山田先生と高校の先輩の四方山話。   作:逆立ちバナナテキーラ添え

10 / 14
 水着イベなんてなかったんや。

 ワイの財布はスカスカや……。スカディも来ん……。

 


やせいの闇の読者があらわれた!!

 

 

 

 堀崎がIS学園の取材から帰ってきて程なく、突然会社に呼び出された。珍しく編集長が連絡を寄越してきたと思ったら、先日脱稿した新作の件で相談したいことがあるから来てくれないか、と随分と喰い気味で言った。そういう打ち合わせやミーティングの類いは、普段は在宅の状態でスカイプ越しにやるから、ぼくが会社に足を運ぶというのはほとんどない。最後に会社に行ったのは数年前に海外の賞に作品がノミネートされた時だった。

 その程度のことでわざわざ向こうに行くことはないと思ったのだが、どうやらぼく宛に編集部に届いた荷物が溜まっているらしく、それも取りに来て欲しいという。郵送を頼もうとも思ったけれど、何やら慌ただしいようで、そんな中で面倒を言うのも何処か忍びなくてぼくは久しぶりに車のキィを回した。アウディのA8は三年前に買ったはずなのに新車の臭いがした。ぼくはその臭いがあまり得意ではなくて、移動する時にタクシーを使うこともほんとうはなるべく避けたいと思っているぐらいだ。そもそも、この車にしたって元は買うつもりはなかった。免許を取った弾みで車を買おうとした時に堀崎に口を滑らしたのが運の尽きだった。瞬く間に堀崎の同級生──それも小学二年生の時の同級生というのだから、ぼくにはその繋がりに薄く、そして上滑りした疑問を抱いてしまった──が勤めているディーラーに連れていかれて車を買わされた。販売員の彼はとても感じのいい顔立ちと可愛い気のある八重歯と裏腹にぎらぎらとした野心を隠しきれてなかった。何とかして買わせてやろうとするその笑みはぼくを前にして舌舐めずりしている獣と何ら変わりはなく、しかし、ぼくは正直なところ車なんて何処のものでも良かったから、それがアウディだろうがハマーだろうがトヨタであろうが()()()()買うつもりだった。彼が思うほどぼくは手強い相手ではなかったし、寧ろ、彼の本性が垣間見えてしまったお陰で幾分か気持ちが萎えるほどには貧弱な顧客だった。それがあれよあれよと気が付けばサインをして納車されていたのだから、詐欺同然の話術だったと思う。よくよく思い返してみると、途中から堀崎もぼくの隣で口説き落とされていた。今、堀崎の自宅にはメルセデスとアウディが並んでいる。ぼくと堀崎は車屋のいいカモだった。

 会社のビルはいつも煌々と照り返す陽をぼくに浴びせる。鈍色の外壁すらぼくには眩く感じる。腕時計を見ると家を出てから三十分ほど経っていた。千代田区のど真ん中に聳える巨塔はのし掛かってきそうな圧迫感を出して、いつもぼくを脅かす。黒い森のような神秘性やオカルティックなものではない、社会的でぼくたちのすぐ傍にいつもある不安を引き伸ばした先にあるようなものをビルは持っていて、ぼくが初めて会社に出向いた時からそれに晒されている。建物に意志があるわけはないが、ぼくはどうやら嫌われているらしい。

 受付で話を通して、十六階の会議室に向かう途中で担当編集が迎えに来た。ぼくが軽く手を上げると堅苦しいパンツスーツでぎこちなく頭を下げた。

 

 「おはようございます、先生」

 「あぁ、久しぶりだね。元気にしてたかな」

 「お陰さまで。こちらです……」と彼女はぼくの前をゆっくりと歩き始める。ぼくもそれに続く。

 

 ぼくの担当が彼女になったのはつい最近のことだった。それまでぼくの担当だった男が一身上の都合とかで会社を辞めたらしい。元より彼とは気が合わなかったから、ぼくとしては悪い話ではなく、次の担当を決めるに当たってぼくの勘に障らないような人物であって欲しい、と勢い余って言ってしまったのが彼女の運の尽きであり、その結果が彼女の着られているような面白味の欠片もないパンツスーツ姿だ。元は別の中堅作家の担当をしていた彼女は、堅苦しい格好を嫌い、カジュアルな装いを好んでいた。それがどういう訳か、ぼくの担当になった途端に地味になったらしい。彼女が持っている何かしら、ぼくへのズレたイメージを訂正するつもりはないけれど、ぼくは服装云々で神経を細らせるほど過敏なこころは有していないと思っている。

