坂道を、ひたすらに駆け降りる。
山沿いになっている道。下界が見えてくるにつれ、舗装状況が良くなっているのが手に取るようにわかる。
さらに百メートルほど走ると、道沿いに砂防ダムが連なっている。あと1キロほど行けば、なだらかな丘の下に国府第三中学校が見えてくる。
「はっ、はっ、はっ……!」
ここで立ち止まる。
全力疾走だったから、額に汗が染み出ている。
両膝を触りながら、地面を見つめていた。
「はー、はー、はー……」
息が治まりつつあるのを認めて、顔を上げる。
「ワァッ!」
「うわああああああああッ!!」
尻もちをついてしまう。
「なに? そんなに驚いた? 昔からやってるでしょ、このおどかし方」
由香里だった。といっても、目の前にはいない。
――斜め上を見上げると、いた。宙に浮きながら、ゆっくりと落ちてくる。
スカートを片手で抑えながら、もう片方の手の人差し指を振っている。
由香里の癖のひとつだ。概念力《ノーション》を使う時は、いつもああやって、ハクセキレイの尻尾みたいに指を振っている。
「びっくりした。器用だな」
「大気を遊ばせてるだけ」
「うらやましいよ。俺には、そういうタイプの才能がないから」
「別に。鍛えればできるんじゃない」
「無茶言うなよ。ところで、由香里はアレ行くのか。集から手紙もらったろ。文化会館のやつ」
「ああ、そういうことね」
「そういうことって……どういうことだ?」
由香里は、得意げに笑ってみせる。
「反対されたんでしょ」
くそ。図星だよ。
「やっぱり」
「由香里は行けそうか? 動員、てやつ」
「あたしもママに反対された。でも、説得したよ」
「やるな。俺なんかさっぱりだった」
「渉、行かないの?」
バツが悪い、みたいな顔をしてたと思う。
でも、そうこうしているうち、由香里の目を見据えた。
「行くに決まってんだろ」
「つまんないの。どうせ決まってたんでしょ、答え」
足先で俺を小突いた。
「嘘、つけないな。俺」
俺達は笑いあった。それしかやりたくないから。
「由香里のお母さんはいいよな、明るくって、分別があるというか」
「そう? いつも家にいないイメージしかないけど。放っておかれてるだけじゃない?」
「そういうもんか?」
「そういうもんよ」
久しぶりに、ふたりで通学路を歩いた。朝の時間、最後にこうして一緒に登校したのはいつだろう。もう覚えていない。
……本当に、それくらい久しぶりだった。久しぶりすぎて、周りからの視線が気になってしまうほどに。
* * *
5月5日。こどもの日、というらしい。
俺と由香里は、ハッピーマウンテン市文化会館に来ていた。
「……でかい」
目の前には、見上げるほどの大きさの建物がある。高さにして、50メートル以上はあるだろう。
「でかすぎだろ、これ。市街地の方は違うな」
「あんな山奥と比べてもしょうがないでしょ」
由香里が一歩、前に踏み出す。腕時計を見ている。
「集合時間ぎりぎり。早く中に入ろうよ」
暖色系を組み合わせた煉瓦タイルの上を歩いていく。
点字ブロックをなんとなく避けつつ、正面入口へと。
ウイイイイイイ……自動ドアが開いた音だ。
「……!」
「ちょっと、田舎者だってばれるでしょ」
「もうばれてるぞ」
「……集!」
館内を見渡すと、左斜めの方向に利用者受付があった。5,6人ほどがいて談笑している。
その辺りから、集が歩いてくる。
「ふたりとも、おはよう。動員協力ありがとな」
「集、あそこにいる人たちは?」
「渉! 挨拶くらいしなさい……」
「ゆか……いや、汐町さん。おはようさん」
「……おはようございます」
斜め下へと、視線を逸らす由香里。
「はは、冷たいな。あー、それで。あそこの受付にいる人たちはな、うちの職員だ。俺とは違う課で、社会教育課だ。今回のメインスタッフになる。で、渉と汐町さんが学生スタッフで、手紙のとおり風船釣りをやってもらう。ちなみに俺は教育総務課な。動員要請に応えてる」
「へえ……」
1階フロアを見渡す。
すぐ目の前には、階段とエレベーター。右手を向くと、ガラスケースがある。野球やサッカーなどの記念品が並んでいる。
左側には、ひたすらに廊下が広がっている。色々な部屋があるようだ。最奥にはトイレが。
利用者受付の奥に、いくつもの机が置いてある。事務室だろうか?
