「なんだよ、今の……」
目が覚めた。起き上がって、ふと室内を眺めると、めまいに襲われる。
「ま、飯食えばなんとかなるだろ」
寝巻きのままで、歩き出す。畳の上が暖かいような、冷たいような。
襖の梁の上に学ランがかけてある。ヨレヨレになっている。ロクに手入れをしていないから。
「渉《わたる》。今日、早いね」
「まあな」
背後を振り返ると、栞が布団に入っていた。いつもの、二度目の就寝というやつ。
「朝ごはん作ってあるから」
「ありがと、栞」
ぶっきらぼうな返事……だったと思う。
襖を開けて、廊下に出た。さすがに足元が冷たい。
トイレと、洗面所と、いま目覚めたばかりの寝室。この狭い家を回って身支度を整える。
最後に辿り着いたのは、居間だった。
襖戸が開いていく時の乾いた摩擦音を聞きながら、座卓の上を眺める。
「……お、いいじゃん」
卓の真ん中に置いてある皿には卵焼きとウインナー、少しばかり端の方には、すまし汁の入った鍋が置いてある。
畳の上にある炊飯器が目に入る。傍には俺の弁当が。
「……」
卵焼きとウインナーを一切れ摘んで、胃に放り込んだ。朝飯は、ほとんど食べない。いつものことだ。
時刻は、午前7時30分。履き潰されたスニーカーとともに家を出る。いつものことだ。
玄関を出た直後、大きな杉の木ごしに隣家を見る。誰も居ないことを確かめてから、なんの舗装もされていない通学路へと飛び出す――いつものことだ。
* * *
霧雨が降っている。
お天道さまが雲の切れ端に横たわっている。いわゆる、キツネの嫁入りというやつ。
……細かいシャワーの粒みたいな水滴が、俺の前髪をしとどに濡らす。手首から先にかけての湿った感じ。学ランの袖についた水分をシャッシャッと払い飛ばす。
空を見上げると、太陽が雲の切れ端から飛び出して、いよいよ彼方の青空へと羽ばたこうとしているみたいだった。実際には、雲が動いているだけなんだけど。
雨なんて気にならない。むしろ俺を濡らして欲しい。傘は面倒だし。
「ちょっと早すぎたな。さすがにあいつも来ないか」
小高い丘を降りていく。坂の下には国府第三中学校が見える。薄汚れたベージュ色の校舎。
雨と晴れとの境界線を見やりつつ、真後ろを振り返る。
やっぱり、来ていない。
……校舎の西側にある校門を通り抜け、くつ箱にスニーカーを放り込んで、すぐ傍にある階段を二段飛ばしで駆け上がり、渡り廊下を突っ走り、右手に曲がってまっすぐに廊下を行くと、3-3と書いてある年季の入った表札が見えてくる。
スライド扉をくぐると、まだそう見慣れてもいない教室が広がる。
午前7時55分。人はまばらだ。俺とそして、向こうに座っている篤《あつし》と砂羽《さわ》を含めても十人ほどしかいないだろう。
「……」
挨拶はしない。無言で教室に入る。
俺たちに反応する奴なんていない。いないけど、先ほどまでは確かにあった喧騒の波が崩れるというか、空気が変わったのはわかる。
「はよっす~!」
俺のすぐ後ろから、別の男子生徒が入ってきた。
ざっくばらんにクラスメイトに挨拶をすると、また元気のよい挨拶が返ってくるのだった。朝の雑談の仲間がひとり増えたようだ。
そんな様子を尻目に、すごすごと教室のはじ、窓際の最前列から3番目の席にカバンを置いた。
