便箋に並んでいたのは殆どがアルファベットだった。上から下まで何度か読んでみると、どうやら今度のライブのセットリストらしい。MR.BIGの、馴染のある曲名がずらりと並んでいる。
そして内容を理解するのと同時に、自分の表情が引き攣ったのがわかった。なんだこのセットリスト?
リサに弄られた頬がほんのり赤い友希那が便箋をチラと見て、意味ありげに口の端だけで笑った。俺にとっては全く笑い事じゃない。愛子に連絡をしようとスマートフォンを取り出そうとして、ああそうだ忘れたんだった。
「リサ、愛子と連絡先交換してる?」
「してるけど、なんで?」
「ごめん、ちょっとだけ電話させてくれない?」
訝し気に首を傾げるリサだけど、神様にお願いするみたいに手を合わせて、頼む、と言うと、小さく息を吐いて、スマートフォンを取り出すと、手早く操作して、はい、とぶっきらぼうに渡してきた。画面には呼び出し中の文字。ありがとう。受け取って耳に当てると2コールで繋がって「やっほーリサちゃん陽くんたち見つかった?」陽気なアニメ声。小さくどーん! とか、ばーん! とかテンションの高いあこちゃんの声が聞こえるから、まだみんなを送り届けている最中らしい。
「今さっき、合流したとこ」
「あれー、リサちゃんなんか声低くない?」
「俺だよ」
「俺って?」
「『愛しの陽くん』だよ」と返すと電話口から噴き出す音が聞こえて「ラブレター読んでくれたんだね」と、愛子は笑いを噛み殺しながら言った。
「なにがラブレターだ。こんなの不幸の手紙だろ」
「わぁ、ひっどー」愛子がけらけら笑いながら言う。
俺はもう一度手元の、愛子曰くラブレターに目を落とす。
MR.BIGには大きく分けてふたつの音楽性がある。
ひとつは『Nothing But Love』や『Wild World』それから……『To Be With You』のような美麗なバラード。そしてもうひとつは、これこそがMR.BIGの真骨頂だと思う、キャッチーなメロディでありながら、各パートが殴り合いみたいな超絶技巧の応酬を繰り返す、汗と紫煙の匂いがする剥き出しのハードロック。
愛子から渡されたセットリストは殆どが後者の楽曲で構成されていて『Addicted To That Rush』『Colorado Bulldog』のような難曲はもちろん、ビリーシーンが以前に率いていたバンド『TALAS』の楽曲で、MR.BIGでもカバーされている『Shy Boy』も組み込まれている。もちろんこちらも相当な難曲。
「愛子もサポートで呼ばれたんだけどさ、最初はもうちょっとまともだったんだよ」
「まともじゃない自覚はあったんだな……」
「セトリ変えたその日に、サポート頼んでたベースの子が飛んじゃったからさ」
セットリストが変わった理由は呆れたもので、他の出演バンドが『Deep Purple』のメドレーをやるとか、『KISS』のコピーバンドが火吹きパフォーマンスをやるらしいとかいう話を聞いて対抗心を燃やしたらしい。逃げたベーシストの気持ちが痛いほど理解できた。完全にとばっちりじゃないか。それにしても主催者はオールドロックの万国博覧会でもやるつもりなのだろうか……。
「なかなか歯ごたえがあるセトリだよねぇ」愛子が言う。歯ごたえどころか顎まで砕けそうだよ。
「どうする? 厳しそうなら愛子からお願いして変えて貰うけど? 今から新しいベース引っ張ってくるのもかったるいし」
「……そう言う愛子は大丈夫なの?」
言わずもがな、MR.BIGはドラムも非常に難しい。多少簡略化したとしても、高い演奏技術を求められることに代わりは無い。
俺の知っている愛子のドラムは基本的にノリと勢いで突っ走るパンクロックなスタイル。出会った当初に比べれば随分マシになったものの、複雑なフィルから、難解な変拍子まで、何もかもをパワーと音量でねじ伏せるドラミングはそのままで、パット・トーピーの柔軟さと力強さを兼ね備えたスタイルとは対極の位置にある。
お互いにこのセットリストは厳しいだろう。
そう思ったのに返ってきたのは「愛子はよゆーだけど?」と呑気な声。
「嘘つけ」
「ホントだし」
愛子がわざとらしく溜息を吐いた。電話の向こう側で大げさに肩をすくめる小さい身体が見えたような気がした。
「愛子はね、陽くんが意固地になってバンドをやらなかった間もずっと叩き続けてたんだよ? だからこのくらいよゆーよゆー」
「……俺だって、サポートで弾いてたりしたから」
「そんなの、弾いてるうちにはいんないって」
「リサに教える時にも弾いてたし」
「でも、全力では弾いてないでしょ?」
そう言われてしまうと返す言葉が無くて黙り込むしかない。
全力。最後に全力で弾いたのはいつだったか。きっと、一番最後のライブ。愛子とふたりきりの。大切な物をなくしたライブ。
深呼吸。心を落ち着けてから「……セットリスト、そのままでいいよ」俺は言った。
「意地張らなくていいんだよ? 弾けなかったらメンバーさんに迷惑だから」
「大丈夫。ちゃんと仕上げていく」
「……ん。わかった」
愛子はなんだか嬉しそうに、じゃあリハの時間とかまた連絡するから。
「一応、ギャラ出るみたいだけど、等分でいい?」
「愛子の総取りでいいよ」
「おぉ、太っ腹」
リサの件で助けてもらったし、今日も皆のことを迷子の俺の代わりに送って行ってくれたし。
結構、お客さん入るみたいだから、誰か呼ぶなら早めに教えてね。そう言って愛子は電話を切った。
セットリストが書かれた便箋に、もう一度上から下まで目を通して、それから丁寧に折りたたんでポケットに仕舞う。どれも一度はコピーして弾いたことがある曲だ。軽くおさらいすれば弾ける。多分。
「ちょっとって言った割に、長電話だったんじゃない?」
急にリサに言われて、スマートフォンの画面に目を落とすと表示された通話時間は10分くらい。待ち受け画面に変わる直前に、リサは俺の手からスマホを取って、ポケットに仕舞った。
「陽さんと愛子さんって、ホントに仲良いよね」
「そうかな?」
「うん」
「まぁ、ほら。同じバンドだったわけだし」
「……へぇ」
「……夫婦喧嘩は」
「友希那、それはもういいから」
友希那の言葉を遮ったリサは、それ以上は何も言わせないといわんばかりに、友希那のほのかに朱の差す白い頬を優しく抓った。
ライブの話? 友希那の頬をぐにぐにやりながらリサが言う。
「うん。チケットが残り少ないみたいなんだけどリサ……」
観に来る? と言う前にリサは友希那からパッと手を離して、行く。
「絶対行くから」
「わかった。……ありがとう」
真っすぐな瞳が照れくさくて、俺は目を逸らす。
「そういえば、陽さんのベースを聴いたことが無かったわね」
赤みの増した頬を擦りながら友希那が言った。友希那も見に来る? 俺が訊くと、友希那は、そうね、思案気な顔でチラとリサの方を見て、今回はやめておくわ。
「え、友希那いかないの?」少し驚いたようにリサが言うと、友希那は日向の猫のような微笑を浮かべて「えぇ。だって、馬には蹴られたくないもの」先ほどまでのお返しをするみたいに、リサの頬を摘まんだ。
友希那ぁ。リサのか細い抗議の声は、未だ途切れる気配のない初詣の雑踏の音に吸い込まれて消えた。