地球人最強の男、オラリオにて農夫となる   作:水戸のオッサン

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其ノ十四 神髄

 

 

 

【ロキ・ファミリア】の本拠(ホーム)、黄昏の館の一室でレフィーヤは座禅を組んでいた。

 

 レベル4に昇格し、さらに腕を磨くためにレフィーヤが足掛かりとしたのは『並行詠唱』の習得だった。

 

 自分の知る並行詠唱の使い手にして、己の師でもあるリヴェリアがまず授けたのは『大木の心』

 

 そのために心を静め、座禅を組んでいるのだが。

 

(アイズさん、今ごろどうしてるのかなぁ)

 

「レフィーヤ、乱れているぞ」

 

「はいぃ!? も、申し訳ありませんっ!」

 

 こんな調子であった。

 

 リヴェリアの執務の傍ら、こうして指導を受けているが、飛んできた「喝」は数知れず。

 

 背すじを伸ばし、難しい顔を作る。

 が、十分も経てばすっかり弛んでしまう。

 

(畑作業の合間に、クリリンさんと修業してるって聞いたけど)

 

 アイズたちが畑に出てからというもの、朝は早いわ、食事は向こうで済ませるわ、夜も早いわで、レフィーヤとアイズの生活リズムはとことん噛み合わない。

 ティオナやティオネとは一度お風呂が一緒になったことはあったが、それぐらいだ。

 

(クリリンさんの修業って…………………………想像を絶するんですけど)

 

 レフィーヤは無言で青ざめる。だが、すぐに危機感を覚えた。このままではアイズとの差は開く一方だ。

 気を取り直して、自身の修業に集中しようとするが──────

 

(うぅ……アイズさんに会いたいよぅ……)

 

「…………レフィーヤ」

 

「す、すみません、すみませんっ!」

 

 再度リヴェリアから喝が入るのであった。

 

 さて、そんなレフィーヤの思い人は今───────

 

 

 

「のんびり歩いてると、砂に飲まれるぞー」

 

「はぁっ、はぁっ」

 

 大陸南西部、【カイオス砂漠】を縦断していた。

 

【竜の谷】から世界を四分の一周ばかり走って(クオーターラウンド・ザ・ワールドマラソン)下ろされた次なるステージは、北の極地とは対極の、殺人的な日差しが照りつける大砂海。

 

 流れ落ちる砂が、未熟者の足元を(すく)う。

 動きが鈍くなったその背を、砂漠の太陽は容赦なく焼き焦がす。

 もがけばもがくほど、砂の海に引きずり込まれる。

 

「!?」

 

「お、おい、まただ! また人が船を追い抜いてくぞ!? 今度は四人だ!」

 

「さ、さっきの坊さんは蜃気楼(しんきろう)なんかじゃなかったんだ…………」

 

 声が聞こえる。

 アイズがぼんやりと目を向けると、そこには奇妙な物体に乗った商人たちがいた。

 砂漠を走る船、『デザート・シップ』

 実物を見るのは初めてかもしれない。が、アイズたちは今そんな感慨に耽っている場合ではなかった。

『止まったら飲み込まれる』

 それは決して砂に飲み込まれるという意味だけではなかった。凡人ならばとっくに心が折れている行程だ。足を止めてしまえば、膝を屈してしまえば、アイズたちとて再起は容易では無い。

 

(強く、なりたい……!)

 

 アイズはその一心で一歩を動かす。

 ただし、闇雲に足を動かすだけではダメだ。足の踏み方や歩幅、律動(リズム)を変えてみる。足から伝わる感覚を全身で受け止め、砂の海と対話するように。

 

 そのときだ。

 

(砂が、震えてる…………?)

 

 アイズと同じく、ティオナたちも何か感じたようだ。

 

「みんな! 何か来るよっ…………!」

 

「後ろかッ!」

 

 ベートが相手の居場所を嗅ぎ付ける。四人が振り向けば後方に砂嵐が舞っていた。

 

「これは……不味いわね」

 

 ティオネが舌打ちする。

 まだ本体との距離がありながら、その影は既にアイズたちを蝕んでいた。

 

「な、なんだあれはぁ!?」

 

 船上の商人たちも恐慌(パニック)に陥る。

 

 それは『巨蛇』だった。

 

 全長二〇(メドル)超。

 天を跨ぐかのような巨体。

 かつてこの一帯を荒らし回り、幾つもの文明を砂の海に沈めた怪物。

 

 その名は『バジリスク』

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 砂の世界が震撼する。

 

「てめえらぁ!! 何をボサッとしてやがる!? とっとと失せろぉ!!」

 

「は、はいぃ!?」

 

 ベートが船に向かって怒号を上げる。商人たちは硬直から無理矢理叩き起こされ、あるいはいっそう竦み上がり、とにかく船は漕ぎ出した。

 

「っ!」

 

 悪寒が走り、アイズたちは瞬時に戦闘態勢に入る。

 

「シャアッ!!」

 

 蛇の牙が四人を標的(ターゲット)に定めた。

 バジリスクが頭から突っ込んでくる。砂ごと(さら)わんばかりに、蛇の顎が足元をかち上げた。

 

「う、うわああああああああああああ!?」

 

 商人たちの悲鳴がこだまする。まるで爆発が起きたかのように、砂の柱が立ち上っていた。

 

「ちっ!?」

 

「だめだぁ!? うまく跳べない!!」

 

 砂の柱の中で四人はもがく。

 足場の悪さ、乾いた空気、強烈な日差し。

 バジリスクだけでは無い、砂の世界そのものがアイズたちの敵に回った気がした。

 

(手ごわい……!)

 

 砂ぼこりから目を覆いながら、アイズは眉をひそめる。

【北の極地】で見たあの竜に比べれば随分かわいいものだが、今のアイズたちには厳しい相手だ。

 装備もなければ、地形も味方に出来ない。走り回って体力も大きく損なっている。

 

「くっ……!」

 

「! ティオネ!?」

 

 砂ぼこりに視界を奪われたティオネが呻く。アイズに嫌な予感が働いた。その懸念通り、弱っている獲物から狙われた。

 

 彼女たちの間に、バジリスクが割って入る。

 

「! だめっ!」

 

 アイズは瞬時に【エアリエル】を展開、攻撃を仕掛けるも、蛇の巨体が押し退けた大気の塊がアイズの『風』を相殺する。

 

 バジリスクは警戒を見せたがそれも一瞬、すぐに『取るに足らぬ』と断じ、ティオネに意識を戻す。

 

「舐めやがって、このクソ蛇がぁぁッ!!」

 

 青筋立てたティオネは無理やり体をねじり、突っ込んできた蛇の横っ面を蹴り飛ばす。その反動でもって砂の柱を離脱した。

 

「!?」

 

 着地したティオネは、自身の異常に気付く。

 

「ティオネぇ!?」

 

「何ボケッと突っ立ってやがる!?」

 

 続いて離脱してきたティオナとベートがティオネの様子に動揺する。

 

「か、体が痺れて……! クソッ、さっき掠ってたのか!!」

 

 一瞬の攻防の中で負った脚の傷をティオネは睨み付ける。

 直後砂の柱は弾け、出てきたバジリスクが追い討ちをかける。

 

「ティオネ!? あぶな────」

 

「背中貸せ、バカゾネス」

 

「うぇっ!?」

 

 ティオナの背を踏み台にベートは跳ぶ。そのまま

 

「歯ァ食いしばれ」

 

「あぁ!? 」

 

 

 一閃

 

 ベートの蹴りがティオネを吹っ飛ばす。感謝と呪詛を履き違えたかの様な彼女の形相を無視し、衝撃に備える。

 

「ィッ!!」

 

 蛇の突進を側面を弾いて軽減を図る。それでも勢いを殺し切れず、ベートもまた吹っ飛んだ。

 

「ティオネ!」

 

「どっせーい!」

 

 アイズがティオネを、ティオナがベートを受け止め、それぞれ体勢を整える。

 

「けっ…………余計な真似しやがって」

 

「なにその言い方!? 背中いたかったんだからね!!」

 

「ティオネ、大丈夫?」

 

「麻痺毒もらったみたい。ごめん、回復にはもうちょっとかかりそう」

 

 それを聞いたアイズはティオナたちに目配せする。

 

「うん、任せて! アイズはティオネをよろしくね」

 

 こくりと頷いたアイズは、ティオネを抱えて一旦距離を取った。

 

「アアアアアアアアアア!!」

 

「行かせないよっ!」

 

「テメーの相手は俺らだ、デカブツ」

 

 バジリスクの進路に、ティオナとベートが立ちはだかる。

 蛇の巨体からすれば羽虫も同然、凡百ならば構わず轢き潰すところだ。

 だが、古代(いにしえ)の怪物の経験と勘がそれを踏み止まらせた。

 侮り難き相手を、確実に仕留めるべく。

 

「てやあぁぁぁぁぁ!!」

 

 ティオナとベートが仕掛ける。

 それをバジリスクは上から見下ろしていた。

 小さきものが巨象に抗う(すべ)。すなわち素早く相手の死角に回り込み、急所を確実に潰していく。二匹の羽虫は定石(セオリー)を忠実にこなそうとしている。

 実にいじらしいではないか。そんな風に蛇は嗤う。

 二匹ともなかなかの速度(スピード)の上、虚動(フェイント)を交えて飛び回る。一々、付き合ってやる道理はない。狙いが分かれば対処は容易。なんなら、こちらから誘ってやるか──────

 

 蛇が身じろぎをし、後退する。ベートとティオナは逃さず、拳と蹴りを蛇の巨体に叩き込む。

 

「んんっ!?」

 

「チッ!?」

 

 手応え無し。

 蛇はその巨体を巧みにうねらせ衝撃を逃がしたのだ。暖簾に腕押しとは正にこのこと。

 かくして、蛇は絶好の反撃の機会を得た。

 

「!?」

 

 影が差し、凶狼は顔を歪める。

 バジリスクが飛び上がり、その巨体でのしかかってくる。

 

 攻撃範囲は絶大。

 すぐさまベートは駆け出し、最後は転がるようにしてギリギリ回避した。

 

「………………」

 

 ベートは距離を十分に取ってから翻り、蛇に埋もれた砂地をしばし凝視していた。

 

(さすがにアレぐらいでくたばるタマじゃねーとは思うが)

 

 ベートの足でギリギリだったぐらいだ、ティオナは間違いなく下敷きになっただろう。

 さて、次はどう動くか。

 

 すると、蛇の巨体のすぐ下から砂の(うね)が盛り上がり、ベートの方へ伸びてきた。

 

「ぷっはぁー、ぺっぺっ。砂かんじゃった」

 

「……………………」

 

 どうやらティオナの方は、砂に潜り込んで難を逃れたらしい。

 

