とある下町の一角に、飲み屋通りがある。
個性的な形の店が軒先揃え、昼夜関わらず客を呼び込んでいる。昼間から酒を煽る浮浪人や、昼食を食べに来るカップルまで、客層はさまざま。夜になれば仕事終わりの男共が、がやがやと酒を求めてやって来るのである。
さて、今は木枯しが鳴き雪も散らつき見える、実に寒々しい季節である。昼時は過ぎ、しかしまだ日は沈んでいない中途半端な時間帯。さしもの飲み屋通りもシンと静まっている。
そんな場所、時間に、場違いなハイヒールの上品な音が鳴る。
石畳をコツコツ鳴らし、立ち並ぶ店に目もくれず、淀みなく通りすぎて行く。飲み屋通りの端辺り、ある店の前でハイヒールの主は立ち止まった。
レンガ造りの小さな建物。屋根から二つの煙突が生えて、煙を出している。玄関には『open』と書かれた質素な看板が、これまた質素な木製のドアに掛かっている。
ここは店かと疑いそうになる様子だが、扉の横には小さな黒板が置かれ、本日のメニューなるものが書かれている。
女性はその黒板を横目で見ながら、ためらいなくドアを押し開けた。
「いらっしゃい」
ドアの内側に付けられたベルが鳴り、カウンター席のみの小さな店の奥から若い男の声がした。
「あら、ずいぶんと他人行儀じゃない。オットー」
ハイヒールを履いている女性は束ねていた長い髪を解いてそう言う。ソプラノの、歌うように綺麗な声。
「ベティ?昼間から来るなんて、今日はオフなのかい」
オットーと呼ばれた青年が、カウンターの向こう側から顔を覗かせる。チェック柄のシャツを腕捲りした、ラフな格好である。何か作業をしていたようだ。
「ええ、しばらく来れてなかったでしょう。もう堪んなくなって無理矢理休んできたわ」
女性、もといベティは厚手のコートを脱いで背もたれに掛け、我が家の如くイスにどかっと座り込んだ。迷いのない振る舞いは、常連の雰囲気を存分に醸している。
「しばらくって、たった五日じゃないか。料理人冥利に尽きるけどさ」
「フフ......あら?」
彼女が座ったちょうど目の前、カウンターの上に置かれていた雑誌に目が行く。
雑誌のタイトルの横に、『オペラの新星・ベアトリクスに直撃インタビュー』という見出しがある。
「先週のやつじゃない。恥ずかしいから、買うのやめてって言ったのに」
ベアトリクスとは、つまり今このバーにいる女性、ベティのことである。雑誌の表紙には見出しと共に彼女の写真が載っている。
ベアトリクス・フォーゲルベルク。
現在オペラ界隈を賑わせている新人の一人だ。その力強くも優しい歌声と、長身かつ細身のスタイルの良さが人気を博している。特集のはじめに、そう書かれている。
「いいじゃないか。君のファンの一人として楽しみたいんだよ」
ベアトリクスは不満そうに頬を膨らませた。さっきまで出ていた大人の雰囲気がなりを潜め、少し子どもっぽく見える。
「あんたは幼馴染みだから、なーんかむず痒いのよね」
さらに、頭をがしがし掻くベアトリクスからは、まるでオペラの新星とは思えない庶民感が溢れていた。
「とりあえず何か温まるものをちょうだい。寒いったらないわ」
ベアトリクスがそう言うと、一分でホットミルクが彼女の前に出された。小さめのマグカップから湯気がもうもうと立ち上る。
「それは僕の奢りでいいよ。最近は本当に冷えるよね」
オットーの言葉にベアトリクスが「私は只でさえ冷え性なのに」と愚痴って、熱いミルクをちびりと飲んだ。
「ふぅ、ありがとう。折角だし、今日は奮発しようかしら」
「そりゃ助かる。皆たいてい、安いのしか頼んでくれないんだよね」
「当たり前よ。ここは庶民のためのストリートでしょう」
オットーはそれもそうだと苦笑して、またカウンター下で作業を再開した。塩で揉んだのか、しんなりとした千切りのキャベツを瓶に詰めている。どうやら漬け物を作っているらしい。
ベアトリクスはそんな彼の様子を、どこか好ましげに眺める。しばらくそうした後、今日は何を食べようかしらと、壁に掛けてあるメニュー表に目を移した。
「懐かしいわね」
唐突にベアトリクスが呟いた。
オットーが「どうしたんだい」と尋ねると、彼女は棚にひっそり飾ってある額縁入りの写真を指差した。
