Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 作:うさヘル
「あ、あ、あ、あ、あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
少女の鳴き声が響いている。絶叫は闇の中に響き渡り、溶け、そしてすぐさま消えてゆく。自らの思いを乗せた声がすぐさま失せてしまう。その薄情さが気に食わないといわんばかりに少女はさらに大きな声をあげて、自らの思いを乗せた言葉を悲鳴として、闇の中に吐き出し続けていた。
「あぁ、あ、あ、あ、あぁ、ああ、あ……」
少女の側には二人の男女がいる。男女は自らの目の前で座り込み、衣服を胸に搔き抱きながら恥も外聞もなく、胸にあったはずの誇りさえも打ち捨てて泣きじゃくる一人の少女の前に立ちながら、静かに――――――、堪えていた。
「……っ!」
男の肩は震えている。上を向いた男は必死で涙を堪えていた。男は一度それを許せば、自らも目の前にいる少女のように泣き崩れてしまうだろうことを承知していた。起こった現実は、それほどまでに男にとっても重かった。出来ることならば、男も今すぐ少女が行っている追悼式に加わってやりたい気分だった。目の前で泣き叫ぶ少女の気持ちが、男にはよくわかる。それは自らに対する失望であり、冷たい世界に対する絶望であり、居場所を失ってしまった悲鳴であり、愛するものを、自らを愛してしてくれた者を失ってしまった証だった。
「いやよ……、いや……、いや……!」
男にはその気持ちがよくわかる。だが、膝を折り、ただひたすらに絶望の声をまき散らすという無様を、男は二度もしたくないと思っていた。それは男のプライドから来るものであり、同時に、それをしてしまえば、自らの受け皿となってくれた男に託された望みを叶えられなくなるほど心が砕けてしまうかもしれないという思いからも来ているものだった。これまでに多くの恥をかき、望んできた多くのモノを手に入れられることが出来なかった男だが、否、そんな男だからこそ、男の性質をそうであると知りながら、それでも男にそんな重い役割を望み、託してくれた彼の想いだけは、無碍にしたくないと男は思っていた。
「いや……、嘘よ……、こんなの、嘘……!」
だから男は堪えなければならないのだ。男はしっかと両手を握りしめ、作った拳の内側に爪を突き立てながら上下の歯を砕かんばかりに噛み締めて、涙と共に想いが自らの裡より零れ落ちてゆくことを必死に防いでいた。そうして全身を強く引き締めて涙を堪えるほどに、代わり、胸に開いている穴からこぼれる体液の量が増加する。比喩でなく胸にぽっかりと穿たれている空洞から液体が零れ落ちてゆく。つぅ、と肉体を伝って垂れ落ちてゆくそれは、まるで、男の心が直接流した涙のようでもあった。
「――――――死んだ……」
悲鳴ばかり上げていた少女が初めて意味を成す言葉を吐く。その言葉に堪えられぬといわんばかりに、もう一人の女が口を覆い、膝をついた。抑えていたものが決壊する。目の前で泣き叫ぶ彼女のように悲鳴をまき散らさずに済んだのは、起きた現実が女にとって少女よりも軽かったからという理由ではなく、きっと成長のあかしなのだろうと、そう思った。地面の闇が、一つ、二つ、と、水滴を吸い込んでゆく。ぽたり、ぽたりと垂れ落ちる熱を帯びたそれの一つ一つには、確かに目の前の少女の絶叫に負けないだけの想いの熱量が秘められていた。
「死んだ……」
女は唇を強く噛み締めた。本当ならば、女だって少女のように泣き叫びたい。今すぐにだって少女の哀悼に加わりたい。だが自分はもうそれをやったのだ。世界の底。女神などとあがめられて押し込められた天蓋の上にある檻の中、そのさらに奥へと作り出した心象世界の奥底において、自分はすでに、それをやったのだ。
「死んじゃった……」
苦しかった。辛かった。体をバラバラにされて、こんな場所に一人で閉じ込められて、千年、万年の間にため込んできたその思いを吐き出して、吐き出して、吐き出して、吐き出して――――――、吐き出した。あの薄暗い蟲蔵の中、彼はそれを、ただ静かに受け止めてくれた。望めば手を取り連れ出してくれる人がいた。私には受け止めてくれる人がいた。私にはその思いの全てを受け止めてくれる人が、確かにいた。私はそうして欲しいと思う人に、それを受け止めてもらえた。そして今も、それをしてくれるだろう人が隣にいる。だが、目の前の少女は、それを許されなかった。世界から自分の居場所が失せてしまった。だからこその悲鳴で、だからこその絶叫だ。そしてその差分、その差異こそが、元をたどれば同じであったはずの二人の女の境界となり、態度の違いとなっている。
「私が――」
惚れた男の胸で、思いの丈を残らず吐き出すことを贅と言わず、何を贅と言えるのだろう。惚れた男がそうして吐き出した思いを余さず受けてめてくれること以上に、何の幸福があるというのだろう。千年、万年もの間に溜めこんできた鬱屈と悲鳴を受け入れてくれる以上に、何を望めというのだろう。女はそれを味わうことが出来ていて、少女はそれを許されなかった。それを理解しているからこそ、女は必死で涙を堪え、この場より失せてしまった男を悼んで、その残骸を掻き集めながら、その思いの丈を吐き出すという次善と呼ぶにしてはあまりにもささやかすぎる贅沢を、きちんと与えられなかった少女に譲っているのだ。
「――私が、殺した」
時が止まった。嗚咽を止めた少女の目の両端から、つぅ、と思いの証が垂れ落ちて、地面との間に透明な橋を生まれてゆく。とめどなく溢れてゆく糸雨は、やがて地面の上に小さな水たまりを作った。しばらくの間それを拭おうともせずに呆けていた少女は、しかし突如としての自らの裡から零れ落ちた想いが世界という存在に奪われるのを嫌ったかのよう、そして少女は自らの顔を胸に掻き抱いていた衣服の中へと放り込むと、再び人としての言葉を失った。少女の胸の中に収められていた或る男の残骸は、少女が吐き出すそれらの全てを優しく受け止めた。
『いやよ! なんで私がそんなこと――』
失われて今なお少女の全てを包み込むその柔らかさが憎たらしかった。そんなものよりも欲しいのは、あの乾いた腕がくれる優しさだった。自らが夢の中で踊った彼とは違い、現実の彼は思った以上にボロボロだった。髪はもう固さを失っていて、顔も手も、見える部分はどこもしわだらけだった。水分の失われた頬は痩けていたし、抱きしめてくれた腕には逞しさなんて微塵も感じられなかった。けれどそんなボロボロのそんな姿こそが、なんとも少女の好いた彼――――――、万人を救う正義の味方などというものを目指して駆け抜けて衛宮士郎らしく、そんな彼が自らが抱いていた思いの全てではないけれど自分の想いを受け止めてくれたからこそ、少女――――――メルトリリスは彼の望み通り、衛宮士郎という男に自らの能力を行使して彼の全てを溶かしつくし、世界の全てが溶け込んでいる泥の中へと織り込んだ。
