Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
『子供の心に寄り添う営み』より
薄暗がりの中では赤青の光が緩やかな速度で交互に点滅している。音の字面だけで見れば人に不快な思いを抱かせるかもしれない光の点滅はしかし、人の目に影響与えないよう考慮されているため決して見る者の不快感を誘うことはなく、静寂の中に響く微かな電子の音は緩やかに混ざり合って聞く者の心地を落ち着いたもの導く音階に調整されていた。自然に存在しえない合成の業をして作られたそれらの光と音は、この場所が自然によってではなく、人の手によって造られた場所である何よりの証拠と言えるだろう。
「マイク。状況は?」
そんな人の手によって生み出された巨大な施設――、グラズヘイムという世界の平和を管理するために作り出された施設の中、私は目の前にある巨大なディスプレイを見上げながら、施設の管理者――統括コンピューターであるマイクへと話しかけた。
「順調です。現在、予定よりも早いペースでエトリアの人々を収容できています」
ディスプレイ上の画面には世界樹の大地の上に張り巡らされた磁軸を利用してエトリアから運ばれてきた人々が所狭しと映し出されている。彼らはシギ―含む数十人の冒険者たちの手によって磁軸を利用してピストン輸送されてきているのだ。彼らは磁軸という多少使用に制限はあるものの、離れた場所と離れた場所の移動を可能とする便利な移動手段を利用して、エトリアからこのグラズヘイムの土地に避難してきている真っ最中なのだ。
「そう……」
そうしてグラズヘイムへとやってきた彼らは、次々とグラズヘイムという施設内に存在している上層階層付近の無事な空いた部屋へと送り込まれてゆく姿を眺めながら、ため息を吐く。自らの口からこぼれたそれは果たしていかなる意味をもってして吐き出されたものなのかは、自分ですらも把握できていない。
「リッキィ……」
マイクが私――フレドリカ・アーヴィングの愛称を慰めるような声色で呼ぶ。その声色は数日前の彼だったならば出せないだろうような何とも優しく、思いやりに満ちていた。
「ん……、ありがとう、マイク」
彼という機械の体と頭、そして魂を持つ存在がそのような人間のことを慮れる存在に変わってくれたことを喜びつつ、しかし抑えきれぬ不安を隠すことも出来ないままに応答する。不安に背を押されるようにして見上げれば、視線は巨大ディスプレイの端へと向けられていた。そうして向けた視線の先には、グラズヘイムという場所と同じく、旧人類の手によって生み出された施設のカメラからの映像が映し出されている。多分はこちらを気遣ってだろう、ディスプレイの端に目立たぬようまとめられた画面タブの群れには、蠱毒の術式とやらによって生みだされたという毒々しい色合いをした紫色の毒が、世界樹の大地を徐々に融解させてゆく姿が映し出されていた。
「マイク」
「……了解です、リッキィ」
名前を呼ぶとこちらの意図を察知したマイクは、端の方へと寄せられていた画面の群れをディスプレイの中央へと配置し、拡大して映し出す。そうして巨大化し補正をかけられて鮮明さをも取り戻した画面群には、旧人類によって生み出された万年近くにもわたって人類を守護していた世界樹の大地が時を経過するごとに失われてゆくという、目を覆いたくなるような光景がありありと広がっている。
「……マイク。あとどのくらい持つと思う?」
「少々お待ちください」
尋ねるとそれまで中央に位置していた画面群は四隅へと追いやられ、ディスプレイの中央には円の形にデフォルメ化された二枚の地球の表裏図が現れた。表裏図には、かつての自分が若いころ見飽きたと思うほどに見たことのある、アメリカ大陸やユーラシア、アフリカ大陸などが記載されたそれでは、エトリア、ハイ・ラガードといった世界樹の大地造成後に生まれた都市名や村落名が世界樹の大地の地形に沿ってこまごまと記載されている。地図の上にある多分は大地や海の色なのだろう色は、だがしかし――
「あ……」
地図の上に記載されている都市、村落名ごと、次々と赤い色に染まってゆく。そして地上が欠落しつつある証である赤色の進行が止まったのは、地図の領域の実に30パーセントほどが染めあげられた直後だった。
「――計算が終了しました」
「そう。――それで?」
「現在、世界樹の大地にもとより存在していた大地の崩落部分を除外いたしますと、大地の50パーセント程度が融解し、あの泥の中に飲み込まれてしまったという結果が出ています。そこから逆算しますに――」
そしてマイクは息を呑むかのように一旦、言葉を区切ると――
「あと一日半もしないうちに、地球表面上に存在しています世界樹上の大地の全ては、泥の中に没することとなるでしょう」
冷静にその言葉を紡いだ。
「そう……、ありがとう、マイク」
「いえ……」
マイクはそれ以降言葉を発しようとはしなかった。沈黙は命令がなかったからではなく、気遣いの配慮の証なのだろう。そんな彼の成長のあかしに対して場違いな喜びを覚えつつも、ディスプレイを眺めてはため息をつく。眺める間にもディスプレイの赤色領域は徐々に広がってゆく。その進行速度はディスプレイ上に映し出されている地図の縮尺の影響故にのろのろとしたものであったが、例えばこれを地域ごとの領域図、あるいは市町村レベルの地図へと変換したのならば、相当の速さで赤く染まってゆくことだろう。世界はまさに今、滅びつつある。それもこれまでに人類が経験したことないほど、かつてないほどの速度で。
「――はぁ……」
一日半。マイクが多分私のことを気遣って正確な時間を述べなかったのだろうことから察するに、残された時間はそれよりも少ないのだろう。おそらく世界が滅びるまでの時間はもう三十六時間も残されていないのだ。こうしてため息一つ漏らす間にも、世界樹の大地はかつて地表と呼ばれてた場所に近い部分――すなわち、かつての海抜より低い部分より融解し、瓦解し、泥へと変換され続けている。泥へと変換された世界樹の大地はそして、地下の隙間――世界樹の迷宮第五相付近に存在している空間を通り、まるで地下水のようにハイ・ラガード付近に存在しているギンヌンガの大穴へと移動していっているのだ。
「ギンヌンガ。北欧神話にある、世界を生み出した大穴、か」
ギンヌンガ。世界樹の大地を踏みしめた旧時代の人間が何を思ってその名をその場所につけたのかはわからない。あるいは単純に、地表に開いたかつての大地を臨めるその大穴を見て、皮肉たっぷりの茶目っ気を発揮してそんな名前にしたのかもしれないけれど、まさかそんな名前を付けた大穴から、本当に世界の始まりだの終わりだのと関連した出来事が始まるなどとは――
「ほんとうに、何とも笑えない皮肉になっちゃったものね……」
彼らだって夢にも思ってもいなかったことだろう。
「――リッキィ」
旧人類が平和の思い託して作り上げたはずの大地が崩落してゆくという悪夢のような光景を目の前に、そんな彼らとともに平和な世界を作り上げるための一翼を担った一員として無念に思いを馳せていると、マイクからいかにもおずおずといった雰囲気のそんな声が聞こえてきた。
「何、マイク」
「エトリアからの避難民の輸送が完了しました」
問い直すとマイクは述べ、同時に眼前のディスプレイ中央の地図はグラズヘイム入り口付近の様子へと変化する。そうして切り替わった画面の中には本輸送計画の中心役として指揮を執ったサイモンの疲弊した様子や、彼に対して労いの言葉をかけているのだろうシギ―、サイモンに軽口をたたいているのだろうアーサーや、そんなアーサーを諫めるような言葉を投げかけているのだろうラクーナの姿が映し出されていた。
彼らは数少ないグラズヘイムの地理地形を肌身で知る人物故に、磁軸を用いてのエトリア=グラズヘイム間の輸送役、兼、グラズヘイム施設内の案内役として抜擢され、他の冒険者たちよりも多くの労働をこなす役目を請け負ったのだ。しかし彼らと同じギルドに所属している自分は、マイクという管理者を含め、唯一グラズヘイムの全機能の使用権を有している旧人類に属するが故、その労働を追うことなく、代わりにこの空調の効いた部屋で、全体進捗を見守る役割を任ぜられ、ここにいる。彼らとともに同じ苦労を背負うことができないことに少し残念な思いを覚えないでもないが、これも必要なことであると自分に言い聞かせ――、私はこうしてマイクと共にエトリアにいる多くの人をこのグラズヘイムに輸送するための指揮を執ることとなったのだ。
「随分と早く終わったのね」
画面に表示されている四桁の数字を見れば、作業は予定よりも大幅に早く終わったことが理解できる。
「ええ。予定よりも三時間程度も早く終わりました」
「そう……。一応尋ねておくけれど、エトリアに残った人はいないのよね?」
程度、などというコンピュータにしてはあいまいな物言いを面白く思いながら、私はこの避難作戦を指揮する者として当たり前のことをマイクに尋ねた。
「はい。皆さんとても素直な方だったらしく、こちらの避難指示に対してすぐに応じてくれたそうです」
「そう……」
そうして返ってきたマイクの答えに対してどこか満足した思いを抱きながら、しかし呆然とした返事をする。私がマイクの言葉に対してまともに返答することができなかったのは、その時私の頭の中にかつて自身がこのグラズヘイムという施設に避難/コールドスリープすることとなった直前のことを思い出したからだ。
「今の時代の人は随分とまた聞き分けがいいのね……」
魔のモノの襲来によって環境汚染が進み、もう手が付けられないほどまでに進んでしまった環境汚染に対応するべく、多くの人間は世界樹の梢、枝葉の上に造設した大地の上へと避難した。だが無論、そうして世界樹の上へと避難する過程において、地上に住んでいた誰しもが地上を捨てるという避難に対策に諸手を上げて賛同したわけではない。一部の人間などは、そのまま地上に残っていれば死ぬとわかっていながら、今まで住んできた場所を捨てられないといって、地上に自らの意思で残った者たちもいる。彼らは死ぬとわかっていながら、それでも死ぬならば愛着ある地上で死にたいと願って環境がひどく破壊された地上に残り、そして望み通り光の閉ざされた地上にて死していったのだろう。当時私はそんな彼らの考えが理解できなかったものだが、今にして思えば彼らのそんな選択は、あるいは魔のモノと呼ばれる負の感情を吸収するという存在がいたからこそのものなのかも――
「――マイク」
と、そこまで考えた瞬間――、
「はい。なんでしょうか」
「悪いけど、今、エトリアから避難してきた人が映っている――、十七番の画面を拡大してくれないかしら」
画面にちらりと映ったその見覚えのある証を見つけて、ぞっとした思いが背筋を駆け上がった。
「承知しました」
マイクは私の言葉に遊びがないことを察したのか、あるいは機械ゆえの素直さからか、私が言うや否や対象の画面を拡大してくれる。それはたった一瞬の出来事だった。だがそのたった一瞬の間に私の心臓の脈動は一気に最高レベルにまで達して、私の全身から嫌な汗を噴出させ始める。どうか私の見間違いであって欲しいという願いはそして――
「――嘘」
無惨に散り果てた。ぽつりと言葉が口から漏れてゆく。やがて拡大された画面に映りこんだ光景を見たとき、心臓の鼓動は最高潮となり、耳煩いくらいに脳髄を刺激する。
「リッキィ、どうかしまし……――!」
そうしてマイクは、映し出した拡大画面を見つめる視線の先、私が何に恐れ、何に怯え、何に全身を震えさせたのかを理解したのだろう、言葉を止めて、対象の画面の私が見つめている部分を静かに、自然な動きで拡大した。そうして拡大された画面上には、エトリアから避難してきたという人の姿が映っている。何とも気楽そうに、いかにも恐怖を感じていないように周囲と会話を交わす彼の服の隙間から覗けるその首筋には、見覚えのある、しかし二度と見たくなどないと思っていた、赤いきざしを見つけて、震えながらにして指さした。それは忘れようもない、旧人類の中においても一部の研究者などしか知りえない、旧人類を滅亡にまで追いやった存在の影響を受けた証にして、彼らの中から負の感情が食われた証だ。すなわちそれは――
「感情を喰われた証――」
「――マイク。さっきの地図をもう一度出して」
魔のモノ。そうして聞こえてきたマイクの言葉の中に含まれる単語を聞いて私は自分を取り戻した私は、慌ててマイクへと指示を飛ばす。するとマイクはイエスとも了解ともヤーともさえ返事をすることなく中央にあった十七番の画面を巨大ディスプレイの端へと追いやると、中央に世界地図を映し出した。
「泥の汚染範囲の他に、世界樹のある位置を重ねて表示して頂戴」
指示を飛ばすとマイクは自らの気持ちよりも私を優先にしてすぐさま応対してくれる。その何とも機械チックな、しかし、今までの彼とは異なって彼の思いやりから発生した行いの過程に場違いな感動を覚えながらも、彼がしてくれた、私の指示の結果に視線をやる。
「――……!」
そうしてディスプレイ上に映った泥の汚染範囲と世界樹のある位置を地図上に併せて目撃した瞬間、私は完全に絶句した。
――七本あった世界樹はもう、一本しか残っていない……!
エトリアの西、フェンリルが発生させたという泥は、ヴィズルという犠牲の元、私たちがグングニルをもってして吹き飛ばした。しかし、ハイ・ラガードというエトリアからはるか東にある場所より発生した、ヨルムンガンドとかいう存在より発生したらしい世界を融解させるという泥はそこから世界中へと汚染範囲を広め、海都アーモロードと呼ばれる場所に立っているオリジナルの世界樹以外の地域を赤く染め上げていた。
「マイク。この地図の信頼性はどのくらい?」
現状をどうにも受け入れ難かった私は、マイクに対してとても失礼な質問を彼へと飛ばす。
「――リッキィ。残念ですが、地図はイレブンナインよりも高い精度で、正しい地形情報を示しています」
だがマイクは私の動揺を見抜いてだろう、私のそんな無礼を気にしたという様子もないままに、むしろこちらを気遣った声色にて、優しく声をかけてくる。
「――そう。ありがとう、マイク。それと、ごめんなさい」
彼の思いやりは、私を、彼に対する無礼に対しての謝罪が行えるほどにまで正気へと引き戻した。
「いえ。気にしないでください、リッキィ」
「――ありがとう」
そう言ってくれるマイクの気遣いに対して改めて礼を述べると、気を引き締めなおしたのち、ディスプレイの上へと視線を送りなおす。視線の先には、世界樹の無事を示す赤い点とその周囲にある未汚染を示す空白が映っている。
「マイク」
「イエス、リッキィ」
その名を呼ぶと彼はそれだけでこちらの意図を察したのだろう、ディスプレイの中央の画面は、とある大陸の南端にある、宇宙より飛来したオリジナルの世界樹を擁する海都「アーモロード」の現在の映像へと切り替わる。そうしていずこかに隠された旧時代の施設から送られてくる映像に映っている世界樹のオリジナルは、一見すると、いまだに無事な様子にも見えるが――
「マイク」
「ええ、リッキィ」
「世界樹、大地ごと、前より浮き上がってる――」
私が目撃した世界樹の姿は、以前、私がこの世界に復活した折に見たその時のモノよりも、周囲の大地ごとはるかに上の場所へと移動してしまっている。今、世界樹とその周囲にある多くの船の中継地点として作られた海都「アーモロード」は、その大地の際が海ではなく、崖となってしまうほどに大地が隆起してしまっていた。また、よくよく観察の視線を送ってやれば、そうして隆起している大地はまた、緩々と脈動し続けていることにも気が付ける。
「マイク……」
瞬間、私の心に浮かんできたのは、薄情なことに、盛り上がった大地にあった海都に住んでいただろう人々に対する心配の思いではなく、その大地の底に封じられているという存在のことだった。
「なんでしょうか、リッキィ」
そしてマイクは、多分私の混乱と動揺を理解したからこそだろう、どこまでも冷静に、機械のような冷たい言葉を返してくる。その冷たさに茹っていた頭の熱を奪われ、少しばかり彼のような冷静さを取り戻した私は、自らをさらに落ち着かせるため、目を背けてしまいたくなるような事実をあえて自らの口から発する決意をした。
「エトリアから避難してきたうちの一人の首には、赤く染まった部分があった」
「イエスです、リッキィ」
マイクは否定をしない。
「首が赤く染まってゆくっていうのは、とある存在によって負の感情が奪われつつある証……、そうよね?」
「――イエスです、リッキィ」
マイクは否定をしなかった。
「本来ならばそのとある存在は、地底深くで眠りについている。その存在がそうしておとなしく眠っているのは、宇宙より飛来した生物の負の感情を喰らい彼らが、世界樹という枷によっておさえつけられているから。そしてまた、世界中に植えられた世界樹のコピーが、その存在を押さえつけるのに一役買っていた。――そうよね、マイク」
「――――イエス、リッキィ」
マイクは一切の否定をしてくれない。
「けれど今、そうして増えた世界樹の上に作られた大地は失せていっていて、同時に、多くのコピー世界樹すらも失われた。そしてまた、世界の崩壊という事態に直面した新人類は多くの負の感情を生み出した。――その二つの要因によって、おそらくはそのとある存在が自らを戒める軛から解き放たれつつある。いえ、あるいはすでに――」
「――――――――イエスです、リッキィ」
マイクは一切の否定をしてくれなかった。言葉と共にディスプレイに映る画面は瓦解しかけているアーモロードから少し離れた地面の上へと移動する。映し出された地面はまだ泥によって汚染されていなかったがしかし、一見していまだ無事であるはずの地面は、まるでその下を巨大な土竜が通っているかの如く、盛り上がり、波打っていた。
「つまり――」
私はマイクの言葉と目の前の光景を残念に思いながら、呆然と呟く。
「魔のモノが、力を取り戻し、復活した――」
直後、盛り上がっていた地面は吹き飛び、地下よりやがて混ざり合った大地の狭間からひどくおぞましい姿をした蛇のような触手の群れが現れた。それはまさしくそして私の無念を示すかのよう最悪の予想が事実となった瞬間だった。
「リッキィ。残念ながら、貴方の推測は正しい。――そう……、イエスです、リッキィ」
マイクの冷静な言葉が静かな部屋へと響き渡る。そして。
「アーモロードが――」
巨大な姿の魔のモノが地面の中より現れた衝撃によってもはやグズグズの状態なのだろう世界樹の大地は大きく揺れ、アーモロードの世界樹があった大地は完全に崩壊した。
「クレタの世界樹が――」
画面の端では固い地面と根っこという支えを失った故だろう、世界樹は斜めになりながら海の中へと沈んでゆく。そして旧人類がクレタ島と呼んでいた場所の上へと作られた、かつての都市の姿をまねして作られた海都「アーモロード」のあった大地は完全に崩壊し、崩落し、やがて押し寄せてきた泥の中へと呑みこまれてゆく。そんな事態を喜ぶかのように、地面の底より現れた魔のモノは狂ったような速度を発揮し始めて、東に向けての強行進撃を開始した。
*
「僕の妹を救うために、お前の力を僕に貸せ。そうすれば自動的に――、お前らの世界を救うとかいう目的も達成されるだろうからさ」
格子状に形作られた光の壁の向こう側にいる慎二は言いながらライドウへと手を差し出す。相手が自らの提案を断るわけがないと確信しているようなその自信満々の所作は何とも彼らしいものだった。
「――」
対してそのような視線を向けられたライドウは、いつもと変わらず冷静の仮面の上に鋭い眼光を張り付けたまま、学生帽の下から鋭い視線をその手へと向け続けている。
『ライドウ。何を迷う必要がある』
「――ゴウト」
やがてまるで反応しないまま慎二の手を見つめ続けるライドウの態度に焦れたのか、ゴウトは壁を挟んで慎二と対峙するライドウの前へと躍り出ると、その翡翠色の瞳を向けながらに言った。
『異界開きをし、その内部にいる悪魔を退治し、事態の収拾を図る。多少形式は違えど、やることは我らがいつもやっていることと変わりないではないか』
「――」
ライドウはそして目を見開くと困惑した瞳をゴウトへと向け、そのまま口を何度か開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した後、唇を噛み締めると、意を決したかのように口を開いた。