大人しそうな男の子と、やんちゃそうな女の子が写っている。二人とも泥だらけで満面の笑みを浮かべている。
それは、いつの日かの、オットーとベアトリクスであった。
二人は田舎町で生まれ育った幼馴染みであった。
町というよりは村か。麦の栽培をけっこうな規模で行い、それをビールに加工して売ることで毎年の生計を立てていた。オットーの店で扱っているビールも、その地元産の物がいくつかある。
自然が豊かな場所だった。丁寧に手入れされた里山と、そこから流れてくる小川があり、年中どこかから鳥のせせらぎが聞こえてくる、そんな場所で二人は育った。
同じ年の子供が彼らを含め十人ほどしかいなかったからか、家が隣通しだったからか、二人は特別に仲良しで毎日のように遊び回っていた。
オットーも慈しむように、写真を見て柔らかく笑った。
「本当にね。あの頃の君はショートカットだった」
「今でもそうしたいわ」
自分の長い髪を弄るベアトリクス。
切りたいと言う割りには、枝毛のない綺麗な髪をしている。オペラ出演のために伸ばさざるを得ないらしい。
「僕は長いの好きだけど。見てよ、小さい頃のベティはボサボサだ」
オットーはわざわざ手を拭き、写真をベアトリクスの前に持ってきて見せた。
写真の中の、九歳ほどのベアトリクスの髪は所々跳ねて泥汚れが付いている。右手には木の棒、左手にはザリガニを鷲掴んで、さらには歯が二本ほど抜けているおまけ付きだ。
それが今では、コンサートホールでオペラを披露しているのである。
「何よ。あのときは別に好きでもない相手と遊んでいたって言うわけ?」
ベアトリクスが冗談めかした口調で言うと、オットーは真顔で答えた。
「昔も今もベティは好きだよ」
当然だろう、と言わんばかりのバカ真面目な幼馴染みに、ベアトリクスは恥ずかしがるでもなく、ため息をついた。
「あんたねぇ、冗談には冗談で返しなさいよ。それに今のじゃ告白かプロポーズみたいになってるじゃない」
「ええっ、プロポーズなんかしてないよ」
「知ってるわよ!」
ガタンッ、と飲み干したミルクのカップをテーブルに叩き付けてベアトリクスは説教をかます。
「あんたも私もその手の話の気がないのは百も承知よ。でもね、言葉をオブラートに包むことを知りなさいと言っているのよ」
今一つピンとこないのか、オットーは首を傾げる。
ベアトリクスはそんな彼に畳み掛ける。
「好きだのなんだの、やたらめったら言うもんじゃないわ。私以外の女なら勘違いするかもしれないでしょうが」
「なるほど」
納得した、と間が抜けた感じで頷くオットーに、ベアトリクスは浮かせかけていた腰をイスに戻して、こめかみを抑える。
「前にそのせいで問題になったんだから、気を付けなさいよ」
「ああ、あったね、そんなことも」
一年と三ヶ月ほど前のことである。
ベアトリクスがいつものようにオットーの店に行くと、オットーが知らない女性に迫られていたのだ。グイグイと近付こうとする女性に、オットーはたじろいでばかりいる。
女のおの字も知らないような幼馴染みから想像もできない光景に、ベアトリクスは一瞬、放心しかけた。とりあえず間に入って話を聞くに、女性の中では、オットーと女性が付き合っていることになっているらしかった。
目眩を覚えたベアトリクスだがさらに詳しく聞くと、女性は最近、この店にオットー目当てでよく通い、先日ついに告白をしたらしい。「好きです」という旨の言葉に対して、「ありがとうございます。とても嬉しいです」などとオットーが返したのだという。この鈍感な男が『料理を誉められた』程度の意味にしか受け取っていないことを、ベアトリクスは長年の経験から瞬時に読み取り、うんざりして天井を仰いだ。
解決は難航を極めた。
オットーとの間柄を疑われたり、突然女性が泣き出したり、訳もわからずなだめようとしてコーヒーを淹れ始めたオットーを止めたり。
それでもベアトリクスはどうにか場を治めた。女性がびえんびえん大泣きしながら逃げ帰った後に、オットーを厳しく叱り、その日の飲み代を全てタダにさせたのだった。
「常連を失ってしまった」などと言うオットーにビンタをかました記憶は今も鮮明に思い出せる。
