「き、救急車だ。救急車を呼ばなきゃ……」
幸いなことに、僕がパニック症状になることはなかった。直ぐに正気を取り戻し、一先ず絶望や畏怖を心の片隅に追いやってから、急いで携帯電話を懐から取り出す。
デフォルトのアプリとして存在している電話機能を起動すると、素早く119、とキーを叩く。
呼び出し音が鳴り、電話が繋がる。
救急ですか消防ですか、と聞かれたので、緊張による僅かな逡巡の後、救急です、と急いだ声で言い、簡潔に用件を伝えたうえで、地面に転がるスライム状の男性に向き直る。
「だ、大丈夫ですよ! 今救急車が──」
「たわけたこと抜かしてんな──この異常者が──」
その声は小さすぎて、少年の耳には届かなかったが、しかし、まだ息があると悟らせるには十分だった。僕はその人の口に耳を近づけて、懸命に発せられる言葉を聞き取ろうとした。
「オレぁ元々世捨て人だ──どこにも居場所なんてねェよ…-」
「何言ってるんですか! 居場所のない人間なんて──」
言いかけて、僕は言葉に詰まって沈黙した。
僕はそんなことが言えたタチか? 居場所のない人間など居ない、と、心の底から言えるのか?
無理だ。僕にだって居場所がない。無個性だからと撥ね付けられ、友達だってロクにできていないどころか、誰からも疎まれている。
「どうした、少年!?」
ふと、背後から声が聞こえてきたので、僕は反射的に振り返った。
そこに立っていたのはNo.1ヒーロー、オールマイトだった。刹那に、邂逅できたことへの感激や、この状況をどう説明したものか、などといった感情がないまぜになった心情が瞬くが、今はそれどころではない。
目の前で死にかけている人が居るのだ。助けなければいけない。僕の目指す「ヒーロー」は、絶対に、困っている人や苦しんでいる人を見捨てたりしない。
「こっ、この人が、倒れてて──」
「やられたのか──彼は
オールマイトは沈痛な面持ちだ。直感したのだろう。長年の経験から、人が死ぬにはどれだけのダメージ蓄積が必要なのか分かっている彼にはそれができる。
──もう、この異形型個性の男性は助からない。
助からない、筈であるが──。
「だがよ──ただで逝ってやるもんかよ……「個性」を……食らえ……!」
次の瞬間。介抱のために十分に間合いを詰めていたオールマイトに、そのヘドロ──スライム状の男性は飛びかかった。
オールマイトは、それを敵だと言っていた。
そいつは、何か分からないが、僕に襲いかかってきた。
その時そいつは、「隠れ蓑」と叫んでいた。
それから推察できる情報はたった1つ。このヘドロ状の個性が、「体の乗っ取り」であるということ。
「オールマイト!」
オールマイトの体を一瞬のうちに覆ってしまったそいつは、その個性で強引に腕を動かした。
その方向に居たのは──僕だった。
「テキサス・スマッシュ」
弱々しいながらも、どこか芯のある声でそいつは叫んだ。それと同時に、全力で腕を突き出す。
その攻撃は、あらゆるものを巻き込んだ。異常な拳圧、風圧は周囲のアスファルトを抉り、石造りの橋を破壊し、後方へと抜けていく。
僕は直前に横っ飛びしていたので、その攻撃を正面から食らうことはなかったが、しかし、それでも、衝撃が横腹を貫くのを止めることができなかった。
刹那。鋭く、巨大で、それでいてどこか暴力的な痛みに、僕は低く喘いだ。骨が異常な衝撃に襲われていた。昔、スキーに行った時に腕を折ったことがあったが、今、脇腹に響いている痛みはそれと同質のものだった。
それに、血も沢山出ている。このまま止血しなければ失血死してしまう。
「オール……マイト……」
助けて、とは言えなかった。丁度今、乗っ取られているのは彼だった。
この状況。恐らく、今の攻撃を嗅ぎ付けて誰かしらヒーローが来るのだろうが、それまでに僕が殺されない保証はないし、今回の敵はオールマイトだ。誰だろうと、
「どうせオレも長くねぇ……ちょいと町を破壊して、この目障りなヒーローと一緒に死んでやるよ」
その言葉は、僕を絶望させんと放たれたものに違いなかった。
ヴィランは歩いて行く。僕の横を通りすぎ、町の方向へ。
もう長くない、という言葉は本当らしく、そいつの足付きがどこかおぼつかなかった。それに、オールマイトが抵抗しているのか、時々立ち止まるのだ。
それでも、そいつは歩みを止めない。
それが悪だと知りながら。自分の絶望を他に押し付けながら、尚、蹂躙と共に歩み続ける。
だが、それは下らないエゴだ。エゴの押し付け──。自棄の果ての狂気だ。そんなもの。そんなもの、許しちゃいけない。
「待て、よ……」
考えるよりも速く体は動いていた。全ての力を振り絞って、僕はオールマイトの足を掴む。そのまま、それを支えとして丸太のように太い足へとすがりつく。
「行かせる、もんか。いかせて、たまるか……!」
「あン?」
目障りだ、というように、そのヴィランはこちらを向いた。
「僕が、僕が守るんだ……誰も死なせない……」
この体勢では、スタンガンを取り出すことができない。かといって、体勢を変えれば、偽オールマイトは僕を振り切って町へ出ていってしまうだろう。
それだけはさせてはならない。
僕は行かせまい、と必死だった。必死で覚えてきた格闘術は、この土壇場では何の役にも立たなかったが、それでも、意思は燦然と輝いていた。
その意思に導かれ、僕は、「その攻撃」を実行する。
オールマイトの脇腹へと、噛みついたのだ。僕は。
別に狙ったわけじゃない。そこが弱点だと目星を付けていたわけでもなかったし、攻撃したところで、戦局が動く筈などない、とすら思っていた。
だが、それでも。その攻撃は、絶大な効果を与えた。
次の瞬間。急に呻き出したオールマイトの体から薄い桃色の煙が迸り、みるみるうちに体がしぼんでゆく。
そして。媒体へのダメージは、取り付いた本体へのダメージでもあるらしく──。そのヘドロ敵は、断末魔の悲痛な叫び声を辞世の句として、沈黙した。
しばし僕は、オールマイトの足にしがみつきながら、その光景を呆然と傍観していた。
スライム状の体が、みるみる生気を失ってゆく。焦げている所為で見えづらいが、それは確かだ。
死んだ。彼は、完全に死んでいた。