時刻は、午前9時50分。
「風船釣り、やります!」
「ボクもやるー!」
「ふたりとも、やりたいの? すいません、子どもふたり分お願いします」
「はい。400円です」
会場は、保護者と児童とでごった返している。
風船釣りをやってみたい、という子どもの行列だけじゃない。やろうかどうか迷っている子どもたちもたくさんいる。
午前9時過ぎのことだった。正面入口前のスペースを使ってのオープニング・セレモニーが始まったのは。最初の方は暇だったのだが、先ほどから、急にお客さんが入りだして――
「ああ、残念。釣り糸切れちゃったね。じゃあ、好きなの1個、持って帰ろうか」
ごった返す会場の中、今にも泣き出しそうな子へのフォローを行う。
俺は、プールのところで監視やらアドバイスやらを行うポジションに就いている。
ふと、長机の方向、由香里がいる受付コーナーを見る。
「はい、3人ですね。ありがとうございます。600円です。はい、1000円ですね……こちら、お釣りの400円です。それじゃ、こっちの釣り糸を使ってください。もし取れなくても、好きなのを1個持って帰っていいですからね」
お客に説明をしながら、料金の授受をしながら、売上表に記入をしながら……流れるような動きで仕事を捌いていく。
当初は、逆の役割分担だった。が、俺があまりに使えなかったので代わってもらった。
「いかん! プールの空気がなくなってきた」
立ち上がるとともに、足踏み式のエアーポンプを動かす。
スコスコという音とともに、水風船が浮かんだプールが膨らんでいく。
「それ、やりたーい!」
「え、やりたい? じゃあ、俺みたいにして押してみようか」
「やった! せーの、えいっ、えい……えいっ」
シュ……シュ……
残念。小さい子どもでは脚力が足りないようだ。
「……うっ、ええっ、ええんっ」
涙が浮かんでいる。
「あ……ええと……」
サッと顔を上げる。由香里を見た。
――どう見ても忙しそうだ。
「気にすんなって。小学生になったらできるから」
「……ほんと?」
「ほんと」
「でも、いまさっき、ぜんぜん、」
まずいっ! 今にも泣き出しそうだ。
と、ここで、
「お兄さん、ごめんなさいねー。ほら、かいくん。今度は建物に入ろう? 2階に、平安時代の生活体験ができるコーナーがあるんだって」
グッジョブ。母親が間に合ってくれた。
子どもを抱き上げるとともに、去ろうとする。
「……あの、お母さん。すいませんでした」
「そんな、こちらこそ! ご迷惑おかけして」
会釈を済ませると、親子が館内に入っていく。
「……」
俺は、何を言うでもなくエアーポンプを踏み続けた。
* * *
時が経つのは早いものだ。もう、午前10時30分になる。
「渉。落ち着いてきたね」
「一時はどうなることかと。由香里がいなかったら詰んでたよ。俺、頭の回転が遅いからさ」
「それはどうも。あたしだって、渉がいなかったらうまくできなかったよ」
俺達は、長机に座っている。
ふと、机上にある文化会館まつりの案内冊子が目に入った。手に取る。
パラパラと、めくっていく。
「親善フットサルフェスタ……午前10時30分開会。喬木議員が来賓で来るらしい」
「ふーん、そうなの」
「どんな人なんだ? 俺、あの時しか会ったことないから」
「うーん。地域学習会じゃ、フツーにいい人だったよ? 朗らかだし、話は面白いし、お菓子くれたり」
「そりゃ、政治家なんだからさ。市民にはそっちの顔つかうだろ」
「うん。こないだのあれで、恐い人っていうのはわかった。でも……悪い人じゃないと思う」
「そうなのか……って、あ」
「……」
不覚。お客さんに気がつかないとは。こんなこと、今日初めてだ。
「あ、ええっと。風船釣り、します?」
女の子だった。
ツインテールのような感じの長い髪に、パッチリとした瞳。
年上? 年下? わからない。でも、同年代だよな? 別の中学校だろうか。
「ええっと、これを……やります」
目が合った。ドキリとしてしまう。
目線を下に逸らした。が、胸元に目がいってしまう。
『だめだ! いかん!』
目線を上げる。
……大きかった。かなり。
「ハイ、や、やるんですね? ええ、1回、200円です。ここに書いてあるとおり。200円」
どぎまぎしてしまう。
いやいや、反則だろう。こんなに可愛いの……。