「渉、おはよう」
「……はよ」
「篤、砂羽、おはよう」
小声で挨拶を返して、席に座る。
すぐ前の席に居る篤は、いつものようにキリッとした、でもどこか冷たい表情で英単語ノートを広げている。ああ、ごめんな。勉強の邪魔して。
もうひとり、最前列に座っている砂羽は……これまたいつものように、半目をこすりながら窓側に背をもたせている。
俺も授業の仕度をとばかり、カバンの中身を机に入れ始めたところ、
「おはようっ!」
ついに来た。いつもより5分ほど遅い。
大きな声を響かせながら、ひとりの女子が入って来る。
「……」
静寂。誰も挨拶を返さない。これもまた、いつものこと。
この3年3組の教室に入って、ちょっと仕度を始めたところで、この女子、汐町由香里《しおまちゆかり》が入ってくる。
ここまで全部、いつものことだ。
「……」
由香里がこちらに歩いて来た。俺のすぐ後ろの席だ。
今ちょうど俺は、1時間目の教科書類を確かめたところ。
「おはよう、渉」
「……おはよう」
「いつもより早かったじゃない。栞さんとケンカでもしたの?」
「……そんなことない」
「え~、ほんとに? 急いだけど、追いつかなかったよ。ねえ、たまには一緒に登校しようよ」
「してるだろ。たまにだけど」
「ほんとに、たまにだけどね」
勘弁してくれよ。もう中学3年生だぞ。
「ねえ、ところで。今日は、みんなにあいさつした?」
ああ、コレもまた、いつもの流れだ。
うっかり、渋い顔をしてしまった。
「してないんでしょ!」
「してないけど」
「いや、なんで?」
「なんでも」
「いやだから、なんで?」
「なんでも」
「いやいや、だっかっら~、なんで?」
「どうしても」
「いやいやいやいや、だからさぁ~~、な・ん・でっ?」
「わかってるんだろ」
「……」
しかめ面になってしまう。
いやいや、おかしいのはお前だぞ。
ガンッ!!
机の脚を蹴り飛ばした。機嫌が悪い時はこんなことをする。
由香里は、憤懣やるかたない? 様子で席についた。
「おい、丸聞こえだったぞ……聞こえないようにしろよ」
篤だった。こっちに視線はない。英単語ノートを読みながら話している。
ふと見ると、その机の上に薄いピンク色の封筒が置いてある。封が開いている。
「なあ、篤。お前は、今日は挨拶したん?」
「僕は、毎日しているよ。ああ、なんにも聞くな。わかってるから」
「砂羽は?」
「……え?」
ぼんやりとした様子の砂羽。
「いつものことだろ。そっとしておこう」
篤の言葉を耳に入れつつ、封筒からはみ出した手紙に目をやる。
ああ、そうか。わかった。どういうものかが。思い出してしまった。あの中には、A4サイズの1枚ものの手紙が入っている。
……さて。もう一度だけ、砂羽に聞いてみるか。
「なあ、砂羽はさ。教室に入った時、挨拶してるのか?」
「してない」
「なんで?」
「どうしても……」
砂羽は、すぐ表情に出る。答えに窮しているのが手に取るようにわかる。
「いやいや、だから、なんで?」
でも、問いかけをやめない。
「ええと、だから、どうしても……!」
「いやいや、だからさ、なんでなのか気になるだろ」
「……だって、みんな、」
「真似すんなっ! あんたに問う資格なしっ!」
ガ、ガ、ゴッ! ガガッ!