『死にに行くのでない。願いを叶えに行くのだ』
拒むメルトリリスに衛宮士郎は、そういった。
『だから、頼む』
あの顔が過少でも悲痛さを含んでいたのならば、どれだけよかったであろうか。あの時彼が浮かべたその笑顔にわずかばかりでもメルトリリスを躊躇わせる成分が含まれたのならば、今、自分はどれだけ救われていただろうか。あの笑顔にはメルトリリスという少女が求めていたすべてがあった。息も絶え絶えな彼が、しかし何とも幸福そうな笑みを浮かべながら頼み込んでくるその願いを、どうして無碍にすることが出来ただろうか。
『――』
出来るはずなどない。彼はいかにも幸福な顔を浮かべた。彼は答えを得てしまった。彼は到達してしまった。彼は完成してしまったのだ。長年の間、多くの死を収集してきたメルトリリスは、だからこそ、彼のその笑顔に偽りがないことを、心底理解できてしまった。その満たされてしまった心の全てを使って、彼はすべての人間を救う決意をしてしまったのだと、心の底から理解させられてしまった。だから――
『――わかったわ』
「――――――殺した」
その言葉を繰り返す度、心が砕けそうになる。あの時のことを思い出すたび、胸の中にこれ以上ないくらいの激痛が走った。胸に突き立てた刃の感触を覚えている。彼の体はカラカラに乾いていて、まるでミイラみたいだった。耐えられなかった。自分が彼の心臓に刃を突き立てたという事実が、自分がこれから彼を殺そうとしている事実が、彼がそれを望んでいるという事実が、自分には何よりも耐え難かった。だからすぐさま能力を発動した。
『弁財天五弦琵琶(/サラスヴァティー・メルトアウト)』
この身に宿った女神の力にてエミヤという男の体は溶けてゆく。泥の中に混じってゆく。命が溶けてゆくその感覚がたまらなかった。耐えられなかった。見たくもなかった。だってもう絶対に助からない。それでも笑顔を浮かべている彼の顔を見ていたくなんてなかった。かつてあれほど望んでいたはずの出来事が、こんなにもつらいなんて考えてもいなかった。
『――ありがとう』
礼なんていらなかった。そんなものをくれるくらいなら、ただ隣にいてほしかった。もっとずっと、声を聞かせてほしかった。叶うならずっとそばにいてほしかった。許さるなら、自らの能力を自らに行使して、今すぐに彼を追いかけたい。でもそれはだめだ。だってそれは彼の望みでない。誰かに隣を独占されることを、今の彼は間違いなく最も求めていない。だってそうしてこの世の全ての悪と同化した彼でなければ、この世の全ての人の体に宿ることは出来ない。玉藻という神霊に等しき存在を響という少女がその身に収められているのは、彼女という存在の魂と、玉藻という存在の魂の親和性が高いからだ。もし自分という三柱の神霊から作り出された、他の魂との融和性が高い、高すぎる神格を持つ存在の魂が過少でもその身に収まってしまったのならば、弱いその魂はその瞬間にメルトリリスという存在の隷属下に置かれてしまうこととなる。衛宮士郎という、もともとはただの人間に過ぎない、しかしやがて英霊という存在にまで成り上がり、果てにはこの世の全ての人の中にあった善悪の全てを呑みこんだ彼だからこそ、それは可能な荒業なのだ。
『慎二、桜も、ありがとう。最後まで付き合わせて悪いが、あとのことはよろしく頼む』
それにもし、自分が彼に能力を行使しなければ、側にいる彼に救われた桜がその役目をメルトリリスという存在の代わりに果たしただろう。だって桜はメルトリリスの元である存在だ。だってもともとそれは、桜に与えられていた能力だった。だって桜は彼に惚れていた。だって桜は惚れた男の心からの頼みを断れるような強い女ではない。そんなこと、元は同じ存在だった自分だからこそよく理解できる事実である。
『そんな顔をしないでくれ』
「……だめ」
だからこそ、それだけは認められない。それを頼まれたのは私だ。桜ではなく、この私が、彼に頼まれたのだ。そんな人の想い人を横からかっさらっていくような真似だけは許せない。彼が頼ったのは私だ。それは彼の最後の願いだった。それは彼が願いを完全に叶えるための行いだった。彼は私のことを思っていてくれたからこそ、その願いを託す相手として、私を選んでくれたのだ。あれは彼の願いだった。彼は私を生かしたかった。彼は私がかつての自分だと思っていた。彼はだからこそ、メルトリリスという存在に生き抜いて自分だけの幸福を掴み取って欲しいと願って、放置しておけばそのまま現実からの離脱を選んでしまいそうな私に、その願いを託したのだ。
『これは私の我儘だ。君は、私の我儘に付き合ってくれただけ……。君が余計なものを背負うことはない』
「いやよ……」
他者の想いを貪ることしか知らなかった。だってメルトリリスにはそれ以外が与えられていなかった。傲慢で、誇り高く、決して折れず、撓まず、違わず、そして、変わらない。ただそれだけがメルトリリスという女にとっての全てだった。しかし衛宮士郎という男は、それだけがすべてだったはずのメルトリリスに、だからこそ、自らの想いを結び付けていった。衛宮士郎という男は、衛宮士郎という男らしい何とも不器用なやり方で、メルトリリスをこの世に縛り付ける重石とこの世界にも確かに自分の居場所はあったのだという証明を置いて、逝ったのだ。あの言葉にどれだけの想いが籠められていたのか。そんなことは痛いくらいにわかっている。だからこそ自分はこうして、死なずに生きている。彼が自分の行為を喜んで、あんなに幸せそうな顔を浮かべて死んでいった。だからこそ。だからこそ自分は、死を選ばずに、恥辱と後悔に満ちた生を選ぶことを選択した。
『私は幸せに生き抜いた』
「やだ……」
その先なんて聞きたくなかった。わかっている。こうして彼を悼んで泣き叫ぶことが、彼の願いに反していることなど、痛いくらいにわかっている。泣き叫ぶほどに、彼の顔は歪むだろう。涙を流すほどに彼の顔は苦笑のそれへと変わるだろう。メルトリリスは衛宮士郎という男のそんな顔を見たくはない。でも、自分という存在をこんな最低な気持ちにさせたその責任を押し付ける我儘くらいは、許されてしかるべきだろう。
『だから、どうか、君も幸せに――』
「いや……」
