動画配信で食べていく   作:キ鈴

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老倉やかげが病むまでに②

 

 倉敷が動画配信者を目指し上京する十年前、中学生になって初めての夏休みを過ごす倉敷少年は退屈していた。

 

「暇だ……」

 

 開け放たれた部屋の窓から差し込む陽光、途切れることなく鳴り響くクマゼミの合唱、田舎の夏をこれでもかと堪能させられながら自室で一人、彼は呟いた。

 

 やることがない。いつもなら悪友達と山や広場へ遊びに行くのだが生憎今日は皆して家族と外出している。ただ一人どこへ出かける予定もない倉敷少年は、畳の敷かれた自室で何度となく読み返した漫画を広げ無為な時間を過ごしていた。

 

「そういえば今朝のあの女の子、なかなかヤベー奴だったな」

 

 読んでいた漫画を枕代わりにし天井を見上げ、倉敷は今朝出会った拳一つでイノシシに立ち向かう女の子のことを思い出していた。

 

 普通に考えて、いや考えなくとも人がイノシシに素手で勝てる訳が無い。常識、当たり前だ。なのにあの少女はまるで臆することなく拳を振り上げ、それをイノシシの眉間に叩き込んだ。しかも、しかもだ、それを食らったイノシシはあろうことか少しよろめいていたのだ。

 

 どう考えても普通じゃない。ヤバすぎる。村では悪ガキ3人組の一人として名の通っていた倉敷だったがあの少女にだけはちょっかいはかけない方がいいと自分に言い聞かせた。

 

「ごめんくださーい」

 

 倉敷少年がイノシシ少女に身震いしているとそんな声が玄関の方から聞こえてきた。声の感じからして大人の女性だ。だとすれば自分ではなく母への来客だろう、そう当たりをつけた倉敷は昼寝でもするかと両目を閉じうたた寝を始めた。

 

「起きな良!」

 

倉敷がこくりこくりと船を漕ぎ始めた頃、突然彼の母が部屋に乗り込んできて彼を叩き起した。「うっさいな、いい気持ちで寝てたのに」という倉敷の非難を無視し母は捲し立てる。

 

「良、アンタにお客さんだよ。直ぐに下に降りてきな」

 

 そう言い残してドタドタと階下へと姿を消す。

 

「客ぅ……?アイツ等は全員出かけてるはずなのに誰だ?めんどくさいな」

 

 そう言いつつも倉敷は直ぐに体を起こし母の言いつけ通り一階へと向かう。倉敷家では母が生態系の頂点に位置する。それ故に彼は母の言うことには絶対に逆らえないのだ。

 

 ボリボリと臀を掻きながら玄関へと向かうとそこには母と同じくらいの女性が立っていた。さらにその後ろにも誰かがいるのが分かったが女性の背に隠れているのでその顔までは確認出来なかった。

 

「こんにちは良くん」

 

「あっ、老倉さんとこのおばさん。今朝はあんがとね、カブトムシ沢山とれたよ」

 

「こんにちは良くん。カブトムシ可愛がって上げてね。それでね良くん今日はお礼を言いに来たの」

 

「お礼?自慢じゃないけど俺良いことなんてなんもしてないけど?」

 

「えっとね、今朝うちの畑でイノシシから女の子を助けてくれたでしょ?あの子うちの娘なの。ほらやかげ、いつまでも隠れていないで貴方もお礼を言いなさい?」

 

 老倉母の背に隠れていた少女がもじもじとうつむきながら倉敷の前に姿を晒した。その顔を見て倉敷は思わず

 

「ゲッ、イノシシ女!!痛ッなんで殴るんだよ母さん!」

 

「女の子に向かってイノシシ女とはなんなのよ!謝んなさい!」

 

「良いのよ倉敷さん、今日はこっちがお礼を言いにきたんだから。ほらやかげちゃん?良くんに言いたいことがあるんでしょ?」

 