「ティオナ! ベートさん!」

 

「アイズ! ティオネはもう平気なの!?」

 

「まあね。それとベート、てめぇ思いっ切り蹴飛ばしやがって。礼なんて言わないわよ」

 

「敵に集中しろ、間抜け」

 

 アイズとティオネが戦線に復帰し、四人が揃う。

 とはいえ状況は芳しくない。

 決め手が無いのだ。

 難敵の巨体と技術(わざ)に、足場の心許なさ。これらが合わさって、攻撃が上手く通らない。

 地上のモンスターと侮っていたつもりは無かった。奇しくも、【竜の谷】での激闘を目にした直後でもある。

 しかしだ。如何に不利な条件下といっても、四人がかりでこのザマでは嫌でも思い知る。

 基礎の不確かさ。

 そして、クリリンとの力の差を。

 

 不意に四人の後方で悲鳴が上がった。

 

「ちっ、あの商人(バカ)ども、まだあんなとこにいやがって…………!?」

 

 悪態を吐くベートの動きが止まった。

 

 見れば、船の行く手を大きな砂嵐が塞いでいた。それは先のバジリスクが巻き起こした嵐よりも一際大きい。

 

「うわああああああああああ!?」

 

 嵐が迫り、商人たちの悲鳴が三度(みたび)響く。

 飲み込まれれば船など軽く粉砕されるであろうそれは、慌てふためく彼らを無視して脇をすり抜けていった。

 

「ギィア………………………………!!」

 

 バジリスクがはっきりと目の色を変えた。

 砂嵐の起点。

 そこにいる小さな影を、蛇の目が捉える。

 

「ギョ────────!?」

 

 小さな点だった。

 地を這う小さな点のはずだった。

 その影は今────────バジリスクの眼前に躍り出ていた。

 

「クリリン!」

 

 アイズたちがその名を呼ぶ。

 

 地上一〇(メドル)はある蛇の目線に、クリリンのそれが重なる。

 砂の足が速いこの地では、およそありえない跳躍。

 それは千年を生き延びた怪物をして、その経験と記憶のいずれにも例が無かった。

 

 噛み殺すか? 

 のし掛かるか? 

 否、無理にカウンターを合わせるのは危険。防御と回避に専念すべきか? 

 

 そんな逡巡(しゅんじゅん)が許されるはずも無かった。

 クリリンの蹴りが命中し、バジリスクは何も出来ずに遠くの空へ旅立った。

 それをアイズや商人たちが見送る。実にエキセントリックな結末だったと言わざるを得ない。

 

 ちなみに、バジリスクはこの日を最後に地上に戻ることはなかった。

『いや、そうはならんだろ』という神々の声も虚しく、蛇の王は無事周回軌道に乗り、天空を猛スピードで回り続けることになる。

 その内に天を駆けるバジリスクは【魔凶星】だとか【デッドゾーン】などと呼ばれ、『見ると死ぬ』という噂が世界中の人々をちびらせたが、全くの迷信である。

 

「……つくづくふざけたヤローだぜ」

 

 ベートがそう溢す横ではティオナが腹を抱えて笑っている。

 

「アイズ、見た? 今の蹴り」

 

「うん…………きっと、クリリンにとっては何てことない蹴りだったと思う。けどあの動きに、私たちが知らないといけない全てが詰まっていた、気がする……」

 

 風に揺蕩(たゆた)う糸をも断つ。

 武の神髄とは、かくなるものか。

 

 アイズたちの野菜配達見習いはまだまだ続く。

 

「流されるなよー。滝にブチ落ちるぞー」

 

「ブクブクブクブク」

 

「あーーーー!? アイズが流されてる!?」

 

 ────それからなんやかやあってアイズは無事に救出され、滝壺は消滅した。

 ティオナもティオネもベートも命に別状は無い。だが、滝壺は消滅した。

 今となってはブチ落ちる滝も無かろうというものだ。

 

 その後、誰が呼んだかこの地は【F・F】と呼ばれるようになった。

 その由来は【奇天烈大落下(Fall in Fall)】かもしれないし、或いは【終焉の淵源(ファイナル・ファンタG)】だったかもしれない。

 

 と、こんな調子でクリリンと愉快な仲間たちは各地で目撃され、各国の情報機関が動き出した。しかし、全ての目撃情報が正しいとすれば、辻褄が合わない。現場不在証明(アリバイ)が成立しているのだ。これを棄却すれば、クリリンたちは最低でも秒速7(キルロ)で移動していることになる。人間がマッハ20.6で動くわけがない、馬鹿か。

 クリリン多胎児説、分裂説、他人の空似説、敵対国の偽計説が浮上し、無用な緊張が走る。だが、クリリン超音速移動体(ハイパーソニックムービングファーマー)説だけは出てこないのであった。

 

 

 

「お、おかえりなさい」

 

 世界を巡り、五人は畑に帰ってくる。出迎えた婦人は四人の惨状に声を詰まらせた。ある意味、昨日よりも酷い。

 

「お、お姉さん、ただいま…………うぷ」

 

 元気印のティオナが顔を真っ青にして、今にも吐きそうだった。

 ティオネは突っ伏しているし、ベートは毛並みが荒れている。

 そしてアイズは膝を抱えてブルブル震えていた。

 

「アイズのやつ、水が弱点(トラウマ)みたいで」

 

 クリリンの口からしれっと重要な情報が出る。これって機密情報に近いんじゃないか、一農夫が知っていい情報なのだろうか、そんな懸念を婦人は抱く。

 

「……水中では『風』、存在出来ないですものね……」

 

 動揺した婦人は、そんな譫言(うわごと)を返すのが精一杯だった。

 

 

 

 

「んじゃ、続いて朝の修業な」

 

「昨日はへばっちゃったけど、今日はがんばるもんねー!」

 

「畑の外れじゃねーか。こんなとこで何をやらせるつもりだ」

 

 ベートは目の前に広がる草原を見て鼻を鳴らす。

 

「朝の修業は畑の手伝いだ」

 

「ん、でも……ここには何も」

 

「収穫は落ち着いたらしいからな、今からやるのは畑の耕しだ」

 

「野菜配達の次は野良仕事か。農業系派閥といえば、らしいけど」

 

「じゃあ、クワ持ってくるね!」

 

「あー待て待て。クワは使わねえ」

 

「へ!?」

 

 駆け出そうとしたティオナがくるりと振り向く。

 アイズたちもどういうことかと視線で問う。

 

「素手で耕すんだ、素手で。この修業は足腰、腕はもとより、手をも鍛えるためだからな」

 

「えぇ!? この広い草原を素手でっ!?」

 

 思わずティオナは叫ぶ。

 

「さあ始めるぞ。早く終わらせないと、いつまで経っても朝メシが食えないぜ──────」

 

 そう言うや否や、中腰になったクリリンはズババババババッと土を掘り起こしながらあっという間に地平線の彼方へ消えていった。

 

「やるしかない、ってことね」

「……うん」

「おー!」

「フン……」

 

 ティオネのため息にアイズたちが応える。

 基礎がなっていないことは散々思い知らされた。

 どこでも動け、どこまででも動ける体力。

 それが無ければ振り落とされて終わりだ。

 

「意外とこれ、きつっ!?」

 

 ティオナたちとて第一級冒険者、滑り出しこそ順調にいっていたが、千、二千と続ける内に体のそこかしこが悲鳴を上げてくる。

 

【地球】にはこんな話がある。

 あるスポーツ選手が年老いた農夫のために畑仕事を手伝った。しかし半日も経たず、すっかり参ってしまったのだ。その横で年老いた農夫は元気に働き続けていたという。

 普段とは違う動き、そして、力の抜き方やペースを掴めなかったのが主因であろう。

 

 真っ先に持ち分を終えたクリリンが戻ってくる。

 のんびりと雲が流れるのをしばらく見ていたが誰も戻ってこないので、いったん収穫の手伝いにこの場を離れる。

 それも一段落ついて、再び戻ってくるもやはり四人ともいない。

 そこを【猛者(オッタル)】に見つかり組手。決着がついたところでようやく四人が戻ってきた。

 

「お、終わった……」

 

「手が、手がいたい!」

 

 アイズとティオナの顔は土にまみれ、今にも膝から崩れ落ちそうだった。

 

「えらく時間がかかったな。朝メシが遅くなっちゃったじゃないか」

 

 そう言いながら、クリリンは畑に植わっていたオッタルを掘り起こしていた。後続のベートとティオネも含め、四人の誰も気に留める者はいなかった。オッタルはもはや、畑の一景色と化したのだ。

 

「そ、そんなこと言ったって、ここ広すぎるよ~」

 

「明日からはどんどんと耕す畑は大きくなる。もっと早くしないとダメだぞ」

 

「…………………………」

 

 絶句。

 

「そら、朝メシ食べて次は出荷の手伝いだ」

 

「ま、待ってー、足がガタガタで……」

 

 すたすたと歩き出すクリリンの後ろを、生まれたての小鹿のように足をぷるぷる震わせながらティオナ、ティオネ、ベートが付いていく。

 アイズもまた去ろうとして、しかしその前に視線を逸らした。

 草むらに寝かされている【猛者(おうじゃ)】の側に行き、そうっと彼の顔を覗き込んだ。

 

「失せろ【剣姫】────────それとも、俺を嗤いに来たのか?」

 

 指一つ動かすのもままならない状態ながら、オッタルの眼光はあまりに鋭かった。腰に剣を差していたなら、思わず抜いていたことだろう。

 一息ついてアイズは口を開く。

 

「違う、そんなつもりじゃない。ただ、今日の【猛者】はいつもと違ってた……」

 

「…………」

 

 先の戦闘はいつにも増して鬼気迫るものがあった。だがアイズはその中に渦巻く『叫び』を感じ取っていた。

 

「なんで、そんなに焦ってるの…………?」

 

『焦り』というのは正しくないかもしれない。ただ、アイズには他に言い表しようが無かった。

 

 返事は期待していなかった。

 しかし、重々しく結ばれた口が僅かに緩む。

 

「……クリリンが、いつまでもこの世に在ると思うな」

 

「────────────────ッ!?」

 

 アイズの心臓が跳ねた。

 どういうことか? 