少女の見た目らしい我儘さで自らを納得させると、メルトリリスは再び理性のタガを外して泣き始める。泣き叫ぶほどに、衛宮士郎という男の苦笑顔が目に浮かんできた。今やもう失せてしまったその顔が瞼の裏に映るそんな彼の困ったといわんばかりの微笑み。それだけが今やメルトリリスの救いであり――、
『ああ――』
「私を置いていかないで……」
そのもはや二度と見れないだろう何とも幸せそうな笑顔こそが、彼女から悲痛の想いを無限に引き出す幻想の巨人でもあった。悲痛な叫びがとめどなく鳴り響く。
『いい、人生だった――』
「私の前から消えていかないで……!」
祈りを嗤うかのように、男の姿が闇の中へと消えてゆく。あれほど誰かを思って行動しただろう彼は、しかし誰かの記憶に残ることを望まなかった。彼はそして、現象に成り下がってしまうことを望んだのだ。迷い、悩み、苦しみ、間違い、しかしそれでも必死に生き抜いてきたあまりにも人間らしかった男が、しかし最後に望んだのは、人を助ける力そのものになることだった。正義の味方は幻想の中の存在でなくてはならない。だからこそ自分は、そんな幻想になる。すなわち、エミヤと存在は空となるのだ。それが何よりもメルトリリスという少女の心を痛めつけていた。
『アーチャー……!』
「アーチャー……!」
月の裏、太陽の光を一身に受けているはずの施設は、しかし凍えそうなほどに冷え込んでいる。それはまるで、少女の心が生の喜びに熱を帯びるその時はまだ遠い証のようでもあった。
*
無垢なる世界があった。正義や悪、人間や他の生物どころか、力の方向性すらもいまだに定まっていない、そんな世界。すべての命が混ざり合っている、全ての幸福と不幸が共有されている、そんな世界。蠱毒の術式というもので作り上げられたそんな無垢なる世界にはしかし、ただ一つ、皆の意識というものだけが、残されていた。蠱毒の術式は、孤独の術式。すなわち、力をただ一人に集約させる術は、また、意思を一つに集約させる術式でもあるからだ。誰もが誰とも同じである。故に、誰もが誰をも否定しない。自分の居場所は確かにここに存在している。自分という存在に周りにいるのは、自分を肯定してくれる存在ばかりなのだ。それ故にこの泥の中にあるは、とてつもない快楽ばかりである。それはまさに母の羊水の中で揺蕩っている赤子の味わう気分であるといえるだろう。
だからこそ、この中に溶け込んでいるほとんどすべての人が、ここから出ていこうとしない。だからこそ、この中に溶け込んでいるすべての人は、ここにいる以上のことを望まない。彼らは自分を傷付けるものが何もないこの世界こそが理想郷であると信じ切っているから。だからこそ彼らは、自らが溶け込んでいるこの世界が他の誰かに吸収され、失われていくとしても、抗わない。なぜなら彼らは、誰かと溶け合い、一つになることの快楽を知ってしまったから。
正義も悪もいらない。この快楽が味わえるのであれば、命だって要らない。生きることの先に幸せが待っている、などとほざけるのは、それまでの生において、欠片ほどでも幸福を手にいれたことのある幸せ者だけだ。才能のない奴、環境に恵まれなかった運のない奴らにとって、この世界にはつらいことばかりが待ち受けている。その辛さに抗えるだけの力を持つ者なんて、そうして正義だの悪だのを考えられるようになる奴なんて、ほんの一握りだ。大抵の人間は、そこへ到達することすらできやしない。
だから、何も望まない。だから自分は、ここから動きたくない。だから私たちは、絶対に自我と言うものが消え去るまでここで――
――本当に?
*
笛の音が聞こえる。
高らかで、雄々しく、清澄で、しかし、どこか物寂しさを含んだ、しかしとても胸を打つそんな笛の音色が。
*
わからない。なぜ自分がこんな場所にいるのかがわからない。なぜあの黒い泥の中に飲み込まれたはずの自分が、こんな化物だらけの場所にいるのかがわからない。なんで黒い泥の上に、馬鹿でかい樹が生えているのかがわからない。なぜ黒い地面やそこから生える気味の悪い触手から生まれたあの白い水棲生物みたいな姿の化物たちはこの俺を目の敵のように追いかけてきているのかがわからない。なんでそんな化物の上で、俺は必死になってそのデカブツが生み出す化物から逃げているのかがわからない。
わからない、わからない、わからない。男には何もわからない。きっかけは笛の音だった。それ以外のことが、男には何もわからない。この世は男のわからないことだらけだった。夥しい数の化物から必死に逃げながら、男は考える。
――なぜ俺がこんな目に
その言葉には男の全てが凝縮されていた。世界には俺より優れた奴らがごまんといる。世界には俺よりももっと相応しい奴らがごまんといる。世界には俺なんかよりも、優秀で、相応しく、望まれている奴らがごまんといる。いてもいなくてもいい存在。それが俺だ。だからこそ俺は、何を必死にやっても、誰にも必要とされなかった。
優秀な兄がいた。だから家に居場所は始めからなかった。親は優しかった。兄は何でもこなせるほどに優秀だった。だからこそ、子供心に自分という存在に役割が求められていないことを悟った。だって両親の視線はいつだって優秀な兄に向けられている。彼らから視線を向けられるのは、兄という存在が今その場にいないときだけだ。あえて自分という存在に何かしらの役割を与えるとするなら、代理品の道化という役割こそが最もふさわしいといえるだろう。
親に悪気がないことはわかっている。だって、兄弟にはそれ以外の部分で分け隔てがなかった。衣服はお下がりじゃなかったし、おもちゃだって新しいものを買ってもらえていた。親は少なくとも、平等にしているつもりだった。でも、その視線は気付けば兄の方へと向けられていた。
誰だって話すなら、むすっとしている子供よりも、分別が付いていて言葉の通じる子供の方がいいに決まっている。俺だって間違いなくそうだ。だから文句を言うのはお門違いだというのは、それこそ子供ながらにわかっていた。ただ、家の中は、自分という存在がいなくても完結しているのだ。いてもいなくてもいい存在。いや、むしろ、そうした薄暗い念を抱えている分、彼らの負担になるのではないかと考えた。成長してゆくにつれて、もとよりあった差はさらに歴然なものとなってゆく。成長の上限や速度まで、兄という存在は優秀だった。そのころから、両親が絡んでくることが増えた。兄という存在をすべての基準にしていた彼らは戸惑っていた。その視線と態度がひどくいたたまれなかった。だから早々に家を出る決心をした。三人はだれも反対しなかった。その時初めて、両親は自分と兄とが違う生き物であるということに気が付いたようだった。それだけが少しばかり寂しかった。
