シアウィンクス・ルシファーの受難。
──それは一通の手紙から始まった。
『旧ルシファー領およびシアウィンクス・ルシファーの身柄の譲渡を求める。これは大王であるバアル家の勅命である』
その書状を読んだシアウィンクスは「手の込んだ悪戯ね」と切り捨てて気にしなかった。
旧ルシファーには結構な割合で憂さ晴らし染みた手紙が届く。魔王として慕われたのも過去の話、今や冥界の嫌われ者が旧ルシファーなのである。要するに旧魔王の名を疎ましく思っている権力者も多いのだ。
しかし
だから適当に断りを入れて終わり。
こんな下らない返事を書くよりも城下町へ遊びに行ったほうが数百倍は楽しいなどと考えたくらいだ。
「アルン、疲れたわ」
小さく嘆息するシアウィンクス。
机にはウンザリするほどの書類の山々。一人で捌ける量じゃない。シアウィンクスは辟易するようにメイドであるアルンフィルへ目を向ける。
「おやおやですね〜」
するとアルンフィルは微笑んで頭を撫でてくる。優しい手つきには慈愛があった。
「……それ、やめない? 子供扱いされてるみたいで嫌だわ」
「うふふふ~。むくれちゃって可愛い子♪」
拗ねるシアウィンクスにアルンフィルは手を止めない。
アルンフィルはおっとりとした口調でふわふわとした雰囲気の女性だ。ニコニコと笑顔の絶えないメイドだがシアウィンクスにとっては母のようで姉のような大事な人であり家族だと思っている。
そんなアルンフィルはルシファー家に仕える名家の出で、教養、品格、容姿、更には炊事洗濯をこなすパーフェクトなメイドだ。
だが一つだけ欠点がある。
シアウィンクスにとても甘いのだ。書類作業を投げ出そうとしている主に対して困った笑みを浮かべるだけで、続けるようには言わない。
「ならここまでにしましょう。シアちゃんは今日も城下に?」
「うん。カナリアおばさんの新作が出来てる様だし顔を出す」
「では僭越ながら続きは私がやっておきます」
「ありがと」
「あまり遅くならないように〜」
「お土産買ってくる」
そう言って部屋を出るシアウィンクス。
アルンフィルはただ笑顔で見送っていた。
城を出る前、給仕係の人や兵の人たちがシアウィンクスを見るたび笑顔で挨拶をしてくる。
「シアウィンクス様、今日もお出かけかい?」
「あ、ククル。カナリアおばさんの新作が出来るのよ、ちょっと行ってくる」
「はいよ、いってらっしゃいな」
初老のメイドであるククルが笑顔で手を振ってくる。
「お嬢、今日も城下へ行くんですかい? せめて護衛を付けてくだせいな」
「大丈夫よ、カルクス。城下の人たちも良い人ばかりだから」
「しかしですなぁ」
壮年の兵士長、カルクスが困り顔で懇願してくる。やんわりと断ってシアウィンクスは城を出た。
門番も笑って見送ってくれる。
「今日もいい天気だ」
シアウィンクスには親はいない。
母は既に他界し、父は全てを捨てて消えた。
だが健やかに彼女は成長した。
寂しさを明るく包む人達に囲まれていたからだ。
心優しい人々と活気にあふれたルシファー領を愛していた。これからもこの日常が続くようにと心から願うくらいに……。
しかし、その一週間後にバアルがルシファー領土へ侵攻を開始した。バアルは本気でルシファーの全てを奪いに来たのだ。多くの人々が亡くなり、シアウィンクスの日常は悪意に蹂躙されて脆くも崩れ去る。
こうして始まった血に塗れた日々は、否応なく彼女の心に爪を立てる。
積み重なる死が、嘆き呪う人の声が、ゆっくりとだが確実にシアウィンクス・ルシファーを壊していったのだ。
『誰か、助けて……』
その涙に濡れた祈りを叶える者は遂に現れなかった。
