Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

65 / 73
Est articulus fidei quod Deus assumpsit naturam humanam. Non including contradictionem, Deus assumere naturam assinam. Pari ratione poshest assumere lapidum aut legumes./神が人間の本性を取ったという事は、信仰の眼目である。神はロバの本性をとることも矛盾なしにできる。同じ推理によって、石、あるいは木材を取ることもできる。
William of Ockham


二十八話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (四)

一と零。理性だけでは割り切れぬ感情という要素に満ち溢れている世界の中で生きている人達が抱えている懊悩を知った。答えが出ないという地獄。答えを出せないという地獄。それを知った時、衛宮切嗣という男に拾われ、彼によって衛宮邸という帰ることのできる居場所を与えられた自分がどれだけ恵まれていたかを知らされた。そう。私には帰ることのできる場所があったのだ。自らの理屈を押し付けるばかりで他人の意見を折衷案じみた耳触りの良い戯言と切り捨て、結果として多くの人から疎まれてきた私には、しかしそれでも、最期まで心を預けておくことのできる居場所というものがあった。私には理解者がいた。私の背後には切嗣がいた。私の目指す先には切嗣がいた。それはすなわち、私という存在は、私の養父である衛宮切嗣の理想をそのまま受け継いだだけのコピーロボットの如き存在だったのだと例えることができるだろう。ならばなるほど、だからこそ私は、かつて英雄王ギルガメッシュによって偽物/フェイカーと嘲笑われ、凛と過去の自分に救われた今生においても同じことを繰り返そうとしていた私は、言峰綺礼によってお前が衛宮切嗣の呪いに囚われていると酷評されたのも理解できようというものだ。確かに彼らの言う事が事実である。私の生涯は所詮、過去の切嗣の行為をなぞるだけものに等しかっただろう。だが私は、やがて死に至るまでの間、確かに切嗣の誘導もあったかもしれないが、だからこそ私は、出会う誰からも私の矜持を理解されずとも、その決して長いとは言えぬ生涯をそれでも全力で走り抜けることができたのだ。私がそうして間違いながらも自らの生涯を自らの意思で選択して、折れることなく駆け抜けることができたのは、私が切嗣によって信念と帰るべき場所を与えられ、手厚く庇護されていたからに違いない。私は衛宮切嗣の信念と衛宮邸という心安らぐ場所があったからこそ、多くの人から蔑まれながらも、「偽善者/正義の味方」としての生涯を駆け抜けることができたのだ。

 

そう。衛宮切嗣という親と、衛宮邸という居場所。私を無条件に認めてくれるそんな存在と、私という存在を無条件に受け入れてくれるそんな二つの要素があったからこそ、私は多いに間違いながらも、自らの進むべき道を自らの意思で選択することができたのだ。私は恵まれていた。切嗣という養父から、まるで実子のようにそれらを与えられた私は、だからこそ多くの人から後ろ指を指され、悪人の烙印を押されても、さまよえるユダヤ人の如き存在になどならず済んだのだ。だが……――

 

――世の中には、そうでない人の方が多い

 

思いのすれ違いにより、我が家に居場所を失った子供がいた。自らの信念と理想を押し付けた結果、我が子らの教育に失敗したと悩む老人がいた。監禁され、実父より性的搾取をされている少女がいた。訳の分からぬ常識に縛られ、機能不全に陥りかけているまだ幼い子供がいた。無条件の愛と居場所は親から絶対に与えられるものではない。むしろ、条件付きの方が多いものだということを、私はあの地獄の中で初めて心底理解した。誰からも愛されていない。どこにも居場所がない。すなわち、自分という存在はこの世に必要とされていないという理解は、人の心を容易く壊す魔性の毒である。

 

――誰かによって無条件の愛と居場所を与えられない。そんな地獄のような環境に生まれ落ちてしまった人間のこの世になんと多かったことか!