 そう言って今だにうつむく老倉少女の背中を母が押すがそれでも少女は顔を上げない。

 

「あー、怪我しなくて良かったな。朝とかは動物が出やすいからあんまり一人でうろつかない方がいいぜ?じゃ俺はこのへんで……」

 

 痺れを切らして、というよりは老倉少女へ得体のしれない恐怖の様なものを感じていた倉敷はそう言って戦線離脱を試みた。

 

 けれど倉敷の逃亡は失敗に終わる。少女に背を向けた瞬間、後ろから彼の両手を挟み込むようにして老倉に抱きつか(拘束さ)れたのだ。その力は凄まじく倉敷が全力で抜け出そうとしてもビクともしない。まるで恐ろしい大蛇に巻き付かれているかの様なイメージが脳裏をよぎり彼の背筋を凍らせた。

 実際、老倉少女にしてみればただ抱きついているだけなのだがそのイカれたフィジカル故に倉敷に恐怖を与える結果となってしまっていた。

 

「まって……ください」

 

「はなして……ください」

 

 抱きつき耳の先まで真っ赤に蒸気させる老倉と抱きつか(拘束さ)れ冷や汗を流す倉敷。そんな二人を見て両者の母親コンビは黄色い歓声を上げていた。

 

「えっ!?もしかしてやかげちゃんうちの馬鹿息子のことを!?」

「そうみたいなの!!やかげったら友達の一人も作った事無かったからもう嬉しくて嬉しくて……。ねっ!倉敷さんうちの娘、良くんにお願いしてもいいかしら!」

「もちろんよ!ああ、うちのバカ息子にも相手ができて良かったわ。もうこの子の代で倉敷の家は潰えるんじゃないかと心配してたのよ」

 

 母親コンビが冗談交じりにとんでもない将来設計を描いていたが当の本人達にはそんなことを気にする余裕はまるでない。血液の循環を妨げられた倉敷は震える声で懇願する。

 

「えっと、老倉さん……?そろそろ手を離してくれねーかな?両手の血が止まって感覚がなくなってきたんだけど────」

 

「……」

 

 倉敷が悲痛な声で許しを請うが老倉は顔を倉敷の背にぐりぐりと埋めるばかりで返答がない。

 

 そう、10年後の彼女の姿からは想像もできない事だが当時の老倉やかげは人見知りだった。とんでもないフィジカルをその身に宿していながら家族以外とはまともに会話もできない────そんな恥じらう乙女な時代が極僅かな期間ではあるが老倉やかげにも存在したのだ。

 

「あらあら、良とやかげちゃんすっかり仲良しなのね。そうだっ!良、アンタやかげちゃんと一緒にちょっと出かけて来なさいな」

 

「はあっ!?勘弁してくれよ!女と一緒に遊んだりしたら仲間(アイツら)に茶化されるじゃねーかよ!」

 

「黙んなさい。いつもいつも男達で集まって悪さばかりして!たまには女の子と遊んで乙女心の一つでも理解しないと一生独身で過ごすことになるよ!」

 

「ぐっ……、けどこいつだって会ったばかりの男と遊ぶなんて嫌がるだろ!」

 

 その反論を受け老倉母は倉敷の腰に抱きついたままのやかげに視線を合わせ優しく、諭すように語りかけた。

 

「ねっやかげ。良くんとデート行きたい?」

 

「でぇ…と?」

 

「そう、デート。良くんがやかげをデートに連れてってくれるんだって。行く?」

 

「……行きます」

 

 倉敷の腰に顔を埋めたまま、耳を真っ赤に染め上げた老倉少女は静かに、けれど力強く頷いた。

 

「決まりね。ほら馬鹿息子、しっかりやかげちゃんをエスコートしてきな。ちゃんと日が暮れるまでには家へ送ってくるんだよ」

 

「良くん、うちの娘お願いね♪」

 

 

 

□□□

 

 

 

 

「何故こうなった……俺が何したってんだ……」

 