……由香里が机を蹴り続けている。
篤がため息をついた。
「諦めないといけないんだよ」
小さな声だけど、はっきりと聞こえた。
真実だけれども、由香里の鋼鉄のハートに響くことは一生ないだろう。
……感じ取ろうとしなくても、わかる。クラスの全員、俺たちのことなんか誰も気にしちゃいない。
* * *
「さて、そういうわけで……それまでは、石器はせいぜい磨いたりするまでが関の山だった。でも、時代を経るごとに、粘土を焼いたら硬くなるとか、鉄や銅でも頑張ったら溶かせる、ということに気がつくわけだ。そして、冶金技術が広がりを見せた頃が石器時代の終わりの区切りになる……よし、ここもテスト範囲だからな。縄文時代と弥生時代の区別もつけられるように」
落ち着かない教室。クラスの半分以上がおしゃべりに興じている。
別段かわったところはない。いつも、こんな風だ。
たまに、非常ベルが鳴ったりする。誰かがいたずらで鳴らしているのだ。そんなことは先生も生徒もわかっているから、非常ベルが鳴っても気にしない。
俺はただ、機械的にノートを取っている。前の席を見る。篤は、熱心だった。ノートに独自の書き込みを加えまくっている。
砂羽は、教科書のページが明らかに違ううえに、落ち着かない様子で貧乏ゆすりをしている。
「……」
チラッと、真後ろを振り向いた。本当に、チラッとだけ。
……由香里は、片方の肘をついて教科書を読み込んでいた。ピンク色のマーカーが引いてある。
「ハイ! それでは~~っ!」
教壇に立つ教師、赤木が大声を上げる。
喧騒は止まない。
「静かにしなさいッ!!」
喧騒が少しばかり収まった。だが、時間の問題だろう。
「今日、いや前回もだが、先生な、大事なことを話したぞ。さて、なんだっけ? 身分制度に関することだったよな。はい、だれか」
……誰も手を挙げない。
そんな中、篤だけが手を挙げた。
「どうした、ひとりだけか? けっこう簡単なとこだぞ」
生徒らを煽っていくも、誰も手を挙げない。
「ぎゃははははッ!!」
教壇の近くの席で大笑いをしている者が約3名。
箱田だった。ピシッとした制服の着こなしだけど、れっきとした不良グループのリーダーである。
一緒に話をしているのは、鵜飼尚吾。俺の――
「やかましいッ!」
「あ?」
どなる赤木に対し、睨みを利かせる箱田。一触即発。
赤木は、深呼吸をしつつ、
「みんな聞きなさい。こんな成績加点チャンスはめったに無いぞ。みんな、今年は受験だろう」
ここで手を挙げないのは不経済だと言っている。
……数人が手を挙げた。ひとりが指名される。
「ええと、弥生時代から国家が成立しはじめて……身分制度ができますっ」
「ああ、これは……もうちょっと! でも、平生点加点しちゃうぞ! ほかには」
篤以外の全員が手を下ろしてしまった。
赤木は、そぞろに教室中を見渡した。誰も手を挙げないのを確かめてから、
「よし、それじゃあ、神部《かんべ》。いってみようか」
篤を指名する。
落ち着いた調子で、回答が始まった。
「はい。以前に赤木先生がおっしゃったこと、そのままで失礼します……まず、弥生時代から国家が成立をしはじめ、身分制度が始まったと教科書には書いてありますが、事実と異なる部分があります。まず、縄文時代には国家の前段階としてのクニがあり、戦争がありました。そして、敗北したクニの人々は、勝利したクニの人々の奴隷となりました。特に、旧支配者層は弾圧を受け、生活するうえで著しく不便な地域へと強制移住させられました。これこそが、現代でいうところの被差別集落問題という国民的課題の始まりであり、その基礎を固めていったのが縄文時代です。すなわち、マルクスの用語でいうところの階級闘争です。虐げられた者たちは、物的生産過程の変遷によって古い生産関係を破壊し、新たな生産手段を身に付け、やがては支配者層への反逆を果たす。この典型が、平安時代に起こった鉄器の生産性革命における自立的村落の始まりです。これはそう、すなわち、弁証法的発展です」
教室内が静寂に包まれる。
――静けさを破って、拍手が聞こえた。赤木ひとりによる。