 

無条件の愛によって守られていない彼らは、無条件に自分が存在していられる安寧の居場所を得ていない彼らは、何処にいても身を苛まれ続ける。そんな彼らにとってこの世とは地獄となんら変わりのない場所に等しい。無条件の愛と無条件に自分がいてもいい居場所を得られなかった人間は、自らがこの世に存在している事自体が苦痛でしかないのだ。折れぬ信念、成長しようと思う余力、この地獄から抜け出してやると言った想いなどというものは、この世の何処かに自分の居場所があるという確信があるか、あるいは、自分が無条件で愛してくれる存在が確かにこの世にいたのだと言う実感があるからこそ生まれてくるものだ。井戸の中の蛙が大海の存在を知らぬように、見知ったことのない概念を、その身に受けたことのない概念を想定するのは難しい。条件付きの愛と居場所しか与えられなかった人間にそれを望めというのは、それこそ豚に空を飛べと言うようなものである。だが――

 

――それにも増して、かつてはあっただろうそんな無条件の愛や居場所を取り上がられてしまった悲しき人々の、なんとこの世に多かったことか!

 

それよりもさらにひどい地獄がある。誤解を恐れずに言わせてもらえれば、無条件の愛や無条件に自分が存在していい居場所というものを知らずに育った人間は、まだの幸福の部類である。何故ならクリアすべき条件を与えられながら、それでもこの世に存在することを許されている彼らは、すでにクリアすべき条件を無条件に満たしている。彼らは自らが生存しているという事実により、その事実によって他者より当たり前のように愛を得て当たり前のようにこの世に居ることを許されているのだ。彼らはある意味、世界という存在そのものに愛されている。だからこそ彼らは、彼らに注がれる、与えられるそれらが、条件付きの愛と居場所が条件付きであると気がつかない。故に――

 

――この世において最も不遇なのは、そうした無条件の愛を与えられなかった人よりも、この世にそのような無条件の愛や無条件に自分が存在していい居場所などというものがあることを理解、実感させられながら、しかし奪われてしまった人間である。

 

何故なら彼らは、この世に無条件の愛と無条件に自分がいていい場所があることを知ってしまっている。何故なら彼らは、自らにとってもっと居心地のいい場所がこの世にあることを知ってしまっているのだ。そうとも彼らは、この世にそのような天国のような場所があることを知ってしまっている。そしてだからこそ――、そんな彼らにとって、条件付きでしか自らの存在を認めてくれないこの世のそこ以外の場所というものは地獄に他ならず――、そうして彼らは、自らが落とされた地獄と、かつて自らが存在していた天国との落差がそのまま絶望の累乗係数となり、この世はより地獄に等しい場所であると認識するようになってしまうのだ。それが――

 

かつて桜という少女が落とされた、そして今なおも彷徨っている、無間地獄の正体である。

 

 

腐臭が充満している薄暗い部屋の中では、よく知る女性の泣き声ばかりが響き渡っている。そんな私の胸の中で泣きじゃくるその女性の名は桜。見た目もう二十後半には達しているだろう外見をした彼女は、はるか昔の時代、かつての私――衛宮士郎という男にとって妹分のような存在だった女性である。

 

「先輩……、先輩……、先輩……」

 

かつて私が通っていた学校――穂群原の後輩であった彼女は、まるであの頃のように、しかしあの頃ならば決して出さなかった声色と仕草で、私の身にしがみつき、泣き声をあげ続けている。この桜という女性が私の腕の中で震えている理由を、私は心の底から理解できていた。部屋の中を見渡してみれば、彼女が閉じこもっていたこの石材のみを用いて作り上げられたこの部屋の中には、中央に広い浴槽らしき施設がある以外に何もない。聞けば桜という彼女は、この寂寞と不吉さばかりが支配する部屋の中において、間桐臓硯という戸籍上は彼女にとって祖父にあたる人物から、その身体の内側に蟲を埋め込み、肉体を間桐家の魔術に適したものへと改造するという、魔術教育という名の拷問を受けていたらしい。無論、彼女はそんな拷問じみた魔術教育を好んで受けていたわけではない。本音を語るならば、彼女は一日でも早くてそんな苦痛ばかりを伴う行為から一刻も早く解放されたかった筈だ。そう。

