Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
erich fromm, -The Heart of Man: Its genius or Good and Evil-
エーリッヒ・フロム ―悪についてー より
『エミヤ、本当にこちらであっているのか?』
真っ暗な廊下をランタンで照らしながら走る。月の裏側に存在しているというその施設の廊下は、万年を超える年月もの間存在し続けたと思えないほど綺麗で清潔な状態を保たれていた。その機械的な無機質さはかつて地上にて見たグラズヘイムのそれにも似ているといえるだろう。だがしかしこの施設から受ける印象は、地上に会ったあの施設から受けた印象とは決定的に異なっている。
――ここは決して人の立ち入りを想定して作られた場所ではない
この施設には明かりを取り入れるための窓がない。この施設には空気を循環させるための空気口がない。この施設は光も空気も、命を保つために必要な全ての要素がかけている。そう。この施設には命を感じる、外部との繋がりを感じられるすべてのものが排除されているのだ。仮にも人が立ち入るかもしれないことを考えて作られたというあのグラズヘイムという施設に対して、この施設は人の出入りが一切ないことを想定して作られているのだ。その陰湿さになんともぞっとする思いを抱く。その在り方は、かつて神がその土地より出てくることを禁じた『禁足地』と呼ばれる場所によく似ていた。
そう。そうだとも。これは禁足地だ。この施設は内部にいるものが決して外に出ないよう、内部にいるものが決して生命など感じないよう、この場に閉じ込められた彼女が外の世界や生命に対する憧れを思い出さぬようよう、計算されて作られた魔方陣だ。一切の飾り気がない廊下に求められているのは、ただ一つ。世界の安寧を保つために必要な桜という彼女をこの場に縛り付けるという機能だけ。だからこそこの廊下は、ただそれを実現するための魔方陣を刻むためだけに作られた、ただの廊下なのだ。この廊下はそれ故に、それ以外のすべての要素が排除されている。その目的を果たすため以外の全てのが、この廊下には存在していない。言うなればこの施設は、あらゆる生命を拒絶しているのだ。もし私たちという異物がこの場に到達していなかったのならば、この施設は今もなお地下墓地のように風もなく、光もなく、世界が終わるその時まで――、否、世界が終わったその後も、静寂さだけを保つ『桜』の墓標であり続けただろう。
――ここはまるであの剣の丘だ
『桜』。地球よりはるか離れた場所にある隔離施設。世界の全てに安定をもたらす、そんな目的のために作り上げられた施設にシステムとして組み込まれた女性。生前、私が通っていた学校の後輩。遠坂凛という女性の血の繋がった妹。――この事件の首謀者。
――だからこそ彼女は壊れたのだ
彼女は世界に住まう多くの人間のため、その犠牲として月に奉られたという。そして彼女は、機械という絶対者の庇護の下、壊れることも許されず、ただひたすらに人類を守る行為を強要させられ続け、果てには機械との一体化――融合を果たし、まるで機械のよう人の幸福を数の上で判断する思考を得るに至ってしまった。
――彼女はまるで私と一緒だ
その在り方はかつての私と良く似ている。私は霊長の守護者として世界にとらわれ、望まぬ世界の掃除をやらされ続けていた。繰り返される無限の作業の中で、人類には守るべき価値などないとそう思い、そうして見限ったはずの人類の愚かさの後始末を、延々と繰り返させられ続けてきた。それはまさに地獄の拷問と変わらぬものであり、そんな日々は徐々に私の精神を摩耗させてゆき――、果てに私は、自己の否定、すなわち過去の自らの愚かさを呪うに至り、過去の自らを殺したいと願うようにすらなった。
そしてやがて過去の己との対決により、自らの願いを貫くことの尊さを思い出した私は、凛の手によって救い出され、この未来世界へと送り込まれ――、
そして与えられた今生において、再び、過ちを繰り返しそうになった。
『エミヤ?』
「……ああ。間違いない」
思考の最中、ゴウトの声によって意識をこちらへと引き戻された私は、薄暗い廊下に視線を送りながら、宣言する。闇と清潔さばかりが支配している廊下の上、そんな生命の証がないはずの場所には今、しかし水滴の跡が残っていた。ランタンの光にわずかに反射して光を返すその小さな水たまりのことを、解析の魔術を行使するまでもなく『桜』――、『桜AI』のこぼした涙の跡であると理解できるのは――、メルトリリスやゴウトから桜の情報を聞いて彼女の事情を詳しく知れたということや、あの闇に満ちていた部屋から去る際に彼女が見せた怯えの表情のおかげなのだろう。
ーー怯え
そう、桜はおびえていた。世界を我が物として支配すると宣言したはずの彼女は、しかしまるで親に雷落とされる寸前の童女のようにおびえた表情を見せていた。その顔を思い出した瞬間、脳裏によぎったのは、かつての我が家の日本家屋の縁側、月下にて繰り広げられた光景だった。
*
『任せろって爺さんの夢は…』
『あぁ……、安心した』