 エレベーターの中で彼女の後ろ姿を見て、先月末のことを思い出す。ぼくはまたしても流れに拐われた。ぼくは何も考えていなかった。それなのに鮮明にその時のことを覚えている。何も考えていなかったから、覚えている。ぼくはその時は自由だった。まるで鳥になったように、自分と彼女がまぐわっている様を俯瞰していた。そんな感覚は確かに頭の片隅に存在していた。だから、ぼくは主観に於いて空っぽのままに行為を完結させた。しかし、嘗てのように深い場所にある杯が満たされることはない。

 とは言うけれど、彼女との行為はこれまでの夜明けとは比較にならないほどに良いものだった。気持ち良かったとか、ぼくの好みではなかったとか、そういう訳ではない。予定調和の後、翌朝、ぼくを渇かすはずの哀しいものたちが一切そこにはいなかった。隣にはぼくに添うように静かに寝息を立てる()()が一人。でも、彼女はぼくにとっては特別でもなんでもない一人でしかない。その認識の差は、今まで肌を重ねた女たちと同様に存在し、緊張の影に隠れてぼくを反射するガラス越しに盗み見ている。

 

 「来週末、お時間ありますか?」

 「今のところは。何かあるのかい?」ぼくは前を向いたままの彼女に問いを返した。赤みがかった──赤というよりはロゼのような、黒染めが薄れている印象──黒髪が心なし揺れた。三階を通過した。

 「いえ、お食事でもと思いまして」

 「ぼくは構わないよ。このまま行けば、特に予定は入らないはずだからね」

 「では、後日改めて連絡を……」

 

 彼女はそう言うと、それから口を開くことはなかった。

 静岡の焼津が出身の彼女は一般的な家に産まれ落ち、東大に入った。聴けばぼくの同級生──一度も話したことのない大金持ちの坊っちゃん。挙げ句、ぼくと親友だったと法螺を吹いていたらしい──と付き合っていたらしい。同じ東大出の堀崎が言うには男運が底を尽いているという。なるほど、確かにぼくのような男と一夜を共にしてしまい、自分が相手にとって尋常ではない存在であると勘違いするのだから的確な言い様だと思った。

 このように食事に誘うのは彼女のやり口の一つだ。──やり口という言い方は適切ではないのかもしれないけれど、堀崎曰く、彼女は気になる相手を高い店に誘うことが多いとのことだった──先月もそうだった。ぼくの家の近くに出来たレストランのオーナーシェフがイタリアのミシュラン三つ星のホテルで総料理長をしていたとかで、それを何処からか聴きつけた彼女に連れられて食事に行った。半ば強引に連れていかれたようなもので、ぼくとしても不本意な形だった。しかし、そこからどうしてか彼女の身の上噺になり、彼女は自分の半生を涙ながらに話し始めた。記憶している範囲内では、確か高校生の時に担任から性的な行為を強要されていたとか言っていたような気がする。彼女の両親はそれを知らない。よく男性恐怖症になっていないものだな、と不思議に思い、それ以上のことは頭に入ってこなかった。。他にもそういったベクトルの噺がいくつかあり、その身の上噺の真偽は分からないけれど、それらがもし本当のことならば同情に値する話だった。ぼくはそれに当たり障りのない言葉と求められる言葉を混ぜ合わせて返した。一連の行程は作業に等しく、しかし、そこから既にぼくの意思は制御を失いつつあった。流れの予兆を感じながら、ぼくは涙をナフキンで拭う彼女を見ていた。

 思うに、ぼくと彼女には共通点がある。互いに疵付いた経験があるという点。何時か、何処かで大切だった人に大切なものを損なわれた。そういう部分で引き合った、もしくは、引き合ってしまったのだろうか。真耶も、ぼくも、彼女も。そして、ぼくは彼女とトイレットボウルよりも酷く抜け出し難い流れに捕らわれた。その後はいつも通り。