 

――彼女は決して、魔導の奥義を極めたいなどと望む人間ではない

 

もはや微かにしかない記憶であるが、それでも私が衛宮士郎として過ごした記憶の中において、桜という彼女は日常の象徴のような少女であった事を、私は覚えている。たしかに初めこそ多少この石蔵の中のような陰鬱な雰囲気を漂わせていた彼女であるが、彼女は私の家で私から料理を学ぶうち、私の家でよくクダを巻いていた藤村大河という女性と交流を繰り返すうち、花のような笑顔を浮かべるようになった事を覚えている。よく笑い、よく叫び、溌剌としていた我が姉貴分、藤村大河の浮かべる笑顔を畑いっぱいに咲き誇る向日葵のようであると例えるならば、桜のそれはまるで野にある蓮華草のようだった。日向で快活に咲き誇る花ではなく、日陰でひっそりと咲く華。桜の纏う雰囲気にはそんな、まだ二十にも達していない年若い少女が纏うには過ぎた頽廃的な色気があり――、ああ、今になって思えば彼女が纏うそんな雰囲気は、彼女の背後にあった魔術という要素が深く関連していたのだろう。日常、普通に生きる事を心の底から望む彼女は、しかしその身に宿した魔術という才能の優秀さと、彼女が生まれてきた家と彼女が預けられた家の事情故に、日向で生きる事を許されなかった。そんな自らの望みと相反する事情が神秘のヴェールとなり、桜という少女の日常を乱す色香となっていたのは、平穏を望む彼女の思いからしてみれば皮肉としか言いようがあるまい。

 

「先輩……」

 

桜。稀有にして優れた魔術の才能をもって生まれてきてしまったが故に、魔術という世界の裏側に秘匿されていた技術がもたらす運命に翻弄されてしまった女性。積み重ねられてきた魔術の歴史。魔術という陰の技術。間桐という家の狂気。それらの要素は荒れ狂う運命の濁流となり、日向での平穏な生活を望む彼女を世界の底の底にまで追いやった。そして追いやられた先、彼女は魔導の技術を用いてその体を解体され、肉体は神の贄として捧げられ――、その魂は日向で生きる人々を守るための神として祭り上げられた。日本古来の考えかたによれば、神は自らがそれを成せなかったからこそ、それを人々に授けるようになるという。ならば平穏な日常を望みながら、しかしそんな日常を送るどころか、肉体を蟲に改造され続けるという拷問のような日々を送った彼女は、まさしく相応しい人材であったに違いない。

 

「私、どうすれば……」

 

桜。思い返すほどに不憫という言葉以外で言い表せなくなる、魔術という存在によって自由を束縛され続けてきた女性。彼女は幼い頃からあらゆる自由を奪われ、間桐臓硯より自らの魔術傀儡としての教育と改造を施され、同時に大事な跡取りかつ道具としての庇護を受け続けてきた彼女は、やがて間桐臓硯という男の死によって自らの身が解放に至った後、しかし自由を喜ばず、間桐慎二という自らの兄によって自らを支配される事を望んだという。そして長年の間、間桐の家において彼女が受けてきた拷問は、桜という女性の人格を粉々にし、決して独り立ちできないようにしてしまった。おそらく彼女がそのような人格になってしまった要因には、卒業した私が故郷である冬木の街を離れ、ロンドンへと行ってしまったことも関わっているのだろう。桜という少女にとって唯一の心の拠り所であった衛宮邸という居場所や学校という逃げ場を失った彼女は、常に間桐の家という自らにとって高負荷のストレスを与えられる場所に身を置かざるを得なくなり、故に――

 

――壊れた

 