「珍しいか」
「俺、山の方に住んでるから。こんな建物はぜんぜん」
「渉。ここからだいぶ離れてるけど、ハッピーマウンテンの中心市街地には11階建てのお店もあるのよ」
「11階!?」
「はは、よし。そろそろ準備に入ろうか。こっちな」
俺達は、外に出た。
すぐ脇に立ててある看板には、「親善フットサルフェスタ」という文字が入っている。さらに、「来賓 市議会議員 喬木 直利 様」とある。
自動ドアを出てすぐ、正面の奥に自動販売機が見えた。その脇には、しぼんだ丸型の家庭用プールと空気入れ《エアーポンプ》、ホース。それと長机、椅子が2つ、白い手提げカゴが置いてある。「風船釣り 1回200円」と書かれたプラ製の縦看板もある。
近付いていくと、カゴの中が見えた。空気を入れる前の風船と、注射器みたいな形のなにか、輪ゴム、風船を釣るための針金と糸、プラスチックの極小パーツ、これまたよくわからない形状のプラ製の道具、バインダーに挟まった売上表、手提げ金庫、筆記用具……などなど。
「由香里、これ」
「あたしもわかんないわよ。なにしていいのか」
「ふたりとも。まずは、プールを膨らませよう。そのあと、このホースがあっちにある蛇口と繋がってるから、プールを水で満たそうな。で、プール作りが落ち着いたら、次は風船を作る。かなりしんどい作業だ。9時までにやってもらう」
「よおし!」
プールの空気栓にエアーポンプを繋ぐ。足で踏むタイプだった。踏むと、スコスコと音を立ててプールが膨らんでいく。
「うん、そんな感じだ。ある程度膨らんだら水を入れていい。さて……」
由香里を見ると、白い手提げカゴから風船を取り出している。
説明書らしきものを一瞥し、
「三良坂さん、教えてよ。これ、説明書があるけど、あたしだけじゃできそうにない。三良坂さん、できるんでしょ」
「お、いいね。積極性マル」
集は、そのカゴから風船をひとつ取り出した。
「ああ、そうか、だめなんだ。水がない。おい渉、空気入れるのやめて、向こうにある蛇口をひねってくれ。自動ドアの右手に散水栓があるから。プールの空気は入れとく」
サンスイセン? なんか、以前も聞いたような。とりあえず蛇口があるのだろう、と思う。
「はいよ」
自動ドアの方に走っていく。視線は、その右手側へと。
ええっと、サンスイセン、サンスイセン……。
「……ない!」
「あるって。ほら、今踏んでる!」
「踏んでる?」
真下を見る。
すっかりと銅色に錆びた蓋。よく見ると、「散水栓」と書いてある。
蓋をはぐる。中に蛇口がある。ひねった。
「そうだ、いいぞ」
集が握っているホースの先から水が出ている。足元にあるエアーポンプを踏みながら、プールを満たしている。
俺は、また走って戻る。
「なんだよ、散水栓って。街中にはこんなのがあるのか」
水が入りつつあるプール。俺と由香里は、楽しげに見下ろすばかりだった。
家庭用プールなんてものを見るのは、今日が初めてだったから。
シュコ、シュコ、シュコ、シュコ……
エアーポンプの音が響いている。
ふと、集が踏んでいる足を休めた。屈んだなら、カラの水風船をプールに投げ入れる。
「よし、と」
ホースを、プールに突っ込んだ。
その手には、さっきの注射器みたいなやつを握っている。
「いいか、まずはこんな感じだ」
注射器に水を入れて、今しがたプールに漬けた水風船を手に取る。
注射器の先を、水風船へと。
キュ、キュ、キュ……
ピストンが鳴る音とともに、水風船が水風船になって(?)いく。
十分に水を入れたなら、長机の方に歩いていく。
「まずは、この水風船の口に輪ゴムを二重にはめる。緩めでいい……さて、次が難関だ。このすんごく小さい、口が開いたプラパーツがあるだろう。これをこの、お手軽パッチン、いや、俺が勝手に名付けたんだが……このセロハンテープの台みたいな器具にだな、こう、置くんだよ。それで……」
説明しながら集は、お手軽パッチン? の上部にプラパーツを置いた。次いで、水風船に巻いた輪ゴムをプラパーツの口に噛ませつつ、ゆっくりと力を入れて、真下へと――
パチンッ!