変わってしまったのは、家を出てからだった。この世界において、生きるための手段なんてのはいくらでもある。いくらでも、それこそいくらでもある。人手不足なんてものはめったにない。足りないのはたいてい、優秀という頭文字が最初に来る冒険者という存在だった。この何でもが揃ったような世界において、冒険者という存在だけが唯一、『誰か』という存在を必要としていた。
この世界で冒険者になるのは簡単だ。早ければ、登録からなるまでに五分と掛からず、それになることが出来る。基本的には身を守る武器防具だって最低限のモノは支給されるし、申請すればいくばくかの支度金だってもらえる。宿の紹介もあるし、一緒に旅をする仲間だってできる。そうとも。この世界ではどこのだれであれ、なろうと思えばどんな職業にもなれるし、どんな生き方も出来る。逃げ場はどこにだってある。だからこそ足りないのは、優秀という形容詞が頭にくるような、そんな存在なのだ。
覆せぬ才能の差がある。努力では越せない壁がある。でも命を賭ければ、あるいはその領域に到達するかもしれないと思って、そんな世界に飛び込んだ。優秀になれば自分の居場所が自然と出来るだろうと思っていた。それは間違いなく、兄と両親という存在の影響だった。
しかしダメだった。才能がないという呪いは、どこまでも男に纏わりついてきた。アルケミストになった。日々使っている技術の延長線上なら、自分も上手くできるだろうと思ったからだ。しかしダメだった。アルケミストという職業は、なった瞬間から身につくスキルというもの以外に、スキルを用いるための力を適切に割り振る才能が必要だった。男は自分に余計なことを考える才能はないと悟った。
だから男はアルケミストを諦めてソードマンになった。剣や斧を振るう職業なら、余計なことに頭を使わなくて済むと思ったからだ。しかしダメだった。戦闘という日常からはかけ離れた異常環境において、余計なことを考えないまま体を動かすということが、男にはできなかった。
とどのつまり、男には冒険者として有鬚と呼べる才能がなかった。日常の中において優秀な才能もなければ、非日常の中で優秀になれる才能もない。その事実が、男という存在を腐らせた。兄という優秀な男が側にいた男にとって、誰かと比較した際に優秀な存在であるということこそが、自分という存在がそこにいていいかどうかを判断するための基準だった。自分がこの世に存在している価値を見出せなかった男は、だからこそ自分で世界のどこかに居場所を作ろうと思い、そして失敗した。それも当然だと思った。だって自分には、そこにいて居心地のよかった居場所なんてものの記憶がない。
自分の居場所は世界のどこにもないのだと思い知らされた。どこにでも行けるというのは呪いで、何をしてもいいという自由を楽しめるのは、何でもできる才能を持つ奴だけが謳歌できる特権だと思った。
――なんで俺がこんな目に
いつの日からかそれが男の口癖になった。一度でも気持ちが折れてしまえば、あとは坂を転がるようにどこまでも落ちぶれていった。繰り返される変わりのない日常。起きて、食って、働いて、食って、寝て、また起きて。しかしある日、唐突に限界が来た。わけもわからないまま、涙が止まらなくなった。どうやっても体が動かない。なまけようなんて思いはないのに、どうしても体がベッドの上から起き上がらない。
混乱したまま、その日は休むことを決めた。夜になって、唐突に家に帰りたくなった。気付けば宿屋から抜け出して、家の前まで来ていた。窓の向こう側では光が溢れていた。光の中では兄と両親とが、楽しそうに過ごしていた。その隣には、多分兄の恋人か何かなのだろう存在が座っていた。それはとても自然な光景で、だからこそ男は、やはり自分という存在は家族というものにとって異物であるのだと確信した。
――なんで俺がこんな目に
世界のどこかに居場所が欲しい。自分がこの世界に存在してもいい理由が欲しい。ただそれだけが男の願いだった。何を恨めばいいのわからない。ぶつけるのならば自分を才能なく生んだ良心だろうか。あるいは、自分より先に生まれた、自分にない才能をすべて保有している兄だろうか。否、男はそれを恨もうとは思わなかった。だって男は、自分がどれだけ彼らから愛情を注がれていたかを知っている。男の家族は間違いなく善人だった。彼らは一変たりとも他人に向けるような悪意というものを持っていない。
彼らの家族がそんな善人然としていられたのには、魔のモノという存在が鬱屈とした感情を喰らいつくすということが一因でもあったわけだが、当然それを知らない男は、自らを除く三人の家族が、自分とは異なる真なる善人であると、心の底から思っていた。だからこそ男は、そのどこにぶつけていいかわからないものを、後生大事に抱えていることになったのだ。だからこそそんな鬱屈とした感情は、魔のモノという存在に食われることなく男の中で常にくすぶり続けていた。そんな感情を抱え続けていた男は、だからこそ桜という存在から見逃され続けていた。
――なんで俺がこんな目に
故にそれは、恨みの言葉ではなく、心の底から生じた問いかけの言葉だった。なぜ自分という存在は生まれてきてしまったのか。なぜ自分という存在は生きているのか。なぜ自分という存在に居場所は用意されていなかったのか。なぜ自分だけが、こうも出来損ないに生まれてきてしまったのか。溜め込んだ鬱屈とした思いはどこまでも澱み、濁ってゆく。やがて体の中に溜め込んでおくことすらできなくなった男は、衝動的に宿屋から飛び出して、避難指示も無視して、唐突に崖の上からよくわからない泥の中に身を投げて楽になった――、
はずだった。
だがいかなる因果が働いたのか、自分という存在はこんなわけのわからない場所にいて、わけのわからない化物みたいな存在に追いかけられている。なぜ、どうして、と問うのも億劫だった。周りの光景は変わらず闇ばかりで、それ以外に見えるものと言えば、気色の悪い触手と樹木の根っことだけが蠢いている姿と、樹木を攻撃している白い化物の存在くらいだ。黒ずんでいる地面は柔らかくぬかるんでいて、少し力を入れてしまえば、すぐさま足が突き抜けていきそうだった。そんな頼りない地面をしかし壊れないように注意を払いながら、しかし全力で追いかけてくる存在から逃げるため、男は必死で駆け抜けている。
まるで地獄だと思った。まるで迷宮のようだと思った。まるで世界のようだと思った。やはり自分にはこの世界に居場所など存在しないのだと思った。だって自分はかつてのように、こうして身を隠し、身を休められる場所を求めて走り続けている。それでも自分の落ち着ける場所は見つからない。自分の後ろにいるあいつらが、何の目的か知らないが、自分の身を求めて追いかけてくる限り――、
――俺を、求めて?
