結婚してから変わった事はいくつかあるが、それは良い事ばかりではない。口うるさい、喧嘩が増える、気を使う、など様々なストレスの要因があるが、それ以上に、奏と一緒に生活したい、という思いがある。だから、どんなに嫌なことがあっても「別居したい」と思うようなことは一生無いと言える。
……しかし、やはり同居というのは最初のうちは慣れないわけで。
「ふわあぁぁ……」
「あ、おはよー」
「おはよう……って、な、なんて格好してるのよ⁉︎」
朝シャンを終えた俺は、パンイチで居間に出て来た。いやー、洗面所に着替え持って行くの忘れちゃってね。
「え、なんて格好って……ボクサースタイル?」
「ボクサーパンツ履いてるだけでしょうが! 良いから上着なさい!」
「わーってるよ。てかこの前、ついに一線超えたんだし、そんな恥ずかしがる所じゃないだろ」
「そ、それはっ……そういう問題じゃないわよ! 理屈がどうこうじゃなくて、やっぱり気になるの!」
「朝からムラムラする的な? やぁん、奏ったらえっち☆」
「いくらあなたでも、椅子で後頭部殴れば効くわよね……?」
「や、あの……冗談だから、やめろって……。着替え寝室にあるし、取り行っても良い?」
「早く行きなさい!」
と、まぁえっちなことをしたからって、お互いの肌に慣れるわけではなかった。実際、俺も奏が下着姿や裸で家の中、うろつかれたら目のやり場に困っていた事だろう。
「ごめんごめん。すぐ着替えるからそう怒るな」
「ま、まったく……!」
「あと、怒るならチラチラ見ないでくんない。ある意味、ガッツリ見られるより恥ずかしいし」
「き、気付かなくて良いことに気付かないで!」
「女は視線で足が細くなるって言うし、男も視線で筋肉がついたり……」
「良、い、か、ら……さっさと着替えて来なさいよッ‼︎」
強引に寝室に蹴り飛ばされた。今のは俺が悪い。
一応、芸能界デビューを果たした以上、高校時代のように適当な服装では済ませられない。キチンとコーディネートしないといけない。
奏直伝の「モテる男の服装」に身を包み終えて部屋を出ると、奏が朝食を作っていた。エプロン姿……絵になる。
「ごめんなさい、先に寝癖とか直してたからまだ出来てないわ」
「別にゆっくりで良いよ。俺今日午後からだし」
「あら、そうだったかしら? ……またスタント?」
「そう」
「……」
しかし、良い香りだ。バターの濃い香り。めっちゃ良い匂い。香ばし過ぎてお腹減ってきたわ。
待っている間、俺はテレビを眺める。ニュースでは、まだ飽きずに俺と奏の婚約話を話題にしていた。
『17歳の頃から芸能界に身を置いていた速水奏さんですが、そんな彼女が選んだお相手の方が、あのスタント……というか、アメコミ人間出身代表みたいな身体能力を誇る、あの河村優衣さんというのは……なんというか……』
『いつ聞いても、やっとか、という感じですね』
なんか、みんな俺と奏が付き合ってた事バレてたっぽいんだよなぁ……。確かに、割と周りの目も気にせず喧嘩することはあったけど……でも、みんなもっと驚くと思ってたから少しショック。
……てか、本人が見ても気疲れするだけのニュースより、天気予報やってくんねえかな。
「出来たわよ。運んで」
「ん、早い。流石」
言われた通り、おかずと箸を持ち、奏が白米をよそい、カウンターに並べる。それを運ぶと、今度は奏が味噌汁をよそい、後からさらにそれを運んで準備万端。
「よし、食うか」
「そうね」
それだけ話して食事を始める。味噌汁を一口、口に含んだ奏が、ふとテレビを見た。
「……また、このニュース……もう良いわよ」
「まぁ、暗いニュースが多い中、こういう幸せなニュースは重要なんじゃねーの?」
「そう言われるとそうかもだけど……」
そんな話をしていると、奏の特集から俺の話に映った。
『数々のドラマのスタント役とした出演した、河村優衣さん。派手なアクションには事欠かないとまで言われるこのお方は、命がけのアクションを何度も繰り返して来ました』
おい、やめろよ。そんな褒めんなよ。
『以前、放送されていた仮面ライダーでも、怪人の格好をしたまま仮面ライダーとの戦闘を電車の上で繰り広げていました。勿論、CGを使って、撮影自体はセットで進めていましたが、変態的なアクションはCG無し。また、先月放送のスペシャルドラマでは、走行中のトラックにしがみついたまま飛び乗るアクションも、こちらはCG無しでこなしている……ファンの間ではゴリラヤンキー、略したゴリヤンと呼ばれています。27歳の人が』
最後の、必要ある?