「ところで、いい頃合の漬け物があるんだけど食べるかい?」
ベアトリクスのトラウマ話をさらっと流して尋ねるオットー。あの事件から成長が見られない。
「あんたいつか刺されるわよ」
呆れ顔のベアトリクスは気を取り直すように、または諦めたように、ビールと漬け物を注文した。
ちっとも懲りてない様子のオットーは、大きめの瓶から完成済みのキャベツの塩漬けを取り出す。
「あら、唐辛子が入っているのね」
千切りキャベツに赤色が混ざっている。細かく輪切りにした唐辛子だ。
「この時期だから。お腹が温まると思って」
「そういう機転が他にも効けば良いのに」
ベアトリクスは小言を言いながらも、漬け物を満足そうに食べる。それをビールで流し込む姿はなかなか様になっている。
「堪んないわね。確かに良い塩梅よ。ビールも相変わらず麦臭くて最高」
「ありがとう。それで、恋愛とか結婚の話に戻るけど」
オットーが唐突に言ったことに、ビールと漬け物を交互に口に運んでいたベアトリクスは目を丸くした。まさかまだ、その話題を続ける気があったとは。
「なによ」
「ベティは職場なんかでそういう話は来ないのかい。モテそうなものだけど」
世間話程度に、何となくといった風で聞くオットー。
ベアトリクスはビールを煽り、鼻で笑ってから答えた。
「はっ、あってもなくても関係ないわ。他にやりたいことがたくさんあり過ぎるんだもの」
オットーは僕と同じだ、と柔らかく笑った。
「じゃあついでに、今後のスケジュールを聞いてもいいかな」
「スケジュールねぇ。まずはここに飲みに来ることでしょ。それから歌や演技の練習とオペラ公演。取材なんかもまた来るだろうし……」
ベアトリクスは指折りながら、予定を思い出していく。
「あ、次の休日はバードウォッチングしに遠出しようかしら。ほら、私たちの故郷の近くを走ってる機関車に乗ってさ」
最新式の双眼鏡買ったのよ、とクリスマスの子どもみたいにはしゃいでいる。
「結局は趣味と仕事だけじゃないか」
「実際は仕事も趣味みたいなものだから、趣味しかやってないけどね」
最後の漬け物を味わいながら、ベアトリクスは言った。
「あんたはどうなのよ」
聞き返されたオットーは、待ってましたとばかりに即答する。
「来週、海外に行くんだ」
これまた唐突な話に、ベアトリクスは飲む寸前だったビールから口を離した。
「えっ、嘘。いつ?聞いてないわよ」
「友人のツテがあってさ。一ヶ月くらいだけど、現地の食文化をできるだけ勉強して来ようと思うんだ」
「一ヶ月!」
ベアトリクスは叫んで立ち上がった。彼女が尻で押し退けた丸イスが、ぐわんぐわんと揺れる。
「その間私はどうすればいいのよ!?聞いておきながら、私のスケジュールをめちゃくちゃにするつもりじゃないでしょうね!」
スケジュールというか飲み食いを楽しみたいだけだが、ベアトリクスはめちゃくちゃな言い分を割と本気で喚く。
彼女の剣幕に動揺する素振りも見せず、オットーは落ち着き払って言った。
「僕が帰ってきたら、覚えてきた料理をごちそうするよ」
ストンと、その一言でベアトリクスは静かになった。常連客の現金さはすさまじい。何もなかったようにイスに座り直そうとする。
「きゃっ」
そして尻餅をついた。丸い木製のイスは倒れてしまっていた。
打った臀部を擦りながら、やり場のない怒りを発散するように、オットーをキッと睨んだ。「僕のせいじゃないよ」と言うようにそっぽを向かれる。
「あーやってらんない。何か奢ってよ、オットー」
「バーガーショップでは笑顔がタダらしいね」
「しばくわよ」
乱暴にイスに起こして座り直したベアトリクスは、残りのビールを一息に飲み干す。一気に酔いが回ったようで、少し頬が赤い。
「まあ、その、気を付けてね」
歯切れ悪く、恥ずかしそうに呟いた。店内に流れる音楽に消え入りそうな声だったが、オットーは嬉しそうに微笑んだ。
ベアトリクス照れ臭そうにその笑顔から視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「おまかせで何かちょうだい」
「喜んで」