 その言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡った。

 

 オッタルに真意を問いただそうとしても、この男の口はこれ以上開かぬだろう。

 気持ちの整理が追い付く前に、新たな来訪者の影が差した。

 

「!?」

 

 黒い巨大な馬。

 異様な存在感ながら、こちらも既に畑の一景と成り果てている。

 蛇の王『バジリスク』にも引けをとらぬ体躯の馬は、しかし戦闘力という面では遥かに上だった。仮にバジリスクが挑んだところで、内部から破裂させられ一瞬で葬られることだろう。

 

 さて、もしやこの馬はオッタルを介抱しに来たのだろうか。などとアイズは思ったが、そんなわけがなかった。

 馬は疎ましげにオッタルを見下ろすと腰の辺りを咥えて、邪魔者を排除するかのようにのっしのっしと歩き去っていく。

 宙吊りにされたオッタルがぶらんぶらんと揺れている。それを見たアイズは、なんかもう、心が無になった。

 

「アイズー、どうしたのー? 早くいこ!」

 

 そうしてティオナが迎えに来るまで、アイズは放心しっぱなしなのであった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「わーーーーーーっ!?」

 

「またひっくり返しやがったのか、テメーは!?」

 

 木箱の山が崩れ荷車は横転し、ベートが怒声を上げる。

 朝食後、午前の船便に載せる分を港街(メレン)に出荷するという時でのハプニングである。

 急いで立て直したが、ずいぶんなロスになった。

 

「積み込みの最終受付は何時だァ!?」

 

「…………あと、五分」

 

 アイズの呟きに、しーんと辺りは静まり返る中、「ごめん」とティオナが声を絞り出す。

 

「ちっ、もう馬車じゃ間に合わねー。こうなりゃ俺らで担いでいく!」

 

「そうするしかないわね」

 

 第一級冒険者四人がかりの爆走。

 道なき道を往き、畑からほとんど最短経路を抜けた甲斐もあって、本当にギリッギリで間に合わせたのだった。

 

「そりゃあご苦労だったな」

 

 港湾から華やかなビーチサイドに流れて一休みする四人を、一足先に来ていたクリリンがねぎらう。

 

「ったく、朝食分の熱量(エネルギー)、全部吹っ飛んじゃったわよ」

 

「もうごめんってば~。だからこうしてみんなに奢ってるんじゃん!」

 

「……おいしい」

 

 アイズとティオネは氷菓(ジェラート)片手に海を眺め、ベートは地球でいうケバブのサンドを頬張っていた。

 

「…………」

 

 アイズの瞳の奥に(さざなみ)が揺れていた。こうやって穏やかな気持ちで海を見つめるのはいつ以来か。

 

「なんか泳ぎたくなっちゃうね!」

 

「なに言ってんのよ、仕事の途中でしょ。そろそろ戻らないと」

 

「────泳ぎたいか?」

 

「え?」

「!」

 

 クリリンの返事にティオネが目を丸くし、ティオナの目は輝く。

 

「次の修業は水泳ってか」

 

 ベートが察する。

 それにしても、クリリンの修業は修業らしくない。

 普段のベートたちの鍛練は、地下迷宮(ダンジョン)での怪物(モンスター)討伐、その経験値(エクセリア)の獲得によって為される。クリリンの修業はさぞ血なまぐさいものかと思いきや、いざ体験してみると色々な意味で想像を超えていた。

 これで強くなれるのか。

 疑問がないわけではない。

 しかしベートたちは自身が思うよりずっと純真で素直だった。ここで立ち止まる気には到底ならなかったのだ。

 

 いうが早いが素裸(すっぽんぽん)で泳ごうとする勢いの女戦士を「ティオナ、それはいけない」とアイズが止め、その辺で購入した水着を全員が身に付けた。

 美少女三人の水着姿がなんとも眩しい。砂浜の男どもが鼻の下を伸ばすが、ベートに一睨みされて目を逸らす。

 

「今日のところは向こう岸まで十往復にするか」

 

「まあそれぐらいなら……」

 

 ティオネ、ティオナ、ベートが砂浜から海に入る。クリリンは真っ青な顔をしたアイズの手を引いて後ろに続く。

 

「ティオネ! どっちが速いか勝負しよ!」

 

「はあ? 勝手にやってなさいよ」

 

 そうは言いつつ、勝負というならティオネも負けてやる気はない。ベートも加えて三人が横並びに勢いよく泳ぎ出す。蹴り波が湾を巡り、港に付けている船を揺らした。

 

「あ、そうそう言い忘れてたが────────」

 

「!?」

 

 クリリンの叫び声が聞こえたのと、後方の海面が盛り上がったのはほとんど同時だった。

 

「この湖にはどういうわけか『蛇』がいる。気を付けろよ」

 

「キシャアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

「ほんぎゃーーーーーーーーーー!?」

 

 緑色の怪物が迫る。街のすぐ傍になんでこんなものがいるのか疑問はあったが、今は逃れることで手一杯だった。

 

 ティオナたちが決死の逃避行をキメるずっと後方で、アイズはクリリンの手にすがりながらパシャパシャとバタ足で海面を叩いていた。

 

「誰にでも苦手なもんはあるけど、弱点を克服する努力はしねえとな」

 

 そんな風にアイズを励ましながら、クリリンは尾の生えた戦闘民族を思い出す。弱点に向き合い、まして克服するのは生易しいものでは無い。しかし放置してしまっては、いずれ痛い目に遭うのは間違いない。得意になれとは言わないが、慣れる努力はするべきだろう。

 

 クリリンの思いが通じたかは分からないが、アイズは懸命にもがいていた。

 そのときだ。

 二人の直下を大きな影が揺らめいたのは。

 

「っ!?」

「うおっ、アイズ!?」

 

 アイズの足が絡め取られ、水中に引きずり込まれる。すぐさまクリリンも潜り後を追う。

 

(あちゃー、油断した)

 

 気配を察知できない筈は無いが、如何せん相手が弱すぎた。クリリンの意識を向けさせる程の戦闘力がこの蛇には無かったのだ。

 と言い訳してる場合ではない。蛇に巻き付かれたアイズは完全に固まっている。地上ならまだしも、この状況ではどうにもなるまい。今のアイズにとっては『蛇』よりも『水』の方が敵だった。

 さらに悪いことには、アイズを追うように同種の蛇が次々と集まってきている。

 

(なんであいつ狙われているんだ?)

 

 そんな疑問が脳裏を(よぎ)ったが、しかしそれもクリリンの動きを鈍らせる程では無い。あまりのんびりしていては、さしものアイズも溺れてしまう。

 

(スピードアーーップ)

 

 瞬間、魚雷(クリリン)が発射した。

 

「!?」

 

 今度は蛇の方が油断していた。

 水中でのスピードなら人間などに負けるはずがないと。

 

 どっこいクリリンのスピードは、地球防衛軍が保有する世界最速の魚雷すら止まって見えるレベルだった。

 これはたまらない。水精霊(ウンディーネ)が見たら衝撃のあまり蒸発するだろう。

 

 しかしクリリン、潜行する蛇を一瞬で抜き去ったまでは良かったが、勢い余って湖底に到達。大幅なロスも気を取り直して引き返し再び蛇と相対する。

 この隙に蛇は逃げも隠れも出来ようが何をぼけっとしているのか、伝え聞いた話ならばそう思うかもしれない。だが実のところ

 

「…………………………!?」

 

 クリリンが一度蛇を置き去りにして湖底経由で戻ってくるまで、一秒もかからなかったのだ。これでは蛇も打つ手は無い。

 そして次の一秒が経つ頃には────────蛇は港街(メレン)の空に打ち上がっていた。

 

「アイズ!? クリリン!?」

 

「なになに!? なにが起きてるの!?」

 

 眼下でアマゾネスの姉妹の声がする。

 

「アアアアアアアアアアアアアアッ!?」

 

 蛇の形相は苦悶と驚愕に歪み、思考は混乱していた。

 自由の利かぬ水中で、まともに動けないはずの人間の打撃は蛇の覚悟を粉々に打ち砕いた。

 守備(ディフェンス)に定評のある蛇の、その自慢の外皮は第一級冒険者の攻撃力にも耐えうる堅固さを誇る。だがクリリンの破壊力はケタが違っていた。

 

 ビーチサイドで歓声が上がる。

 観衆の中には一仕事を終えた【ニョルズ・ファミリア】の漁師たちもいた。

 

「あれ、クリリンの旦那じゃねえ? 」

 

「いつ見ても冗談みてえな強さよな。今度遠洋に出るとき護衛してくんねーかな」

 

「アホ、いくら掛かるか知れんぞ。稼ぎが全部とんじまうっての」

 

 漁師たちの視線の先で大暴れしたクリリンはアイズを抱えて砂浜に戻り、飲み込んだ水を吐かせた。

 

「………………………………」

 

 曇り切った表情のアイズを見てクリリンはこう思うのだった。

 

「弱点克服の道のりは、なかなか険しいな……」

 

 

 

「つんつん」

 

 クリリンに返り討ちに遭い、蛇は岩場に叩き付けられ、ピクピクと痙攣していた。それをティオナが指でつついている。

 

「この蛇、けっこう硬いよ~」

 

「みたいね。それに、こんな怪物(モンスター)……」

 

「初めて見るな」

 

 ティオナだけでなく、ティオネとベートも蛇を囲む。

 この三人ですら初見、しかも戦闘力は侮れない。

 そんなモンスターが、港街のすぐ目の前の湖にウジャウジャといるのだ。

【竜の谷】の竜種(ドラゴン)の群れは確かに強力だったが、この蛇たちの方が差し迫った脅威と言える。

 

「なんかさー、あたしたちを追いかけてた蛇もアイズたちの方に行ってなかった?」

 

「それも気になるけど、もっと大きな疑問があるわ」

 

「こんなモンスターがいて、なんで騒ぎにならねえ────────?」

 

 ベートが継いだ言葉に、ティオネも頷く。

 

「おかしいのよ。あのモンスターは私たちでも油断できない相手。なのに船が湾内で襲われたとか、そんな話は全く聞かない」

 

「客船や貨物船じゃあ護衛船ごと沈められるな。【ニョルズ・ファミリア】ったって、多少はマシって程度だ。一匹でも出てくりゃとてもじゃねえが手に負えねえ。十中八九『全滅』だ」

 

「あー、そっかあ。でも今みたいにクリリンが毎日やっつけてるんじゃ」

 

「いつから? たぶん昨日今日に始まったことじゃないでしょ。この状況を放置してるのはおかしいわ」

 

「あの野郎なら正式に依頼がありゃ簡単に一掃すんだろ。『パワーバランス』だの気にするところじゃ無え」

 

「【ガネーシャ・ファミリア】だっているもの。あそこならやりようはある」

 

「う~~~~ん、じゃあ船に仕掛けがあったり、モンスター避けの道具(アイテム)があるとか!」

 

「まあ、確かにその線はあるわね……」

 

 ティオネたちがそう話している間にも一隻、船が港を出ていった。なんとなくそれを見送ってからクリリンたちのいる砂浜に目を移すと────

 

「あれは…………」

 

「ニョルズ様だ」

 

