくして。

 

「はっ、はっ」

 

そして。

 

――誰も私を見ていなかった

 

「は……」

 

不意に湧き上がってきたそんな思いが、私の無様な足掻きを止めさせた。

 

「……う」

 

胸が痛い。胸はじくじくと痛んでいる。胸はキリキリと痛んでいる。息が苦しかった。呼吸がまともにできていない。苦しい。苦しい。ただ、苦しい。

 

――あの場所

 

あの夜と月が入り混じるとある一柱の女神のために作られた部屋において、しかしそんな女神の力を宿した私に対して、誰一人として注意を払わなかった。その部屋において注目を浴びていたのは、先輩だった。冒険者たちも、異界から来たという悪魔召喚師とそのパートナーたちも、過去の英雄も、死人のごとき存在も、彼ら全ての意識は私を素通りして、先輩という存在によって絡めとられていた。私という月の放つか細い光は、先輩という太陽が放つ強烈な光によって完全にその存在感を失ってしまっていた。

 

――私は誰にも認められていなかった

 

「うぇ……」

 

誰も彼もが私に無関心だった。私は路傍の石に等しい存在だった。これから誰からも無視されない存在になるはずの私は、けれど誰からも関心を持たれていなかった。

 

――誰も……、そう、誰も……

 

息が苦しい。涙が止まらない。ただ悲しかった。ただただ、辛い。

 

――私の居場所はどこにもない

 

「……ひっ、く」

 

まるで昔と同じだ。まるであの時と同じだ。間桐の家。魔術の大家。私の体に宿る力だけを必要としたあのしわくちゃの老人のように、あの人たちは私の人格をまるでないものとして扱っていた。

 

「っく、ひっ、く」

 

みんなが私を否定する。先輩は私の救いの形を認めてくれなかった。何がいけないのかわからない。みんなの意思に宿って、みんなの正義が同じ方向を向くようにして、みんなが同じ幸福を享受できるようにしてやることのいったい何がいけないというのだろうか。

 

「ぇ、ぅぇ、ぇ、ぇ、ぇ」

 

喜んでくれると思っていた。受け入れてくれると思っていた。でも先輩は拒絶した。わからない。どれだけ考えてもわからない。でもきっと、先輩が否定するっていうことは、きっとそういうことなのだろう。

 

――私が出した答えは、間違っていた

 

「う、うぇ、え、え、ぇ」

 

そう。きっとそれが結論なのだ。だから私は先輩に拒絶された。私は間違っていた。私は間違った存在だった。だから私は世界のだれの関心をも引くことが出来なかった。だから私は無視された。だから私は私の中から生まれた娘にすらも拒絶された。

 

――私は間違っていた

 

「ひ、ひっく、ひ、ひ、ぃ……」

 

私は間違った結論を出した。私は間違った結論を出して、誰も幸せにしない結論を出して、誰をも不幸にする結論を出して――

 

――ああ、でも、それは当然だ。

 

だって私は今までに一度だって――

 

――自分の手で、何かをつかんだことなんて、ない

 

「ひ……」

 

誰もが私を拒絶する。誰も私に手を差し伸べてくれない。誰も私を必要としない。誰も私を認めてくれない。誰も私の側にいてくれない。誰も――

 

「……あ」

 

いや。

 

――ああ

 

いた。

 

「兄、さん」

 

間桐慎二。私の義理の兄。我儘で、狭量で、身勝手で、他人のことなんて自分の道具としか思っていなくて、同じく間桐家の当主たる老人に人生をもてあそばれた被害者で、私を傷つけた加害者でもあったけど、けれど唯一最後まで私の事を家族と言って、こんなにも醜くて薄汚れた私のために命を使い切ろうとまでしてくれた、私の全てを知る人。

 

「兄さん……」

 

私にとって、唯一の、味方。

 

「兄さん……、兄さん……、兄さん……、――兄さん……!」

 

あの人に会いたい。あの人に会いたい。馬鹿と罵られてもいい。間抜けと殴られてもいい。痛くて怖い思いをするのだって今なら平気で我慢できる。だってそんな時あの人は、こんな無価値な私に向って、ありったけの感情をぶつけて、私の価値を認めてくれる。世界中で、あの人だけが――、私の居場所となってくれる。

 

「兄さん……、兄さん……、兄さん……、兄さん……!」

 

兄さんに会いたい。千切れるほどに思う。都合のいい女だと笑ってくれていい。どうか馬鹿な女だと愚弄して欲しい。私がここにいるんだと認めてくれるんなら、なんだっていい。

 

「兄さん……!」

 

もうどこをどう走っているかなんてわからなかった。ただ思いが導くままに無我夢中で駆け抜けた。気が付くと私は私の脳が保管されている部屋の前にいた。理屈なんてない。理由なんてない。ただ思いが向くままにそしてその部屋の扉を開けて――

 

「なんだよ、桜。お前、またそんなみっともない顔してんのか」

 

――ああ

 

薄汚れたこの身に訪れた至上の奇跡に、心から感謝した。




In diesen heil'gen Hallen, Kennt man die Rache nicht.
この神聖な殿堂では人は復讐の心を持っていない。
Und ist ein Mensch gefallen, Führt Liebe ihn zur Pflicht.
そして人が道を踏み外しても、愛がその人を責務へと導いてくれる。
 
Dann wandelt er an Freundes Hand, Vergnügt und froh ins bess're Land.
それから彼は友の手により歩きだす。楽し気に、喜ばしく、より良い国へと。
 
In diesen heiligen Mauern Wo Mensch den Menschen liebt,
この神聖な城壁の中では人と人とが愛し合う。
Kann kein Verräter lauern, Weil man dem Feind vergibt.
裏切者が待ち伏せすることはできない。人は敵を許すから。
 
Wen solche Lehren nicht erfreu'n, Verdienet nicht ein Mensch zu sein.
この教えを享受できないような人は、人間に値しない。
 
モーツァルト, -魔笛 第十五番 “この神聖な殿堂には”- より

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