思った瞬間、足から力が抜けていった。気が付けば体は振り向いていた。どのような理由であれ、あいつらは自分という存在を求めてくれている。そう思った瞬間から、人間の上半身と魚の下半身を合体させたかのような異形の姿すらも愛おしいように思えていた。それどころか闇の中で白く輝くその肉体は、まるで希望の象徴にすら見えていた。だからこそ男は、彼らを受け入れようと思った。どうせろくでもない人生だった。居場所などどこにもない世界だった。なら、最後くらい、どんなろくでもない運命が待ち受けていようと、俺を求めてくれる奴らのために身を投げ出してもいいだろう。男は投げやりに、しかし、心の底からそう思っていた。
闇の中から異形の牙と爪が迫ってくる。その様から想像するに、多分、自分の肉は彼らに貪られるのだろう。生きながらにして食われる。そんな想像がよぎって、一瞬身が震えた。足を止めたことを少しだけ後悔した。凶暴に開かれた口を見て、死にたくないと思った。すぐ後に迫るそれは、熱にうなされていた男の頭をどこまでも冷静に引き戻す冷や水となってしまっていた。
震える手で腰にあった剣に手をかけた。気付けば頑丈な布の鞘から剣を引き抜いていた。怯える心に従うがままスキルを使おうとして、しかし発動しないことに気が付いた。なぜ、と問う前に脅威は目の前まで迫っていた。
――やられる……!
男は迫りくるその時を幻視して、否定のために目を瞑る。声も出なかった。凡庸な男は、命のやり取りという極限状態においても、凡庸な反応しかできなかった。その決定的な隙こそが、契機だった。そして――
闇が歪み、夜が切り裂かれた。
「――え?」
気付けば、男の体は勝手に動いていた。最短、最善、最小の動きで、目の前に迫るその敵の喉を切り裂いていた。振り向いた魔物の顔には信じられないと言わんばかりの表情が浮かんでいた。それは男にも同様だった。握った剣の刃には薄く血糊が付いている。見るに、人魚型の魔物に致命傷を与えたが自分であることは明白だった。魔物の体が揺れ動く。多分は最後のあがきを繰り出すつもりだったのだろう。だが魔物がその殺意を露わにするよりも前に、再び体は勝手に動き始めていた。
自分の体が覚えのない動きを披露する。剣が踊って/躍っていた。一閃ごとに敵の体に血の華が咲く。それはスキルと呼ばれる技術によって発生した現象ではなかった。少なくとも自分の習得しているスキルでは、こんなふうに敵を切り裂くことなどできやしない。気が付けば、自分は、迫り来ていた魔物全てを倒していた。夢を見ているようだった。自分にこのような動きができるなど思ってもいなかった。スキルによるものでないその技が、しかしまた自らの身に宿った才能というものによって生まれたものでない、そしてまた、才能ある存在によって生み出された技でもないことを、凡庸な男はその凡庸な才覚故に気付いていた。
闇は静けさを取り戻す。遠く目の前で繰り広げられている理解不能な光景やそこから発生している音なんて、意識の中に入り込んでもいなかった。男はそして初めて自らの手で自らの居場所を作り出したのだと実感した。手が震えた。自分にもそれが出来たのだと知って――、それを出来る力があったのだと知って、胸が熱くなった。
――誰かが力を貸してくれたんだ
理屈でも理論でもなく、唐突にその結論に辿り着いた。だって自分にはあんな動きなんて出来ない。
――でも、俺が、自分の手で、やった
男は後からそんな風に思った。息を吐くと、体の熱が失せてゆく感覚を覚えた。
――俺が……
白く濁った吐息はまるで、男の体の中に押し込まれていた懊悩そのものであるようだった。繰り返すと、そのたびに胸が軽くなってゆく。
――やった
ずっと溜め込まれていた鬱屈までもが外へと逃げていくようなその感覚がなんとも心地よかった。
――……ほかにも俺みたいなのがいるのか
軽い心地であたりを見渡すと、遠くに先ほどまでの自分と同じよう必死に逃げている他人の存在がちらほらあることに気がついた。その様子を見るに、多分は彼らの姿はずっとあったのだろうと思う。でも、後ろに迫る存在から逃げることに必死だった自分は、居場所を求めて逃げ惑うだけだった自分は、そんな他人のことに気をかけてやる余裕なんてものが存在していなかったのだ。
――なら、助けないと
見回していると自然とそんな思いが浮かんできた。力があるとか、才能がないなんてそんなくだらないこと、すでに男の頭から消え失せていた。そして男は白熱した思いに従って駆け出した。あたりは暗く、道はぬかるんでいる。行こうとしている道は険しいが、周囲に輝く星の光があれば、胸に宿るこの熱があれば、進むには十分だった。答えを得た男はそして、闇の中を恐れずに駆け抜けてゆく。
どこまでも。
どこまでも。
どこまでも。
どこまでも。
――――――どこまでも。
*
月光、星明りが満遍なく降り注ぐその大地――――――、ヴィーグリーズよりはるか離れた場所に、その男とその女はいた。月とヴィーグリーズとを繋ぐ架け橋の上から、ヴィーグリーズの大地へと視線を送る男と女の周りには誰一人として存在していない。その男と女の周囲には、彼ら以外の存在が侵入することを拒絶するような、そんな雰囲気が漂っていた。
そんな男女の片割れである豪奢な鎧を身に纏う見目麗しい男は、まるで金獅子のようだった。鎧の下に潜む肉体はまるで黄金律を計算して作られたかの如く、程よい肉が備わっている。見目に麗しいその金の蓬髪の一部は、まるで王冠のように雄々しく天に聳え立っていた。二つの眼の奥に光る深紅の瞳はすべてを睥睨するかのようにあたりへと向けられている。そうして絶対王者とはかくあるべし、と言わんばかりに腕を組み、全ての価値を押し測ろうとするかのよう己と周囲とを隔絶する雰囲気を放つその無表情な男の名を、英雄王ギルガメッシュという。
さなか、いずこかより生温い風が吹き荒れ、彼の髪を撫でていった。ギルガメッシュの頬が不機嫌に歪む。許可なく自らの体に触れた無礼を怒るかのように、彼から発せられる圧力が増大した。
「ねぇ、ギルガメッシュ」
それが時を動かす刺激となったのか、隣にいる女が彼へと話しかけてきた。ギルガメッシュは心底煩わしそうに目元を歪めながらも、しかし律義に隣、自分の指示通り少しばかり離れたところにいる赤を基調としている服を纏っているその女へと目を向けた。
「本当に、あいつの判断は正しかったのかしら」
礼を尽くすものには、礼で応じる。それはギルガメッシュの王としての誇りであり、基本理念でもあるがゆえに、ギルガメッシュはその女の質問に対して、固く閉ざしていたその口を開いた。
「我がこうして今ここにいる。それこそが答えだ」
語るまでもあるまい、と言わんばかりの態度で言い切ったギルガメッシュは、それきり再び口を閉ざし、再び視線をヴィーグリーズの大地へと向ける。その言葉は、女の疑問に対する嘲笑であり、そしてまた、女にそんな疑問を抱かせたこの場にいない男に対する最大級の称賛の言葉でもあった。