 理不尽に家から追い出された倉敷はジリジリと肌を焼くような日差しを受け、額から流れる汗を拭いながら独り言ちた。

その背中には相変わらず一言も喋らないままの老倉が抱きついている。

 

「クソ暑ぃ……なぁ、老倉ちゃん君も暑いだろ?そろそろ離してくんない?」

 

「んーーーんーーーー」

 

 暑さに耐え兼ねた倉敷が老倉を引き離そうとするがびくともしない。むしろ剥がそうとすればするほどその力は倉敷の胴体をねじ切らんばかりに増していく。『まるで巨大なクワガタに挟まれているかのようだった』、この時の恐怖を10年後の倉敷はこう語る。

 

「痛い!!痛いから!!分かった!もう引き剥がそうとかしないから力緩めて!!」

 

 倉敷がそう半泣きになりながら叫ぶと老倉はその両腕から力を抜いた。

 

「なんだなんだこの女……なんでこんな力強ぇんだよ……」

 

 通常、中学性男子が小学生女子に力負けするなどということはまずない。しかし事実として老倉のフィジカルは倉敷のそれを大きく上回っていた。見る限り特別筋肉質というわけでもないその細く白い腕のどこにそんな力があるのか───人体とはかくも不可思議なものである。まぁきっと老倉少女が特別(おかしい)なだけなのだろうが。

 

「おい、老倉ちゃん。このまま外にいても熱中症になるだけだ。取り敢えず涼めるとこへ行こうと思うけど希望はあるか?」

 

「……ないです」

 

「そっすか……。なら好きな物とかある?食べ物とか本とかなんでもいいけど」

 

「……ワニ」

 

「ワニっすかぁ……」

 

 倉敷は天を仰いだ。

 

 いくらこの町、いや村がど田舎だとしても所詮は日本だ。ワニはいない。或いは都会ならば動物園へ行くという手もあるのかもしれないが、この村にそんなものは当然ない。無慈悲なり。

 

「ワニ以外に好きな物はないかな?」

 

 そう問うが少女からの返答はない。代わりに腰に回された両腕の力が少しだけ強くなったのを倉敷は感じた。

 

「ホームセンターでも行くかな……あそこなら涼しいしペットも売ってるから暇つぶしにはなるだろ。まぁワニはいないだろうけど……」

 

 そう誰に言うともなく呟いて背中に張り付いたままの老倉少女を引きずりながら歩みを進めた。

 

 

 

  □□□

 

 

 

「ようやくついた……」

 

 照りつける太陽に耐え老倉少女を引きずること30分、倉敷少年はようやく地元のホームセンターに辿りついていた。入口のドアを開けると中から溢れ出るエアコンの冷気がここまでの彼の奮闘を讃えてくれた。

 

「涼しい~~~俺もう此処に住むわ」

 

 店内で両手を広げ冷気を堪能するが相変わらず老倉は背にひっついたままだ。いったいこの少女は何がしたいのか、頭を悩ますがまるで見当がつかない。これが女心というやつなのだろうか?だとすれば一生分かりそうにねーなと倉敷は考えるのを止めた。

 

「おーい、そろそろ離してくんないか。ここまでお前を引っ張ってきたからマジで腰が痛くて……ちょっとベンチに座らせてくれ」

 

 そう倉敷が懇願すると意外にも老倉少女は素直に彼の背から離れた。ずっと背に顔を押し付けていたからだろう、顔には倉敷の汗やら彼女の鼻水やらが付着し不衛生な状態になってしまっていた。

 

「あーあー。たくっ、しゃーねーな……」

 

 渋々といった風体で彼がポケットから取り出したのはハンカチだった。彼の性格から言えばそんな物を持っているはずがないのだがこれも常日頃からの倉敷母の教育の賜物である。母は息子が将来結婚できるのか割とガチで心配しその辺しっかりと躾ていた。

 

「じっとしてろよ」

 

 そう言って取り出したハンカチで老倉の顔についていた汚れを丁寧に拭き取った。

 