天国と地獄のの距離は離れているほどに、落ちた時の衝撃は大きなものとなる。平穏という精神安定剤を奪われ、地獄へと叩き落とされた彼女は桜という手折られた少女は、間桐臓硯という魔術の家元によって、間桐の家という剣山の上に生けられた。叩き込まれた自由から逃げ出そうにも、心臓という全ての生命の源たる場所に蟲を埋め込まれ、生殺与奪の権利を握られてしまった彼女にはそんな選択肢を選ぶ事など出来ず――、そしてまた死ぬ事すらも許されなかった彼女は、自らの心をも突き刺す剣山の上で痛みに耐える以外に道は無く――

 

――やがて心を殺すこととなってしまったのだろう。

 

自宅は常に自らを苛む地獄の針山で、自らの養育者はそんな地獄を管理する鬼だった。鬼はあらゆる手段で桜という女を生かしつつ、苦痛を与えてくる。そしてそんな彼女にとって唯一の救いは、同じ家に住んでいた、彼女の世話がなければ口をきくどころか生きてすらゆけない間桐慎二という、彼女の兄分だけだった。かつては彼女のことを虐めていた彼であるが、そうして長き眠りについて彼の世話をしているその時に限っては、彼女は教育という名の苦痛を与えられる拷問から逃れることを許される。彼女に罵声と苦痛を与えぬ物言わぬ人形だけが、彼女の救いとなり得たわけだ。おそらくメルトリリスという桜にとって娘である存在が人形に執着するようになった要因はこの辺りにあるのだろう。――ともあれ。

 

動かぬ彼の世話をしている時だけ、自分は苦痛を受けずに済む。だから桜は――

 

……慎二は間桐臓硯が死した直後に自らが長きに渡る眠りより覚めたのは偶然だと思っているようだが――、それは違う。この世の全ての悪/アンリマユという存在によって奴がこれまでにおいて収集していた全ての悪性と絶望を受け入れた私は、そうして地獄を巡る、その最奥において間桐桜の地獄をも追体験した。だからこそわかる。

 

――桜は、今や自らにとって唯一安らげる場所となった、物言わぬ人形と化した慎二を失いたくなかったからこそ――、常に彼が目覚めないよう、慎二の体力を生存に必要な分だけ回復させ続け――、無意識のうちに彼を眠らせ続けていた。桜の保護者である間桐臓硯は、桜の心の奥底に眠る、そんな後ろ暗い思いに気付きながらも――、否、気付いていたからこそ、間桐の家の中に桜を縛り付けておくために、彼女のそんな無意識の行いを、むしろ容認した。間桐臓硯は、家の外側でなく、内側に桜にとっての天国を作ることで、彼女を間桐の家から決して逃れられないように仕向けたのだ。

 

完全なる地獄なる場所に作られた小鳥の宿り木。唯一の心の寄せどころ。それこそが眠り姫となった間桐慎二の存在だった。だからこそ魔術の才能を持たぬ間桐家にとってお荷物でしかない間桐慎二は生きることを許され、だからこそ桜は、自らの救いとなってくれた彼に対してひどく執着と好意を抱くようになったのだ。

