その昏い瞳と、恐ろしい笑みを俺に向けて。
「穂乃果を、しゅー君だけのものにして欲しいんだ……♡」
エプロンを解いて、胸元のボタンを外す。
「彼女だもん。両想いだもん。……して、くれるよね♡」
「どういう、意味だよ……!」
思わず顔を逸らしたけど、顔を見なくても動揺しているのは一目瞭然だったと思う。穂乃果もそれを分かっているから、舌なめずりをするように笑っている。今、俺は完全にペースを握られていた。
「どういう意味って……やだなぁ、しゅー君ったら、わかってるくせに♡」
そんな俺の顔はがっちりと両手で掴まれて、もう一度穂乃果の方に振り向かされる。そして、そのままの勢いで唇を奪われた。それどころか、歯を閉じるのも間に合わない俺の口の中を、穂乃果の舌が蹂躙している。歯茎を撫で、舌を絡め取って、唾液を交換する。
まるで、自分だけのものだとマーキングするように、深く、荒く……。
突然のことだったからすぐに息が続かなくなるが、そんなことはお構いなしという風に侵し尽くされる。
穂乃果が、怖い。突然人の家に上がりこんで、いつのまにか彼女だということになって、今もこうして脅迫されて、キスまでされてる。
なんで、こう、なった……?
軽く酸欠気味になりはじめたのを察したのか、穂乃果が唇を離した。耐えきれず咳き込むが、当の穂乃果は「ごめんね、ちょっと長すぎたかな……」なんて言いながら、心配そうに俺を抱きかかえる。だ、誰のせいで、こうなったと——————
「どうだった?穂乃果のファーストキス……♡」
——————穂乃果の口には、まだ唾液が垂れている。ついさっきまで、俺の口とつながっていた、ソレが……。
一瞬だけ男として興奮を覚えそうになるが、必死にツバサの顔を思い浮かべて振り払う。でも穂乃果のことだって俺は好きだった。その彼女と、こんな……。
そんなふうに混乱していた俺の反応は、穂乃果には好意的に伝わってしまったようだ。淀んだ目が輝くという、一見矛盾した表現をするしかない瞳で、二回戦を始めようという勢いだ。
「よかったぁ♡しゅー君も気持ちよかったんだね? じゃあ、またしよっか♪」
そう言ってまた覆いかぶさってくる穂乃果を静止して、なんとか対抗する。いくらこんな状況になっていても、少なくとも穂乃果と『こんなこと』をするのが正しいわけがない。
「だからそれは無理だって!わかってるんだろ?俺には彼女が……」
さっき名前を挙げて地雷を踏んだので、今度は名前を言わなかったのだが……。
「だから?『だから』こうしてるんだよ。それに……彼女は穂乃果だよね?」
それも、今の穂乃果には無意味だった。むしろ、逆効果だったかもしれない。また少し不機嫌になって、結局無理やり二度目のキスをされた。
穂乃果の中で、『自分が彼女でいること』と、『俺がツバサを彼女と認識していること』は、ツバサが割り込んできているということで矛盾はしていないようだった。
……今の穂乃果は明らかにおかしい。勘違いというよりは、何処か病んでいるのか?それをさせたのは、俺なのか……?
そこまで考えながら、二度目のキスが終わると、穂乃果は俺の体を横にあったソファに押し倒して、耳元で囁いてきた。
「ねぇ……このまま、キスだけじゃなくて。もう一つの『初めて』もしちゃわない?」
それが何を指しているのか、わからない俺じゃない。
「穂乃果はこれからもずーっと、しゅー君だけのものだから、なんにも心配いらないよ?」
だけど、それだけは。それだけはダメだ穂乃果。
「お願い……お願い、だから」
最早脅迫から懇願に変わっていくその声色に、俺は少しでも説得の余地があると思ってしまった。だが、なんとか諦めてもらいたい一心と、恋愛で気の利いた言葉なんて浮かばない性分のせいで、また地雷を踏んでしまった。
「ごめん、俺はもう、『初めて』はツバサと……」
———————————瞬間、穂乃果の瞳が再び、激しい憎悪に染まる。
それが向けられているのは確かに俺じゃない。
俺の後ろにいるツバサにだ。
だけどあまりの恐怖に、声も出せなくなってしまっていた。
穂乃果が、こんなに怖いと思ったのは今日が初めてだ。
あんなに明るくて元気で、無垢だった穂乃果が、こんなに変わり果ててしまうなんて。
そうさせてしまったのは、俺なのか———————?
