舞風は天使
欲望と言う物は、生きとし生けるもの誰にだってある物。
動物や植物にも、食欲や、生存本能と言う種を遺す為の潜在的な欲があるように、人間にも欲がある。
例えば、『気に入った、だからそれが欲しい』というような物欲。例えば、『疲れたから眠りたい』というような睡眠欲。例えば、『自分の秘めたモノを満たしたい』というような性欲。
欲と言うのはこの例に挙げたモノだけには収まらない。たった一人の人間の欲望に焦点を当てたとしても、それこそ星の数ほどあるだろう。
だからこそ、全ての生き物はイドと言う欲望の塊にエゴと言う監視者をつけるのだ。欲望のままに生きるということは、自ら破滅へと歩むことに等しいから。
だが、欲望と言う物は、何処からともなく現れて、脳髄を支配していくもの。どんなに自制をしても、どんなに厳正な監視者で欲望を監視しようとも、欲望のチカラと言うのは絶大で、知らぬ間に主導権を握られると言う事は良くあることなのだ。
体験した事はあるだろう?
『気づいたら限定品を買っていた』、『目的の料理を食べたかったのに、突然別の料理に惹かれて食べてしまった』、『いつの間に気になる子が出来てしまい、無意識に目で追っていた』と言うような事例を体験した事があるだろう。
そう。欲望とは、けしてコントロールしきれるものでは無い。
現に、
「へいほふぅ?」
舞風の隣に座っていた提督が、突如舞風の頬っぺたを掴んでいる様に。
そうこれは、なんのことはない、ただの欲望の話。
一日の業務が終わり、窓から刺す夕日も水平線の彼方に沈みゆく頃合い。
提督と、秘書艦であり唯一のケッコン艦である舞風は、執務室の片づけを簡単に終え、来客の応対用のソファで隣り合う様に座りながら休息をとっていた。
野分が最近気に入っていると言う銘柄のコーヒーをペアのマグカップに淹れ、舞風が最近ハマっているブランデーケーキを共に食みながら。
他愛の無い会話を繰り広げつつ、窓から入り込む涼やかな風と浜に押し寄せる波たちの合奏を楽しむ、二人だけの時間。
穏やかに過ぎる時間と緩やかな空間の中で、提督は舞風の口から紡がれる物語に耳を傾けていた。
野分が最近事あるごとにコーヒーの話をするようになった、嵐が野菜を食べなくて萩風が困っていた、不知火が改ニになったので皆でお祝いをした。
その時の事を瞳を輝かせながら語る純真な彼女に、提督は口許を綻ばせながら聞き入る。
そんな風に、いつもなら提督が舞風の話に聞き入っているのだが、今回に限っては何故か、本当に彼自身よくわからないのだが楽しそうに語る舞風に『触れたい』思ったのだ。
その結果が、
「へいほふぅ?」
舞風の両頬を摘む提督と、突然の事に驚き首を微かに傾げる舞風と言う不思議な図が完成したのだ。
不思議そうに首を傾げながらも抵抗する素振りは見せない。
提督は指先を僅かに動かして、彼女の頬っぺたを揉んでみる。
染み一つなく、真っ白なキャンバスのような舞風の頬っぺたはスベスベとしていて吸い付くような癖になるモチモチ感を提督の指先に伝える。
「ふすふふぁいよ~」
くすぐったい。そうは言いつつも、舞風はにこやかで提督からの指先の感触を楽しんでいる様にも見える。
摘んでいた頬っぺたを一度離し、提督は人差し指だけで舞風の頬っぺたを突っつく。はりのある弾力を提督に感じさせるが、舞風の歯に頬っぺたの内側ががくっつくと流石に弾力を感じなくなる。
が、今度は舞風がただでは終わらなかった。押されている頬っぺたを内側から舌で押してきたのだ。
「?!」
予想だにしなかった反撃に思わず指を引っ込める提督。その顔は驚きの皺で凝り固まる。
ちょっとした悪戯が成功したからか、舞風はウィンクを提督に飛ばす。先程まで揉まれて血行が良くなったからか、それとも突然触れられたことに寄る事か彼女の頬が僅かに茜色に色づいていた。
「ふっふ~ん♪」
提督は鼻を小さくならしながら表情を崩すと、舞風の左手をとって彼女の白い手袋を外す。その中から現れたのは、白金の指輪が嵌った陶磁器の様な白さの左手。二人が共にある証の嵌った左手。
舞風の右手も同じように手袋を外し、日焼け一つない右手も露わにすると、提督は彼女の小さな手を包むように握る。花畑で摘んだ花を持つかの様に、決して力を入れすぎずに、包みこむように。
舞風の小さな手が放つ仄かな温かさを、提督の大きな掌全て感じ取る。
「うーん……。どうしたの?」
困惑に眉根を歪ませなる舞風。でも、嫌な思いは微塵も無い。
それは何故か?