「ありがとうございます……」

 

「別にいーよ。それより何でずっと背中に引っ付いてたんだ?」

 

「それは……恥ずかしかったから」

 

「ほーん。まあいいや座ろうぜ。って腰痛った!」

 

 そう促して老倉をベンチに座らせると倉敷もその横へ腰を下ろした。瞬間、ここまでの疲労の蓄積か彼の腰に鈍い痛みが走る。それを察してか老倉はそっと手を伸ばし倉敷の腰を摩った。

 

「私の所為だから……。ごめんなさい」

 

「あー、まあ気にすんなって」

 

 実際、彼の腰痛の原因は老倉少女を1km以上引きずり歩いたことによる物なのだが流石の倉敷も落ち込む少女の顔を見て責めるほどの鬼ではなかった。内面はともかく、当時の老倉は見た目だけはか弱い少女であった。

 

 それから老倉に腰を摩られたままお互いに無言の時間が続いた。それも当然でイノシシとの戦闘という劇的な出会いをした二人ではあったが実のところ彼等が知り合ってまだ半日しか経っていないのだ。共通の話題どころか互いがどういった性格なのか、趣味嗜好すらも把握していない。それでも気まずさに耐えられなくなった倉敷はなんとか話題を絞り出した。

 

「そういえばお前、なんでイノシシと戦ってたの?」

 

「私が育てたお芋、食べてました。だから殴った」 

 

「そっか。それは────仕方ないな」

 

「はい。せいとうぼうえい」

 

 正当防衛とはそういうものだったろうか?倉敷は訝しんだ。

 

「正当防衛だったとしてももうイノシシとは戦うなよ。あぶねーから」

 

「……分かりました」

 

 たっぷり10秒以上かけての了承に倉敷は『あっこれ何も分かってねーな』と看破した。また同じ状況になればまたイノシシとタイマンを張るだろう。そうなれば次はどんな大怪我を負うか分からない。まだ出会って間もない関係ではあるがもしもそうなれば寝覚めが悪い。

 

(どうすれば動物と喧嘩しなくなるんだ……)

 

 頭を捻るがそんな難題の解決策は簡単には生まれない。

 

「おう悪ガキ、また涼みにきたのか?ってどうした、今日は珍しく女連れか。やるじゃねぇか」

 

 そうして倉敷が老倉VSイノシシの戦いを未然に防ごうと思考を巡らしていると何者かが彼に近づき話しかけた。驚いた倉敷が声のした方へ顔を向ける。そこにはホームセンターの制服を着た30代前半と思しき男が額の汗を拭いながらニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべ立っていた。

 

「なんだ伯父さんか。つーか女連れとか言うなよな。どちらかと言えば子守りだよ、子守り」

 

 男の名は倉敷慶太。倉敷の母の兄、つまり彼の伯父だった。伯父は制服の上からでも分かる筋肉質な腕で倉敷の背をバシバシと叩き機嫌良さそうに笑う。

 

「ガハハ!!照れんな照れんな!」「だから違うっての!!そもそもコイツは小学生で俺は中学生!!そんな関係なわけねぇだろ!」

 

 倉敷が老倉との関係を否定すると横に座っていた老倉が彼の横腹を摘み抓った。

 

「痛てぇんだけど!?何で抓った!?」

 

「……」

 

 腹を摘む老倉を非難するがその手は一向に離されない。それどころか何がそんなに気に入らないのか、不機嫌そうな目で倉敷を見つめていた。

 

「ごめんな嬢ちゃん!こいつまだまだガキだからさ、女心って奴がわかんねぇんだ!許してやってくれや!」

 

 伯父が笑いながらそう言ってまた倉敷の背中を叩いた。

 

「あっそうだ伯父さん、なんかイノシシが畑に寄り付かなくなるような物売ってない?」

 

「イノシシ避けぇ?なんだってそんなモンが必要なんだよ。また危ないことしようとしてんなら止めとけよ。お前の母ちゃんに怒られるのは俺なんだからな」

 

