「へえ、ここが」
「どうだ、狭苦しいだろう」
「なに言ってんだ、部屋が4つもあるじゃん。俺の家より広い」
「はは、謙遜はよせよ……って冗談にもならないな。すまん」
家が狭いだの広いだの、どうでもいいことだ。
俺はいま、集の家にいる。国道に面したマンションの11階、その一室。
「これが……公務員試験の問題集?」
パラパラとめくってみる。
……図表なんかが並んでいたり、何本も数直線が引いてあったり、クソ長い文章題だったり。
とにかく、ちんぷんかんぷんだ。
「これ、何点くらい取ったらいいんだ」
「70点も取れば一次試験は通過できる」
「70点で?」
「世の中、大抵の試験は60点少々を合格ラインに定めている。公務員試験も例外じゃない。ただ」
「……ただ?」
集は、キッチンに向かいながら、
「公務員には頭の回転の早さが求められる。その問題集に載ってるやつを、1問につき3分ちょいで回答できなければ合格は難しい」
「あー。なんか、もう……なあ、集。俺、どうやったら採用されると思う? 公務員試験なんて、俺には難関過ぎてさ」
「焦るなよ。ほら」
髪の毛を掻きむしっていると、集がお盆に載せたコーヒーを持ってくる。
「まあ飲め」
「ありがと」
ズズズ……コーヒーを啜った。
苦い。
「にっげえよ、集!」
「おいおい、高い奴なんだぞ」
「あー、あー、にげえよ、にがい。口を洗わせてくれ」
その場で起立をすると、ふらふらとダイニングの中をさまよい歩く。
『……もうちょっとか?』
心の声に留めるはずが、呟いてしまう。
「おおっと! ストッピング!」
ふらついていた身体が、抱き竦められてしまう。
「ちょっと待ってろ。ジュース用意してやるから」
元の場所に座らされてしまった。
「ジュースって、どんなやつ?」
集は、カーテンレールで仕切られた先にあるキッチンへと。
カーテンは、半分以上が開いていた。
冷蔵庫とやらがある。俺の家では見たことがない。
「好きなのを選べ」
俺も、リビングからキッチンに移動する。
ドカッ。その間を仕切るカーテンに肩がぶつかってしまう。
……中途半端に閉じられたカーテンのせいで、冷蔵庫のあたりが暗い。
「……どれどれ」
冷蔵庫を覗く。
「……あー、ごめん。俺さ、炭酸、飲めないんだ」
「そうだっけ?」
「ごめん」
「謝るなって。歩いていける距離にコンビニがある」
集は、それだけ言うと、玄関の方へと。
「じゃ、欲しい参考書選んどけよ」
出て行った。
扉が閉まろうとする――よし、閉まった。
恐る恐る、玄関へと近付く。
「よし、いない」
廊下を進んで、さっき居たリビングに入る直前で立ち止まる。
……このサッシの向こうがリビング。リビングとキッチンは、カーテンを挟んでひと繋がりの部屋になっている。
右手に進んだなら、トイレと浴室、最奥には集の部屋がある。
「トイレは見た。浴室も見た。となると……」
集の部屋へと歩いていく。
ハンカチを握った状態で、ドアノブに触る。
「……」
……開いた。見たところ、変わった点はない。
左奥にベッド、右の方には書斎、事務机、洋服箪笥などなど。
……目を閉じて、息を吸い込んだ。吐き出す、言霊は。
「デモンズ・トレード」
気持ちを高めつつ、呟いた。
「手に入れるのは――真実」
発動させたはいいものの、目を開けることができない。
もし、もし。この部屋に。もし……!
「……ごふっ!」
勢い、ハンカチを口に当てる。
吐血だった。このくらいの代償は、もう慣れてしまった。
肺のあたりと、瞼の裏側がめちゃくちゃに痛い……無理もない。今日、これで3回目だからな。
1回目は、集の家に入った直後。集の目を盗んでリビングで。2回目は、浴室兼トイレで。
「こりゃ、もう、だめかな」
フラフラとしながら廊下を進んだ。
「……あれは!」
まだ調べていないところがあった。
廊下の壁面に備えてある押入れだ。こんなにオシャレな収納庫、生まれてこのかた見たことがない。
「デモンズ・トレードの効力は、まだ残ってるな……よし」
心臓がバクバクいっている。一歩、また一歩と。
ギギイィ……玄関の方から音がする。
「……待て、落ち着け」
蝶つがいの建て付けでも悪いのだろうか?