「素晴らしい! 神部~、相変わらずだな。今回も満点を期待してるからな。弁証法的発展、なんと素晴らしい響きよ! ああ~、でもな。さすがに教科書にない範囲はテストに出せなくってな、申し訳ない。でも、君のようにやる気のある生徒がいる以上は、いつかはそんな問題を出してやろうと思うぞ、先生」
「恐縮です」
教室内の空気は、しらけている……と思う。
誰かが舌打ちをした。コソコソと話がはじまる。
いつものことだ。
* * *
昼休み。
トイレから戻ってくると、自分の席を確かめる。
すると、当然のように由香里が俺の席を自分のと合体させている。
「渉、早く早く」
『早く俺の弁当を広げろ』と言っている。
「ねえ、今日のお弁当は?」
「これ」
「卵焼きとウインナーがこんなに! 羨まし~!」
「そうか?」
「栞さん、お料理上手だもんね」
「……」
ツッコミを入れることができない。
いや『こんなの誰でも出来るだろ!』とはっきり言えばいいのに、と思われるかもしれない。
でも、俺には言えないし、言わない。
「おいしい」
ごく当たり前に、卵焼きを口にする。俺はただ、おいしそうにもぐもぐする様子を眺めているだけ。
さりとて、腹は減っている。今朝食べた分は、とっくに消化されている。
ウインナーを手で摘んで、口に入れる。冷たい肉味を感じる。
「由香里の弁当は?」
「ん? いつものやつ。あたし、これいらないよ? あげよっか」
レタスとハムが挟まっているサンドイッチを取り出した。コンビ二で買ったもの。
「おいしそうだな。じゃあ、もらうわ」
俺は、サンドイッチを手に取ると、弁当を差し出す。
「ありがと。いつも」
栞にいつも頼んでいた。できるだけ、多めに弁当を作って欲しいと。成長期の身体にこんなんじゃ足りない、と。
それがいつの間にか、量が多くなってるだけじゃなくて、もう一組の割り箸まで付いてるときた。
そんなこんなで、俺はサンドイッチを齧っている。
ハムもチーズもレタスも、なんだか塩っ辛い。ああ、でも運動した後だと、こういうのがうまいんだよな、と思いながら――ふと、篤の席に目をやった。
……あの手紙が置いてある。中身が覗いている、あの手紙が。
「篤の机にモノが投げっぱなしなんて。珍しい」
「ああ、そういえば。最近ここにいないことがあるな」
「あたしは見てないよ。ねえ、砂羽は? 知ってるんじゃない?」
砂羽は、もくもくと握り飯をほおばっている。
水筒のお茶で喉を潤したなら、
「ほかの男子といっしょにいる」
静かな調子でそう告げた。
寂しそう、とはなにか違う。心配、とでもいったらいいのか。
「あー。見たことあるわ。箱田とかと一緒に話してるとこ。いつの間に仲良くなったんだろ……どうやって?」
「由香里。気になるか?」
「うん、気になる」
「……そうか。気にしない方がいい」
机の上にあった封筒から手紙を取り出した。
ササッと、三つ折りになったそれを開いたなら流し読みをする。
「あ! 渉……人の手紙、とっちゃだめ」
砂羽からの注意が入る。
「いいだろ、俺にも来てる手紙なんだから。中身はわかってる」
手紙の本文に入ったところだ。
――ほら、やっぱり。
ハ教総 第 13 号
永化3年4月 9日
児童生徒・保護者 様
ハッピーマウンテン市教育委員会(教育総務課)
辻町地域学習会について(ご案内)
平素よりハッピーマウンテン市教育行政へのご協力を賜っておりますところ、謹んで感謝申し上げます。
さて、来たる4月21日(水)に表記の学習会(中学生が対象です)を行いますので、皆さま奮ってご参加ください。当日は、各々教科担当の先生のほかに、人権問題について見識のある方をお呼びする予定です。
保護者の皆さまにおかれましては、引き続き活動へのご理解ご協力のほどお願い申し上げます。
要約しよう。隣保館で学習会があるとのこと。
手紙を破り捨てた。
「ちょっと! 渉」
「ばかじゃねえの。こんな会」
「……やりすぎだよ」
抗議の声など知らぬとばかり、俺は、
「いったい、こんなところに通ってなんの意味があるってんだ? 意味がないからクソ会だって言ってんだ」