「おおっ!」
「こうやって作るのね」
見事、水風船の口に極小のプラパーツが嵌まり込んだ。プールに投げ込んだところ、一滴の水も漏らさない。
「これを……9時までに50個作るんだ。あと45分で」
「50個!?」
「それで、料金は1回200円。釣れなくても残念賞で1個渡す。営業中に風船が足りなくなったら、追加で生産を行ってくれ。営業時間は、午後3時まで。目標売上は……1万円」
「1万円!?」
「そうだ。ちなみに、去年の売上は9,300円。俺がひとりで担当した……どうだ、できるか」
「……」
「やります」
尻込みする俺をよそに、由香里がスマイルで応える。
「由香里、できるのか。1万円だぞ」
「ここで臆しちゃだめよ。成せばなる!」
「汐町さん、男前だね」
……わかる。由香里には計算がある。
俺なんか比べ物にならないほどの頭の回転でもって、「1万円でも大丈夫」という結論を導いたに違いないし、また実際にそうだった。
* * *
「ぜんぜん作れないぞ……」
「厳しいわね。あと15分で始まるのに、まだ25個しかできてない……あんた、何個作った?」
「5個」
「……」
由香里は、きっと呆れてるんだろう。
俺は、水を入れたばかりの風船を、お手軽パッチンに置いたプラパーツに挟んだ。真下へと、力を込める。
風船の口を縛っている輪ゴムへと、挟まっていくプラパーツ。
……パキッ!
「渉、どう?」
「だめだ。とうとうプラパーツが折れてしまった」
風船の口がなかなか挟み込めない。たまには成功するのだが。
「なんでだろうな。由香里、やってみせてくれ」
「はいはい」
軽くかぶりを振ってから位置につく。
真後ろにいることで、髪の香りが漂ってきた。思わず、身じろぎをする。
「いい? 口に輪ゴムを巻いたら、このプラスチックのやつに挟むんだけど」
風船と向き合う。真剣な目つき。
「この時、輪ゴムに噛ませるのは、ほんのちょっと。ガッツリ噛ませると、さっきみたいになっちゃう。1回失敗すると、使い物にならなくなるみたいよ、このプラパーツ」
由香里は、屈み込んだ。手元に視線をやる。
「さて、それでは――」
力を入れる。輪ゴムを噛みつつあるプラパーツ。
お手軽パッチンが、プラパーツを水風船へと嵌め込んでいく――
パキンッ!
「……できたかしら?」
水風船をプールに漬けてみる。
……ブクブク。風船の口から気泡が。
「ああ、だめね。これ、いつかはしぼんじゃう。ごめんね。参考にならなくて」
「十分だ。よーし、やるぞっ」
* * *
時刻は、午前8時55分。
「できた!」
最後に巻き返して、なんとかなった。
ちょうど、集が玄関から出てくる。
「お、できたか」
プールの水面に浮かんだ、色とりどりの水風船。
赤と白、黒と青、橙と緑など、原色による組み合わせが多い。
『……あっ!』
そうだ、公務員になりたいこと、相談したいんだった。
「よしよし、ふたりともよくやった。これやるよ」
ビニール袋が差し出された。缶入りのジュースがたくさん入っている。
「これ、どこで買ったんだ」
「この館内だ。うどんとかフランクフルト、ジュースの販売をするんだ。先に買ってきたってわけ」
「サンキュー! やっぱ炭酸だよな!」
炭酸飲料に目がない。ロクに小遣いもないのに、新しい商品を見るとついつい買ってしまう程度には。
コーラを手に取った。
「そーだよな、渉。男だったら炭酸一択だよな! ええと、汐町さんはスポーツドリンクでいい?」
「いらないです」
「なんで? タダなのに」
「三良坂さん、公務員なんでしょ。これも一応、贈収賄に……」
「由香里は、こっちの方が好きだよな」
俺は、ビニール袋からスポーツドリンクを取り出した。
「……渉がそういうなら」
由香里が缶を開ける。
プシュウ、という開缶音。グイッと、勢いよく飲み始めた。
……横目で、ちらちらと由香里を見ていた。水分を流し込んでいる喉の様子がわかる。喉仏が膨らんで、しぼんで。膨らんで、しぼんで。
ただ、なんとなく。本当になんとなくだった。見ていたくて。ずっと。
「いよっ、男前! 女なのに」
集だった。
「ぶふぅっ!」
由香里が、煉瓦タイルの上に液体を吹き出してしまう。
「おい! だ、だいじょう――ごほおおおおおおおおおおおおッ!!!」
刹那だった。右ストレートが集の胸部に直撃していた。
その一撃は、圧縮された空気をそのまま体現するかのように、大人の肉体を撥ね飛ばした。
「集、大丈夫か!?」
すぐさま立ち上がるも、腰を押さえている。
「あ~、痛って」
集がこっちに戻ってくる。仁王立ちの由香里。
――対峙。
「汐町さん、冗談きついって。俺も悪かったけどさ」
「あなたも使用者《エッセ》なんですから、このぐらい大丈夫でしょう!? もう話しかけないでください」
由香里は、フイとこちらを振り向く。憮然とした様子で。
「由香里。そこのベンチで休もう」
俺の手を取った由香里、ベンチへと歩いていく。
途中で振り向いて、口の動きで集に「すまない」を伝えた。