頑強に張り巡らしてある鉄条網。昨日は、無理やりに通ってしまった。
いま俺は、それらの鉄線に絡み付いているであろう血の跡――を、高台から見下ろしている。
「まさか、こんな普通に通れるなんて……」
昨日のあの道とは違う方角、およそ百平米ほどの溜め池を挟んで向かい側に、花見客向けの駐車場がある。
俺たちの家からさほど離れていない其処に、コンクリート造りの階段があった。昇っていくと、薄暗い山奥へと続く道があるではないか。
普段の往来がないためだろう。コンクリートで作ってはあるものの、隙間という隙間からツタやツルが生い茂っていた。
そんな道を、どんどんと進んでいったなら――八幡神社の前に出てしまった。けっこうなショートカットだ。
「どうしてこんな道を知ってるんだ」
「そりゃ、あたしだって使用者《エッセ》だもの。去年、全国制覇を成し遂げたばかりの聚落《じゅらく》に興味ないはずないじゃない」
「……」
昨日とはうってかわって、爽やかな森林地帯だった。
まだ青々とした葉をつけたもみじの樹が一面に広がっている。秋になれば、上品に燃え上がった景色に目を奪われるに違いない。
木漏れ日を見上げる。生い茂った樹木を通り過ぎた光が白く輝いている。眩しくはなかった。ほんのりと暖かい。
「由香里、もうすぐだ。あそこの神社」
「あの子が吊り下げられてたっていう?」
「そうだ。今もいるかな」
本殿に続く石段を駆け上がる。
昇り切る前に、深呼吸。敵の気配を勘ぐる。よし、いない。
「ほのかっ!」
いなかった。誰も。
「……」
「あれ、見て。地面」
血。血でできた水溜りの跡がある。
「ひどいことするわね……でも、許してもらえたのかしら」
「……いや。わからない。もっとひどい目に遭ってるのかも」
かぶりを振った。
奥歯を噛み締める。ギリリ、と音がする。
「由香里の感覚だと、あとどれくらいで頂上だと思う」
「……2時間くらい? 道、まっすぐってわけじゃないんでしょ。たぶん」
山頂へと視線をやる。
「……由香里。俺、決めたよ。今。あいつを助けたい。ほのかさんに惨いことをした連中に一泡吹かせてやる」
「目的、変わっちゃってるじゃない……ま、あたしはいいけど」
……どうして、『あたしはいい』んだろう? どうして、こんなことに付き合ってくれるんだろう。俺には、てんで分からなかった。
こんなことに付き合わせたくない、でも、一緒に居て欲しい。矛盾した気持ちを抱えているだけで精一杯だった。
「よし! ぜったい登り切ってやる」
「あらら~! なんにも知らない人間が」
――気配。敵か?
由香里の手を取った。本殿の傍へと寄っていく。
「そこなら攻撃を受けないって? まったく浅知恵だね」
「てゆーか、きみ。朝令暮改にもほどがあるよ? 昨日、入口でさ。彦一にさ、俺たちの仲間になりたいって言ってなかった?」
3人。いつの間にか、3人に囲まれている。
飄々とした調子で歩いてくる。なぜだろう、歩行の音がほとんど聞こえてこない。
「どうして、ほのかにあんなひどいことをした」
「口の利き方に気をつけろ。なにもわかっておらん子どもがっ!」
4人になった。
こいつは、ほかの3人と比べてガタイがある。成人のようだ、髭を蓄えている。
みな、似たような服装だった。紺色の、作務衣のような装いに身を包んでいる。下袴が膝までのズボンになっている。
「お前、うちに入団したいそうだな」
「……」
「嘘、だな。ついでに言っておこうか、ほのか様を助けたいというのも嘘だ」
「違う!」
「違わない。さて、そういうわけで我らは戦わねばならん……次は、ごみ捨て場ではなく、あの世に送ってやる」
バサッ! 由香里がカバンを投げ捨てる。
お互いの背をつけるようにして、敵集団と対峙する。俺の方には大柄の男が。由香里の方には残る3人が。
背中越しに、触れ合った指先を押し合う。この場を離れる瞬間の合図を送ろうとしている――今だッ! 戦いの火ぶたが切って落とされた。
「……いくぞっ」
俺が走り出すと、男がファイティングポーズを取った。
「く……目が見えんッ!」
いつもどおりの手。
男の胸襟を掴んで、大外刈りで投げ飛ばそうとする――
「うわっ!?」
たやすくかわされる。
差し出された男の足に蹴つまずいてしまう。
「クソッ!」
「お前の技術《アーツ》は把握している。強力だが、あまりに単純だ。ほかの誰かからも、こうやって避けられたことがあるんじゃないか」