そう言って爺さんは――、衛宮切嗣は死んでいった。養父である彼がその死に際に見せたその柔らかい顔を今でも覚えている。それはあらゆる記憶が摩耗した自分の記憶の中においてしかしいまだに鮮やかさを保っている、決して忘れえないエミヤシロウという男の原点となる記憶だ。それはすなわち正義の味方を目指す男が生まれた瞬間でもある。彼のあの笑顔が私をこの道へと――、正義の味方への道へといざなった。あの無言の肯定があったからこそ、私はその道を歩み続けることが出来たのだ。あの時、衛宮切嗣という養父が私のことを笑って肯定してくれたからこそ――、紆余曲折こそあったものの、私は未だに正義の味方を目指すという道を歩み続けることが出来ている。
だが今、ふと思う。もし。もしも、だ。もしもあの時、あの場所において、衛宮切嗣が私の言葉に対して少しでも顔を曇らせていたら、私は今頃どうなっていただろうか。もしあの時、切嗣が不満げな顔を浮かべ、『そんなものを目指すものじゃあない』と眉を吊り上げて私に忠告していたら、それでも私はこの道を歩んでいただろうか。
――わからない
我ながら頑固なところのあった私はそれでもと意気地を張って正義の味方を目指していたかもしれない。しかし仮にそのようなことになっていたとしたら、私はこのような未来世界に来る前、それこそ生前のうちに、きっと心折れて正義の味方の道を諦めていた可能性の方が高かったのではないかと思う。
衛宮切嗣。第四次聖杯戦争において生み出された煉獄から、私を救い出した男。戦争で家族も友人も彼らと過ごした記憶も、過去のすべてを失った私を引き取り、育て上げた、私にとっての命の恩人。私にとってかけがえのない人。彼が私の選択を笑って認めてくれたからこそ、私はそんな子供のころの空想に過ぎないものを抱え続け、正義の味方を――、私にとってそうであった衛宮切嗣を目指して、生涯を貫いた。そうだとも。私は正義の味方になりたかったのではない。私は私を救い上げてくれた、私にとっての正義の味方である衛宮切嗣のようになりたかったのだ。
衛宮切嗣の願い。誰もが幸福であって欲しいという願い。平和な世界。言峰綺礼という男はそれを呪いと言った。誰もが幸福である世界などない。誰かの幸福と誰かの不幸は等価交換だ。誰かがどこかで幸福になるということは、誰かがどこかで不幸になるということに等しい。そんなことはわかっている。そんなことは生涯、現実において痛いほどに思い知らされた。幻想は幻想であるからこそ美しい。現実に存在しえないからこそ、人はそれに憧れるのだ。
そうとも、誰もが幸福になる世界なんてものはない。だからせめて、不幸は自分が背負おうと思った。可能な限りの世界に存在している不幸を自分が背負いこめば、その分世界のどこかで誰かが幸福になる。そう思ったからだ。等価交換の法則にしたがえばそれは間違いなくそうなるはずで、それは間違いなく正しい理屈に違いなかった。そうともそれは間違いなく正しい理屈で、自分が不幸になった分だけ世界のどこかで誰かが幸福になっているはずで、それが自分の信じる正義の味方/衛宮切嗣の願いに最も近しいのは確実で、誰かが自分が背負い込む不幸の存在すらも知らずに幸福を享受している姿は間違いなく美しいものであって、自分が世界の平和に貢献しているのは間違いないはずなのに――
――そうして私が不幸を背負い込んだ分誰かが幸福になっているはずの世界には、ちっとも平和なんてものは訪れてくれなかった
だから見誤った。だから間違った願いにたどり着いた。だからかつて衛宮切嗣がたどり着いた、そして彼が私のために諦めた願いへとたどり着いてしまった。
――世界の全ての人に幸福の状態にする
そして私は、先程『桜』が語った願いにたどり着いた。彼女はまさしく私の関係者だった。それはかつて衛宮切嗣が聖杯と呼ばれる万能の願望器の力をもってしてそれを成し遂げようとした願いであり、かつてエミヤシロウが、泥の力を利用して成し遂げようとした願いでもあり、そして親子二代にわたってたどり着いたそんな過ちの結論を打ち砕いたのは――、悪の容認者を自任する破戒神父だった。
「貴様も、未だに人間を個人として見ず、数の上でしか見ていない類の人種、という事か」
そうだ。私たちは結局、人間個人を見ずに、数だけを見て、誰かの幸福を――私たちの目指す幸福とすり替えて定義していた。私たちは私たちの信じる正義を誰かに押し付けるばかりで、誰かの正義を悪と定義して、自分の願いに共感しないすべての人間を、人間でないとして切り捨てていた。私は結局他人を人として見ていなかった。私は結局自分の事だけを愛していた。私はきっと、他人のことなど愛していなかった。私は結局、私と私の原点である衛宮切嗣以外のすべてを拒絶していた。だから私は、それを不自然だと思う私の感情と本能を切り捨てた。だから私は、私以外の多くの存在から理解されなかった。
だが今は違う。私は自らの過ちに気が付いた。私は自らの過ちに気づかされた。私は私が最も相容れぬ存在として定めていた、悪を容認する――、つまりは自分以外の誰かの正義を許容してみせる男の手によって、ナルシシズムという名前の呪いから解放されたのだ。
私は私以外の誰かの手によって救われた。私は再び誤った道を歩む寸前、敵対していた別の誰かの手によって救われた。この残酷さばかりが目立ってみえる世界は、きっとそんな優しい思いやりにも溢れている。私はそんな、この世界に溢れている、簡単には見えることの出来ない優しさによって、再び救われた。だからこそ思う。
――果たして、あの『桜』という彼女は、本当に私が正義の味方として打倒すべき悪であるのだろうか?