 クリリンたちに、一柱の男神が話しかけていた。

 浅黒く日に焼けた肉体(からだ)。神特有の胡散臭さや厭らしさとは無縁な、爽やかな好青年。

 港街(メレン)の顔役の一人としても知られる、漁業系派閥(ニョルズ・ファミリア)主神・ニョルズその人だった。

 

 ベートたちは黙り込んで、砂浜の三人の様子を窺う。ニョルズも、まさかこの状況を知らぬはずがあるまい。むしろ、もっとも危険に晒されているはずだ。そんな彼が何を言うのか、口元の動き、身振り手振りに注意を払う。

 

「『いつもすまない。後片付けは自分たちでやっておくから────』、そんなところかしら」

 

 ティオネが呟く。

 陽気に振る舞うティオナはともかく、ベートとティオネの腑には落ちない。

 そんなわだかまりを残しながら、クリリンと合流した三人は畑に戻るのだった。

 

 

 

「────」

 

 木漏れ日がアイズの顔に差し込んでくる。

 

 港街(メレン)から戻った後は、穏やかな時間を過ごしていた。

 

『頭も鍛えないとな』

 クリリンの口から『勉強』というワードが出てきた時には、アイズとティオナの表情が渋くなったが、作物や農作業の知識を教わるのは存外に楽しめた。業界話なんかも聞けて【デメテル・ファミリア】の楽屋裏も覗けた気分だ。

 

 そして昼食を済ませた今、アイズはハンモックに揺られていた。

 

『これから1時までは昼寝をするぞ』

 

 そう言われたアイズは耳を疑った。これも修業だというのか。

 内心が表情に透けていたのかもしれない。そんなアイズたちを見てクリリンは続けた。

 

『よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む』

 

『────』

 

『それが俺の、俺たちの土台になってる【亀仙流】の教えさ────』

 

 寸暇を惜しみ剣を振るべし、とも思う。

 今日この半日だけで、竜にバジリスクに、加えて港街の蛇と手強い相手を目の当たりにしたのだ。世界は広い。まだ見ぬ強敵がたくさんいるに違いない。これまでのアイズなら居ても立ってもいられず、気力が尽きるまで剣を振り続けただろう。

 しかしすぐ横で寝息を立てられれば毒気も抜かれるというもの。

 

 ティオネとティオナは肩を寄せあって既に眠りに落ちているようだ。ベートはさすがに横にはなっていないが、木に背を預け目は閉じている。

 

(よく休む…………)

 

 思えば、フィンやリヴェリアにもそう諭された記憶がある。幼少の頃からそう教えてくれたのに、しばしば自分は道を逸れていた。申し訳なさに観念して、アイズも自然と目蓋を落とす。

 

(亀仙流、()()()の──────?)

 

 アイズの脳裏に浮かんだそれは、微睡(まどろ)みの中に沈んでいった。

 

 

 

 午後になっても修業は続いた。

 蜂を躱しながらの蜂蜜採集に、街道修復の工事の手伝い(バイト代あり)。

 

 気付けば日は傾いていた。

 

「今日のところはこんなもんでいいだろ」

 

「………………っ」

 

 汗と泥にまみれ息を切らすも、修業をやり遂げたアイズたちに、農夫たちは畏敬を抱く。

 

「ク、クリリンはこんなもの凄い修業を毎日続けているの?」

 

 大の字になるティオナが天を仰ぎながら呻く。

 それを聞いたクリリンは、しかし目を点にしてこう言うのだ。

 

「なに言ってんだ、今日のはまだ楽な方だぞ」

 

「!?」

 

「明日からも続けるってんなら、今日やった修業は全て──────()()を背負ってやるんだ」

 

 そう言ってクリリンが持ち上げたのは、銀色に輝く【甲羅】

 後で聞いた話によると、この甲羅は北の霊獣から届いた報酬代わりなのだそうだ。いつの間に届いたのか、報酬の品を修業に使っていいのか、そんな疑問はさておき────「ずしっ」と空気が軋んだ気がする。

 

「この修業が【亀仙流】って呼ばれてるワケ、分かったろ?」

 

 クリリンが甲羅を軽々と持ち上げる横で、アイズたちも農夫たちもズッコケるのであった。

 

 

 

 

 

 それでもアイズたちは修業を諦めなかった。

 亀仙流武術の修業はとてもついていけそうにない厳しいものであったが、アイズたちは強くなりたい一心で毎日毎日くそ真面目に続けた。

 その姿をクリリンたち農夫が見届ける。

 

「励んでおられますね……」

 

「思ったよりやるなあ」

 

 そうしてさらに日が経ち、アイズたちの遠征が近付いた日のこと。

 

「収穫祭?」

 

 ティオネが首を傾げると、婦人は頷く。

 

「ええ。今回はぜひ皆さんにもご参加を、と思いまして」

 

 それを聞いて、ぱあっと顔を綻ばせるのはティオナだ。

 

「あ~【収穫祭(ハロウィン)】だね! ……あれ、もうそんな季節だっけ?」

 

「ばか。あれは秋にやるもんでしょうが」

 

 秋の【収穫祭(ハロウィン)】とは違い、今回の収穫祭は内輪で行われるらしい。

 日没前後から始まる祭りに向けて身を清めるため、アイズたちも【デメテル・ファミリア】の別邸に移動したのだが───────

 

 

 

「……………………………………」

 

 眼前に広がる()()に、ティオナの目は死んでいた。

 

「おっぱいがひとつ、おっぱいがふたつ」

 

「ティオナ、気を確かに……」

 

 別邸の大浴場。

 その脱衣場は豊穣の地であった。

 豊穣神(デメテル)の眷族たちが胸元にタオルと石鹸を載せて脱いだ衣類を畳んでいる。

 ティオナにとって、それは『いとも容易く行われるえげつない行為』

 俗物(男神)の言う【おっぱいチャレンジ】が猛威を振るい、ティオナの乙女心をかき乱す。

 

何故(なにゆえ)、天は持つものと持たざるものを作り給うたのか」

 

「……!? ティオナが何か難しいことを言ってる……!」

 

「放っときなさい」

 

 表情の消えたティオナを、ティオネは軽くあしらう。

 そのティオナの横で、婦人が衣擦(きぬず)れの音を立てた。

 

「お、お姉さん…………!?」

 

 ティオナが婦人の素肌を見てよろめく。まるで裏切られたかのような、表情に戸惑いと焦燥の色が広がっていく。

 

「服の上からじゃ分からなかったけど、へぇ、いいもの持ってるじゃない?」

 

「すごい、ね?」

 

 これにはティオネとアイズも称賛を惜しまない。一瞬呆気にとられた婦人は自分の胸元に目を移し、その言葉の意味を理解する。

 

「わ、私もデメテル様の子ですから……?」

 

 ほんのりと頬を染めてはにかむ婦人に、ティオナの中で何かが壊れた。

 

「──────決めた。あたし、デメテル様の子供になる」

 

「ティオナ!?」

「はあ!? アンタ血迷ったの!?」

 

「三年後にビッグになって帰ってくるよ」

 

 爆弾発言が飛び出す。

 これに一番慌てたのは婦人だ。

 あのロキのこと。こんなことでティオナが改宗(コンバージョン)となれば、血の涙を流しながら取り返しにくるだろう。【デメテル・ファミリア】としては完全にとばっちりだ。こんな揉め事は絶対に避けたい。正気を失うティオナを婦人やアイズが必死に宥めにかかる。

 

 その頃、壁一枚隔てた男湯は嘘のように平和だった。

 

「なんか向こう(女湯)は賑やかだな」

 

「けっ、碌でもねーことで騒いでる気がすんぜ。あのバカゾネスあたりがな」

 

 安全地帯にいる余裕からか、クリリンに答えるベートの表情は幾らか穏やかだったという。

 

 

 篝火(かがりび)が夜の畑を照らす。

 アイズたちはクリリンと共に参列し、儀式を見守っていた。

 

『大地に血を捧げよ』

 

 数人がかりで持ち上げられた巨大な三角杯から、血に見立てた葡萄酒(ワイン)が注がれる。

 それをデメテルとヘスティアは神座(かみざ)から見届ける。

 

『大いなる流れは巡り、冥窮(めいきゅう)より貴方の娘はいま戻る』

 

『豊穣に、感謝を──────!』

 

 一人の乙女が祈り、歓声が静寂を破る。刈り取られた麦の穂を差して、女たちが舞った。

 

「ヘスティアさまも、どおぞ」

 

「花冠かい、ありがとう」

 

 小さな手が炉神の頭に冠を乗せる。少女は台座から飛び下りて神前を辞し、祭りの輪に加わった。

 

「お祭りか~、いいものだね」

 

 篝火が弾け、火の粉もまた女たちと共に踊る。ヘスティアの瞳がそんな情景を映していた。

 

「お、アマゾネス君たちが踊ってる」

 

「ふふ、ティオナちゃんもティオネちゃんもお上手ね」

 

「アイズ君は……なんかギクシャクしてるなぁ。らしいといえば、らしいけど」

 

 苦笑いをするヘスティアの視界の隅で、男たちは楽器を鳴らし歌う。クリリンとベートもここにいた。

 

「デメテル。めでたい席でこんなことを聞くのは野暮ってもんだけどさ」

 

「? なにかしら?」

 

「キミ、何か悩み事でもあるのかい?」

 

「────────」

 

 デメテルは思わず目を丸くして、ヘスティアを見つめた。

 

「あーいや、なんとなくそう思っただけなんだけどさ?」

 

 そう言って、ヘスティアはぽりぽりと頬をかく。

 

「ヘスティア、貴方って本当に不思議ね」

 

「………………まあ、今のボクじゃ大した力にはなれないだろうね」

 

「いいえ、ありがとう。いつか頼りにしちゃうかも」

 

 女神の前で乙女たちは踊る。ちょうどその影がデメテルの横顔に重なった。それがヘスティアの目から、デメテルの表情を隠す。

 

 その瞬間(とき)なぜだか、ヘスティアは背筋に怖気(おぞけ)を感じた。

 

 賑やかな祭りの最中だというのに。

 どこかで誰かが嗤った気がした────────

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 お務めお疲れ様、ワタシ。

 

 祝詞(のりと)を上げて、採れた麦を奉じて、舞をまって。

 とりあえず今は一息ついて、皆の舞楽を楽しんでる。

 

 いやはや、眷族を代表して祝詞を述べるのは畏れ多い。

 しかも今回はヘスティア様を加えて二柱を前にしたものだから、私の緊張も増し増し。

 ヘスティア様ってば普段あんなに可愛くてフレンドリーなのに、厳かな感じ出しちゃってさ。

 こういうの見ると、やっぱり女神様なんだあって思っちゃう。

 

 聞けば、天界でもデメテル様と同じぐらい偉い神様だっていうし、緊張してもしょうがないよね。

 よく祝詞噛まなかった、偉いぞ私。

 

 でも、なんで私なんだろ? 