おまかせという注文にオットーは悩む素振りもなく、あらかじめ決めてあったかのように、すぐに調理に取りかかる。バットの上で何やら丸いものに小麦粉の衣をまぶして油で揚げている。
大して待たせず、料理が振る舞われた。四角い平皿に、まん丸の揚げ物が4個乗っている。見た目はライスコロッケそのままである。
「ベティ、いつもよりペースが早くないかい」
揚げ物を作る前に出しておいたビールが、五分ほどで三分の一は飲まれていた。それも大ジョッキである。
「いいのよ。あんたが海外に行くばっかりに、私は一ヶ月もお酒が飲めないんだからね。その分飲んでおかなくちゃ」
言いながらも、またゴクゴクと酒を喉に通す。そして揚げ物に手を伸ばした。フォークで刺すとサクッと小気味良い音が鳴り、すんなりと抵抗少なく刺さった。
「いただきます」
一口かじって、あまりの熱さにベアトリクスは少しむせてしまった。しかし熱さが過ぎれば味が分かってくる。けっこう美味しい。
ボールはジャガイモのコロッケだった。しかし普通のコロッケと言うには、形だけでなくどこか風変わりな味がする。
「けほっ、コロッケね。うん、美味しいけどこれ、何が入ってるの?」
ベアトリクスは半分になった一つ目のボールコロッケを、しげしげと見つめて聞いた。
単純に気になったこともあるが、こうして料理の説明を求めるとオットーが嬉しがるのだ。彼女はそこら辺の彼の機微をよく分かっている。
「炊いた麦の粒を入れたんだ。味付けに生クリームを使って、衣には蕎麦粉をまぶしてあるんだ」
「中身のオレンジ色は?」
「すりおろした人参」
予想以上に手が込んでいることに機嫌を良くして、ベアトリクスはもう一口食べる。サクサク香ばしくて、フワッと甘く、たまに大麦の粒がプチプチ歯に当たって面白い。
「ビール、辛口ね」
最初のビールとは違う口当たりに、ベアトリクスはそう言った。
「それだとハイペースにならなくていいだろう」
「私がその程度でペース落とすわけないじゃない」
余計なお世話よ、と手を振ってジェスチャーする。ペース云々はともかくとして、揚げ物を食べるときにはキレのあるビールが良く合っている。
「音楽でもかけようか」
美味しそうに食べ進めるベアトリクスを満足そうに眺め、カウンターの隅に置いてあるラジオのスイッチを押す。スピーカーから陽気というかポップな曲調のイントロが流れ始める。
「ちょっとこれ、アニメソングじゃないの?」
頷くオットーに、ベアトリクスは本日二度目になる盛大なため息を吐いた。
「この店の洒落た感じが台無しになるって、いつも言ってるでしょうが。趣味に走りすぎ」
「そうかなぁ」
ベアトリクスの言うとおり、木組みとレンガ造りの店に、ポップな曲とやけに高い女性声優の歌はミスマッチであった。そもそもクラシックとかをかけるべきで、アニメソングというジャンル自体が間違っていると、ベアトリクスはこれまでも口を酸っぱくして言ってきた。
オットーが残念そうにCDを取り替えると、一転して落ち着いた曲と若い男の切なそうな歌声が店内に響く。
「ふうん、悪くないじゃない。どんなアーティストなの」
「アニメソングシンガーだよ」
オットーは何も反省していなかった。ずっこけて、ゴツン、と額をテーブルにぶつけるベアトリクス。
「私はジャンルを変えなさいと言ってるの」
「ちっ」
言われて、オットーはまた渋々CDを取り替えた。聞こえないように「何が悪いんだよ」と不満を呟く。
これでよし、と一息ついてビールを飲もうとしたベアトリクスは、聞こえてきた曲にどこか既視感を覚えた。
「んん?あ、ちょっとこれ、私が出たオペラじゃないのさ」
つい最近発売された、ベアトリクスが出演したオペラのCDだった。オットーがサイン付きで欲しいと言うものだから、パッケージに書いて送ってやったのだった。
幼馴染みのサインなんかもらって何が嬉しいのかしら、とベアトリクスは首を捻りながらも、彼女関連のグッズが発売される度にねだってくるオットーに、サインを書いてあげている。
もう10枚くらいは私のサイン持ってるんじゃないかしら。