「そうゆんじゃねぇよ。コイツ、老倉さん家の子供でさ、自分の畑持ってるんだけどそこにイノシシが出たんだよ。今朝なんて素手でイノシシと闘ってたんだぜ?危なっかしくてほっとけねぇよ」

 

「イノシシと素手でか……そいつはやべぇな」

 

「やべぇんだよ……」

 

 倉敷と伯父、二人して小学六年生の少女の異質さにドン引きした。当の老倉は何故か誇らしげにしていたが恐らくはそういうとこなのだろう。

 

「うーん、その畑の大きさはどの位なんだ?」

 

「あんま大きくはなかったよな?」

 

「……はい。4m×3mの12㎡です」

 

 老倉は倉敷の背に顔だけを隠しながら伯父にそう告げた。イノシシと喧嘩できるのに何故こうも人見知りなのか、倉敷は理解に苦しんだ。

 

「12㎡か。だったらいいもんがある。ちょっと待ってな」

 

そう言って伯父はホームセンターのバックヤードへと消えていった。何を持って来るのだろうと二人して首を傾げているとキャスターに大量の荷を載せた伯父が再び姿を現した。

 

「伯父さん、それなに?」

 

「アニマルフェンスつってな。この杭を畑の周りに挿して金網を巻くんだ。イノシシだけじゃなくてアナグマやヌートリヤなんかの小型の害獣の対策にもなる優れもんだぜ」

 

「いや、そんな大掛かりなもの買うつもりじゃなかったんだけど……。それにそれそこそこ値段するでしょ」

 

「事情が事情だからな今回は俺のおごりだ。その代わり組立はお前らでやれよ。ハンマーさえあれば簡単に組めるからよ」

 

「奢ってくれんの!?伯父さん最高かよ!!」

 

「ありがと……ございます」

 

 

 

  □□□

 

 

 

 

「さてもうあんま時間ないけど出来るところまでやっちまうか」

 

 伯父の軽トラックでフェンスの材料を老倉の畑まで運搬し終えると既に時刻は16時を回っていた。日暮れまでには帰路につかなくてはならない為、残り時間は1時間弱しかない。倉敷はテキパキと材料の梱包を外していった。

 

「この杭を畑の周りに打つって言ってたよな。老倉、ちょっとこれ押さえててくれ」

 

「分かりました」

 

 老倉が杭を押さえ倉敷がハンマーを構える。しかし狙いを定めて振り下ろされたはずのハンマーは杭の頭部を少し掠めただけでそのまま地面に着地した。

 

「ありゃ。思ったよりも難しいな」

 

 もう一度ハンマーを構え振り下ろす。しかし何度繰り返しても杭の芯には当たらない。極まれに当たる事もあったがやけくそ気味に振り回され体重の乗っていない一撃では杭を突き立てることは出来なかった。

それでも彼はハンマーを振り下ろすが次第に倉敷の息は上がっていき、とうとう地面に膝をついた。

 

「クソっ……!全然あたんねぇ!」

 

 ぜぇ、はぁ、と倉敷が息を整えていると地面に置いていたハンマーを老倉が拾い上げた。

 

「代わり……ます」

 

「マジで?でもこれかなり難しいぜ?ハンマーも見た目よりずっと重いし」

 

「大丈夫です。杭、押さえててください」

 

 そう言って老倉はハンマーを構えた。その構えは明らかに素人のそれではない。倉敷のようにハンマーの重量に振り回されているものではなく、しっかりとその重みを彼女の腕力でコントロールしている。振り下ろされたそれはまるで定規でも使ったのではないかと疑うような軌跡を描いて真っ直ぐに杭へと叩きつけられた。

 

ドガン、という衝撃音と共に杭が半分近く突き挿さった。間髪入れずに振り下ろされた2擊目によって杭全体が隠れてしまうほどに畑へと埋め込まれた。

 