 

 私なんてまだまだ若輩だし、仕事だって皆に教わりながらなんとかやれているだけだし、もちろん腕っぷしが強いなんてことはない。

 

 顔か? 私、実は美少女だったりするのか!? 

 とか言ってみたけど、隣にいる【剣姫(アイズ)】さん見たらスン……てなった。イモ頬張ってる姿も美しいとかなんなん。

 

 じゃあオッパイか。

 いや、うちの派閥ではこんぐらい普通です。私より凄いひとなんてここにはゴロゴロいるし。

 ……アイズさんと同じぐらいかな。ってどこ見てんだワタシ。

 

「……どうしたの」

 

 どきーん、と私の心臓が跳ねる。

 そりゃあ相手はレベル5だもの、(よこしま)な視線向けてたらバレるよね。

 それにしても、こてんと首を傾げるアイズさん可愛い。

 

 とまあクリリンさんを通じて、ちゃっかりお友達づらしてる私である。

 一方的かな? だとしたら悲しい。

 でもね、普段のアイズさんは無垢な天使そのもの。きっと私みたいな土くさい女でも、気にせず受け止めてくれる期待。

 ……うわ、自分で言ってて引く。あまり調子に乗らないようにせんと。

 

「ひとつ、聞いてもいい?」

 

 何でしょうかお姫さま。私めに答えられるものならなんなりと。

 

「さっきお祈りしてるとき、『迷宮』より娘が戻るって言ってたけど」

 

 ああ、それ『迷宮』ではなくて『冥窮』なんですよ。口で言うと紛らわしいけど。

 なんというか、イメージとしては冬の作物があまり取れない時期から春に移り変わる感じ。

 あの祝詞はデメテル様にまつわる神話や、豊穣神の権能がモチーフになってるらしいんです。

 でも『貴方の娘が戻る』って表現されてる理由はよく分からない。なんとなく、季節が巡ることを表してるのかなとは思ってる。

 じゃあ『季節』ってデメテル様の娘なのかな。すごい、スケールが大きい。

 

 そうそう、儀式で使われたあの三角杯と、中に入ってた赤葡萄酒(ワイン)、あれは『子宮』と『経血』の暗喩なんですよ───────と喉元まで出かかったのを慌てて飲み込んだ。

 これをそのまま伝えるのはちょっと生々しい。

 あれは生命が生まれ出でて、土に還る、大きな流れを示しているらしい。

 

 だからアイズさんにはこう伝えた。

 

 世界の大きな流れと、その流れの中にいる小さな自分。

 そして小さな自分の中にも、大きな流れと同じ摂理が働いてること。

 その奇跡に思いを馳せ、感動し、感謝する。

 それが、あの儀式で、このお祭りなんじゃないかな。

 

 なーんて、私の自己解釈も多分に入っちゃってるけど。

 

 でも今は祈りを捧げる神様が目の前に顕れているからいいけど、まだ神様が下界にいなかった頃は、皆は何に祈っていたんだろう? 拠り所って何だったんだろう? 

 

 ここまで話して気が付いた。

 

 アイズさんがなんかキョトンとしてる…………? 

 

 ◆

 

 

 

(自分の中を巡る、大きな流れ)

 

 少女の言葉に、アイズの目が見開かれる。

 

 自らの内に摂理が宿る。

 

 そんなこと、アイズは今まで考えたことが無かった。

 

(──────────『気』)

 

 偶然か必然か。

 あるいは、これこそ『奇跡』と呼ぶべきか。

 内なる摂理と『気』の概念が、アイズの中で結び付いた。

 

 自分の中を巡る、大いなる流れ。

 それが『気』なのでは無いか────────アイズはそう思い至った。

 

 ならば、如何にして『気』に出会うか。

 

 ここでまたアイズは立ち尽くす。

 

 追い求めれば遠ざかり、触れようとすればすり抜ける。

 

『気』とは正に自由で気まぐれで、人の理解を超えていた。

 

 少女の言葉が突き刺さる。

 太古、人は何を寄る辺とし、何に祈っていたのだろう。

 

 この問いには答えなぞ無いのではないか。アイズは迷う。

 

 そのときだ。

 迷子に手が差し伸べられたのは。

 

「どうしたのさ、アイズ君。楽しいお祭りだってのに眉なんて寄せちゃって」

 

「ヘスティア様……」

 

 はっと気が付けば、こちらを覗き込む炉神がいた。

 その瞬間、アイズは奇妙な錯覚に陥った。

 何故だか、広場中の篝火が一斉にこちらを『見た』気がするのだ。

 

「……お祭りなのに、ごめんなさい」

 

「いやいや責めてるわけじゃないんだ。ただ、どうしたのかなって気になっただけなんだよ」

 

 ヘスティアは慌てて弁明する。そんな様子にアイズはいっそう戸惑いながらも、その胸中を少しだけ打ち明けた。

 

「『何に祈り、何を寄る辺とするか』か。なかなか面白いことを考えていたんだね」

 

 そう返すヘスティアの顔を、アイズはまじまじと見つめていた。

 やはり奇妙な感覚は続いている。

 ヘスティアを見ていると、なんだか揺らめく火を囲んでいる気がするのだ。

 それは身を焦がす業火ではなく、暗がりを照らす(ほの)かな灯火のようだった。

 

「アイズ君自身は、なんだと思っているんだい?」

 

「えっと、お祭りなんだから、『神殿』や『祭壇』かなって……」

 

「あるいは『聖地』って答える子もいるかもしれないね。ただ、大事なのはそこじゃない」

 

「……」

 

 そう言って、ヘスティアはアイズの隣に腰を下ろす。

 

「『自分を見つめ直す』

 結局はそういうことじゃないかってボクは思う。『神殿』も『祭壇』も『聖地』も『場』、言い換えればそうだね……『きっかけを与える』それ以上でも以下でもない。目覚めるのはキミ自身」

 

 アイズと少女が神妙にしているのに気付き、ヘスティアは照れ笑いを浮かべる。

 

「アハハ、ちょっと格好つけすぎたかな? まあたまには神様らしいとこも見せたいな、なんてさ。これもお祭り効果かもしれないね」

 

「……いいえ、ありがとうございます、ヘスティア様」

 

 明確な答えが示されたわけでは無い。否、求めるべきでは無いのだろう。十分すぎるほど道標(ヒント)はもらった。後は今の自分に出来ることをするのみ。

 

 だからアイズは───────

 

「──────」

 

 心を震わせ、感謝した。

 

 思えば『感謝』というのを意識して行ったことは無いかもしれない。

 

 今までは憎悪に駆られるまま、剣を振るっていた。

 

 弱い自分、そして弱さゆえに奪われた自分。

 

『敵』ばかりでは無い。己すらも顧みず、ただ強さのみを求め、気が付けば流す血と返り血が己の心身をどす黒く染め上げる日々。

 

【ロキ・ファミリア】に迎え入れられてからは少しずつ落ち着いてきたものの、根底はいまだ燻っている。

 

 でもそれは一旦、心の内にしまっておく。

 

 今はただ、ご飯が美味しかったとか、星空がきれいだとか、目の前のことに心を向けよう。

 

 弱くて奪われているばかりでは無い。

 こうして、与えられたものも確かにある。

 

 記憶を辿る。

 両親、【ロキ・ファミリア】、【迷宮都市(オラリオ)】そして今は【デメテル・ファミリア】

 

 たくさんの人々、たくさんの神々に出会って、今の自分がある。

 

 アイズは深く息を吐く。たどたどしくも出来る限り心を動かし、深く深く祈る。ヘスティアと少女はそれを静かに見守っていた。

 

 アイズ自身の内にも摂理があるというなら、大きな流れとは、『世界』とは何か。

 

 ちょうどアイズはここ数日、『世界』を見てきた。

 それはクリリンの背中越しではあったが、驚天動地の摩訶不思議大冒険(アドベンチャー)

 

 こうやって冷静に思い返すと、可笑しな話だった。

 

 そもそも、クリリンが可笑しい。

 

 さらに言えば、超人たるクリリンや、馬、泣く子も黙るアイズたち【ロキ・ファミリア】幹部を当然のように受け入れる【デメテル・ファミリア】も可笑しい。

 なんなら、いま隣にいる炉神(ヘスティア)も可笑しい。

 

 今さらな話だと、アイズは思う。

 でも気が付いてしまったのだ。自分を取り巻くこの状況は、すごくすごく可笑しなことだと。

 

 だからアイズは思わず────────

 

 

 

 くすりと笑った。

 

 

 

「「!?」」

 

 そのあまりの破壊力にヘスティアと少女が噴きそうになる。

 

 同時に

 

 

 アイズの内で、何かが動いた。

 

「────!」

 

 直感する。

 今ならばきっと。

 

 胸の前で手を合わせる。

 慌てず、じっと待つ。

 

「アイ、ズ…………?」

 

 異様な雰囲気に気付いたティオナが駆け寄ってくるも、集中しているアイズを見て息を飲んだ。

 ティオナの隣でティオネが、ベートはクリリンやデメテルと共にアイズを見守る。

 

 祭りの囃子と篝火のゆらめき。

 それらがアイズの内なる鼓動に同調(シンクロ)したその瞬間──────────アイズの手の中に小さな光が灯った。

 

「!!」

 

「アイズ君っ、それは!」

 

 目を丸くしたアイズが顔を上げる。

 ついに、ついに────────! 

 

「アイズ!」

「アイズっ、やったあーーーー!」

 

 ティオネとティオナが駆け寄ってくる。

 

 それを遠目にベートは鼻を鳴らして呟く。

 

「アイズはやったのか」

 

 問うような目をクリリンに向けた。

 

「そうだな。ま、早い方だと思うぜ。ここからが大変だけど、戦い方の幅は間違いなく広がる」

 

 クリリンの横で、ベートは悔しげな中にどこか楽しげな様子を滲ませた。

 

「フン……見てろよ、俺もすぐにそこへ行く。必ずだ……!」

 

 おそらくティオナやティオネも同じことを考えていたのだろう。二人もベートと同じ目をしていた。

 

 農夫たちは歌い踊る。

 アイズの飛躍を祝うかのように、祭りはいっそう華やぐのであった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 収穫祭の明くる日。

 

 アイズは畑の一角で、尋常ではないほど集中していた。

 

「あ! 浮いたっ! 浮いたよ、アイズ!!」

「静かにしなさい」

 

 興奮するティオナを、ティオネが嗜める。

 

 ふぅ、と一息ついてアイズは地に足を戻す。そこへベートが声を掛けた。

 

「流石だな。昨日の今日でそこまでやれるとはよ」

 

「ありがとう、ございます。ちょっと『風』を使う感覚と似ていて、それでかも。………………だけど」

 

 アイズは視線を上に移した。

 クリリンが、ばびゅーんと空を飛んでこちらへやって来た。

 

「こんな風に飛べるようになるのは、どれぐらいかかりそう?」

 

「あん?」

 

 前のめりになるアイズを、クリリンは笑って諭した。

 

「しばらくは()()()()()()()()()()()かもな」

 

「え?」

 

「というかアイズ、【舞空術】の一番の利点って何だと思う?」

 

「…………」

 

 クリリンの問い掛けに、アイズは考える。

 飛ぶべきでは無い……? 