いくらなんでも熱烈なファンすぎると呆れた半眼でオットーを見るが、当の本人はどこ吹く風という様子で料理の仕込みをしている。
「ベティの歌を聞いていると落ち着いて仕事ができる気がするんだ」
オットーはそう言った。女優としては嬉しいことなのだろうが、ベアトリクスは知ってる、といった様子で冷静にツッコむ。
「そりゃ良かった。でもこれって、ジメジメした暗い話じゃないの。よくこれで落ち着けるわよね」
「ラストからは綺麗だろ?それに聞き慣れてるんだよ。昔から君の歌を聞いていたから」
昔からというのは、ベアトリクスは幼少期からオペラのレッスンスクールに通っていたのである。それだけでなく、彼女はのべつまくなし色々な所で歌いまくっていた。
生来歌が好きだったのか、よく親に歌劇の読み聞かせをせがんだり、山に入って鳥の鳴き真似をして遊んでいた。オットーも何度か真似をさせられたが、その度に全然似てない、とダメ出しを受けてしまった。
「いい?これが本当の山鳥の鳴き声よ」
そんな風に得意気に鳴き真似を披露してくれるのだが、彼女もそこまで似てなかったように思う。
しかし綺麗な声だった。
まだ小さかったから、綺麗というよりは可愛らしいという方が正確なのかもしれないが、それでも十分にあの頃から才能の片鱗は見せていたわけだ。
「そういえば、この前、街で君のファンクラブの人から相談を受けたよ」
ベアトリクスがビールを咳き込む。
「うそっ、どんな」
「なんて言ってたかなあ。そうそう、ベティについて詳しく教えて欲しいとか、サインもらってきてくれとか、そんな話だった」
ありきたりな内容に安堵したのか、ベアトリクスはなんだ、と落ち着きを取り戻した。
「てっきり夜襲されたり、ファンクラブに入れとか言われたのかと思ったわ」
「僕がファンクラブに入ったら何か困るのかい」
実際ファンだよ、なんて言うオットーから目を逸らして残り一つのコロッケを食べる。
「なんか、恥ずかしいから」
「ベティが恥ずかしがる基準だけはいまだによく分かんないや」
ベアトリクスはそれを聞くと頬を膨らませた。いや、膨らんでいるのはコロッケが入っているからか。とにかく不満そうである。
「オットーが恥ずかしそうにしてるところは、見たことすらないけどね」
「そうだっけ」
「一方的で不公平な気分だわ。どうにかして弄れないかしらねえ......」
真剣な風にくだらないことを考えているベアトリクスにオットーは苦笑する。しばらく、ぶつぶつと独り言をこぼしてから、ベアトリクスは顔を上げた。
「よし、エッチな話をしましょう。あんた童貞だし、その手の話題には弱そうね」
何がよしなのかさっぱり分からない。ベアトリクスは閃いた天才のような顔をしているが、発想が完全に思春期の学生だった。
「いい年した大人がなに言ってるんだよ」
そもそも、と続ける。
「君も処女だろう」
「うっさいわねぇ!」
ベアトリクスが勢いよく立ち上がり、イスがまた倒れて転がる。
「あーやめやめ。無茶なことはするもんじゃないわ」
今度は転けることなく、イスをちゃんと戻して座った。自分が切り出した話題を棚に上げて、誤魔化すようにビールを飲む。
つかの間の静寂が訪れた。しっとりとした曲調のジャズが流れている。ビールジョッキに結露した水滴が、ほの暗い照明に照らされて光っている。
「そろそろ暗くなってきたね」
しばらくの沈黙の後、窓の外を見ながら、オットーが言った。
狭い路地にバーが密集していて窓からでは空は見えないが、きっと外に出れば、夜の藍色と夕暮れの茜色がコントラストを描く空を見られるだろう。
「そうね。そろそろ、ガッツリしたものでも食べようしら」
「そうくると思っていたよ」
待ってましたと、オットーはフライパンを強火にかけ、オリーブオイルで一枚肉を皮から焼く。
焼き上がりを待っている間に、オーブンから取り出したものを見て、ベアトリクスは黄色い歓声を上げた。
「あ、それアンチョビソースのベイクドポテトじゃない!私それ大好きよっ」
待ちきれないと身を乗り出すベアトリクスの前に、程なくして、大きな皿が置かれる。
「ホロホロ鳥のコンフィと一口ベイクドポテトの付け合わせね。冷めないうちにどうぞ」
