【Infinite Dendrogram】名も無き<マスター>達の独白記 作:ナーバス
監獄所属 【暗殺者】Ⅲ:キャッスル
描けない
かけない
カケナイ
カケナイカケナイカケナイカケナイカケナイ……
意識する。腕が動く。脳が描いた残影の通りに筆が軌跡をたどる。
それがどれだけ特別なことなのか、蘇った利き手の感覚に涙し、かつて運命に呪詛を蒔いた唇からはあっさりと感謝と愛が零れた。
不幸にも事故に合い、命には別状なかったものの後遺症で利き手にマヒが残ったことで、私の夢は……幼いころからの画家になるという夢は一度頓挫した。
もちろん、利き手のマヒ程度なら技術の進歩でいくらでも代用は効く時代だ。逆の手で練習をすれば済む話でもあるし、なんならロボットアームを使いこなしてもいい。
実際、そうして夢を叶えた画家はたくさんいるし、いやらしい話だが付与価値の付いた作品というのは注目されるものだ。
けれど、そうじゃない。あの自分の意思をそのまま具現化するような、筆と己が一体となるような、腕と筆だけを残して自分の存在が希薄になっていくあの感覚を取り戻すことはもうないのだと、そういう事実に私は筆を折らざるを得なかった。
別段、特別な才能があるわけでないのだ。大きな賞を取ったわけでもなく、掃いて捨てるような凡才に過ぎない私のようなものが絵を描き続けていたのは、その一体感に魅了されてのことだった。時間を忘れ、腕が思うがままに筆を動かし、精根尽き果てるまで描き続けられたのは絵を描くことの楽しさを私の腕が覚えていたからだ。
けれどそれを味わうことは二度とない。そう思っていた。<Infinite Dendrogram>に出会うまでは……
デンドロを紹介してくれたのは病院の先生だった。絵を描けなくなった私のケアに両親がカウンセリングを依頼していたのだ。
初めて言われたときは愚かにも先生のことを軽蔑した。VRに希望を求めるなんて夢物語にしても滑稽だし、なによりみすぼらしく歪な幻想すぎて、自分がそこまで堕ちたのかと、事実を受け止めるだけの余裕もなかったからだ。
けれど、渡されたヘッドギアでチュートリアルを受けると、そんな考えは一瞬で吹き飛んだ。
全てが、私が失ったと思っていた全てがそこにはあった。震えない腕、軋まない心、輝く世界。<Infinite Dendrogram>は紛れもなく私のための現実だった。
両親の行動は早かった。病院からの帰りに購入してもらったヘッドギアを卵のように大切に抱きかかえながらの帰路は私の人生の中で一番心躍る時間だった。
そうして私は理想の世界を【絵師】として歩み始めた。
それほど多くない所持金を工面して画材を買い、自由な世界で絵に没頭する。
親切な人に教えてもらった【絵師】の組合に仕事を斡旋してもらい、食うのに苦労しない程度には生活の目途も立った。
それは紛れもなく私のための世界だった。
決して綻ぶことのない線を紡ぎ続ける毎日。絵に自分の全てを懸けることのできる世界。
二日目に芽生えたアトリエを模したエンブリオのおかげで住居に困ることもなく、この身の全てを絵に注げる生活。
この世界にある全てを描きたい、そんな途方もない夢を純粋に思い描くほどに私の心は輝いていた。
振るう腕は心を語る。柔らかな筆先から伝わる至上の喜びを全身で受け止める。
上手でも下手でも関係ない、私の真っ白なキャンバスを埋め尽くすほどの純然たる理想が詰め込めた世界。行き過ぎた喜の感情を捨て去ることすら難しく、ならばそれを飲み込むほどの作品を描こう。そんな世界。
気分転換に街の画材屋に立ち寄り、高価な画材を目の前に貯金を決意したり、筆制作の職人技に感銘を受けたり、展覧会に立ち寄っては様々な技法を学んだり。かつての現実では得られなかった絵に携わる友人も多数出来た。
絵画だけでなく、他の芸術作品にも興味が湧いたので色んなアトリエにお邪魔しに行ったりもした。
この世界の芸術は本当に素晴らしい。どんな作家も自分の心血を注いで作品に立ち向かっている。一に生活、二に生活と資金に追われて色褪せた作家の多い現実とは比べ物にならないほど鮮明な芸術の輝きに満ちている。
同い年ぐらいの【絵師】の作品を見るたびに、私も負けてられないという強い意志が生まれ、アトリエに籠っては作品作りに没頭する。
積み重ねた研鑽が50という数字に変わり、【絵師】のほかに【彫刻家】の道にも進み、先人たちの【芸術家】を目指して日夜問わずデンドロに入り浸る。
久しぶりに顔を合わせたカウンセリングの先生からも良好な状態を告げられたので両親も安心してデンドロをする私を応援してくれた。
現実世界に出力した私の作品を両親にプレゼントしたこともあった。
今までと比べ物にならないほど大きくて技術も成長したから驚いていたけれど、心の底から喜んでくれていたと思う。
デンドロに出会えて、私は本当に幸せでした。