*
「……ここだ」
そしてその場所にたどり着く。目の前にある扉はどこまでも無機質に廊下と一体化していて、取手すらも見当たらない。もしもこの扉の前に水滴が落ちていなかったのならば、もしも私に解析の魔術というものを習得していなかったのならば、もしも私が彼らとの合流によって他人のことを気にかける余裕というものを取り戻していなかったのならば、私たちはこの扉の存在に気づくことなく、通り過ぎていたことだろう。
『ならば、この扉の先に――』
「ああ。――きっと、『桜』の本体があるはずだ」
ごくり、と誰かが固唾をのむ音が聞こえてきた。緊張感によってだろう、あたりの空気は重くなってゆく。だから私は彼らの緊張がほどけるのを待ち――
――解析開始/トレース・オン
やがて皆の緊張感が程よく薄れたのを確認した瞬間、壁に手を当て、扉に対して解析の魔術をかける。解析の結果、上に開く形式の扉の電子錠は当然閉じられていることを理解する。だから続けざまに魔術を行使して双剣「干将・莫邪」を投影すると、さらに自らの体へと強化の魔術をかけ、壁から身を引いて、扉を蹴り飛ばすために足を上げた。複数の合金によって鋳造され、数多の防護魔術がかけられえた扉は相当頑丈だろうが、それでも英霊である私の全力の蹴りに耐えられるほどの頑強さは持っていないことは解析の結果から理解できている。そして振り上げた足にて全力の蹴りを扉へと叩きつけようとしたその瞬間――
「おいおい、やめろよ、野蛮だな。ノックすりゃ開けてやろうと思ってたのに、なんて奴だ。その何でもかんでも暴力で解決しようとする思考、とても文明人のものとは思えないぜ、まったく」
固く閉じられていた扉はあっさりと開かれた。その場にいる誰もが驚いた顔を浮かべ、顔を見合わせる。驚きは固く閉じられていた扉が自分たちでも『桜』でもない誰かの手によって開かれたという事態と、そんな扉を開いた誰かがこの先には存在しているのだという事実から生みだされていた。
「おい、なんだよ。お望み通り開けてやったんだから、さっさと入って来いよ。まったく、なんて空気の読めない奴らなんだ」
そうして声の主はこちらを馬鹿にした口調で述べると、「は、ま、気持ちはわからないでもないけどね」、と一言付け加えたのち、言う。
「僕だってこうしてここいるのが想定外だったんだ。お前らがそうであるのも無理はない。なぁ、お前もそう思わないか? ――なぁ、衛宮」
「――」
そうして聞こえてきた言葉に息を呑んで目を見張り、のけぞった。
『あ、おい、エミヤ!』
制止を振り切って、慌てて部屋の中へと足を踏み入れる。だが踏み入れた先にあるのは闇ばかりで、声の主人の顔どころか、その居場所すらもわからない。慌てて右手に握った剣をランタンに持ちかえて前に差し出すと、薄橙色の光が前方を照らしていった。光はそして部屋の内部の構造を徐々に露わにしてゆく。そうしてわずかに見えるようになった床と壁面には、多数の魔術紋様刻まれていた。それはやがて高い天井にまで続き、四角い――立方体の小部屋の全てを埋め尽くしている。それらの魔術文様は、外部の攻撃から内部のものを守るためではなく、内部にいるものが決して外に出ないようにとの思想のもとに描かれており、まさに牢獄の檻とでもいうに相応しい存在だった。無機質な部屋にそうして刻まれている魔術紋様はしかし、何とも違和感なく部屋の雰囲気に溶け込んでいる。それはおそらく魔術という存在が元々闇、すなわち世界の裏側に属する類のものだからだろう。ここは旧人類が新人類に決して見つからぬよう願って月の裏側に秘して作り上げた施設の中。裏に属する存在中でもその最奥に位置する、月の裏のさらに裏側だ。そしてそんな決して人目に見つからぬようにと隠された小部屋の中央にーー
「よぉ、久しぶりだな、衛宮」
「……まさか」
その男はいた。やがて入口より伸びて中央へと到達した光は、こちらが予想した通りの、しかしあまりに予想外な顔を照らしあげてゆく。天然パーマのかかった髪が見えた。街中を歩けば少なくとも二、三人の女性が振り向くだろう垂れ目気味の顔が目に写る。腕を組み、いかにも相手を見下すようなその態度には、しかしあまり悪気が無いこともかつて彼と友人だった私だからこそ知る事実だ。やがて驚きは現実への不信へと変化し、私の口は目の前のこれが現実かどうかを確かめるためにだろう彼の名前を呟いた。
「間桐、慎二……」
間桐慎二。それは私たちが追いかけていた桜の義理の兄にして、かつて私の同級生であった存在の名前だ。
