Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜   作:うさヘル

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Two men look out through the same bars: one sees the mud, and one the stars. /二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。
 
Frederick Langbridge, A Cluster of Quiet Thoughts/フレデリック・ラングブリッジ,「不滅の詩」より
 
ただし、本詩を残した神父が実在したか否かはいまだ定かでなく、その足跡も典拠も不明――
 


二十九話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (五)

 

夢を見た。誰もが幸福である世界。しがらみだらけの浮世では絶対に実現しない、はるか遠くにある完璧な理想郷。私が正義の味方である必要がない、正義の味方が必要とされない、そんな世界。

 

人間、誰だって幸福になりたいと思っている。幸福になりたいと願い、夢を描き、その理想郷へと到達するために足掻き、しかし、ほとんどすべての人は自ら描いた理想郷に辿り着く前に挫折する。――当然だ。だってこの世に自分にだけ都合のいい理想郷なんてものはまず存在しないのだから。

 

人間とは今自らが置かれている環境に満足を覚えない生き物だ。人間、どうあがいても、今の環境に満足できないようにできている。当然だ。だって満足するということは、そこで足を止めるということだ。誰もが自分にとって都合の良い理想郷にたどり着くため足掻いている。しかし理想郷とはすなわち到達点の名前であり、そこへとたどり着くということはつまり、生きることを止めるということと同意義だ。要するに、誰もが幸福である理想郷などというものは、あるとすれば、死の先にしか存在しえないのである。

 

多分、私は――、若いころから無意識のうち、そんな矛盾に気づいていた。子供のころ、切嗣によって夢を託され、正義の味方を目指した直後には気づいていなかったかもしれないけれど、少なくとも第五次聖杯戦争に参加し、自らのパートナーとしてアーサー王を引き当てたその時には――、無意識ながらもどこか気づいていたはずだ。

 

鞘をなくしたセイバー(/アーサー王)は死したのち、すべて遠き理想郷へとたどり着く。私は彼女が旅立つための――、つまりは安らかに死んでゆくための手助けをした。永遠の枷を自らへと課していた彼女は、そうして自らの解放を喜んで――、朝焼けの中、最高の笑顔とともに消えていったのだ。

 

そうとも、あの別れは完璧だった。彼女は完璧だった。そうして生を終え、幻想の中へと帰還していったセイバーという少女は、文句の付け所がないくらいの完璧さで生を終え、やがて彼女がたどり着くといわれている理想郷へと旅立ったのだ。少なくとも私はきっとあの時には――、私の目指す場所は、この残酷さばかりが蔓延する現世での生になく、死んだ後の場所にあると、そう思い始めていたはずである。

 

――理想郷とは、生涯に理想を持ち、必死に駆け抜けたものだけが持ちえる、死後の世界のことだ

 

だからこそ私は、自らの理想を胸に、ただひたすら自らの理想を貫き続け――、しかしそんな死を貴ぶような生き方は、この薄汚れた世の中に綺麗な理想郷を作り上げようと苦心している普通の――、地に足をつけて生きているまともな考え方をする人たちから受け入れられなかった。

 

――なるほど、確かに私は

 

生きるのが辛い。現実の世界は自分の思い通りにいかないことばかりが蔓延っている。世界に私の考える正義が正義足りえる場所などほとんど存在していなかった。当然だ。世界と言うものは私だけでできているわけではなく、あらゆる物事は等価交換によって生じるものなのだから。

 

そうして理想郷はこの世にないと思い知らされた。どうあがこうが自らの幸福を望むという行為が、すでに誰かの不幸と直結している。すなわちこの世界には誰もが幸福でいられる理想郷など存在しないのた。だから私はかつて愛したセイバーがたどり着いたであろうすべては遠き理想郷(/死後の世界)という場所に理想を見出し――、やがてたどり着いた彼女が還った英霊の座(/場所)が自らの理想とは程遠い場所であったことに絶望した。

 

――言峰という男の言う通り、自殺願望の持ち主であったらしい

 

だから自らの死を願った。まるで駄々をこねる子供のように、自らのやって来たことを無くそうとした。そうとも。私は自殺志願者だった。私は過去の記憶と死後の幻想だけを愛し、辛さだけが蔓延する現実というものを嫌っていた。

 

――過去の私を愛した遠坂凜という女性は、おそらくそんな私の歪みに気づいていて、だからこそ彼女は、そんな浮世から離れたがる自分を縛り付けておくために、自らという存在とその生涯を重石と化して――、ともすれば死にたがる衛宮士郎という男を浮世に括り付けたのだ

 

おそらく私の義父である衛宮切嗣も、過去の私と同様の事態に陥っていたのだろう。現世というものに絶望し、万能の願望器と呼ばれる聖杯を求めるまでに追い詰められた彼は、しかし、その旅路の過程において手に入れた自らの伴侶たる女性によってこの世に縛り付けられかけられ――、しかし、戦争の果てにその伴侶を失い、幻想の世界に墜ちかけた(/死に憧れた)。

 

三島由紀夫は「愛することにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠に素人である」、などと言ったが、しこうして男という自らの胎より子を生み出せない生き物は、だからこそ幻想を存在追い求める。本来そうして愛した女や愛した女が生んだ子によって現世へと縛り付けられるはずの私という男が愛したのはしかし、幻想から生まれおちた、女のアーサー王/アルトリア・ペンドラゴンという存在だった。

 

――あれはまさに幸福を形にしたかのような時間だった

 

月夜、薄暗がりの蔵の中において幻想の中より突如私の前へと参上し、やがて私という現世嫌いに現実を愛することを教えてくれた彼女は、やがて現れたときと同じような唐突さと共に幻想の中へと帰っていった。たった一か月に満たない期間において、私という存在に強く根付かせた彼女は、そのままぐぅのねもでないくらいの完璧さを保ったまま――、幻想の中に消えていったのだ。彼女が最後に見せた笑顔は、地獄のような時間を過ごした今でも、色褪せぬ思い出として鮮明に残っている。

 

切嗣という男が見せた正義の味方という幻想は、やがて正義の味方(/幻想)というものが存在しない現実を生きる中において死への憧れへと変質し始め、アルトリアという女性によって固定化された。現世に正義の味方はこの世にいない(/理想郷はない)という考え、すなわち死への憧れから発生するこの世界に対する絶望を打ち破る希望というものを、切嗣は戦火に焼かれながら幻想の世界に逃げることを選ばなかった存在――、すなわち、子供の頃の私という存在から見出した。

 

歪んだ聖杯の泥がもたらす災禍の炎に燻られていた私は、迫る死から逃げようと必死だった。天をも焦がさん勢いで大地を覆った炎は、私の視界にあった全てを――、私の世界を死というもので埋め尽くす。轟々と燃え盛る火炎はまるで、人類の築き上げてきたものなど――、現世にあるすべてなど所詮は、人が死に至るまでの一抹に見る泡沫の夢に過ぎないのだと緋色に嗤っているかのようだった。赤く、朱く、赫く、不吉な黄昏色に染め上げられた空。自らを制作した存在と同類である存在(/人間)が焼かれていくを悼むかのよう立ち並ぶ、不揃いな瓦礫の墓標。不規則に聞こえてくる水分を奪われた建物が崩れ行く音。鼻腔に飛び込んでくる焦げ臭いにおい。すべてが死の色と匂いに染まった世界。

 

――私の原点の光景

 

強烈な体験は人の心に癒えぬ傷を作るという。この身に宿っていた魔術の才能が剣であったことは別として、おそらくはあの光景こそが私の固有結界の原点だ。私は自らの現実が崩壊したことを受け入れ難かった。おそらく幼い私は、自らに無条件の愛を注いでくれる存在がもういないのだということを、認めたくなかったのだ。おそらく幼かった私は、自らにとって居心地のいい場所はもうこの世に存在しなくなってしまったのだということを認めたくなかった。おそらく幼かった私は、だからこそ、あの教会のベットの上、無条件な愛と居心地の居場所を与えてくれそうな切嗣の提案に縋りついたのだ。おそらく私は、あの時からずっと、現実の世界ではなく――、その裏側にある幻想の世界の中で生きていた。

 