彼に出会うまでは
それはいつも通りの朝。アトリエであるエンブリオの窓から差し込んだ朝日に気付いて私は腕を止めた。
この世界でおよそ16時間、現実世界に換算すれば5時間と少ししか経っていない。まだ現実の体調を告げるアナウンスは無いが、アバターの身体は空腹を告げていた。
いつもの宿屋で朝食でもご馳走になろうかと、強張った身体にムチ打ちながらこの数か月ですっかり仲良くなったティアンの店を目指す。
朝の澄んだ空気は火照った脳と身体を優しく冷まし軽やかな気持ちへと変えてくれる。
ここのところどうにも伸び悩んでいるところだ。数か月前はそれこそもう一度描けるようになった喜びや、この世界の新鮮さから無限の幸せを感じていたが、喉元過ぎればなんとやら。多くの作家と同じように、私は壁に悩まされていた。
描きたいものがわからなくなっていくような、目の前がどんどんと狭まっていくような。理由もわからない窮屈さを感じ、己の不出来さに辟易する毎日。
アトリエに籠るのは現実と向き合いたくないからだ。鮮やかな世界に比べて自分がどれほどちっぽけで惨めな存在かを受け止めたくない。
一度夢を諦めるような境遇から立ち上がったにしては私はそれを作品に込められていない。
どこまで行っても所詮は凡才。それはずっと前から分かっていたのだが、それでも自分の都合の良い現実がやってきたため運命に愛されているのだと錯覚していたのだ。
足りない。何かを乗り越えなくてはならない、けれどそれが何かわからない。組合に所属する同期の作品を見るたびに己の才覚のなさに直面し、そして張り付けた嘘の顔で「絵が好きだから、描けるだけで幸せなんだ」と吹聴する我が身が情けなくて仕方ない。
宿屋にやってきた。慣れた様子で勝手口から侵入し、朝食の準備に取り掛かっている宿屋の主に挨拶をする。
案内されたテーブルに向かうと、馴染みの顔がそこにあった。組合に属する鳴かず飛ばずの作家たちが一堂に会して朝食を待ち望んでいる様子は餌を待つ雛鳥のようでかわいらしく、そして意地汚い。
威勢のいい声と共に運ばれてきた朝食。大袈裟に声を上げて食べていく友人たちを横目に見ながら、自分のペースで静かに口に運ぶ。うん。相変わらず美味い。大した材料は使っていないだろうに、この素朴ながら力強い味付けが活力と英気をもたらしてくれる。
いつも通りの朝、いつも通りの味、いつも通りの顔ぶれ、いつもどおりの食堂、ではない。気にも留めないはずだった食堂の風景に違和感を覚えれば、その答えを見つけるまで観察するのは作家の性のようなものだろうか。
初めて見る作品が壁に飾ってあった。普段なら気にも留めなかっただろうに、今日はなぜかそれに目を奪われる。
作者の名前を見る、聞いたこともない名前だった。けれど、その作品に渦巻く感情に胸が押しつぶされそうになる。
泣いている、いや、喜んでいる、これはいったいどっちだ。鮮やかでいてくすんだ配色、愚直のようで悩みを感じる筆遣い、人か、獣か、それとも無機物か、モチーフのわからない奇妙な造形。
それはありていに言えば凡作だ。技術も浅く、内面性もチグハグで見るものに伝えたい感情が何一つわからない。
ただどういうことか、私はその絵に魅了された。
あれは。と宿屋の主に聞けば、住みつきのティアンの【絵師】が持ってきたのだという。丁度壁のスペースが余っていたから飾っているにすぎないので他の誰かがまた持ってきたらすげ替えるつもりのなのだと。
目の肥えている宿屋の主からしても私と同じ評価。やはりこれは凡作だ。けれどどういうことか私にとってそれは特別でしかなかった。
興味があるのなら、ちょうど良いから部屋に料理を持って行ってやってくれと主に言われた。他人と食事をしたくないのか、神経質な性分なのだろうか。疑問は口に出さず言われた通りに食事を運び、部屋の扉を開ける。
その部屋では、一人の青年がまさに絵を描いている途中だった。
朝日差し込む東側の部屋。揺れるカーテン。色のちりばめられたキャンバス。汚れ除けのシートはまだ端が傷んでもいないのにそろそろ買い替え時ではないかと思えるほど様々な色が混ざり合っていた。
あっ。と声を出したのは彼だったか、私だったか。
とっさに右腕をかばうように身体を動かす彼を見て、私は全てを理解した。
ゆっくりと、警戒されないように主に言われて食事を持ってきたことを告げる。
なるほどと。これでは人前で料理を食べるのを嫌がるはずだ、諦めたかのように自然体に戻った彼の右腕は、肘から先が見当たらなかった。
慣れた様子で片手で料理を食べる彼を見ながら、私は彼に自分も作家であることを告げた。
名前を見たことがあると、彼は言った。少なくない回数クエストを受注していれば、自然組合の中で名前は上がるものだ。大したものではないと謙遜すると、なぜか彼は同感だと言ってきてそれがたまらなく可笑しかった。