そして――、そんな拷問じみた教育が続く毎日の中、その中にわずかばかり差し込まれた安らぎだけを享受する以外の全ての行為を禁じられた桜は、故に一切の精神的成長が起こらなかった。続く地獄のような日々。身を焼く苦痛にただただ耐え続けなければならない毎日。唯一の安らぎは目を覚まさぬ自らと血の繋がらぬ兄の世話を焼いている一時のみ。だがそして続くはずだったそんな日々は、間桐臓硯の自死によって終わりを告げることとなる。桜は焦った。間桐臓硯という男は狡猾な男であり、もし万が一桜という存在が反抗的な態度を見せて間桐臓硯/自分を殺傷せしめることがあろうものなら、即座に桜の体の中に宿している蟲達を暴走させ、彼女を道連れにする術式を敷いていた。故に間桐臓硯という男の命は自らのそれとリンクしているはずであり――、本来ならば間桐臓硯の死とともに自らの命も失われる筈だったのに――、何の因果か、自分は生きながらえてしまっている。今の私には、そうして桜が生き残ったのは、かつて自らが何のために永遠の命を目指したのかを思い出してしまった正義の男が、魔のものの影響により取り戻してしまった良心の呵責に耐えきれなかったが末の、せめてもの償いであったと知っているわけだが……、当然当時の桜にそのようなことがわかるわけもなく、とにかく間桐臓硯という自らの養育者かつ、絶対的支配者を失ってしまった、当時魂が砕けてしまっていた桜は新たなる自らの支配者を求め――、眠り姫にかけていた魔法を無意識ながらに解除した。

 

そして間桐慎二という桜の都合により眠らせ続けられていた男は、目覚めたのだ。

 

そして目覚めた桜の兄である慎二という人物は、彼女がそんな状態にある事をひどく嫌った。間桐慎二という青年は、彼からしてみれば自らの恩人に匹敵する生前から自らの妹分である間桐桜という少女が、そんな人形のような状態であることが気に食わなかったのだ。それは人形なんかに救われたとあっちゃ、自分という存在は人形以下のゴミクズとなってしまうという、なんともプライドの高い彼らしい理由によるものだったが――、ともあれそうした誰かを救うというこれまで彼がかかえていたものと比べれば相当まともな信念を新たに抱いた彼は、しかし、一月もたたないうちにその願いの源を奪われ――、しかし生来からの負けず嫌いである彼は、自らの願いを叶える事を心底諦めきれず――、運命の果て、世界の秩序を守る女神として君臨していた桜の力によってアンリマユという彼に縁ある悪神の力を得て蘇った彼の意思は、桜という名の女神の内側にいる桜という少女の砕けた魂の復元を望み――、かつて彼女が懸想していた私の手によって、それを成させようとした。

 

桜。この地獄例えるにも生温すぎる無間地獄の底閉じ込められていた少女。彼女命の匂いが完全に失せてしまった伽藍堂の空虚な町から、ただひたすらに他人を救済するためにのみ動く事を許された、私の代わりに抑止力となってしまった少女。彼女という存在が私の代わりを完全に担ってくれたからこそ、私はあの煉獄より解放されたのだ。思い出すだけでも吐き気のするあの煉獄――、世界の秩序を守るためと、人類の平和を守る為と嘯いて、人間という種族を存続させるために本来ならば救われるべきだった弱者を切り捨てるだけの日々。戦火が広がらぬようにと、戦場に存在する全ての命をただひたすらに切り捨てる作業がどれだけ人の心を磨耗させるかを私はその身をもってして味わっている。そのうえ桜は、私にとっての切嗣という存在すらもいなかった。その上桜は、世界というオッカムの剃刀のような選定者すらもいなかった。私はあくまで非日常における地獄が日常の中に侵入しないようにするだけの掃除屋だった。私は世界が日常より切り離しておく類の地獄であるいう現場にのみ派遣されていた。だが彼女は――、世界の全ての監視者となった桜は、日常の中に存在する地獄ですらも監視すべき対象として、監視し続けなければならなかった。機械の補助があるとはいえ、この世に存在するあらゆる人間が抱える地獄を見続けなかった彼女の苦しみや、今のこの世の全ての悪を受け入れた私でさえも、度し難いものがある。

 

いっそ目の前に広がるそれが完全な地獄であったのならば、桜という彼女にとってどれだけ救いであっただろうか。それが体を瞬時に焼き尽くす業火であったならば、どれだけ彼女にとって救いとなっただろうか。だが地獄にあった火は瞬時に人の命を奪う爆炎でなく、人を可能な限り苦しめんとする邪な悪業の炎だった。死に至るには生温く、しかし平静に生きる為には苦しすぎる灼熱が、人間という種族の足元で燻り続けている。磔刑に処された私は死に至ることができたが、桜はファラリスの雄牛の中で死なぬようと火加減を調整されながら焼かれ続けていた。