おそらくそれまで私と同じように幻想の中に生きていた切嗣は、しかし幻想の向こう側にある現実という場所に自らの手によって地獄を作り出したことで、無理やり現実へと引き戻された。そしてそれまで現実に生きていた私は、目の前に生み出された地獄が辛すぎて、かつての切嗣と同じように幻想の中へと逃げ込んだ。

 

――ああ、誰かの幸福が誰かの不幸とは本当によく言ったものだ

 

ほんとうにこの世というものは良くできている。生と死。正義と悪。現実と幻想。理想郷と地獄。悲喜交々。この世の出来事は、あらゆることが表裏一体だ。切嗣も私も、差し出された手によって希望を見出した。だがそうして見出した希望のベクトルは、彼と私とで真逆だったのだ。切嗣はそして自らへと差し出された私の手によって生を貴ぶようになり、私はそして自らへと差し出された切嗣の手によって死に憧れるようになった。彼は自らのために私という存在に現実世界においての居場所を与え――、しかし私はそんな居場所を、幻想(/魔術)の世界に生きるための場所として活用した。

 

だからこそあの我が身には過ぎた大きさの武家屋敷はやがて幻想の綺羅星たる英霊たちが交差する運命の分岐点となり――、そしてまたそんな場所の家主であった私はそれ故に、我が家へと毎日のようにやってくる、現実世界において歯を食いしばりながら生きている桜という少女の異変に気付くことができなかったのだろう。

 

 

桜。この苦痛ばかりに満ちた現実世界において、そんな世界の法則を体現するかのように、理不尽な理由から生じる苦しみに身を苛まれ続けた少女。彼女は普通の幸福を欲した。彼女は普通に生きている他人を羨んだ。だが彼女は――、死するまでの間、一度たりとも、幻想の世界に逃げ込むことはしなかった。

 

――桜はかつての私とは違う

 

彼女はいつだって現実だけを見据えていた。彼女は常に現世に理想郷を求めていた。彼女はおそらく、この世にもあの世にも理想郷などというものは存在しないのだということを、無意識のうちに理解していたのだ。そうとも桜は、理想郷とはこの辛さと苦しさばかりがある世界に誰かの手によって作られるものだと、きっと無意識のうちに理解できていた。

 

――だが……

 

彼女はその苛烈な環境に身をおいていたが故に、幻想に浸ることを許されなかった。だからこそ彼女は――、幻想に憧れ、そんな世界でしか生きられない私の重石とならないために、私に助けを求めず、自ら身を引いたのだ。

 

――桜はかつての私と同じだ

 

そして現世(/生)から幻想の世界(/死)へと叩き込まれた桜は、永遠などというものも手にいれてしまった桜は、かつての私と同じよう、幻想の中に浸るようになった。桜は私と同じなのだ。かつて現世に地獄を作り出した切嗣(/男)は、自らが地獄へと叩き込んだエミヤシロウ(/少年)の中に希望を見出した。そして今、現世という時代の時計の針を神話の時代へと戻すきっかけを作ったエミヤシロウ(/男)は、同じくそんな神話の再現という事態の一翼を担った桜(/女)の中に、自らの救いを見出した。

 

――世界は辛く、残酷で、理想郷ではない

 

だからこそ私は――、そんな桜を救いたい。否――、彼女のような存在に救われてほしい。この世の全ての悪(/アンリマユ)という重石を得た私は、ようやく現世で生きる彼らの苦悩というもの――、幸福な幻想の裏側にある現実を思い知った。

 

――世界には、かつての私のように、世界からはじき出されてしまった、この世の地獄のような場所で喘いでいる人々が大勢いる

 

だからこそ私は――、かつて切嗣がそうしてくれたように、彼女のように深く昏い世界の奥底にまで沈んでしまった存在に、無条件の愛と居心地の良い場所を与えることとで――、私にとっての理想――、すなわち、切嗣(/私にとっての正義の味方)になるという願いを叶えたいと、そう思うのだ。

 

――だからこそ

 

自分勝手で構わない。それでも――、

 

――そんな桜/かつての私のような存在に、私は幸福なって欲しい

 

私は、誰にとってもの正義の味方になるという、幻想のような夢を――、そんな私が必要なくなるような理想郷を、現世に実現したいのだ。

 

 

浮遊感。否、浮上感があった。力を発揮せずとも目的地へと向かえているのだという事実を察知したのだろう、動かすのも億劫になっていた全身から力が抜けてゆく。体の感覚が鈍化してゆくにつれて、意識は不思議と鮮明なもへと変わっていった。眼下には、桜の心象風景であるといういびつな形状の冬木の街並みが余さず崩壊してゆく光景が広がっている。崩落する大地は影絵の町をもはや不要と言わんばかりに飲み込んでゆく。その光景にふと既視感を覚える。それはまるで、私の心の中にあった罪悪感を収集していた部屋が崩れてゆく光景によく似ていた。そう考えればこの光景は、長い間に不変の存在となり果ててしまった桜という彼女の心の変化の兆しであるといえるだろう。

 

永遠不変の存在(/死)から、変化する存在(/生)へと引き戻される。考えるまでもなくそれは喜ぶべき事態であることは承知しているうえで――、しかし、仮初のモノとは言え故郷と呼べる場所が崩壊してゆくその光景には、何とも言い難い喪失感を覚えずにはいられない

 

「――っ」

 

私の両腕の中には、慎二と桜が収まっている。眼下を見下す慎二は如何にも興味なさげにその崩壊の光景を眺めていた。だがもう片方の腕に収まっている桜は――、私と同じく――、否、おそらく私以上に、その変化に対しての喪失感を覚えたのだろう。崩落の光景を眺める桜の顔はどこか不安げで、その腕に込められている力が少しだけ増していた。気付いた私が腕に安心しろと告げる代わりに力を籠めると――、桜は礼を言うかのように応じて腕に込める力を強くする。そうして私たちは、まるで針を口にひっかけられた魚のように――、幻想の中より現実世界へと引き上げられてゆく。眼下では桜が生み出した心象風景――異界が、その主を失ったことにより崩壊し続けている。私たちは今そんな壊れ行く世界から、脱出している最中なのだ。

 

私たちをこうして針に食いついた魚のよう、幻想の異界から現世へと導いているその力がいかなるものなのかは私のあずかり知らぬところである。おそらくは修正力とかそういった名称の力によるものなのだろう。多少考察すればあるいはその答えに辿り着けるかもしれないが――、あいにくそんなことに考察の余念を割いてやれるほど今の私には余裕がない。耳孔の中ではざぁーっ、と、電波を受信していないラジオが鳴らすようなノイズが反響し続けている。異界から現世へと移動する私たちの動きによって、自分たちの周囲にある何かに無数の気泡が生じ続けていた。泡立つ気泡を下方へと置き去りにし続けながら、私たちはどこまでも浮遊してゆく。伴って、徐々に私たちの周囲を取り巻いていた光が失せてゆく。暗く、昏く、黒く染まってゆく光景はやがて完全なる暗黒へと変化してゆき、そして――

 

 

――意識が、反転、する

 

 

ばしゃり、とそんな幻聴を耳に飛び込んでくる。それは魚が水揚げされた時に聞こえる音によく似ていた。それが幻聴であると理解できたのは、披露しきっている我が身の理性が、しかしいまだに正常に稼働してくれている証拠と言えるだろう。浮遊感、倦怠感、重力の感覚。そして――、衝撃。

 

「――っ」

 

両足から伝わってくる衝撃を――、その衝撃に伴い片腕に発生した重みを支えられたのは、奇跡の所業と言っても過言ではないだろう。片腕に抱え込んでいる存在の重みはそれほどまでに今の自分には重く、耐えるに難いものだった。細胞が震えたことによってだろう両足から発生した衝撃は熱へと生まれ変わり、足先から脳髄までの冷えた全身を一気に駆け上がり、やがて到達した熱がセーフモード状態だった脳裏を正常な状態へと戻してゆく。やがて巡った熱が掌を温め、汗ばませたその時――、

 

――……片腕?