 後になって聴いてみれば、彼女はその担任以外と肌を重ねたことがなかったという。それは当たり前のことなのかもしれないが、大学の同期ともキスさえしたことがなくて、正真正銘、ぼくだけが彼女と合意の上で及んだはじめての男だったらしい。関われば関わるほどに見えてくる彼女という人間のちぐはぐさ、噛み合わなさ、不審や猜疑はぼくの頭の中で暫くの間渦を巻いていたが、それは忌々しい陽光への怨嗟に比べればどうということはなかった。結論として、ぼくは彼女のことをいまいち理解出来ていないし、そうする気もないのだ。彼女もその辺りは同じスタンスをとっているようで、幾らぼくのことを誤認していても一番柔い部分には触れさせようとはしない。男が恐くないのかという質問に彼女が笑うだけであるように。時折覗く、彼女のマゾヒズム的な嗜好が更にそれを助長させる。彼女が言うには、ぼくにはある種の魔性のようなものがあるらしいけれど、そんなものの実在を考察出来るほどぼくの内のキャパシティに余裕はない。

 

 会議室の扉が開くと堀崎が嫌味な笑顔で出迎えてくれた。インサートカップに注いだコーヒーを美味そうに啜ってはいるが、ぼくはそのコーヒー──会社に置いてあるインスタントが驚くほど不味いことを知っている。堀崎はぼくの顔を見て挨拶も無しにいきなり、ひでぇツラしてるな、と言った。そういうおまえこそそのやくざなナリをどうにかするべきだ、とぼくは言った。堀崎のシャツを選ぶセンスは最悪だった。肩を竦めた堀崎はぼくの後ろにいる彼女をちらりと見て、椅子に勢いよく腰を下ろした。

 口を開かない編集長の隣には会ったことはないが、見覚えのある少年がいた。ぼくに何度も視線を向けては外して、落ち着かない様子だった。眼が痛くなりそうな、おめでたい色使いの制服を着ている。そんな制服を採用している学校をぼくは一つしか知らない。

 

 「久しぶりだね。元気そうじゃないか」編集長はそう言った。「確かきみの作品がフィリップ・K・ディック賞の候補になった時以来かな。きみがここに来るのは……」

 「そうですね。それで、わざわざ嘘まで吐いて呼び出したのはそこの有名人絡みで?」

 「そうでもしないときみはここに来ないからな。あぁ、安心してくれ。新作の原稿に不備は一切ない」

 

 編集長は悪びれもせずに言うと隣の少年の肩を叩いた。

 

 「きみのファンらしい」

 「はじめまして、織斑一夏です。先生の本や作品は昔から……」

 

 世界でいちばん有名な少年は矢鱈と早口でぼくの作品を褒めちぎる。ぼくはそれを話し半分に聞き流していた。無性に煙草が吸いたかった。こう言えばぼくが織斑少年の話に何も反応を示していないように見えるかもしれないが、ぼくは内心驚いていた。彼が話の内で上げた作品はぼくの作品の中でも特に鬱屈としたものばかりだった。凡そ世間イメージと逆行するような彼の嗜好に少なからずぼくは興味を持った。

 一つは育児放棄。一つは親を自分の手で殺した少年の独白。一つは気がふれた男が誘拐してきた少女を娘として愛するうちにその愛が変質していく話。彼が特に絶賛してくれたのは二年前に出した短編集に収録した三作だった。賞を貰ったわけでも、メディアミックスしたわけでもない。知名度も人気もそれほど高くはない地味なものばかり。随分とコアな読者らしい。

 

 「まさか、きみがぼくの作品を読んでくれているなんてね。でも意外だね。勝手なイメージだけれど、本を読むのならきみはもっと明るい、例えばそこにいる堀崎の作品辺りを読んでいるものだと思っていたんだがね」

 「堀崎先生の本も読みます。でも、貴方の作品が一番合うんです。おれのこころにぴったりと……」

 

 ぼくは煙草に火を付けた。織斑少年は何処か遠くを見ていた。

 

 「おれの言えないことを先生の本が言ってくれるんです」

 「不満」ぼくが訊くと織斑少年は頷いて続ける。

 「他にも色々とあります。立場とかごく近い未来とか、そういう煩わしさが腐り落ちて、ぼくは活字の中でだけ本物の自由を得られるんです。過去も未来も、そこには何もなくて。おれの代わりに誰かが疵付いてくれる。ほんの少しだけ優しい気持ちになれるんです」

 