図星。
「わかるのだ。印章《シンボル》の感じで、おおよその位置が。彦一も、史朗も、いったい、どうやってこいつに負けたというんだ? 福山も苦戦したという。わからん」
言い終えるやいなや、男が突進をしてくる。
「……速いッ!」
『走り始めた』と思ったら、もう目の前にいる。
「フンッ!」
中段からのアッパーカット。
大振り過ぎる。後ろに跳んでかわせ――なかった。
「がはっ!」
人間の速度じゃない。
背後に回られ、拳骨を打たれてしまった。直撃のようだ、背骨に痛みが走る。
「……!」
もんどり打って倒れた。勢いを味方につけて、地面をゴロゴロと転がっていく――なんとか、体勢を整えることに成功する。
「遅いっ!」
背後を取られている。なんなんだ? このスピードは。
「おらよっ!」
「うっ!」
拳が振り下ろされる直前に、乾いた地面を蹴り上げ、敵人の眼に砂利をぶつける。
走り込むようにして後退した。今度は大丈夫だ、追ってこない。
「おいあんた! こっそりと魔法強化《バフ》を唱えてるだろ! それでも大人かよ」
「別に卑怯なことではない。が、これならば……少しは卑怯かもしれぬ」
目の前に、人差し指を出してくる。
「俺は人刺し指と呼ばれている。どうしてか、わかるか」
俺は、反射的に腰を落とし、防御の構えをとる。
「……来る」
男の指がこちらを向いた。
横っ飛びに走り出し、一番大きな杉の木に身を隠す。
「パワーリデュース」
「クリティカルリデュース」
「ヘイストリデュース」
詠唱が聞こえるやいなや、冷や汗をかいた。
大事な力が失われていく感じがする。
「くそ、弱化魔法《デバフ》か……あがっ」
痺れがきた。動けない。
刻一刻と、近付いてくる敵人。
心臓が早鐘を打つ。
「出て行ってやるよっ!」
大声で叫んだ。
「……どうした、はったりか。出てきてみろ」
万事休す。
……自ら大樹の蔭から出ていった。敵人は、一気に距離を詰めようとする。
今できるのは、敵を見据えること。そして――
「なんだ……これはっ!?」
「どうだ、気持ち悪いだろ」
こちらに辿り着くまでもなく、立ち止まってしまう。
「なるほど。感覚であればなんでも無くせるのだな。見事だ、空気の流れすら感じることができん」
「そういうことだ!」
逡巡している男を尻目に、身構える。
睨み合いが続いた。そして――
「おおおおおおおおおっ!!」
男が動き出した。
俺も走り出そうとする。走り出せない。
「くそ、動けっ」
弱化魔法《デバフ》が効いているようだ。ふらふらとではあるが、身構える。
頼むぞ、頼むぞ、頼むぞ――
距離が詰まりつつある。さて、相手の動きは?
……上段からの右ストレート。勝ったッ!
「ッ!」
脱力することで、上段からの一撃を回避する。が、尻もちをついてしまう。
「フンッ!」
連続する形で繰り出された前蹴りに合わせ、なけなしの力を振り絞って、敵人が蹴り出した足へとパンチを食らわせる――拳骨と布とが擦れ合う音とともに、力負けして飛ばされてしまう。
「ははは。まだまだだった……な……?」
男の顔つきは、余裕から一転、
「がああああああああああああああああッ!!」
「どうだ、痛くってしょうがないだろ……ああ、その顔だよ、その顔。今さら気が付きましたっていう」
「あ、が、あああああぁ……!」
コムシのように細くなっていく声。しゃがれも加わっている――やがて、泡を吹いて気を失ってしまった。
「1万倍以上の痛みはやりすぎたかな。さ、自称人刺し指さんを片付けたところで」
後ろを振り向いた。
「!」
『由香里』と声を掛けそうになってしまう。
……防戦一方だった。3人組から一方的な攻撃を受け続けている。
ひとりは、地面から植物のツタを吹き出して、由香里の足を止めようとしている。
もうひとりは、炎熱を帯びた刀剣のようなものを振り回し、次第次第に追い詰める。飛び散った炎が制服につきそうになったのを由香里が払い除ける。
最後のひとりは、水の蛇を作り出し、上空から由香里に狙いをつける。水は、すぐ近くにある手洗い場から噴き出していた。時を経るごとに、水の蛇は大きくなっていく。
炎熱の刃が前方からの攻めなら、水蛇は背後からの攻めにあたる。
いずれにしても、危うい状況に違いない。
「いや、やっぱりおかしい!」
なにか。なにかがおかしい。
血が滾ってこない。これはいったい?