「――ゴウト」
『なんだ、ライドウ』
「――どうしたんですか、ゴウト」
『――? 何がだ、ライドウ』
「――今の貴方は、いつもの貴方らしくない。いつもの貴方なら、もっと冷静に、冷徹に、敵の言動の信頼性に疑問を呈するような言葉を発しているはずだ」
『――』
ライドウの言葉にゴウトはのけぞり、目を見開いて絶句した。ライドウはそんなゴウトの反応を自覚の現れだろうと判断したのか、畳みかけるように続ける。
「――ゴウト。確かに異界開きを行い、中にいる悪魔を打倒する、あるいは悪魔と交渉することで、異界を閉じさせ事態の収拾を図るのは自分たちにとって常の事です。しかしよく考えてください、ゴウト。ここは敵地で、その提案をしてきたのは、他でもない、そんな敵地の中にいた、自分たちが倒すべき敵として定めてきていた『桜』という存在の兄だと名乗る存在なのです。ゴウト。失礼を承知でもう一度言わせてもらいます。――なぜ貴方はそんな怪しげな存在が提示してきた案を何の疑問も持たずに実行してやろうと思ったのですか? いつもの冷静な貴方はどこへ行ってしまったのですか?」
『――』
ライドウの指摘にゴウトは答えない。ゴウトが答えないという事実が、ゴウト自身、ライドウが今しがた行った自らに対する指摘が適切なものだと判断したのだということを雄弁に語っていた。
「おいおい、ひどいこというね、お前」
ゴウトがそうしてライドウの言によって自己診断の思考へと叩き込まれているさなか、そうして自らの提案の信憑性を疑われた慎二は肩をすくめると、両手の指を胸のあたりにあてながら言う。
「お前らにこの世界を救う案とやらを提供した『桜』の言うことは信用出来て、その『桜』の兄である僕の言うことは信用ならないってわけ? あのお前たちを謀って利用しようした嘘つきのことは信頼出来て、こうしてお前たちの前に現れてやった僕のことは信頼できないっていうのは、まったくどういう理屈なのさ」
「簡単な話だ」
「ん?」
そうしてライドウへと向けられた質問に対して答えを呈したのはこれまで無言を貫いていたペルセフォネという彼女だった。ペルセフォネはそして聖剣の切っ先を壁の向こう側にいる慎二へと突き付けながら、言う。
「確かに彼女も貴様と同じく、怪しむべきところはある。なるほど貴様の言う通り、少なくとも彼女が自らの目的のために我らを騙して利用しようしたというのも、そのために彼女が嘘をついたというのも事実だ。しかし――少なくとも彼女は、彼女の行動は一貫している。彼女はこの世界を救うため、奔走し、そのために手段を用意し、提示し、世界がこのような状態になる前から我らの前に姿を現し活動し続けていた。そんな彼女と、このような最終局面になってから突如として敵地に現れ、世界を救うなどという言葉を吐き、敵の親玉である存在を救えという貴様。どちらに信を置くかと言われれば、それを言うまでもあるまい」
「は! ご立派な理屈だね、まったく!」
慎二はペルセフォネの言動に対して馬鹿にしたような視線と言葉を送り返すと、視線をこちらへと向けてくる。その舐めるような、こちらを値踏みするような視線は何ともおぞましく、不快感を催させるものだった。
「けどーー、おい、衛宮!」
その言葉にこの場にいる一同の視線が私へと集中する。
「お前はどう思う?」
そうして放たれた言葉は研ぎ澄まされた刃のように心の中に滑り込んできた。
「私は……」
鼓動が否が応にも高まってゆく。額は焼き鏝を当てられたかのように急激に加熱した。急に渇きを覚える。口の中に湧き出た唾を嚥下した。喉の鳴る音が体内で反響して、やけに大きく聞こえてくる。両手を固く握りしめたのち、解放した。ゆっくりと息を吐くと体内にたまった熱が静かの外へと放出されてゆき、少しばかり冷静さが脳裏に戻ってくる。
――そんなこと、思考するまでもないことだ
目の前にいるこの慎二を名乗る男は怪しい。それは間違いのない事実だ。常識的に考えれば目の前のこの男の提案など即時に跳ねのけ、却下すべきものに違いない。何せ目の前のこの男が出現したのはライドウの言う通り、月の裏側に存在する、人が人の身を保っている限り長い生存どころか正気でいることすら望めないだろう、そんな天の果てにある孤独の檻にも等しい施設の内部なのだ。そう。この男はそんな施設の内部において、その施設の内部の重要要素である『桜』の脳が保管されている場所に出現し、あまつさえはそんな『桜』を救ってほしいなどと宣ったのだ。
「おい、衛宮。この僕が質問してんだぞ。なんとかいえよ」
確かに目の前にいる目の前のこの慎二の姿をした男は、かつて私が知る慎二とほとんどまるで変わらない言動をする。確かに慎二ならば今しがたしたように自分以外の全ての人間を見下すような言動をするだろう。確かに慎二ならば、このように相手を馬鹿にした物言いをするだろう。
「おいっ!」
確かに慎二ならば、先のように自分の提案が受け入れられなかった場合、今のように無視された場合、多少ヒステリックな言動をして見せるだろう。確かに慎二ならば、私の持つ歪みを見破り、あっさりと指摘して見せるだろう。そうとも、目の前にいるこの慎二によく似た姿をした男は、確かに私の知識と記憶の中に存在している慎二と同じ言動をしてみせる。
だがしかし、だからこそ、目の前のこの慎二の姿をした男は怪しいとしか考えられない。目の前のこの男が仮に桜の兄である慎二というのならば、なぜ彼がこんな月の裏側にある基地などという場所にいるのか。目の前にいるこの男がかつて万年ほども前の聖杯戦争のおりに出会ったあの慎二であるというならば、なぜ彼は今この時計の針が幾億回も回った先にある時代に存在しているというのか。目の前にいるこの男が自分の知るあの狭量で、身勝手で、自分のことを最優先に考えるあの男であるというのならば、なぜそんな慎二が――、彼からしてみれば自らの使える道具の一つでしかないはずの桜という女を救いたいというような言動をするのだろうか。
――いや……、だがしかし……
疑う材料はいくらでも湧きあがってくる。だが同時、目の前の男は慎二であると信じてもいい材料も、同じくらいに湧いて出てくるのだ。湧き出てくる条件をいくら比較し、精査してみても、答えは一向に出てこない。
そしてまた私は、桜を救いたい、その方法がある、などという慎二の姿をした彼の言葉を心の中では信じたいと思っている。もしかしたら目の前のこの男は確かに慎二であり、改心と何らかの理由があった結果、彼はこうして目の前に現れ、そのような言葉を述べているのかもしれないと思いたいとすら、感じている。けれども今までに培ってきた記憶が慎二という人物がそのような言動をするはずないと否定していた。何せ彼は、長きにわたって桜という人物を虐め続け、あまつさえはその身に宿した執念と欲望の赴くままに遠坂凜を己の情欲で穢そうとした男でもあるのだ。無論、私自身も私自身の欲望を満たすため、彼がそうできるような、そんな悪心を抱いてしまうような環境へと手引きをしたのだから、目の前へと訪れた好機に彼が乱心し、訪れた絶好の機会が彼の理性を崩壊させただろう事実を省みるに、むしろ私の方にこそ罪があると言えなくもないだろうが――、ともあれ慎二という男は、そうしたいかにも小悪党じみた男であるはずなのだ。だからこそ私は――、目の前にいる慎二とまるで同じ姿をした男に何の言葉も返せないでいる。沈黙は懊悩の何よりの証左だった。理性は相反する条件を、感情は矛盾する思いを鉾盾として、戟を交わしあっている。逐次投入される疑念と疑念を燃料に、理性と感情の両者はいつ終わるとも知れない戦いを脳裏において繰り広げ続けていた。
「私は――」
そんな互の鉾先同士を丸め合う激しさに耐えかねたのだろう、気づけば言葉が口から言い訳するかのよう意味のない言葉が飛び出しかけた、その時。
「まぁ、別に、お前らがどっちを選ぼうといいんだけどね。――俺としては」
慎二の姿をした男の漏らしたそんな何とも彼らしくない物言いが、私の思考の鉾先を別の方向へとすり替えた。
「――何?」
多分、私が不意に漏らしたその疑問の言葉は、おそらくその場にいるすべての人間の思いの代理であったに違いない。おそらくそんな言葉は、そうして自らがした提案が、慎二という人物のことをよく知らない彼らどころか、私という存在にすらも疑念とともに迎え入れられたという事実が気に食わなかったという思いから漏れて出たのだろう。自信満々に提案しておきながら、しかしそれが他人にとって受け入れがたい提案であると知るや否や、すぐさま自分を慰めるかのように、他人に自分の立場の方が上であるということを知らしめるかのような内容に聞こえるその言葉は確かに私の知る小心者の小悪党である彼が述べるに相応しいものだ。「まぁ、別に、お前らがどっちを選ぼうといいんだけどね」、と、もし慎二が述べたのがたったそれだけならば私はこんな疑念を持つこともなく、その台詞はいかにも慎二らしい苦笑していたかもしれない。だが――
「『俺としては』、というのはどういうことだ?」
後半のその物言いは――、その、如何にも慎二らしくない自称と言葉は聞き捨てならない。
「あー」
問い返すと、慎二はひどく億劫そうに眉を顰めると、如何にもわざとらしく「しまったな」、と言わんばかりの態度で片手で顔を覆い隠すと溜息を吐き――、
「まぁ、言った通りだよ、衛宮」
如何にも慎二らしい口調でそう言いなおした。
「僕はね。別にお前らが僕の提案に乗らず、お前らのやり方で世界を救ってくれても構わないんだ。例えば――、多分、お前らの側についた『桜の大人の部分から生み出された桜』が言う通り、マイクを利用して暴走しているシステムを書き換え、世界中の法則を改めて支配するやり方を実践するってやり方でも、世界は救われる。例えば、僕をぶっ殺して、ギルガメッシュとイシュタル化した遠坂を助けて、その上で――」
――ビーッ、ビーッ、ビーッ!
メディ子のショルダーバッグから発生した何とも無機質な音が慎二の言葉をぶった切り、闇に覆われた部屋の中へと響き渡った。視線が一挙に慎二からメディ子へと集中する。
「わ、と、うわ、ちょ、な、なんで……!」
メディ子は慌てた様子でショルダーバッグの蓋を持ち上げると、出来た隙間に手を突っ込んだ。そうしてメディ子はガサゴソとカバンを漁ったのち、「こ、これか!」と言いながらバックの隙間より手を抜き出して、いまだに甲高い音を立てるそれを取り出した。
「そ、それは……」
「マイクの寄越した通信機?」
パラ子とガン子はメディ子の手中に収まっているモノを見て、首を傾げるながら言う。彼女の小さな手に収まっているその機械は、双方向通信強化のためかアンテナらしきものが一本長く伸びており、また、アースなのか電線なのか、フックのようなものがアリアドネの糸に接続されている。また、その細長く四角い機械の側面には複数のボタンが引っ付いており、表面には網状のプラスチックが張り付けられている。見た目、昔の古いタイプの携帯電話――というよりもラジオに近い形状をしているそれを取りだしたメディ子は、静かな空間に響き渡る耳に煩い音を規則正しく鳴らしているその機械の表面を慌て気味に撫でまわすと、やがて側面にあった一つのボタンを押して、「は、はい、もしもし!」と答えた。
「――どうやら無事に繋がったようですね」
すると多少のノイズが高周波と共に飛び散ったのち、そんな声が聞こえてくる。私はその声に聞こえ覚えがなかったが、パラ子らが顔を見合わせて驚いた表情を浮かべながらもどこか満足げである様子から、その声の主が彼らにとって聞き覚えのある声であるのだろうことを察知した。
「は、はい! 大丈夫です! 聞こえています!」
「確認しました。――こちら、マイクです。この通信を受け取る余裕があるということは、そちら側に一定の余裕がある状態であると勝手に判断させていただきます。本来ならば迷宮探索という静寂と慎重を要する作業を行っております皆さまにこちらから通信することは控えようと思っていましたが、緊急事態です故、どうかご容赦ください」
メディ子の声を聞いた相手――マイクは言葉を矢継ぎ早に述べると、居ても立っても居られないといった声色と口調のまま謝罪を行った。そして通信機の向こう側にいる存在は、メディ子の返答を待つこともなく、再びその口を開く。
「――端的にお伝えします。地球上、クレタ島の世界樹の下に封じ込められていた魔のモノが復活しました。世界樹の大地とアーモロードを崩落させ、泥の中より浮かび上がったその魔のモノは、東の方に向かって一直線で移動したのち、とある地点において停止。のち、泥状と化していた世界樹の大地に身を投じると、そのまま泥の中に沈下し始めた、との事です」
「――はぁっ?」
通信機の向こう側から聞こえてきたマイクの言葉に対して真っ先に反応したのは慎二の姿をしたその男だった。慎二の姿をした男はそのまま無言で手を振るうと、自身の近くの空間に青と白と緑と黒の部分が多い球体を生み出した。その形状と色合いから直感的にそれが何であるかを見抜いた私は、自然とその答えを口にする。
「それは……、地球?」
そうして球体にある青は大気と海の色であり、白は雲の色であり、そして緑と青の大地を黒に染め上げていくものは、おそらくは蟲毒の術式によって生まれたという泥であるに違いなかった。慎二の姿をしたその男はそうして自らの手元に地球の現状を映し出す地球儀を投影して見せたのだ。
「……」
慎二の姿をしたその男はこちらの言葉をまるきり無視すると、自らが空中に投影した地球儀の表面を睨みつける。そしてやがて男の視線が疑似的に再現された地球上を移動すると、とある地点にぽっかりと開いた黒く巨大な点へと向けられた。縮尺から判断するにおそらく現実には二キロから三キロはくだらないだろう大きさのその黒点の投影図を見て、慎二の姿をしたその男は眉を顰めると呟く。
「ふん……、なるほど。まったく、あの強欲者め。――おこぼれだけじゃ満足できず、本体もむさぼろうってわけか」
慎二の姿をした男の視線は、多分はエトリアの西にある――、ある地点において固定されていた。その点の少し東側、およそ実測にして千キロメートルいかないくらい程度の位置には尖塔とそれを取り巻くケーブルのようなものがわずかばかりに存在している。
「ああ――、いや、もう、そんな思考もないのか? 単に本能的に、ご同類を求めているだけ? ――まぁ、どっちにしろ、あさましい所業であることには変わりないか」
――あれは……、グラズヘイムか?
その特異な形状からそれがグラズヘイムというマイクの本体が収納されているかつて富士山と呼ばれた霊場に作られた施設のある場所であることを推測した私は、そのグラズヘイムのある位置と投影された地球儀上にある黒点の位置から、復活した魔のモノとやらの位置がおおよそどのあたりの位置であるかを計算し――、
「まさか……」
そして導き出された答えが脳裏をよぎった瞬間、思い浮かんだ言葉の予想外さに、気が付けばそんな言葉を口にしていた。
「へぇ。何がまさかなんだ、衛宮」
慎二の姿をしたその男はニヤリと笑うと、問いを投げかけてくる。その意地の悪い笑みは、如何にも純粋な悪意に満ち溢れていて、私の脳裏にあの破戒神父の姿を浮かび上がらせた。同時、こちらが何を思ったのかを予測したのだろう奴の笑みがさらに深いものとなる。そうしたあまりにも悪意的な笑みが、私の予測に過ぎなかった答えを、確信の方向へと導いてゆく。私はそして慎二の姿をしたその男の胸の部位を睨みつけるた。そうして視線を移動させた先にあるベージュ色の穂群原学園の制服に包まれているその胸元は不自然なくらいに膨んでいる。そして私は、私がかつて参加した第五次聖杯戦争において、慎二がいかなる結末を迎えたかを思い出す。
「かつて――」
「うん?」
「かつて第五次聖杯戦争という悪辣な儀式に参加し、勝ち抜くことを望んだ慎二という男は、やがてその果てに桜という少女より譲り受けたサーヴァントという参加のための駒を失い――、しかしその儀式から脱落しなかった」
「……」
私が語った言葉を聞いた途端、慎二の姿をしたその男は、悪意に満ちた笑みを張り付けた状態のまま、器用に、ぴたりと停止した。反応を見て、私は私の至った結論の正しさを確信する。
「なぜならその男は聖杯戦争の監査役から新たなサーヴァントを与えられたからだ」
「……」
慎二の顔をした男は動かない。
「監査役――、言峰綺礼と呼ばれたその男より与えられたそのサーヴァントの名前は英雄王ギルガメッシュ。それは言峰綺礼が第四次聖杯戦争に参加した折、遠坂凜の父より奪い取ったサーヴァントであり、第五次聖杯戦争において暗躍していた言峰綺礼の協力者でもあるサーヴァントだった」
私の語りに対して誰も口を挟まない。
「無論、あのギルガメッシュという男が間桐慎二などという小物の男に使われることを良しとするわけがない。奴の――奴らの狙いは慎二を利用してとあるもの手に入れ、それを間桐慎二という出来損ないの魔術師に使用することで、呪いの汚染されて歪んだ聖杯を、その汚染された状態のままに降臨させることだった」
慎二の近くにある地球儀上に刻まれたいびつな黒点が徐々に拡大してゆく。
「やがて事態は進み――、そして奴らの予定通り駒として動かされ続けた慎二は、やがてそのあるもの――聖杯の確たる聖杯の少女の心臓を胸に埋め込まれ、二人の望み通り呪いに歪んだ聖杯として降臨した」
グラズヘイムと呼ばれる霊峰富士のはるか西、おそらくはかつて冬木と呼ばれる場所の真上にできたのだろうその穴は、やがて徐々に拡大してゆき、その存在感を増してゆく。
「そうとも。冬木に存在していた聖杯という『所有者のあらゆる願いをかなえる』願望器はとある呪いによって汚染され、『所有者のあらゆる願いを破壊を伴った悪質な形で叶える』悪質なおもちゃ箱へと化していた」
そして穴からはやがて、周囲に存在していた蠱毒の術式によって生まれたのだろう黒い泥よりもさらに黒々とした、まるでこの世の全ての悪を凝縮して生まれたかのような漆黒を携えたそんな存在が這い上がってきていた。その様を目撃した瞬間、私は自らの確信がまさしく的を射ていたのだということを理解する。
「やがて慎二は凛の手によって呪いの内より助けられたわけだが――、ともあれそうして慎二の体を通してこの世に這い出してきたその呪いの名前は――」
――この世の全ての悪/アンリマユ
*
「おっと、そこまでだ」
そうして黒点から這い上がってきたおぞましい呪いの塊の姿を目撃した私が、過去の記憶との共通点から導き出した、かつて敵対したその名――この世の全ての悪/アンリマユという名前を口にしようとした途端、慎二に似た姿をしたその男――、おそらくはアンリ・マユなのだろうその男は顔面に浮かんでいた悪意満載の笑みを氷解させ、そっと人差し指を己の唇に当て、「それ以上しゃべるな」という意思を露わにした。そうして男が浮かべる表情には遊びがなく、どこまでも真剣さばかりが広がっている。
「それ以上は口にしない方がいい。なにせ、今のこの世界では、それの名を呼べばその名が力を持ち、そういう生き方をしたやつは、そんな生き方と似た力を持つようになる。すなわちお前が今その名で俺を呼べば、俺はそういう存在として属性と性格、性質を固着されちまうからな」
「な……」
そうして男が述べた言葉があまりに予想外すぎたため、思わず素直に驚きが露わとなって噴出する。
「あーあ、まったく、途中までは上手くいってたんだけどなぁ。いやはや、そういう意味じゃあ、流石はかつて世界を滅ぼしたかけた存在。俺とは人間に対するアプローチの方向性が真逆だけど、世界樹という枷を失った魔のモノの、思慮深さだの通じる恐怖等の負の感情を直接吸い取る能力は伊達じゃねぇな。何せ、お前やそこのにゃんこみたいな冷徹さと猜疑心の塊みたいな奴からこうまで警戒心を失せさせちまうんだからなぁ」
「な……」
「『な……?』、あ、なに? なんで自分たちだけそれの影響下にあって、そっちの綺麗な顔した兄さんや、如何にもクソ真面目な顔した連中には影響及ぼさないかを知りたいわけ? ――いいぜ。教えてやる。何、簡単な理屈だ」
突如として訪れた予想外の出来事になんといっていいのか見当もつかず、壊れた自動人形のように繰り返し同じ言葉を口にしていると、私のそんな無様の態度と言葉を勝手に解釈した慎二の顔をしたその男は、指をまるで指示棒か何かのように回しながら勝手に語りだす。