「美味しい~!」
どうぞ、と言われる前に、既にジャガイモを頬張っていたベアトリクス。幸せそうに噛み締めている。
「このニンニクとアンチョビのソースはどれだけ食べても飽きないわね。ローズマリーもいいアクセントになってる」
べた褒めして、そのまま間を置かずにコンフィにナイフを入れる。
「皮が香ばしくて美味しいわ。肉も柔らかい」
「これも付けて食べてみてよ」
黄色いソースが入った小皿が出される。言われるままにコンフィをちょい、と付けて食べてみる。
「蜂蜜と粒マスタードのソースね。この鳥によく合ってるわよ」
気に入ったようで、肉を切り分けては粒マスタードのソースに浸して食べる。時折、ベイクドポテトにもかけて楽しんでいる。
「はあ、ずっとこんな料理を食べ続けたいものね」
半分ほど食べ進めたベアトリクスは、満足そうに微笑んだ。
オットーが何か言おうとしたその時、店のドアがベルを鳴らして開いた。
「よう大将。ビールくれや」
ガタイのいい中年の男が入っていきなり注文する。
外は冷え込んでいるというのに男はジーンズのズボンにTシャツ一枚という、季節外れな格好をしていた。さらにその後ろから同じファッションの男が三名、ぞろぞろと店に入ってきた。
オットーは彼らを見ると、明るい声を出した。
「親方、風呂上がりですか」
男共の髪が若干濡れている。オットーは中年に笑いかけながら四つのジョッキにビールをなみなみ注ぐ。
「おうよ。冬の仕事上がりに入る風呂は格別だぜ。大将の店で飲みてえから、風呂上がりの酒は我慢してきちまった」
「楽しみにしてましたー!」
「今日は親方のおごりっす!」
「腹ペコであります!」
親方の言葉に続いて、子分たち三人が無駄に元気に叫ぶ。
彼らはこの近くに住んでいる大工で、もっぱら古くなった家の改装を受け持っている。かくいうオットーも、店を開店するときにはこの親方の世話になったものだ。
「いくら風呂で温まったて、よくそんな薄着でいられますね」
オットーがそう言うと、親方は「心配すんな」と高笑いした。
「ここに来るまでは風呂で暖まって、店から出る頃には酒で暖まってるって寸法よ」
席につくなり四人一斉にグビグビと、ビールで喉を潤す。どこまでも男らしい、豪快な飲みっぷりである。
「久し振りね、親方さん」
ベアトリクスが声をかけると、もうほとんど空になったジョッキを置いて親方は目を丸くした。
「ん?おお、おお!誰かと思えばベアトリクスの嬢ちゃんじゃねえか。いやあ久し振りだなあ」
がはははっ、と何が面白いんだか大声で笑って、ベアトリクスを子分たちに紹介する。
「お前ら、この嬢ちゃんはこの店の常連ナンバーワンのベアトリクスさんってんだ。挨拶しとけよ」
間髪入れずに子分たちは一斉に頭を下げた。一糸乱れぬ動きである。勢いが良すぎてヘッドバンキングみたいになっている。
「よろしくお願いしまーす!」
「ベアトリクスの姉貴、よろしくっす!」
「ファンであります!」
「はいよろしく。ファンクラブの人?いつもありがとう。それから姉貴はやめて」
暑苦しい挨拶に怯まず綺麗に返してから、ベアトリクスも新しくビールを注文する。
「どうだい最近。仕事の方とかはよ」
軽く乾杯し、親方がベアトリクスに聞いた。
「毎日毎日レッスンよ。その分、期待されてるってことなんでしょうけどね」
「いいことじゃねえか」
笑い合いながら酒をあおる二人。
その間に割って入って、ベアトリクスのファンだと言った子分が鼻息荒く、直角に腰を折って頭を下げる。
「感激であります!サインが欲しいであります!」
ベアトリクスが何か返事をする前に、ゴツンッ、と親方の拳骨を喰らわされてしまう。
「あのなあ、ここは酒場だぜ。オフの人にサインなんかせがむんじゃねえよ」
「ううむ」
涙目になりながら殴られた頭を擦る子分に、ベアトリクスはコートからメモ帳を取り出して、サラサラと慣れた手つきでサインを書いて渡してあげた。ページを千切る仕草が様になっている。
「別にいいわよ。酒場でケチケチしても仕方ないし」
両手でメモ用紙のサインを受け取った子分は、泣き顔から一転、満面の笑顔を浮かべてペコペコとお辞儀を繰り返す。