――殺気。そうだ、殺気があまりに少ないんだ。
「いや、確かに3対1で戦っている」
「……くッ!」
ついに。
ツタによって捕縛されてしまう。
地面の穴という穴から、薄緑色のツタが生え伸びている。そのうちの1本が太股に絡み付いたところだ。
「捕まえたッ!」
「さて、逃がさないよ」
「残りの男も片付けてやるよ」
じりじりと近付いてくる3人。
俺は、おもむろに目をこすった。まだ昇り切っていない太陽に目をやる。八幡神社の境内をじりじりと照らしている。
再び、目の前にいる男たちへと。
「……」
ほっ、と胸を撫でおろす。
視線を戻した。植物を操っている者以外のふたりの攻撃が迫っている。
由香里は、動かない。動こうとすらしない。
そして、ついに――
「ばかな……」
敵の攻撃は、当たっていない。当たりようがない。すべて、すり抜けてしまっている。
「……タービュランスッ!」
一瞬だった。
絡み付いたツタを引きちぎった由香里という物理的存在が、瞬きの速度で敵人との解をもった。
――鉄拳。その一撃がぶつかった途端に、何十メートルも弾き飛ばされ、山の斜面へと転がり落ちていく。見えなくなった。
俺は、手を振りながら駆け寄っていく。
「やるじゃん」
「本気でやったら市街地まで吹っ飛んでるところよ」
俺は、手洗い場の蛇口を止めにいく。地面から生え伸びるツタが萎れていくのを眺めつつ。
由香里は、カバンを拾い上げて、山頂へと至る道に行こうとしていた。追いかける。
「なあ、由香里。いつ気が付いたんだ?」
「幻覚なのは、最初からわかってた。だって影がないもの」
鼻を掻いた。
「敵の狙いは、なんだったんだろう」
「精神系の技術《アーツ》なんでしょ? 相手を完全にビビらせて、それから色々とやるつもりだったんじゃない」
……それから俺達は、山頂を目指して、ひたすらに登っていった。
ただただ、続いていく山道。常に人が歩いているんだろう、歩道は綺麗だった。うららかな陽気とともに呼吸をする草花を眺めつつ、昔いた山野辺という聚落《じゅらく》のことを思い出そうとした。
でも、やめた。はっきりいって、ロクな思い出がないから。そんなこと、思い出す前からわかっている。
……いつからか会話が途切れてしまっていた。話しかけてもよさそうな雰囲気であることを確かめたなら、
「なあ、由香里はさ、どうして一緒についてきてくれるんだ。言っただろ、俺、国府の森《こうふのもり》で暮らしたいんだ。出来るなら、あっちの偉い人と話をして了承をもらいたい、って思ってる」
「ほのかちゃんはどうするの? どちらか一方しか取れなかったらどうするの? てゆうか、どっちも取れない可能性だってあるよ? ま、その時はあたしたち、死んでるんだろうけど」
「ほのかさんだって、なにも命まで取られることはないだろ。ただ、罪……を減刑してもらえればそれでいい。それで、実力があるところを見せつけて、仲間に加えてもらうんだ」
「……ハア」
由香里がため息を吐いた。
「どうして、暮らしたいの?」
口を開こうとする。思い留まる。
……今の俺に何も言えるはずがなかった。
「由香里には言えない」
「なんで?」
「……どうしてもだ」
「だから、なんで?」
「どうしても」
「だ、か、ら~! なんで? なんでなの? あたしたち、ずっと一緒だったじゃん!」
「由香里にだから言えないんだ。篤や砂羽にだったら……言え……ない。やっぱり」
「なんなの!? バカッ!」
そこらに落ちている石を蹴っ飛ばした。
由香里の癖だ。気に入らないことがあると、すぐに何かを蹴っ飛ばす。いつも見ている素振りのはずなのに、久しぶりの印象を受けた。
「……」
「……」
沈黙とともに、山頂を目指しての歩みが続く。
「逃げたいんだ。俺」
「へえ、そうなの」
「そうだ。逃げたい。それが理由じゃだめか」
「だめじゃないよ。否定しない」
「逃げてもいいのか?」
「いいよ。だって、あの渉がだよ? 逃げたい、なんて。あたしがそんな目に遭ったら、たぶん死んじゃう。弱いから」
「冗談だろ。お前は強い」
「……ううん。たぶん、渉の方が強いよ。あ……ちょっと待って」
森の奥を見据えている。俺も、いま気が付いた。
……いた。ひとり、ふたり。もっといる? いや、ふたりだけだ。
「……」
「……」
――言葉は不要。
黒ずくめの被り物に身を包んだふたりが走り込んでくる。手元が光った。刃物を握っている。
「いくわよっ」
「おうっ!」