○●
「半年前からあたし達は戦いを続けてる。けど、もう限界が来ているの」
荒事を終えたルシファー城の一室でシアウィンクは静かにそう語った。
全ては半年前、バアルがなんの脈絡もなしに旧ルシファー領の管理権とシアウィンクスの身柄を明け渡せと一方的な要求をしてきた事から始まった。
廃れた旧魔王のルシファーと今も大王としての地位を維持するバアルでは武力も権力も比べ物になる筈もない。
戦いで領内は荒れ果て、民から多くの死者も出た。なんとか持ち
シアウィンクスはバアルの凶行を強く非難して周辺領土に助けを求めたが既にバアル側に懐柔されて孤立無援状態となり味方はいないとの事だ。
「だから無理をしてでも戦力を集めていた、ですか」
「……うん」
長い架台式テーブルのある部屋。
その長椅子の一つで渚は負傷した腕の治療を受けていた。シアウィンクスが丁寧に包帯を巻いてくれる。
その間にバアルの凶行を聞かされていた。
ライザーの件もあり、バアルが碌でもないのを再認識する。かつて祝賀会の場でライザーに謝罪したサイラオーグという例外もいるが、やはり権力を持ったロクデナシの家と言う印象が強い。
「冥界では他の領土を侵略するのは日常茶飯事なんですか?」
「新政権に移っては禁止されてる。けど裏では大きな家が小さな家を取り込もうと手を回しているわ」
「禁止されてるなら新政権に訴え掛けるとかは?」
シアウィンクスは首を振る。
「旧ルシファー領から新政権の本拠地まで遠すぎる。しかもあたしが相手をしてるのはバアルよ。その権力は現魔王に匹敵するの。バアルの問題に介入すれば政権に大きな軋轢が生まれる。だから魔王は絶対動かない、それが冥界全土の安定に繋がるから」
「魔王サーゼクスは良識のある人だと聞いた。なら……」
面識こそないが、その妹であるリアスを知っているからこそ信頼できる情報だ。
そんな渚の訴えに対してシアウィンクスの顔色は暗い。
「良識なんていう問題じゃない。あたしは悪魔を絶滅まで追い込んだ旧ルシファーの直系よ。今も多くの悪魔から憎悪されてる。そんなヤツに手を貸したら魔王サーゼクスの信頼は失われる。あなたはあたし達のために全てを捨ててくれるの? 出来もしないのに他人にソレを求めるのは傲慢よ」
冷めた口調だが強い否定だった。
確かに旧魔王の面々のやらかし具合は酷い。
闇雲に戦争を続けた結果、悪魔を絶滅の間際まで追い詰めたのだ。種の存続すら無視して戦いを止めなかった旧魔王は戦犯とも言えるだろう。
だからと言ってシアウィンクスに責任はないと渚は思う。寧ろ領民の為に身も心も磨り減らしている姿は上に立つ者として立派だ。
「それでも手紙は出しましょう。駄目かどうかは魔王が決める事です。シアウィンクスさんはルシファー領の責任者なんだから、まず領土の安全を考えないとダメなんだ」
「でも……」
「打てる手は打っておかないと後悔しますよ?」
玉座に居た時はあんなにも覇気があったのに今は自信なさげに俯いているシアウィンクス。
「人を拉致する度胸はあるのになんで手紙を出す勇気がないんですか?」
「確率の問題。外部の人間である英雄を呼んだ方が手っとり早い」
「その英雄も使い潰すどころか直ぐに帰してますけどね」
ギロリと睨むシアウィンクスだったが渚は真剣に見返す。彼女は色々と半端だ。領民を守りたいのは伝わってくるが折角の英雄召喚を上手く使えていない。
迷いと
「怖いのよ……。あたしの判断で人の命が左右されるのが凄く怖い。皆、あたしが冷静だと思ってるけど勘違いなのよ。無能だから何も出来ないから有能のフリをしてるだけなんだ。アルンフィルやルフェイが支えてくれるけどあたしの命令で皆が死んでいくのは辛い。本当なら逃げちゃいたいよ。……ごめん、今のは忘れて」