「いや、えっと、埋めすぎなんだけど……」

 

 地中深くに根ざしたその杭を引っ張り上げるのに二人はたっぷりと一時間を費やすと辺りは夕空に覆われ始めていた。

 

「もういい時間だな。老倉ちゃん、暗くなる前に帰ろうぜ」

 

 倉敷がそう言うと先程まで楽しそうに笑みを浮かべていた老倉の表情が曇った。うつむき、今朝下ろしたばかりのスカートを皺ができるほどに握りしめている。

 

「まだ……帰りたくないです」

 

 老倉少女はこれまで同年代の子供と遊ぶといった体験をしてこなかった。それは彼女の性格がどうこうといった問題ではなく、ただ興味がモテなかったということに起因する。綺麗な洋服を着たい、ゲームで遊びたい、スポーツで汗を流したい、そういったモノに対する興味がまるでなく、それらに時間を費やすくらいなら牛や畑の世話をしたいと考える、それが幼き日の老倉という少女だった。

 

 だから彼女が倉敷に覚えた『好意』という興味はまさしく麻薬だった。彼に助けられ、背中に張り付き、ホームセンターへ引きずられ、一緒にフェンスを組立てるという他者から見れば何でもないような一日も彼女にとっては衝撃的なものだった。

 

 この一日を終わらせたくない。まだ倉敷と一緒にいたい。だから「帰りたくない」、物心ついた時から両親にすら言ったことのない我が儘を今朝出会ったばかりの少年に老倉少女はぶつけていた。

 

「仕方ねぇな……あとちょっとだけだぞ」

 

 そう言って倉敷は新たな杭を取り出しそれを畑に突き立てた。

 

「いいんですか?」

 

「まあ誰にだって帰りたくない日はあるわな。俺も通知表を貰った日なんてマジで家に帰りたくなくなるし。でもあと30分だけだ、おばさんが心配するといけねえからな。続きはまた明日だ」

 

「明日も……遊んでくれるんですか?」

 

「まだフェンスの組立も終わってねえしな。と言っても老倉ちゃんなら一人で組めそうだから俺はいらないか」

 

「無理です」

 

 断られたらどうしよう、もう遊ばないと言われたらどうしよう。そんな不安が老倉を包み込む。けれど彼女は拳を握り締め最後まで言葉を続けた。

 

「無理です。私一人では組立てられません。だから、だから……!明日も───一緒に遊んでください」

 

 初めは強かった語気も段々と弱まり萎んでいく。それでも、老倉少女が放った最後の言葉は確かに倉敷に届いていた。

 

「おう、約束だな」

 

 そう倉敷が答えると老倉少女はひまわりが咲いたような笑みを浮かべた。今日一日、陰気な表情しか見ていなかった倉敷は彼女はこんな表情もできるのかと少しドキリとした。

 

 じゃあ今日は帰ろうか。そう言って倉敷が場を締めようとした時、メキリッと枝を踏みおるような音を背後に聞いた。驚いて振り返るとそこには今朝方追い払ったはずのイノシシが再び姿を現していた。しかも今朝よりも興奮しているようでブルブルと鼻を鳴らし威嚇している。二人を襲うのは時間の問題といった風体だった。

 

 倉敷は老倉を背に隠すようにして立つとイノシシを刺激しないような小さな声でそっと指示をだす。

 

「老倉ちゃん、イノシシに背中を見せないようにゆっくり後退りしてくれ。十分な距離が出来たら全力で走るんだ」

 

 しかしその指示に老倉の返答はこない。まさかまた素手で闘う気か?と不安になった倉敷はそっと背後の彼女を盗み見て驚愕した。

 

 彼が見たのは尻餅をつき、ガタガタと歯ぎしりをしながら震える老倉やかげの姿だった。

 

(なんで!?今朝は普通に闘ってたじゃん!?)