「そんな……あの人が……? しゅー君の、初めてまで……奪った……!?」
憎悪に染まりながらも虚空を見つめ、ブツブツと何かをつぶやいているが、すぐにまた顔を俺に向けて、押し倒している俺を女性とは思えないほどの強い力で抱きしめた。
骨が軋む感覚がするが、痛みよりも恐怖が勝って、声も出せない。今、俺はあんなに憧れた太陽のような少女が肉食獣のように変化したことに怯えて、呑まれて、食われようとしていた。
「ならさぁ……『彼女』の私がもっともっと。あんな人のこと忘れちゃうくらい、気持ちよくしてあげなくちゃいけないよねぇ……??」
口角をつりあげて笑う穂乃果は、先ほどの俺の失言でもう一段階、上のスイッチが入ってしまったようだ。服を脱いで、下着もその意味を無くしていく。
ツバサと付き合う前なら喜んでいたはずの、この1年間ずっと憧れていた人の裸なのに。俺はそれを直視できない。
彼女をこんなに傷つけてしまったのは俺だ。だからこそ……絶対に流されて抱くわけにはいかない。俺のわがままでこれ以上、穂乃果をこれ以上傷つけるわけにはいかないんだ。
だからあと少し、勇気を出して、断るんだ。意志を強く持て修也。
ツバサと付き合うと決めたから。穂乃果のことが大切だから。
言うんだ、動かすんだ、体を————————
「抵抗しちゃダメだよ、しゅー君。ここでしゅー君に逃げられちゃったら、私……死んじゃうかもしれないよ♡」
—————————え?
「そのくらい、私にとってしゅー君は大切な人なの。私がここまでこれたのも、これから頑張っていけるのも、私だけの力でも、μ'sの皆だけの力でもない……。しゅー君がいてくれたから」
「そんなしゅー君の悩み、ラブライブだけに夢中で気づいてあげられなくてごめんね?辛いのも、わかってあげられなくて、本当にごめんなさい。今、こんなことをしてまで、しゅー君に嫌われるような……拒絶されちゃう『そんな私』なんて、もういらないよね?」
「大丈夫だよ。しゅー君に迷惑かける方法では死なないから、安心してほしいな?ちゃーんと、人目につかないところで、すぐに見つからないように……」
安心……?
何を、言ってるんだ穂乃果は。
まさか。
まさか本気で、そんなこと—————
「だ、ダメだ穂乃果。待ってくれ!なんでも、なんでもする! だから、それだけは—————」
だが焦っているのは俺一人。
穂乃果は全く動じていない。それどころか、『その言葉を待っていた』と言わんばかりの満面の笑み。
「大丈夫。私を抱いてくれたら、『死んじゃうかも』ってのは二度と言わないであげるよ♪」
……これは単なるブラフじゃない。穂乃果の目は本気だ。少なくとも、この場でどんな手を使ってでも、俺を逃がすつもりはないのは間違いない。
今の穂乃果の言動は、俺にそう思わせるのに十分な説得力がある。
また一瞬、脳裏にツバサの顔がよぎった。俺は彼女を裏切るのか?幼馴染で、運命的に再会して、俺を理解してくれて、一緒に夢に向かって頑張っていける最高の彼女を。
だけど、いくらなんでも穂乃果の命になんて————————
「どうするの、しゅー君?……早く、答えを出して♪」
「…………………………わかった。だから、二度とそんな条件は、なしで頼む」
「うん!それでこそ、私の彼氏のしゅー君だよね♪……たっくさん、愛情をこめてね?あの人よりも、ずっと……♡」
ツバサの時はよくわからないまま、こみ上げる衝動に任せてだったから、自分の意志で明確に女性とそういう行為をするのは初めてのことだった。
お互い大した知識があるわけじゃなかったけど、ずっと一緒にμ'sで頑張ってきた大切な穂乃果。ツバサとは違う意味で身近で憧れの女性だった彼女に求められるままに、俺は流されてしまった。
弱い自分に、目をそむけたまま。これは脅されているから仕方ないんだと、自分に言い訳したまま。
でも自分で自分を許せない気持ちとは裏腹に、穂乃果からぶつけられる狂おしいほどの愛情には逆らえなかった。
それどころか、俺自身もその狂気に呑まれて。
俺は、穂乃果と———————
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