恐怖に抗うように顔を俯かせるシアウィンクス。
彼女は冷めた性格ではなく感情を押し込んでいるようだ。
「……もっかい、ごめん。やっぱ少しだけ
ポツリと小さな声で謝罪するシアウィンクス。
見知らぬ他人だから弱味を見せられる彼女は
安心したように肩の力を抜くシアウィンクス。
本当は渚という戦力を自営に取り込みたいのだろう。
無理強いをしないのは果たして罪悪感か、それとも優しさか。
しばらく手に触れていたシアウィンクスだったが立ち上がると気まずそうに背中を向けた。
「あなた、ルフェイに似てる。こんな他人を受け入れてくれるトコとか。あの……ありがと」
早足で出ていくシアウィンクス。
彼女が戻ってこないのを確認して大きく息を吸う。
「はぁ〜〜」
コトンと机に頭を乗せる。
冥界のいざこざに巻き込まれるとは思わなかった。
シアウィンクスの必死さを見る限りでは今もギリギリなのだろう。
けれど参戦すべきかと言われれば『しない』が正解だ。
相手は冥界72柱が筆頭のバアル家。
ライザー曰く敵に回すのなら相応の覚悟が必要な相手であり、敵対者を容赦なく叩き潰す大王。
そしてグレモリーと同じ新政権側の権力者。
対するシアウィンクスは現政権の仇敵である旧魔王のトップだ。彼女自身が新政権をどうこうする様子はない。しかし旧ルシファーという肩書きがある以上は渚も慎重に決断せざるをえないのだ。
仮に渚がバアルと戦って勝ったとしよう。
「そうしたらリアス先輩に何かしらの迷惑は掛かるのは確実か」
渚がバアルと戦えば旧政権に味方し新政権と敵対したとも捉えられる。
身バレすればリアスの関与が疑われて兄の魔王サーゼクス・ルシファーにも飛び火する。
なら派手に動かなければ良いのでは?
なんて思うがシアウィンクスは戦力不足を補う為に強制召喚を行っていた。どう考えても渚の行き先は最前線だ。
霊氣が暴走しがちの今の渚では目立つなと言うのが無理な話である。
「……どうすっかなぁ」
グルグルと良いアイディアがないか思案するが見つからない。
「何かお悩みですか?」
急に声を掛けられて体を起こすとルフェイが立っていた。破かれた衣服は修繕されており、初めて会った時の魔法使いスタイルである。
エルンストに酷い目に合わされたルフェイだったが気落ちした様子なく笑顔だった。
その事に少し安堵する。あれは女の子だったらトラウマになりかねないと思ったからだ。
ルフェイは渚に寄ってくると顔を覗き込んできた。
心を解す不思議な目をする子だ。
渚は正直に悩みを打ち明けることを選択する。
「俺がバアルと戦えば知り合いに迷惑を掛けそうなんだ。だからどうするか悩んでいる」
「相手はあのバアルですから仕方がないかと思います。しかし渚さまは悪魔の方に知り合いがいるのですね、しかも新政権側に。……違いますか?」
「正解だ。よく分かったな?」
「渚さまがここに召喚された時、微弱な魔力を纏っていましたから」
「お見通しだった訳か。ルフェイの言う通りだ、俺には親しい悪魔がいてその人はそれなりの地位がある。だから先を考えるならバアルと敵対するのは良くない。けどこのままっつのも性に合わないんだ」
「──分かりました、付いてきて下さい」
ルフェイが渚の手を取ると歩き始める。
渚をグイグイと引っ張って行く。
「え、あ? る、ルフェイ?」
「かつての私みたいに渚さまも迷っている。だから全部見せます。それでどうするか決めてください」
城を抜け、城下に広がる町へ連れて来られる。