「なんだよ、他人行儀でムカつくな。いつもみたいに慎二って呼べよ。僕とお前の仲だろう?」
はるか昔、おそらくは万年よりも以前に命尽きていなければおかしいはずのその男はしかし、人懐っこそうな笑顔を浮かべながら、昔と変わらないベージュ色の穂群原学園制服を着崩し着用した姿で、何とも親し気に話しかけてくる。その人によっては多少わざとらしく感じるかもしれない人懐っこい感じの態度はまさしく私の記憶の中にある間桐慎二のそれと完全に同一だった。余りにも予想外の事態を目の前にして、復活しつつあったはずの余裕が再び失せてゆく。視界は狭まり、意識は自然と目の前の男の一挙手一投足に集中させられゆく。
『知り合いか?』
「……あぁ、その通りだ。だが、彼は、私の生前の知り合いなのだ」
ゴウトの言葉に対して半ば無意識気味に応答すると、慎二の方へと向けて、歩を進める。
「どうして、お前がここに……」
顔を向けて問いかけると慎二はニィ、と厭味ったらしく唇をゆがめ、わざとらしい笑い声をあげたのち、揺らしていた体を落ち着かせてから、鷹揚な態度で口を開いた。
「なんで、ってそりゃ、お前、決まっているじゃないか」
言いながら慎二は指を鳴らした。パチン、と高鳴る音に合わせて地面より光が生まれ、闇に包まれた地面の一部が切り取られてゆく。そしてーー
「あれは――」
まるでスポットライトが当たったかのようにな状態となった地面の上に――
「桜! それにメルトリリスも!」
つい先ほど私たちの前から失せたはずの二人の姿を見つけて、思わず叫び声が出る。途端、部屋の中に入ってきていた存在の全ての視線がそこへと向けられた。地面に敷かれた光の中では、桜とメルトリリスがまるで眠り姫のように目を瞑り、手を組んで横たわっている。
「お前らが僕の妹をいじめたからさ。だから桜は自分の絶対の味方となってくれる存在を望み、そして桜の過去の記憶とその辺にいくらでも散らばっている人間の魂を撚り合わせて、僕が生み出された、ってわけさ。ま、いってみれば、衛宮。今の僕はお前の投影魔術で生み出されたような贋作……、というよりも、フランケンシュタインの怪物みたいなものだよ」
慎二はそんな言葉を放つと同時、腕を横にふるった。すると天井と側壁から無数の青と赤の直線の光が伸びてくる。そうして入り口付近にたむろしている誰かに反応する暇も与えることなく伸びた光は、部屋の端から順々に交差して格子を作ってゆき、やがて部屋の中央付近にまで進んでくると反対側から同じようにして伸びてきた光と合流し、幾重にも組み合わさって格子状の光壁を作り上げてゆく。
「これは――」
「ちょっとした隔壁さ。少なくともお前らがさっき戦ったあのデカブツの攻撃や、そこの脳筋女が放ったあの光の攻撃だって防いでみせるくらいには頑丈ではあるけどね」
言いながら慎二はこちらを見下すような視線を送ってくる。視線は「信じられないならば試してみるといい。絶対に敗れっこないからさ」という自信が感じ取れる挑発じみたものだった。それを見たペルセフォネは血の気が多いのか、挑発に応じるかのように眉を潜めて不快そうな顔を浮かべると、そのまま聖剣に魔力を込めて振りかぶろうとしたが――
「おっと、だからといって試すのは止した方がいい。なにせ、万が一この隔壁がぶっ壊れたとき、困るのは僕よりもお前らなんだぜ? 何せ僕の後ろには――」
直後、慎二の述べた言葉と共に彼の後ろへと現れた存在を目にして、その所作を止めた。
「お前たちにとって壊れちゃ困るだろうものが置いてあるんだからね」
『そ、それはまさか………!』
慎二の後ろに現れたのは円形の筒であり、その透明の筒の中はかすかに緑がかった液体で満ちている。そしてーー
「そうさ。これがお前らの望んでいるもの――、お前らの旅の終着点にして、世界の安寧を保つシステムのコアの一部でもある――、桜の脳みそと魔術回路の一セットさ」
その液体の中には、脊髄といくつかの神経や臓器、魔術回路の引っ付いた脳みそが浮かんでいた。ホルマリンにでもつけられたかのような状態のその桜の脳みそは何とも無邪気で、無機質で、無防備で――
「ま、まずは僕の話を聞いてくれよ。終末が訪れるその時まで、まだまだ時間は―ー、たっぷり一日くらいは残されている」
「一日……?」
