346事務所のラウンジで、一人不機嫌そうに歯軋りしているのは速水奏だった。ソファーにふんぞり返り、缶コーヒーを飲みながら不機嫌を隠そうともせずにスマホをいじってると、隣から塩見周子が声を掛けた。
「あれ?奏ちゃんどうしたの?機嫌悪いね」
「……ああ、周子」
「?」
いつもより鈍い反応に、周子は眉をひそめた。しばらく見つめ合った後、チッと奏は舌打ちしてまたスマホをいじり始めた。
「ちょちょ、か、奏ちゃん?どうしたの、あたしまだ何もしてないよ?」
「……何でもないわよ。ていうか、周子絡みで機嫌が悪いわけじゃないから安心して」
「そ、そうなんだ……。なんかあったの?」
「何でもない」
「気になるなー。もしかしてプライベートで?」
「……まぁ、プライベートって言えばプライベートね。近くにムカつく男が引っ越してきてね……」
「男?奏ちゃんに?」
直後、ギンッと効果音が出そうなほどに奏に睨み付けられ、思わず周子はひよってしまった。
そんな周子に一切構うことなく奏は低いうなり声にも聞こえる声で言った。
「……そういうんじゃないから」
「は、はぁ……」
「あの男とそんな関係になるなんて考えただけでも鳥肌ものだから。ホントやめて」
「わ、分かったから落ち着いて……」
何とか落ち着かせたものの、ここまで奏をキレさせる男に興味があった。
なので、命知らずにも恐る恐る質問してみることにした。
「……ちなみに、その男の子っていうのはどんな子なん?」
「最低最悪の男よ」
速烈で最底辺の評価に軽く引きながらも、周子は苦笑い気味に聞いた。
「……え、えっと、どんなとこが?」
「まず出会いからね。あいつ私の裸を覗いたのよ」
「待って、どうやったらそうなるの?」
「私の隣の部屋に引っ越してきたときよ。あいつと私の部屋、隣の同士でカーテン開けたあいつに見られたの」
「え、奏ちゃんはカーテン閉めてなかったの?」
「し、仕方ないでしょ⁉︎そもそも誰か引っ越して来るなんて知らなかったのよ!」
「それじゃあ自業自得な気もするけど……」
「その後よ!あいつ謝らないどころかカーテン閉めてない私の所為にしたのよ⁉︎」
「や、だから自業自得だってば。謝らないのは確かに良くないけど」
徐々に目の前の巨乳の自業自得な気がして来て、周子も気を使うのがバカバカしくなってきた。
まぁ、本人の怒りは本気のようなので、恋愛方面にからかうのはやめておいたが。
「それに、ムカつくのはそれだけじゃないのよ!あいつ、ずっと私のこと付きまとってくるのよ⁉︎」
「……えっ?」
突然の事件性に驚いたが、奏は怒りを隠すことなく続けた。
「あいつ、ずっと私の行く所行く所について来るのよ!初日からいきなり私が家を出ると同じタイミングで出てきて、別々の方向に進んだのに同じコンビニにジャンプ買いに来て、すぐに引き返したと思ったら今度は同じファミレスで相席するハメになって……!ほんと考えらんない!」
「……それ、熱狂的なファンのストーカーとかじゃないん?」
「それはないわよ。あいつ、私の事知らなかったもの。引っ越して来たのだって家族と一緒にだったし、ファンじゃないストーカーだとしても余りにも大胆過ぎるから」
「あ、そう……」
ほっと胸をなでおろす周子を余所に、奏は愚痴り始めた。
「大体、あいつムカつくのよ本当に!何なのか知らないけど私と変にたくさん出会うし、腹立つったらないわ!」
ぷんすかと怒っている奏を見ながら周子は顎に手を当てて、とりあえずと言った感じで質問した。
「……結局、どこがムカつくん?なんか具体的に聞いてないから」
「まず、自分にも少なからず非があるのに謝らない所!その癖、変な所で気を使って謝る所!あと悪口だけは達者な所!何故か私との遭遇率が高い所!仮にも女の子の顔を見て『え、二十歳じゃないの?』とか言い出す所!それから……!」
「あー分かった、分かったから。本当に嫌いなんだね、その人のこと」
徐々に声が大きくなっていったので落ち着かせた。周りのアイドル達も何人か「何事?」みたいな顔で奏を見ている。
それに全く気付くことなく、奏は愚痴り続ける。
「当たり前じゃない。今日だって少し見直した、と思ったらすぐ台無しにするんだもん」
「ほう?と言いますと?」
「周子が楽しみにするようなことはないわよ。私は学校でアイドルだから少し浮いてるんだけど、余りにも私に対して態度大きいから理由を聞いたら『アイドルだからって特別扱いする必要ある?』って……」
「へぇー、良い人じゃん」
「まぁ、私の場合はさらにアイドルとは思えないとかなんとか余計なこと抜かしてきたんだけどね……」
思い出すだけだ「畜生、あいつめ……!」再び憎たらしそうな顔をする奏に周子は首を傾げて確認した。
「照れ隠しとかじゃなくて?」
「アレは素ね」
確信を持った感じで答える奏に対し、周子は少し引きながら苦笑いを浮かべた。
これ以上の質問は地雷だと悟った周子は質問をやめて愚痴に乗る事にした。
「……まぁ、そんなのがいるならこれから色々ズラせば良いやん?」
「そんな単純な話じゃないのよ、私とあの子は」
「複雑な事情が?」
「そうね……。ほんとに複雑よね……」
そう呟いてから「説明は難しいんだけど……」と続けた。