 

 倉敷が混乱するように確かに今朝方、老倉は目の前のイノシシに怯えることなく果敢にも拳一つで勝負を挑んだ。だがそれはあくまでも『イノシシ』という敵の危険性を彼女が理解していなかった、いや、もっと言うのであれば『恐怖』という感情そのものを老倉が認識していなかったが故に起こせたアクションだった。

 だが今の老倉は今朝の経験から恐怖を知ってしまっている。しかも目の前にいるのは恐怖を彼女に教えた元凶だ。彼女が動けなくなるのも当然だった。

 

 「チッ!仕方ねえな!」

 

 状況を理解した倉敷の行動は早かった。まず畑の土を蹴り上げてイノシシを挑発し自分に意識を向けさせた。その後イノシシに背中を見せ走り出した。とにかく老倉とイノシシの距離を離すのが優先だと彼は考えたのだ。

 倉敷の目論見通りにイノシシは彼を追って突撃した。イノシシにあっという間に距離を詰められるが間一髪のところで側方に飛び込み、倉敷はなんとか突進を回避する。

 

 畑を転がり、泥まみれになりながらも体勢を立て直そうとするが間に合わない。視界の隅で次の突進の構えに入るイノシシの姿を倉敷は認識していた。

 

(やべぇ。次は躱せねえ)

 

 覚悟を決め、衝撃に備える倉敷を数メートル離れた場所で老倉は唖然とした様子でその一部始終を見つめていた。

 

 このままでは大好きなお兄さんが怪我を───もしかしたら死んでしまうかもしれない。そうなればもう二度とお兄さんに会えなくなる。

 

 そんなのは絶対にだめだ。

 

 老倉やかげはパワー系ではあるが馬鹿ではなかった。だから考えた。どうすればお兄さんを助けられるのか、どうすれば畑を守れるのか─────。

 そうして考えが纏まり切る前に老倉は走り出した。力強く蹴り上げられた畑の土が宙に舞い、踏みつけられた芋がぐしゃりと潰される感触を足裏に感じた。

 けれど老倉は止まらない。あの恩人を、大好きなお兄さんを守りたいその一心で彼女は恐怖を抑えつけ、走り、そして飛んだ。

 

 全力でジャンプし勢いそのままに老倉はイノシシの頭部へと落下したのだ。

 

 イノシシは上部からの衝撃によって頭部を畑へと叩きつけられた。しかし老倉渾身のこの一撃は実の所イノシシへ大したダメージを与えるには至っていない。それもそのはずで体重35kgの老倉に対してイノシシの体重は70kgを超えており、さらには地面は柔らかい畑である。老倉の落下はただイノシシの頭部を土に埋めるだけの結果に終わっていた。

 

「なにやってんだ!!さっさと逃げろ!!」

 

 倉敷が叫んだが老倉は逃げない。渾身の一撃が効かなかったにもかかわらずその目は未だ諦めていない。あれほど恐れていたイノシシだと云うのにだ。

彼女は十二歳にして初めて『恐怖』という感情を知り、その日のうちにその感情を完全に克服していた。

 

 老倉は土に埋もれるイノシシの頭部に両腕を回し思い切り締め上げた。

 ヘッドロック──────この土壇場でイノシシ相手に老倉が選んだ技はまさかのプロレス技だった。

 

「嘘だろ──────」

 

 倉敷は目を疑った。言うまでもない事だがプロレス技とは対人間用の技だ。当然イノシシに対して使用される事など想定されていないし効くはずもない。なのに──────何故あんなにもイノシシは苦しそうなのか。

 

「ブグゥーー!!ブグゥーーーー!!」

 

 ヘッドロックをかけられたイノシシはもがき苦しみ必死に老倉から逃れようと暴れている。だが老倉は離さない。ヘッドロックをかけたままイノシシの頭部を土の中に拘束し続けた。

 

「やめろ!離して逃げろ馬鹿!!」

 