「ほら、そっちの姉さんたちは生き返り肉体をもったばかりであいつの影響下にある大地に生えてた食べ物だのなんだのを口にしてないだろうけど、お前さんはこれまでの生活のうちでもろに口にしてたからな。んでもってそっちのにゃんこちゃんは、自分が存在するため、周囲にある魔力――、ああ、そっちの言い方だとマグネタイトをその猫の体で吸収してるからだ。死者の国に存在するものを口にしたものは、死者の国に属し、その国に属する存在の影響を受けるようになっちまう。――いや個人的には、そっちのペルセポネの名を持つお嬢さんがその影響を受けてないのが、何とも皮肉だなぁ、と思うけど――、ま、今、この瞬間においては、全ての原典であるギルガメッシュという男とそれを殺した男であるエミヤシロウ(/お前さん)のせいで、あの時の聖杯戦争に参加してたやつが強く影響されちまうようになってるし、何よりお前さんたちはすでに完成された状態の存在だからな。――まぁ、つまりはそういうこった」
そうして男は先ほどまでとは打って変わり、陰険さをまるで感じさせない何とも無邪気な笑みを浮かべてみせると、言う。
「とにかく、多分はお前さんが想像している、エミヤシロウ。お前さんの出した結論は間違いなく正しい。俺は確かにお前さんが思っているような存在だ。――かつて、桜の兄であった間桐慎二は、ま、紆余曲折ののち、その体を分解され、解体され――、やがてこの施設と世界を作り上げるための素材として使われた。そんな折、まぁ、奴らは、慎二の肉体の奥底に眠っている聖杯――イリヤの心臓に気が付かなかった。いやほら、普通なら解体して心臓取り出した時点で魔術回路の塊である聖杯の核である気付いてもよさそうなもんだけど――、曲がりなりにも慎二って魔術の大家の長男だったし、魔力を生み出すことは出来ないけど己の魔力を用いない魔術の行使は出来たし、何より、今しがたお前さん方が体験したように、魔のモノの影響で世界からは警戒心だの猜疑心だのみたいなのが薄れつつあったからね。魔力が使えはしないけど、生み出せる、みたいな判断降したんじゃない? ――ともかく、いろんな理由はあれど、ともかく結果として奴らはそして慎二の体に眠る俺と繋がったことのある心臓を見逃して、そのまんま世界を再構成するための材料として使用したってわけだ」
その男は何とも軽い感じで重い話を口にする。おかげで話の内容が内容だけに理解できていないのだろうパラ子らやペルセフォネは首を傾げているし、多分は己が似たようなことをやったから故内容を理解しているだろうヘイは理解不能なものを見るような目を慎二の顔をしたそいつへと向けているし、多分はこれまでに培ってきた経験から内容の細かいところまでを理解できたのだろうライドウとゴウトは困惑の眼を彼へと向けていた。
「まぁ、とはいえ、冬木ってば結界によって閉鎖されているし? それにいくら俺と接続経験があって多少なりと相性良くなったこいつとはいえ、こいつ単体でアンリマユ(/俺)を呼び出せるほどのキャパや才能なんてもんはないし? んなわけでこいつの心臓に欠片ばかし引っ付いてた俺は、慎二が世界の材料として解体されて以降、ずっと世界の裏側、スキルとかのシステムの奥の奥に秘匿されて眠ってたんだけど――、突然さっきばかしこの部屋ん中に体をもって復活しちゃってさ。いやまぁ、その時点ではなんじゃこりゃ、ってな感じで戸惑ってたら、いきなりそこの扉が開いて、『兄さん!』ってきたもんだからさ。あ、なるほど、こりゃ、この才能に満ち溢れた女神化したの俺と相性のいいお嬢さんのおかげで復活できたのね、って理解した直後、まぁ、お嬢さんの願い通り、その時点で俺はお前さんの知る『この世の全ての悪(/俺)』ではなく、そいつとの繋がりを心臓に持った男、「間桐慎二」として属性と性格の大部分を固定されちゃって――、その記憶を過去から植え付けらえて――、ま、あとは、お前たちの知る通りってな感じの流れになっちまったってわけだ」
そいつは――、桜の願いによって慎二の姿になったのだろう『その男(/この世の全ての悪)』は、なんとも慎二らしくもない口調でそう述べる。
「その口調は――」
「あ、これ? これはもともと、昔、俺がまだ人間だったころの口調だよ。ああ、いや、なんていうのかな。一から説明すると面倒なんだけど、俺は実はアンリマユなんて存在じゃなかった単なる村人Aだったんだが――、何の因果か、こうして本物に限りなく近い存在として復活しちまう辺り、皮肉な運命というかなんというか……。ま、とにかく、そういうことだから、慎二のことを知るお前からすれば、すっげぇ違和感バリバリかもしんねぇけど気ぃ抜くとこうなっちまうんだ。――ま、そういうもんだと思って納得してくれ」
その男――元アンリマユであり、現在慎二の姿をしているその男は、やけに軽い口調と調子でそんなことをいう。その軽々飄々とした口調や慎二の姿がどうにも私の記憶の中にある『この世の全ての悪(/アンリマユ)』の姿と重ならず――
「お前は――」
「ん?」
「お前は本当に、アンリマユ(/そう)、なのか? そうだとしたら、お前はいったい何のために、『桜』を救ってほしいなどという言葉を口にしたのだ?」
気付けば感じた思いをそのまま口にしていた。質問に対して慎二(/アンリマユ)が、ニィ、と唇をつりあげたのを目撃して、私は己の不肖さを悟る。おそらくは先ほど慎二が言っていた魔のモノとやらの影響もあるのだろうが、それにしても今の自分はあまりにも無警戒が過ぎている。
「いいね。いい質問だ。――これでようやく話を元に戻せるってなもんだ」
そうして待ってましたといわんばかりに口元を歪めた慎二は、元の慎二がするような軽薄かつ他者を見下すような表情を浮かべなおし、桜を指さすという。
「ま、なんだかんだといったけど、とにかく、今の僕の願いは一つだ。――桜を救ってほしい。それが叶えられたとき僕(/俺)は――」
そうして慎二の姿をしたその男は、慎二の声と口調で、しかし何とも慎二らしくない願いを口にすると――
「等価交換として、今、この僕が持つ力と、今のこの世界中に散らばっている僕の側に属する力と状況を利用して――、世界の救いなんていうたわけた願いを、お前らが今しがたやろうとしている手法よりも多くの人間にとって望ましい形で叶えられる手法を用意してやろうじゃないか」
しかし、何とも慎二らしい他者を見下すような態度と声色で、何とも尊大にそんなことを口にした。同時、慎二のすぐ近くにある地球儀の冬木に会った黒点からはい出した存在は、その闇の触手を世界樹へと伸ばし始め――、そしてすぐ近くにあるグラズヘイムを呑みこんでゆく。
「あ……」
呆然と呟くと、反応して慎二が意地悪く笑った。その笑みは何とも慈愛に満ちていて――
「さぁ、選択するのはお前だ、衛宮(/エミヤ)。世界をどんな方向に転がすか――、今、この世界においてしかしなおも正義の味方なんてものを目指そうとするお前だけにこそ――、その権利と義務がある」
その誘いは如何にも悪魔の言葉が如き魅惑に満ちていた。そしてマイクのいる本体を失った私たちは、悟る。
――もはや私たちには、目の前にいるこの慎二の姿をしたこの男――、この世の全ての悪(/アンリマユ)と交渉し、その悪性存在たる彼から可能な限り多くの情報を引き出したうえでなければ、世界をどうやって救うのかの判断すらできない状態に陥ってしまっていることに
*
側にいる仲間たちからはもはや完全に口を挟もうという気配が失われている。そしてまた同時に、彼らからの視線がこの身に集中したのを自覚した。私はおそらくは彼らが、彼や彼の事情を知らぬ自分たちよりも、彼の事情を知る私にすべてを任せた方がいいと判断したのだろうことを予測する。私はそんな判断をくすぐったく思いつつ、しかしまた、少しばかりの負担と緊張感を覚えながらも、彼らのその判断が信頼によってだろう託されたことを強く自覚し、覚悟を決めた。
「慎二」
そうして胸の中に発生した諸々のわだかまりや目の前の存在に対する疑念はいったん置いておいて、目の前の存在が望んだよう、彼のことを慎二の名で呼ぶ。
「ん? なんだい、衛宮」
すると慎二の仮面をかぶりなおしたそいつは、如何にも慎二らしい口調で私の言葉に返事をした。多少の違和感を覚えつつも、私は慎二(/アンリマユ)に改めて湧き上がってきた疑問をぶつけてみる。
「まずここをはっきりとさせておきたい。お前という存在が、桜の願いを受けて慎二の情報から再構成された――、慎二の仮面をかぶせられた『慎二』であるというお前の言い分は理解した。しかしならば――、なぜおまえは、この世の全ての悪(/そう)であるはずのお前は、慎二という存在の願いを叶えるために動こうとするのだ? その先にあるのは、おそらくアンリマユ(/君)が最も嫌う、平和という状況の訪れた世界なのだぞ?」
そうして私が尋ねたのは、まずもって抱いた疑問だった。彼が――、慎二の顔をした目の前の男がアンリマユという世界の全てにとって悪と呼ばれるはずの存在であるならば、彼の願いは善神アフラマズダの作り上げたこの世界を破壊しつくすことにあるはずだ。もし彼が私の指摘した通り、そして彼が暗中にて言う通りそんな存在であるというならば、いくら彼が慎二という男の仮面をかぶっていよう――、そしてまた、私の知る限りひどく身勝手であった慎二の仮面をかぶっているからこそ、世界/桜を救うという彼の言動がどうしても信じられないものとなっている。
「あー、うん、なるほど。まぁ、お前のその疑いはわからないわけじゃない。そりゃ、俺だって本心としちゃ、こんなクソみたいな世界、さっさとぶっ壊れちまえ、なんてすら思ってる。でも――、まぁ、うん、恥ずかしい話、俺はどうもこの慎二って男みたいなやつのことが好きでね」
そうして慎二の顔をした男は、ひと時だけ慎二の顔を外しながら言う。
「慎二のことが?」
「ああ。ほら、こいつ、自尊心高くって、そんな自尊心の高さに呼応するかのように目標も高いくせに、高い自尊心に見合うだけの能力がなくって、なんていうか、自分にとって都合のいい部分ばっかみて、最終的に自爆する小者のタイプじゃん? つまりこいつは、それがどうでもいい誰かや世界にとって間違った願いだろうが、知ったこっちゃないし、そんな見たこともないどうでもいい誰かや自分にとって厳しいだけの世界より自分や自分の周りの世界の方が大事に決まってんだろってな性格なんだ。そういう何とも身勝手で、何とも人間臭い奴が――、俺っていう存在は大好きなのさ。――ああ、いや、もちろん、変な意味じゃなくってね」
「――つまり、世界の破滅っていうのも確かに魅力的な選択肢ではあるけれど、結局それは自分の意思ではなくアンリマユとしての本能的な働きによるものであるし、そんなどちらかと言えば自分というよりも自分に宿った存在の願いなんかより、今の自分の仮面であり、同時に自分自身でもあるといえる、そんな自分にとって好ましい存在である慎二の願いを叶えてやりたいと、そういうわけか?」
「その通り(/That’s right!)! いや、なかなか話が分かるようになってきたじゃないか、お前!」
そうしてテンション高く答えた慎二の――、アンリマユの言葉はおそらく本心からのものだったのだろう。なるほど慎二はどちらかと言えば自分の情動や感情に正直で、他人の安否や幸福よりも自分の願いを優先する小悪党だ。そんなならばなるほど、そんな慎二の身勝手さがアンリマユという悪性存在にとって心地よく、故に彼は慎二という己と同類の存在が実は心の底で秘めていたのかもしれない、桜を救いたいという願いを叶える気になったという点にも、少しばかり納得がいく。
「――まぁ、いい。いろいろと疑問点はあるが、一応はその体裁で話を進めよう」
「おいおい、何だよその言い方。まったく、衛宮のくせに生意気だな」
「続けて私が聞きたいのは――」
そうして私は、目の前の男が慎二らしい口調で述べた抗議の言葉をまるきり無視すると、次の議題を口にした。
「君の言う、桜の救いとはなんだ。なぜそれが君の言うところの世界の真の救いとやらと直結する? なぜ私たちのやろうとしている手段では世界は真に救えないなどと、君はいうのだ?」
「あー……」
尋ねると慎二はひどく億劫そうな顔を浮かべるとともに一旦顔を虚空へと向けて視線をさまよわせると、顎を撫でながら、やはりひどくめんどくさそうな表情を浮かべつつ口を開いた。
「それを教えてやってもいいが――、もちろん、多少話は長くなる。まぁ、それでも知りたいってんなら、教えてやってもいいけど――」
そうして勿体付けて述べる慎二の言葉を受けて周囲を見渡すと、視界に収めた顔の中に否定の意を含んでいる人間がこの場にいないことを確認すると、私は慎二の方を振り向きなおし、赤と青の光の格子の向こう側にいる慎二の顔を見て、頷いた。
「教えてくれ、慎二。お前の知っていることを」
すると慎二はやはりめんどくさそうに一度だけ天を仰いだ後、首を左右に振ると、ふうぅぅぅぅ、と長く細い溜息をついたのち、静かにその口を開いた。
「――なぁ、衛宮。お前、ギルガメッシュがなんで英雄王なんて呼び名で呼ばれているか知っているか?」
「なに?」
そうして浴びせかけられた質問があまりに予想外だったため、私は思わず眉をひそめて応じる。
「いいから答えろよ、衛宮」
すると自分の質問に対して疑問の言葉を返されたからだろう、苛立ち気味に慎二は言う。どうやら目の前の存在は、慎二の仮面をかぶっているだけあって、短気で、自分の言葉に疑いをもたれることを嫌うらしい。
――ならばこれ以上彼の機嫌を損ねれば、情報を話さずじまいに終わってしまうかもしれない
「……それは彼がすべての神話の原典である存在だから、だろう」
懸念を抱いた故に私は、彼がこれ以上機嫌を損ねないうちにと少しばかり口早に応答する
「そうだ」
すると慎二は多少機嫌のよさを取り戻しつつ言った。
「ギルガメッシュという英雄は、全ての神話の原典だ。例えば――、ギルガメッシュとその親友の野人エルキドゥ、そして、バビロンにおいて西の果てのマシュ山に存在するイシュタルの夫ドゥムジのモノであるエリズの木、ギルガメッシュらに倒された天の雄牛やフンババは、やがてクレタ島という場所においてそれぞれ、ヘラクレス、クレタの世界樹、ミノタウルス、西の果てにあるアトラス山に存在する食べたものに永遠を与える黄金の木の実を携える樹木などへと変貌した」
「ふむ……、確かにクレタの世界樹が刻まれた指輪の印章や、ギルガメッシュとエルキドゥが雄牛や獅子と戦う姿が刻まれた――、いわゆるクレタのギルガメッシュと呼ばれるコインがあのあたりにはあったな。それと、女神ヘーラーに戦いと命を奉納する戦士長(/クーレース)がその当時、戦士として最も名高かったギルガメッシュに紛争して舞うの姿の言葉がやがて独り歩きし、女神に命と剣舞を奉納する戦士長、すなわち、ヘラクレスになったという言い伝えがあったが……」
「そうそう、それよそれ。で、そんなふうに同じような変遷をたどって、北上したその神話は、やがて北欧神話の原典となり――アウズンブラや、ユミル、オーディン、イグドラシルといった存在へと変遷し――、また、バビロンに住む神話を刻む知識層、すなわちカルデア人たちと祖を同じにするペルシア人たちの手によって――、それは古代ペルシア神話と呼ばれるものへと編纂されなおされ、森の悪牛王フンババ、あるいは天の雄牛グガランナはやがて贄として殺されるべき牝牛スリソーク、半人半神の英雄ギルガメッシュは半人半牛の巨人ゴーベッド・シャー、マシュ山にあるという世界樹は終末に不死の霊薬を生み出すガオケレナとすべての植物の原典である百種樹へと変化した」
「……推測して確認するに、北欧神話においては、天の雄牛がユミルを生んだ雌牛アウズンブラ、巨人ユミルか悪の巨人フンババ、それを殺したオーディンがギルガメッシュであり、イグドラシルがエリズの木とやらに変わったといいたいのか?」
「うーん、まぁ、北欧神話の方はどっちかっつーと、古代ペルシアの神話が大きく下地になって作られてるから完全にそうとは言い切れないけど――、ま、ともかく、どっちも一緒。ニコイチというか、サンコイチというか、ともかく各地の神話のいいとこどりが起こったのさ。ともあれこれが、ギルガメッシュという英雄が、最古の英雄王なんて呼ばれる理由なわけだ」
「ふむ……」
神話の成り立ち。神話。それを使役する存在。悪魔召喚師。そんな存在であるライドウのことを思い出して彼の方を向くと、目が合った途端、彼はこちらの意図を読んだらしく、いつも通り静かにこくりと首を縦に振った。
――どうやら慎二の――、アンリマユの語ったことは真実であるらしい
だがーー
「慎二」
「ん?」
慎二/アンリマユが語った、ギルガメッシュという英雄が英雄王などと呼ばれる理由や、彼の登場するバビロニア=シュメル神話体系が全ての神話の源であることに嘘偽りがないことを私は理解した。だが私には、慎二がなぜ今この時にそれをわざわざ語るのかが理解できない。
「それがこの度の事態とどう関係しているというのだ」
故に私は思わずそんな言葉を口にした。途端、慎二は再び口を開く。
「なぁ、衛宮」
「なんだ」
「じゃあさ。お前はなんで人間ってのがそんなあっちこっちでいろんな神話を紡ぎだしたのか理解できるか?」
「さて……」
そうして慎二は相変わらず意図の読めないことを告げてくる。だが私は、そうして語る慎二の表情が、彼がこれまでに一度も見せたこともないほどに真剣なものとなっているのを見て彼の質問が心からの問いであると判断した。真剣な思いから発せられた問いには、真剣に考えた思考の末に生まれた思いを返さねばならない。そんな私の中にある常識が原動力となっていた。そして私は慎二のそんな問いに答えるべく、唇に拳を当てつつ、彼の問いを思考し始めようとして――
「はるか昔の話だ」
しかしこちらが真剣に考えようとした様子から、私が慎二の問いに対しての明確な答えを知らぬことを察知したのだろう、慎二は思考をしようとした私を完全に無視すると、一人勝手に話をし始める。
「かつて人は生き延びるために別の何かから直接物を奪って、生存してきた。別の何かっていうのは、例えば、他の牛とか馬とかの動物の命だったり、鳥とか魚とか虫とか小さな奴だったり――、自分とは同種の、しかし自分とは異なる人間だったりしてきたわけだ」
「……」
「まぁさ。最初、それこそ本当に最初、自分たちに何ら余裕のない時は、いちいち『自分は誰それをぶっ殺して生きてきた』、みたいなこと考えている余裕なんてないわけよ。それこそ自分が生きるのに手一杯で、過去に自分たちが生き残るために起こした略奪、強奪のことなんて考える暇なんて、まったく、ない。でも――、例えば最初に文明と呼べるものを築いたバビロンの奴らは違った。農作、耕作などで生活基盤を作り、安定した生活を送れるようになった奴らは――、すなわち一定以上の知識層である例えばバビロニアのカルデア人を中心とした奴らは、やがて働く必要のない月夜、自分たちが殺してきた存在の――、自分たちが豊かに生活を送ってくるために犠牲にしてきた存在の幻影を見るようになった。いわゆる、心因性のトラウマによる幻覚幻聴ってやつを見たり聞いたりするようになったわけだな」
「ベトナム戦争においてアメリカ兵が罹患したようなものか」
「そうそう、その通り。そうして奴らは月の出る夜、眠りにつくたび、己の生み出した幻想によって苦しみ始めることとなる。自分が生きるために――、あるいは自分の生活を豊かにするために犠牲にしてきた奴らは自分に向かってこういうんだ。『よくも自分たちを犠牲にしたな。許さない。絶対に――、絶対にだ。お前の命が尽きるまで――、否、尽きた後すらをも呪い続けてやる!』ってね。そうして毎夜毎夜、自分たちが生きるために殺してきた存在に苛まれ続けてきたそいつは――、やがて自分の中に自分を守ってくれる存在を大きな存在を――、巨人という存在を作り出したんだ」
「もしやそれが……」
