雫が落ちて、跳ねて、それを繰り返す日々が彼女には、退屈だった。
雨が降っている。空に染まった緋色も見えず、暗く澱んだ鉛色が覆いつくしていた。私は既にびしょびしょに濡れていた。そんなことはどうでもよく、むしろ気持ちいいものだ。私の身体に刺さるように降り注ぐ雨の痛みが、私が私であることを示しているような気さえしているのだ。
道がぬかるみ、一歩踏み出す度になんとも言えない不快感に襲われる。しかし、これは雨の日の特徴だ。我慢するとしよう。そういえば、ここしばらくは雨が降っている。今は5月ごろだったか。ならば、この雨続きの毎日も分かるものだ。
「こういう日は人を驚かせないんだよねぇ……」
人のびっくりするような表情を糧として私は生きることが出来ている。ここで察することが可能であろうが、私は妖怪である。
ぬかるんだ地面に注意しながら、前へと進む。突き当りへ出ると、川は氾濫しそうなほど荒れ、簡素な橋はすでに崩れている。あの橋をまた架けるために、藩主は民衆から余分な税の米を徴収し、無駄に私腹を肥やすのだろう。
この川の水はどこから湧き出て、どこへと流れ行くのか。そんな他愛もないことを考えていると、背後から地面に溜まった雨を蹴散らすように走る音が聞こえてきた。
(もしや、これは驚かすことが出来る絶好のチャンス?)
どこかに隠れようにも私の姿を隠せるとうな草木は雨風や川に流され、どこかの家に隠れようと考えるも戸は締まっている。そもそも、ここまでは一本道であり、丁字となっている。そのため、既に姿を見られている可能性の方が断然高い。姿を見られているのであれば、吃驚させても効果は薄く、何のうまみもない。私は観念したように振り返った。
こちらに走ってくる姿は一つ。見るからに男性だ。なんの武器も所持していないことから、私が人にとって危険な妖怪だとかいう根も葉もない噂を聞きつけて退治しに来た貴族お抱えの武士ではないようだ。一つ、胸を撫で下ろした。
彼は私の目の前に立ち止まると、私に傘を差しだした。
「こんな土砂降りの雨で傘を差さずに歩くのは危ないよ」
「それならあんたはどうなんだ? 私にこの傘を渡せばあんたの方が危ないじゃないか」
青年、と言えようか年頃の男は不思議そうな顔をした後、クスクスと笑い出した。私は本気で心配したというのに、なんという無礼な男だ。
そんな私の様子に気付いたのか、男は笑うのを止めた。
「ごめんごめん。君、妖怪なのに人の心配するんだと思った」
私が心配したのは、私が人を喰うような妖怪ではないからだ。私は人を驚かせることによる瞬間的な恐怖、それを喰うことになるんだろう。そのため、人に死なれては私は生きていく術を失われる。というか、ほとんどの妖怪が成立する理由は人間が妖怪への恐怖や畏怖があるからこそ。人食い妖怪だって、人間を根絶やしにはしない。程よく残さなければ、自分までもが消えてしまう。
「君は優しい妖怪なんだ」
そんなことはない。私は私のために心配してやっただけなのだ。
「私が妖怪って判ってるんなら、一層、あんたに傘は必要じゃないのかい。妖怪は病に罹らないってのもしってんだろう。だから」
「なら、晴れた日にここで返してもらってもいいかな?」
「え? ちょっと待ちな」
私の返事を聞かずに、彼は立ち去った。私に残されたのは、彼がおいていった傘のみ。傘は開かれ、私の身を空から降り注ぐ冷たい針から守っている。ほんのりと温かみの残る持ち手をぎゅっと握りしめながら、彼が走り去った方向を見つめ続けていた。
* * *
一週間ほど雨が続き、傘は返せなかった。雨も上がり、じめじめとした嫌な熱気が体に纏わりつく。彼と出会った場所で彼を待つ。あまりにも日差しが強いため、傘を開き影を作った。それに、傘を差していた方が彼も見つけやすいだろう。
* * *
一カ月経っても、彼は来ない。そろそろ立って待つのもいい加減疲れてきた。腰を掛けやすい大きさの岩に座り、彼を待ち続ける。
そういえば、崩れた橋の架けなおしの工事がそろそろ始まるらしい。暇つぶしにでもその光景を見てやろうか。
* * *
数年間待っても、一向に彼が来る気配はない。もしかすると、彼は私との約束を忘れているのかもしれない。
視界の端には、井戸端会議と呼ばれるものが行われていた。そこから言葉の端々が聞こえてくる。そこには、あの橋が何年たっても完成しないのではないのかという心配の声もあった。私にとっては何ら関係のないものだ。橋の工事での死者が多い、ことなんて。
「早く来んか……」
* * *
十年ほどだろうか。いくら待っても彼は来ない。橋は完成し、歓声があがっている。ここの小さな町にも工事に行った男性が多い。そして、その男性たちが帰ってくる。その中に彼の姿は見当たらない。2~3年前に聞こえたあの話を思い出すも、絶対に違うと頭に浮かぶ最悪の景色を振り払う。
絶対に違う。彼は必ず私の約束を覚えて、帰ってくる。
私はそう信じて、彼を待ち続ける。初めて私に対して敵意なく接してくれた人を。初めて優しくしてくれた人を。
* * *
幾年と経とうとも彼を待つ。雨が降って、傘はいまだに私を守る。傘の先から垂れては落ちていく雫は何度も座っている石へと飛び込み、跳ね上がる。何度も、何度も。勘づくものは当然ある。ただ、私はそれを無視して待っている。いくら雨が降っても、雪が降っても、時代が変わっても、どれだけ目の前で爆風が起き、人が死のうとも。
「いくらなんでも、遅すぎるよ……。いくら妖怪の寿命だとは言えども、待たされるのは苦手なんだよ……」
多分、百年ほどは待っている気がする。その証拠に、私が座っている石もくぼみ始めてきている。
なぜ、ここまでして私は彼のことを待っているのだろうか。記憶もあやふやになってきているし、なんなら、彼がいた時代では私のことを認識するような人間は数多くいたのだが、この時代は私を認識する人間と出会っていない。まるで、路傍の石を見ているような眼をしている。
* * *
さて、もういい加減待つのを止めにしようか。あの時から三百年。私もそろそろ動き出さないといけない。
当然、町の風景はいろいろな色を映し出していたものから無彩色のものへと変わり、空も煤汚れてきている。人の営みというものはここまでも、生きにくくするようなものなのか。
もう、人は二度と待たないようにしよう。だって、これからも彼を待ち続けるのだから。
雨雫が石に穴を穿つまでずっと待っていた、傘を持つ名もなき妖怪はそこから消え去った。
彼を探しにいったのか、はたまた彼女は本当に消えたのか。詳細は彼女しか知らない。