すると、由香里が立ち塞がるようにして、
「砂羽の言うとおり、やりすぎだよ。篤はね、あの国府高校に行くのが目標なんだよ。だから、この会に参加してるの」
「とっくに昔に知ってる。この会がそれに何の関係があるっていうんだ」
「うちの先生だって、ほかの学校の先生だって、国府高校の先生だって参加するんだよ? 関係あるに決まってんじゃん」
「そんな会に行かなくても、あいつ成績いいだろ」
「成績いいだけじゃだめなんだよ。公立高校なんだから」
「……ねえ」
ここで、砂羽が割り込んでくる。
……目が笑っていない。
「ど、どうした? 砂羽」
「そんなに篤が気になるなら、今から直接聞きに行ったら? 手紙、破ったこと……謝らないといけないよね?」
「……」
所在なさげに、砂羽の目をみる。そっぽを向かれた。
が、また俺の方へと視線を戻す。かと思えば、またそっぽを向く。
「……わかったよ。行けばいいんだろ。行くよ。探しに」
すごすごと、教室から出て行く羽目になった。
* * *
「やっぱりな」
学校の敷地の端。フェンスを挟んで向こうに県道が走っている。
校舎の壁とフェンスの間に、等間隔にヒマラヤスギが立ち並んでいる。
……その一角だった。不良とおぼしき3人が篤を囲っている。さらにひとり、鵜飼尚吾も。
俺は、校舎の陰から見守っている。
「おい、黙っとらんで、今週の分を出せや」
「……」
「お~い」
箱田だった。
樹木の陰になって見えにくいが、目の前で手を振るという挑発行為をしている。
少しばかりの間が空いて、
「断る」
「ああ? なんだって?」
「こんなのは……友達でもなんでもないだろ」
離れていてもわかる。
篤の武者奮いが。それ以上に、心が震えている。
「おいおい、お前らがよおー」
別の声になった。
残りふたりのうち、どちらかだろう。
「お前らがよお、クラスの誰とも喋れないからってよお、箱田くんが不憫に思ったんだぜ? 俺らだってよ、ほかの連中と一緒で、怖くてしょうがねえんだ。でも、お前と一緒に遊んでやっただろうが」
「それは……感謝……いや、感謝とか、おかしいじゃないか。どうして一緒に遊ぶぐらいで」
「ガタガタ抜かしてんじゃねーぞ、オイッ!!」
3人目の声。篤を突き飛ばした。
「誰がてめえらなんかと、つるんだりするもんかよ。先公どもにしてもだ、普段はジンケンとかなんとか言ってるけどよ、そいつらからもロクに相手にされてないってんだからよ、お前らは。でもな、しょうがねえよな、それは。わかってんだろ。お前、あったまいいからなあ! いい加減、認めろよ。胸糞わるい。おら、分かったら、とっととお前なんかに付き合ってやった俺たちへの謝礼をよこせよ」
「……できない」
箱田が前に出てくる。
篤の胸倉を掴んだ。殴り倒そうとする。
「まあ、待てえや」
遠巻きに見ていた尚吾。ついに参戦する。
――圧倒的不衛生。ボタンをほとんど留めていない学ランに、黄ばんだワイシャツが覗いている。ズボンはよれよれで、様々なモノが付着している。
比べて、箱田は、これでもかというほどに模範的な着こなしをしている。ありとあらゆる制服の部位がピシッと際立っている。口調や振る舞いは品行方正とはかけ離れているが。
「鵜飼。悪いけど、お前には謝礼はやれん。俺たちみたく、こいつと遊んでやってないからな」
篤の顔。見えないけど、手に取るように伝わってくる。
「まあまあ、箱田よ。篤だって、もういやじゃ言うとる。これまでの分で勘弁してやったらどうじゃ。軽く2万は取ったじゃろうに」
「2万と3千円じゃ。でも、3人で割ったら1万にもならん」
「いやいや、十分じゃろ? 堪えてやり」
「……おい、鵜飼よ。お前をここに呼んだのは、一応の筋やぞ。こいつと同じ『聚落《じゅらく》』の出なんだろ。だから呼んだ」
「ワシは、厳密にはのう、その……違うんじゃけどな」
それだけ言うと、尚吾は、胸倉を掴まれている篤のところへと。
「……おい、篤よ。お前とはすぐ近所に住んどるだけで、別に友達ってわけでもないけどのお……お前の気持ちはどうなんじゃ。今払ったら、もう二度とこいつらがお前につるむことはない。ワシが保証する」