「ああ。世界中の神話が示すように、世界は滅ぶにしろ、生まれるにしろ、必ず三日かかるんだ。三日月ってわけさ。例えばイナンナが死んでから復活するのは三日三晩だし、ホルスの目をトトが治したのも三日だ。インドのヴェーダは古く死んだ月は子宮に入ったのち三日で生まれると語っているし、ダンテが地獄門から天国へと辿り着いたのも、クーフーリンがぶっ倒れた時、異界の父親が見守る最中眠ったのも、三日三晩だ。ヴィーグリーズの土地が完成して、お前ら――、あの金ぴかとそこにいる死にぞこないが戦争をはじめ、終末の時計の針を進めたその時から、今はまだ一日半くらいしか経過していないから――、まぁ、そんくらいは残されているはずだ。――ほら、余裕なんていくらでもあるじゃないか。とにかくまずは剣をおろして僕の話を聞けって。そしたら――、お前らにこの脳みそと繋がっている先の機械の所有権をくれてやってもいいからさ」
とてもではないが、慎二のそんな平和的な提案を蹴ろうとは思わせないだけの儚く弱弱しい見た目をしていた。
*
小部屋の内部の天井と床、左右の壁面から伸びてくる赤と青の光の格子や、桜とメルトリリスを包み込む光のおかげで、部屋の中央付近に至るまでの光源はすでにランタンなしでも十分なくらいの明るさが保たれている。故にランタンの炎を落とし、皆と共に中央付近にある格子状の壁面の方へと歩を進めると、やがて壁を挟んですぐそこに慎二と桜と彼女の脳みそが見えてとれる位置にまでたどり着いた途端――
「話とはなんだ、慎二」
無遠慮に話を切り出す。多分は自らの忠告通り私が彼を呼び捨てで呼んだことが慎二の機嫌をよくしたのだろうか、はたまた過去の私がやるような態度で自分に接してきたことが懐かしかったのか、慎二は腕を組みつつ唇の端を吊り上げると、いつも以上に皮肉たっぷりの顔を浮かべ、眉尻を緩めると、その口を開いた。
「そうだな。いくつか話してやりたいことはいくつかあるけど―ー、じゃあまずは、『お前らがやろうとしている方法じゃ、いつまでたっても同じことを繰り返すだけになる』って辺りはどうだ?」
「……なに?」
眉をひそめて問い返すと、慎二は意地悪く口を歪めた。
「お前らは、桜のこの脳みそを破棄して、そこへ代わりにマイクとかいうロボットを突っ込んで、そいつに桜の代わりに世界の管理をさせようって計画しているんだろう?」
いずこよりその情報を得たのか、慎二は自信満々に述べてくる。
「――そうだ」
知っているのならば隠しておく意味がない。はじめこそ多少躊躇しながらも、しかしはっきりと肯定の言葉を返すと、それを聞いた慎二は腹を抱えてひとしきり笑った後に言う。
「なるほど。うん、まぁ、確かに上手くいくかもしれないだろうよ。確かにあちらの事情やこちらの事情、つまりは複合的な事態が一挙に重なったが故に起きたこの事態とはいえ、決定打になったのは、桜の――、この桜の脳みその暴走だ。とち狂って暴走したこいつがやがてすべての人間を安寧と幸福に導こうなんて考えに思い至り、世界中からましな方の魂を根こそぎ吸い上げちまってったからこそ、くそったれの魂ばかりが存在するようになった世界はそいつらの抱える淀みによって一気に汚染されて――、神話の再現なんてふざけた事態に陥ったんだ。そしてまたお察しの通り、この桜の脳みそが繋がれている機械には、人の魂を奪い、月のこの場所に格納するという機能を――、つまり、魂の運用という魔法の領域に達した出来事を可能とするほどの機能を保有している。桜の脳みそに接続されている機械が桜が行為に制限をかけているからこそ、桜にはこの機械が可能としている魂の運用の完全実行は不可能だけれど――、もしその制限を受けていない外部たるの存在であるマイクとやらが自分をこの機械につないで、機械に対してハッキングを行い、それに成功することが出来るってんなら、今ここにこうして集いつつある魂を元の通りに分解し、元の場所に戻し、んでもって体を失っちまっている奴らの魂はシンとか言うやつにやったみたいにアンドロとかいう機械の体に封じ込めてやることで――、それこそ完全に元の通りとはいかないだろうけれど、世界の終末は回避されるだろう。――けど、その行為に一体、何の意味があるってんだ?」
「……なんだと?」
「だってよく考えてみろよ。確かに世界は一時的に元通りになるかもしれないさ。しかる後にグラズヘイムだの天空都市だの海底都市だの秘匿されていた技術を使えば、蠱毒の術式で失われた肉体だって再生できるかもしれない。なるほどそうすりゃ、一見して世界は元の通りに戻るだろう。――でも、そうやって超技術を利用して愚図どもを元通りに戻したとしたところで、いったい何が変わるってんのさ? そりゃ確かに今回の出来事は桜が世界の崩壊の針を進めたからこそ起きた出来事かもしれないけれど、それに加えて地上にそいつらみたいな、他人頼りで、うじうじと小さな嫉妬と羨望を抱き続けて、文句は立派に言うくせに自分では何もしない下種の極みみたいな精神性の奴ばっかりになっちまったからこそ起きた出来事でもあるんだぜ?」