かつて賑やかだっただろう城下町は荒れに荒れ果てていた。全ての建物は焼け崩れ、道や壁には砕けた武器が煩雑しており、血の跡らしきモノも多く残っている。
ここが戦場となったのが嫌でも分かってしまう。
渚は顔をしかめる。町中に血と生き物の焼けた異臭が広がっていたからだ。
最早、ただの領土争いではなく戦争にしか思えない。
「半年前は素晴らしい町だったとシアさまは言っていました」
「ここまで攻められてよく無事だったな……」
「とても優秀な家臣が頑張ってくれたそうです。でもこの戦闘で……」
「そうか」
渚は自分の故郷がどんな場所だったか分からない。
だがこの眼下の惨状は他人である自分の目からしても心に来るモノがある。
──ふと鎖の擦れる音が聞こえた。
視界が色褪せて灰色へ染まり、ノイズが入ったようにざらつく。
瞬間、炎の燃え盛る世界が広がった。熱が頬を撫で、人々の悲鳴が木霊する。目の前で鮮血が舞う。
虐殺を楽しむ兵が嗤い、逃げ惑う人々が断末魔の叫びを上げる。
渚は突然現れた惨劇の開幕に困惑しながら周囲を見渡す。
──なんだこれは?
小さな息子を抱き抱えて
幼い娘を背に庇い立ち向かう父がいた。
自らを囮に家族を逃がそうとする老人がいた。
泣き叫びなから親を探す姉妹がいた。
諦めて呆然気質な状態で立ち尽くす男性がいた。
動かない恋人を引き摺って逃げようとする女性がいた。
だが全て殺された。
生を否定するように、死を強制するように、それがお前たちの運命だと促すように、ルシファー領の人々はバアルの兵に理不尽にも命を刈り取られて逝く。
『誰か助けて……』
悲しみに満たされた小さな声が耳に届く。
渚は釣られるように後ろを向くと、すぐ横を虚ろな目で涙を流したシアウィンクスが通り抜けた。その足取りはヨロヨロと殺戮の場の中心を目指していた。
『お願い、やめて。やめてください……』
その身を斬るような嘆きに渚は我を取り戻す。
すぐに炎の中へ行こうとするシアウィンクスを止める為、手を伸ばした。しかし手が届く前に熱風が吹き荒れる。眼球が乾き、一瞬目を閉ざしてしまう。
そして再び目を開けると熱は無くなり炎と人々も消え去って元の廃墟が広がる街並みに戻っていた。
「……幻覚?」
熱さを感じていた頬を撫でる。
赤く染まった世界に理解が追い付かない渚。白昼夢でも見た気分だった。
「今のは……なん、なんだ?」
まるで理解不能な現象を体験した直後に頭の中から声がする。
『疑問に答える。あれは魔力の残留思念による映像』
「(ティス、今の現象がわかるのか?)」
『ナギサは目覚める前に"黄昏"に会っている。その時にパスを繋がれて影響が出た。アレは"
「(分霊? あの鎖で繋がれた女性か。あの人と繋がったからボアなんたらとかいうヤバそうな力を使った、ていう解釈でいいのか?)」
『概ね正解。アレは全てを喰らい成長する、好きにさせれば人智を越えた怪物となって危険。今後は私が止めておく』
「(頼んだ。流石にそんな力を垂れ流すのは不味い予感しかしない)」
どうやら知らずに"
つまり今見たのはここに残留していた死者達の記憶。
あんな地獄が繰り広げられていたと言うことになる。
英雄を求めるのも無理ないか。
「渚さま?」
ルフェイが横から心配そうに声を掛けてきた。
渚は色々見ていたがルフェイからしたら、ずっと黙り込んでいたようにしか映らなかったのだろう。
流石に魔力の残留吸って幻覚を見てましたとは言えない。それではまるで変なクスリをキめてるヤバいヤツである。
「大丈夫。酷い有り様だったから少し呆然としただけだ」