 倉敷の声は老倉の耳に届かない。最早彼女の脳内には畑をめちゃくちゃにされた怒りも、イノシシに対する恐怖も何もなかった。

ただ大好きなお兄さんを助けたい。その一心のみでイノシシの頭を土の中へと拘束し続けた。

 

 永遠にも感じられるような一分が過ぎた。倉敷がどれだけ怒鳴っても離さなかったイノシシの首を老倉は唐突に開放した。

 

どさり─────

 

 酸欠に陥り畑に倒れ伏したイノシシには目もくれず老倉は倉敷へと視線を移しこう言った。

 

「お兄さんは─────どんな女の子が好き?」

 

「は?」

 

 倉敷はなんかもう色々と理解できていなかった。何故目の前の年下の女の子は徒手空拳でイノシシを倒しているのか?何故今好きな女の子の事を聞かれているのか?老倉という少女の存在その物が倉敷にとって理解し難いものとなっていた。

混乱した倉敷は老倉の問いに馬鹿正直に答える。

 

「えっと……一途な子かな。たぶん」

 

「分かった。頑張りますね」

 

 そう言って笑った老倉は自分より年下とは思えないほどに妖艶で大人びていて、倉敷は思わず顔を赤らめた。この答えが後の二人の関係に多大なる影響をもたらすことになることを彼はまだ知らない。

 

 

 

 

 ■ ■ ■ 

 

 

 

 

 随分と懐かしい夢を見ていた。十年前の先輩と出会った日の夢だった。

 

 タクシーの中で目を覚ました老倉は突発的に掘り起こされた倉敷との出会いの記憶に胸が締め付けられるような切なさを覚えた。

 

 思えばもう随分と彼に会っていない。何故彼は自分の許を去ってしまったのか、自分の何がダメだったのか、幾度反芻したかもしれないその疑問を再び自身に問うがやはり答えは出ない。

 

 何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか?他に好きな人ができたのだろうか?だとしたらどうすれば帰ってきてくれるのだろうか?答えのない疑問は次なる疑問を生み落とし老倉を更に悩ませる。

 

 だけどこの疑問のスパイラルも今日で終わりだ。回答するのは彼女ではない、疑問を生んだ張本人だ。

 

 

 老倉やかげの乗るタクシーが倉敷のいるパーティ会場へ到着するまで残り30分を切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




色々ご意見いただきましたのでこの作品を書き直すor非公開に致します。
私としてはやかげちゃんの行動は彼女の個性、魅力として書いていたつもりだったのですが私の実力不足のせいで意図しない印象を読者の皆様へ与えてしまいました。
申し訳ございません。
またいつか皆様へ作品をお届け出来るよう頑張ります。
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余命一年なのでグレたアイドルの終活プロデュースして死にます(作者:はつぼし たろう)(原作:アイドルマスター)

ついこの間余命一年を宣告されたプロデューサーくんが、アイドル引退したいらしい賀陽燐羽さんの終活を全力でプロデュースしてから死ぬ話です。▼※賀陽燐羽さんの育成ストーリー的なやつです▼※学園アイドルマスターのストーリーの一部ネタバレを含みます▼※よくわかんないことが多いので作者の妄想で補完してたりします


総合評価:6302/評価:8.91/連載:15話/更新日時:2026年06月03日(水) 17:00 小説情報

幼馴染(天使)が幼馴染(偽)だった。天使なのはガチだった(作者:ビスマルク)(オリジナル現代/恋愛)

▼『アンタの幼馴染、あれ偽物だよ』▼ 幼馴染に告白する勇気を得るために学校で流行っていたおまじないをしようとしたらガチのお呪いで脳内に悪魔が入って来た。▼ 更にそいつは僕の幼馴染が異世界から来た天使であり、悪魔と戦うためにわざわざやってきたという。▼ そう、全ては嘘だった。僕に超絶美少女な幼馴染などおらず彼女との関係は一ヵ月程度しかなく本物だと思っていた過去…


総合評価:7663/評価:8.83/連載:57話/更新日時:2026年06月02日(火) 07:02 小説情報


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