「……」
「今、あの泥の中に残っているのは、ほとんどが居心地のぬるま湯から抜け出そうとしない、そして湯が水になるまで、湯の中に居続ける、そんな連中ばっかりなんだ。ヘイムダルとかいうそこのおっさんの呼びかけに応じて戦おうなんて思ったのなんか、一部も一部さ。地球上にいるほとんどの奴らは、あの黒い子宮の中で才能ある体への生まれ変わりを願いながら安寧の眠りにつくことだけを望んでいる。そんな奴らが抱える閉塞感がやがて誰かこんな現状を打破してくれという他力本願の祈りに代わり、だからこそ神なんて言う人の願いを叶えるとされる存在が召喚されて、奴らの中の一部が火星へと連れてかれる事態なんてものが発生したんだ。――なぁ、そうだろう? そこの元信者のおっさん」
「……」
慎二に話しかけられたヘイムダル――、ペガサスの手綱を引くヘイは、バツが悪そうに視線をそらした。彼は慎二の言う通り、冒険者としての活躍が望めない日々の生活において発生する鬱屈を捨てきれず、さりとて冒険者として活躍するということを叶える力が自らにないと理解してしまっていたからこそ、その力を与えてくれるといった神、YHVHの提案に乗ってしまったのだ。すなわちヘイは慎二の言う通り、自らの力で自らの願いを諦めてしまった側の人間なのだ。だからこそヘイは、慎二の辛辣な言葉に対して、反論の言葉を何も返せないのだろう。
「人間、決心したからといって、自分の気質を理解したからといって、早々に簡単に根っこの部分から変われるもんじゃあない。基本的にクズはどう足掻こうとクズだし、小物は所詮死んでも、小物なのさ。なにせこの僕自身がそうだったんだからね。だからこそそんな小人どもの気持ちはよくわかるしーー、たとえお前らのやり方で世界を復活させたところで、そうして元に戻した世界がそんなクズみたいなのばっかり蔓延しているってんじゃあ、またすぐ同じことの繰り返しになるってことがわかるのさ」
そんなヘイの様を見た慎二はそれを鼻で笑って見せると、さらに自嘲の言葉を乗せて言い切った。
「つまり、慎二。お前はこういいたいわけか。『彼らの脆弱な精神性をどうにかして、彼らの自身の心の内側から克己心みたいなものを生み出せる状態にもっていかなければ、世界を元の通りに戻しても、彼らの精神の脆弱さゆえにすぐにまた世界が崩壊する事態に陥る』、と」
慎二のこれまでの言動から彼の話の内容をまとめてみせると、彼は一瞬だけ目を見張って驚いて見せ、しかしすぐさまニヤリと笑って見せると、目の前にある青と赤の光によって作られた格子の壁をバンバンと叩きながら言う。
「おっと、流石は衛宮。英霊にまで至った奴の理解力は伊達じゃないなぁ。まったく、話が早くて助かるよ」
「……そいつはどうも」
「ほんと、お前ってば嫌みなくらい優秀な奴だよねぇ。魔術は固有結界なんていう魔術師の奥義みたいなものを持っていて、死に至るほどの努力も鍛錬もやって当たり前だろうとか平然と言いのける上に、死にそうになるどころか死んだとしても己の信念を曲げないんだから、ほんと、大した才能と図太い丈夫な神経してるよ、お前」
「……」
続く挑発じみた言葉には反応してやらない。口を閉じて、その目を見つめ、次の言葉を待っていると、慎二はつまらなそうに、フン、と鼻息を一つ漏らした後、その言葉を口にした。
「ま、そしてそんなお前みたいな立派な精神性をしていて、何でもこなせるような才能を持ち、個人の力で世界を救っちまう奴がいるからこそ、あいつらはいつまでたっても自分の力で何かを成し遂げようとしないようになって――、世界は滅びへと進んでいってしまったんだけどさ」
「――なんだと?」
だがしかし、続くその言葉を聞き逃すということは、出来なかった。
「私が……、滅びの原因だと……?」
「直接的にはそうじゃないけど――、ああいや、やっぱり直接的にもなるのかそうか。お前がこの世界に現れちまったからこそ、この世界は崩壊に向けての序曲を奏で始めちまったんだからな。ならこの世界がこうなっちまったその一因はお前にも十分あるってことになる」
「……どういうことだ」
慎二はフン、とつまらなそうに鼻息を一つ立てると、教えてやるもんかと言わんばかりに顔をそらし、腕を組みながら言葉を続ける。