「そうですね。ここが戦場になったとき、私は何も出来ませんでした。沢山の人が亡くなっています。本当に酷い戦いでした」
「ルフェイも戦ったのか?」
「ここがこうなったのは3週間ぐらい前です」
確かルフェイが来たのは1ヶ月前と言っていた。
ならばこの惨状が出来る有り様を見ていたのだろう。
何処か陰鬱な雰囲気が
「あの時ほど無力な自分を呪ったことはありませんでした」
ルフェイの言葉に渚は何も言えなかった。
この町並みを目の当たりにして気の利いた声を掛けられない自分を情けなく感じた。
「次に行きましょう」
「……あぁ」
ルフェイが弱々しい笑みを浮かべると歩き出した。
渚はその小さな背に付いていく。
今度は兵舎のある場所へ連れて来られた。
ルフェイに連れられ入った瞬間、大声が響く。
「放せ! バアルのやつが玉座に乗り込んで来やがった以上はお嬢を直接護衛せにゃ気がすまん!」
包帯だらけの壮年の男性が甲冑をガシャガシャと鳴らしながら暴れていた。それを部下らしき若者たちが抑えている。
「カルクス兵士長、動かないで。重症なんだからベッドに戻って下さい!」
「あーもう、包帯も変えなきゃいけないのに。いい加減鎧は脱いでください!」
「やかましい! いつバアルが来るか分からんのだ、休んでなどいられんわ!」
ドタバタとする兵士たちだったが全員が傷だらけだ。
中には四肢が欠損しているモノもいる。
そんな兵士たちに抑えられたカルクスと呼ばれた男性が渚たちに気づく。
「ルフェイ嬢か。どうした、こんな場所に……ってそっちの小僧は誰だ?」
「私のお友達の蒼井 渚さまです。どうやら私の行方を探してくれていたみたいで遠路遥々来てくださったんです」
ルフェイが嘘を吐いた。
渚がシアウィンクスに招かれた事を隠してくれたのだ。
正直に言えば彼らは渚に期待するし未だ立ち位置を決めかねている渚とて困る。ルフェイの気遣いに感謝する。
「渚です、よろしく」
「あーカルクスだ。一応、兵士長をやってる。しかし、こんなご時世によくここまで来れたもんだ」
感心した様子のカルクス。
幾つか言葉を交わすと急に真面目な顔をして両膝を突く。そして床に頭を擦り付けた。いきなりの行動に渚は勿論、ルフェイも驚く。
「頼む! ルフェイ嬢を連れて行かねぇでくれぃ! 今のこの人に抜けられたらお嬢の拠り所が無くなっちまう!」
「ちょ、カルクスさん!?」
「分かるぜ、あんたにとってルフェイ嬢は恋人なんだろ? じゃなきゃこんな場所まで来ねぇさ! だが恥を忍んで頼む! 俺たちが不甲斐ないばかりにお嬢は強ぇ人間を集めてる。その中でもルフェイ嬢は特別なんだ! 力だけじゃなくて心も支えてくれたからお嬢は折れてない。お嬢、いやルシファー領にはルフェイ嬢が必要なんだ!!」
床を砕かんばかりの土下座である。しかも妙な勘違いをしているらしく渚は慌てた。
「とりあえず立ってください!」
「いんや、いい返事貰えるまで立たねぃ!」
渚はカルクスを掴むと立たせようとするが頑なに動こうとしない。シアウィンクスにとってルフェイは必要不可欠な存在なのはよく分かった。
困り果てる渚だったが奥からズカズカとメイド服を着た初老の女性が現れる。片目を包帯で隠した老メイドはカルクスの頭をどつく。
「いい加減するさね、バカちん!」
「あだぁ! 何するクル婆ぁ!!」
「頭を下げる暇があるなら治療しな」
「しかしだなぁ!」
「だまらっしゃい! 連れていきな」
「おい、待てよ、おめぇら、まだ話は……あいたたた!」
若い兵士に引きずられていくカルクス。パワフルな御仁だと呆れる渚。
「悪かったね。あいつはどうもシアウィンクス様の事になると回りが見えない悪癖があるんだよ。あたしゃククルっていう。こんなババァだがよろしくね」