「すまねえな」
申し訳なさそうに言う親方にベアトリクスは「いいっての」と手をヒラヒラ振った。
「ねえベティ。僕にも一枚くれないかい」
「あんたはもう持ってるでしょうが」
性懲りもなく貪欲にサインをねだるオットーを一蹴する。
一枚くらい良いのに、とふて腐れた幼馴染みを無視して、物欲しそうにしている他二人の子分にもサインを書いてあげる。
「いや本当にすまねぇ。そういや嬢ちゃんが食ってるの旨そうだな。大将、こっちにももらえるかい」
「僕も欲しいです!」
「あ、俺も!」
「ご馳走になるであります!」
「四人分ですね」
コンフィを仲良く注文する大工一行。親方は「ポテト山盛りで」と付け加える。
「今日は一つ仕事が片付いたからな。大判振舞いさ」
親方は嬉しそうに、既に二杯目のビールを飲んでそう言う。淡々としているようで凄まじい飲みっぷりだ。
負けじとベアトリクスも追加注文し、子分たちはえいこら必死に付いてくる。
そうして場は盛り上がり、あれよあれよと言う間に、祭りの様相へとなっていくのであった。
▼
とっぷり夜闇が覆う深夜。
オットーのバーは、呑んだくれの祭り会場と化して久しい。
ビールを奢り奢られ、もう何がなんだか分からなくなっている状態で、親方とベアトリクスは肩を組んで明るく軍歌なんかを歌っている。プロのオペラ歌手のソプラノと、おっさんの豪快なバスが意外と見事に調和している。
しばらく前から彼らに合わせてバックミュージックをかけているオットーは「今日はビールしか出ないなあ」などと呑気に笑っている。
「大将は女いるのかい!?」
唐突に親方が叫んだ。真っ赤な顔をして明後日の方向を向いている。窓の梁にオットーが見えるのだろうか。
今夜もう三回目になる質問だったが、オットーは特に気にした様子もなく答えた。
「いませんよ」
「なんだとぉ!」
テーブルをダンッ、と叩いてさらに声を張り上げる親方。彼のパワーでやられると洒落にならない。うちに頑丈なカウンターテーブルしかなくて良かった、とオットーは内心胸を撫で下ろす。
「若いんだから青春の十や二十はするべきだろうが!」
「二桁は多すぎです、親方」
青春、青春、とぶつぶつ呟きながら親方は、床の上で潰れてしまった子分たちを軽々とつまみ上げてイスに座らせる。三人同時に、ぐにゃりとカウンターに突っ伏して寝始める。
親方もイスに座り、先程とは打って変わって妙にしんみりと酒を啜った。
「俺はよう。この前嫁のやつによう。老けたわね、なんて言われっちまってよう」
筋肉ダルマが小さくなってぶつくさ言う。相当若者が羨ましいらしい。青春の十や二十をやり直したいおじさんが、そこにいた。
しかし次の瞬間には、ガバッと勢いよく立ち上がる。チビチビ飲んでいたはずの酒は気付けば消えていた。
「んあ!?いけねぇ、そろそろ帰らねえとぶっ飛ばされちまう」
自分で言った嫁という単語に引っ掛かったのか、親方は短針が真上を指している置き時計を見て慌て始めた。
おそらく、とっくにぶっ飛ばされる時間は過ぎているのだろうが。
「おい起きろお前ら。帰るぞ」
揺さぶっても起きない子分たちを順番にビンタしていき、ご馳走さん、とろくに数えもせず金を置いて出て行ってしまった。
子分三人もその後ろを、頬をさすりながら付いていく。
「まいどー。あらら、また多いや」
カウンターに置かれた数枚の紙幣を拾って、ペラペラめくり数える。実際の料金より二枚ほど余計だった。親方は酔っ払うとたいてい、癖のように金を雑に置いていく。後日お釣りを渡そうとすると渋るのは、親方のプライドか、単に面倒くさいからか。
最初は「いいからいいから」と言う親方に押し切られてしまっていたものの、今では「そのお釣りでたくさん注文してください」などと言えば、料理という形ですんなり受け取ってくれることを、オットーは彼との長い付き合いで学んでいる。
急に静かになった店内。ベアトリクスがチェイサーの水を飲む音とオットーが食器を洗う音だけが、やけに大きく響いて聞こえる。
「青春、ねぇ」
ポツリとベアトリクスが呟いた。酔いが少しは醒めたのか顔の赤みが薄くなっている。
「気付けばずいぶん遠くまで来ちゃったわね。私も、あなたも」