「そうだ。心因性ストレスを抱えた人間という存在が、自分が過去に犯してきた数多の『悪』と呼ばれる行動から逃れるために生み出したもの。それがお前たちが神話と呼ぶものなんだ。誰かを犠牲にすることでしか生きてこれなかった人間の罪悪感が、月の夜に自らを過去という名前の亡霊から庇護してくれる巨人の幻想を生み出した。――神話っていうものはね。そうした、いわゆる悪と定義するに相応しい簒奪者が、自らは多くの命と犠牲のもとに生かされているのだという事実によって発生する罪悪感という名の重しから逃れるため、救われるために必死でその辺に散らばっていた魔術と神を編纂して神話というものを生み出し――、そこに自分たちの血筋を組み込んだ。――神だのって概念は、人が自然現象を理解するために生まれた概念だ。でも神話が――、自分たちはそんな偉い神の子孫であり、そんな偉い神様たちが犠牲を望むからこそ、自分たちはそんな彼らを満足させるために――、多くの命を奪い取るのだっ……、てな具合に、誰かを傷付けてしか生きていけない自分を正当化するために生まれたものなんだ」
「……」
「で、今、この自分の罪――、責任という名の重しを自分で背負えない、背負いたくない奴らによって生まれた神話ってもんが、つい先日まで地球という桜の箱庭に住んでいた、桜の思考の分身に等しい――、自分の足で自分を支えられない奴らの負の感情によって起こされようとしている、っていうのが、今の現状なのさ」
「――なに?」
「世の中には三種類の人間がいる。遠坂みたいな勝手に自分で自分を救っちまうような奴と、お前みたいに、誰かの手を借りれば、そのうち自分をも救える奴。そして、桜のような、何をどうしようが救われないような、何がどうあろうと、自分なんか救われる価値なんかなく、下手に救われるくらいなら救われたくないと思うような存在だ。――蠱毒の術式によって余計なものとの接続を断たれ、魔のモノという枷から完全開放された人類のうち、ヘイムダルの男の鳴らしたギャラルホルンの呼びかけに応じたのは一部だったのを……、衛宮。お前も見ただろう? ――そうとも。長い年月のうちに桜の手によって牙を抜かれるよう選別され続けた新人類は、魔のモノによって余計な負の感情を抱くことすら許されなかった新人類はそのうち、桜みたいな、誰かに救われたいと思っているのにそれを口に出さない、たとえ救いを与えられようとそれが自分の望んだ救いの形でないのならば拒絶し、あまつさえは自分の意思では何一つとして動けないような――、誰か自分を守護してくれる絶対者に依存しなけば生きていけない、親離れの出来ていないガキみたいな存在ばかりが生まれるようになっちまったんだ」
「……」
「そうしてそんな自分が傷ついてまで誰かにあらがう気力を失っちまった奴らは、んでもってそうした負け犬根性たっぷりのクソどもが望むのは、世界という場所において自分が自分を絶対的に守ってくれる誰かの庇護下にある状況か、あるいは世界が自分の思い通りになるなんて言う状況だ。つまりあいつらは、そんな桜の分身みたいなやつらは、世界が自分たちの思うがままに動いてくれるか――、さもなくば、厳しくつらいそんな世界から自分を絶対的に守ってくれる神が存在する世界を望んでいる。だからこそ今、こうして神話が再誕の時を迎えた」
「――まさか、ならば」
「ああ、その通りさ。ニブチンのお前もようやく理解したようだね。――そうさ。魔術において源流たる部分が最も重要であるように――、この桜によって選別され、桜によって心を手折られた、桜のような人間ばかりとなった世界は、その桜のようになった心を救ってやらなけらば――、大人になりたくないと、ネバーランドの住人であることを望み続ける桜のような奴らの心を救ってやらないと、何度だって同じことを繰り返す。さっきも言いかけたけど――、例えばギルガメッシュとイシュタルを復活させ、お前らが地上に現れた魔のモノを――」
言うと慎二は手を振って地球儀を前に差し出した。そうして赤と青の光格子の目の前までやってきたそれは、エトリアの西にある場所――かつて冬木と呼ばれた町の直上部分において巨大な黒点を作っていたが――
「これは――」
「触手の球体みたいなのが……!」
やがてそこからは大量の蛇の髪のようにも見える、球体の全身より触手をはやしたおぞましい姿の存在が現れた。目の前の地球の縮尺から判断するに、それが現実には天にまでそびえる姿を持つ巨大な化物であることに間違いはあるまい。
「クラリオンをティアマトとして倒したのならば、この世界はバビロニア=シュメル神話体系の神話体系によって再構成されるだろうし、また、仮にピエールというギルガメッシュから太陽神アポロンとして認められた存在が太陽と例えた衛宮か、あるいはピエールとかいうやつがヴィーグリーズの土地と呼ぶその場所にて雄牛の形をとっている存在を破壊したのなら――、アポロン=ヘリオス=シャマシュ=ミトラスという繋がりを経て、この世界はミトラス神話の体系に基づいて再構成されるだろう。あの神話においては、ミトラス神が雄牛を殺したことによって世界が始まったわけだからな。――ああもちろん、シンとかいうやつがその力を振るってそこに漂っている巨人を――、ネフィリムとして殺せばYHVH体系の神話にて再生が行われる可能性が高いし、あるいはそこの剣――ラグナロクをスルトとして振るえば、世界は炎によって更新され、ダリやサガを中心とした北欧神話体系に収まってゆくに違いない。響とかいう九尾の狐にかかわるお嬢ちゃんを使えば、きっとこの嬢ちゃんは盤古や女媧なんかになって世界は中国神話系列で再生されるだろうし、クーフーリンとスカサハを利用すれば、ケルト神話系列で再生されるに違いない。そうだなあとは――、例えば仮に僕が悪霊として本来の姿を取り戻して、あそこにいる雄牛と巨人を殺したとしても――、そうなればそこにいるギルガメッシュによって予言者の名を持つといわれた衛宮が、やがて紆余曲折の末に響とかいう選ばれた十五歳の処女の子宮に精液を注ぎ込むなんて言う運命を得て――、そこから生まれる英雄サオシュヤントがこの僕を殺すなんて言う、まぁ、ゾロアスター神話に語られる伝承通りの出来事が起こっていくはずさ。都合のいいことに、この世界はかつて世界が滅んでからだいたいちょうど一万二千年の世界の更新期だしね」
荒唐無稽にしか聞こえない話には、しかし不思議なくらいに説得力があった。それはおそらく、この世界が再誕に向けて動いているという事態を肌身で体験し続けている自分たちだからこそ思えるものなのだろう。
『――まさかお主は……』
そしてまた、ゴウトは慎二の今しがたの言から、その体を構成している存在が一体なんという存在なのかを推測できてしまったらしく驚いた表情を浮かべた。それを見た慎二はやはり、しっ、と、人差し指を唇に当てて、その名前は言わない方がいい、との意思を身振り手振りにて示した。それを見たゴウトは、信じられない、と言わんばかりに首を振りながらも、その小さな体に宿している不釣り合いなくらいに大きな意志をもってして、自らの口を固く閉ざし、その小さな口から慎二の仮面をかぶるものの真名/神名――アンリマユというその名が漏れることを防いだ。慎二はゴウトがそうして自らの意図を読んで口を閉ざしたことを無邪気な顔で歓迎してみせると、意気揚々と両手をまるで指揮者のように振り回しつつ、大きく口を開いた。
「お前らがそんな神によって支配される世の中を――これまで桜がやってきたような歪な世の中を望むってんなら、まぁそれもいいさ。僕の――、慎二って男の願いは桜を救ってやること。世界がそんな歪な形になっても、一応それはまぁ、桜が望んだ世界になるってことなんだからな。もちろん多少不満の望む形ではあるが、この先の歴史がどんな神話に収束しようが、慎二(/僕)の願いは――、桜の望みはそれで叶うんだ。だけど、もし――」
「もし、お前らがそれを――、他人の傀儡として動かされることを良しとする発育不良みたいな奴らばかりが繁栄する世界を、他人の庇護下でぬくぬくと自己の責任を自ら負わなくて済む生活することだけを望むくそったれなやつらが蔓延る世界を嫌だってんなら――」
言いながら慎二は赤青の光格子の方へと手をさし伸ばしてきた。そうして慎二の伸ばされた掌が光の格子へと触れた途端、自分たちと慎二らとの間を遮っていた格子は儚く砕け散り――、
「慎二(/僕)の真の願いを叶えろ。すなわち、今や月と巨人の原典となっている桜の心を救って――、そこから派生したすべての人間の心を救ってみせるがいい」
細い腕が伸ばされてくる。私たちはそして――
*
*
「こ……、こ、は……」
目が覚めたとき、目の前には白塗りの壁があった。壁。そう壁だ。目の前にあるそれは、壁としか呼べない姿をしているのに、しかし壁と呼ぶにはあまりにも現実感のない姿をしていた。なぜならその壁には、色味がない。否、もっと言ってしまえば、壁にはそれが現実のものであると感じさせる要素――厚さというものがまるで存在していなかった。その壁は空間と空間の間に引かれた黒い線によって壁として定義されている状態にすぎないのだ。そしてまた、現実味がないのは壁だけではない。
「これは……」
振り向いてあたりを見渡してみれば、壁に連なる家々も、壁の支えとなっているはずの地面も、地面に敷かれている道路も、道路に存在している標識も電柱も信号も、道路から繋がっている橋も、橋の下に見える川も、川を挟んで岸の向こう側にある都会風の街並みも、街並みの中にポツンと存在する摩天楼の如きビルも、そのすべてがまるで出来損ないの絵本から飛び出してきたかのような、それを形作る輪郭によって「そうあれかし」と定義されたにすぎない代物だった。
「町……、なのか? しかも……」
線絵の町、とでも呼ぶにふさわしい光景の中、どこか落ち着いた気持ちで歩を進める。町の中は歩いた際に足裏を刺激する感覚すらも定かでない状態だった。見覚えのある町はしかし今、ほとんど完全に死んでしまっている。平素においても街中に微か流れる風の流れなどもその一切がなく、吐けば白く曇る息はその場にふわりと浮くことすらなく地面の上に落ちてゆく。耳を凝らしたところで人の気配を覚えるわけでもなければ、鼻を鳴らしたところで香りが鼻腔をくすぐることもない。もしも曙近くに見ることの出来る夜桜色に染まる空と、そんな漠とした空の中に点在する綿雲や、家々の窓や摩天楼のビルに仄か輝く白色。そして我が身が纏っている赤や黒といった視覚を刺激する光の要素と、この海沿いの町において晩冬あたりにのみ感じられる身を切るような寒さが存在していなければ、自分は夢見の心地に揺蕩っているのだろうかとすら思いこんでいたかもしれない。この場所は―ー、冬木の町はそれほどまでに自分の知る光景や状態とかけ離れていて、なんとも薄っぺらい感覚がした。
「なるほど、人の記憶とは頼りにならないな」
冬木の町。かつて××士郎が過去の全てを失った町。衛宮切嗣に拾われた××士郎が衛宮の名を与えられて衛宮士郎として生まれた町。すなわち衛宮士郎が生まれ育った町。そして。
――私の、故郷
そう。我が記憶の中にあるその姿形がすでに朧な状態となっている、かつ、そんな朝霧に包まれたような状態の記憶の細部における造形と周囲に広がる町の状態には多少の――、否、大いに異なる点こそ細部に多々見受けられるものの、大まかには一致していた。その事実が示すことはつまり、今自らの周囲に広がっている光景はかつての私が生まれ育った町のそれに違いなく、故に私は違和感こそ覚えるものの、ここが私の妹分である彼女の―ー、桜の心象風景であるということを、自然と受け入れられることが出来たのだ。
「……」
桜。間桐慎二という私が良くつるんでいた悪友の妹にして、かつて私がまだ胸に青臭い理想と泥くさい正義とを何の疑問も持たずに無邪気に同居させられていたころ、そんな私の未熟さを肯定するかのような儚い微笑み携えていつも私の隣に佇んでいた、私にとっての妹分と呼べる清楚な少女。そして今、世界の敵となった女。
――ああ、間違いない
だがしかし、そうして世界樹が屹立する世界において討伐すべき異常であると断定された女の心象は、なるほど異常な状態でこそあれ、かつて私の隣で微笑んでいた時のよう、日常を愛する祈りに満ちている。そうして日常と異常の入り混じった桜の心の中に作られた心象風景――、いわゆる異界にライドウの術式「異界開き」によって送り込まれた私は、そんな彼女の記憶によって形作られた町を歩んでゆく。向かう場所は自然と理解できていた。
――否、理解できないはずがない
なぜなら、色素を失い、まるで死んでいるかのようなその街の光景において、ほとんど唯一、色を失わずにある存在が、町の高台の上にいくつか点在していたからだ。
「間桐の家。私の家。そして、穂群原学園、か」
贋作の町の中に存在する真作の名は、桜の家、桜の先輩である衛宮士郎の家、そして桜の通っていた穂群原の学校の校舎というものだった。閑静な住宅地を抜けた先にある冬木の町の高台の上に存在しているそれら三つの建物は、この物寂しい夜空ばかりが目立つ世界においてほとんど唯一といっていいくらい多くの色によって彩られており、まさに別格としか言いようのない輝きを放っている。また、遠目から見える建造物のその造りも何ともはや精巧なものであり、その精度は投影魔術という、解析により読み取った情報から限りなく真作に近い贋作を作る能力を保有している私の記憶の中に存在しているものと寸分たがわないほどの出来映えだ。私はそして、あれらだけがこの狂ったような世界の中で唯一無二の存在となっているその理由を自身の経験から嫌というくらいに理解できていた。
「あれが桜にとっての日常の全て、というわけか」
摩耗していった昔の記憶がある。霊長の守護者として過ごすうちに消えて行ってしまった多くの記憶の中において、今なお変わらず色彩豊かに鮮明な形で思い出せる記憶は、どれもこれも自らにとってかけがえのない出来事の記憶ばかりだ。とある作家を真似て桜の生涯を『Das Märchen meines Lebens(/わが生涯の物語)』などと例えるならば、すなわちその本の原典であるともいえる場所が、桜にとってあの三つの箇所なのだろう。
「最も近いのは――、桜の家か」
判断を下すと、いつかかつて辿ったことのある、しかし今やほとんど見覚えのなくなっている蜘蛛の巣のような小路を縫い進めてゆく。おそらくは晩冬の季節なのだろう空の下にある町の空気はしかし不自然なほどに停滞している。そのくせ覚えのある冷たい朝霧だけはしっかりと存在しており、我が身を寒さと共に包み込んできた。
*
「よぉ、衛宮。遅かったじゃないか」
そうしてそろそろ防寒具でも投影してやろうかと思いながら進んだ先、見覚えのある歴史を感じさせる風情をした間桐の家の門の前にその男はいた。
「慎二」
両手に吐息を叩きつけてこすり合わせ、掌にわずかばかりの熱をおすそ分けしながら、その名を呼ぶ。慎二(/アンリマユ)。そうしてこの世の全てよ呪われてあれ、というそんな物騒な名を持つ、かつての私の親友だった男を、かつての私の親友の名前で呼ぶと、桜の願いによって呼び出されたこの世の全ての悪という存在でありるはずのそいつはしかし、何とも無邪気な笑顔で、かつての私の親友のように、私の言葉に反応した。
「目が覚めたとき、僕は僕の部屋にいた。お前は?」
ベージュ色の穂群原学園の冬の学生服の襟を着崩して纏っているその男(/慎二/アンリマユ)は、いつも慎二がやるように髪をかきあげながら言う。そうして慎二の顔で慎二ならやるだろう所作をされると、この目の前の男が慎二と完全に同一の存在でないと理解していながらも――、どうにもこの目の前の男が完全に慎二であるように思えてしまうのだから、つくづく人間の記憶と感覚などというものはあてにならないものだ。
「橋の近くだ」
「ふぅん……。ああ、だから変な方向から来たのか、お前」
言うと慎二は少しばかり考え込む仕草をしながら言う。仕草によって襟の開かれた首元が大きく動き、服と肌の隙間に寒風が侵入してゆく様を幻視したが、しかし慎二はまるで何の反応もせずに、ただうんうんと考え込むばかりである。どうやらこの男は私と違って、寒さというものを感じない性質であるらしい。そんな性質がはたしてこの男の生来の気質によるものなの、あるいは今の彼の能力によるものなのかは知らないが、今、この時この瞬間だけそんな寒さを感じないという特性がひどく羨ましかった。
「……ちょっと意外だね。起きたとき僕は僕の部屋にいたから、僕はてっきり、そいつと一番関連した場所に飛ばされるのかと考えたんだ。だからお前は多分衛宮の家に飛ばされたんだろうと思っていたけれど――」
思考がまとまりきらなかったのか、慎二は尋ねてくるように言う。
「さて、彼女の――桜の考えることなど私にはわからないよ。だがまぁ、あえてその事情を考えるなら――」
故にそんな慎二の言葉を私は受けると――、
「考えるなら?」
「――桜は、可能な限り、己/桜を否定した私に、自分の大切な思い出の場所に足を踏み入れてくれて欲しくはないのだろうよ」
暗がりの部屋から去るおり、桜が見せた怯え顔を思い出しながら言う。
「……は、なるほどね」
告げると慎二は納得したといわんばかりの態度で、しかし呆れたといわんばかりに大きく息を短く吐き捨てると、やれやれという風に首を横に振った。
「私の大好きな先輩が私のことを否定するわけない。そんな先輩は先輩じゃないってか? まったく、だからガキだってんだよ、あいつは」
「……」
慎二のような口調で、慎二が言うように起こって見せるそいつは、まさに慎二そのものだった。私は桜もきっと、ガキのような我儘さを持ったまま成長した男である慎二の姿をしたそんな存在にガキだのなんだの言われたくないだろうな、などと思いながら、しかしもちろんそんなことを思っていることなどおくびにも出さないまま、無言を貫く。
「ああ――、でも、そういうことなら――、そうか……、なるほど、そういうことか」
そうして慎二らしくこちらの思惑に気づかない様子の慎二(/アンリマユ)は勝手に納得したようなことを言うと、自宅である間桐の家とこちらとの間で視線を数度往復させたのち、ニヤリと意地悪気に笑い、くるりと私に背を向けて歩き出す。その気まぐれに見えるさまも何とも慎二らしく、私は一瞬、声をかけるのも忘れて彼が進むのを見送りかけてしまっていた。
「さて、じゃあ行くとしますか」
「どっちへだ?」
そうして呆然とした私が慎二の言葉に体の自由と意思を取り戻し、ようやく再稼働し始めた脳みそからそんな質問を絞り出すと、慎二は振り向いて意地悪そうに言った。
「お楽しみは後にとっておこう。まずは――、学校の方に行こうぜ」
慎二はそして前を向きなおすと、通常の状態より少し色味が薄い間桐家を振り向くこともなく、学校へと続く道を歩き始める。その足取りに迷いはなく、なんとも自信に満ちている。故に私は、何ら疑問を抱くことなく彼の後に続き、その背中を追いかけるようにして足を進め始めた。
*
慎二と並んで穂群原学園へと続く道を歩く。それは何とも不思議な感覚だった。慎二の姿をしたアンリマユは自分の記憶の中にあるものとまるで変わらない姿をしている。手ぶらであることを除けば、学園指定の学生服を身に纏って学園へと向かう慎二の姿は何とも自然な装いだ。対して私は、いつもと変わらない赤の聖骸布と黒を基調とした戦闘服を身に纏っている。慎二の自然さに比べて自身の恰好は明らかに異常者のするそれだ。だが、線と点と面ばかりで描写されている周囲の非日常的な光景からすれば、むしろ異常であるのはそうした日常と変わらぬ姿をしている日常と変わらぬ態度を振舞える慎二の方と言えるだろう。
この桜の心象風景という空間内においては日常と非日常、正常と異常の判定が逆転している。そう。すなわち、正は負へ。生は死へ。そして――
――正義は悪へ。悪は正義へ。
すべてがあべこべとなり伽藍洞の贋作だらけとなった町中を、ただひたすらに慎二/この世の全ての悪とともに平穏無事なままに歩いてゆく。正義の味方を目指すものと、この世の全ての悪(/アンリマユ)が並んで歩く光景などそうは見れない光景であるに違いない。
「この町はさ」
なとと考えながらそうして人の記憶のあやふやさを示すかのような道を歩いていると、やがて両の手を頭の後ろに組んだ慎二は、振り向くこともなく唐突に語り始めた。
「あいつがその能力で意識の中に作り上げた、いわば箱庭の――、いや、影絵の町なんだよ」
天然パーマの向こう側から聞こえてくる声は、何とも断定的で、そして説明口調でもある。
――果たして慎二は何の意図をもって、そんなことをいうのだろうか
「影絵の町?」
思いながらも、私は話の腰を折らぬよう、自然な態度で聞き返す。