ええい、気にしている余裕なんかない。ぼうっとする頭に、渇を入れたなら――
バタンッ! 物置を開けた。
「……なにもない。すっからかん……だ……はあ」
力なく、手を下げる。
とぼとぼと、廊下を進んでリビングに帰った。スライド扉は開いている。サッシをまたいで、中へと。
正面には、窓ガラスが見える。ここは相当な高さだ、家賃も高いのかな。
コタツ机。その上に広がる公務員試験の参考書がたくさん。テレビのリモコンと、コーヒーカップがふたつ置いてある。カーペットの色はベージュ、落ち着いた色合いだ。しかも暖かい。高いんだろうな。
おもむろに、机の上にあるリモコンを手に取る。
「……使い方がわからん」
カーペットに放り投げた。キッチンの方に歩き出す。
冷蔵庫に向かっている。炭酸が飲みたくなったから。
本当は、炭酸飲料が大好きだ。砂糖がたっぷりと入っているであろう。
リビングとキッチンとを仕切っているのは、半分ほどが開け放たれたカーテン。
「ああ、このカーテン。さっきもぶつかりやがって」
右の奥にある冷蔵庫へと歩を進めるため、カーテンを右いっぱいに、開け放った――
由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。由香里。
……由香里がいた。服を着ていない。生まれたままの姿。
「……え?」
手の震えが止まらない。手だけじゃない、足元だって――それに心臓も。
「……え? なんでだ、由香里? なんで……片脚が無いんだ?」
「え? え? なんで?」
「おかしいだろ、なんで。なんで、そんな穏やかな顔で」
「由香里、ああ、なんだ、生きてる? そっか、そうだよな。ああ、」
「……見たな? 渉」
「うあああああああああああああああああああああああッ!!!」
振り返ると、集がいた。スポーツドリンクを携えている。
「ああ、これな。コンビニに行かなくても、エントランスの自動販売機で売ってるんだ」
笑顔だった。
『ああ、ありがとう。それ、もらうよ』
この期に及んで、そんなことを言おうとしていた。言わなきゃならないのは、もっと別のことだろう。
心臓の高鳴り。この動悸、この圧迫、この緊張。
でも、この一歩を踏み出さなきゃ、たとえ死んだ後だって後悔する……に違いない。
「……集。どうして、こんなことをしたんだ」
「ああ、それのこと?」
「……どうして、片脚が無いんだ?」
「ああ、右脚? 美味しかったよ」
「……わからないな。なんでそう、平然と答えられる?」
「だって、俺、人間じゃないし。人間の肉が好きなの」
いつもと変わらない。あまりにも変わらない。
必然、込み上げてくる感情。
「どうして食ったんだよッ!!」
「あー。経緯から行こうか、結論から行こうか。どっちがいい」
身体が動く方が早かった。
――突進。最速で、最短のアプローチで組み手を奪う。
引き手ッ! 釣り手ッ! 柔道の構えが成った。
両手の連動によって体幹を揺さぶりつつ、この振りあがった右足がまっすぐ、集の膝裏へと――ぶち当たったッ!