「? ええと、これ……なんて読むんですか?」
「……はい?」
「これ、なんて読むんですか」
「ふうせんつり、いっかいにひゃくえん」
「どうやるんですか、ふうせんつりって」
『硬直』、とはこういうことを言うのだろう。
チラリ、由香里を見やる。不機嫌そう。
「ええと、このコヨリ、糸の先に針金がついてるやつ、これを……」
椅子から立ち上がり、この人をプールに導いていく。
「コヨリを、この浮かんでる風船に輪ゴムがついてるから、引っ掛けて」
「引っ掛けて……?」
興味津々に見ている。
「引っ張り上げる」
ゆっくりと、水風船を引き揚げた。
……釣り上げることに成功する。
「わあ、上がった! こんなに弱そうなのに」
「そう思うだろ。でも」
釣られたままの風船。左右に振る。
プチッ。あえなく糸は切れ、水が入った風船がパシャリと水面に落ちる。
水しぶきが頬に撥ねた。
「……やってみる? 200円だけど」
「やります!」
その場で、カバンに手を突っ込んだ。まさぐっている。ガマグチの財布が出てきた。
机のところまで移動し、お金を取り出す。
「ええと、これで200円?」
「……え?」
一瞬、止まってしまう。由香里も同じ。
差し出されたのは――2万円だった。100回ほど挑戦できる金額。やりたくねえ。
「ええと、これは2万円。200円がいるんだよ。ほら、硬貨だよ。ジャラジャラしてる、銀色の」
「あ。ええと……この銀色のやつ……だよね?」
「それは2円。あと198枚ないとできないよ。ええと、硬貨の表に数字が書いてあるよね?」
「あ……そうだった……」
今度は、ちゃんと200円が出てきた。
「お待たせしてごめんなさい」
再び、由香里を見やる。さっきと変わらず、ぶすっとしている。
「はい、じゃ、これどうぞ」
コヨリを渡した。わずかに触れた手の感触、吸い付くような感じ。
また、ドキリとしてしまう。不覚。だって、ずるいだろ。なんでこんなに可愛いんだよ。こんな美人、都会にしかいないんじゃないのかよ。
「ええと、あなたの名前はなんですか?」
「俺? 道ノ上渉」
次いで、由香里の顔を見やる。
「あなたの名前はなんですか?」
「……汐町由香里」
何かを悟ったような面持ちになる。
こういう場合、大抵ロクなことがない。
「わたし、梔子《くちなし》ほのか! 渉くん、よろしくね。由香里ちゃんも」
「あ、ああ。梔子さん、宜しく」
「ほのかでいいよ」
「ええと、ほのかさん」
「ありがと。そういう風に呼んでくれて」
風船を釣りに行った。たった今、プールの前にかがんだところ。
……奇妙な沈黙が支配している。支配していた。
「へえ、あんな女の子が好みなんだ?」
「別にそんなんじゃない。たしかに可愛かったけどさ」
「でもあの子、ちょっとおかしいんじゃない?」
「おかしいとか言うなよ。山野辺にもいただろ、あんな感じの」
「チテキショーガイだって、ぜったい」
「……俺は、別におかしいとは思わないけどな。字が読めなかったり、お金が数えられなくても」
「……ねえ、渉。やっぱり、地域学習会いこうよ。使用者《エッセ》の子も、一般人《エンス》の子も何十人も集まってさ、普通にお話とか、ゲームとか、できるんだよ。渉の考え方ってさ、なんか、こう、ピッタリ合ってると思うよ? シソーテキに」
「行かない」
「なんで?」
「行かないって決めたから」
「だからさ。なんで? 今の、答えになってないよ」
「ここで暮らしてる限りは、ずっとそうだ。ずっと、孤立しなきゃいけないんだ、俺達は。一般人《エンス》と交わる経験なんかしなくていいだろ」
あの時の、安田のことを思い出していた。
……死ぬまで隠してみせる。
「ふーん、そういうもん?」
「由香里は、どうして学習会に行ってるんだ」
「なんとなく。だって、クラスの中でもさみしいでしょ、4人だけじゃ」
「そういうもん?」
「そういうもんよ」
俺は、椅子から立ち上がる。
「じゃ、俺。1回目の休憩に行って――」
ガシャアアアアアアアアアアンッ!! パリンッ!
「!」
空を見上げる。
キラキラと、日光を浴びて輝くナニカが落ちてくる。
――正面入口前を見る。多くの人が何事かと立ち止まっている。
「逃げろッ!」
俺は、叫んでいた。
キラキラと、輝きながら落下を続けている物体は――粉々になったガラス片だった。
(第6話、終)