「そう。あいつの本来の魔術の才能は『架空元素・虚数』とかいう、なんていうか、この世の裏側にある不確定なものを操る能力らしいんだ。ただしあいつは、そうした自分の才能を活かすためのまともな訓練を受けていないから、自分自身の才能を巧く操れないんだろう。結果―ー、表層にある無意識のうちに収納されていた興味のないものはこんな風にスカスカの状態で、己の深層意識(/イド)の中にまで深く刻み込まれているものは色鮮やかなんだ」
進む慎二は頭に組んでいた手を前方に広げながら言った。そうして広げた手の内には、なるほど、慎二が言うところのスカスカの街並みが収まっている。
「ふむ」
「ただし、これらは当然ながら本物じゃない。お前の固有結界みたいに、実態を持っているわけじゃない、桜の意識の中によって再現された、本物の冬木の町の、出来の悪い影だ。決して実態にはなりえない、――だから影絵の町。――どうだ? なかなか洒落た言い回しだろう?」
慎二はやはり振り向くこともなく同意を求めてくる。口調は何とも誇らしげだ。おそらく慎二の後頭部で見えぬ向こう側、すなわち前方に向けられているその顔面には、してやったりの笑みが張り付いていることだろう。
「……なぜ、今それを?」
慎二の意図がつかめない私は、素直に胸の裡に湧き出てきた疑問を口にした。
「さぁね。なんとなく話したくなったのさ」
しかし慎二は答えないまま再び黙りこくってしまう。再びあたりは静謐さを取り戻す。二つの異なった作りの靴裏が地面へと叩きつけられるたび、片や短く、片や長い間隔にて音色を立て、町中に生きた証を作り出していた。多分はそうした生物のみが鳴らすことを許された規則正しくもどこか不揃いな音色が意識を周囲にまき散らしたのだろう。あたりに気を配ると、周囲の光景や自然はやはり確かに、偽物と呼ぶ以外ないほどにどこか不自然な作り物然とした感触を覚えてしまう出来だった。時折やってくる肌と白髪に吹き付けられる風はまるで羽根つき扇風機を回しているかのように直線的であり、太陽もないのにいずこよりかやってきて肌に触れていく光は爆ぜ返しや影を残すといった現象を起こすことなく浅黒い肌や白い地面の中へと沈み失せてゆく。そんな風が容赦なく運んでくる先と違ってようやく鼻腔をくすぐるようになった匂いは強い香水をぶちまけたかのような不自然さに満ちており、不自然な光によって照らしあげられた木の葉に至っては人工物であるのかと思うくらいに毒々し色合いをしている。
おそらくそれは慎二が言う通り、桜が必死に記憶の中からかつて幸福だったころの記憶を再現しようとして、しかし上手くいかなかった証なのだろう。桜は万年という年月の間に摩耗した記憶の中から、それでも必死にかつて自分が幸福であった時のことを再現しようとした。しかしやはり年月という名の毒の影響は甚大であり――、結果、そんな桜の必死の努力はむなしく無為に終わってしまったのだ。だからこそ周囲にあるこれらの光景はこんなにも不自然でありながら何とも生への執念と情念が生々しく感じられ――、そんな不揃いな不一致が、私の心の中からこうも胸を突く物悲しさを引き出しているに違いない。だが――
「……む」
そんな憐れさばかりに満ちていた桜の心象風景は学校に近づくにつれて、鮮明な色香と色彩と色形を取り戻してゆく。山の端からやってきているのだろうわずかな光によって線絵のような建物にはわずかながらの陰影を生まれ、また、いずこかより流れてくるわずかな風が木々の葉を揺らしては新緑の心地よい匂いだけをふわりと残して過ぎ去ってゆく。先ほどまでの不自然さに比べて、それはあまりに自然な、自然に近い感触だった。周囲の自然は先ほどまでの陳腐さが嘘のように、歩を進めるにつれて天然の精緻さを取り戻してゆくその様に、私はビデオの逆再生――、否、まさに、絵筆によってただの落書きに過ぎなかった絵画に生命が吹き込まれてゆくような倒錯を覚えた。
「衛宮。お前、投影ってしってるか?」
そうして周囲の自然が多少の不自然さを伴いながらも色と命を取り戻していくという不自然を、やはりというべきか不自然な心持ちで賞味していると、慎二はやはり振りかえることもなく再び口を開く。そうして投げかけられた言葉は、私にとって非常に馴染み深いものだった。
「それは、当然、しっているが」
投影。解析魔術により読み取った情報から、物体を作り出す、この身が収めている魔術の一つ。なぜ慎二が突如としてそのようなことを尋ねてきたのか理解できなかった私は、多少困惑気味ながらも答える。
「ああ、お前の魔術(/そっち)の投影じゃなくて、心理学の方の、投影」
慎二が何を目的としてそのようなことを尋ねてくるのかはさっぱりわからない。わからないが、あいつは基本的に自分にとって意味の無いことをやるような男でないことを自分は知っている。ならばこの問答は、あいつにとって、ひいては私にとって意味のあることに違いない。だからこそ、私は慎二の問いに真っ向から答える。
「……端的に言ってしまえば、自分のコンプレックスから目をそらし、他人にそれを押し付けることだろう?」
「お、流石。――そう、その通りだ。嫌いは好き。好きは嫌い。嫌いなのは自分の出来ないことを出来るから。好きなのは自分の出来ないことが出来るから。好き嫌いの感情は表裏一体。あいつのことが嫌いなのは、実は自分の見たくもない部分を、やりたくても出来ないことを当たり前のようにやっているからだった、なんてのは、よくある話だ」
慎二の言葉を聞いたとき、思い出したのは言峰綺礼という人物だった。思えば私という人物が奴のことを不倶戴天の宿敵として嫌っていたのは、奴が私と異なり、人を個人として扱う、ある意味で平等に他人に愛を注ぐことの出来る人物だったからなのだろう。心の中が伽藍洞であった私と異なり、あいつの心の中は他人から蒐集した悪意(/好意)の記憶に満ちていた。投影、解析という魔術が示す通り、私は人(/物)の肉体(/外側)という魂の入れ物とその歴史にばかりが興味の対象だったが、奴というと男は人(/物)の魂(/内側)とその在り方にばかり関心を持つ男だった。私は人の肉体を救える人間だったが、人の心を救える人間ではなかった。あいつは人の肉体を平気で壊す(/切開する)人間だったが、その内側にある人の心に干渉して、時には救うことも出来る人間だった。だからこそ――私はあの男に憎悪(/羨望)の感情を無意識のうちに投影していたのだ。
「さっきここに来る前にも言ったと思うんだけど……。――思うにさ。あの世界樹がいくつも立ってた世界に生きてた人間は桜の心の投影――箱庭なんだよね」
慎二はひどく真剣な表情でそう吐き捨てた。
「箱庭?」
「そう、箱庭。投影と同じく、心理療法の一種に箱庭療法ってのがあるじゃん? 区切られた箱の中に砂が入れてあって、その箱と砂と人形とかおもちゃとかを使って、箱の中に空想の世界を作らせて、出来上がった箱庭からそいつの心理状態を読み取るってやつ。ま、この場合、桜はすでに出来上がっている世界から自分にとって気に入らない要素を取り除き続けてたわけだからちょっとそれとは厳密には違うかもしれないけど―ー、結果として自分の気に入るもの/気に入らないものばかりが入った箱が出来上がるわけだから、同じみたいなもんだろう」
「彼女がそこに生きる人々を選別していたからか?」
「そうそう」
尋ねると慎二は軽々とした口調で返してくる。
「桜が上から命令されてたのは、文明を発展させてしまいそうな英雄的素養を持つ奴らの排除だ。いやまぁ確かに、桜が排除していたのは基本的にはそんな英雄としか呼べないような実力持った奴らも多かったよ? 実際、下の世界でフェンリルを撃退したのも、ヨルムンガンドを抑え込んでいたのも、そんないわゆる英雄的な力を手に入れて、あるいは元から保有していたがゆえに、お伽噺に残さざるをえないような活躍をしたやつらばかりさ。――でもさ。衛宮、お前、さっきのメディ子とかパラ子とかガン子とか、そういうの見て、どう思った?」
質問の意図は相変わらず読めないが、慎二が向けてくる真剣な表情にはこちらが無言を貫くことを許さないといわんばかりの迫力が秘められている。故に私は気圧された。否――、というよりかはその真剣さには胸を打つものがあった。故に私は自然と、慎二の質問内容について真剣に思考を巡らせる。
「……まぁ、多少性格に癖はあったし、普通の人よりは実力もあっただろうが――」
「そう。そうなんだ。あいつらは確かに多少人より優秀かもしれないけれど、別に英雄的素養と呼ばれるほどの才能を持っているってわけじゃない。あいつらは世間一般でいえば、普通――つまりは優秀って言葉の範疇に収まるような奴らなんだ。――でもそれでも桜は、あいつらのことを月の中へと排除した。なぜだと思う?」
少しばかり考え込み、そして思い至る。
「なるほど……、桜は彼女たちに、英雄の仮面を投影した、というわけか」
「その通り」
慎二は我が意を得たり、と言わんばかりに両手を打つと、目を細めつつ、続けざまに言った。
「あいつらは普通だ。普通に生を謳歌して、普通に誰とでも仲良くなって、普通に仲間と一緒の冒険を楽しんで、普通の感性を持ち、普通の女としての悩みを持つ、世間一般にいう、普通の人間だ。だからこそ――桜はあいつらを回収した」
「……」
「桜はそんな普通の幸せを手に入れられなかったからな。だからあの世間一般でいうところの普通の奴らは、桜にとってはある意味で英雄的素養を持つ奴らなんだ。桜にとっての普通っていうのは、例えば、お前みたいにある一つの目的以外に目もくれないやつとか、例えば僕みたいに他人の気持ちを当たり前のように無視するとか、理解できないとか、例えば遠坂みたいになんでも割り切って見せるやつとか、例えば自分みたいに自分の変えられない部分の弱さを認められないやつとか、誰かに対する愛情を必死にごまかしている奴とか、あるいは親や家族に大した愛情を持てていないとか――、つまりはそういう、僕らみたいな、世間一般でいうところからすれば異常と呼ばれるような特徴を持ったやつなんだ」
「……なるほど、得心がいった。だからこそ、彼ら――、シンやダリ、サガにピエール、ついでに響たちは、もはや世間からすれば英雄と呼ばれるような力を持っていながら、その心の中には多くの懊悩を抱えており――、故に彼らは決して満たされていなかった。――彼らのそんな悩みは、桜にとって、同情に値するものだった。だからこそ彼らは――、桜にとってある意味でお仲間ともいえる彼らは――、回収を後回しにされたのか」
「その通り。――桜は最終的に英雄と呼ばれる力の持ち主を回収する。だが桜が優先して回収するのは――、その果てに自分が手に入れられなかった普通の幸せを不公平にもあっさりと手に入れた一般人/英雄たちなんだ。桜は普通の幸せを手に入れた彼らにこそ、自分が手に入れられないものを手に入れた存在(/英雄)の姿を見つけて、投影する。だからこそあの世界には、桜が普通と思うような――、世間一般の普通とはかけ離れた、僕たちみたいに普通の幸せを持てない、世間からすれば異邦人じみた奴ら/異常者ばかりが取り残されることになった」
「……だから、あの世界は桜の心の投影、か」
「そうだ。だからこそある意味であの世界は、桜にとって自らの分身ばかりが蔓延る箱庭であり、故に見たくもない自分の心の醜い部分が投影された世界だったんだ。まぁ、魔のモノが悪意を吸収するシステムがあるせいで、うちのジジイみたいなくそったれが生まれることは無くなったから多少はましだったんだろうが―ー、それでも――、否、だからこそ世界には自分が嫌いな、まるで桜(/自分)のような醜い自己嫌悪コンプレックスを抱えた奴ばかりが増えてゆく。自分が手に入れられなかった幸福を手に入れた見たくもない奴らを監視して、自分みたいな意志薄弱で他人に行動選択の権利を委ねるような奴ばかりが増えていく世界の監視は、桜という心神耗弱状態の奴にとってフラッディング法みたいな効果を発揮してしまった。結果、たまったフラストレーションは桜の心に傷を作り――、桜はそんな拷問じみた状況に耐えうる人格を生みだした」
「それがメルトリリス、というわけか」
「そう。桜は気弱で、流されやすく、依存心が強く、自分の醜い部分を他人に見られたくないと思う女だった。だからこそメルトリリスは、傲慢で、我儘で、基本的に他人に依存しない、自分の体に醜い部分なんてないと見せつけるようなそんな性格の女として―ー、そんな桜の子供のころの記憶から生まれた投影によって生まれた人格になったし――、そんなメルトリリスを守るために生み出されたお前らが『桜』と呼ぶ、お前らのお仲間を騙した奴は、腹芸をも使えるような大人の桜になり――、結果として、他者の意見に対してはいはいとしたがう、従順で自らの意思では何もできないような、子供と大人の境界にいる思春期の『桜』って人格だけが、AIっつぅ、旧人類の呪いの中に取り残されちまったのさ」
先を行く慎二は言うと、振り向きもしないままに道を進んでゆく。相変わらず慎二が何を言いたくてそのようなことを語るのかはわからないが、一文字一句を聞き漏らさないようにしながら、ひたすらその後に続いてゆく。会話の熱があたりに広まったためか、先ほどまであった朝霧はすでに完全に消え去っており、肌を包み込む寒さもどこかへと消え失せてしまっていた。
*
「あぁーー、まったく、ここはあの時から変わってないな」
穂群原学園の校門前にたどり着いた慎二は両手を広げながら言った。暗闇、月と星に照らされた校門前は時間帯に見合った静けさを保っている。これが早朝ならば、この辺りは校舎に入ろうとする学生で溢れ、慎二の他に自分と仲の良かった友人、生徒会長の柳洞一成が門を通る生徒に声をかけていたに違いない。この場所は――、はるか昔、そんな自分の摩耗したはずの記憶を思い起こさせるくらいには、色と匂いと当時の雰囲気に溢れていた。そしてそれは同時に、桜という彼女がどれほどまでにこの穂群原学園という場所に執着を抱いているのかを示しているといえるだろう。
「お、見ろよ衛宮」
「ん?」
「やっぱり、あいつ、校舎よりも弓道場の方が思い入れ深いらしいぜ」
思う間にもさっさと校門から校庭へと侵入していた慎二が指さす方を見れば、どこか端々に胡乱気な雰囲気のある校舎よりもしっかりと造形が保たれている弓道場が目に入る。桜の心象風景にある弓道場は、入り口にある瓦屋根の雨除けも、白塗りの漆喰壁面も、入り口の引き戸も、果ては壁に刻まれた普通ならば見落としていてもおかしくない細かい傷跡までもが再現されていた。
「お、僕がお前にむかついて蹴った後まで残ってらぁ。まったく、桜もよく覚えてるもんだ。――ああ、そっか。だいたいお前か桜が弓道場の手入れとか掃除を主にしてたもんなぁ」
「……そうだったな。慎二も藤ねぇ――、藤村大河に当番を任されることはあったが、たいていそんなときは――」
「「面倒だからお前に/面倒と言って私に、押し付けていた」」
指をさしあいながら、ほとんど同じセリフを同じタイミングで言い合う。
「く」
「はっ」
慎二の姿をしたそいつとのやり取りは、はるか昔に失せたはずの記憶と感情取り戻させるに十分な効力を発揮したらしい。気づけば自然と笑いがこぼれ、笑いあっていた。互いに失笑を漏らしあうと、どちらからともなく扉を開き、件の建物の内部へと足を踏み入れる。そうして久しぶりに踏み入れた弓道場は、これまでの中で最も自然に日常的な雰囲気が保たれていた。
「おーおー、懐かしいねぇ、この雰囲気……、って、衛宮。お前、何やってんのさ」
「何って、神棚に一礼して挨拶を……」
「衛宮って、ほんっと、クソ真面目だよな。お前、ここ、桜の心象風景なんだぞ? これが表の世界だってんならまだしも、なんだっていもしない神様に挨拶する必要があるんだよ」
「む……」
――なるほど、一理あるかもしれんがそれは気持ちの問題だ
などと思っている間にも慎二は無遠慮に奥へと進んでゆく。そうして弓道場の奥へと進んだ慎二は、やがて倉庫へと向かい、やがてその両手に一つの和弓と四つの矢を手にして戻ってきた。
「それは……」
「絶対あると思ってたんだよ。お前の弓。あいつ、お前が退部してからもずっと手入れを欠かしていなかったからさ」
言いながら慎二はそれを差し出してくる。その所作があまりにも自然だったものだから何の疑問を持つこともなく和弓を受け取ると、桜の心が作り出したはずのその弓はまるで自分が魔術を使用して投影したかのような精度のものであることに気が付ける。
――和弓、か
しかしそのような精度にて作られた、今私が使用している黒塗りの洋弓とは目的も用途もまるで異なる、かつて学生時代に自分が用いていた弓は、しかしだからこそ今の自分にはひどく違和感のあるものだった。違和感は、かつてのあの時と比べ、自分の背が驚くほど伸びたという事実と、なにより、他者を害するべく黒塗りカーボン製の洋弓に刃のついた矢ばかりを番えていたという心理的な要因から発生しているに違いない。たぶん私は、心の底で今の自分にこの弓を扱う資格がないとそう思っているのだろう。
「せっかくなんだし、一射していけよ」
だがそんな私の葛藤を知ったことかと言わんばかりに、慎二は和弓と数本の矢をこちらへ差し出しつつ、顎で的を指し示した。慎二の顔はやはりいつものままで、彼がどのような意図でそれを指示してきているのかわからない。その屈託ない表情には、何も考えていないようにも見えるし、しかし、何か深い考えがあるようにも見えるものがある。
「いや、私は――」
「いいから撃てって」
「……はぁ。――わかったよ」
自らの指示を聞き入れられなかったことに苛立つ様子の慎二を見て一つため息をつくと、一緒に差し出された四本の矢を手にして、本座から射場に立つ。不思議なもので、一度射ると決めてしまえば雑念は消えて、心の中にあった蟠りは瞬時に消えてゆく。
「――」
そうして心静かなままに構る。弓道において重要なのは、絶対に的に当てるという意思ことでなく、何があろうと自然のままに任せようという心構えだ。
「ふーん、腕はなまってないようだな。ていうか、むしろ上がってない?」
構えた瞬間からもう自分の体からは余計なものを完全に失せさせる。
「ま、そりゃそうか。お前、今、英霊とかいうのになるほどの腕前持ってんだもんな。――しっかし、お前も本当に嫌味な奴だよねぇ……。弓道場に来たその瞬間から、お前、全ての弓道家が目指す境地にいるってことを示しちまうんだからさ。そんなお前のせいで何人かの部員が止めちまったんだぜ? 『自分はとてもでないけど、あの人と一緒に弓を射ることは出来ません』ってさ」
矢を構えるのも、矢を射るのにも力はいらない。弓道とは構えが真に正しければ――、心に乱れがなければ、必ずその先にある的の中心に矢が当たる、そういうものである。そう。心に乱れがない限り、矢は必ず的の中心へと的中するのだ。
「まぁ、僕みたいに弓以外にもいろんな才能あるやつならともかく、そこいらの凡才にはキッツい光景だよねぇ。自分の日々の努力を軽々と越えていく存在が突如として目の前に現れて、それまでの自分の努力を否定するかのように結果を出して、名声も何もかもを手に入れてくんだからさ」
そうとも、弓を構えればもはやそこは周囲から完全に隔絶された空間だ。この空間の中に的と弓を構える自分と矢以外には何も存在していない。ある種の固有結界がそこには敷かれている。そうして極度の集中を行いながら、しかし、全身には一切の余計な力を籠めない。そうすればあとは指の力が抜けたその時、矢は自然と放たれ――、
「知ってるか、衛宮。僕にとってお前は使えるやつって評価だったけど、他の部員にとっちゃお前は不気味な存在で、厭味ったらしくて気持ち悪いって評価を降す奴の方が多かったんだぜ? ほら、お前ってば、そんな実力と才能あるくせに、こんなもの出来て当然だろう、なんていう態度じゃん? そうして他の奴が心底焦がれる才能を持ってるくせに、その優れた才能を『そんなもの』扱いするんだから、そりゃあ、他の凡人どもからしたらたまんないよな」
すぐさま、タン、という音を立てて、弓の先端は的の中心に直撃する。
「――お見事」
残心を行うと、そんな声が聞こえてきた。一礼すると再び隣の射場に立ち、同じ動作で足踏みから構えへと移行しーー、同じ八節をはじめから繰り返しては心を静かに保ち、一矢、二矢と的場の空いた的めがけて放ってゆく。一度この境地に入ってしまえば、もう完全に外のノイズは聞こえない。自分の中にあるのは、ただ的と、矢を射ろうと――、放とうとしている自分だけ。