 

違和感を覚えた私がその源である自らの胸元へと視線を注ごうとするよりも先に――、

 

『戻ったか、エミ……っ!』

 

魂を振動させることによって意思を声として伝えてくる存在が意識に割り込んできて、私の意識は自然とそちらへと向けられた。

 

「ゴウト……」

 

そうして視線の先に映った存在――周りの闇に溶け込むような黒の毛並みをしている猫の体に宿っている魂のゴウトドウジは、翡翠色の瞳を見開いて、絶句としか言いようがない態度をとっている。見渡せば、彼の隣にて『異界開き』の術式を発動させ続けていたためなのだろう、自らの刀剣――霊刀『赤口葛葉』を構えている葛葉ライドウも、彼と共にこの月の裏側にあるという施設にまで突き進んできたペルセフォネ、ヘイムダル、パラ子、メディコ、ガン子の三人も、『異界開き』の術式を行う前に慎二が『着手金変わりだ』と言って復活させた、泥の中に飲み込まれてしまっていたシンたち異邦人の一同や、凛と彼女のサーヴァントであるランサーも、そしてあのギルガメッシュですらも、私の方に一様の驚愕に満ちた視線を向けていた。

 

――無理もないか

 

そうした視線を生む源はおそらく、この弱り切った我が身にあるのだろう。なにせ今自分は、桜の心象風景に飛び込む寸前よりもずっと痩せこけている。まだ187センチにして80キロ近くあったはずの体重は今や60キロ台に突入している。50の大台も目前だ。今の私の姿や、餓鬼や死霊に等しいと言って過言でない。それはおそらく体内において最もカロリーを擁する脳みそという器官が、この世の全ての悪(/アンリマユ)という存在がもたらす我が身を焼き焦がすような痛みから自らを守るべく必死で消費が行われた証なのだろう。減った体重から消費カロリーを逆算してやれば約18万キロカロリーという、成人男性が一日に消費する平均カロリーの実に6、70人分が我が身の内から一気に消費された計算になる。人間、耐えがたい恐怖を味わうとまるで幽鬼のように変貌するという話は幾度となく聞いてきたが、まさかそれを自らの身で味わう羽目になるとは考えてもいなかった。おかげで重量にして五キロはある短剣を振り回せていた両腕や、78キロもあった我が身を支え続けてきた両足、そして我が無茶に辛抱強く付き合い続けてきてくれた胴体は今や肉も水気も失われ、枯れ木のように細くなってしまっている。顔は頬の脂肪が落ちてげっそりと知った面持ちであるし、首回りも同様だ。もはやこの身の見てくれは、生者であるというよりは、死者に近いものとなり果てていた。

 

――士郎ではなく、屍蝋だな、これでは……

 

「ちょ、あ、あんた、大丈夫なの!?」

 

下らない洒落を頭の中で思い浮かべていると、かつて我が麗しのマスターにしてこの身をこの世界へと送り出してくれた存在――遠坂凜その人が、ひどく慌てた様子で話しかけてくる。誰よりも真っ先に私の体に近寄ってきた彼女は、水気を完全に失って乾燥しきっている我が表皮へとその瑞々しい掌をあて、まるで壊れ物でも扱うかのように優しく撫でてきた。彼女の掌が触れたその部位から、今や我が身から失われた生気が伝わってくるような感覚を覚えてしまうのは果たして、女神イシュタルとして転生した彼女の肌の瑞々しさがもたらすものなのか、あるいはその神気がもたらすものなのか――

 

――いや、違うな、これは……

 

否、違う。そうして我が身に活力を取り戻させてくれるのは、彼女が持つそんな肉体的特徴や、神体的特徴によるものでなく――、ひとえに彼女の献身の思いやりによるものに違いなかった。彼女の掌が私の肌の上を滑るたび、そこに込められた乾いた肌を決して傷付けぬようにとする優しさが、乾いたこの身に対する何よりも活力剤となって、痩せこけたこの身には過ぎるほどの力をもたらしている。

 

――しかしこの愛情の大半は……

 

ただ、欲を言えば――

 

――この身の元の持ち主(/衛宮士郎)に対すして向けられている……

 

彼女が向けるそんな優しさが、完全に私という存在を心配してからきているものではなく、この身の元の持ち主である衛宮士郎という彼女がその一生を共にした伴侶の肉体に対しての慈愛の成分の方が大きいのだろうことだけが少しばかり寂しく――、本当に少しだけ――、妬ましかった。

 

「ああ――、大丈夫だ。心配ありがとう、凜」

 

多分凜は、まるで老人のようにしわくちゃな面になった私を見て、かつて比翼の片方であった自らの伴侶のことを思い出したに違いない。

 

――やれやれ、我ながらなんと強欲な

 

「……あのさ」

 

そうして誰かに心配されつつ、しかしその実その思いが我が身の向こう側にいる過去の幻影に向けられているという事実に少なからずの嫉妬を覚え、さらにはそんな他人のモノとなった女からの愛情を欲しているなどという自らに多少の呆れた感情を抱いていると、私と凜の間――長身だけは保っている私の細腕の中にいた存在が、如何にも呆れたといわんばかりの口調で問いかけてきて――

 

「む?」

「あん?」

 

私と凜は同時に視線を私の腕の中、その胸元にいるその存在へと視線を落とした。

 

「いちゃつくのは構わないんだけれど、せめて時と場所を選び、そして僕の目の届かないところでやってくれないかな。何が悲しくて知り合いのラブロマンスを最前列の特等席で見せつけられなきゃならないんだ。なぁ、お前らもそう思うだろう? ――遠坂に衛宮」

 

私の腕の中では何とも粘着質ながらもまるきり正しい意見を口にしたその存在――慎二が苛立ち顔を浮かべている。そうして慎二は『おい、さっさとこの手を放せ!』と言って私の手を振り払うと、私と凜の間からするりと抜け出て少し離れた場所――、桜の脳みそと彼女の架空の肉体とメルトリリスという桜にとって娘に等しい存在が仲良く横たわっている場所に移動する。おそらくそこは彼が定位置と決めている場所であるのだろうことを、私は彼がその場所に収まった際の何とも言えない自然な雰囲気から理解し――、

 

「ああ――、悪かったよ、慎二」

 

私はいつものよう、文句を言う彼に対して謝罪の言葉を述べた。

 

「あら、慎二のくせに生意気なこと言うわね」

 

一方、凜は、慎二の顔や肌に刻まれている魔術紋様のことなど知らぬといわんばかりの常と変わらぬ態度で、どこぞのガキ大将のようなセリフを吐きながら、するりと私の顔に添えていた手を放しつつ言う。他人の熱が表皮より失せてゆく感覚が少しばかりもの寂しい。無論そんなことおくびにも出さないよう注意しながら私は慎二の方を向きなおすと、彼の厭味ったらしいいつもの見下すような――私の方が彼よりも20センチばかり背が高いのでもは彼が私を見上げているようにしか見えないのだが――視線を受けつつも、彼と視線を合わせると、続けてその隣に横たわる二人の少女へと目を向けた。

 

「桜――、いや、彼女たちは――」

 

視線の先では二人の少女――桜と、桜によく似た顔立ちをしたメルトリリスは、共にいまだ夢から覚めることなく静かに瞼を閉じ続けている。また、おそらくは凛だかパラ子らあたりが見かねたのだろう、胸部から上の一部分と秘部をわずかに隠す装飾しか身に着けていなかったはずの横たわるメルトリリスの体の上には、一枚のよれよれのシーツがひっかけられていた。黒を基調としている多少趣味の悪いワンピースのような服を纏っている桜の横、ほとんど裸身の上に一枚布をひっかけられたメルトリリスが眠る姿は、まるで母親と娘が遊び疲れて眠っているような光景にも見える胸の暖かくなるような、あるいはその黒白が並ぶその光景は正義と悪が和解した姿にも見えるものではあった。

 

「無事だよ。僕が命令して眠らせたときのままさ」

 

慎二は桜へと視線を送り続けつつ言う。慎二の瞳には、桜という存在に対する慈しみがあった。それはかつての彼であれば決してしなかったであろう、一切飾らないものであり――、しかしその視線はまた、先ほど桜の心象風景であったという仮初の冬木の町において、桜という自らの妹分の停滞に憤りの声を上げていた彼がするにまったく相応しいものであり――、故に私は、目の前の先ほどアンリマユとの身命を名乗った彼が、しかし今も慎二の仮面をかぶり続けていて――、すなわち目の前の彼は、アンリマユという存在の力を手に入れた慎二に等しいことを悟った。