「桜は機械の指示に従って、自分で何かをしようって気概のあるやつや、世界を崩壊へと導きそうな野望と実力を持っている、つまりは克己心と気概に溢れている才人を、この世界から排除していった。つまりこの世界は桜の作り出した箱庭で、この世界に生きる人間は基本的に大多数が桜の意にそぐうやつか、あいつと似たような性格のやつしか存在していない。世界で自分と関わる人間が同種同質の存在同士ばかり、自分の理解の範疇に収まる行動しかしない奴ばかりであれば、まず自分は傷つかなくてもいいからな。――いってみれば奴らは桜の分身みたいなものなんだ。そして選別によってそんな奴ばかりが多く生まれるようになった結果――、この世界にはかつての桜みたいに実力や気力がない奴ばかりが蔓延した。加えてまた、霊脈に潜んで人の悪意を喰らい成長する魔のモノとかいう生物が、悪意をまき散らすような奴とか、自分の願いのために他人を平気で傷つけるようなぼくちのクソ爺みたいな奴から日々生まれる強い負の感情を奪い取ってゆき、世界に住むやつらは平和ボケの性質を獲得していった」
「……桜のやったことは確かに良くないことだろうが、……誰かを平気で傷つけるような人種が失せたことはよいことではないかね?」
「……はぁ?」
途切れ途切れながら不意に思ったことをのべると、慎二は心底こちらを見下す視線を向けながら、強い言葉をぶつけてくる。
「お前、マジでそんなこと言ってんの? 強い嫉妬とか羨望、悪心みたいなのは、人を一番動かす原動力だろう? お前だって、正義の味方ってやつに強く憧れて、それを抱き続けたからこそ、今のお前みたいになれたんだろう? ――なによりさ。どんな醜い感情であれ、誰かの脳みそからそうした感情を勝手に奪うなんて言う、そんな洗脳じみた事がいいことであるわけないだろう? お前、それはいけないことだって言って、さっき桜の願いを否定したんだろう? そのお前が何寝ぼけたこといってんのさ。お前、なに当たり前のようにダブルスタンダードな事言ってんのさ。――衛宮。お前、ほんとに、馬鹿じゃないの?」
「……!」
慎二の指摘はぐさりと胸に突き刺さり、まるで言葉が出なくなる。この期に及んで私は未だに、完全なる平和、誰もが平等の幸福を得られる世界などという願いの呪縛から逃れられてはいないらしい。
「ああ、もう、やっぱり衛宮は衛宮だったな。まったく、少しはまともになったかと思っていたけれど、似非ニューマニストの偽善者気質なのは昔と全く変わらない。褒めて損したよ、ほんとに」
慎二は私を見て失望した、とばかりの表情をその顔面に浮かべると、両手を首の横へと持ってきて、首と共に左右へと振る。
『それで、お主は儂らに何を望むというのだ』
そうして慎二の指摘に返しの言葉失ってまごついていた私の代わりに、ゴウトが慎二へと言葉を投げかけた。
「うん?」
『お主は儂らに何かをさせたいからこそ――、何かをさせた結果、世界を救える方法を知っているからこそ、今儂らに己らのやろうとしている行為の無駄を悟らせたのだろう?』
「……へぇ。どうしてそう思ったんだ?」
ゴウトの質問を聞いて、慎二は唇の片方だけを吊り上げながら問い返す。
『なに、簡単な話だ。儂が見たところ、お主は小悪党かもしれんが、悪人ではない。お主は賢しい人間であり、自らの利にならぬことはやらぬ人間だ。だがお主はまた、誰か――、自分が気に入った誰かに害が及びそうになった時には、嫌味交じりにながらも助けようとする、ある意味でとても人間らしい人間でもある』
「……その根拠は?」
『お主が先ほど自身で述べ、今もそのために行動して見せているではないか。「お前らが僕の妹をいじめたからさ」、とな』
「……は!」
慎二は目を見開いて一つ域を大きく吐くと、両掌をやけに強く叩き合わせ、ゴウトへと大きな拍手を送った。
「いや、人間の姿形をしてないから侮ったよ。悪かったね、ゴウトとかいうの』
『ふん……』
「……そう、その通りさ。僕は別に世界がどうなろうが知ったこっちゃない。ないけど―ー、そのせいで僕のお気に入りが――、僕の家族が――、桜が死んじまうってのは、どうも気に食わない。そしてまた、今の僕が思いつく桜を救う案の中で、最もあいつを救える確率が高い手段を実行するためにはお前の――、お前らの力が必要だ。だから――、だから、非常に気に食わないけど――、桜を救うため、僕はお前らに世界を救う方法を教えてやるしかないと、そう思ったのさ」
*
『それで、慎二とやら。儂らは何をすればいい?』
「ふん……」
言うと慎二は、再びパチンと指を鳴らした後、その細い指をこちらへと伸ばしてきた。その指先は、私でもなく、ゴウトでもなく――
『これは……』