「今日のお昼、お弁当忘れちゃったから学食か購買か悩んだんだけど、購買で買えば食べる場所は学内なら星の数ほどあるけど、相手が河村……あ、ムカつく男ね。河村の場合は確率の計算なんて無駄に等しいから、それならグッと可能性を絞って食堂にしようと思ったんだけど、それもダブルトラップの香りがプンプンしたから回避して購買、というトリプルトラップも回避して、さらにそのクアドラプルトラップも……と考えてるうちに終わらなくなるのを理解したけど、それなら二つを組み合わせて購買で買ったものを食堂で食べれば良いんじゃと思って実行して結局、購買で買ったものを食堂で食べてる河村と遭遇しちゃったの」
「ごめん、半分以上理解出来なかった」
「そうよね……。だから複雑って言ったのよ……」
説明に疲れて小さくため息をつく奏に、周子は半眼になって聞いた。
「というか、よくそこまで本気で避けようと思うね。もう諦めて一緒にいれば良いじゃん」
「嫌よ、絶対に嫌。それだけは嫌」
「うわあ……なんでそんな嫌がるの」
「嫌いだから」
「よくそこまでハッキリ言えるなぁ……」
「だって嫌いだもの」
「じゃあ、もし仮に最初に裸を見られてなかったとしたら?」
「へっ?」
意外な質問に片眉がぴくっと吊り上がった。
「どういう意味?」
「だから覗かれてなくて、えっと……だとすると最初に顔を合わせたのは……家を出る時か。その時だとすれば?」
「……考えたこともなかったわ」
「待ち合わせしてもいないのに顔を合わせるなんて運命的な気がせぇへん?」
言われて、奏は「ふむっ……」と考える姿勢を取った。確かに、約束してもないのに何度も会うのは微粒子レベルの可能性だ。
考え込む奏を見て、周子は次に言う一言によっては面白くなりそうだとワクワクしていた。 が、何故か奏は顔を青くして自分の肩を抱いた。
「……え、奏ちゃん?どうしたん?」
「……ストーカーとしか思えなくなってきた……」
「や、だから偶然出会ったという体で……」
「無理無理無理。むしろ偶然の方が怖い」
これは相当だな……と、周子は今度こそからかうのを諦めた。
「そんなに嫌いなんだ……」
「周子に分かる?思い出すだけで本気で憎たらしくなる男の顔」
聞かれて周子は顎に手を当てて考えた後、とりあえず浮かんだものを言ってみた。
「……グラビア撮影で胸ばかり見てくるカメラマン?」
「そんなもんじゃないわ。それは『気持ち悪い』でしょ?そういうんじゃなくて、憎たらしくなるのよ」
「あー……どうだろ。そういうのはいないかな」
「今日も頭の中でだけで何回殺した事か……。5回までは覚えてる」
「実行しないようにね……」
今度は周子が少し奏に対して畏怖を覚えた。
しかし、このまま奏を放置すればこれからのレッスンに支障が出るかもしれない。ここは全部吐き出させようと判断した。
「まぁ、そういう事ならシューコちゃんがその子の愚痴を聞いてあげよう。好きなだけ吐き出して良いよ」
「……良いの?かなり長くなるかもしれないけど……」
「だってこのままだとレッスンに影響するでしょ」
「しないわよ。私はその辺ちゃんと区切ってるから」
「普段、学校の愚痴なんてこっちで言わないのに?」
それは学校で愚痴るような事が少ないから、と頭の中に浮かんだが、どうにも自分で言い訳くさい気がした。
今日の自分を客観視すれば、レッスンに支障が出るレベルでイライラしてるのか、と思い直し、お言葉に甘えることにした。
「……じゃあ愚痴るけど、途中でやめたとか無しだからね」
「はいはい、優しいシューコちゃんが聞いてあげる」
新しい飲み物を自販機で買ってから愚痴り始めた。
×××
レッスンが始まるまで残り30分間、ノンストップで愚痴られた周子はレッスン後、いつもの倍疲れた様子でラウンジのソファーでダラけていた。
「大体、女の子の容姿を見て年齢を決めるなんて失礼じゃない?ったくあのハゲ本当に次会ったらボコボコにしてやりたいわ」
「……あーそー……」
しかも、愚痴はレッスン後も続いていた。明らかに不機嫌な奏のレッスンを見ていた青木慶でさえ、なるべく関わろうとせずに、レッスン後は早めに退散していたくらいで、周子はレッスン前に軽々と愚痴を引き受けた自分を殴りたいとさえ思っていた。
「というか、殴っても良いのかしら?一発なら大丈夫よね?ね?」
「いいんじゃなーい」
「ちょっと、聞いてるの?」
「……あのさ、聞いてあげるのはレッスンまでの間のつもりだったんだけど……」
「……あら、そうなの?けど、良いじゃない。まだスッキリし切れてないのよ」
「いや、なんかスッキリした頃には日付変わってそうな気さえするんよ」
「まぁ良いじゃない、後少しで終わるから」
言われたもの奏は平気な顔でそう答えた。これ以上は面倒になったので、周子は切り札を切ることにした。
「……奏ちゃんさぁ、ひとつ良い?」
「? 何よ」
「や、さっきの話聞いてて一つ思ったんだけど」
「うん」
「ナチュラルにその男の子とカレーパン間接キスしてるけど、その辺は大丈夫なの?」
「はぁ?そんな事して……」
否定しつつも、頭の中で「そんなことしたっけ?」と思い返した。普通にしてた。
今更になってようやく自覚し、カアっと顔を真っ赤にする奏に、周子はダメ押しの一手を打った。
「普段、キスキス言ってるくせに間接キスで真っ赤になっちゃうなんて、意外とウブだね」
真っ赤になったまま動かなくなった奏を置いて、周子は帰宅した。