 

「そうか……」

 

目の前にいる男は慎二の人格であるに違いなく、そして桜という存在も無事である。そのことを認識した途端、初めて返ってきた言葉に胸の重しが消え失せる。よく見てやれば確かに彼女たちの体は静かで小さくながらも規則的に上下しており、自発呼吸の形跡が見受けられた。

 

――桜は生きている

 

目の前の培養カプセルらしきものに入っている脳みそと脊髄と魔術回路にかかわる部分が桜という少女の真の肉体であることを考えるに、おそらく目の前にあるその体は彼女が自らの力を用いて作り出した義体であるのだろう。目の前の慎二と同じく仮初のモノであるのだろうその寝顔は、メルトリリスという少女の前で勝ち誇っていた時や、シンらの登場により逃走するおりにはなかった、偽りのモノと思えない真なる安らかさに満ち溢れていた。

 

「慎二――」

 

そのことにひどく安堵した私は、何を言おうとしたのか、彼女の側に立つ桜の兄(/慎二)へと声をかけようとして――、

 

「おっと、ちょっと待てよ、衛宮。まずは僕から言うべきことがある」

 

その行為を慎二は言葉によって遮ると――、

 

「――ありがとう、衛宮。お前の手助けのおかげで、桜と――、この慎二/アンリマユ(/僕)は、救われた」

「――」

 

そんなあまりにも予想外な言葉を述べてくる。かつての慎二だったならば決して述べなかっただろう言葉をあっさりと言ってのけた彼の顔は実に晴れ晴れとしたものだった。周囲にある闇を払うかのように明るい笑顔を浮かべる彼からは、以前から今さっきにかけてまでは確かにあった、どこか陰湿な雰囲気が完全に消え失せている。

 

「自分の隠しておきたかった醜い事情を知り、この世界にいてもいいのだと受け止めてくれるかのように、それでも当たり前のようにただ側にいてくれる。お前はそれを桜にやる前、僕にもやってくれた。だから僕は――、俺は今きっと、目の前のこの女と同じよう、こんなに胸のすく思いでいられるんだろう」

 

慎二――否、アンリマユは言うと、瞳を閉じて闇に染まっている天井を見上げた。顔を向けたその先にはやはり闇が広がるばかりであったが――、しかし慎二/アンリマユは、まるで薄暗い蔵の闇から這い出して久しぶりに光を眺めた囚人のように――、降り注ぐ太陽の光に顔と胸を当てるように大きく伸びをして、如何にも感無量といったような顔を浮かべ、幸福の余韻に浸っている。おそらく今、彼のその閉じられた瞼の裏側は、闇ではなく陽光で満ちているに違いない。傍から見る私にそんな確信を抱かせてしまうほどに――、今の慎二の顔は実にさっぱりとした、影のない柔らかいものだった。

 

「……?」

 

だがそんな慎二の様子を見た私は、彼が言ったところの「お前の手助けのおかげ」という文言に匹敵する何かを彼に対してやったという記憶がなく、困惑して眉を顰めることしかできなかった。はて、果たしていったい、彼は何をもってして「自分はお前に助けられた」などと言っているのだろうか――

 

「ああ、やっぱり自覚なかったのか」

 

などと思っていると、いつの間にか慎二の仮面をかぶりなおし、顔を正面に戻して視線をこちらに向けなおしていた慎二/アンリマユは、「ああ、もう、そういうとこは本当に変わらないな」などといつものように苦笑――この苦笑もまた、常とは違い影のないものである――をしながら、自分の襟の開かれた胸元に刻まれている、おそらくはゾロアスターの教義に従って書かれたものなのだろう古めかしい魔術紋様の指さしながら、言った。

 

「アンリマユでもある僕の今のこの宝具、『真実写し記す万象(/アヴェスター)』は、言ってみれば、僕が負っている傷を僕が対象とする相手の魂に対して呪いとして完全に転記し、痛みを完全に共有することの出来る宝具だ。元を言えばこのゾロアスター教の原典の名を持つ宝具は、他の誰かと自らの負った痛みと苦労を共有し、分かち合うことで、元は他人同士である信者と信者の結束を強めるための宝具なんだが――」

 

言いながら慎二はその細指の先を、すっ、と、滑らかな動きで私の方へ向けると――、

 

「衛宮。お前は見事、本来この宝具に望まれた使い方をしたこの僕が、この身の裡に抱えていた痛みと苦労を――、この身に宿っているこの世の全ての悪を拒絶することなく受け入れてみせた」

 

そうして憑き物が落ちたとでも例えるのが適当なのだろうくらい、見違えた、そして屈託ない笑顔を慎二は浮かべながら続ける。

 

「この世の全ての悪と呼ばれる膨大な量の悪意を、その一身に余すことなく受け入れる。言葉にすれば簡単にも思えてくる、しかし実際にやろうとすればそれこそ無限に続く煉獄という煉獄を踏破しつくす精神力をもっていなければなしえないだろう奇跡を、お前はしかし完全にやり遂げた」

 

そのまったく悪意の含まれていない笑顔を見ていると、それだけでこちらも嬉しくなる。

 

「衛宮。お前の今のそのあまりに変貌したその姿を見てみれば、お前がそうしてこの世の全ての悪を受け入れるのにどれだけの苦痛を味わったのかは想像するにたやすい」

 

慎二が口にする一つ一つの言葉が、先ほど凜の掌より与えられた心地よさに負けないくらいのものとなり、乾いた全身を潤してゆく。誰かが嘘偽りのない真実を語るという事象が、何よりの栄養となり、枯れた全身の生気を復活させる力となっていた。

 

「当然だ。億を超え、兆を超え、那由他のから無限彼方に至りそうな領域にまで到達するほどの数の人間の悪意をその身に受けるという苦痛は、まともな人間であれば途中で――、否、入り口としてその悪意に身を浸したその瞬間、発狂ししてもおかしくないほどの質と量のものだ……。――そうだ。それがたとえそんな風に狂ってしまわないまともな人間でなくても、一定以上のまともな感性を保有しているのならば、途中で文句を言って投げ出すか、悪に染まってしまっておかしくない。でもお前はそれらの悪意を浴びながら――、お前はそれでも自らを保ち、やがては自らを保ち続け――、元のお前のままに帰還した。それはきっと、お前のような胸に一本の信念の剣を宿して駆け抜ける事ができるような頑固者にしか不可能なこと。――お前があのこの世の全ての悪意を秘めた呪いの泥の中から帰還したその瞬間から、僕は――、空を見上げて暗闇に星の姿を見つけられるようになったんだ」

 

今や元々の整っていた顔立ちと相まって、何ともせいせいとした魅力を纏い始めていた。おそらくはそれこそが本来の慎二という人間の本当の顔なのだろう。なるほど、昔からなぜ慎二のような顔はよくとも――、言ってしまえば多少性格の悪い人間がこうも女性から人気なのかと疑問に思っていたが、そんな彼が時折こうして全く悩みというものを感じさせない微笑みを女性に向けていたのならば、そんな彼が普段纏っている鬱屈と下雰囲気とのギャップが、彼女たちの心を捕え、離さなかったのかもしれないなどと勝手に納得する。

 

「……慎二。あんた、いつからそんな詩人になったの?」

 

だがかつてそんな顔立ち整った慎二から好意――もちろんその好意は、当時、所有欲と我欲が多分に入り混じったものだっただろうが――を寄せられていた凜は、彼がそうして浮かべる魅了の表情に一切惑わされることなく、ばっさりと言って切り捨てた。

 

「人が決めてるのに水差すようなこと言うか、普通。まったく、相変わらずお前も性格が悪いね、遠坂……、と言いたいとこだけど――」

 

慎二はそうして私との会話の中に無理やり割り込んで疑念を呈してきた凜に対して多少の悪態をつくと、しかし、その静かに浮かべている微笑みの中にある成分を失せさせないまま多少の口元を崩して苦笑を浮かべると――、

 

「お前も変わったな、遠坂」

 

ひどく優し気な口調でそんなことを言った。

 