 もしかしてこの技が【飛空術】でも【飛行術】でもなく、【舞空術】と呼ばれていることにも関係があるのだろうか。

 

 そう考えてアイズはピンときた。が、上手く言葉に出来ない。

 あうあう、と身振り手振りが空を切るアイズを見て、同様の結論に至ったベートが代わりに口を開いた。

 

「……足場の無え空中で、推進力を得られる、だろ?」

 

「そうだ」

 

 クリリンが満足げに頷く。

 

「【舞空術】ってのはかなり気を消耗する。速く飛ぼうとしたら尚更だ。ここぞって時にピンポイントで使えるようにした方がいい」

 

 クリリンはこう説く。

 飛ぶのではなく、空に立ち、空を歩き、空を舞う。

 これが【舞空術】の真髄であると。

 

「すいしんりょく……?」と頭を悩ませていたティオナも、なるほどと手を打った。

 

「なーに、慣れて体力(スタミナ)がつきゃ勝手に速く飛べるようになるさ。だから今は」

 

「足腰、体力を鍛える、つまり修業だね!」

 

「ははは、そういうこった」

 

 元気よく答えるティオナに、ならばとクリリンはある提案した。

 

「じゃあ仕上げに、今日の修業はこっちの甲羅を背負ってやるか」

 

「…………………………………………え?」

 

 クリリンが超スピードで持ってきたのは、目映いばかりに輝く黄金の甲羅。

 

 今日まで背負ってきた銀の甲羅、それよりもさらに威圧感(プレッシャー)を放っている。

 

 ずっしり、と空気が軋んだ。

 

 アイズたちは思わずズッコケる。

 言わずもがな、この日の修業はまともに動くことも叶わなかった。

 

 

 

 畑への出向、その全日程が終了した。

 

【黄昏の館】に帰る道中

 

 アイズたちが口を開くことはなかった。

 そこに気まずさはない。

 誰もがこの数日を振り返り、感慨に耽っているようだった。

 それは喩えるなら、大長編の物語を読破した後に訪れる、脱力感や喪失感のようだ。

 

 美しい風景を見た。

 大地を埋め尽くす青葉を、分け入って歩いた。

 見たことのない花の香りを嗅いだ。

 広野で働く人たちとの縁が出来た。

 神様と出会った。

 神様と再会した。

 掘った。

 運んだ。

 また掘って、また運んだ。

 猛き者と食卓を囲んだ。

 おいしい食事で心身を満たした。

 

 空を飛んだ。

 外の世界を見てきた。

 世界の広さを知った。

 走った。

 跳んだ。

 泳いだ。

 足を取られた。

 転んだ。

 溺れた。

 世界の果てを見てきた。

 聖なる存在を感じた。

 邪悪なる存在に慄いた。

 竜が圧し潰されるのを見た。

 蛇が吹き飛ぶのを見た。

 

 祈り、感謝をした。

 麦の穂を掲げ、歌い、舞った。

 世界の、大きな流れを知った。

 そしてついに、自らの『気』で空に立った──────────

 

 

 

 

 

「戻ったか」

 

「うん、ただいまリヴェリア」

 

 玄関ホールでエルフの麗人が、アイズたちを出迎える。

 常に多忙を極める彼女であるが、頃合いを見計らってホールまで下りてきていた。

 それはロキやフィンに言わせれば、『親心』というべきものだった。

 

(…………纏う空気が違う。そして、目も…………)

 

 慌ただしく過ぎる日々、お互いがこうして向かい合うのは数日ぶりだ。

 たった数日。

 それでもリヴェリアの目には、一回りも二回りも大きくなった四人の姿が映っていた。

 

(その目で何を見て、その心で何を感じ取ったのか)

 

 それを聞こうとして開きかけた唇を、しかしリヴェリアはそっと閉じる。

 疲れているだろう。心身もまだ揺れているだろう。

 二日後には遠征に発つ。

 その身に起きている変化を受け止めるには、残された時間はあまりに少ない。しかしそれでも、可能な限り休ませてやりたかった。

 それに、今ここで根掘り葉掘り聞き出さずとも遠征の中で知ることになると、そんな予感というか確信があった。

 

「四人ともご苦労だった。今日はもう休むといい───────」

 

 ねぎらいの言葉を言い終わる前に、何かを察したリヴェリアが身構える。

 それを見たアイズたちも察して、『襲来』に備えた。

 

「お、か、え、りぃ~~~~~~~~!!」

 

 階段の手すりを、ロキがものすごいスピードで滑り降りてくる。

 バッ、と勢いそのまま宙に躍り出る悪神(ロキ)標的(ターゲット)は────────

 

「アイズたーーーーーーん! 受け止めてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

「……」

 

 鼻の穴をふくらませ、いやらしい表情を浮かべて胸元に飛び込んでくる主神。ソレを見るアイズの目はすっかり冷めていた。

 その程度の動きでアイズを捉えられるはずも無い。ギリギリまで引き付けられ、ロキが「これイケるんちゃう!?」と思った瞬間、悪戯神の体は床に這いつくばっていた。

 チリンと、ロキの頭上で涼やかな音が鳴った。

 

「え~~~~~~と、何されたんかサッパリ分からんかったんやけど」

 

 ロキの頬を冷や汗が伝う。

 いつもなら平手で打たれたとか、足で払われたとか、それぐらいは分かる。

 

 だが、今のは本当に()()()()()()()()()

 

「見えなかったっちゅーんか、この神の目を以てしても………………!?」

 

「神の目といっても、下界では人の目と変わらないだろう」

 

 ロキのボケにリヴェリアは律儀にもツッコんでおく。

 本当は無視しておきたいが、無視するとこちらが構うまで暴走(エスカレート)し、より面倒なことになるのだ。対処は早い方が傷口は浅く済む。

 

「しかしロキがそう思うのも無理は無い。今の動き、レベル6の私から見てもほとんど無駄が無かった…………」

 

 受けるでもなく躱すでもなく。

 言うなれば、立っていただけのアイズを、ただロキが素通りした。

 アイズの動きは無駄が無く、透き通っていた。

 リヴェリアですら、ほとんどそのように見えていたのだ。

 

 だが

 

「無駄のない動き、か」

 

 なぜか困ったようにティオネは苦笑している。

 

 見ればアイズもむぅと眉を寄せていた。そんなアイズの背をぽんぽんと叩くのはティオナだ。

 

 納得がいってない。

 そんな空気が醸し出されている。

 そのことにロキとリヴェリアは強烈な違和感を覚えた。

 

「分からねぇ、って顔してんなババア」

 

「………………どういうことだ、ベート」

 

 鼻を鳴らしたベートは腰に手をやり、取り出したものをリヴェリアの前にぶら下げた。

 

(コイツ)が鳴っただろう」

 

「!?」

 

「しかも、()()()ロキ相手に、だ」

 

 アイズが今の動きに納得がいかねえのは当然だ。

 ベートの眼光は、言外にそう告げていた。

 

 ロキとリヴェリアは思わず顔を見合わせる。

 

「いやいやまさか、自分ら鈴を鳴らさんで動けるようになるつもりか? 物理的にありえんてそれ」

 

「クリリンはできるよ! しかも、強いドラゴンを相手に!」

 

「………………ホンマか」

 

 訝しげなロキはしかし、ティオナの言葉が真実だとわかってしまう。神ゆえに疑いようもなく。

 

「あとなアイズたん、一つ聞きたいことあるんやけど」

 

「…………………………………………なに?」

 

 およそ碌でもないことだろうが、聞くだけは聞こうとアイズが床に視線を落としてやると

 

「アイズたん、太った?」

 

 ゴッ、と特大のゲンコツがロキの頭上に落ちた。

 

「~~~~~~~~~~!!」

 

 上気したアイズの潤んだ視線がロキに刺さる。

 

「う、うちらの業界ではご褒美です……………………ガクッ」

 

「馬鹿者が…………他に言い様は幾らでもあるだろう」

 

 間違いなくわざとやってるロキに、リヴェリアは心から呆れ果てる。

 

「リ、リヴェリア…………私」

 

 ヨロヨロと助けを求めるアイズを、リヴェリアはまじまじと眺める。そして、うむ、と頷いた。

 

「安心しろ、もともとお前は痩せすぎだった。適正な数値にはまだ遠いぐらいだ」

 

「それって、やっぱり太ったってことじゃ…………」

 

「それに────────」

 

 リヴェリアの表情がわずかに弛む。

 それを見たアイズは嫌な予感がした。

 

「より魅力的になったと思うぞ。特に胸元とヒップラインが、艶やかになった」

 

「ぶふッ!?」

 

「~~~~~~~~~~!!」

 

 横でベートが噴き出す。

 アイズはもはや湯気が出るほど顔を赤くして、リヴェリアの背をポカポカ叩いた。

 嫌な予感が的中した。さっきのリヴェリアの表情はどこかロキに通ずるものがあったのだ。

 

「ふふふ。すまないアイズ、揶揄(からか)いすぎたな」

 

 そんな謝罪ではアイズの気は済まない。ぽかぽかぽかと抗議を続けていると、不意に階上(うえ)から声が届いた。

 

「やけに賑やかだと思ったら。お帰りみんな」

 

「団長~♡ このティオネ、ただいま貴方の下へ戻りましたぁ♡」

 

「は、はは…………ティオネは平常運転だね…………」

 

 ホールに下りてきたフィンの隣に、すかさず陣取るティオネ。

 この猛烈な愛の波動の前には、さすがのフィンも押され気味だ。

 

「さて、この場であまり長話をするつもりはないが。どうだい、クリリンに何か秘訣を聞いたのなら僕にも教えてもらいたいな」

 

 片目をつぶってニコリと笑うフィンの表情は、見た目と中身の乖離(ギャップ)を感じさせ危ない魅力があった。

 

 アイズたちは顔を見合わせる。

 最初にフィンに答えたのはティオナだった。

 

「よく動き!」

 

「!?」

 

 ロキもフィンもリヴェリアも、思わず呆気にとられる。それを他所に言葉を継ぐのはティオネだ。

 

「よく学び」

 

 次に、ベート。

 