 

「――……っ」

 

私などよりもずっと力なく、私などよりもずっと救われるべきである存在が、目の前で震えている。その細い裸身を抱え込むと、伝わってくる震えからは怯えばかりが送られてきた。救いを求めているはずの彼女は、しかし誰かと触れ合う事を、自分以外の誰かが自分という存在を否定する事を恐れている。そうわかる事実がただ辛かった。

 

「ぁ……」

 

私は君を否定しない。ここにいる存在は君を傷つけない。それを伝えたくて、ぎゅっと抱きしめた。新雪を抱くかのように、しかしもう逃がさぬといわんばかり、相手が苦しがるのも忘れて、ただひたすらに搔き抱いた。

 

「うぁ……」

 

漏れた吐息には確実に安堵のものが含まれていた。それが嬉しくて、ただひたすらに力一杯抱きしめた。

 

「先輩……、先輩……、先輩……、先輩……っ!」

「大丈夫……、大丈夫だ、桜……」

 

背中に腕が回された。彼女が自らの意思で誰かを求めている。そのことが嬉しくて、さらに強く抱きしめる。合わせた胸からは彼女の鼓動が聞こえてくる。地獄の中においてもたしかに生きているという生存の証がこれほどまでに尊いと感じたのは生まれて初めてだった。

 

「私……、私……」

「大丈夫だ。大丈夫……」

 

首筋が濡れた。それが何であるかには視線を送らなくてもわかっていた。桜の頭に手を回すと、さらに強く彼女の体を自らに引き寄せる。自分を傷つけない/否定しない居場所があることに安堵したのか、彼女はさらに体全体を使って泣き出した。

 

「ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……っ!」

 

これまで自分が何をしてきたのか、それがどういった結果を引き起こしたのかにようやく思い至ったのだろう。桜はただひたすらに謝罪を繰り返しては、わぁわぁと泣き叫ぶ。

 

「大丈夫。大丈夫だよ、桜……」

 

謝罪なんかして欲しくなかった。だってそれは、本来君が背負うべき罪ではなかったのだから。こんな強く抱きしめれば崩れてしまいそうな細身に人類の全てなんてものを背負わされてしまった君は、むしろ被害者なのだ。しかしその謝罪の声が何より嬉しかった。それは彼女がようやく人間らしい心を取り戻し、他人の事を気遣う余裕を取り戻したという証なのだから。泣き声だけが静かに部屋の中へと響き渡る。暗闇の中、泣き噦る彼女を抱きしめながら、天を仰いだ。伽藍堂の部屋の中、彼女を閉じ込めていた石畳の牢獄の中には、わずかばかりに光が差し込んでいる。闇に光が差し込んだその光景が、なによりも、なによりも嬉しくて、私は桜の体を強く抱きしめた。

 

――桜。君が、私の救いだ

 

地獄において、私は初めて、人間を救うことができた。私の手によって、誰かの体でなく心を救うことができた。私は初めて、人間というものを救うことができた。それが嬉しくて、嬉しくて、心の底から嬉しくて。

 

――だから

 

「桜――」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな――」

「ありがとう」

「――」

 

気付けば、ただ一言、そんな言葉が口から飛び出ていた。言葉に桜の声がピタリと止まる。そんな彼女の反応すらもさらなる幸福の呼び水となり、私は溢れ出る愛おしさのままに、彼女の体を抱きしめていた。一拍ののち、啜り泣く声が部屋の中に残響する。悲しみを含んでいない、ただ、湧き上がる喜びから出ているとわかる噛み締めた泣き声は、だからこそ私の心を強く震わせ、私たちはしばらくの間、ただひたすらに自らのうちより溢れ出てくる多幸感に身を任せていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。