「昔のお前なら、間違いなく『あんた、なんか悪いもんでも食ったの?』とか言って、気持ち悪がりながら僕の変化を訝しんでいたところだぜ?」

 

――ああ、確かに

 

かつての凜――、例えば私がパートナーとして召喚され、第五次聖杯戦争に参加したころの、手を伸ばせばいずれ世界すべてに手が届くと信じていたあの頃の彼女ならば、間違いなくそう言っていただろう。かつての遠坂凜はそんな風に、世界なんてすでに自分が征服しつくしているなんて大言を吐くほどに強く――、自分とそこにかかわる世界や人間の本質なんてものは決して変わらないと、信じている節があった。それはあらゆる分野において才気に満ち溢れていたなんとも彼女らしい自身に裏付けされた、固有結界じみた傲慢さによるものだったのだろう。

 

「――そうかもね」

 

そうしてかつての自分との対比をされた凜は、しかしかつての彼女だったならば決してしなかっただろうよう、素直に慎二の言葉を肯定すると――、

 

「でもご生憎さま。こう見えて私も、夫と共に相応の苦労を年月の上に重ねてきた女だからね。真剣さや真摯から生じる他人の変化を嘲笑うような若さは――、はるか昔の時代に置き去りにしてきたわ」

 

といって、何とも優雅に手で髪をすき上げ、胸を張って見せた。凜の顔には一片の曇りも存在していない。凜は心底、自らの変化の歴史を――、夫と共に過ごした日々を、心の底から誇っていた。それは自らという存在を、自らが世界に生まれてきたことを、自らがこの残酷である世界に対してどう向き合ってきたかを正しく認識し、そして過ごしてきた日々を愛しているからこそ浮かべられるものなのだろう。なるほどそうして自らが積み重ねてきた歴史を、そして削ぎ落としてきた余計を愛おしそうに誇るその姿は何とも美しく、凛然としていて、何とも彼女の名前に似合っていた。

 

「ふん……、まったく、いい女になりやがって」

 

慎二が皮肉気な口調で称賛の言葉を送る。それは間違いなく彼の本心からの言葉に違いなかった。

 

「あら、どうも」

 

凜はそんな慎二の言葉を優雅に、華麗に受け取ると――、

 

「でも、そうね――、うん、今の貴方なら、一日くらいはデートに付き合ってあげてもよろしくてよ」

 

華やかな笑みを浮かべながら、揶揄う言葉を彼へとぶつける。慎二はかつて凜という存在に懸想していた。その言葉はそれを理解していた彼女だからこその発言である。たが、それはかつての彼女であったのならば、慎二がかつての慎二であったのならば、決して口にしないだろう提案の言葉だった。

 

「は! 生憎、他人に気持ちを置いたままの女からのお情けを受ける趣味はなくってね!」

「それはそれは。相変わらず何とも結構なプライドをお持ちであることで」

「――訂正する。その性格の悪さは相変わらずだな、遠坂」

「人間、どれだけ月日が経過しようと、根っこの部分は変わらないものよ、慎二。そしてそんな変わらない部分があるからこそ、人間は前に進んでいくことができる。――貴方もそう思うでしょう?」

「ふん……」

 

そして変わった、しかし変わらない二人は、かつてのような、しかしかつての彼らならば決して交わさなかっただろう言葉の応酬を済ませると、自然とその視線を下方へと――、下に眠る慎二と凜(/彼ら)の義妹/妹へと向け――、

 

「いい顔しちゃって……、私、桜がこんなふうにまったく警戒心なく過ごしてるのって――、士郎の家以外で初めて見たわ」

 

慈愛の視線を向けながら言う。ただし同じような視線を向ける二人のうち、凜の視線にはまた、慈愛のそれとは別の感情が――、後悔や苦悩らしい鬱屈としたものも含まれているようだった。それはおそらく、彼女が幼いころ養子に出された実妹である桜という存在の苦悩に対して、何もしてきてやれなかったという事情が絡んでいるに違いない。慎二から聞いた話から推察するに、凜は多分、桜という少女がどのような結末を辿ったのか知らなかったはずなのだから。彼女は間桐という家から桜が消えたという事実を、おそらく誤解していた。たぶん彼女は、桜という少女が冬木の町から消えた折、ようやく桜が様々なしがらみから解放されて自由に生き始めたに違いないと素直に喜んだのだろう。だからこそ凜は――、おそらく復活した彼らから世界がどうしてこのように変わってしまったのかを聞いて事情を把握した凜は、こうも複雑そうな顔を浮かべて、毒気というものが完全に抜け落ちた桜の寝顔を眺めているのだろう。

 

「ま、そうだろうな。少なくとも僕は、僕が視界に入っていないとき、目の前に衛宮がいて話している時くらいしか、こいつのこんな顔、見たことないよ」

 

一方、慎二は先ほどと同じように、そんな凜に負けないほどの優し気な視線を桜へと送っている。

 

「あら、自分が桜にどう思われていたのかちゃんと理解していたの?」

 

そんな慎二の幸福に歪んだ顔が彼女の嗜虐心を刺激したのか、凜が意地悪く言った。

 

「ふん……」

 

慎二は不快そうに眉をひそめて息を吐き、しかし静かにその言葉を静かに、まっすぐに受け入れた。一見すれば常と変わらない態度の彼だが――、よく見てやればそうして眉を顰める彼は、その魔術紋様のある眉間に刻まれているしわの数がいつもよりも多いことに気が付ける。目元また、は不規則に痙攣し続けてもいた。どうやら今しがた凜が放った一言は、一定以上の良識を取り戻しているのだろう彼の心を深く傷つけるに十分すぎる一撃であったらしい。

 

「ごめん、言い過ぎた」

 

慎二の細やかな変化に凜も気付いたのだろう。凜は顔をうっかりしていたと言わんばかりにしかめると、素直に頭を下げて、彼に謝罪の言葉と意を送る。

 

「これは今の貴方に言うには相応しい言葉じゃなかったしーー、今の私が言うに相応しい言葉でもなかったわね」

 「いいさ。今とか昔とか関係なく、それは確かに僕が犯した行動の結果だ。反論の余地も言葉もないよ」

 

慎二はその謝意を手を振って受け入れると、かつての自分が犯した罪から目をそらす気はないとそう言い切った。今の慎二は過去の自らの行いに対するあらゆる批判を受け入れる決意をしているのだろう。そうして言い切るからの顔には真剣さと覚悟が感じられた。

 

「……そ。なら私はもう何も言わないわ」

 

慎二は己の罪を粛々と受け入れている。だからこそ彼は、過去の行いを茶化すように言われても、一切反論しないのだ。慎二は過去に自らが桜へと行った事を悔いている。そうして彼は苦しんでいる。彼はそれを選択した。そう悟ったのだろう凜は、言って頭を上げると、静かに言う。

 

「それでいい」

 

慎二は凛に視線を送ることもなく軽く腕を振る。それは間違いなく、素直になり切れない彼なりの凜の思いやりに対する肯定と感謝の意の返事だった。

 

「わかった。でも、もう一言だけ。――ごめん、慎二」

「だからいいって。もう気にするなよ、遠坂」

 

言うと二人は再び桜へと視線を向ける。すると彼らの視線からはすぐさま罪悪感のそれが消え失せていった。桜を捨てた家の長女と、桜を受け入れた家の長男の視線が、揃って桜と彼女の娘へと向けられる。彼らが血の繋がっていない/血の繋がった自らの義妹/妹へと向ける視線は、どこまでも優しいものだった。そんなありそうで実現しなかった奇跡の光景が今、目の前にある。そんな光景を目の当たりにした私は、いつしか二人の姿にまるで幼子の眠りを眺める父母のような幻想を重ね、世界とはかくあるべくなのかもしれないなどという思いを抱き始めていた。

 

 

桜の脳みそが浮かんでいる機械から発せられるわずかな人工の灯ばかりが輝く暗闇の中、そこに集った世界を救わんとしていた数多の英雄たちは、しかしこの度の事態の引き金となった存在である桜とその娘たるメルトリリス、そして、蠱毒の術式の中から桜によって再構成されたという慎二/アンリマユという悪性存在を前にして、しかし何も言わずに佇んでいる。彼らは――、理解し、わきまえているのだ。今、この場に相応しいのは、その身の内に秘めし強大な力をもってして目の前にいるかつて絶望の中に浸っていた矮小かつ無防備な存在を無理やりに捻じ伏せることではなく――、