「……いやだ」
「ああっ!? どういうことだよ」
要求事項を跳ね退ける。
堪忍袋の尾が切れてしまった箱田。
「これで最後なんだとしても、今ここで、お前に金を払ったら……僕はもう、未来の自分に顔向けできそうにない。今……そうだ、今なん――」
言葉が途切れた。殴り飛ばされたから。
続いて、ほかの2人も、地面に倒れ伏した篤をひたすらに蹴りまくる。
「……」
ハア、とため息をつく尚吾。
俺は、ひたすらに眺めている。
「……」
これこそが自然! とでも言わんばかりの勢いで、篤がリンチを受けている。
胸のボタンが、またひとつ飛んだ。
俺は、ひたすらに眺めている。
「……」
攻撃は続く。篤は、うずくまって痛みに耐えるだけで精一杯の様子だ。
午前に降った雨のせいで、地面がぬかるんでいる。制服が泥だらけになっている。
俺は、ひたすらに眺めている。
「……」
早いもので、もう2分が経っている。
たった今、箱田が肘鉄をお見舞いしたところだ。
俺は、ひたすらに眺めている。
「はぁ……は、は、は、ああ! あぁ……!」
空気が変わった。
篤が、寝そべった状態からひざをついた。
顔を上げて、不良どもを睨みつける。
「は、は、はぁ……!」
これは、気のせいじゃ、ない――燃え滾るような大気を孕んだ風が、周辺を漂っている。
「オラァッ!!」
ここで、箱田による容赦ない蹴たぐりが炸裂する。
もんどり打って倒れてしまう篤。
「アブねえ。警戒しておいてよかった」
「おいおい、お前らのそれをよお、俺たちが見逃すもんかよ。お前らが能力を使う時、その印章《シンボル》とやらが出るんだろうが」
「そんなことしてるから、いつまで経っても信用されないんだよ。おら、なにしようとしてたのか言ってみやがれ!」
篤の左手首に、勾玉が付けられた腕飾りがある。俺の手首にも。
使用者免状《ライセンチア》。俺達、使用者《エッセ》が装着を義務付けられているもの。
「ごふっ!」
篤の腹を蹴り上げる不良たち。必死に堪えているのが伝わってくる。
箱田は、すぐ傍に落ちていた石片を持ち上げると、そのまま、それを――
「しにやがれッ」
振りかぶって投げた石片が、篤のどこしれぬ箇所にブチ当たった――と、箱田は認識しているだろう。
「あっ!?」
が、その石片は、今だ自分の手に握られている。
「……は? おい、おい、これ」
動揺している。
そんな様子をいぶかしんでいる2人。
尚吾は、にやついている。
「おい、待てよ」
俺は、姿を現した。
粛々とした歩みで奴らの方に近付いていく。
箱田は、俺の姿を認めると、怪訝な顔つきでもって、
「なんだよお前。見てたのか、そこで。コソコソと」
「隠れるのにちょうどいいスギの木があったから」
「そんなことはどうでもいい。そうだ、ちょっと教えてくれよ。さっきこいつは、どんな能力を使おうとしてたんだ?」
「……それこそどうでもいいし、篤はもらっていく」
「だめだ! それとも、お前がこいつの代わりに1万払うってのか!」
なぜだろう。心が涼しくなった。
次の言葉が勝手に浮かんでくる。
「払うわけねーだろッ、ボケッ!」
箱田に突っ込んでいく。
その後ろでは、尚吾が変わらずにやついている。
「ぶっ殺してやるっ!」
箱田は、その拳をまっすぐに振り抜いた。
それは、俺の顔面を捉えている。捉えていた。
「……?」
拳を振り抜いたはずの箱田。が、当たっていない。
ほかの不良らも、呆然としている。
「今度こそ」とばかり、突きに、蹴りに、掴みかかりを繰り返す箱田だったが、ただの1回すらも命中することはない。
「ああッ! なんでだ、おい……あがぁっ!」
ローキックを命中させてやった。パァンッ! という小気味のよい音がする。
すかさず、距離をとった。
「やりやがったな、だが次は逃がさねえ。ボコボコにする」
「……もう、お前立てないぜ」
「ああ!? ほざいて……ろ……?」
心の声が手に取るようにわかる。
動かない足。崩れ落ちようとする膝。手に力が入らない。これはいったい、どういうことなんだ――!?
