「……………」
目の前に広がる畑が輝きに満ちている。
私たちは農道の木陰で休憩をとっていた。私の横の切り株に腰かけているのは同じファミリアの先輩。
昨日、新しく私たちの家族となったクリリンさん。先輩は初めて畑に出るクリリンさんの教導をすることになった。
ちらりと先輩を見る。
先輩は枯れていた。
まだ日も高くならないうちにクリリンさんは畑で数々の奇跡を起こした。
奇跡が起こる度に畑の輝きは増し、至るところで噴水が起きた。
まるで奇跡のバーゲンセールだ。いや奇跡は易くない。では目の前の光景はなんと呼べばいいのか。やっぱり奇跡か。頭痛がしてきた。
クリリンさんの一番近くで何度も奇跡を目の当たりにした先輩は、ご覧の有り様だ。
畑の輝きが強まるにつれ、先輩の帯びる影は濃くなっていった。
班長が周囲の団員に声をかける。そろそろ休憩は終わりか。肉体的な疲れはないが精神的にはもういっぱいいっぱいだ。
クリリンさんのおかげで、もう仕事の大半は片付いてるけどね!!!
「クリリンさん、このあと腐葉土を第6耕地まで持っていくのを手伝ってくれませんか」
班長がクリリンさんに声をかけている。………班長もだいぶやつれてるなあ。
木陰の近くに置いてある中型の荷車二台に、腐葉土が詰まった袋が山のように積まれていた。
苗入れが近づいてきた耕地の土作りをするために、遠征隊がセオロの密林から持ってきてくれた腐葉土だ。
「いいすよ」
休憩終わりに最後の水分補給をしていた私の目の前で
二台の荷車が鈍い音を立てて持ち上がった。
違う、そうじゃない。
車輪が見えないのか。それに誰も一人でやれとは言ってない。
横で何人かの同胞が噴き出していたが、私は耐えた。
クリリンさんは昨日のお昼になったあの大猪を片手で持ち上げていたんですよ。
目の前の光景は頭のどこかで覚悟していた。
私の勝ちだ。ぎりぎりの勝負だったけどね。
こうして乙女の矜持は守られた。よし、今の隙に口の中のものは飲み込んでしまおう。
私の目の前から、轟音とともに何かが跳び立った。
何がって?荷車を両手に持ち上げたクリリンさんだよ。言わなくてもわかるでしょ?
「ぶっはぁ!!!!?」
畳み掛けてくるとか卑怯じゃないですか。耐えられるはずもない。
乙女の矜持は噴き出した水とともに露と消えた。
ちなみにクリリンさんは既にいくつもの畑を越えた先の第6耕地に降り立っていた。
◆
日が翳ってきた。見上げれば空は厚い雲に覆われ始めている。
「…………」
だいぶ農夫であることにも慣れてきたと思う。仕事はまだまだ学ぶべきことがたくさんあるが。
「…………」
畑の外は平野が広がりその先は森が広がっている。
「…………」
クリリンはその森の奥をじっと見ていた。
何かが近付いてくる。だんだんと空気が重くなってくる。
周囲の団員たちも異変に気が付き始めた。手を止めて森の方を見ている。
何かが見え始めた。それは木々の高さを越えていた。
馬の頭?