「……え?」
「いや、そんなんで俺が倒れるわけないじゃん」
「……ごぷっ」
抜き手が、左肺を刺し貫いていた。
『ああ、穴が開いてるんだな』と直感しつつ、カーペットに倒れ伏してしまった。
「さて。それじゃあ、話しやすい順番でいくな。①渉くんがさ、今年の4月中頃に傷害事件を起こしたよな? ②けれども、渉くんの指導を進んだやりたいという教師はひとりもいなかった、③とーぜん、同じ使用者《エッセ》である俺にお鉢が回ってくるよな、④しかしながら、渉くんがさ、思ったよりもはるかに面白い奴だった……ここまではいいか?」
頭に入れようとしても、入らない。
血が、ドバドバと流れ出ている。
「聞き終わる前に死にそうだな。よし、飛ばしていこう……⑤そんな時、気が付いた。渉くんがさ、由香里ちゃんのこと好きなんだって。文化会館の時だ。それで、いろいろと画策して……今、この時を迎えたというわけ」
「……それ……で……結局は……なんなんだよ」
「わからないか? なんとなくでも。渉くんがさ、せっかくと俺のことを信頼してくれてるわけじゃない。それでさ、渉くんが大好きな、人生にとっての太陽である由香里ちゃんをさ、俺のものにしてさ、初めてのキスから、初めてのセックスから、殺害する権利から、血肉を食べる権利から、なにからなにまで、こうやって奪い取った後でさ、打ち明けるのは……おもしろい、ということにならないか?」
「……」
涙が溢れてきた。
目から溢れて、頬を伝って、カーペットに落ちて。
「というわけで、俺はお前に嘘をついていた。ひとつ。文化会館まつりの時、スタッフの動員依頼をかけただろ? あれ、嘘。普通に考えて、中学生なんか動員するわけねーだろ。由香里ちゃんの性格を把握したかったから。ふたつ。文化会館の4階が襲われた時、俺は負傷者を優先して助けたろう。あれ、嘘。負傷者なんかいない。俺が幻影で作った。お前らが使用者《エッセ》として、どの程度の腕前なのか興味があったから。お前らが本当に死にそうになったら、あのデカイ奴は即座にブチ殺してたろうな。みっつ。渉くんが高森さんと戦った日だけど、あいつの召喚獣を破るのに手こずったって言ったよな。あれも嘘。わざとギリギリになって参戦した。渉くんさ、なんか能力隠し持ってるよなーって思ってたら、まさかあんな化け物じみた技術《アーツ》だったとは。よっつ。渉くんさ、俺が由香里ちゃんの家の玄関前で、そういうことしてるの見たよな。由香里ちゃんさ、俺にメロメロになってたよな。あれ、嘘。実は、何度も会ってるうちに、少しずつ催眠を上塗りしてたんだ。そんなわけで、俺と由香里ちゃんは、5月5日、あの文化会館まつりが終わった日の夜、初めてのラブラブセックスと相成ったわけだ。いや、なにが言いたいかって、こどもの日にこども作ってんじゃねーよって話。いや、すごかったね、布団の上の由香里ちゃんは。ちょっとばかし、しこりのある乳房。でもさ、重みがあって、それがまたいいんだ……いや、ハタから見ればイチャラブセックスだったよ。動画サイトにもアップしたけど、すげえ高評価だったし。いや、でもさ、由香里ちゃんが俺に惚れてたわけじゃない。あくまで催眠。本人は、むしろ俺のことが大嫌いときてる。ここ、大事な部分。1回さ、セックスしてる時に催眠を解いたことがあるんだけどさ、そりゃあもう、スゴイ反応だったね。俺、感動して涙が出てしまった」
……歯軋りをしていた。
話の内容は、ほとんど耳に入ってこない。俺はただ、こいつが、こいつが――!
最後の力を振り絞って、立ち上がる。膝が震えている。
「最後、いつつめ。先週、喬木と戦った時、俺、はっきりいって苦戦してたよな。あれも嘘。やろうと思えば、1分程度でブチ殺せたよ」
「……もう、話は終わりか?」
「ああ、終わり。どうだ、なにか感想でも」
――《幻 想 変 換《デモンズ・トレード》》――
「おぉ、面白いッ! さあて、なにをやるつもりだっ?」
心は、決まっている。
「手に入れるのは――俺の本心ッ! 俺の本当の気持ちが知りたいッ!」
「へえ、面白いね。聞かせてくれよ」
「……代償は……」
集の目を見つめる。涙が溢れてきた。
「代償は……お前だ。三良坂集」
「……え?」
見えない、けれども確かな物理的綻びが――集の身体に幾筋も走った。
綻びのラインは、やがて真っ赤に変わって、そして、
ブチブチブチブチイィッ!!