『しかも、これだけ危険なスタントを、河村優衣さんは全てこなしています。数回、怪我することもあったそうですが、後遺症が残る怪我はなかったようで……』
『なんだか……あれですね。聞いていると、芸能人同士、というよりも芸能人と格闘選手のご結婚、のように聞こえますね』
『間違ってはいないでしょう』
間違ってるだろ。……とはいえ、ここまで褒められるか……ベタ褒めじゃない……。しかも、俺の過去の映像も同時に流している。割と恥ずかしいんですけどこれ……。
けど、悪い気がしないんだなこれが。ドヤ顔を奏に浮かべると、奏は少し不愉快そうな顔をしていた。
「どした? 嫉妬か?」
「違うわよバカ。死になさい」
「言い過ぎだろお前!」
「別に、あなたがどこの誰に褒められてデレデレしたって知ったことないわよ。浮気に発展したらあなたを殺して私も死ぬけど」
「それはそれで怖いわ!」
そんな話をしながら、食事を進める。しかし、不機嫌……とは違うな、どうしたんだろ。
「あなた、まだスタントやるの?」
「そりゃな。楽しくなってきたとこだし」
「でも……その、危険じゃない?」
「またその話?」
婚約する前から、随分と不安になって来ているのか、何度もこういう事を言われる。
「別に平気だっつーの。俺の頑丈さは知ってんだろ?」
「知ってるけど……でも、心配だもの」
「大丈夫、それで金稼いでんだから。何にしても辞めるわけにはいかないでしょ」
「……そうだけど……なんだか、警察や自衛隊の夫を持つ婦人ってこんな気分なのかしら……」
「……」
その例えは分かりやすかった。確かに、仮に奏が婦人警官だったとしたら、俺も同じように心配になっていたかもしれない。もし、奏に指一本触れる輩がいたら、そいつをドラム缶に詰めて海に捨てちゃう。
だが、辞めるわけにいかないのも事実だ。危険かもしれないし、ぶっちゃけ奏の方が収入もある。
でも、やりたいんだよね、俺が。感情の問題。理屈をつけるなら、その収入が大きい奏が産休なり何なりに入った時、困らないように。
だから、ここはこうさせてもらおう。
「奏」
「何……ふえっ?」
頬に、キスをした。不意打ちだったのか、ボフンっと顔を真っ赤にする。その奏の頭に手を置き、軽く撫でる。
「大丈夫、俺は天寿を全うするまで死なない」
「っ……な、なら、良いけど……」
少しキザだったかもしれないけど……でも、奏にはこういうのが割と効くのよ。
さて、今日の撮影も全力で行こう。
×××
「はっ、はっ、はっ……!」
息を切らしながら、コンクリートに覆われた街を走る。昼間だというのに薄暗いその場所は、人目に付くこともなく、ただただ独りで逃げるしかない。
場所は、線路と土手が近くにある人通りの少ない箇所。そこで、俺は後ろから銃を握って追ってくる女刑事から逃げ惑っていた。
近くの手摺の上を手も置かず飛び越えると、目の前の土手を駆け上がり、そのまま川の方向へ滑り降り、水面に飛び込まないよう、ギリギリをオーバーランして駆け抜けながら、侵入禁止とかかれた金網の上を、これまた手を使わずに飛び越え、着地の瞬間に前転して走る……。
「カーット!」
そこで、監督の声が聞こえて、俺は足を止めた。
まさか、またやった? と思って振り返ると、まだ後ろから追ってきている予定だった新田美波さんは土手を下る所にも来ていなかった。
「そこ速いってば! てか、2メートルある金網を何で飛び越えられるの?」
「すんません……今のでも結構、抜いてたんですけど……」
ヘルメットを取りながら謝罪した。一応、顔を隠して逃げてる設定だからね。
「うーん……優秀っちゃ優秀なんだけど、ハイスペックなのも考えものだな……。逆に、君の動きが速過ぎて他の子が困るよ」
現在、やっているのは、刑事ドラマ。俺は元傭兵で、犯罪者集団に雇われた殺し屋という設定で、それを追うのは新田美波さん。奏と同じ事務所所属で、女刑事役だ。
本来なら、金網を飛び越えようとした所で新田さんが俺の足を掴み、引き摺り落とされ、そのまま肉弾戦……の予定なのだが、俺はついうっかり飛び越えてしまったのだ。
「美波ちゃん、大丈夫? もうここ何回もやってるけど、まだ走れる?」
「はぁ、はぁ……は、はい……!」
「無理しない方が良いですよ」
「君はもう少し疲れてなさいよ。なんで美波ちゃんより早く走ってたのにピンピンしてるの」
そこはほら、体力の差。泳ぎ以外なら何だって出来ちゃうからね。
一先ず休憩を挟むことになり、スタッフや他の出演者の方々が新田美波さんに飲み物を渡しに行く。ちなみに俺の方には、マネージャーしか来ない。別に良いけど。
「お疲れさん。大丈夫か?」
「あと500回はいける」
「スタッフと美波ちゃんが死んじゃうわそれ。あなた、本当に体力バカね」
そんなこと言われても、困るんだけど。
「はぁ……もう少し上手く手を抜けりゃ良いんだけどな……」