 

「衛宮」

 

闇の中より救われた彼らがいかなる未来を紡ぎだすかを見守る態度であるということに。

 

「なんだ、慎二」

「お前は僕と願いを叶え――、僕の望み通り、桜を救ってみせた。世の中は等価交換、恩には報いが必要だ。――約束通り、お前に、今のこの世界を完全に救える――、その可能性を秘めた手段を与えてやろう」

 

言うと慎二は自らの胸に手を当て――、

 

「慎二、何を――」

「ちょっとだけ黙ってろ、衛宮」

 

目を閉じて深呼吸を数度も繰り返すと――、

 

「――ふっ!」

 

やがて一度大きく息を吐いたのちカッと目を見開き、胸に押し当てていたその右手の指先を柔らかそうなみぞおちへと突き入れた。

 

「きゃあ!」

「お、おい、何やってるんだ!」

 

右腕の先がずぶりと沈んでゆく。腕とみぞおちとの狭間に小さく鮮血が舞う。それはまるで火花のようだった。突如として起こった暴虐に、方々から悲鳴が上がる。

 

「――っ!」

 

だが慎二は周りの反応など知ったことかと言わんばかりの勢いで、自らの右腕をさらに自らの体内へと沈めてゆく。自らの腹を突き破る勢いで自らの腹に腕を突き入れる。果たしてその所業は、いかなる力と精神力があれば行えるものなのだろうか。人間の体は柔らかそうに見えて、案外丈夫にできている。多くの部分は骨という鎧に守られているし、そうでない部分には筋肉と脂肪の鎧が付いている。通常、それがたとえみぞおちという肉の守り薄い場所であろうと、その守りを突き破るだけの力を人間は持ち合わせていない。否、一部の人間にはそれを可能とする者もいるかもしれないが、少なくともそんな人間であるとしても、自らのみぞおちに自らの腕先を叩き込むほどの力を、人間はそうそうに発揮などできない。

 

だってそれは死につながりかねない自傷行為だ。人間、自らの体を傷つける行為には躊躇するようにできている。それはどう考えても愚かしいだけの行為であるからだ。自らの体に自らの腕を突き立てるなどという行為、少なくともまともな人間なら――、かつての自らの痛みに敏感で、どこか臆病ともいえる気質の慎二であったならば間違いしなかったし、できなかっただろう。だがいかなる目的によるものなのか、慎二はそれをやっている。

 

「慎二っ!」

「黙ってろ!」

 

慌ててその怖気の走る行為を止めるべく駆け寄ろうとすると、慎二は残った左手の掌を私を拒絶するよう向けたのち、そのまま自らのみぞおちに突き入れた己の右手をさらに深く胸の側へと沈めていった。裂けた皮膚から血しぶきは飛び出ない。代わりに、黒々とした、おそらくは慎二/アンリマユの体を形作っているのだろう蟲毒の術式によって生み出されたのだろう悪意を秘めた泥が、突き入れている右腕の肘よりぽたりぽたりと垂れ落ちてゆく。

 

「そっちの、英雄王様や、衛宮。それに遠坂は知っているだろうけど――」

 

慎二はそしてただ一人、このあまりに不測すぎる事態を目の当たりにしてもまるで顔色を変えない存在――ギルガメッシュへと目を向けると、そのまま顔色悪くしている私、凜へと次々視線を移動させながら、言葉を続け――、

 

「再構成されたとはいえ、僕の今の心臓は、聖杯の核のそれだ」

 

自らの胸に手を突き入れるという行為が肺や食道を傷付けたのか、慎二の言葉は途切れ途切れになりつつあり、どこか苦し気だ。心臓から送られる血液/泥が逆流したのか、言葉を発する口の端からは、つぅ、と唾液でない液体が垂れ落ち始めている。

 

「そしてそんな僕の心臓は、先ほどお前たちが倒したヘラクレスという英雄の魂を吸収して――、聖杯のそれへと近づいている」

 

言いながら慎二はさらに自らの胸元へと手を沈めてゆく。腕と胸にできた隙間からは次々と黒血が流れてゆく。落ちたそれはやがて地面に触れた瞬間、一度だけ波紋を上げて跳ね、後に地面へと広がり――、やがては闇の中に溶けて失せていった。

 

「聖杯。あらゆる願いを叶える願望器。かつて僕/アンリマユという不純物によって黒く染まり、所有者の願いを破壊の形でのみ実現するという機能を持つに至った聖杯だが、今の僕なら――」

 

自らの体内から勢いよく体液が失せていっている。しかし慎二は、そんな現象を意にも介さない様子で自らの胸元に突っ込んだ手を、ぐりぐりっ、と動かした。

 

「僕、なら――」

 

慎二の顔が苦痛に歪む。その変化が苦痛であると一目でわかったのは、彼の自傷行為を目の当たりにしたという要素以上に、強く閉じられたその目元には悲鳴の証であるしわが無数に刻まれ、口元は歯軋りが聞こえてくるほどに噛み締められていたからだ。慎二の自傷行為に対して、しかしだれも何も物申さない。慎二のそんな自傷行為には、しかし、もはやそれを止めようとは思わせないだけの、覚悟と凄みがあった。

 

「ぼく、ならぁ――、っ!」

 

慎二はさらに勢いよく胸元に突っ込んだ手を動かすと、かき混ぜるようにしてぐりぐりと動かす。するとやがて小さくみちみちと響いていた胸元からは、やがてぶちぶちぶちっ、とひどく耳障りな音が鳴り響き――、

 

「きゃあ!」

「うぉっ!」

「ひ、ひぇっ!」

 

そして慎二の右腕は自らの胸元から引き抜かれる。胸元からは、糸状のモノが慎二のの右腕の手中の中に収まっているものにまで伸びており――、

 

「ぼくなら、この、僕の、心臓を――、アンリマユの、呪いに染まった、聖杯から、その呪いを、解き放ち――、聖杯を、正常な、形に、戻して、やる、こと、が、可能……、と、いう、わけ、さ」

 

息も絶え絶えな慎二はやがてその伸びた糸状の――、神経や血管などがいまだに繋がっている、自らの胸より取り出したその生々しく脈打つその心臓を私の方へと差し出しながら、そういった。

 

「慎二――」

 

慎二の今までの言動からその意図を理解した私は呆然と彼を見る。慎二の魔術紋様刻まれたその顔色は悪く、青を通り越して白にまで至っている。つまり、慎二の顔からは血の気というものがまるで失せてしまっていた。当然だろう。今、慎二は、自らの――、全ての生命にとっての起点とも言える、全身に向けて血液を送り出すその心臓を自ら内より外へと無理やり抉りだしたのだ。心臓からはその内部に残っていたのだろう血液代わりの泥が、心臓そのものから不規則に噴出しては、ぽたぽたと垂れ落ちてゆく。そんな心臓といまだ繋がれている慎二の胸元との間にある神経と血管は、まるで電線のように伸びていて、そうして出来た橋の撓みの最も深い部分からは、やはり血液の如き黒い泥がぽたぽたと雫が零れて行っていた。

 

「ああ、もう、鬱陶しい……。――っ!」

 

言いながら慎二は腕を勢いよく動かして、多少苦痛の顔を浮かべながらも自らの胸元と心臓の間にかかっている細い神経と血管の糸をすべて一息に断ち切ると――、

 

「そら、受け取れよ、衛宮。これが、お前の望んでいた、聖杯(/世界を救うための手段)だ」

 

言いながらいつものような少し皮肉交じりの笑みを浮かべ、改めて完全に自らの体との繋がりが断ち切られた心臓を、こちらへと差し出してきた。それは普通の人間ならば――、否、多少精神に異常があろうとしないし出来ないだろうそんな自らの心の臓を取り出すという暴虐だった。

 