 だからぼくの作品が好きだと織斑少年は言った。ぼくの作品を読んでいることは誰にも言っていないらしい。姉にさえ。しかし、それは当然のことだろうと思った。彼の女傑に対面したことはないが、ああいう人間がぼくの作品のような物語を好むことがないことは分かっている。仁義や礼節といった高潔の塊、ぼくと対称の位置にいる人間、健全な魂が宿った健全な人間。きっと、ぼくの本は彼女が誰かを養育するにあたって最も近付けたくない類いの代物だろう。確かに人格形成時期や、多感な時期にぼくの綴った文字は毒になりやすいと自覚している部分もある。だが、文字とは元来そういうものであって、毒にも薬にもなる麻のようなものだ。

 彼の感じたことに堀崎は僅かに眉に皺を寄せていた。堀崎にとって本や文学は楽しいものでしかない。だから堀崎はぼくとは違う作風で、ぼくと感性が真逆なのだ。彼には苦しめられた経験がない。あるいは、死の淵に立ったということが。

 ぼくが学生のころ、はじめて太宰治を読んで時に心臓が高く鳴り、活字の彼方で誰かが途方もない悲劇に見舞われていることに安堵したように、織斑少年もぼくの作品に拠り所や落ち着けるものを見つけたのだろう。ぼくと目の前の少年は何処か似ていて、互いにとても寂しい人間なのだ。何処かで彼も死にかけて──ぼくは都合二度、睡眠薬の過剰摂取と数年前に事故で生死の境を彷徨った。しかし、ある種哲学的で抽象的かつ広義の意味ではじめて死んでしまったと感じたのは十年前の病室でだった。失われてしまった何かはそれほどまでに大きく、それによって別の何かが殺されてしまったようながらんどうが増えた──、喉につかえた言葉も想いも胸の中で腐り果ててしまった。彼が死から逃れ、目を覚ました時、その眼に写る世界はさぞや透き通って綺麗に見えたことだろう。それを嫌というほどに理解出来る。

 四人の部屋でぼくらは二人きりだった。

 

 「先生の作品をはじめて読んだのは副担任の山田先生にデビュー作の『外道の徒花』を貸りた時です」

 「すごい教師だね。生徒にあんなモノを読ませるなんて」

 「おまえの後輩だよ。その山田先生……」堀崎が重たげに口を開いた。

 「山田?あぁ、高校の後輩にいたかもしれないね。山田真耶だったかな。()()()()()()()()()()けれど……」

 

 口はひとりでに動いていたような気もする。着ぐるみの中からキャラクターの挙動に反応する人間を見ているような感覚。白々しく、きわめて感じのいい笑みでありもしない昔話を語ってみせた。そんなぼくを堀崎はいやに澄んだ目で見てきて、織斑少年にも似たような視線を送っていた。

 

 「山田先生が、きみに合う本を一つ教えてあげるって。周りの誰にも気付かれないように読みなさい、と」

 「まるで劇物扱いだ。ぼくは随分と後輩から嫌われているらしい」

 「でも、山田先生は貴方のファンらしいですよ。事実、貴方の作品はおれにしっくり来ました。あの人はおれなんかよりも先生の作品を読み込んでますよ。貸してくれた『外道の徒花』も初版でした。あれ、プレミア付いてるっていうじゃないですか」

 「大して面識もないがね。まぁ、あんなものでも読んでくれる人がいるだけ有難いよ」ぼくは皮肉たっぷりな物言いをした。「若気の至りで書いたものにそんな価値を見出だされてもな。おかしな気分だ」

 

 不味いコーヒーを飲んで話を切った。ぼくはそれ以上その本の話をしたくなかった。それに付いてくる山田真耶の話もしたくなかった。織斑少年の言葉の隅々に山田真耶の影が見え隠れしているような気持ちになって、今にも滅入ってしまいそうだった。

 織斑少年はコーヒーに口を付けると顔をしかめた。苦いですね、と笑ってはいたけれど、彼はへんな所で誤魔化しが下手だった。

 あぁ、そうだ、と織斑少年は手を叩いた。ぼくに人生の後輩として質問があると言った。

 

 「愛とか恋とか。先生はどう思っているんですか?」

 「随分と漠然とした質問だ。どう思っている、とは具体的には」

 「先生の人生観に於いてどういう意味を持っているのか、という意味です。先生が学生の頃はそういうものとどう付き合っていましたか?」

 「どうもなにもないよ。気の向くまま、自分が感じるままに動いていたよ。でも、基本的には本が恋人みたいな陰気なやつだったからぼくは青春というものの恩恵を受けたことはないんだけどね。まぁ、愛にも色々とあるし、恋というのも存外難しい。ぼくはもうすぐ三十になるけれど、それでも経験不足だよ。世界は分からないものや、不可思議にまみれているけれど、愛とか恋はその中でも一等理解に難しいんだ。それでも言わせてもらえるのなら、ろくなものじゃないね……」