「そう……、よね」
そうして離れた場所にいる女は目を伏せる。声色にはギルガメッシュの言葉に納得しきれていないという思いが、ありありと浮かんでいた。だからこの女は嫌いなのだ、とギルガメッシュは思う。否、この女に限らず、世の大半以上の女は、質問に対して明確な解答を求めているわけではない。やつらは、単に共感と同意が欲しいだけなのだ。
面倒くさい、という思いを抱きながらもギルガメッシュがその女――――――イシュタル……ではなく、遠坂――衛宮――凜という女の方を向いたのは、彼女が世にいるそこらの女と違い、自らの心のうちに出てきているその情念をどうにか整理したいと思っていることを理解したが故だ。ギルガメッシュという男は基本的に狭量で、独善的で、自らの価値観こそすべてであり、自らの存在こそ至高と信じている男だが、自らの身の程を知るものや、自らを唸らせるような才を保有する者、未知というものをその身に宿している存在、そして、そんな自らの醜さを克服しようとしている存在に対しては例外的に寛容さを発揮する。なぜならそれらはすべて、ギルガメッシュという男に、自らが遭遇したことのない光景や体験との遭遇を見せてくれるかもしれないからだ。
全ての英雄の祖であり、また、それ故にこの世の全ての財を保有している彼は、それ故にあらゆる価値を瞬時に見定められるという権能じみた能力を保有している。それこそが彼を英雄王たらしめている証であり、しかし同時、彼という存在を常に退屈の坩堝の中へと叩き込んでいるものである。だからこそ彼は――、今、この世に存在していない、未来というものを、この上なく愛し、それを生み出す可能性を秘めた存在に敬意を払うのだ。
「何を悩む」
ギルガメッシュはそして問いかけた。凜は驚き彼の方を見つめた。この天上天下唯我独尊を地でゆく英雄王という存在が、他人の事情……、それも、彼が忌み嫌っているイシュタルという存在の力を受け継いだ凜のことを気に掛けるということそれ自体が、凜にとって信じられなかったゆえである。
「同じことを二度言わせる気か?」
呆ける凜にギルガメッシュは言い放つ。自らの質問に対して答えなかった自分にその問いを投げかけてくるというその忍耐もまた、何とも奇跡的だと凜は思った。
「……」
そうした英雄王の態度に驚く凛の顔を見て、三度目はないといわんばかりにギルガメッシュは眉間にしわを作る。不機嫌の感情は圧力となり、呆けていた凜の頭を再稼働させてゆく。そうして気を取り直した凜は慌てて自らの脳内で自らの感情と疑問とを整理すると、整えたそれらを言葉へと変換して、なんとか口からひねり出した。
「――衛宮……、士郎のことよ……」
その発言に、ギルガメッシュはつまらなそうに眉をひそめた。なぜならその発言は、ギルガメッシュの中に、何の驚きの感情をも生まなかったからである。むしろそのありきたりで予想が出来ていた陳腐な答えは、ギルガメッシュという男を苛つかせるほどだった。
「何を悩む」
だがしかしギルガメッシュは、自分でも驚くほどの寛容さを発揮して、もう一度同じ言葉を繰り返す。否、おそらくそれは、目の前にいるかつて自分を振り回した毒婦の現身であるはずのその女が、今、あまりにも憐れなほど憔悴していたからこそ出てきた言葉なのだろうと、ギルガメッシュは自らの行動を裁定した。
「……あいつ、結局、正義の味方になるっていう夢のために、それ以外の全部を捨てちゃった」
そうしてギルガメッシュという男の憐憫を誘った女は、人類史上稀にみるほどの哀れな表情を浮かべつつ、そんなことを言う。
「あいつ、また、人類のための力になっちゃった。私、結局、あいつを救えなかった」
なるほど、これがこの女の歪みなのだ、と、ギルガメッシュは見定める。凜という女は、衛宮士郎という存在を全身で愛していた。衛宮士郎という男の、過去と、現在と、未来と、その可能性の全てに至るまでを、遠坂――、否、衛宮凜という女は、愛しつくしていた。凜という女は、自分の腕の中に、一つでも衛宮士郎という存在が不幸になるという未来を抱えていたくなかった。かつて過去の衛宮士郎という男の重石となったその女は、それ故に、そうなることに全霊を注いできた女はそれこそを自らの存在意義と定めた。
「私、あいつに生きて幸せになって欲しくて……、自分だけの幸せと正義を見つけてほしくて、だから必死になって頑張ったけど、あいつ……! ――――――あいつ、結局、ほかの誰かのために、自分の命、投げ出しちゃった……」
それ故に衛宮凜は、衛宮士郎と離れられない存在となった。ファミリーネームだけでなく、肉体だけでなく、その心までをも衛宮士郎という存在の中に置いていた凜は、それ故に、彼という誰をも救える正義の味方になろうとした存在が今、やがて誰もが覚えてなくなるだろうという未来を耐えがたく思っている。
「私、本当に……」
目の前の女は、それを不幸だと思っている。目の前の女は、そうして衛宮士郎/エミヤシロウ/アーチャーという存在が、以前のように幻想の向こう側へと旅立ち、人々を守る力となってしまったことを、憐れんでいる。すなわち、目の前のこの女は、衛宮士郎という存在がずっと抱えていたその思いを、そんな悲願を叶えたという事実をあまりにも軽んじている。この女はあの衛宮士郎/アーチャーという男の理想と幸福というものを何一つとして理解していない。この女は、自分が考える幸福の形こそが至上のモノであるという、固有結界の如き頑迷な価値観を保有している。それが――、ギルガメッシュというすべての英雄の祖である男の精神を、ひどく苛つかせていた。
「ふん……、貴様の精神性はやはり、イシュタルというあの毒婦によく似ておる。過保護で独善的。自分を絶対の指標としてとらえ、その考えと在り方を他人にも求める。相も変わらず他人の想いが汲み取れぬ女よ」
だからギルガメッシュという男の口からは、そんな言葉がとても自然に出ていた。
「……そう、そうね。――――――だから私は結局……」
ギルガメシュの言葉を聞いて、凜は落ち込んだ表情を見せる。
――ああ、この女はやはり自らの言葉の意味を何も理解していない
それがさらにギルガメッシュという男の苛立ち加減を加速させていた。そうして今にも目の前の女を縊り殺しそうなほどの圧力を発するようになったギルガメッシュは彼女の方へと一歩を踏み出すと、その落ち込んでいた顎をつかみ、凜の目線を無理やり自らのモノと合わせさせた。凜の見せる腑抜けた視線によって、ギルガメッシュはさらに腹立ち気持ちが湧き上がるのを、自らでも驚くほどの寛容さと忍耐を発揮して抑え込むと、その虚ろな目を射殺す勢いで見つめた。