「渚です。こちらこそ、よろしくお願いします」
渚が会釈するとククルは片方しかない目を優しげに細めた。渚は彼女の片目に巻かれた包帯に目をやる。その視線に気付いたのか、笑みを浮かべながらトントンと包帯を指差す。
「前の戦いでね、ドジを踏んで潰れたのさ。ま、もう片方あるし問題ないさね」
ふふん、と腕を組んだククルに後悔はなく名誉の負傷と言いたげに胸を張っていた。だがその顔に小さな陰りが出来る。
「シアウィンクス様は元気かね、ルフェイちゃん」
「元気……ではないですね」
「そうかい。城からは出てくる様子は?」
「ありません。皆さんに合わせる顔がないと……」
「こうなったことを誰も後悔しちゃいないのに責任を感じるなんてね」
「責任とは?」
沈痛そうなククルに渚は尋ねた。
ククルは言うか迷っている様子だ。そんなククルにルフェイが手を置いて無言で頷く。
やれやれと前置きした後に喋り出す。
「侵攻中にシアウィンクス様はね、一度だけバアルと和平交渉をしたのさ。その時、付き添ったのは私とカルクス、ここにはいないがアルンフィルっつうシアウィンクス様の姉のような子だった。バアルは存外あっさり交渉の席に着いたよ。こっちは明らかに劣勢だから出来る限りの条件は呑むつもりだった」
ククルの片方しかない目が鋭くなる。
その目に映すは怒りだった。
渚はその感情を受けながら黙って先を聞く。
「そん時の大将はガイナンゼっていうバアルの次男坊だった。奴は交渉が始まるなり、シアウィンクス様を見てこう言ったのさ。"私のモノになれ"ってね」
確かにシアウィンクスは見目麗しい。ガイナンゼという悪魔が欲しがる理由も分からなくはない。
「その要求は折り込み済みだった。私たちは反対したがバアルは元々シアウィンクス様を欲しがっていたからね。だからシアウィンクス様はソレと民の安全で手を打とうとした。だがね、奴は表情一つ変えずにこう言ったんだよ。"まずはお前が私の物であるとルシファー領に知らしめるため、民の前で犬のように犯して孕ませる"ってね。最初は何を言ったのか理解が出来なかったよ」
ギリッて奥歯を噛む音が聞こえた。
余程、許せなかったんだろ。ククルが怒りで全身を震わせている。
渚とて何を言っているのか理解出来なかった。
「奴は本気だったよ。あの目は、人を物でも見るようなソレだったのさ。思い出すだけで殺したくなる」
「それでシアウィンクスさんは断ったんですね」
「違うよ。その言葉を聞いてアルンフィルがキレたのさ。それはすごかったよ、あの子はいつもは大人しいけど怒ると怖くてね。シアウィンクス様が止めなきゃガイナンゼを殺していたね」
「こう言ってはアレですが、殺せるなら殺してしまった方が良かったのでは?」
そんな外道は死んでしまっても良いんじゃないかと思う。
「そうもいかなかった。こちらから交渉を
それから渚はククルと少し話をして兵舎を出た。最後に「シアウィンクス様を頼むよ」なんてルフェイに言っていた。家臣たちは傷付く姿を見せてはシアウィンクスが耐えきれなくなると判断して会うのは遠慮しているとの事だ。渚は思うこともあったが、深い付き合いの人達がそう判断したのだ。部外者が口を出すべきではないだろう。
渚は妙な
「和平の話、知ってたのか?」
小さく頷くルフェイ。
「私が来たばかりの時点でシアさまの周りは戦いと死で溢れていました。しかも勝敗など決まり切っていた争いです。双方の戦力比は
「そうか」
聡明な子だからシアウィンクスに直訴したんだろう。渚だって状況だけを見れば止めたかもしれない。