どうしたの、と聞くと、モンスターに襲われたと彼は言った。利き腕だったんだと。
ここが王都ならティアンでも欠損を治すと噂の
どうして【絵師】を続けているのか。。。ほかのジョブに適性がなかったから。
何を思って描いているのか。。。それは僕にもわからない。
痛くは無いのか。。。寝る前に痛みがひどくなる時がたまにある。失くしたけど、消えたわけじゃないのがわかってちょっとうれしい。
家族はどうしているのか。。。遠い村で生活している。多分僕が腕を失ったことも知らない。
寂しい?。。。一人は慣れている。
…………
………
……
…
それは忘れもしない出会いの朝。運命を呪った者同士が出会った朝。
そしてその出会いこそが本当の呪いの朝だった。
彼と出会い、私はより作品に没頭することになった。彼の作品から感じた様々な思いを、私も具現化しようと。持たざる者にしか生み出せない光があるのだと、それを信じてひたすらキャンバスに筆を走らせる。
純粋な陰鬱とした感情が血流をたどって腕へと注がれ、刻まれた過去を浮き彫りにするように記憶を撫ぜ、殻を破ろうと模索を重ねる。
眩しさなど求めない、光よりもなお美しい色がこの身に宿っているだろうと、取り繕った衣を剥がし、纏った常識を脱ぎ捨てて己の心を写す。
作品を描いては休憩がてらに彼の部屋に遊びに行って談笑をする。
宿代がいらない分、彼よりも私の方が余裕があったこともあり、おすそ分けと言って色々なものを持って行ったりした。
そうやって過ごした数週間は、間違いなく美しいものだった。
やがて作品作りは佳境を迎える。心血を注いだ筆が脈々と鼓動を打ちながら作品に魂を吹き込んでいく。アトリエ全体から私の持つ何かが作品に収束していく。私の持ち得る可能性を全て注ぎ込んだと自負できる出来だ。
それは紛れもなく私の最高傑作だった。
誰かに見せたい。誰に?もちろんそれは彼に。
どうして彼にそれを見せるの。
だって彼はもう一人の私だから。
なにを言っている。
作品を見せようと彼の部屋に入った瞬間、私は何を勘違いしていたのか理解した。
そこには全てがあった。
腕を失い、苦悩した彼の作家としての一歩を完全に再現した世界そのものがそこには描かれていた。
どうしたの、それ。
わからない、ただ、君と話してから随分と調子が良くなったんだ。でもまだ完成じゃない。まだ描き切れてないんだ。
なにがどうなっているのかなにもわからない、私に理解できたのはアイテムボックスの中にしまい込んだ作品がひどく滑稽な偽りの本物でしかないということだけだった。
この手にようやく馴染んできたのかな。それとも、心境の変化だろうか。ほら、この手を見ても臆さずに接してきたのって君が初めてでさ、だからやっと自分も向き合えたのかもしれない。
本当に、君には感謝しているんだ。
気分が悪いと言ったきり、気が付けばわたしは部屋を飛び出していた。
なんだあれは、なんだこの感情は。
わからない、何かが可笑しい、だめだ、考えがまとまらない。
あれはだめだ、あんなものを見ては全てが崩れ去ってしまう。
逃げ出した未来を、あり得たかもしれない可能性を、私がつかめたかもしれない栄光を。
その全てを彼が持って行ってしまった。
逃げたのだ、ああそうだ。私は逃げてしまったのだ。
己に才能が無いからと、それをなそうとする度胸が気合が、気迫が、縋りつくほどの情熱が、私には無いから。投げ捨ててこの世界に、ぬるま湯につかりきってしまったから、もう戻ることが出来ない。
押しとどめられないどす黒い感情に支配されていくのがわかる。染まってしまう。このままでは正気でいられなくなる。逃げなくては、隠れなくては、彼から、あの絵から。
私が零れ落とした可能性が、この世界で私だけを殺すだけの存在となって襲い掛かってきてしまう前に。
アトリエに閉じこもり、むせび泣く赤子をあやす方法もわからないまま、ただひたすらに腕を動かす、けれど、なにひとつ拭えやしない。
へばり付いた劣等感が心根を犯して嘲り笑う。駄目だ、考えてはならない、筆を持つ腕を置き、アイテムボックスの中から一つの絵を取り出して破り捨てれば、そしてそれっきり。
私の腕は動かなくなった。
筆の持ち方を忘れたわけではない。絵の描き方を忘れたわけではない。
ただただひたすらに恐怖している。
何に、
あの絵が完成することに。
あの絵が完成してしまえば、きっと私は全てを失ってしまう。今でさえそうなのだ。
きっと何も得られなくなってしまう。
ああ、きっとそうだ。そうなのだ。あれは私にとっての全てだ。理想であり、本物であり、たどり着くはずだった場所であり、そして、今の私の全てを否定して滅ぼす、死そのものだ。
力なく動かなくなった腕に視線を落とせば、指先から壊死していく幻覚を見る。
そんなはずはない、マヒしているのは現実であって、この世界の、アバターの身体には何の不都合もない、ないはずなのだ!!
