尾崎がプロデュースしていたアイドル水谷絵理。絵理は尾崎にとって夢そのものであった。
その夢を手放してから心が空になっていた尾崎だが、とある出来事をきっかけに再び夢へ向かって歩き始めることとなる。
メールの受信を告げるために小刻みに震え始めたケータイを手に取り、メールの差出人を確かめる。
予想通りの人物であることを確認し、尾崎玲子はケータイをテーブルの上に静かに置いてテレビへと視線を戻した。
「石川さんも大概律儀な人だわ」
ワンルームマンションの一室でテレビを付けながら尾崎は夕食を摂っている。
テレビに映っているのは年末恒例の歌合戦。煌びやかな衣装に身を包んだ歌手やアイドル達が楽しそうに歌ったり踊ったりしている。
次に歌うのは水谷絵理という少女だった。
「言われなくても見てますよ」
尾崎はケータイに向かって呟いた。今では別々の道を歩んでいるが、水谷絵理は一年ほど前まで尾崎がプロデュースしていたアイドルだ。
舞台袖から見ていた絵理をテレビを通して見る。最初の内はそのことに違和感を覚えていた尾崎だったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。
「しっかし、まぁ…可愛くなって」
テレビの中で歌って踊る絵理を眺めていると、自分の教えたことでないものに目が行くようになった。
それが尾崎には嬉しくもあり寂しくもあり、後ろめたくもあった。
自分がプロデュースしていた頃の絵理を思い浮かべる。自分の後ろにくっついて離れなかったあの頃の絵理を思い出す。
「最初は私が居なければ挨拶もロクに出来なかったのにね」
暗くて濁った感情が胸の内を満たす前に、尾崎はテレビを消した。
元々、絵理はネット世界のアイドルとして人気のあった少女だった。その才能と実力に目をつけた尾崎によって現実世界のアイドルとしてデビューすることになった。
尾崎はフリーのプロデューサーのため、自分一人では出来ることにどうしても限界がある。
そこでまず876プロという小さなアイドルプロダクションに絵理を売り込み、所属させた。そして絵理の専属プロデューサーとして、尾崎が876プロと契約するという形を取った。
絵理の控えめすぎる性格ではあまり大きいプロダクション事務所には適していないと考え、比較的小さくて尚且つ環境や経営方針が安定している事務所を選んだ。
尾崎の推測通り、絵理は同期のアイドルやスタッフに恵まれた。尾崎の指導に加え、同期のアイドルと切磋琢磨することにより、絵理は技術面はもとより精神面で特に成長した。
無人のステージに立つだけでも震えていた絵理が、超満員のドームでのライブにも物怖じしなくなり、一流のアイドルと誰もが認めるようになった頃、尾崎は静かに姿を消した。
成長し続ける絵理の能力が自身の手に余る状態となり、自分の存在が絵理の成長の妨げになると感じたからだった。
絵理にも事務所にも誰にも言わず、気が付けば尾崎は居なくなっていた。
身を引いた、と言えば聞こえは良いが、それは逃げただけに過ぎない。自分の責任を全うせず投げ出しただけである。
もっと他にやりようがあったはずだ。少なくとも絵理とはお互いに納得するまで話し合うべきだった。
だが尾崎はそれをせず自分が一番楽な手段を取った。自分にとって一番痛みの少ない方法を選んだ。
実際、居なくなられた側からすれば相当な騒動があっただろう。尾崎のケータイには各関係者からひっきりなしに連絡が届いていた。
尾崎はそれらに対して内容を確認するだけで、返信するようなことはなかったし、連絡を遮断するようなこともしなかった。
そうすることが一番早く忘れ去られることに繋がると尾崎は考えたからだ。
その目論見通りかどうか、今では連絡が来るのは876プロの社長である石川からのみとなっていた。
「私も独り言が多くなったものだわ」
言葉通りに一人ごちて、テーブルの上に置いてある缶ビールへと手を伸ばした。