いつも相手の事を求めるのは舞風から。彼に甘えるのは舞風が圧倒的に多いのだ。
普段は甘えさせてくれる提督が自分に甘えてくれている。その事実が舞風の胸を占め―――歓喜で満たしている。
突如、何も言わずに求められるのは困る。でも、それ以上に嬉しい。
だから、舞風は何も語らずに求めている提督に深く追求せずにされるがままになっているのだ。困った様に、でもそれ以上に喜びで上書きされつつある笑みを浮かべながら。
舞風の滑らかな手の感触を堪能し終えたのか、笑みを浮かべている舞風の手を離す。
すると、その腕を舞風の背中に回して抱きしめる。
突然抱きしめられたことに、ピクリと身を硬直させたが、段々と表情筋を砕くと、提督の胸元に緩んだ口許を押し付ける様に収まった。
「もぅ……何か言ってもいいんじゃない?」
言葉こそ、彼を糾弾するようなものだが、その声色が弾んだ物であるとわかっているのなら、彼を責めるような意味は何一つない事が簡単にわかるだろう。
舞風の背中から彼女のよく整えられた髪を撫でる。くすぐったいのか腕の中で舞風がもぞもぞと動いているのがわかる。
その様子に提督は愛おしそうに小さく笑みを浮かべると、舞風の髪留めに指をかけ、そして――
「あっ―――」
シュル、と音を立てて舞風の髪を解いた。舞風の髪が重量に従い孤を描きながら垂れていく。
舞風が驚愕に固まっている。提督は固まってる舞風から僅かに距離をとる
――ああ
そこに居るのは、舞風と言う、底抜けに明るいように見える強がりな少女では無かった。
顔を朱色に染めながらも驚愕に固まるただ一人の少女。彼が愛する一人の女性。
――そうか
提督は右手を彼女の頬に手を添えて笑みを浮かべると―――彼女の瑞々しい唇に自らのそれを重ねた。
「……………?!」
暫しフリーズしていた舞風であったが、突如として口づけをされている事に意識が向いたのか、急激に顔を茹でられたタコの様に真っ赤にする。
それを感じ取ったのか、提督は緩やかに舞風から顔を離す。
舞風は真っ赤になりながら口許を両手で覆うと、処理しきれない情報を何とか処理しようと顔から蒸気を出しながら整理する。
提督は、何故舞風に触れたいと思ったのかわかった。
――舞風にただ触れるだけじゃなくて、舞風の『心にも』触れたかったんだ
舞風に沢山触れる事で彼女の心に忍び寄り、髪留めを外すことによって隙を露わにさせ、唇を重ねる事によって心を奪い取る。
何とも強引で悪戯な方法なのだろうか、と提督は心の中で苦笑いを浮かべる。
でも、仕方ない。楽しそうに語る舞風を見て、その心に触れてみたいと思うのは当然の事だ。彼もまた天使に踊らされた人物に過ぎない。
「も、もう!急すぎるって!!」
舞風は怒った様に声をあげているが、顔は怒りの意味では無い赤さで、声は上擦っていて、挙句の果てに唇は緩んでいる。まるで説得力が無い。
「ごめん。舞風に沢山触れあいたくなった。舞風が幸せそうに語るから、なんというか……舞風の心に触れたくなった」
「も、もぅ……そんな風に言われたら……注意も出来ないよ……」
もう一回言うが、舞風は幸福感でゆるゆるなだらしない表情を浮かべているのだ。本当に注意するつもりがあったのかと言えば、それは体裁的な注意にしかならない事は明白だ。
普段は甘えてこない提督の口から『舞風と触れ合いたい』と言われてしまえば、喜びの方が勝ってしまうのは道理とも言える。
「でもね」
舞風はなんとか抗議するようにジト目を作り、提督の頬に手を添える。逃げられないように両手でがっしりと捕まえる。
「舞風――」
それ以上の言葉を提督が口にする前に、
「心に触れたいのはあたしも同じだよ!」
舞風は提督に口づけを落とした。
口づけを交わしながら、互いの片手は自然と相手の手を探し、握る。もう片方の腕は、お互いの背に回して抱きしめる。互いの目蓋は落として、繋がりを味わう。
その姿は、情愛を表現するダンスのフィニッシュシーンの様。
唇から、手から、腕から、お互いの幸福と愛情を交換する。沈みゆく太陽だけが観客の執務室で。お互いの息が続くまでずっと。
この熱病の如き情熱を砕く要素があるとするれば、それは――
「大変遅れました司令!遠征の報告書がかんせ――」
招かざる客だけだろう。
執務室に入って来たのは本日の遠征部隊の旗艦である野分。明日の提出でも構わないと彼女に伝えたのだが、生真面目である野分はなんとか本日中に書き上げようと努力し、完成させてしまったらしい。
確かに野分は生真面目な艦娘ではあるが、
「し、失礼しましたー!!!!!」
恋人同士が交わっている時間を邪魔するほど野暮では無い。荒々しくドアを閉め、一目散に逃げた。書類を抱えたまま。
提督と舞風は緩やかに距離をとる。
「なんか、締まらないねー」
「……だな」
そして、互いの顔を見て微笑みあう。
「じゃ、急いでのわっちを追ちゃおっか!」
「だな、無粋な事をしたって暫く落ち込んじゃうだろうから」
二人の間に甘い雰囲気はもうない。
だけど、自然と手を取り合って立ち上がった二人には雰囲気などあってもなくても変わらないだろう。
「今度は」
「うん?」
「提督のお話を聞かせてね?」
「やり返すつもりか?」
「勿論だよ!あたしもやられてばっかりじゃいられないから!」
もう一度、ほんの一時だけ、唇を重ねる。今はそれで充分。これだけでも、深くお互いの心に触れ合えるから。
二人は固く手を繋いだまま、野分を追うために執務室から出て行く。
これは欲望の話。『相手に触れ合いたい』と言う、なんとも我儘で、何とも甘美な欲望の話。