「遠く?」
「本当に青春なんて言えた頃には、今の暮らしは想像できなかったわ。考えたとしても漠然としていて、今自分がこうしていることも、どこか夢のよう」
他の酒場から賑やかな喧騒が聞こえる。
オットーはおもてに掛けてある看板を裏返した。店内に戻り、グラスに入れたロックアイスにウィスキーをかけ、それを持ってベアトリクスの隣に座る。
「居酒屋がこんな早くから閉店していいの?」
ベアトリクスが聞くと、オットーは、これは貸し切りって言うんだよと微笑んだ。
「確かに、もう大人になってだいぶ経つよね」
ウィスキーを一口飲み「でも」とオットーは続ける。
「なにも変わってない」
そう言ってベアトリクスの頭を撫でる。サラサラとした長い髪が指の間をすり抜ける。
ベアトリクスは抵抗することもなく、くつろぐ猫のように目を細めた。
「そうね、その通り。形が変わろうが私たちにとって大切なものは、一つ残さずちゃんと持ってきているものね」
「きっとそうやって生きていくんだと思うよ。いくつになっても何処へ行っても、少なくとも僕は君の近くにいる」
「......」
「ここで料理と酒を用意して、君のことを待つよ」
ベアトリクスは突如、オットーのウィスキーを引ったくって飲んでしまった。まだ半分ほど残っているというのに一気に飲むから、顔が真っ赤になる。
ぶはあ、と女優にあるまじき息を上に向かって吐き、オットーを真っ直ぐに見据えた。
「言ったわね。死ぬまで通い詰めてやるんだから」
オットーは朗らかに笑ってウィスキーを注ぎ直す。おそらく、本当に死ぬまでそうなるんだろうな、なんて思いながら。
「そんな飲み方してると早死にしちゃうよ」
「うっさい!」
子どもみたいに舌を出して反抗するベアトリクス。オットーは「困ったなあ」とまるで困ってなさそうに笑う。
「僕も死ぬまでベティのオペラを見たいんだよ」
「望むところ。ババアになっても続けてやる」
ベアトリクスがコートをとって立ち上がる。酔ってる割りにはフラつきもせず、しっかり立っている。ピンと伸びた背筋が俳優であることを誇示していた。
「帰るのかい」
「ええ、明日も朝から練習があるのよ」
それならこんな深夜まで飲んでいていいのか、とオットーは思う。
幼馴染みの心配など露知らず、若いオペラ歌手は代金を払おうとする。お嫁さんに叱られたであろう親方とは違い、チップも含めてきっちりお金を出した。
それを受け取ったオットーは何かに気付いたように「ちょっと待ってて」と言ってカウンターの奥に引っ込む。
「ベティ、最後にこれを飲んで行きなよ。お金はいらないから」
オットーが差し出したのは小さめのカップだった。白い飲み物が入っていて、湯気に乗って甘い香りが漂ってくる。
「ビールを使った甘いスープ。煮立てたからアルコールは飛んでいるけど、生姜とシナモンをたっぷり入れてあるから、温まるはずだよ」
ベアトリクスはちらりと、窓の向こうを見た。街灯に照らされた街路に、雪がちらついて見える。外はずいぶんと冷え込んでいることだろう。
「ありがとう、オットー」
熱いスープもなんのその。一息に飲み干して、カップをオットーに返す。
喉から胃へ熱が降りていく。すぐに身体の芯がポカポカと温まり始めたのが分かった。
「これ気に入ったわ。次はメニューにいれてちょうだい」
「うん。それじゃあね」
「ええ、一ヶ月後に来るわ」
ベアトリクスはそう残して颯爽と去っていく。
一人きりになったオットーは苦笑した。酔っ払っているのに、オットーが海外に行くことをしっかり覚えていた。
「釘を刺されてしまったなあ」と頬をかく。これはとびきり美味しいのを用意しなきゃいけない。
一ヶ月。
今までもその程度会わないことはあったが、言葉にしてみると、すごく長い期間に思える。次に会うのがもう待ち遠しくてワクワクする。彼女もきっと、同じ気持ちなんだろう。
そんなことを考えながら、オットーは甘ったるいビールのスープを飲んだ。
少し、甘くしすぎた気がした。
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おわり