けれど、そうなるのではという思いが、妄執が、身体が崩れ落ちていく未来を突き付ける。いいやその通りだ。嘘ではない、幻覚ではない。あの絵を、理想を受け止めるほどの強さを私が持ち得るものか。
凡才に過ぎないこの私ごときは、未完成のあの絵を見ただけで震えの止まらないこの私がどうなってしまうか、わかりきっているではないか。
止めなくてはならない。
彼を……
どうやって。
描くななどと言って止まる人種でないことは知っている。利き腕をなくして絵に縋りついた男だ。もう片方の腕も無くしてしまえば、いいや駄目だ。あいつはきっとそれでも絵を描こうとする。
口か、足か、はたまた欠けた腕に筆を括り付けてか、どんな手段であろうともアイツは絵を描くだろう。
そして彼がその困難を乗り越えるたびに、私はまた恐怖にとらわれてしまう。
理想を抱いても、それが私の理想と重なろうとも
それが誰かを幸せに出来るとは限らないのだ。
私が弱いから、ああそうだ。私が弱いから。でもそうじゃない。あれはそんな風に作り上げてしまってはならないものなんだ。
わかるだろう、悲哀を乗り越えた幸せなんて、望んじゃいけないんだ、その場にとどまり続けて死に絶えてもらわないといけないんだ。
狂おしいほどの切なさで身体がバラバラに張り裂けてしまいそうになる。
どれだけ言い訳を重ねても私がこれからすることを肯定してもらえることなぞありはしない。
私自身が一番わかっている、そんなことをしても何も手に入らない、何も得られやしない。生まれるのは深く暗い望まぬ沼へと墜落。全身を後悔に浸食されるだけの未来。
でも、
もう、
これしか方法がわからない。
………
崩れ落ちた男の名前は、もう覚えていない。彼の描いた作品など、おそらく誰も知りえない。
赤く染まるキャンバス、切り刻まれた肉、破り捨てられた紙片。戻れない未来、鉛の海に沈むようにゆっくりとそして確実に光を失っていく男の瞳。
ありがとう、そして、ごめんなさい。
届かない言葉、呆れかえるほどあっさりと為された凶行。騒ぎを聞きつけて様子を見に来た主と組合員。
取り押さえられた腕には鈍色に光る一本のナイフ。
騒然とするさなかに響く笑い声。ゆっくりと歌うように告げられた<自害>の言葉。
かくして、一人の尊い命が奪われ、二人の輝くはずの未来は黒く塗りつぶされる。
………
現実世界に戻され、マヒしていない手で筆を握ってみた。けれど、思い通りの線を描くことなど出来やしない。両親が心配するまで腕を動かしてみたけれど、得られたものは底無しの絶望だけだった。この手では絵が描けないと。叶えられる未来などないのだと、奪った可能性が宿ることなどありえないのだと、そう理解した。
………
アトリエの窓から消えてしまいそうな偽りの青空を眺めながら、私は絵を描いていた。
失われた未来、零れ落ちた可能性を拾い集めるように筆を振るう。
脳が描いた残影の通りに筆が軌跡をたどることのなんと特別なことか。しかし理想は遥か遠い。
もう手に届かないところへと行ってしまった、望みを絶つことの代償とすら言えない愚かな行為の成れ果て。
カケナイ……トドカナイ……モドレナイ……
全てを犠牲にした逃避行、全てを失った未来予想。
停滞する世界の中に閉じ籠りながらもジョブを戻さないのは何の意識の表れなのか。
報われないと知ってなお、何かを得ることなど二度とないのだと知ってなお、絵を描くしかない。
それすら失ってしまえば、自分が何のためにここにいるのかすらわからなくなるのだから。
私はここで絵を描くしかないのだ。
理想を殺したこの腕で。