 「どうしてそう思うんです?」

 「痛みを伴うからだよ。きみは自分の胸を抉りながら誰かにキスをすることを是とするかい?愛や恋には少なからず痛みが生じて、それらはきまって激痛だ。それに堪え忍びながら愛を謳い続けるなんてぞっとするだろう」

 「愛することは愚行であると?」

 「いや。それは千差万別、人それぞれさ。ぼくがこう思っているだけだからね。ぼくの腐り果てた人生観に於いての話でしかないよ」とぼくは言った。「ところで、どうしてそんなことを訊くんだい?」

 「先生の作品を読んでいてふと気になったんです。これを書いている人はそこら辺のことをどう考えているのかなって」

 「きみの個人的な興味」

 「はい。おれの個人的な興味です」と織斑少年は言った。

 「人生の後輩として質問するほど重苦しいものかな?それとも、きみが現在進行形で愛だの恋だので悩んでいるとか」

 「かもしれません」

 織斑少年は首の後ろを擦る。襟足の毛先を指先で弄んで、造りのいい貌を崩した。

 恋に恋する年頃の彼ももしかすると、ほんとうにその手のことで悩みを抱えているのかもしれない。別に女だけが思春期の幻覚作用に陥るわけではない。けれども、ぼくには彼がそんな陳腐な人間には見えなかった。何より、ぼくと似たやつがまともな人間であるとは考えられなかった。

 「恋人、好きな人がいるのかい?」

 「いえ、いませんよ」織斑少年は頭を振った。

 「でも、きみなら不自由しないだろうに。ロマンチシストだったり……」

 「まさか。端的に言えば、おれがねじくれているだけなんですよ。恋愛観とか、その辺の物の見方が」

 「真っ当な恋愛に興味がないってことかな。それともディープな嗜好があるとか」

 「恋愛した先をどうも想像出来ないんですよね。結局は一人がいちばん安心出来るというか」

 「それはそうだろう。人間は何処までも孤独という隣人と生涯を共にしなければならないからね。でも、それは悪いことではない。きみもそれは理解出来ているんだろう?」とぼくは訊いた。

 「抑圧、とは少し違うけれど。どうも、おれは心地いい場所にはいられないようです。色んな場所から手が伸ばされておれを引っ張り出そうとする。好きとか、好意とか、貴方のためとか。おれにはいらないものばっかり。一人の時に得られて、おれを満ち足りさせていたものが何もかも踏み荒らされてしまった。もし、そこに愛とか恋とかが介在するならおれにはどうすることも出来ない。おれはそれらを知らないから」

 そんな時に彼にぼくの本を渡したのが真耶だった。真耶は織斑少年に過度に干渉しなかったらしい。それこそ、いっそ職務を放棄していると見えるほど。

 「自分でも思うんです。自分は生に対してそれほど熱くはなれないな、って。それが分かっているから煩わしく感じてしまう」

 「一切合切が」

 織斑少年は頷いた。

 「でも、おれは悪いとは思っていません。それに苦しむことは出来ないし、苦しむ理由も見当たりません。。世間に一人くらいはこういう人間はいるんだろうと開き直っています。きっと矯正することは出来ないし、もう仕方がないかなとも思っています」

 ぼくは急にいやな気分になった。気に食わないとも。あるいは、同族の臭いが濃くなりすぎてしまったのかもしれない。どうにせよ、ぼくは目の前の少年に久方振りに嫌悪という感情を当て嵌めていた。しかし、それは刹那の内に消え失せた一過性のもので、余りにも矛先がずれていて、ぼくが持つべきものではなかった。

 彼はとても凪いだ面持ちでぼくを見ていて、ぼくも恐らくは似たような貌で視線を返していた。泥のような言葉でぬかるんだ空気を押し上げながら言葉が編まれる。陽は傾いて、焼けた空に形容することの出来ない紋様が施されていた。深紫とマジェンタが艶かしく絡み合い、晦冥のような雲がそれを覆い隠す。光の色が妖しく部屋を染め上げた。

 「だから、おれは貴方が羨ましい。どんなに細くても火を絶やさない貴方が。持たざる者として、苦しみ続ける貴方が心の底から羨ましい」

 

 

 

 





 感想、評価、よろしくお願いします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。