——————そんな、永遠とも思える時間が終わってから、数分。
穂乃果は後ろから俺の肩に顎を載せて囁く。
本来ならときめくシチュエーションなのだろうが、俺の心は先ほどまでの熱さとは裏腹に冷め切っていた。後ろから全てを支配されている感覚すら覚えていたからだ。
「しゅー君……実はね、もう一つだけ、お願いがあるの」
また、『お願い』か……。
「これ以上、何があるっていうんだ……ツバサと、二度と会うなとでもいうのか?」
「うーん……それもいいんだけど。それだとこれっきりになっちゃったら困るし……マネージャーを続けてほしいの。ニューヨーク、一緒に来てほしいんだ♡」
疲労と、要求される内容に目眩がしてフラつく俺にも構わず、穂乃果は目を爛々と輝かせて続ける。
だけど、それは……。
「さっき『二度と言わない』って言ったじゃないか……!今度は何を交換条件にするんだよ」
「……やっぱしゅー君は、普段は鈍いのにこういう時頭いいよね。そういうところも好きだよ♪」
「誤魔化さないでくれ。いったい何を……」
疑問をぶつける俺に穂乃果が差し出したのは、携帯電話。
普段穂乃果が使ってる、いつもの可愛らしいモデル。
だが、俺の目にとまったのはこの時だけは、その外観じゃない。穂乃果が指差したカメラの部分。それを見た瞬間、俺はすべてを察した。
「……うん、よく撮れてるね。さっきまでのコト♡」
……撮られて、いた。
完全に、その可能性が頭から抜け落ちていた。状況を考えれば、ありえたかもしれないことなのに。雰囲気に呑まれて、全く気づけなかった。
「一応言っておくけど、ちゃーんとネット上に保存されるようにしてあるから、この携帯から削除してもムダだよ♪μ'sの動画を保存したり、ネットに上げるために一緒に勉強したもんね?」
「マネージャー辞めちゃったら、穂乃果悲しくって……この動画、インターネットにアップしちゃうかも♡」
——————そう、なったら、穂乃果もμ'sも。
俺なんかはいい。でもみんなが。
二度と、スクールアイドルなんてできなく——————
「や、やめてくれ!それは、それだけはダメだ!!」
俺は、みんなの人生をぶち壊しになんてできない。
自分の夢をかなえたい。だけどそんなことより、μ'sが、μ'sのみんながそんな目に合うなんて—————
「なんだか『それだけ』が多いね? ……やっぱり、しゅー君は私のことを想ってくれるんだ。自分のことやあの人のことより、私やμ'sのみんなのことを守ってくれるんだね……♡」
——————俺がそういう反応をすることも、穂乃果にはお見通しだった。
穂乃果は、俺がみんなの光に憧れていることを知っていて。
μ'sのみんなが大好きな気持ちは失ったわけではないことを知っていて、そういう要求をしてきているのだから。
本当はアップロードする気なんてさらさらないのだろう。でも俺はそれに……僅かでも可能性がある限り、逆らえない。そんな俺の無言は、またしても肯定と受け取られたようだ。
「出発までそんなに日にちはないから、シャワー浴びたらもう一緒に準備始めよっか。きっとみんなも喜ぶよ♪」
どうしたらいいのかわからなくて唖然としたままの俺の顔を、穂乃果は自分の胸に抱いて、優しい言葉を投げかける。
「……大丈夫。大丈夫だよ。しゅー君の夢も一緒にかなえよ? 私と一緒に……♡」
変わり果ててしまった穂乃果だけど、その言葉だけはなんだか、以前の穂乃果を思い出させてくれて。
自分のせいでこの事態を招いたんだと。俺が穂乃果を追い詰めてしまったんだと。ツバサを裏切ることに、なってしまったんだと……。
そう後悔しながら、一筋の涙を流す俺を、穂乃果はあやすように背中をさすってくれていた。
————————こうして、俺は。
何も解決しないどころか、事態を悪化させて。
ニューヨークへ、行くことになった。
これで前中後編のうちの前編が終わります。
次回から中編の劇場版に入ります。(このSSでは、劇場版の時系列を卒業式の前に持ってきています。)
ですが、せっかくの一区切りなので、その前にいくつか短編とかをやるかもしれません。
UAも27000を超え、お気に入りも650件近くいただきました。
本当にありがとうございます。これからも頑張って続きを書きたいと思います。