クリリンにはそう見えるが、仮にそうだとしたら相当に巨大な馬だ。
班長から鋭く短い指示が飛び、敏捷に優れた団員が伝令に走る。
やがてソレは森から全貌を現した。
巨大な黒い馬が強烈な殺気を放ちながら平野に姿を現した。
体高で5メドルは越えている。
相手の出方を窺っていると、クリリンの前に婦人の背中が現れた。
まさか自分を庇おうとしているのか?とクリリンは思う。
「お逃げ下さい」
ぼそりと婦人はクリリンに声をかける。
「クリリンさん、あなたが相当な実力を持っているのはわかります」
周囲の団員たちも農具を武器に、次々とクリリンの前に立つ。婦人は言葉を続ける。
「ですがアレは次元が違う。人知の及ばない領域に棲む、本物の怪物です」
場の空気は際限なく重くなる。ついに団員たちが恐怖に震え始める。
「クリリンさん、あなたなら逃げるだけなら可能だと思います。デメテル様とともにギルドへ向かい、できれば第一級冒険者の救援を要請して下さい」
馬が畑に向かって歩を進める。放たれる殺気は刃となり団員たちの喉元に突き付けられる。
「私たちでは大した時間稼ぎにはならないと思いますが」
婦人はクリリンの方を振り返り
「デメテル様のこと、他の同胞たちのこと、よろしくお願いします」
静かに微笑んだ。
頭上に輝いているはずの太陽は暗雲に飲み込まれていた。
◆◆
クリリンは団員たちの決死の覚悟を感じ取っていた。
なんという気高さであろう。その覚悟をはねのけて前に出るのは無粋。すべて片付いてから一人一人に誠意をこめて礼を伝えればよい。
―――目の前の馬が彼女らの手に負える相手ならばそうしただろう
黒い馬は全く本気を出していない。
それでこの威圧感だ。
自分の前に立つ5人の「勇者」は確実に全滅する。
可能性など無い。時間など刹那も稼げない。あの馬は一手で彼女たち全員を消し炭にできる。
(ありがとな、君らの気持ちは嬉しいよ。でも……)
ついにクリリンが動く。
――この場は俺に任せてもらおう
◆◆◆
婦人の肩に手が置かれる。
見ればクリリンが前に出ようとしていた。
「……………ッ!」
馬の殺気に当てられ全身は硬直し、声すらまともに出せない状態だった。
クリリンは馬に向かっていく。婦人は微かな力を振り絞ってクリリンの背中に手を伸ばす。
その手が届く前にクリリンは婦人の方に、団員たちの方に振り返った。
「アンタたちの思いは受け取った」
猛烈な殺気が荒れ狂う中でクリリンは平然と口を開く。
「アンタたちは本当にいい人たちだ。誰が見てもあの馬は化物だとわかるだろうに」
「…………」
「あの馬は俺がなんとかするよ」
「……………ッ!」
「はっはっは、俺だってあの馬がそこらの獣とはワケが違うことぐらいわかってるさ。たとえば昨日、俺が倒した大猪があの馬に遭ったら、たぶんすぐに踏んづけられてペシャンコになって終わりだったろうしな」
「…………」
「でもな」
扉を開ける。そこには体の奥の奥に秘めていた膨大な力が眠っていた。
クリリンはその力の大海からほんの一滴を取り出す。
「俺は今の今まで全く本気を出しちゃいないんだぜ」
雲の切れ間から一条、また一条と陽光が地上を照らし始める。
「心配なんていらない」
力がクリリンの全身を満たしていく。
「俺ってメチャクチャ強えからさ」
クリリンはそう言ってニカッと笑い、突き付けられていた殺気を握り潰した。
◆◆◆◆
敵ダ
馬はこれまで畑にいる生物を自身の敵とはみなしていなかった。
軽く振り払えばそれだけで呆気なく飛び散るイノチ。
そんなモノは敵とは呼ばない。
しかし空気が一変した。
あの生物の中でもひときわ小さいモノが、自分の殺気を退けた。
気力を全身にみなぎらせる。
生キル 即チ 闘争
敵と戦い生き残るために、馬は全身全霊を世界に解き放った。
◆◆◆◆◆
デメテルはホームで眷属たちに制止されていた。
「離してちょうだい!私の子どもたちが……!!」
眷属たちは悲壮に顔を歪ませた。
「お気持ちは痛いほどわかります!私たちとて本意ではありません!」
畑に化物が現れた。
伝令と信号で凶報はすぐに伝えられた。
それを受け取ったホーム付近にいた眷属たちは血の気が引いた。
緊急度、危険度ともに最悪。こんなことはかつて無かった。