「………………よく遊び」

 

 最後はアイズの番。

 

「よく食べて、………………よく休む」

 

 それを聞いたロキたち、特にリヴェリアの驚きはひとしおだった。

 横でにんまりと笑顔を浮かべるのはティオナだ。締めをアイズに言わせる水面下の目論みは、まんまと嵌まった。

 

 しばし唖然としていたフィンだったが、その金言の含意にゆっくりと思いを巡らせ、味わい、そして微笑(わら)った。

 

「なるほど……善き教えを授かったようだね。しかし、アイズからその言葉が出るとは…………全く感無量だよ。そうだろう、リヴェリア?」

 

「う、うむ…………」

 

「リヴェリア……? なんか、震えてる…………?」

 

「………………………………………………うるさい」

 

 アイズに覗き込まれるも、ふいとそっぽを向いてしまうエルフの貴人。それを見たフィンは本人に悟られぬよう気を払いつつ、いっそう笑みを深くした。

 

「うん、いい話が聞けたところでこの場はお開きにしようか。四人とも明日はゆっくり休んでもらって構わない。遠征の壮行会は16時から行う予定だから、そのつもりで」

 

「はーい、おやすみフィン!」

 

 一番に階上(うえ)に駆け上がるティオナ。

 (ティオナ)の後に続くも、団長(フィン)への熱視線(アピール)を忘れないティオネ。

 

 そんな二人の背を見送りながらアイズはしかし、踏み出そうとした一歩を引っ込めた。

 

「フィン、リヴェリア」

 

「ん?」

 

「どうした、アイズ?」

 

 フィンとリヴェリアはキョトンとしてアイズを見る。

 背を向けたままのアイズは、肩越しにちょこっとだけ振り返って呟いた。

 

「……………………………………ありがとう」

 

「「!?」」

 

 

 

 完璧な不意打ちだった。

 さすがの二人もこれには対処しきれない。

 そんなフィンたちを後目(しりめ)に、耳を赤くしたアイズは居たたまれず脱兎のごとく逃げ出した。

 

 アイズが廊下の奥に消え、やってくる静寂。それから数瞬してようやくフィンが口を開いた。

 

「あはは、これはなんというか…………参ったね」

 

 フィンがこう言えば、ロキも頷く。

 

「いや~~~~エエもん見たわ。な! ベートぉ?」

 

「ッ! なんで俺に振るんだ!?」

 

「照れんな照れんな。で、マッマはっと……………………見事に固まっとるなぁ、カチンコチンや」

 

 こんな時でも隙ありとばかりに悪戯(セクハラ)を働こうとするロキは流石である。しかし直後には床に伸びていた。隙なんて無かった。

 

「きょ、今日のアイズは何なんだっ!?」

 

「まあまあ、いい兆しじゃないか」

 

「悪いとは言ってないっ!!」

 

「……なんやこれ」

 

 床に伸びながらも合いの手を忘れないロキ。

 思わず蹴り飛ばしたくなる衝動を抑えつつ、ベートが口を挟む。

 

「茶番はそこまでだ。フィン、クリリンとの取引はどうなった」

 

 途端にロキもフィンもリヴェリアも、纏う空気がガラリと変わる。

 

「ああ、取引はつつがなく進んだ。ベートもご苦労だったね」

 

「クリリンの狙いはなんだ。俺達に何を望む?」

 

「結論から言おう。彼が求めたのは『時空間に関する情報』だ」

 

「!」

 

 フィンがそう言えば、リヴェリアも言葉を足す。

 

「時間、空間、転移、重力。これらに関する魔法、モンスター、あるいは現象について、情報を欲しがっている」

 

「……クリリンは何を企んでやがる?」

 

「飢餓に苦しむ民に十分かつ迅速に食糧を行き渡らせるため、流通向上の可能性を探りたい、とのことだ」

 

「そりゃ建前じゃねえのか」

 

「無論、建前だと思うけど、流通の向上を図りたいというのは本当だろう。ただ、それとは別のクリリンの真の目的は、そうだな────」

 

「! まさか時を止めてムフフなことを!?」

 

「黙っていろ」

 

 よからぬ妄想をするロキをよそに、フィンの鋭敏な頭脳が『発想の飛躍』をもたらす。

 

「クリリンの真の目的は『異界に乗り込む』こと」

 

「「!?」」

 

 リヴェリアとベートは度肝を抜かれ、ロキは面白そうに口角を上げた。

 

「クリリンの言う【大魔王】が本当に存在するならば、それらのいる場所は【魔界】だの【地下世界】だの、そういった【異界】というのが定番(お決まり)だね」

 

「【魔界】などという空想(フィクション)が本当に在るかは別にして、【大魔王】とやらの本拠地が人の足ではそうそう辿り着けない場所にある可能性は、確かに否定できんな。成程、ゆえに『時空』か。それにしてもフィン、お前の発想にはいつも驚かされる」

 

「そういうことかよ」

 

「まあ、さすがに邪推が過ぎる、かな?」

 

 そう言って笑うフィンを、ベートたちは否定できなかった。

 フィンの指揮の下、彼らは幾度となく窮地を脱した。その記憶、その経験が骨身に()みている。そのフィンの頭脳が弾き出した答えを、どうして一笑に付すことが出来ようか。

 

 さらに言えば

 

 恐ろしいことに、フィンの考えは(おおよ)そ当たっていた。

 

「フィンの推測通りだとすれば、クリリンは世界平和のために動いているのだろうか。我々に都合よく解せば、だが」

 

「魔王軍と手ぇ組んで世界征服ぅ! って可能性もあんで!」

 

「家族や仲間が連れ去られたという線もあるし、俗っぽい考え方をするなら、未知の資源や財物の掌握ってところかな」

 

「はっ! あの野郎が今さらカネなんざ欲しがるかよ。欲しけりゃとっくに手に入れてるだろーが」

 

「道理だね」

 

 ベートの言葉にフィンも頷く。組織の長として楽観的な見方はあまり良くはないが、かといって悪意を感じたわけでもない。クリリンの本当の目的についての考察は、今はこれぐらいでいいだろう。

 

「実際、取引(はなし)は実に和やかに進んだよ。いろいろ準備はしておいたんだけどね、まるで出番が無かった。向こうは全くお人好しだ。先払いということで、興味深い情報を得られたよ」

 

「!」

 

 ロキが目を輝かせ、リヴェリアとベートも表情を変える。

 

「大陸の東の果て、大森林が広がる地に、封印が施された古い遺跡があるそうだ。そこにどうやら強大な存在が潜んでいるらしい」

 

「ほう、それは私も知らなかったな。確かにあの辺りは未開の地で、秘されていることも多いと思うが」

 

「とはいえ、実力自体はそこまででは無いらしい。大魔王級にはほど遠いし、僕達ならば十分対処できるというのがクリリンの見立てさ…………現時点では」

 

「フン……力を蓄えてるってことか」

 

「その通りだ。日に日にパワーを増している。そうでなくても周囲に対抗できる戦力は無い。今もっとも状況が逼迫(ひっぱく)しているのはそこだろうと、クリリンは言っていた」

 

「場所の詳細は?」

 

「ああ、調べはついている。その遺跡の名は──────【エルソスの遺跡】。ここで間違いないだろう」

 

 話を聞いたリヴェリアとベートは沈思する。僅かな黙考の後、リヴェリアが口を開いた。

 

「私の方でも史書や伝記を当たろう。だが当面はどうする? さすがに遠征を中止する訳にはいくまい?」

 

「遠征は決行する。その間の下準備は──────ロキ、頼めるか?」

 

「任されたで。都市(オラリオ)の外で遊び歩いとる風来坊おるやろ。あれを巻き込んだるわ」

 

「ああ、あの神か。手を組むには少し癖があるが……構わないよ」

 

「ヨッシャ! さっそく取りかかるでぇ」

 

 ロキがすたこらと何処かへ消えると、フィンたちも話し合いはそこそこに、それぞれの場所へと戻っていった。

 

【ロキ・ファミリア】の夜は更けていく。

 待ち受けるものの大きさを、心のどこかで感じながら。

 

 

 

 ◆

 

 

 翌未明

 今日も変わらず【デメテル・ファミリア】の朝は早い。

 

「クリリン! みんな! 行ってくるね!」

 

 早朝の畑にティオナの声が通る。

 遠征出発前の挨拶に、ティオナ、アイズ、ティオネが畑に顔を出したのだ。少し離れた場所ではベートが不貞腐れている。ティオナに引っ張られて渋々といった(てい)だが、本気で抵抗しなかったあたり義理は通すつもりらしい。

 

「おう、行ってこい」

 

 四人を送り出すのは、クリリン、デメテル、ヘスティア、ルノア、そして婦人をはじめ農夫たちだ。

 

 それにしても軽い調子の挨拶である。

 

 巨大派閥の長期遠征となれば命の保障は無い。

 いま目の前にいる四人と、これが今生の別れになる可能性だってあるのだ。

 

 だがクリリンはそんな事情など知る由は無い。

 アイズたち四人も、ここで死んでやる気なんて毛頭ない。

 

 それを察してか、周囲も湿っぽくならないようにしている。ヘスティアだけはいつも通りではあったが。

 

「何日ぐらい潜るの?」

 

 とルノアが尋ねれば

 

「半月ぐらいね」

 

「うへぇ~、相変わらずイカれてるね」

 

 ティオネの答えに、ルノアは顔をしかめた。

 

「遠征から帰ってきたらまたミア母さんの店で打ち上げだろうから、よろしく」

 

「はいはい。いつもご贔屓ありがとうございます【ロキ・ファミリア】ご一行様」

 

 ルノアのなおざりな返答に、傍にいたツインテールがぴくりと反応する。

 

「……いま聞き捨てならないものが聞こえたような」

 

 ヘスティアの呟きをデメテルだけは聞いていたが、ここで拾うと一騒動起きそうなので聞き流すことにした。

 

「これは私たちからの差し入れ。深層だと食糧事情も厳しいでしょう。少しでも気持ちが上向けば嬉しいわ」

 

「わあ! ありがとう、デメテル様っ!」

 

 ティオナがデメテルに飛び付く。ごろごろとじゃれるティオナに女神は目を細める。

 

「あんたねぇ……」

 

 すっかり懐いている妹に、ティオネが呆れているとデメテルと目が合った。

 

 女神は微笑む。

 こちら側は空いているわよ、と言わんばかりの表情で。

 

「わ、私は別に」

 

 珍しくティオネは狼狽する。

 

「ティオネも来なよ~? デメテル様、ふっわふわだよ?」

 

「…………」

 

 確かに柔らかそうではある。

 少しだけ、ほんの少しだけ。

 ティオネはおそるおそるデメテルに近寄る。

 不意に温もりに包まれた。

 