多くの生物にとって重要な器官を、しかし慎二は今、私の願いを叶えるため――、私との約束を果たすために、自らの確固たる意志をもってして、やり遂げた。それは決して過去の彼ならばできなかっただろう、自らの身を削っての献身。他者と交わした約束を決して破らぬという意思表示。もう二度と自らと、自らを信じてくれた誰かを裏切らないというそんな覚悟と決意にほかならず――

 

「――」

 

その迫力に気圧されてしまった私は、物を言うことも出来ず、差し出された慎二の命を――、文字通り、彼の命そのものを、ただ静かに両手で受け取ることしかできなかった。

 

「……」

 

そうして慎二の心臓(/聖杯)は、この両腕に収まった。手中に納まっている心臓は、両手で強く握りしめれば、それだけで儚くつぶれてしまいそうなくらいに何とも頼りなく、弱弱しい。そんな慎二の命の具現を、徐々に鼓動をしなくなってゆくそれからすべての熱が失われてしまわぬよう、壊さぬよう、汚れぬよう、静かに両掌で包み込んでゆく。

 

「慎二――」

「ああ、わかっていると思うが、衛宮」

 

そしてその顔面から血の気というものが完全に消え失せた慎二は、やはりというか私が何かを言う前に自らの言葉で私の声を遮ると――

 

「確かにそれは穢れない聖杯だが――、けれど聖杯は、それだけでは願望器としての機能を果たさない」

 

ひどく落ち着いた声で、そういった。心臓という多くの生物にとってに重要な器官を自ら抉りだした慎二は、しかし多いに顔色を悪くし、そしてまた少しばかり気分悪そうにするだけで、死ぬ気配というものをまるで纏っていなかった。多分それは今、慎二が蠱毒の泥によってアンリマユの力を得ていることに起因しているのだろう。慎二の冷静にすぎるといっていい冷たい声色は私の心地を現実へと押し戻し、思考をめぐる余裕を取り戻させてゆく。

 

――そうだ

 

そうして私は自らの手のにらに収まっているものへと目を向ける。

 

「ああ……、そうだったな」

 

私の手の中にあるのは心臓という名の聖杯だ。それは無論、かつて聖人の胸から流れ落ちる血を受けとめた聖なる杯ではなく、とある魔術師たちが悲願達成のために心血注いで作り上げた、聖杯戦争という魔術儀式の末に降臨するはずの万能の願望器聖杯の――、雛形だ。

 

「聖杯戦争と呼ばれる魔術儀式において、万能の願望器たる聖杯を降臨させるに必要となるのは、七人の魔術師と七騎のサーヴァント。己のパートナーとなる英霊を自らの袂へと呼び寄せ、使役し、最後の一人になるまで英霊同士を競い合わせ、呼び寄せた英霊と共に殺し合いの宴を勝ち抜くこと」

 

聖杯、というかつて万能の願望器たるそれを巡っての戦争――、すなわち、聖杯戦争に巻き込まれた経験によるものか、気が付けば私は、そんな言葉を吟じ上げていた。

 

「そして呼び出された英霊の魂を七騎、その聖杯の器の内へと焼たとき――、聖杯はこの世の外側との接続を可能とし――、その外側にある膨大な魔力をもってして、この世界におけるあらゆる願いを叶える、まさしく万能の願望器と呼ぶにふさわしいモノへと変貌する……」

 

かつて聖杯戦争の相棒であった私の言葉に刺激されたのか、凜も続いて聖杯戦争の要点となる――、聖杯の降臨のための条件と、聖杯と呼ばれるそれがいかなる理屈にて世界の全てに変革を及ぼすことの出来る万能の器と化すかを呟き――

 

「でも、慎二。貴方の覚悟と意思は尊いものだと思うけれど、残念だけれどあなたが差し出してくれたこれじゃあ多分、今の世界はどうにもできないわ」

 

続けて、慎二の行為を無駄と切り捨てるようなことを、言ってのけた。

 

 

「へぇ……、どうしてそう思うんだい?」

 

そうして自らの犠牲と献身を無意味と告げられてた慎二は、しかし胸元にぽっかりと大穴が開き、その上死人と見紛おう程に顔色が悪いにもかかわらず、平然とした態度で凜へと問いを投げかける。

 

「どうしてって……」

 

そんな慎二の態度が不気味に映ったのだろう、凜は多少たじろいだ様子を見せながらも、しかし彼女らしい胆力を発揮していつものような気丈な態度を保ちつつ、口を開いた。

 

「……それは、聖杯戦争で降臨する聖杯はあくまで根源に至るための道具であり、貴方の心臓であったその小聖杯は、その過程において発生する英霊の魂を溜め込んでおくためのただの道具に過ぎないからよ」

 

凜はそして目を瞑ったのち深く長い息を吐くと、一目で覚悟を決めたとわかる顔を浮かべながら続ける。

 

「慎二。よく聞いてちょうだい。貴方のその心臓は――、小聖杯は、英霊の魂を収めておく器に過ぎないの。それは言ってしまえぼ、そこから世界の外へ出て、外側にあるためだろう『魔術師ならそれを用いて世界の内側を思い通りに操ることの出来る、誰も使っていない、地上とは比べ物にならない大量で無尽蔵に等しい魔力(/マナ)』を手に入れるための道具。『根源』に至るための道しるべ。根源と呼ばれる呼ばれる魔法の領域に辿り着く――、聖杯戦争と聖杯は、そんな魔術師の悲願を叶えるため、御三家と呼ばれる私たちの先祖によってはじめられた、魔術儀式の象徴。貴方が桜によってかつての状態へと完全に再生された存在であるというならば、それには確かに小聖杯としての機能はあるかもしれないけど――」

 

凜はそうして目を伏せながら、気の毒そうに続けた。

 

「その『小聖杯』が『万能の願望器』なんて呼ばれているのは、『完全な小聖杯』と、『大聖杯』の――、この時間軸の外にいる純粋な『魂』である、この世の道理から外れながら、尚この世に干渉できる外界の力を持つ英霊の魂に干渉し、その世界の外側にある座に戻るときに生じるその孔を固定する機能を用いれば、世界の内側と外側の空間にあると言われている『魔術師ならば術師ならそれを用いて世界の内側を思い通りに操ることの出来る、誰も使っていない、地上とは比べ物にならない大量で無尽蔵に等しい魔力(/マナ)』が手に入るから。すなわち、それには英霊の魂という膨大な魔力の塊をとどめておく機能があるだけで――、誰かの願いを叶えるような便利な機能が――、万能の願望器としての機能があるわけじゃあ、決してないわ」

 

凛の言葉を最後に、し……ん、と場が静まり返る。誰一人として言葉を発しない。憐憫か。あるいはそれとも同情によるものなのだろうか、この場において意識ある存在の視線は、やがて凜が慎二に対して向けるような、何とも言い表しにくい感情を秘めたものばかりのモノとなってゆき――、

 

「……は」

 

そしてそんな自らに対して視線が集中したことを感じ取ったか、慎二は何かを嘲笑う、いつもの彼がするような声を一言漏らすと――、

 

「まったく、ほんっと、優等生らしく、頭固いよね、遠坂って」

 

こともなげにそう言った。

 

「……え?」

 

そうして返ってきた言葉が意外だったのだろう、凜は珍しく間の抜けた声を漏らす。

 

「え? じゃないよ。おい、遠坂。仮にも御三家の人間で、そりゃあ、あの爺にいろいろと隠蔽されてたけど、あいつがいなくなった後、いろいろと聖杯戦争について調べていた僕が、やがてそこにいるギルガメッシュによって小聖杯の心蔵をこの身の内に移植された張本人であるこの僕が、そんな素人魔術師がやるようなミスを犯すと思ってんのか?」

「――」

 

慎二の言葉を聞いた凜は、唖然とした様子で口をぽかんと開け、続きの言葉を耳にする。

 

「そうさ。僕のこれは所詮、小聖杯。世界の外側と内側をつなげるために英霊の魂を収めるための器でしかない。言ってみればこれは、英霊の魂という矢を座という的に還すための弓みたいなもんだ。これ自体には世界の内側を変える力なんてないし、意図しなかったとはいえ人為的にこの月という場所に座というものを作り出されてしまった時代においては、座というものがこの世界の内側に作られてしまった世界においては、それこそ何の意味も持たない単なる英霊の魂という膨大な魔力を秘めた塊を収められるだけのただの器だ。遠坂。お前の言う通り、これが――、こんなものがそれ単体でポンとあったところで、この世界の内側を――、それも、今のこの、あらゆる神話が実現しかけているこの世界を変えることなんてこと、とてもじゃないけどできやしないよ」