とでも、思ってるんだろう。
……容赦はしない。ステップの踏み出しは左足から。間合いを計りつつ、2歩目、3歩目、箱田のすぐ間際へと接地した。
今、俺の左手がこいつの右袖を、右手が同じく鎖骨のあたりを掴んだところ。両手を連動させて、真後ろの方向へとこいつの体勢を崩してやったときには、すでに俺の右足が振り上げられている――敵のふくらはぎを目がけて振り下ろされる、一閃――
「だりゃあッ!!」
一本、それまでッ!!
という審判のコールでも聞こえてきそうな勢いとともに、箱田が首から地面に落下する――大外刈り、炸裂。
「が、ああぁ……!」
悶絶。力なく地面を転がり、うつ伏せになってしまう。
「どういうことだ……? おい、箱田っ!」
「なんでこんなに動きが鈍い?」
心配の声が伝播する。
俺は、気にも留めず、倒れている箱田に近寄っていく。
「お、おい、道ノ上、お前ッ! 概念力《ノーション》を使ってるだろ、おい、おいぃ!! お前ら使用者《エッセ》は、使用者《エッセ》は……!」
「印章《シンボル》、出てないだろ。一切。だから、これはただのケンカ。なんのお咎めもない」
「うそを――」
グジャアッ!
箱田の顎に、スニーカーのつま先がクリーンヒットした。音もなく、その場に横倒しになってしまう。
さらに、もう一発ッ! 今度は、鼻っ柱にサッカーボールキックをお見舞いしてやったっ! 何度も何度も、地面を転がる羽目になる。
さて、そろそろ。頃合いじゃないか?
「おい、箱田。どうした。立てよ」
「……」
ブルブルと震えている。
戦意喪失、といったところか。
「最後にその腕、叩き折ってやるよ」
こいつの片腕を背後から掴んで持ち上げたなら、右足を肩甲骨へと押し当てる。
もう少しか? ……そう、そうだ。この角度。ここだったら、上腕骨を関節から剥がしてやれる。
「……折れろ」
「そこまでじゃ! 渉」
「うおっ!」
尚吾による体当たり。危うく転びそうになった。
ケンケンの後、なんとか体勢を立て直す。
「……尚吾。なにすんだよ」
「邪魔して悪かったのう。でもな、ほんまに折るつもりだったんじゃろ? 一般人相手に概念力《ノーション》なんか使うて、ただのケンカにしたって、こりゃあひでえ」
「……」
尚吾から視線を離す。
不良どもの方を見た。
ふたりとも、俺が見ていることに気が付いたようだ……。
「あ、あああああああああぁぁっ!!」
「……!」
ひとりは絶叫を。もうひとりは、絶望のあまり声を上げられずにいる。
「おい、どうしたお前らっ! 大丈夫かっ」
尚吾の足もとにすがる不良どもの姿があった。
「目が、目が見えないんだよッ!」
顔面蒼白。
まさに、この一言がふさわしい。
ふたりとも、尚吾の足もとで蹲っている。
「渉! そろそろ……やめてやれ」
「……チッ」
概念力《ノーション》を解いた。
ふたりとも、我に返ったように肩で息をしている。
「尚吾。俺、なんにもしてないけど」
「……ゴジョーダンを」
箱田たち3人を見下ろせるところまで歩いてゆく。
「……おい、お前ら」
「あ、ああ……うわあああああああああああああああッ!!」
退散しようとする。
が、足元がおぼつかず、ろくに立ち上がれもしない。
「尚吾、悪いな。お前がいなかったら、俺、あいつの後は、あのふたりもグチャグチャにして、それから……」
「もうええ」
尚吾が、俺の肩をフワッと抱きしめる。
「もうええ、もうええ」
そして、耳元で呟くのだった。
「……でも、渉。お前、概念力《ノーション》使っとったじゃろ」
「誰にも言うなよ」
「わかっとる。それに、あいつらも面子が丸つぶれになるけえの。先公どもには言わんじゃろう」
* * *
「……」