 甘え方を忘れてしまった少女を、デメテルはそっと抱きしめる。

 

 ティオネは思う。

 こうやって誰かに抱きしめてもらうのは、一体いつぶりだろうかと。

 

 こうして姉妹を手中に収めた女神の次なる標的(ターゲット)は、アイズだった。

 

 ぞわりと背すじが寒くなったアイズはついーーーーっと目線を逸らし、クリリンとヘスティアの方に逃げた。

 

「……クリリン」

 

「ん?」

 

「ありがとう。クリリンに教えてもらったこと、この遠征で試してみる」

 

「ああ。やばい状況になったら、ちゃんと逃げろよ?」

 

「うん」

 

 クリリンと話し終えたアイズはヘスティアの方へ向き直る。

 

「ヘスティア様は、えっと、眷族集め、がんばって?」

 

「うん、まあ、頑張らないといけないんだけどね?」

 

「ヘスティア様ー! 眷族できたらあたしたちにも紹介してね!」

 

「いやーははは…… 君達が帰ってくるまでに出来るかなぁ…………」

 

 ティオナの陽気とは裏腹に、ヘスティアはすっかり(しお)れていた。

 

「よぉーしっ! じゃあ遠征出発前の準備体操(ウォーミングアップ)だーー!」

 

 オーッ! とティオナに続いて農夫たちも声を上げる。

 

「…………やっていくのかよ」

 

「そう言う割にはあんたもやる気じゃない」

 

「ちっ、すっかり定常作業(ルーティンワーク)になっちまった」

 

「ま、どうせ下層まで私たちの出番はないでしょうし、少しでも体を動かしておこうかしら」

 

「うん、これも修業だから──────」

 

 

 

 

 

 

 アイズたちが遠征に発った。

 四人の背が見えなくなるまで見送った婦人は、ぽつりとこぼした。

 

「とうとう行ってしまわれました。寂しくなりますね」

 

「まあ、いきなり静かになったよね。私は寂しいというより、あの威圧感(プレッシャー)から解放されて気楽かな。特に【凶狼(ヴァナルガンド)】とか【怒蛇(ヨルムガンド)】とか、近くにいるだけで緊張するし」

 

「そんなルノアさん、あのお二人も優しい方ですよ」

 

「……そうかなあ」

 

 そう言って首を傾げるルノアの横では、デメテルとヘスティアも語り合っていた。

 

「ボクにも眷族がたくさん出来たら、大規模遠征とかやってみたいなー。これぞ冒険! って感じじゃないか」

 

「そうね。でもヘスティア、いざ我が子が冒険に挑むとなれば、きっと心配で居ても立ってもいられないわ」

 

「んー、そうなのかな……? まあ今のボクには想像出来ないや」

 

「あの子たちを何度も送り出しているロキは、いつもどんな気持ちなのかしら」

 

「はーー、ロキも大変そうだねぇ───────────って、ロキィィ!?」

 

「………………………………あら」

 

 二柱の女神の間でちょっとした騒動が起ころうとしていたものの、他の農夫たちの間にはしんみりとした空気が漂っていた。

 

 とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。気を取り直して農夫たちは自分の仕事に取り掛かるのであった────────

 

 

 

 さて、日もすっかり上ったお昼前。

 

 ルノアはとっくに酒場に戻り、クリリンは班のメンバーとヘスティアを伴って木陰で小休止を取っていた。

 ふと婦人が気付く。

 

「……クリリンさん?」

 

「どうしたんだい、クリリン君?」

 

 婦人が声を掛ければ、ヘスティアもなんだなんだとばかりにそちらを向く。

 

「ああ、いえ、向こうでなんか────」

 

 二人の瞳に見つめられたクリリンが言い終わる前に、伝令が走った。

 

「大変です! 隣の派閥から牛が脱柵しましたっ!!」

 

「「え…………」」

 

「あー、この騒ぎは脱柵だったのか」

 

 すかさず畑に出ていた農夫たちは一斉に出動する。

 

 こうして畑の静寂は半日ともたずに終わりを告げ、新たな騒動がやって来るのであった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「見えてきたぞ、クラネル。迷宮都市(オラリオ)がよ」

 

「────ッ! わあっ!」

 

 草原の中の街道を、一台また一台と馬車が次々に過ぎていく。

 

 その中の一台の馬車。

 御者台に並んで掛けているのは、壮年の行商人と、まだまだあどけなさが残る十代の少年だった。

 

 白い髪が陽光に映える。

 少年はいっぱいに見開いたその目を輝かせた。

 紅い瞳に映るのは、都市をぐるりと囲う市壁の威容。

 そして、都市の中央に鎮座する、天に突き立つ摩天楼。

 市壁までまだ数(キルロ)残していながら、摩天楼(バベル)は見上げるほどに高かった。

 

 少年ベル・クラネルの胸が高鳴る。

 ベルはつい腰を浮かせて前のめりになる。

 途端に、馬車が大きく揺れた。

 

「うわっ!?」

「っと、大丈夫かよクラネル」

「あ、ありがとう、おじさん」

 

 バランスを崩すベルの服の裾を、瞬時に男は引っ張って事なきを得る。

 

「車輪が石でも引っ掛けたか?」と呟く男の横で、ベルはすとんと腰を下ろした。

 

 居ても立ってもいられない気持ちを、ベルはなんとか押さえ込む。それでも気を抜くと、むくむくと好奇心が膨らんできてしまうのだ。叶うならば、心が踊るままにあの草原を駆け回りたい気分だった。

 

 ベルは街道の脇に広がる草原に目を移した。見れば草原にもちらほらと人影がある。

 

「市壁の外にも、けっこう人がいるんだね」

 

「ああ。農業とか畜産やってる派閥(ファミリア)にとっちゃ、この広野(フィールド)こそが第一線だからな。武装している連中は【ガネーシャ・ファミリア】の団員が多いな。街道や、さっき言ったような派閥の警護をしてるんだ」

 

 二人がそんなことを話している内に急速に車間が詰まり始め、男は慌てて馬の足を緩める。

 

「なんか混んでるね」

 

「渋滞は毎度(いつも)のことだが……ちょっと様子がおかしいな」

 

 何かのトラブルか? 

 そう男が首を傾げたところで二人は気付く。

 

 街道の脇、丘の向こうから地鳴りが響いてくる。

 牛だ。

 牧場から脱柵でもしたのか、牛の群れが土埃を巻き上げながら迫ってきている。

 街道はあっという間に阿鼻叫喚と化した。

 馬車を捨てて逃げ惑う者。

 放心して動けない者。

 反応は様々だ。

 

「ど、どどど、どうしよう、おじさんっ!?」

 

「~~~~~~ッ!」

 

 男は歯軋りしながら知恵を絞るも、結論が出る前に牛の群れが二人の馬車に突撃してくる。

 

「ンモオォォォォォォォォォォォォ!!」

 

「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 ベルの絶叫が草原にこだました。

 死んだ、と思った。

 長い旅路の果て、ようやくたどり着いた迷宮都市(オラリオ)を目前にして、何もできず牛に()ねられて終わるのだ、とそう思った。

 

 

 そのときだ。

 

 牛の群れが、何か強い力によって空中に持ち上げられたのは。

 

「ほあっ!!?」

 

「ンモッ!? ンモオォォ!?」

 

 牛たちとベルの絶叫が同調(シンクロ)する。

 

「どうどう。驚かせちまって悪かったな」

 

 ひとかたまりになった牛の影から声がする。

 ベル達は目を剥いた。

 そこにいたのは、何の変哲もない一人の農夫だったからだ。

 

 一人の農夫が牛の群れを持ち上げて飛び上がった。

 一体どれほどのパワーと技があればそんなことが可能なのか、積み重なった牛たちは崩れることはなく空中に連行されていた。

 それに伴い、歓声が辺り一帯を埋め尽くしていく。

 

「す、すごい…………っ!」

 

 ベルが目を輝かせている一方で、男は戦慄していた。

 

(【デメテル・ファミリア】の農夫ッ! ま……間違いねえ、アレはいま世界中でトップニュースになっている()()……!)

 

 空中に浮かぶ農夫を追って、シェパードやコリーといった牧羊犬・牧畜犬種の犬人(シアンスロープ)も街道に雪崩(なだ)れ込んでくる。

 熱気と興奮は一向に冷めやらない。

 

 熱に浮かされているのはここにも一人。

 

「すごい! 僕の知ってるお百姓さんとはまるで違う!」

 

「………………ん?」

 

 感嘆するベルに、男はなぜか引っ掛かるものを感じる。

 ベルの言う通り、あの農夫は普通『農夫』と聞いて思い浮かべる概念(もの)とはかけ離れた存在(もの)だろう。

 何もおかしいところは無い、筈だ。

 

 しかしここで、男に直感が働く。

 ベル・クラネルは何か盛大な勘違いをしてるのではないか、と。

 

「これがオラリオ水準(レベル)のお百姓さん! きっと冒険者はもっとすごいんだろうなあ……!」

 

「!?」

 

 そうきたかッ!! 

 と、男の表情が引き攣る。

 冒険者があの農夫に敵う訳が無い。あの農夫こそ、【猛者】を倒した現・都市最強の男────────

 

「これが、『迷宮都市(オラリオ)』………………!」

 

 断じて違う。

 これが水準(オラリオ)、じゃあ無い。

 

「お、おいクラネル──────」

 

 認識を正さねば。

 そう思った男の言葉は、無情にもかき消された。

 

「モンスターだ!?」

 

 怪物(モンスター)までもが乱入したらしい。

 騒動は加熱する一方だ。

 

「どわぁ!?」

 

 混乱の中で男は御者台から転げ落ち、あっという間に群衆に飲み込まれた。

 

「おじさんッ!?」

 

「聞けぇ、クラネル! あの農夫はただの農夫じゃねえ!! あれは、あの男は────────!」

 

 自らの危機も顧みず、ベルの誤解を解くために放たれた言葉は悲しい哉、群衆に阻まれ少年に届くことはなかった。

 

「ぬわーーーーーーーー」

 

「おじさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!?」

 

 人の波に(さら)われ男の姿は急速に遠ざかっていく。

 それをベルは、ただ見ていることしかできなかった。

 

 怒号

 悲鳴

 混乱

 閃光

 轟音

 歓声

 

 迷宮都市に続く街道は猫も杓子もお祭り騒ぎ。

 途方に暮れるベルを巻き込んで、目の前の『舞台』は幕を開ける。

 

 どこからか砲撃音が聞こえた。それはさながら祝砲のようで────────

 

「こ、これが『世界の中心(オラリオ)』……!」

 

 ぐるぐると目を回すベル・クラネルが呟いたその言葉は、今度は間違ってなどいなかった。

 

 

 

 


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