「ぎゃあ゛あああああああああああああああーーーーーッ!!」
ズタズタに引き裂かれ、バラバラに砕け散っていく男を一瞥する。
「あ、が、やめ、や、やめてくれええええええええええええええええええええええッ!!」
集の叫び声を聴いている。
涙が……溢れてきた。そのまま、床面に倒れ伏す。
「あ、あ……由香里、由香里」
這いずり回る。距離が詰まっていく。
……やっとだ、やっと辿り着いた。由香里を見る。
「あ、これ……死んでるんだ」
由香里が死んでいること。今、初めて確信した。
表情だけを見ると、ただ眠っているようにしか感じられない。
けど、存在しているんだ。生者と死者の境目が。今ここに。
「……」
頬に触った。
「……由香里。俺さ、ずっと……お前になりたかった」
頬を撫でた。
「すげえよな。あんなに、毎朝びしっと挨拶決めてさ。無視されるって、わかってるのに」
手がずり落ちた。
「あと、俺。国府の森《こうふのもり》に入りたい、って言ってたじゃん。嘘なんだ、あれ。本当は、死にたかったんだ……進学とかさ、就職とかさ、色々と進路があるじゃん。だったらさ、その中にさ、自殺、っていう進路があってもいいんじゃないかって。そう考えたんだよ……でも、なんだかんだで、俺に付き合ってくれたよな」
もう開くことはない瞳を見つめる。
「……ごめん。ごめんな、由香里」
由香里だったものに触れようとする。
力が入らない。
「ごぷっ……!」
やっぱり。左の肺に大穴が開いてる。
「あ、あ……」
さよなら、由香里。
「あー、痛かった。死ぬかと思った」
「うそ……だろ……」
生きている。振り向かずともわかる。ごく当たり前に、その場に立っている。
「残念。俺はお前の大事なものじゃなかったみたいだ」
「う……」
冷蔵庫の扉に映った、集の身体。まだ、左半身が戻っていない。
けれど、みるみるうちに、肉体だったものの束が集まっていき――
俺は、目を……閉じた。
「……」
「さーて、それじゃあ、終わりにするか」
「……」
「ん、どーした? まあ、無理もないか。絶望しまくってるよな」
「……」
集が攻撃をしてこないのは……俺を恐れているからだ。
そうだ。集は、いま死にかけた。万全でない状況で攻撃を仕掛けることはないと考えていい。
少しだけど、時間はある。
「おいおい、渉くん。無視はやめようよ」
「……」
なにをすればいい? いや、なにをするべきだ? 俺は、なにがしたい? なにをやりたい?
――それがないんなら、この場で死ぬべきだ。
「冷たいね。死線をくぐった仲じゃん、俺達」
「……」
罪。今、思いついたばかりの、罪。
「じゃ、そろそろいこう」
目を……見開いた。
冷蔵庫に映った影。左手が変形し、水晶色の鋭利な物体と化している。
「……なあ、集」
「……どうした? 渉」
「ありがとう」
「……なにが?」
――《幻 想 変 換《デモンズ・トレード》》――
「俺の願いを叶えてくれて……しかも、ふたつ」
「チッ」
斬突が飛んでくる。
その刃は、俺の心臓をまっすぐに刺し貫いた。
――でも、俺は生きている。だって、俺の身体は、もうこの世にはないから。
剣は、虚しく宙にあるばかり。
「手に入れるのは……由香里」
「……嘘だろ」
「代償は――俺の命」
「……ははっ」
理屈じゃない。なにが起こっている?
細かな粒子と化した渉の身体が……由香里ちゃんの中に入っていくだとッ!?
……ひとつになろうとする肉体。
頭、首、胸、胴体、手足、指――ふたりの身体が混ざり合ってゆく。
「……」
欠けていた右脚が、凄まじい速度で生まれ変わりつつある。肉体の張りも瑞々しさを取り戻す。
ありとあらゆる死が、生へと変換されつつあった。
「……笑うしかねーだろ、こんなん」
そして、再構成を終えた体、その目が――ゆっくりと、見開いた。
「……」
仰向けの姿勢から、だるそうに身体を起こす。
床に指を立てて、膝を曲げる。
すっくと立ち上がったその肉体は、紛れもない――汐町由香里のもの。
「これが、由香里の……からだ」
周りを見渡している。
「……」
名状しがたい表情、としか言いようがなかった。
「これが、由香里の……こころ」
心臓に手を当てる。
一定のリズムでもって、脈打つ感覚を確かめている。
「……やっとだ、やっと解放される。強い人間に……なったんだ……!」
「あ、あぁ……その、よかったな。おめでとう」
「………………」
声が止まる。何も言わなくなった。
「お、おい……?」
俺のすぐ横を通り過ぎたその女は、いま下の階で買ってきたばかりのペットボトルが床に転がっているのを確かめる。
――なんの躊躇もなかった。その女が蹴っ飛ばしたペットボトルは、そこらへんの壁にぶつかって、べコッ、という音とともに俺の方へと跳ね返ってきた。
たった、それだけのこと。