ルフェイの歩みが遅くなっていたのに気づく。やがてその足が前に出なくなった。
渚は後ろを向いてルフェイに歩み寄る。
ルフェイは唇を強く噛んで、とても後悔していた。
「──泣かれました。何度も謝られて、とても辛そうに話されたんです。本当に馬鹿なことをしたと思っています」
顔を歪ませるルフェイ。全身を震わせて自責に耐えていた。余程シアウィンクスの姿が心に残っているのだろう。
「そうだな」
酷い話だ、もう全てが酷い。
責任感に潰されながら戦い続けるシアウィンクスも酷い。
重症で死ぬまで戦おうとするカルクスも酷い。
シアウィンクスを案じ過ぎて会いに行かないククルも酷い。
自己嫌悪に囚われて、いつまでも協力を惜しまないルフェイも酷い。
誰もが優しすぎて自分の首を絞めているのが酷い。
けど一番酷いのは、ここまで事情を聞いても手を差し伸べない自分だ。
決断しようとすれば、リアス、一誠、アーシア、小猫、祐斗、朱乃の顔が浮かぶ。
──でも少しぐらいなら……。
そう考える。シアウィンクスと打ち合わせして最小限の動きで最大の成果を出せば或いはなんとかなるかもしれない。
『否定。この領土は終わっている、助けられない』
「(ティス)」
『既に本拠地が壊滅。兵力も著しく損耗、兵糧も少なく、援軍もなく周囲は敵だらけ。現状、降伏か壊滅かの二択しかない』
「(降伏か。仮にもしたらこの領土はどうなる)」
『情報を統合した結果、シアウィンクス・ルシファー以外の民が助かる可能性は2.7%。高確率で根絶やしにされると判断』
「(それでは降伏する意味がない)」
今のルシファー領土は詰んでいる。これを覆すのは難しい。権力を黙らせ、数を物ともしない力が必要だからだ。話し合いが無理な以上は圧倒的な暴力などがあれば……。
『ナギサ、ここを出ることを推奨する』
急にピスティスがそんな提案を口した。
『ここは死のニオイが濃すぎる。長居すべきじゃない。悪い影響が出る』
「(悪い影響?)」
『"黄昏"の分霊が檻から出る状況になりかねない。あれは死を好む獣、ここは餌場として場が整い過ぎている』
「(そんなに危なそうには見えなかったけどな)」
『……変質して知的になったのは認める。しかし──』
「(分かった。ティスが言うなら気を付ける。彼女が何かしようとしたら言ってくれ。一緒に解決しよう)」
『私を信じる?』
「(当然。今まで助けられたんだ、ティスがヤバいと言うんなら警戒はする。……けどここを直ぐに離れるっていうのはナシだ。わがまま言って悪い)」
渚がピスティスに謝罪する。すると僅かながらも熱のある感情の波が伝わってきた。
『……いい。ナギサの指示に従うのが私の使命。分霊が勝手をしないように抑えるのも不可能じゃない。だからナギサは私を信頼してくれればそれでいい。仮にシアウィンクス・ルシファーと共に戦う選択をしても問題はない。いざとなれば私が"
「お、おう」
凄い早口で淡々と言葉を並べるピスティスに怯む。こんなに連続で彼女の声を聞いたのは初めてかもしれない。若干、様子がおかしいピスティスだが協力的なので良しとしておく。
「1対10000の戦力差か。……ステアがいれば何らかのアイディアくれるんだけど俺の頭じゃ普通に勝てるが気がしねぇよ」
負けが当然。
だからルシファーは助けを求めているのだ。助けたいとは思う。放置するのも後味が悪い。
だがどうしてもグレモリーと天秤に掛けてしまう。それらを失ってでも助ける価値はあるのか……と。
渚は決断出来ない事に足を重くしながら城へ戻るのだった。
誤字を修正しました。
ガイナンゼの一人称を『俺』から『私』に変更しました。