「まぁ、奴らの気持ちも今の僕ならわからないでもない。何せ僕には固有結界なんて言う魔術の奥義をその身に宿していたお前と違って――」
――望む魔術の才能が欠片ほどもなかったんだからね
タン、と音が鳴る。残心のさなか、今度拍手は聞こえてこなかった。
*
やがて的場に並ぶ四つの的の中心に鏃のない矢が突き刺さったころ、慎二は両手を強く叩き合わせ、こちらへ拍手を送ってきた。
「いやぁ、流石の階中、恐れ入るよ」
「ああ」
「ああ、もう、ほんと、嫌味な奴。出来て当たり前、みたいな顔しちゃってさ。少しは嬉しそうにしろよな」
多分は心からのモノでない言葉に、それでも非礼とならぬよう礼の言葉を返すと、慎二はひどく不愉快そうにそんなことを言った。
「いや、仮にも私は、弓の英霊(/アーチャー)であってだな――」
慎二の言葉に言い訳がましい――、というよりも、むしろ説明口調で私がそれを出来て当然な理由を語ろうとすると――、
「いや――、それは関係ないんだ」
慎二はそんな私の言葉をあっさりと否定して――、
「――え?」
「なにせ僕が見たかったのは弓道/衛宮の腕前であって、弓術/エミヤの腕前じゃないからな」
「――」
そうして慎二は私の胸の的をすとんと抉るようなことをあっさりと言いのけると――、
「まぁ、いいや。だいたい分かった。――もうこの場所には用がない。いこうぜ、衛宮」
やはり慎二はこちらの返事を聞くこともなく、さっさと弓道場から退出してゆく。扉がガタガタと煩い音を立てて開き、そして閉じられる。寒々しさを増した弓道場には弓を持って佇む私だけがぽつんと残されていた。手中にはかつて私が使用したことのある和弓が収まっている。かつてのように弦を引いて弾いたためか、多少軽くなったようなその和弓の胴を握り締めると、軋む音がやけに大きく体内の中で反響した。
――慎二の狙いは相変わらずわからない
もしかしたら――、というよりも慎二の行動はその態度や言動から気まぐれとしか思えないのだけれど――、でも、わからないけれどしかし、不思議と彼のそんな行為に対して文句をつける気にもならない。ああ、もし、矢を射るのが今この瞬間であったならば、自分は間違いなく、全ての矢を的に当てられなかっただろう。きっと弓から離れた矢は的に当たるどころか、矢道、的場すらもそれてあらぬ方向に飛んで行ってしまう気がする。自分はこんなにも弱くなってしまった。自分はこんなにも他人の言葉によって気持ちを揺り動かされるようになってしまった。だが――
――悪くない
そんな自分の状態を、今の自分は不快に思っていない。そんな今の自らの心持ちを不思議に思いつつも、多分はそれでいいのだろうという自らの心の奥底より湧き上がってくる気持ちに従いーー
「――ああ」
不作法とは知りつつも、自分の和弓をそのあたりに立てかけると、的に刺さった矢を引き抜くこともなく、そのまま慎二の後に続いて弓道場を立ち去ってゆく。ぴしゃりと扉を閉めると、再び世界からは音が消え――、そして穂群原学園の弓道場は来た時とまるで変わらない、当時の雰囲気をそのままに保ち続けていた。
*
穂群原学園から私の――衛宮家へと続く道を慎二と共に歩く。周囲の風景はなんとも不思議なことにこれまでで最も自然な状態が保たれていた。衛宮家に続く道にある家々は立体感や色味すらも取り戻しており、地面にあたって爆ぜ返される眩い光はしかし一切の不愉快を感じさせない明るさに保たれていて、気持ちを多少浮つかせるような効力を発揮する。冬も終わりの朝方にある体の芯まで冷え込む寒さすでに失せていて、肌を切るように吹き荒れていた風は、その勢いをどこかと落としてしまったかのよう柔らかいものへと変化していた。はるか彼方に見える峩々たる山の連なりは枯れ木の賑わいの中にしかしどこか豊かさを取り戻しており、綿雲千切れ飛ぶ夜桜色に染まっていたはずの空はいつの間にか、優しく淡い夏の空にあるようなからっとした水色を取り戻していた。そんな気持ちのいい空にわずかばかり存在する雲と雲の切れ間から垂れ落ちてくる光芒の行方を追うと、凛と照らされた道路の端には枯れた木の葉が積み上がっている光景が目に映る。時折吹き荒れる木枯らしがそれらを道路へとまき散らしては、道路に不規則な描画を残していっていた。枯山水にも似た光景が幻を見せたのか、乾いた色ばかり目立っていた道路までもが瑞々しさを取り戻している。それらは心象風景が再現したというにしてはあまりに自然な振る舞いをしていた。そしてやがて舞い上がった完全に枯れた木の葉が慎二の顔に襲い掛かった時――、
「ちっ……、ああ、まったく、情念深いったらありゃしない」
周囲の光景を眺めながら無言で突き進んでいた慎二は、不機嫌そうにそれを払いのけながら言った。
「情念深い?」
「ああ、そうさ。衛宮。お前、なんでこのお前んちに続く道だけこんなにきれいに再現されているのかわかるか?」
「ふむ……」
その言葉を聞いて考え込む。先ほど慎二はこの場所は桜の意識によって再現された影絵の町と言っていた。そして慎二はまた同時に、そうして街並みの中で、桜にとって印象深い場所だけが、より鮮明に再現されるとも言っていた。そこから察するに――
「この場所が桜にとって印象深いから、ということだろう」
「ばぁーか、んな浅い部分の答えを求めてるわけじゃないんだよ。僕が聞いているのは、もっと深い部分の理由だ」
「――桜の深層心理を読め、というのか?」
「そうさ」
「……」
言われてそれを考える。先にも考えた通り、この衛宮家へと続く場所がこれほどまでの精度で再現されているのは、桜がその深層心理のおいてこの道に特別な思いを抱いているからだろう。特別な思い――というのもまぁ、今の私にはわからなくもない。
――桜は、衛宮士郎という朴念仁のことを深く、憎からず思っていた。
それがどういうベクトルのものかは知れないが――、否――、そうと断言するのも憚られる思いを抱いていたことがわかるからこそ――、私はそんな桜の思いが、この衛宮家へと続く道に現れているのだろうと断定する。そうとも。誤解なく述べるなら――、
――桜は、衛宮士郎という男に慕情を抱いていた
「おっと、その顔は、答えを得た、って顔だぜ、衛宮」
いつの間にやら歩く速度を落として隣を歩いていた慎二は、何ともいやらしい笑顔を浮かべながら、斜めから顔を覗き込んでくる。
「まぁ、な」
桜が私に惚れていたから、などという答えを口にするのが気恥ずかしくて、少しばかり戸惑った口調でそう答えると、慎二はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべて、背中を叩いてきた。
「まぁ、その通りだよ。桜(/あいつ)はお前に惚れていた。あいつはこの学校から衛宮家へと続く道を通るとき、常に胸を弾ませながら歩いていたんだろう。『先輩は今日、何しているかしら?』。『先輩は今、どんな料理を作れば喜ぶかしら?』、ってな具合にな。そうしてこの道は、多分、あいつにとって、学校よりも、間桐の家よりも、そのほかのどんな場所よりも特別なものとなった。――ただ一つの場所を除いてな。だからこそこの道は、これまでの中で最も特別に――、元の自然さを保たれた状態なんだろうよ」
そうして慎二は歩く速度を上げると、再び私の前を歩きだす。機嫌がいい時のあいつは、しかしだからこそ隣に歩く他人のことになど一切気にかけることなく、自分のペースでさっさと前に進んでいってしまう。そんなことを理解している私は、少しだけ歩調を速めながら、彼の後ろについてゆく。歩数が増えてゆくごとに、風景は鮮明さを取り戻してゆく。町を歩くほどに桜のことが分かってゆく。けれど、いまだに桜を救う方法とやらは、慎二の口から何一つとして語られない。
――慎二。お前はいったい、何を考えている
果たして彼は何を考えているのか。わからないままに綺麗な風景の道を歩くと、対して楽しむ暇もないままに時は無惨に経過し、やがて私たちは目的の場所へと徐々に近づいていった。
*
「おーおー、ここをこうして見るのも久しぶりだな」
衛宮家の――武家屋敷造りの玄関ポーチに立った慎二は、開口部の扉を見上げながらそう言った。見れば衛宮家の扉口は入り隅、出隅、霜よけの廂から、軒天、雨樋、玄関の敷石に至るまで、見事なくらいに再現されている。その再現度はこれまで街中で見てきた中において、比類するものがないほどの精度だった。
「……」
そうして桜が再現した彼女の心象風景であるという光景を眺めていると、不思議と郷愁の気持ちが湧き上がってくる。それはかつて我が家の入り口を見上げた時には決して抱くことのなかった思いだった。観察してみれば我が家の玄関には私が覚えていない傷痕すらもが再現されている。それはこの家の家主であり、好きに出入りすることが出来る自分では決して記憶に残そうと思えない、それこそ普通ならどうでもよい、くだらないと切り捨ててしまってもいいくらい、小さな傷跡だった。それらの傷のあまりの綺麗さに私は万年遅れで桜が私(/衛宮士郎)に対して抱いている思いの深さを知り、改めて気恥ずかしさを覚えることとなる。
「チャイムを鳴らしてお前が出てくるまでの間、あまりに胸が躍るもんだから、覚えちまったのかねぇ」
同じ考えに至ったのだろう、慎二が私の考えを読んだようなことを呟いた。
「お、なんだ、開いてんじゃん」
そして玄関の戸に手をかけた慎二は鍵が施錠されていないことを確認すると、まるで遠慮することなく、それこそ家主であるかのよう無遠慮に、その扉を解き放つ。そうして視界内にあらわれた玄関は、覚えのよくある靴の群れから、やはり覚えのない傷跡に至るまで、それはそれは見事なまでの精度で再現されていた。
「ほら、まぁ、遠慮なく上がれよ、衛宮」
言いながら慎二は靴の踵を揃えつつ玄関に上がると、衛宮の家にずかずかと入り込んでゆく。
――まったく、これではどちらが家主かわからないな
そんな慎二の無遠慮さに呆れながらも、裏底に鉄板仕込んだ靴をさっと脱いでそろえると、性格とは裏腹に几帳面にそろえられた慎二の靴の隣へと並べ、居間へと続く廊下を突き進んでゆく。
*
「おい、衛宮。お茶」
やがて家主に先んじて家へと侵入し、黄昏色の夕日の切れ端がわずかばかりに飛び込んできている居間に遠慮なく座った慎二は、やはり無遠慮の態度で家主に対して遠慮のない命令を下してきた。そのあまりの傍若無人っぷりは私は慎二というよりも、我が家に入り浸っては食事を要求し、代価としてわけのわからないものを押し付けてゆく姉役の女性の態度によく似ていて――、
――どちらにせよ、不作法かつ無遠慮な態度をとる存在であることに違いはないか……
「――はぁ……」
そうして我が家においてしかし使用人のように使われる矛盾に何とも言えないやるせなさを覚えながらも、台所へと進み、その期待に応えるべく手慣れた動作で棚から急須と客人用の湯呑を二つ取り出して電気ポットからお湯を急須に注ぐと、隣の部屋でくつろいでいる慎二の元へと舞い戻り――、それから一、二分の時間を置いて出来たものを交互に等しい間隔で二つの湯呑へと注いでゆく。
「――おい、一応聞いておくけど、これ、出涸らしとかじゃないだろうな」
そうして自らの前に置かれた湯気立つ緑色の液体の入った湯呑を見た慎二はそんな文句を垂れてくる。
「涸らすほど何度も入れていたように見えたかね? 安心しろ。それは間違いなく、一番茶の淹れたてだ」
ため息をつきつつ、『まぁ、一番茶が一番上手いとは限らないがね』と、心中にて呟きながら呆れた声で返すと――、
「ならいい。――っと、あちっ」
湯呑の縁に口をつけた慎二は八十度のお湯の刺激に耐えられなかったらしく、淹れたてのそれへと何度も息を吐きかけて湯の温度を冷ましながら、遠慮なしに胃腑へと流し込んでゆく。そんなかつていつか存在したいつもの光景を眺めつつ、周囲へと目を配る。切嗣が存命のころから働き続けていた机の上には、かつて私がそこまで愛用していたわけでもない客人用の湯呑と、よく使用していた急須が、仲良く並んでいる。そんな湯の熱を受けても熱いとの文句をこぼさない我慢強い机の上には、入り口と同じく自分の記憶にはほとんど覚えのない細かな傷跡がこれでもかというほどに刻まれていた。傷の行方を追うとそれはやがて自らの身を支える机の脚にまで伸びており、その先に続く畳は、はて、これほどまでにささくれていただろうかと思うほどに傷んでいた。無骨というよりは無関心の証に従ってそのまま畳の筋に従ってすいすいと視線を泳がせると、すぐさま自らが茶道具一式を持ってきた台所へと到達する。台所は相変わらず整理が行き届いた埃一つない状態で、材料さえそろっていれば今すぐにでも調理ができる状態を保たれていた。
――かつて私以外の人間が――、例えば凜が台所へと立ち入った時、そこは日中が互いの覇を競いあう主戦場となったし、桜が立ち入った時などは、そこにお玉と包丁が日本刀と銃弾の代わりに交差する和洋の戦場となったものだ
などと思った瞬間――
――そうだ、桜だ
「慎二。そろそろ教えてくれないか」
そうしてようやく自分が何を求めてこの場へとやってきたのかを思い出した私は、ひどく遅ればせながら慎二に質問の矢を飛ばした。
「うん? なにを?」
だがそうして間違いなくこの事態における話題の中心の的目掛けて放たれた矢はしかし慎二の心に突き刺さることなかったらしく、慎二はとぼけたように言うと、ほとんど手を付けていない私の湯呑に手を伸ばすと、それを奪取して、中身の少しばかり冷めた液体をすすり始めた。
「私は君の『桜を救えば、等価交換として僕が世界を救ってやろう』、という言葉を信じて、ここまでやってきた。君はそして、『どうやれば桜の心を救えるのか』と尋ねる私に、『入った後、その時が来たら教えてやるよ』というばかりで、答えを教えてくれなかった。そうしてライドウの力をかりて桜の心の中にやってきた私は、君を信じてここまでやってきたが――、君は私を振り回すばかりで、一向にどうやれば桜を救えるか教えてくれない。――慎二。もうそろそろいいだろう。知っているというのなら教えてほしい。どうすれば私は桜をーー、彼女の心を救えるのだ?」
慎二の『我関せず』、という態度があまりに気に食わなかったが故だろう、私は思いのほか強い口調で尋ねてる自分を見つけて少し驚く。
「……ふん」
しかしそんな私の責めるような声色を耳にした慎二は、それゆえだろう不機嫌そうな顔を浮かべたと思うと、口につけた湯呑を逆様にして残った茶を胃へと流し込み、空にした湯呑の底を机に叩きつけると、そのまま空になった湯呑の口をこちらに向けながら、自らの口を開いた。
「――衛宮。今、ここにいる桜は、子供心も、大人としての自覚も失った、思春期の桜だ」
「……」
「それに加担してきた僕が言えた義理じゃないが――、桜はそんな思春期の中に受けてきた虐待のせいで、克己心なくも、まともな自己愛もない――、否、歪んだ自己愛しか持てない状態になっている」
「……だろうな」
「そんなあいつの心を救うために必要なのは多分、何ら余計のない思いから発生した、共感だけだ。相手が悲惨な目にあっているから救いたい、相手が悲惨な目にあっているから救わなくっちゃならないっていう、そんな実のところ、自分にとって相手が見辛い状態であるから、自分を救うために相手にも救われてほしいっていう、今の僕や、今のお前が抱えているようなそんな自分本位な押し付けがましい思いじゃあ、きっと桜は救えない」
「……そうかーー」
今の自分では桜を救えない。慎二の言葉を聞いて、ここに来るまで薄らぼんやりと抱いていた思いが理解できた気がする。思えば自分は、自分の幸福の形を他人に押し付けてばかり来た。自分にとって地獄と思える環境に飛び込み、自分にとって地獄と思える環境から相手を拾い上げて、そうして相手が救われたと思い込んで……。自分はこれまでそんなことばかりを繰り返してきた。そう。自分と他人は違うのだ。他人は自分と異なる人格であり、異なる歴史を積み重ねてきた存在であり、異なった感性を持ち、異なった心を持つ、そんな存在なのだ。私はそれを理解したつもりで行動してきて――、しかしその実、心の底では全く理解していなかった。
救いと言っても千差万別だ。トルストイなどは「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」、と書いたがそれはきっと違っていて、きっと幸福な形というものだって個々人ごとに似ていないはずである。私は他人を救い、自らが目指した存在「衛宮切嗣」に――、正義の味方になりたいと強く願うあまり、私が思い描く幸福の形を他人に押し付けてばかり来た。だからこそ私は、誰からも理解されることなく――、ただ一人、剣の荒野に閉じこもる羽目になったのだ。
「……さすがにこれくらいは理解しているようだな」
「――そう、そうだな」
私はそのことを、凛という彼女の手によってこの世界に蘇ってから経験した様々な経験により、学んできた。私は変わった。私は様々な人と出会い、私という存在を、私のままで受け入れてくれる、私の力を欲してくれる多くの人たちとの出会いによって――、そして、私の歪みを指摘してくれたあの神父のおかげで――、こうまで変わることができた。
私は歪んでいる。私はもはやただ一つの信念と矜持を頑として貫ける存在ではない。私は今――、剣としての鋭さを失った代わり――、私以外の誰かが述べる私の常識とはかけ離れた意見と幸福の形を、しかしそういう幸福の形もあるのかと、断ち切らず、受け入れられる存在に変化した。今の私は矛盾だらけだ。桜を救いたい。世界を救いたい。そうして救われた桜や世界を見て、自分自身が救われたい。誰かを救うということが自分を救うということへと繋がっていることに、あらためて気づかされる。そうだ。私は、桜という自らの救いというものを忘れてしまった少女が、しかし世界に希望というものを見出せるようになった未来で、どのような救い(/正義)の形というものを見つけるのかを見てみたい。
「――慎二。君の言う通りだ」
「うん?」
「今の私に桜は救えない。だからそしてまた――、今の私に君は救えない」
「――」
「なぜなら私には――桜がどのような救済を望んでいるかわからないし、君が――、慎二が、桜に対してどんな思いを抱いていて、どうなって欲しいかがわからないからだ。本人を救えるのは本人の努力と信念のみだ。私は桜じゃないし、慎二でもない。私にできるのは、彼らを、私自身が地獄のような環境であると感じる場所から別の場所に移すことのみ。だが、仮にそうしたとしても――、彼女が自らの手で自らを救いたいと願えるようにならない限り、桜は、君は、そして私は、決して救われない。――そうだろう、慎二」
「――変わったな、衛宮」
私の言葉を聞いた慎二は目を細めて、言った。
「そうか?」
「ああ。以前のお前ならきっと、自分じゃ桜は救えない、なんて言われた日にゃあ、『いや、それは違うぞ、慎二』とかいって、僕の意見に真っ向から噛みついて反対してたはずさ」
慎二に言われ、かつて、自分の思う幸福の形だけが絶対のものであると信じてた頃の自分を思い出す。まだ戦闘の技術も背も低く、髪が赤く、肌の色が浅黒く染まっていなかったころ。私は自分の見える世界だけが世界の全てだと思っていた。だからそんな私の正義(/切嗣の正義)というフィルターを通した視点で見ると、私の生きている世界というものは、あちらこちらひどく薄汚れていて、間違いだらけだった。
だから直そうと思った。壊れた場所を解析して、元の通りに直して、終わったらまた壊れた場所を探して、また解析して元の通りに直して――、そんなことを繰り返していれば、いつかは私の望む世界になると、私は心の底から信じ切っていた。けれども違った。世界っていうものは、もともと、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、あるようにあるだけだった。そう。世界は決して綺麗なものでなかったんだ。だって、自分以外の、自分以外のあらゆる命が、それこそ数えきれないくらいに生きている世界なんだから、元から綺麗でないのが普通の状態だったんだ。けれども私は、そんな世界が普通と思えなかった。ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、幸福も、不幸も、生も死も、正義も悪もがごちゃごちゃに詰め込まれているおもちゃ箱のような世界に、私は我慢がならなかった。