繁華街の交差点で人混みに紛れ尾崎は信号が青になるのを待っていた。空は冬特有の厚い灰色の雲に覆われ、刺すような冷たい風が吹いている。
「寒いわね。色んな意味で」
絵理の元から去った後、尾崎はしばらく休息していたが、やがて糊口をしのぐため新しく職を探し始めた。
尾崎の中にはもう誰かをプロデュースする気持ちは無かった。絵理を超える才能を持つ人間に出会えるとは到底思えなかったからだ。
とりあえずは、と接客業に従事してみたが自分に合わないことが分かりすぐに辞めた。
次にやってみたのが小さな会社の経理事務員。業務自体には問題無かったが、あまり良い雇い主ではなかったため、深みにはまる前に辞めた。
実際に働いてみたというのは、その二度だけである。何度か良さそうな求人を見つけては応募をしてみるが、どれも採用には至らなかった。
自分に合いそうな会社が事務員を募集していたので、面接を受けに行き、今はその帰り道である。
「早く春が来るといいのだけど…今回も駄目そうね」
尾崎が寒さをしのぐためコートのポケットに手を入れたとき、誰かに呼ばれた気がした。
首だけを動かして辺りを見回すが信号待ちの群れに見知った顔は居ない。気のせいかと前に向きなおした時、信号が青になった。
横断歩道を渡ろうと一歩踏み出そうとしたとき、やはり誰かに呼ばれる声が、しかし今度ははっきりと聞こえた。
「尾崎さん!!」
呼び声と共に尾崎の手がしっかりと掴まれた。懐かしい感触と聞き覚えのある声。
後ろから不意に手を掴まれたこともあり、尾崎は反射的に振り返って自分を呼び止めた人物を確認する。
そこに立っていたのは、やはり水谷絵理だった。
「絵理…絵理なの?」
「うん」
一年振りに再会した二人は少しの間、お互いに見つめ合う。
再会出来た嬉しさ、驚き。
後ろめたさと申し訳なさ。
期待と信頼。
色々な感情が混ざって二人の間に沈黙が流れる。
その沈黙を先に壊したのは絵理の方だった。
「…元気…してた?」
「とっても元気よ。絵理は?」
「元気してる」
「これから仕事?」
「うん。タクシー、探してたとこ」
当たり障りのない会話が交わされる。お互いの心の少し上で言葉が交換される。
一年前であればもっと聞きたいことが絵理にはあった。一年前であればもっと弁明しなければならないことが尾崎にはあった。
今の二人からそういう言葉が出ないということは、お互いが既に過去のことになっている証拠だった。
「尾崎さん、今何してるの?」
「色々とね。でも芸能活動はしていないわ」
「…そう」
尾崎の言葉に絵理が少しだけ残念そうな顔をした。それを見て尾崎も少しだけ悲しい気持ちになった。
「ええ。それじゃ絵理も忙しいだろうから」
軽く手を上げて尾崎が去ろうとする。
「うん」
絵理も頷いて見送る。
これまで絵理は尾崎と自分の歩む道がもう二度と重ならないことは頭では理解していた。
しかし頭では理解していたが心では納得出来ていなかった。それが今、尾崎と再会したことで消化された。
尾崎が居なくても一人で歩いていけることを絵理は確信した。
人混みに紛れていく尾崎の背中を絵理は満足そうに見届けてから、丁度タイミング良くやってきたタクシーに向かって手を上げた。
絵理がタクシーに乗り込むのを尾崎は人混みの中から見届けた。
「なんで今更会うのかしらね」
尾崎は空を仰ぎ、気だるく息を吐き出した。吐き出した息は白く濁り、拡散し、そして消えた。
空を仰いだまま目を閉じると、絵理の背中が思い浮かんだ。出会った頃の丸く縮こまった背中ではなく、先ほどの別れ際に見えた凛と伸びた背中だった。
「でも、会えて良かった」
堰を切ったように尾崎の胸の奥から感情が溢れ出す。
尾崎は絵理のように強く変わりたいと願った。絵理の背中に追いつきたいと思った。
それからもし自分が絵理と並べるぐらいに成長したとき、もう一度絵理に会いに行こうと決めた。
尾崎の立ち止まっていた足が、夢に向かって自然と歩き出した。