「僕がまず必要としているのは――、お前のパートナーである、悪魔召喚師、葛葉ライドウの能力だ」
葛葉ライドウという彼めがけて伸ばされている。
「――自分の?」
突如として話の焦点を当てられたライドウは、小首をかしげて応答した。
「お前、悪魔をその管とやらで制御できるんだよな?」
「――ええ、まぁ」
「そしてお前はその悪魔を使って、疑似的に悪魔の心の投影とも言える異界とやらを生み出すことが出来る」
「――ええ」
「んでもってさらに、お前らの悪魔召喚師――というよりもヤタガラスの持つ技術の中には、異界開きとかいう、悪魔の作り出した異界の中に――悪魔の心の生み出した結界の中に入り込める技術があるんだろ?」
「――……はい」
「僕が望むのはそれだ。お前、その能力使って、桜の心の中に、僕らを――、僕と衛宮を送り込め」
「――は?」
ライドウは珍しく眉を顰めると、意味が分からない、という風に首を傾げた。慎二は、ちっ、と大きく一つ舌打ちを漏らすと、苛立った様子で再び口を開く。
「だから、お前のその異界を作る能力と、異界開きの能力で、この僕と衛宮を桜の心の中に送り込め、って言ったんだ!」
ライドウは慎二からぶつけられる怒声をじっと受け止めると、少しばかり考えたのち、言う。
「――なぜ、そんなことを?」
すると慎二は再び大きく舌打ちをすると、「物わかりの悪い馬鹿め」と一言呟いたのち、大きくため息を吐きながら、言い始める。
「いいか? さっきも言った通り、今、この世界は桜の箱庭で、そこに生きてたやつらは桜の分身みたいなものなんだ」
「――ええ」
「そして桜の魂はこの脳髄を通して――、この魂の運営を可能とする機械と繋がっている」
「――はい」
「でもって、魂を運営する機械は、その先にある本来なら操作対象である魂の怨念の逆流によって不名誉なことに操られ、奴らの『世界が、自分たちにとって幸福な世界に生まれかわりますように』というクソ下らない願いをかなえるために、暴走し続けている」
「――」
「本来なら有象無象の魂が暴走しようがこんな事態は起こらないんだが――、今、事実としてそんな事態が起きちまってるのは、女神と化している桜がそんな自分の分身であるみたいな奴らの願いに無意識のうちにひどく共感しちまっているからだ。つまり、奴らの願いに共感した桜がそんな奴らの魂を月へと集め、それが機械のキャパを超えるほど馬鹿みたいにデカくなりすぎちまっているから、機械は制御不能の事態に陥って暴走し、世界のやり直しなんていう事態が発生しかけている。世界のやり直しなんて出来事、本来ならどうあがいても無理な出来事なんだが、今回は積み重なってきた神話概念による強化と、魂の疑似合体という事態が重なり、それを可能としてしまったんだ」
「――それが、桜の――桜さんの魂に対して異界開きを行うこととどんな関係が……」
『いや、儂には読めたぞ、ライドウ』
相変わらず首を傾げるライドウにゴウトは声をかける。
「――ゴウト?」
『つまりこやつは、そんな桜の心の中に入り込み、桜を改心させることで、奴らと共感を――、繋がりを断ち、しかるに機械の暴走を止め、後に機械を正常に操ってやることで、この事態の収拾を図れるはずだといっているのだ』
「その通り。なんだよ。お前、本当に見た目にあわず、この中で一番物わかりがいいな。気に入ったぞ」
『見た目に関しては余計なお世話だ』
「とにかく、だ」
ゴウトが機嫌を損ねたよう言い返すも、慎二はその抗議の言葉をまるで気にする様子を見せることもなく、続く言葉を述べる。
「そういうわけで、ライドウとかいうの」
「――」
「僕の妹を救うために、まずはお前の力を僕に貸せ。そうすれば自動的に――、お前らの世界を救うとかいう目的も達成されるだろうよ」
ヘルマン・コーエンが指摘しているように、人は異邦人の中に人間を発見する。異邦人への愛では、ナルシシスティックな愛は消滅する。なぜならそれは自分に似ているからではなく、自分とは異なる独自の存在としてその人を愛するということになるからだ。新約聖書の「汝の敵を愛せ」は、同じことをより的確な形で表現している。その異邦人が汝にとって、まったく別個の独立した存在になれば、もはや敵はいない。汝が真の人間になったからだ。異邦人と敵を愛し、ナルシシズムを克服することは、「我は汝」になって初めて形になるのである。
erich fromm, -The Heart of Man: Its genius or Good and Evil-
エーリッヒ・フロム ―悪についてー より