 

顔色の悪い慎二は、しかしどこまでも調子よさげに、自らの差し出したその心臓が役に立たないことを歌い上げる。

 

「なら――」

 

見かねた――、というよりは、そんな文字通り自らの心臓を捧げて生み出したはずのそれを、しかし慎二は『こんなもの』と言って軽々しく扱ったことが信じられなかったのだろう、凜は呆然とした視線を慎二に送りつつ、彼へと何かを尋ねようとして――、

 

「でもさ、遠坂。これは確かに今の世界の内側を変えることは出来ないけれど、英霊の魂(/膨大な魔力の塊)を保管しておく機能は確かに有しているし――、何よりこれは、『万能の願望器たる聖杯』になりうる小聖杯(/もの)なんだ。『積み重ねてきたものは力を持つ』。それが秘されていようと秘されていまいと、おんなじだ。同じ刀なら古い刀の方が霊的にはより強い力を発揮するのは、僕たちの世界じゃ常識だろ? 古くから残っているっていうのは、それだけで力を持つ。名には意味が籠められている。極めた奴(/魔法使い)は似たような境地(/根源)に辿り着く。すべてのモノは積み重ねの結果だ。そうして積み重ねられたことによって出来る縁ってもんは情念深い女みたいなもんで――、どれだけ月日が経とうとも、いずれ必ず結ばれた縁によって再会を果たす運命にある。なら――、かつて第五次聖杯戦争という首輪で――、ある種本来の意味での絆というもので結ばれた僕たち、お前たちが作り上げる小聖杯は、必ずやその『聖杯』の名の通り、本来の聖杯としての機能を――、すなわち、『万能の願望器』としての機能も持つように変質するはずだ。それに――、本来なら世界の外側、根源に至る道にしか存在しないはずの『魔術師ならそれを用いて世界の内側を思い通りに操ることの出来る、誰も使っていない、地上とは比べ物にならない大量で無尽蔵に等しい魔力(/マナ)』なら――、今、そこらじゅうに散らばっているじゃないか」

「――」

 

そんな凜の言葉を遮って行われた慎二の指摘に、凜ははっとした表情を浮かべて、周囲を――、自らの周りにある闇の空間を見回した。彼女の行為によって私も自らが身をおいている場所の周囲にあるものが――、この月という場所が今いかなる状況下にあるかを鮮明に思い出す。

 

「そうか――、全ての人々が今や霊脈との繋がりすらも持ち、一定以上の魔力(/オド)を保有しているこの時代、蠱毒の術式によって世界中の命が溶け込んでいる泥には、当然、相応の――、それこそ神話の再現を可能とするくらい、無限に等しい魔力(/マナ)が貯蔵されている……!」

 

凛の声を聴いた慎二はニィ、といつもの唇の片方を吊り上げる意地の悪い笑みを浮かべ――、

 

「そうさ。そんなこの時代ならば――、それらすべての魔力を合わせた総量は、それこそ、かつての旧人類の神話の時代なんかをはるかに凌駕するほどになっている。そしてまた、月という場所に集いつつある膨大な量の人間の魂と――、そんな膨大な量の魂/魔力をどうこうできる、いわば大聖杯のような役割を果たせる才能をもった桜(/存在)はここにいてーー、さらに、この神話が再現される今この世界においては、贋作の聖杯も、信じれば真作となって降臨しえるんだ。だから――、おい、衛宮」

「むーー」

「話、聞いてたんだろ? その聖杯の器はそれ単体ではいまだに完成品ではない。けど、その器の内側に英霊たちの魂を収めてやり、完全なる小聖杯となった時――、いわゆる完全なる聖杯(/万能の願望器)へと生まれ変わり――、やがてこの世界の法則によってある程度までならこの世界の内側を自在に操れる機能を有するようになるだろう」 

「そんなことが……可能なのか?」

 

慎二の――、彼の仮面をかぶっているアンリマユの提案を聞いた私は、呆然としながらも尋ね返す。

 

「もちろんさ」

 

すると彼は、当たり前だといわんばかりの様子で、私の疑問に肯定の答えを返してきた。魔術を使えるこの身であるとはいえ、魔術の師と呼べるほどの知識を有さない私には、慎二の言葉の真贋の判定が付かず、故にどうにも信じ切ることができない。無論、感情的には信じたいと思っているのだが――、私の理性が、知識不足を理由にして軽々に判断を降さない。だからだろう私は――、気付けば、この場において私が魔術という分野において最も信頼できる彼女の方へと真偽を尋ねる視線を送っていた。私の視線に気づいた彼女――凜は、腕を組んで唇を指先で軽くもみほぐすと、しかる後にその柔らかい唇を開く。

 

「……理論上はその通りのはずよ、アーチャー。小聖杯は英霊の魂を貯蓄する。そうして小聖杯のあつめられた英霊の魂は、たとえ完全でなくとも、それこそ世界の内側を好きなように変革できるほどの魔力を保有していた。そして今、この世界においては――、私が生き方とかのせいでイシュタルの力を得たみたいに、祖先回帰みたいな現象があちこちで起こっている世界なら――、そうして完成した小聖杯はその名に基づいて『万能の願望器』たる『真の聖杯』になりえる可能性は高い。無論、そうして完成した願望器が願望器たるには、相応の魔力が必要になるわけだけど――、そうして『真の聖杯』として完成した小聖杯を使ってそこらに散らばっている泥を魔力(/材料)にできるというなら――、『小聖杯』はそしてそれこそ見当もつかないほどの魔力を溜め込んだ『巨大な聖杯(/全能の願望器)』となって、地球どころか、それこそこの月や火星――、ううん、太陽系はおろか、その外側に至るまでの常識を書き換えることができるだろう、冬木の聖杯なんか比でない『全能の聖杯』になるはずよ」

 

凜はそして一息つくと、改めて慎二の方を向き――

 

「それで慎二。その『小聖杯』を完成させるのに必要な材料は――」

 

そう尋ねた。

 

「そりゃ決まってるじゃないか」

 

すると慎二は軽い口調でそう述べて――

 

「第五次聖杯戦争。この僕の――、否、イリヤと呼ばれるあの女の心臓たるこの心臓が聖杯の器として扱われたおり、召喚された英霊たちの――、あるいはそんな奴らと神話性の高い、その領域に至った奴らの魂だ。つまり――」

 

その指先を――、

 

「セイバー」

 

彼女の魂を具現するペルセフォネへと伸ばし――、

 

「ランサー」

 

当時のままの姿で召喚された、憮然とした表情で凜の側に佇むクーフーリンへと移動させ――、

 

「ライダー」

 

続けざまに幻想種「ペガサス」を横に置く、メデューサの鱗をその身に纏うヘイムダルを指さして――、

 

「キャスター」

 

勢いのまま、指先をサコの身を乗っ取ったメルトリリスへと移しーー、

 

「アサシン」

 

そして薄緑にて、佐々木小次郎という英霊の境地にまで至ったシンを指さすと――

 

「バーサーカー、は、すでにさっきの戦いの末に格納されているとして――」

 

そのまま慎二は私の手に乗っている自らの心臓を指し示し――、

 

「アーチャーだ」

 

最後にそう言いながらそのまま指を上に動かし、その指先を私――ではなく、ギルガメッシュの顔に突き付けた。その宣言はすなわち、世界を救いたければ、報われない存在だった多くの人を救える正義の味方になるためには、かつてのように私自身ではなく、彼らにまで死んでもらわないという宣言にほかならず――、

 

「さぁ、選択するがいい、正義の味方。何にも代えて叶えたい願いがあるというのならば、汝、自らの最強をもってして、その資格の有するを証明せよ!、ってね」

 

胸にぽっかりと穴の開いた慎二は――、否、この世の全ての悪(/アンリマユ)は何とも意地悪い様に顔を歪める。そのこの世の全ての悪意を凝縮したかのような憎々しい笑みは、まさにその二つ名に相応しいものだった。

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