「エミヤという男が最後に見せたあの顔を見なかったというのか? あの一変たりとも後悔と不満の浮かんでいない、この世で最も幸福であるのは自分なのだといわんばかりの、曇りなき満面の笑みを見なかったというのか?」
「……え?」
ギルガメッシュの言葉に凜の瞳が揺らぐ。空虚だった瞳には生気が生まれ始めていた。何とも単純な女だ、と、ギルガメッシュは内心、目の前の女をひどく馬鹿な女だと心の底から見下した。そしてまた、なるほど、この女は嘘を言っておらぬと心の底から満足した。なるほど、この凜という女にとって、衛宮士郎という存在は、そして衛宮士郎という存在の幸福は、確かに全てであったらしい。
「その生きて幸せになって欲しいというのは、所詮、貴様の正義と幸福であって、エミヤという男の正義と幸福ではなかったということよ。腹立たしいことが、あの顔を不幸というのであれば、世の全ての人間が不幸であるということになろう。エミヤという男はな。非常に腹立たしいことにあの時、この我ですら浮かべたことも見たこともないような、幸福の笑みを浮かべて逝ったのだ。もし貴様の手助けというものがなく、エミヤがこの世界にやってくることがなかったのならば、あのエミヤという男は、雑種のまま、偽物(/フェイカー)のまま、過去の記憶の中でいまだに燻っておっただろう」
「……!」
ギルガメッシュは去り際、衛宮士郎という男が見せた笑みを思い浮かべながらに言う。あの時衛宮士郎という男が見せたその笑みは、この世の財宝をすべて収集している、多くの民を導いてきた自らですら、見たことのない、浮かべた覚えのないものだった。それはまた、衛宮士郎という所詮は偽物(/フェイカー)に過ぎなかったものが、完全なる真作に至った瞬間のことだった。それはまた、ギルガメッシュという英雄王ですら価値を定められないほどの価値を持っていた。それにはまた、自らの宝物庫の中にあるすべての財宝を天秤の片側に乗せたとしても、釣り合わないだろうだけの価値があった。
「エミヤというあの男は、間違いなく貴様の助けがあったからこそ救われた。あの男は間違いなく、貴様が与えたきっかけがあったからこそ、万人にとっての正義の味方になるという願いを叶えたのだ」
それはこの世に新しい価値というものが生まれた瞬間だった。その瞬間、ギルガメッシュという英雄王は、完全でなくなった。その瞬間、ギルガメッシュという英雄王が持つ自らの宝物庫の中にあるすべてのものの価値は下落した。否、価値を付けられなくなったのだ。それはまた、ギルガメッシュが自らに課せられていた人類の守護者という枷から解放された瞬間でもあった。非常に口惜しいことに、衛宮士郎という男は、今の自らの上を行ったのだ。
「この世において、正義だの悪だのというのは所詮、人の世の都合と個人の倫理観が定めるものに過ぎん。平時において百人殺せば悪の殺人鬼だが、戦争の時に敵を百人殺せば、それは正義の英雄となる。そもすなわち、突き詰めていってしまえば、正義だの悪だのというものは個人が定めるもの。ならば正義だの悪だのを定める雑種など、この世にそれ、そこいらに散っている塵芥ほどもいる、掃いても湧き出る油虫ほども存在していることとなる。故に、すべての正義の味方になろうとするならば、人類という種族の意思をある一人の存在の手によって完全に統一する以外に方法などない」
正義の味方は、味方した正義しか救わない。だから、全員を救いたいなどと思うのなら、王になるか、神になるか、あるいは正義と悪を行来する道化を演じるしかない。
「だからこそ、個人個人が異なる考え方を持ったままでは、万人にとっての正義の味方などというものになるのは絶対に不可能だ。だが、そも、正義と悪というものはさらに解体してしまえば、人の精神の向かう方角に過ぎん。ベクトルであってスカラーではない。否。さらに言ってしまえば、多くの雑種は、そんな正義の味方だの悪の味方だのになるそれ以前に、正義だの悪だのを貫くことが出来ん。弱肉強食と等価交換を強いられる現実というものにおいて、世に多く存在する弱者たちは、そんなものになろうとする力も意思すらも貫き通せない」
だが、衛宮士郎はそれを望まなかった。
「なぜならそも、多くの雑種は、自らの確固たる居場所というものを確保していない。否、それどころか、何があろうとそこだけは絶対に自分が安心して過ごせる居場所というものを、世の多くの雑種の奴らは、確保どころか、体験してすらいない雑種すらも存在している。心の置き場というものは、人という存在がこの世に生きるにおいて絶対必要不可欠なものだ。それがこの世のどこかにあると信じられないものが、どうして自分の理想を――――――、正義を実現するような場所がこの世にあると信じられようか」
「…………」
衛宮士郎が望んでいたのは、誰もが自らの正義を抱けるようになることだった。
「人が迷いを得た時、自らの心の裡に不信という名の幻想の巨人が出現する。それは世に生きる雑種どもから正義を奪う、その雑種にとっての悪党の名前だ」
誰もが、自らが幸福になれる世界はこの世界のどこかにあると信じられる、そんな世界にすることだった。
「だからこそあのエミヤという男は、そんな生まれてきたことの意味を問うことすらできずにいる弱者たちの為、そんな人間たちの心に宿る幻想の巨人を倒す英雄になるために行ったのだ。居場所がない嘆くのであれば、それを感じられる手助けをする。足りないというのであれば、必要なだけ与える。だがそこにはもはやエミヤという男の意思は介在していない。『エミヤシロウ』とは今や、ただ、生きることが辛いと嘆いているそんな弱者どもが、やがて己にとっての正義の味方となってゆけるように導く、熱を与えるだけの英雄であり、そんな現象の名前だ。個人の正義を全体に強制するのではなく、個人個人がやがて己の正義を見つけられるよう、手助けをする。ならばなるほど、それは確かに、万人にとっての正義の味方と言って過言ではあるまい」
だからこそ衛宮士郎は、誰もがそうして自らの正義を抱けるようになる、手助けを出来るようになる存在になることを望んだ。人間、所詮、自分の力でしか自分を救えない。人を救うのはいつだって、その人の意思と力のみだ。他人から与えられた力に頼ってばかりでは結局、他人どころか自分すらも救えない。だからこそ衛宮士郎は、個人個人の意思と力となるべく、その身に積み重ねてきたすべてを世界に溶かして、万人のために捧げたのだ。
だからこそ――
「英雄王、ギルガメッシュの名において認めよう。かつて自らの正義の形を他者へと押し付けるだけであった偽善者(/フェイカー)、エミヤシロウという人間の男は、確かに真作/true work――――――すなわち、この世でたった一人、無数に存在する人間の正義の味方(/unlimited true works)になったのだと!」
