――西洋では、喉仏を「アダムの林檎」と呼ぶらしい

戦争が終わって少し経った頃。ここじゃないどこか、今じゃないいつか。
どこにでもあるような、ありきたりな思い出話。

◆◆◆
カクヨムに同名義で同じ話を投稿してあります。
なんてことない微グロとブロマンス

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百舌鳥の速贄

幼い頃の話だ。

 近所にある廃洋館に幽霊が出るという噂が立った。

 戦争が終わってすぐの時期だっただろうか。『僕』の周りでも人はそれこそ塵芥の如く死んでいたし、別段幽霊だなんて珍しくないだろうと思っていた。だから真偽を調べてみようなんて考えたのは全くの気まぐれで、言ってしまえばただの暇つぶしだったのだ。

 ――結論から言えば、そこに幽霊なんていなかった。ただ、1人の男が住んでいた。否、居座っていたと言った方が正しいのかもしれない。

 ずかずかと住処に入ってきた『僕』を見て「茶の一つも出せんぞ」と笑うくらいには図太い男だった。

 男は傷病軍人だったらしい。左腕は肩からざっくりと失われていたし、顔の右半分はケロイドで直視できるような状態ではなかった。

 それでも、あの時代の男性の平均身長を大きく上回るスラリとした痩躯(そうく)は美しかったし、火傷に侵されていない方の顔立ちはまるで舶来(はくらい)のビスクドールを見ているかのようだった。

『僕』は、男の瞳を一等気に入っていた。

 蒼い瞳だった。真夏の空をふと見上げた時の、あの抜けるような、引き込まれるような蒼を切り取ったような色だった。

 男は仁永、と名乗った。

「ニエ、仁義の『仁』に永遠の『永』で仁永だ。良い名だろう」

 そう言って男は、仁永は笑った。

 それから『僕』は暇さえあれば仁永の元へ通った。それは晩秋から初雪の前日までのたった数週間だったけれども、あの日々は何物にも変え難がたいものだった。

 そう、寒さが一層厳しかったあの日。仁永との日々は唐突に断絶したのだ。

 

「明日からは来るなよ」

 暖炉の炎を前に突如仁永が言った。

「どうして?」

「どうしても」

 お前は、こんな死に損ないに構っていたらいけない。そう呟いて仁永は『僕』の頭を乱暴に撫でた。

「約束できるか?」

「……うん」

 そう言うしか無かった。仁永の前では(さと)い子供で居たかった。

「いい子だ」

 仁永はまた笑った。

「そう言えば、名前を聞いてなかったな」

 仁永はいつも『僕』の事を「坊主」だとか「お前」だとか、適当に呼んでいたから名前を教えた事は無かった。『僕』は自分の名前が嫌いだったから、それでよかった。

「……ヒツギ。石碑の『碑』に継ぎ接ぎの『継』。碑を継ぐ、で碑継」

 言いながら眉間に皺が寄るのが分かった。

 辛気臭い、気味が悪い、意味も古臭い。まるでお前は家を継ぐのが使命だ、そう言われているようで大嫌いな名前だった。

「――良い、名前じゃないか」

 その言葉に顔を上げると、仁永は今まで見たことのない笑みを浮かべていた。

 慈愛の篭こもった、愛しさの溢れたような、そんな笑みで

「そうか、ヒツギ。お前が、碑継か」

『僕』の名前を何度も何度も口の中で転がしていた。

 

 初雪の日。辺り一面が純白に染まる中で『僕』はあの廃洋館に足を向けていた。

 もう来るな。そうは言われたものの、何故かその日は仁永に会いたくて仕方がなかったのだ。

 廃洋館の扉に手をかけると漠然(ばくぜん)とした違和感が背を伝った。明確な理由は見つからない、ただ「何かが違う」と本能が訴えかけてくる。

 それを引き剥がして乱暴に扉を開く。ここ数週間で聞きなれた蝶番(ちょうつがい)の響く音が嫌に耳障みみざわりだった。

 静寂を保ったままの洋館内を駆け、いつも仁永の居た応接間へと向かう。おかしい。昨日までなら足音に気付いた仁永が「また来たのか」と迎えてくれるはずなのに。

 焦燥感に駆られて応接間の扉に手をかけた。

 

「仁永がいなくなったかもしれない」。『僕』の予感とは裏腹に、そこに仁永はいた。いや、『あった』と言うべきか。

 扉を開いた『僕』が見たものは、抜き身のサーベルを手にしたまま床に倒れ()す仁永と、まだ乾ききっていない、赤黒い血溜まりだった。

『僕』は仁永の横に膝をつく。彼にもう息が無い事なんて子供の『僕』にも理解出来た。

 赤黒い液体はばっくりと裂かれた仁永の腹から流れ出していた。

 もう来るな。そう言ったのは『僕』にこれを見せないためだったのか?何故仁永は死んだ?何故死ななければいけなかった?

 脳内で様々な問いが浮かんでは消える。そんな中でふと脳裏に仁永の声が再生される。

「異国では、人の肉を喰らう事で死人の魂を自分の中に留めておく、という宗教儀式があるらしい。自らを、死者の棺とするんだろうな」

 目の端に仁永の持つサーベルがちらつく。腹から覗く淡紅色たんこうしょくの肉がてらてらと鈍く光っている。

 今は冬。しかも、雪の降る真冬だ。

 仁永の身体は、まだどこも腐ってはいない。

 

 

 ――風ががたがたと窓を揺らす音で目が覚める。どうやら原稿の執筆中に眠ってしまっていたらしい。朝降り始めた雪はいつのまにか吹雪になっている。ああ、懐かしい夢を見た。

 仁永が死んでから数年後、成人した私は父からとある告白をされた。

「お前には兄がいる」

 母と婚約する前に出会った異国の女性との息子で、先の戦争に出兵して行方が分からなくなったこと。後妻(ごさい)の子である私の誕生を誰よりも喜んで、戦争から帰って顔を見るのをとても楽しみにしていたこと。

 そして、兄の名は『仁永』であること。

 ……「ヒツギ」と愛おしそうに私の名を呼んだ彼は、一体どんな想いでその名を口に出したのだろう。

 私は一つ溜息を吐いた。机の引き出しから箱を取り出し、中に収められていた小さな塊を指で転がす。

 アダムの林檎。異国ではその部位をそう呼ぶのだと教えてくれたのも仁永だった。

 ひとつだけ、どうしても仁永の生きた証が欲しくて持ってきたそれは、年月を経てなお象牙のように白く輝いていた。まるで仁永自身の魂であるかのように。

 手の中で軽く転がる白を眺めながら、私は幾度と無く繰り返した問いを自らに課す。

 ――私は、僕は、仁永の『棺』になれたのだろうか?



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