伝令のため戻った同胞は大粒の涙を流し、化物の近くに6人の同胞が取り残されていることも伝えた。
胸が引き裂かれそうになる。恐らく残った同胞たちは命懸けで伝令を走らせたのだ。
来るな
と。
「デメテル様が向かうべきは化物のところではありません。―――ギルドです」
冷酷に言う。
すでに同胞が何人か向かっているが、主神がいるのといないのとではギルドの対応は全く違う。
「う……うぅ……」
デメテルの体から力が抜けていく。
「………?……………!!」
畑のずっと向こうから感じていたおぞましい気配が爆発的に膨れ上がった。
すぐ目の前に化物がいる
そう錯覚するほど濃密な殺気。
悲壮は絶望に変わる。
◆◆◆◆◆◆
なんということ。あの馬は今まで全く本気ではなかった。
馬から放たれる気迫は、質も量も先ほどまでとは全く比較にならない。
甘かった。
知っていたつもりだった。
世界の広さ
空の高さ
海の深さ
太陽の暖かさ
そして
世界の残酷さや理不尽さも
知っていたつもりだったのだ。
世界は常に自分の上を行く。
何が時間稼ぎだ
クリリンの背中を見ながら婦人は思う。
こんなもの
一瞬で飲み込まれて終わりだ。
ごめんなさい、クリリンさん。
わたしたちはあなたを守れなかった。
馬の殺意は畑を越えてオラリオまでも圧し潰す。
世界から色が消えていく。
馬はあらゆるモノを圧し潰しながらクリリンと相対した。
クリリンは嗤っていた。
圧倒的な絶望を前にクリリンは嗤っていた。
クリリンの体から気が溢れだす。
それは一瞬で殺意の塊を塗り潰し、急速に広がっていく。
暗雲は吹き飛び太陽が顔を出す。光が地上に降り注ぐ。
クリリンの放つ気が世界を満たしていく。
【太陽】は遍く地上を照らす。
◆◆◆◆◆◆◆
馬は自身の殺気が蹂躙されていくさまを茫然と見ていた。
そして理解した。
目の前の存在は人間では無い。
目の前の存在が為すことは人為では無い。
これは、天意だ。
世界が光に包まれる。
馬もまた【太陽】に照らされていた。
戦意が萎んでいく。
もはや自分の運命は天意に囚われている。
これまで生きるために殺してきた。
それは生きるための業。
そしていずれ自分も天の前に立つ。
その時がついにきた、それだけだ。
―――天意ニ背ク道理無シ
馬は自分の中から戦意が完全に消失したのを感じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
世界は色を取り戻した。
殺意は消え失せ、残ったのは威光。
婦人の目から涙が溢れる。自分は未だに圧倒されている。
それは恐怖では無く、畏敬。大自然の雄大さを前にして抱く畏敬。
ああやはり、私は無知でしたね。
婦人はクリリンの背を見つめて思う。
世界は本当に広いのですね。
新しく家族となった同胞の底知れない力に世界の広さが重なり合う。
クリリンは動かない。
何か考え事をしている。
そして馬に向かって話しかける。
「………おまえ、もしかして腹減ってるだけか?」
私たちは、え?みたいな顔になる。
馬はびくりと体を震わせる。
図星だと言わんばかりの反応。
クリリンさんの後ろで私たちは全員膝から崩れ落ちた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その女神は下界を見下ろしていた。
手にはギルドから送られてきた救援要請の文書。
普段なら自分たちが動く理など無い。
「あの鬱陶しい気配が消えたわね」
そしてもはや元凶も消えたようだ。
女神は元凶を屈服させたであろう、いま世界に満ちている圧倒的な気配を感じて薄く嗤った。
文書に目を落とす。
依頼主はギルドとデメテルファミリアの連名。
女神は側に控える男に昨日の出来事について問う。
「―――はい、おっしゃる通り、昨日観測した都市外からの衝撃は、確かにデメテルファミリアの農地がある方角からでした」
地上より放たれ天空を叩く衝撃。
とても人為的な現象とは思えなかった。
それから二日と置かずこの騒動。
「今からデメテルファミリアのお見舞いに行ってきてくれるかしら」
女神は眷属に命令する。
「そしてそこで見聞きしたことを余さず私に報告して頂戴?」
女神の言葉を受け、眷属は恭しく礼をする。
「御意に」