だから――、直そうと思った。そう、だから私はーー、掃除屋になったんだ。世界から少しでも私の気に入らないものを捨てれば、その分私の見える世界は綺麗になる。私は私の視界に収まる都合の良い世界だけを見て、私の正義の視界に入らない世界の全てを切り捨ててきた。私にとって、その切り捨てる何かの裏側にあるものなんて、それこそ名も知らぬ雑草に過ぎなかった。空気そのものだった。
そうだ。私は結局、守護者という人類の掃除屋という役職についたとき、私が今までやってきたことと何ら変わりのないことを続けていたにすぎなかった。そうだ。そしてその果てに私が摩耗し壊れたのは、決して私が人類の劣悪さに絶望したからなどでもない。私はそうして掃除屋の役職を続けるさなか、私と同じ世界に住んでいた私が悪と断定して排除してきた人々は、私が幸福の形と定めたそれと異なった幸福の形を持つ人々だと気付かされたから――、そんな自分の愚かさに嫌気がさして――、そんな愚かな自分を直視することが辛くて――、私の心は摩耗していったのだ。
「――さて、衛宮。ここまで言ってやったんだ。なら、僕がお前に求めることは、――わかっているだろう?」
「ああ」
私は自らの愚かさから―、他人の幸福の形を受け入れられないという弱さから、必死で目をそらし続けていた。そのために心を殺し、過去の自分へと恨みを集中させ――、そうして、己が己の愚かさゆえに手に入れることとなってしまった未来を、必死に見ないようにしていた。
それが私の――、誰かの正義/悪から目をそらし続けてしまった報いであると、気付きたくなかったが故に。
――だから
「……そうだ。人間、他人なんてそうそう救えない。仮にそいつが誰かに救われたように見えたとしても、それは、そいつが勝手に救われたと勘違いした結果に過ぎないんだ。そう。人間、結局、自分を救いたいなら、自分を救えるようになるしかない。そうして救われた先にある未来の世界に、自分のような人間でも居場所があるんだと、思えるようになるしかない。――そうだ。もしもそいつが他人にとっての救いになれるとしたら、そいつが、『自分と同じような境遇の人間が、世界のどこかで生きている。自分と同じような境遇の人間の居場所が、世界のどこかに存在している』と、そう思えるようにしてやるくらいしかないんだ。人間、結局自分を救うのは自分だけだ。手助け以上のことなんて、神様でない存在にはできない。――、否、手助け以上のことなんて、救いを与えてやる必要なんてないんだ。だから――」
「ああ……、だから――」
――だから私は……
慎二の視線をまっすぐから見つめ返す。この世の全ての悪/アンリマユ。この世の全ての悪を――、この世界に住まうすべての人々の思い/悪/正義を保有するという存在。そんなこの世の全ての悪の具現化であるはずの男の瞳は、慎二という誰からも小物としてとらえられた男の瞳は、しかし今、どこまでもまっすぐに、桜という少女が一人の人間として自立することを望んでいた。
「「お前の悪を私に寄越せ/俺の悪の全てをお前にくれてやろう」」
――だから私は、彼の抱えるこの世の全ての悪/正義のすべてを望み、受け入れよう
そうして私が誰かのあらゆる正義と悪/想いを受け入れ、心の底から理解できるようになった先にこそ、きっと、世界の全てのために犠牲となり、闇に沈むしかなかった桜という少女が救われてゆくための道が――、そして私が真の正義の味方に――、誰にも認められる正義の味方になる道があるはずなのだから。
*
「……はっ」
「くっ」
互いに笑いあう。やはりというか、考えていたことはまるで同じだったらしい。その一致がなんとも心地よく、私と慎二はかつてのように笑いあう。きっと、この共に笑いあえる関係こそが――、自分の居場所が他人の中にもあるのだという錯覚こそが、誰かの救いとなる重要なものなのだ。
「それで、慎二。私はどうすればいいんだ?」
そんな誰かと笑いあえる瞬間を得るために必要となるものを――、他人の悪/正義を求めて、私は彼に問い尋ねる。
「まぁ、慌てるなよ、衛宮」
すると私と同意見のはずの慎二は、しかし立ち上がって周囲を見渡すと、ため息を吐いて、首を横に振るう。
「ここはーー、幸せの空気が漂いすぎている。多分、衛宮家(/ここ)こそが桜という存在にとっての幸福の具現だったせいだろう。――ここは、この世の全ての悪を受け入れるのにふさわしい場所じゃない」
言うと慎二はすたすたと部屋の外へと向かい歩いてゆく。
「慎二、どこへ行く?」
私は彼に行方を尋ねる。
「決まっているだろ」
廊下に出た慎二は振り向くこともなく言った。
「桜にとって、この世の全てがいるに相応しい場所――、あいつにとっての絶望の穴倉にして、しかしその実、あいつが間桐臓硯という大人からの庇護によって自分と相容れない世界の全てから守られていた、お前という思春期の桜にとっての全てであった存在から拒絶されたあいつが身を置いている――、間桐家(/僕の家)の虫蔵の中にへさ」
*
衛宮家の玄関を出ると、外はもう暗闇の中に落ちていた。夜空にはあさぼらけのそれとは違う薄暗さが漂い始めている。そしてまたよくよく見れば、その薄暗さは日が落ちたという事態以上に、天を湿り気を帯びた雲が覆いつくしているという事態が生み出しているものであることに気が付ける。そんな割れ目もないような曇天の下にはすでに雨のにおいが――、砂と水の入り混じった香りが漂い始めていた。
「くそ、うざったい雨だな」
慎二はそんな弱気な雨を無視するかのように、胸を張って堂々と歩を進めてゆく。先を歩く慎二の後を追って歩いていると、時雨模様だったはずの雨足はさらに強まった。そうして天よりぽつぽつと落ちてくる雨粒はやがて集して礫となり、徒党を組んで豪雨と化して、冬木の町を水の檻に包み込んでゆく。この世界が桜の心象風景であり、彼女の記憶によって形作られた世界であるというのならば多分、闇は彼女が学校の帰り、寄り道である衛宮家から我が家である間桐家へと帰る際に視界へと飛び込んでくる光景であると同時、晴れ晴れとしていた彼女の気持ちが鬱屈、暗澹たる思いに支配されてゆく過程を示したものなのだろう。ならばこの轟々と降りしきる雨は、そんな重苦しい気持ちを抱えながら、戻りたくもない場所に戻らなければならない桜の心そのものに違いなく――、そうして世界よ洗い流されてしまえと言わんばかりに降りしきる雨は冬木の町の全てを濡らし、町を深い水底のような薄暗い夜の闇の中へと沈みこませてゆく。見上げれば果たしていかなる場所より生まれたのかわかならいその雨水は、私たちの間桐の家へと向かう意思を挫こうとするかのように、髪を濡らし、顔に張り付き、服に浸透し、肌に絡み付いてくる。また、雨を周囲から運んでくる風は、まるで私たちの行く手を遮ろうとするかのように吹き荒れ、私たちを中心に渦巻き、町中、住宅地に存在しているあらゆる存在をガタガタと揺れしては、逃げるかのようにして地上にある水路の中へと消えてゆく。
「ああ、もう、うっとおしい!」
そうして入り組んだ冬木の住宅街は、豪雨によって、暗渠のような水路へと変貌していった。また、そうして天地を流れる水の勢いは私たちが間桐の家に近づくほどに強くなってゆく。
「傘か雨具でも投影しようか?」
体に纏わりついてくる水と風があまりに鬱陶しいかったが故だろう、私は思わずそんなこと慎二に提案していた。
「いらないよ!」
だが荒れ狂う風雨と水流の勢いを全身に受けている慎二は私の提案を切り捨てると、続けて平然と言う。
「ふん……、桜め。よほど僕たちに――、衛宮に来てほしくないらしいな」
瞬間、雨風の勢いは本心を指摘されておびえるかのように弱まり――、しかし雨と風の勢いはすぐさま元の通りの力強さを取り戻した。
「ちっ……、引きこもるときばかり無意味に意地を張りやがって……。そういう力はもっと別の場所で発揮しろってんだ。あの臆病で怠け者のグズ女め……」
慎二はそれを鬱陶しそうに振り払いながら、力強く一歩を踏み出して、暴れる雨風に対抗する。瞬間――、やはり雨風は慎二の不屈の意思と殴りつけるかのような暴言に怯えたかのように弱まり――、しかしすぐ後に、元の荒れ模様へと変化する。
「おい! 聞いてんのか、桜! お前が何と言おうと、僕たちはお前のところに向かうからな!」
天気は慎二が文句を叫ぶたび、唯々諾々と変化する。
――慎二によれば生前の桜は操り人形のようであったらしい
わずかばかりに残っている記憶を掘り起こせば、確かに桜という少女は、他人の意見に対して反対を述べない、そんな気弱で、儚い、なんとも女性らしい女性であり――、そして慎二の言うことをよく聞く女性だった記憶がある。なるほど、だからこそ、慎二は桜がこうして自らが進もうとする道を――、桜を助けようと間桐の家に向かって進んでいる自分たちを、必死で押し戻そうとする桜の抵抗に、ひどく苛立たしさを覚えているのだろう。だが――
「拒むのならば、もっと徹底的にやればいいだろうに……」
そんな桜の抵抗に手緩さを覚えた私は、気付けばふとそんなことを呟いていた。
「あん?」
雨の中、肩をいからせながら歩いていた慎二は、やはり振り向きもせずにそういった。そのたった一言が、私に対して続きの言葉を促しているものだと知った私は――、
「いや、何、ここが彼女の心象風景であり、彼女が私たちを本気で拒むのならば、それこそこんな人ひとり吹き飛ばない程度の雨風のようなものでなく、例えばそれこそ町一つを壊すような暴風雨とか、あるいは町の道路を引き裂いて、私たちと彼女との接触を物理的に断つとか、手段はいくらでもありそうなものだと思ってな」
意見を聞いた慎二は、フン、荒く鼻息を鳴らすとひどく不機嫌そうに眉をひそめ、雨が口に飛び込んでくるのも気にせずに上下の唇を開放し始めた。
「だから僕が何度も言ってんだろ。――あいつはな。ガキなんだよ。心の底では助けてほしいと思いながら、あいつはその望みを口にしない。だってそういって自分が誰かの手によってあの場所から拾い上げられた後、もしもその先にある未来が自分の望んだものじゃなかったとき、その時はもう、言い訳なんか出来ないだろう? ――あいつはいつだって逃げ道を探している。あいつが欲しているのは、完全なる自由なんてものではなく、絶対の庇護者の元にある安全が保障された限定的な自由なんだ。あいつはいつだって『私が不幸なのは私のせいじゃない』と思い込んでいる。あいつはいつだって、『私が不幸なのに、みんなが幸せなのは不公平だ』と思い込んでいる。あいつはいつだってそうして自分の境遇を憐れんでいるくせに、そうして白馬の王子様を待ち望んでいるくせに――、同時にあいつは、そんな『かわいそうな境遇から救われない自分』っていう状況を手放そうとしない――、クソみたいな甘ったれの女なんだ」
慎二が吐き捨てると、雨足はやはり一瞬だけ弱まり――、そして先ほどまで以上の強さで降り注ぎ始める。慎二はそんな桜の抗議のような雨をやはり毅然とした態度で無視すると、体に纏わりついてくる雨を気にすることもなく、再びその口を開いた。
「そうさ、ガキなんだよ、ガキ! あいつは、自分に有利なものを全部手放したくないんだ! あいつは確かに今の状況から誰かの手によって助けられたいけど――、でも、同時に、そうして誰かに助けられた後、弱い自分を完全に受け入れ、守ってくれる誰かを、今まで自分が犯してきた罪の罰を代わりに受けてくれる誰かを、つまりは自分の不利を完全に引き受けてくれる誰かを求めている。あいつは、臆病で、人見知りで、気弱で――、そのくせ自分が他人よりも上にいる状態であるためならなんだってする――、如何にも間桐の家の女らしい、何とも、卑怯で、強欲な、間桐の家にぴったりの、そんな、醜い女なのさ!」
その雄叫びは、一聞すれば桜に対する文句に間違いない。しかしそれはまた同時に――
「だからこそ僕は、さっきまでのお前を桜と合わせるわけにはいかなかったのさ! なるほど、さっきまでのお前と今間桐の家に引きこもっている桜は、割れ鍋に綴じ蓋だ! さっきまでの自分が絶対強者であるという自覚もなく君臨していたお前というあらゆる奴を救い出せてしまいそうな存在は、今の桜が望む存在そのままであることに間違いない! そうして救い上げた後、お前は桜の望むがままに、あいつが立ち直るその時まで、その時が来ることを信じて、世話を焼き続けただろう。――だがそんなものは偽物だ! そうして救い上げたところで、そこには再び共依存の関係が生まれるだけで――、お前はともかく、桜にはちっとも成長がない! 僕はね! そういう、誰かの努力や才能を利用して、その成果だけをまんまと掠め取ろうっていう――、昔の僕みたいな、陰険なやつが大っ嫌いなんだ!」
かつての慎二(/自分)というものに対する文句に違いなかった。咆哮はざぁざぁと耳煩い雨音をも切り裂いて世界に鳴り響く。そんな慎二の咆哮に気圧されたかの如く、一瞬だけ雨足は弱まったが――、直後、雨足はこれまでの勢いが遊びであったと思ってしまうほどの勢いに変化する。それは多分――、桜という少女の、現実を見たくないという必死の抵抗に他ならないのだろう。
「無駄だぞ、桜! 僕はもう決めたんだからな!」
おそらく慎二も雨足の変化に私と同様の感想を抱いたのだろう。だからこそ慎二は、そうして心の殻の中に閉じこもっていようとする、この心象風景の持ち主である桜に対して強く宣言し――、それを拒絶するかのように、雨足はさらに強いものへと変化し、やがて空も雲の切れ間も見えないほどに隙間なく覆われていった。
*
「ああ、もう、やっとついたか」
やがてそんな土砂降りの中を無理やりに歩き進んだ私たちは、雨風の激しい抵抗にあいながらも、なんとかその道のりを踏破して、間桐家に辿り着いていた。いつかかつて眺めたことのある、そしてつい先ほどこの世界にやってきた時にも見上げたその屋敷は、よく見れば大枠から細部に至るまでにおどろおどろしさが含まれている。おそらくそんな景観は、それこそ桜という少女の心情を現しているのだろう。この得体も知れない、咎人を閉じ込めておく檻のような雰囲気こそが――、きっと、桜という少女が自宅であるはずのこの家に抱いていたイメージなのだ。
「おっと、ちょっと待ってもらおうか、衛宮」
「慎二」
そんな見た瞬間吐き気を催しそうになる雰囲気の間桐の家の鉄門を開けて家に入ろうとすると、慎二は片手をあげて、私の進行の阻止をした。
「桜はこの先にいる。――けどさっきも言った通り、今のお前をそのままの状態で合わせるわけにはいかない」
その暗い色彩の瞳はしかし、覚悟の色に染まっている。そこには確固たる意志があった。そう。慎二の瞳には今、私が彼の出す試練に――、この世の全ての悪/アンリマユに染まるという試練に合格しない限り、ここから先には進ませないという、絶対の意思が現れていた。
「……そうか。――慎二。私は何をすればいい」
問うと慎二(/アンリマユ)は、慎二の体に異変が生じる。服の首元より生じた謎の紋様は慎二の首元から顔面にまで徐々にその範囲を拡大させてゆき、慎二の頭部を完全に覆いつくしていった。遅れて、ずぶぬれになった慎二の両腕の裾からも紋様は這い出して、やがて慎二の体の表面部位は謎の魔術的紋様によって完全に覆われた状態へと変化する。
「これが俺の――、慎二の姿を借りてこの世に顕現した今の俺の、本来の姿だ」
変貌した慎二が述べた途端、桜の心象風景であるというこの世界は、まるで地でも裂けたのかと思うくらいに、大きく揺れ動く。
「ちっ、桜め。僕に異物が混じっていると知るや否や、いきなり動揺しやがって……」
慎二は如何にも苛立たしさを隠そうともせず、言い放った。雨足がさらに強まる。もはや雨のなのか、滝なのか、あるいは海の中なのかすらわからないような状況の中――、
「慎二」
「衛宮。よく聞け」
慎二はしかし、厳かな雰囲気を放ちつつ、話をつづけた。
「僕はこれから、かつて聖杯戦争においてサーヴァントとして召喚した折に手に入れた宝具を発動する。それは本来、俺に傷を負わせたその相手の魂に、その傷を共有する呪いをかけるっていうくそったれな三流の宝具なんだが――」
言うと慎二は、自らの胸元に手をかけ、そのまま思い切りの横に引いた。服のボタンが弾き飛び、その素肌が露わになる。すると慎二はそうして露わになった胸元に刻まれている紋様を指さしながら言う。
「今、この瞬間のこの時代、この時ばかりにおいては、そんなルールを打ち破り――、俺はお前にの本来の力を――、この世の全ての悪という名前の、この世に存在している全ての弱者の呪いを、お前に授けてやることができる」
慎二の言葉に、私は今この世界に敷かれているルールのことを思い出す。
「――そうか……、名前が力になる法則と、生き様が力になる法則……!」
「その通り。そしてさっきも言った通り――、人間、同じ苦労をしたもの、同じ境遇の辛さを味わった者、自分と同じような弱さを持つ人間しか、相手を自分と同じ人間として見れない生き物だ。だから――」
言うと慎二(/アンリマユ)はその胸元を薄く発光させながら、再び口を開く。
「衛宮(/エミヤ)。このくそったれな救いのない世界でそれでもなお正義の味方なんて酔狂なものを目指す、愚者なる存在よ。――お前の望み通り、慎二(/僕)が望む通り、僕(/アンリマユ)がお前に、この世の全ての――、弱者どもが抱える、この世に存在するあらゆる悪心/正義を――、お前に与えてやる。そうしてこの世に存在する悪という悪に浸り、悪という悪に染まり、悪という悪をその心底理解したお前が――、それでもなお、誰かを救いたいなどという綺麗ごとを口にできるというのなら――、その時お前は、桜みたいな、自らの意思でなく非日常の側に沈み、しかし自らの意思で今もなお浮上しようとしない、甘ったれの、クソみたいなガキどもに言い訳一つさせない、完膚なきまでにそいつらを闇の中から救い上げる(/自らの足で歩いていけるよう成長させる)ことができる、真の正義の味方になることができるだろう――」
滝のような雨音によって掠れてしか聞こえないはずの慎二の言葉がやけに大きく鮮明な状態で聞こえてくる。神宣のようなその言葉を聞いて私が迷いなく頷くと、慎二は何とも彼らしくない――、しかし彼が浮かべるにぴったりとしか言いようのない、凶暴、かつ、からっとした気持ちの良い笑みを浮かべながら――、
「さぁ、我が本体よ。我が受け継いだこの――、この世の全ての悪(/アンリマユ)の名において命ずる。――目の前のこの男へ、我が洗礼を与えよ。――真実写し記す万象(アヴェスター)」
彼の真の宝具を開放した。瞬間、私の意識は闇に染まりあがり――
*
――意識が、反転した
*
『あなたの稼ぎが悪いから!』
『なんだと、このヒス女!』
誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『なにさ、このクソ男!』
『は、家事すらもまともにできない女をそう呼んで何が悪い!』
壁の向こう――、ふすまの向こう側ではいつ終わるとも知れない金切り声が交差している。二人のその声――、両親が罵り合う声を聞いているのが苦しくて、暗闇の中、近くにあったものを思わずぎゅっと抱きしめた。それはいつだか、家族三人で出かけた際、両親が買い与えてくれたぬいぐるみだった。動物をデフォルメして作られた物言わぬ存在であるそれは、ただそこにあるだけの物体だ。しかし、そうしてただそこにあるだけということが――、その口から誰かを傷付ける言葉が出てこないということが――、今の自分にとって、何よりの救いだった。
『なんだって! 仕事仕事で子育ての手伝いもろくにしない男がよく言うよ!』
『家事の合間にあいつをほっぽって演劇鑑賞だのお高いランチだディナーだのに出かけるお前よか、俺はあいつのために働いてらぁ!』
そこそこ広い一軒家。小さな庭があって、車庫もあって、父親の書庫があって、母親の趣味の部屋があって、子供部屋もある。世界という単位で見れば、自分は間違いなく恵まれている。ポスターなんかで見たアフリカの世界の子供や、テレビの向こう側で戦争に巻き込まれている自分と同じような年齢の子供たちと比べれば、自分は間違いなく、恵まれた立場にいる。でも――
――ならなんで、僕はこんなに辛い思いをしなければならないの……?