「道ノ上くん、どうしてこんなことをしたの? 人として間違ってるって、わかるよね? 誰だって、殴られたり蹴られたりしたら痛いよね?」
職員室。
俺はいま、担任である和田先生による詰問を受けている。
あの直後だった。ごく普通に、現場を押さえられてしまった。
「別に」
「別に、では済まないのよ? あなたは暴力をふるったの」
「あいつらだって」
「道ノ上くん。今はあの子たちは関係ないの」
「和田先生。あいつら、篤から金を取ろうとしてた。いじめ、いや違う、いじめなんて言葉でごまかしていいものじゃない。犯罪じゃないかよ。俺は、それを止めようとした……だけなんだ……それに」
「……いいのよ? 道ノ上くん。なにかあるなら言ってみて?」
「あいつら、普段は先生たちのこと馬鹿にしてるくせに、いざとなったら被害者面して、助けを求めて……恥ずかしくないのかよ」
「……道ノ上くん。どんな理由があっても、悪いことは悪いことなの。必ず見つかるのよ。空の上からお天道さまが見ているから。そういうものなの。だから、どれだけ隠そうとしても見つかるし、罰があたる」
「……」
歯軋りを隠せない。
ギリ、ギリリッ、という音が漏れている。
「伝え方が悪かったわ。あなたのことを咎めてるんじゃない。あの子たちが神部くんからお金を取ってること、先生、気が付いてたよ。だから、さっきだって、君たちがあそこから居なくなる前に、先生たち辿り着いたよね。間に合ったよね。『なにをしてるの』って、怒鳴っちゃったよね」
「……すいません、でした」
「もうしない?」
「それは……」
ガタガタ……ガタンッ!
衝撃音。
職員室の扉があまりに勢いよく開かれたことによる。
凄まじい剣幕とともに由香里が入ってくた。近づいてくる。
「馬鹿ッ!!」
俺の頬面を、張り飛ばした手のひら。
……頬に血の感覚が滲む。
「ねえ……どうして……?」
力なく、俺の両肩を掴んで吐息を漏らす。
「どうして、いつもそんなんなの? だから、わたしたち、いつまで経っても溶け込めないんじゃない! もう……3年目なんだよ? ここにきてから」
「悪い」
「悪い、じゃないわよ……あやうく、本気で殴るところだった」
『お前の本気で殴られたら、あの山の向こうまで飛んでいってる』
言いかけて、思い留まる。
職員室は、静かなような、騒がしいような――教育委員会、という言葉が聞こえた。
「……」
その拳が、肩口を、トンと叩く。
由香里と視線が交わった。
「いい? 合わせて。何も言わなくていいから」
「……」
由香里が、この光景を眺めている教職員の方を向く。
「この度は、ご迷惑をかけました。謝罪します」
90度の立礼。静まる、職員室。
「ごまかしません。こちらの道ノ上渉は、特殊概念能力、いわゆる概念力《ノーション》を使いました。神部篤くんも使おうとしました。不安と不信を与えてしまったことを反省し、二度とこのようなことをしないと誓います」
職員室は、静かだ。
「だから、だから、もう一度だけ、もう……一度……だけ」
泣き出してしまう。和田先生が止めに入る。
「もういいのよ! 汐町さん。あなたは……もう、十分だから」
抱きすくめるとともに、和田先生は、職員室全体をぐるっと見渡して、
「……聞いてください。ご承知のとおり、この子たちは保護者の懸命な判断により……」
それからも話は続いたが、てんで聞き取れなかった。
目覚めたまま、意識は、ただひたすらに落ちていく。ひたすらに、闇へと。
ああ、いやだ。こんな感情、もういやだ。こんな気持ちにならないためだったら、なんだって、どんなことだってやってやる。やってやるよ――この気持ちは、確信だった。
(第1話、終)
次回以降は、基本的に1話平均3000字~5000字です。