そうして高らかに、旧人類から始まり、新人類の時代に至るまで人という種族を見守り続けてきたギルガメッシュという英雄は、宣言した。自らの役目はついに終わったのだと、高らかに、誇り高く、そして何より、衛宮士郎という男が最後に浮かべたそれに負けないくらいの、思わず見惚れてしまうような笑みと共に、彼は人類が新たなステージに到達したことを祝福した。その一切の驕りと傲慢に満ちた満面の笑みは、しかし、本当に、心底、去っていってしまった衛宮士郎が最後に浮かべたそれとよく似ていて。
「ありがとう、ギルガメッシュ。ちょっと元気出たわ」
だからこそ凜は、いつかのあの日、夕日の中で見せたそれよりももっといい笑顔を浮かべて見せた。
だって、もう朝が近い。
「ふん。この借りは高くつくぞ」
――世の中の弱肉強食というルールが変わったわけではない。等価交換という法則だって、いまだ世の全てを支配している。強者の手によって弱者は搾取される。そんな法則は残酷なまでに変わらない。この世は変わらず不幸にまみれている。時には逃げたい、死にたいと思うことだってあるだろう。自分の居場所がこの世にないと絶望する時だって来るかもしれない
「うん。高い貸しにしておいて頂戴。そうね……。私にできることなら、なんだってしてあげる」
――だがそうして果てまで追い込まれたとき、自らの心に湧き出た幻想の巨人を倒す正義の味方が、今やこの世に存在する
「ほう、殊勝なことを言う。――――――どういう腹積もりだ?」
――それは人が普通に過ごしている時には決して何もしない
「簡単なことよ。衛宮士郎と言う存在は、私にとって、それだけ価値のある存在だったっていう、ただそれだけの話」
――だが必要があれば、必ずやってきて、人間の心を救っていく。時には力だって貸してくれる
「ふん……」
――例えるならそれは、空に浮かぶ月のように、ただ迷い人の道に光を当てて、幻想の巨人を打ち破るだけの存在だ
「やめだ。そんなものは要らん。貴様になんでもしてやるなんて言われると、怖気が走るわ」
――人は勝手に救われて、勝手にどこまでも進んでゆく。
「……そ。ありがとね」
――その果てには、それこそ、宇宙の果てにだって到達して見せるだろう。
「ふん」
ギルガメッシュはいつものように傲慢な笑みを浮かべながら振り返る。視線の先ではヴィーグリーズという大地の上、勝手に集った冒険者たちが、世界樹を守るために死力を尽くしていた。そうして凜は、最後の最後、彼がみんなを説得した時に言ったことを思い出す。
――『神話のような幻想に頼るのではなく、人の手で現実を切り開き、居場所をつくってゆく。神話ではなく、人話を紡いでゆく。これから人類はそうやっていけるはずさ。何、大丈夫さ。だって彼らは、かつて失われた時代にあった神話なんかよりもはるかに長い時間、それを実践してきたんだから』
「世界樹の迷宮は冒険者の手によって踏破される、か」
誰もが正義の味方になってゆく物語。そこでは誰もが迷宮に挑む冒険者だ。そして人はそれをずっと攻略し、数多の物語を紡いできた。
――これから始まるのは世界の創生人話。来たるは力の有無によって神と人を切り離した時代ではなく、神のような力を持つ人も、そうでない人も、全てのモノが普通の人として、立ちふさがるあらゆる困難を切り開く物語を紡いでゆく、そんな時代
困難を前に、しかし立ち向かうみんなの顔は輝いている。巨大な絶望の具現を前にして、しかし彼らは誰一人として諦めていなかった。彼らはみんな、もう、立ち直ったのだ。彼らこの世界に、自分の居場所を見つけたのだ。この世界にはもう、きっと、絶望に足を止めるような人は現れない。彼は確かに、人々の中に希望という名前の熱を生んだのだ。
――もう、この世界に、誰かの導きなんて必要ない
「なるほど……。こりゃ確かに、私が間違ってたわ」
この世界の人は余さず独り立ちした。全ての人が幸福になってゆく時代。そんな時代が来ることを心底祈りながら、しかし絶対に来るだろうことを確信をしながら、消えていったそんな存在のことを思い出して、凜は振り返った。視線の先では泥の枷というものを失った月の向こうから、太陽の姿が見えつつある。
――ああ……
現れた太陽の光は世界を激しく包み込んでゆく。光の行き先を追えば、応じるかのように冒険者たちと魔のモノの戦いが激しさを増し行く姿が目に映った。魔のモノは自身の体を使って、あるいは、フカビトと呼ばれる敵性存在を生み出して、そこにいる人たちを苛烈に責めたてる。そんな豪雨にも似た激しい攻撃を、しかし人類は必死で協力しながら、歯を食いしばりながら、何とも楽しそうに、必死で自分の居場所/理想を手に入れようと頑張っていた。
――夜が、明ける
一人は二人に。二人は五人に。五人の群はやがて集って、十人もの、百人もの集まりなって、魔のモノへと立ち向かってゆく。黒泥の上にある仮初の大地は命の何もかもが絶え果てた荒野。しかしそこにいる誰もが自らの運命を切り開くべく、仮初の体で仮初の剣を取り、立ち向かってゆく。はじめは絵空事の想いや借り物の力かもしれないけれど、しかし諦めずに進む限り、そのうち誰もが、やがて真作に到達することだろう。その有様はまさに、正義の味方に至った衛宮士郎や、かつて彼が保有していた固有結界、『無限の剣製』という存在の在り方にそっくりだった。それはまさに彼の固有結界が固有という枷を破り、世界に広がった証に違いなかった。
――今や人類全てが正義の味方/衛宮士郎なのだ
凜はそれを見て、なんといえない満足感を得た。胸の中には彼が自分を救うための手助けが出来たという、確かな幸福感が溢れ出てくる。多分、これこそが、あの時彼という存在が得たものなのだろう。
――だから
なるほど、これはたまらない。
――こんなものを得てしまったら、もうあとは納得するしかない。
彼は確かに、その望みを全て叶えたのだ。
「ばいばい、アーチャー」
だから――
「みんなのことを真剣に考え、愛した貴方は、確かに――」
最後は、最高の笑顔で、最高の褒め言葉で、最高のお別れを。
「この世でたった一人、誰にとってもの正義の味方になったんだわ」
*
Blue blue glass moon, Humans are beyond reverie.
The labyrinth has been torn.
The fantasy giant has been defeated.
The ally of justice was born.
All humans have become justice.
Nothing determines their fate anymore.
Because they open up their fate with their own hands.
So as I pray, 『unlimited true works』!
やりとげたよ、切嗣――――――