『そのわりには大した給料も貰ってないくせに!』
『お前が浪費するからだろ、このクソアマ!』
『何よ!』
『何だ!』
叫び声はいつ終わるともなく聞こえてくる。多分、明日も、明後日も、その次も、ずっとこんな日々が続いていくのだろう。そう考えると、それだけで胸が苦しくなって――、僕はそして、考えるのを、やめた。
*
『ねぇ、じいさん。ちょっと相談があるんだけど』
理解し辛い誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『ああ、なんだい』
『今度友達と遠くに遊びに行くことになったんだけどさ。貰った小遣い使いすぎて、もうあんまり残ってないんだよね』
さびれた和室にいるのは二人の人間だ。まだ年若い少年は自動的に起き上がる機能の付いたベッドに横たわる老人に対して媚びたような口調で呼びかける。
『ああ、お小遣いだね。いいよ、そこに財布があるから――』
『サンキュー』
言うや否や子供は――、孫は手慣れた手つきで財布から数枚の高額紙幣を抜き取ると、『サンキュー爺さん! またな!』といって、早々に部屋から出て行ってしまう。何とも現金で、本当に遠慮がない。ベッドに取り付けらえれたボタンを押して機械に身を起こしてもらうと、何とかスリッパをはいて和室の畳の上に立つと、よろけながらも窓際へと向かう。
『~♪』
見れば二階の自室の窓からは、屋敷の入り口から出ていく孫の姿が見える。見る人が見れば浅ましいとみるかもしれないが――、自身の莫大な遺産をどのように分配して相続するかで喧々諤々骨肉の争いをして見せた我が息子娘の姿を見てしまえば、こんな辺鄙な土地に建てた家屋までわざわざ短くない時間を費やして足を運び、ご機嫌取りかもしれないが短くない時間を自分と他愛のない会話に費やしてくれた後、たったあれだけの手に収まる現金で満足してする姿は、むしろ癒しであるともいえるだろう。
――どうしてこんなことになってしまったのか……
自らの屋敷から機嫌良く帰ってゆく孫の姿を見ながら、過去を思う。確かに自分は、息子に対して、娘に対して、一般の家庭と比べれば厳しめの教育を施した。屋敷に還ってくる時間も厳守させ、毎日のように何かを習わせ、彼らに余暇というものをほとんど与えなかった。それがこの結末を――、息子娘が私を蛇蝎のごとく嫌い、私が死んだ際に残る財産をめぐって話し合いという名前の殺伐とした醜い争いを繰り広げるようになったというならば、それは、きっと仕方ないことなのだろう。私はよい経営者ではあったが、良い親ではなかった。それがわからないほどに私は耄碌していない。そうとも、私は息子娘に嫌われるようなことをしてきた親だった。だが――
――それもしょうがないではないか
なにせ私の両肩には、私の家族だけでなく、私の会社に勤める数千人と、彼らの家族の命がかかっていた。株式という、民主主義という名前の下、短期目標達成ばかりを求められる方式を取らなかった我が社は、だからこそトップの才覚と意向一つで滅びてしまうのだ。この早さが何よりも優先される時代において必要なのは、多くのそこそこ優秀な船頭と羅針盤ではなく、一つの道筋をピシッと決められる絶対の信念と才覚を持つ経営者だ。そうとも、会社のために必要なのは、多くの我が身ばかりを大切にする幹部社員ではなく、会社とそこにぶら下がっている人たちのためを思える、一人の社長なのだ。私はそう信じてこれまでやってきたし、私はそのやり方でやってきたからこそ、裸一貫からここまで会社を大きくできたという自負がある。
――だが
だからこそ私は――、同族経営、独占主義者の誹りを受けようと、きちんと経営学、帝王学の教育を受けさせた、我が息子、娘に、席を譲ろうと考えていたのだ。少なくとも私の会社にいる幹部社員たちは、そんな私の思いを知っていてくれるからこそ、自ら上に立とうとせず、会社とそこに生活の基盤を置く者たちのことを第一に考えてくれる存在ばかりだ。だからこそ私は、会社経営の教育を受けた息子娘が、彼らという経験豊富な存在に支えてくれるならば、わが社の未来は安泰だと思っていたのだが――
――どうして、あいつらはそれがわからん
だがそんなきちんと教育を施したはずの我が息子と娘ときたら、いかに自分の資産を増やすかばかりに腐心していて、それ以外のことに興味を示さない。その教育と今ある資産を元手に、株式売買とM&Aを繰り返して自らの資産を蓄える手腕こそ見事なものだが――、あやつらの興味は本当に、マネーゲームに勝ち、資産を増やすという一点、そこにしかない。
――どうしてもっとその先にいる他人のことを思いやれん
奴隷経済の先にあるのは滅びだけだ。労働者は資本家の奴隷ではない。アダムスミスの提唱した、『神の見えざる手』の真の理念も理解できない奴らに、会社を譲ることなどできはしないとは思うが――、自分にはもう、その代わりを用意するだけの気力は残されていない。
「儂もあ奴らに、こうして誰かと対面して金を稼がせる苦労を覚えさせるべきだったかのう……」
割がよすぎるかもしれないが、自ら足を運んで、自らの手で金を稼いだ血の繋がった孫が屋敷から去ってゆくのを見つめながら、会社の未来を憂いて、思いにふける。
――あれらに任せれば、この先、会社と会社に所属する彼らには地獄が待ち受けている
わかっていながらも――、すでに数十年をかけて用意した計画に失敗してしまった今の自分には、それをどうにかしようとする気力は湧いてこない。やがて聞こえてくる孫が鉄門を閉める音が聞こえてくる。それは間違いなくこの広い屋敷に私のみが残されたという合図にほかならず――、私は再び、待ち受ける地獄の日々を想像し、身を焼かれるような羞恥と痛苦を味わった。
*
『おら、もっと締め付けろ!』
理解したくもない誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『――』
『あん、なんだって?』
薄暗い部屋の中には、酒と煙草と埃とゴミと腐った食料の臭いと――、性臭が入り混じっていて、何とも気持ちが悪い。
『――』
『聞こえねぇよ! いいからもっと締め付けろっつってんだよ!』
私はそんな何度片付けても部屋をそんな惨状に仕立て上げるこの部屋の主に組み敷かれながら、呆然とテレビの画面を見つめていた。
『ってことなんですよ~!』
『ええ!?』
『まじ!?』
明るい画面の向こう側では、悩みも知らないような人たちが馬鹿面をさらして馬鹿な声を上げている。そこにはいくら手を伸ばしても届かない日常があった。多分自分は――、こうして薄汚れてしまった自分は、いくら手を伸ばしてもそこにはたどり着けないのだろう。私にはそんな確信があった。
『おい、何してんだ! ――……テレビか。ったく……』
声と共に下半身の違和感が喪失した。やがて薄暗く汚い部屋のあちこちを薄汚い文句を吐き捨てながらさらに汚しまわった男は、垢とゴミにまみれたリモコンを手に取るとボタンを押す。
『はい、というわけで――』
そうして部屋にあった唯一の明かりは一瞬にして消え失せた。薄暗い部屋はさらに深い暗黒で支配され、そんな中、リモコンを投げ捨てる男の姿だけが不気味に浮き上がっていた。
『これで集中できるな。――へへっ……』
太い手がにじり寄ってくる。足を這いずり回って腹にまでやってくる指がなんとも汚らわしい。そう思いながらもいつも繰り返されるそれを拒絶する気力を当の昔に失っていた私はそれを払いのける気にもならず――
『抵抗しないのはいいけど、相変わらず人形みたいなやつだな……。おら、やるぞ!』
私はそして、悪鬼によって、再び地獄へと投げ落とされた。
*
『お父さん、お帰り!』
『おう、ただいま!』
理解の出来ない誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『今日は何人殺したの!?』
抱きついた我が娘は何とも無邪気な笑顔でそんな言葉を投げかけてくる。かわいらしい我が子。まだ赤ら顔で、柔らかい頬に、固い髭を擦りつけながら、私は答える。
『そうだなぁ……沢山、そう、沢山だ。お父さんは今日も神の敵をたくさんぶっ殺したんだぞ!』
『わぁ……!』
そして注がれる尊敬の目線がなんとも誇らく、心地よい。
『お父さんはここらで一番の戦士だからね……』
奥から出てきた妻が、私を褒める言葉を述べた。
『そうとも。お父さんはこれからも神の敵となる異教徒どもをたくさんぶっ殺し続けるぞ!』
言いながら、我が子の背中をさする。
『――っ……!』
すると、娘は私の手から逃れるようにして、身を捩った。所作があまりに急だったため、娘を落としそうになった私は、慌てて我が子を強く抱きとめる。すると、抱きしめた背中、わずかに覗く肌が少し腫れあがり、血が滲んでいるのを見つけて、私は娘が何故に私に対してそのような態度をとったのかを知った。
『――師父(/ファーザー)からお仕置きを受けたのか』
そうして自らの口から出てきた言葉は自分から思っていた以上に冷たく、狭い我が家の中に響いてゆく。抱きとめた娘の体がビクリと動く。そうして予想の正しさを確信した私は、視線を娘から妻へと向けた。妻が顔をそらす。それが何よりも証左となり、私は自らの浮かれていた気分が冷えてゆくことを感じた。
『何をやった』
『――ごめんなさい』
首元に抱きついた娘が小さく呟く。私はそれを無理やり引きはがすと、抱いた娘と目線を合わせたのち、問い直す。
『何をやった』
『……』
娘は語らない。だが、あの温厚な師父がこうまで荒く鞭を叩きつけたのだから――、きっと娘は、神の教えに背く、何か重大なことをやらかしてしまったに違いないのだ。殺しの際使った薬に浮かれていた気持ちがきゅっと引き締まってゆく。平穏であるはずの家に帰ってきた私は、しかし今や再び神の戦士としての心持ちを取り戻し、教えに違反した罪びとを問いたださなければならない気分に陥っていた。
『来なさい。悪い子にはお仕置きが必要だ』
冷ややかに告げると、それは自分が思っていたよりも娘の心を切り裂いたようで、手にしていた娘はぎゅっと拳を握り締めながら、しかし静かに『……はい』と漏らしつつ、恐怖に怯えた涙をこぼしていた。そんな私と娘の様子を見たが故だろう、妻の嗚咽が鳴り響く。分離した私は意識の底で何とも言えない後味の悪い地獄のような気分を覚えながら――、娘の教育のため、奥の仕置き部屋へと向かっていった。
*
『何やってんだ、お前! この程度のことも出来ないなら、仕事なんて止めちまえ!』
誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『このクソガキが! 誰がお前の面倒見てやってると思ってるんだ!』
誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『死ね! 死ねよ、死んじまえ!』
誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。
『お前なんかの居場所がここにあると思ってたのか、この間抜け!』
世界では当たり前のように罵声が飛び交っている。
『なんで虐めるのかって? ――は、そんなの、俺が楽しいからに決まってんだろ!』
世界は当たり前のように悪意が満ち溢れている。
『馬鹿か、てめぇは! お前の迷惑なんて知ったことか! 俺は、俺がよければ、それでいいんだよ!』
世界は当たり前のように誰かの悪/正義で出来ている。この世界は当たり前のように搾取が起こっている。そこには等価交換なんてものは存在しなかった。あるのはただただ一方通行の悪意だけ。世界にはこんなにも悪意で満ちている。すれ違う思いが、誰かのためを思っての行いが、我欲を満たすための行いが、常識の差異が、他者との間に摩擦と溝を生み、そんなものが積み重なった結果、やがてそれは悪と呼ばれる何かへと変質する。あるのは、自分を幸せにしたいと思う願いだけ。しかしそんな幸福の願いが一人一人によってこうも違うからこそ、誰もかれもの幸福と正義は、誰もかれもにとっての不幸と悪へになり替わる。
『なんでお前は、そう堪え性がないんだ!』
誰かにとってその程度と思う不幸は、しかしその不幸を味わっている当人にとってはこれ以上ないくらいの地獄だった。
『なんでこんなことも理解できないのかなぁ!』
見たくもなかった。目を背けていたかった。過ぎ去るのを待つしかなかった。地獄の光景が幾度となく繰り返されては、理解したと思う間もなく遠ざかってゆき、――そしてまた新たな地獄が始まるのだ。
『お前なんか、産むんじゃなかったよ!』
幼心に増えてゆく傷。終わらない悪夢。積み重なってゆく澱。摩耗する心。すり減った思いはやがて自らの心を絶望の淵へと招き、淵を超えてしまった魂は、やがて気怠さばかりが支配する悪意の泥の中へと沈んでゆく。
『さぁ、今日の教育を始めようか』
そして続く地獄は、やがて見覚えのある姿と声を映し出し――
『――はい、おじい様』
私はやがて、この世界において、もっとも深き場所にあった、その記憶に辿り着いた。
*
――ああ
*
据えたにおいがする。それはカビの臭いと、虫の生臭さが入り混じった、胸糞悪さしか生まない暗黒の澱物の臭いだ。今や私を支配する存在なんて誰もいなくなった間桐の家の虫蔵の中、その隅にある最奥の空間に身を寄せながら、私はただ震えていた。
『桜。君の言う管理というものは、所詮、独りよがりのものだ。始まりの想いがどれだけ貴かろうと、その先が永劫の安寧とやらにつながっていようが、世界で生きている人たちの、そんな誰かの思考を捻じ曲げ、支配し、一括して管理してしまおうなどと思った時点で、そんなものは人間に対するシステムとして間違っているんだよ』
「――っ」
思い返すだけで、体に震えが走る。先輩に嫌われた。先輩に否定された。先輩に怒られた。思うだけで、心はどこまでも際限なく冷え込んでゆく。
――わからない
何がいけないのかわからない。だって、絶対に不可能なのだ。どうあがこうと、違う生き物である限り、差異が生まれてしまう。差異はやがてぶつかり合い、互いにとって認められない部分は剣となり、互いを傷つけあう武器となる。そうだ。意識の違いこそが、生き方の違いこそが、根底にある思想の違いこそが、世界の全ての不幸を生み出す。だからこそ支配しようと思った。否――、支配ではない。共有だ。
ある一つの思想の下、皆の意識を一つにする。別にそれができるなら、私じゃなくたってかまわない。そうやってみんなの意識を無理やりにでもまとめた先にしか――、世界の平和や人類すべての救済なんてものはあり得ないだろう。
先輩は正義の味方を目指していた。先輩は正義の味方を目指して苦しんでいた。先輩はどうしてみんな同じ常識を持てないんだろうと悩んでいた。私は先輩がそんな先輩だったからこそ、憧れた。私はきっと、そんな綺麗な考え方をして、実際にやってのける先輩の側にいれば、私が体の内/裡に抱えている汚れが浄化されるような気がしたから先輩の側にいることを望んで――、でも、そんな私の醜さが先輩という輝かしい存在を汚してしまうことを恐れたからこそ、私は先輩に何も明かせなかった。
でも今は違う。私は女神として生まれ変わった。私は今や、世界を管理する機械の一部であり、そのものだ。そう。今や世界は私の箱庭だ。旧人類が定めた正義の名の下に、私は選別し、選別し、選別を繰り返し、世界の平和を保ってきた。
そう。私はまるで、かつて霊長の守護者となったエミヤシロウ(/先輩)のように、世界の平和を保ってきた。だからこそ私は、先輩に受け入れられると思っていた。だからこそ私は、先輩に喜んでもらえると思っていた。だからこそ私は、先輩に、私と一緒の未来を歩んでもらえると思っていた。だからこそ私は、世界をさらなる平和な状態にするべく、世界中にいまだ存在する不幸を抱えている人達を救うために行動を計画して、実行し――、
『いや、なに。君の語ったことがあまりにあれだったものだから、つい、ね』
しかし、私の提案は、無碍もなく先輩に拒絶された。私が必死で考えて、先輩に喜んでもらえると思っていた案は、先輩に冷たく拒絶されてしまった。
「う……」
あの先輩に拒絶された。あの私にとって絶対の正義の味方であった先輩に拒絶されてしまったというそんな事実が、私の心をどこまでの傷つける。
「痛い……」
痛みはどこまでも深く私の心を傷付ける。
「痛い……」
心はどこまでも深い罪悪感に包まれてゆく。
「痛いよ……」
胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。
「先輩……」
何がいけなかったのか。何がそんなに間違っていたのか。私には何もわからない。わかりたくもない。ただ、結果として、先輩が否定したということは――、きっと、私の考えは、間違いなく、間違っていたのだろう。
「ごめんなさい……」
わからないままに、謝罪の声を出す。
「ごめんなさい……」
誰にも届かないと知りながら、ひたすらに私はここにいない誰かに向かって誤り続ける。
「ごめん、なさい……」
虫蔵は薄暗く、冷たい。その冷たさは私の間違いを責めるかのように苛み、全身から体温を奪ってゆく。
「先輩……」
――ギィ……
虚空に向かって返ってくるはずのない声を漏らすと、返事と言わんばかりに還ってきた重苦しい石扉の開閉音が鳴り響く。
「――……っ!」
心臓が止まりそうだった。胸が張り裂けそうになった。そうして隙間からわずかに差し込んでくる光すらも私を責めるようで、私は慌てて虫蔵のさらに隅の隅へと、自らの裸身を押し込もうとした。
――まるで虫けらみたい
惨めだった。悲しかった。泣き叫ぶことすらできない自分がみっともないと思った。コッ、コッ、と音が鳴り響く。誰かがゆっくりと階段を下りてくる音だ。私は頭を抱えて、呼吸を止めた。まるで杖ついた老人が立てるようなその弱弱しい足音は、私にとって恐怖の具現以外の何物でもなかった。
「――」
やがて虫蔵に敷かれた階段の最奥へと到達したその男は、多分あたりを見渡したのだろう、ゆっくりと呼吸の音を移動させて――、
「――」
多分、その視線の先、虫のように固まる私を見つけた。
――こないでっ!
拒絶の言葉すら口から出てこなかった。それを言ってしまえば、この気配の主が私を教育する(/虐める)だろうことがわかっていたから。だから私は、いつものように、精いっぱいの抵抗の証として全身を丸めて、その男と目を合わせないようにして――、
「――あぁ」
そうして丸まっていた惨めな私に聞こえてきた声を聞いて、思わず顔を上げてしまった。
「よかった……」
その人は――、ボロボロだった。もともと白色だった髪はさらに色素が抜け落ちたかのように真っ白で、皮膚はからからに乾いていた。私の背中へと回された手にかかっている力は弱弱しく――、下手をすれば、今の私よりも、力がない。しかしそんなボロボロの姿をした人は、それでもその顔に、輝くような笑顔を浮かべながら、まるで地獄の中で宝物を見つけたかのような笑みを浮かべながら跪いて、どこまでも力なく、しかし精いっぱいとわかる力で、私を抱きしめてきた。
「桜――」
回されたその手は暖かかった。その弱弱しい手は、ボロボロの姿は、きっと私を助けるために起こった結果なのだろうと、私は心底理解した。この人に、他意はない。この人はただ。私が目の前で、生きているという事実に――、この世界に存在しているという事実を喜んでくれている。
――この人は、私を祝福してくれている。
「先輩……」
それを理解したからこそ私は――
「助けて……」
初めて心の底から、救われたいと――、この世界に生きたいと、そう思った。
子供に安心感を送るには、豊かな知見を持つとともに、大人自身が自らの生を振り返り、独りよがりでない誠意ある生き方をしているかを自問することが求められる。そして、子供にも人格を認め、人生の先達として子供の進む道の半歩先に灯を掲げる心持ちと同時に、共に不安を分かち合い、寄り添う姿勢が求められよう。
……なぜこのように一人の人にと、諸々の負荷が加わった別れを経験させられた子供を前にして、誰もそのせいを代わることも出来ず、思いあぐねることもしばしばある。だが、自分の在り方を顧みて、その子の内に潜む可能性にそっと思いを巡らし、その子に身を添わせようとする人に出会うとき、その孤独の痛みの世界に何か微光がさすのではないだろうか。ふと、doingばかりでなくbeingの大切さを思う。
『子供の心の寄り添う営み』 より