「別に手を抜け、なんて言ってないから。速度を落として全力で走れって言ってるの」
「……なるほど。……どゆこと?」
「私に振らないでくれる?」
うーん……難しいな……。と、思っている時だった。監督がこっちに歩いてきた。
「ねぇ、河村くん」
「なんすか?」
「土手で転べない?」
「え?」
「そうすれば、速度下げなくても追い付かれるんじゃない?」
む、なるほど……。転ぶ、か。
「……元傭兵が転ぶの?」
「だから、通行人を使う。それを避けたから転ぶって事で」
「なるほど?」
賢いな。それなら辻褄は合う、か……。よし、それで行こう。
「エキストラは……まぁ、とりあえずマネージャーさんで。試しにやってみようよ。カメラ回さないから、行けるかどうかだけ」
「はい」
「美波ちゃん、行けるー?」
「あ、は、はい!」
「もう少し休んでても良いっスよ」
「大丈夫です!」
との事で、また二人で元のポジションに戻る。ぷらぷらと手首と足首を振りながら、新田さんに声をかけた。
「すみませんね、俺の所為で」
「ううん、気にしないで。……にしても、本当に足速いのね」
「たまにオリンピック選手でも目指した方が良かったんじゃないかって後悔しますよ」
「それは……割とあるかも」
まぁ、少なくとも団体競技は無理だと思うけど。昔から協調性ないし。
「で、奏さんとはどうなの?」
「え? ど、どうって?」
「ほら、結婚したんでしょ?」
ああ、やっぱそういう話ですか……。
「別に、どうもしませんよ。相変わらず喧嘩ばかりしてますし、10年一緒にいれば、たかだか結婚したくらいじゃ大して変わりません」
「あー、分かるかも」
変わったことと言えば……えっちしたくらいか。あの後、本当に大変だった……。
それと、なんか大人になった気がした。お互いに。具体例とかは特に無いけど、例え、今、目の前で新田さんが全裸になったとしても、平常心でいられる気がする。
「あと、変化といえば、奏の態度かな。前から口うるさくなったのが、余計にうるさくなりました」
「それは仕方ないよ。一緒に暮らす以上は、直して欲しい所も出てくるものだよ」
まぁ、それを言われるとそうなんだろうけどさ……。
「でも、やれ危険なスタントはやるなだの、危ない真似はするなだの……そういう注意ばかりで」
「それも、あなたが心配だからでしょう?」
「分かってますよ。今朝、約束して来たんです。俺は死なないって」
「ふーん……なら良いんじゃない?」
しかし、同僚の結婚生活に随分、興味があるみたいだな。女性はいくつになっても恋バナが好きだねぇ。
さて、ポジションについたし、さっさと始めようか。
再び走り出した。まずは長い一直線を走り、横に曲がり、障害物を乗り越える。
そのまま土手沿いに上がるため、少し坂道を駆け上がり、そこで一瞬、後ろを見る。傭兵が走ってる最中に人とぶつかるなんて愚は犯さない。
が、ほんの一瞬でも後ろを気にする可能性はある。その時、ぶつかりそうになるのなら、あり得なくはない。
前を見ると、隣から歩いてくるマネージャー。それを、俺は回避する……のだが、反射的に空中に足を振り上げ、マネージャーの頭上を飛び越える回避をした。
「……うわぁ、すげえなあの人……」
「相変わらず人じゃない……」
監督とカメラマン、お前ら黙ってろ。てか、この後転ぶんだっけ。あ、てかこんな風に避けたらどう転べば良いのか……。
着地に迷う、というのは、スタントで一番やってはいけないことだった。これは俺の自論。強引にでも着地しないと一番、大きな怪我をする。
案の定、着地の際、足を捻った。その捻った足が元に戻ろうとし、身体ごと横に飛ばした。しかも、マネージャーの真上を通って着地したのだから、そっちは下り坂である。
そのままゴロゴロゴロゴロッと転がり、川の中に突っ込んだ。ザバッシャーンと水飛沫を上げた。
「……え」
「あれ平気なの……?」
「さぁ……」
なんか話している気がしたが、聴こえない。とりあえず、耳に入った水を払いながら、立ち上がる。
「うわ、生きてる」
「すげぇ。大丈夫ー?」
おい、一人目。「うわ、生きてる」ってなんだ。このくらい、何ともないわ。
そう思って歩き始めたものの、足首がズキッと痛む。
ヤベェ……怪我したかも……? まぁ、でも走るくらいなら大丈夫だろ。むしろ、これで速度の調整ができるようになったわ。
「おーい、大丈夫ー?」
駆け寄ってきたのは新田さん。まぁ俺を追っていたわけだし、当たり前と言えば当たり前だ。
「平気?」
「平気」
「ほんとに?」
「ほんとに!」
「……」
え、何その疑い深い目……。なんか、撮影中止にすらされそう……と、思っていると、監督が声をかけてきた。
「おーい、大丈夫⁉︎」
「全然平気です! 空も飛べます!」
「よし、じゃあもう少し休んでからもっかいね!」
「うっす!」
返事をして走って元の位置に戻った。新田さんの、ジトーっとした視線を背中にビンビン感じながら。