山田先生と高校の先輩の四方山話。   作:逆立ちバナナテキーラ添え

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 チオ○タGOLDが相棒さ。


仕事をすっぽかしてするドライブは楽しいか?

 堀崎とぼくの担当編集が死んでしまうと、ぼくの周りは妙に風通しのいいような気がするようになった。こころの肌寒さは日に日に増して、ぼくは冬眠を間近に迎えた動物のような倦怠に悩まされた。ありのままに受け入れるには些か重すぎるそれはどうにもぼくと波長が合ってしまうようで、その憂鬱の重さを心地好く感じてしまうくらいにはぼくの柔い部分は荒らされてしまっていて、そこを酷い有り様にしていった友という盗人は海原と溶け合って母なる場所に沈んでいった。

 いきなり、というものはどんな類いのものであれ迷惑で、特に冠婚葬祭はその筆頭に並ぶと思っていた。父の時は予め備えていたけれど、堀崎の死というのはほんとうに急なもので、一報を聴いてから柄にもなく急がなくてはならなくなった。礼服を引っ張り出して、香典を包んで。死人の貌を拝むまでは何処か嘘くさかった事実も瞼を閉じる堀崎を見るとすんなりと納得してしまって、いつか堀崎と話していたどちらが先に死ぬかという予想は外れた。どうにも落ち着かなく感じたのは彼の死相の穏やかさ。ぼくに言わせてみれば、柄の悪い堀崎は死ぬ時でさえぼくを色魔色魔と冷やかして、小馬鹿にしている方がらしくある。大雑把でデリカシーというものを放棄している口の悪い男。そんな男が口元にちょうどいい弧を浮かべているのは気持ち悪いだけだった。それはぼくの知る堀崎ではなかった。

 堀崎の葬儀は親い者たちだけで静に執り行われた。親族以外の参列者はぼくも含めて五人もいなかった。夏が死んでしまう直前、蝉たちの今際の際の声、籠る熱と白檀の臭い、生き人と死人の境。そんな中でぼくは父が死んだ時のことを思い出していた。父が死んだ時も白檀の臭いに絡み付かれながらぼうっとしていた。堀崎のファンも父のファンのように泣いてしまうほどに、我が身の如く哀しんでいた。昔見た風景が少しだけ形を変えてリフレインされているようだった。ぼんやりとした夢の中のような情緒も然り。

 しかし、堀崎が死んだからといって哀しい気持ちになったり、気分が沈んでしまったかと問われれば、そういう訳ではないのだ。憂鬱とは言うけれど、それは身近な死がついでに色んなものを拐っていく現象に伴うものではない。その憂鬱の出所は外ではなく、内から這い出てきたものだった。薄情に思えるかもしれないが、ぼくは真実堀崎の死に悲哀を感じることはなかった。寧ろ、少しだけ何かが楽になったような気がして、それを敏感に察知した自分の浅ましさとどうしようもなさを飽きもせずに突き付けられ、別口の憂鬱を背負うことになった。

 今更、ここまで言ってしまった体では薄っぺらく聴こえるだろうが、哀しみやナーバスな気持ちにならなかったとは言え、流石に驚きはした。世間的には心不全と報道されてはいるけれど、堀崎の死因は急性アモキサンピン中毒で、所謂オーバードーズだった。アモキサンピン、抗うつ薬を九十錠一気に飲み込んで痙攣しながら苦しみの中で死んだ。ぼくの担当編集と手を繋いで、手首を縛り合って、心中した。駆け落ちした。堀崎の関係者はその死に方や唐突さに困惑していた。しかし、それはぼくの驚きとはまた少し違うベクトルにあるものだった。何だかんだと周りが言う中でぼくは彼らが二人で寄り添い合って心中している様を思い浮かべてみた。それは勿論ぼくの想像上の瞬間だったけれど、どうにもその光景はどんな終わり方よりも綺麗で後腐れのないものに思えた。

 堀崎はぼくが知る限りでは精神科や心療内科に通院していたことはない。彼らが飲んだアモキサンピンは担当編集の彼女が持っていたものだろう。警察が言うには彼女の自宅のデスクから輪ゴムで纏められたアモキサンピンが沢山出てきたらしい。決して安全とは言えないそれをどうやって溜め込んだのかは分からない。でも、彼女が一時期心療内科で治療を受けていたことは確かだという。

 

 織斑少年が帰った後、会議室にはぼくと堀崎だけが残った。編集長と担当編集は仕事に戻って、特に予定もないぼくたちは特に理由もなく席を立たなかった。不味いコーヒーは冷えきって、さらに不味くなっていし、部屋の色も()()の効いた、えぐみのある紅に染まって夜の帳に手を掛けていた。それでも、ぼくたちは明かりを点けることもなく、ただ座っているだけだった。言葉もなかった。

 「悪くない取材だったぜ」

 「ふぅん。それは良かったじゃないか。滅多に行けるものでもないんだろう?」

 はじめに口をきいたのは堀崎だった。真っ黒なひとがたが喋っていた。

 「まぁな。でも、女だらけで落ち着かなかった。あそこに男一人だけってのは勘弁して欲しいな」

 「言っても仕方がない部分だろう。今日のことはお前が?」

 堀崎は頷いて、「あの坊主がおまえのことばっか話すから。会わせてやろうかなと思ったんだが、びっくりだぜ。あんな性根の野郎だったとはな……」

 「気に入らないのかい?」

 「勘に障るって程でもないが、誰かに似ていなくもない。何処であんなにねじくれたんだかな。しかも姉貴……、ブリュンヒルデは気付いてないみたいじゃねぇか」

 「家族と言ったって血が繋がっているだけで互いのこころの底まで繋がっているわけじゃないさ。どんな存在よりも親いだけの他人と同義だよ。全て分かち合えるなんてことはない」

 「扱き下ろすな。経験か?」

 「どうだろうね。でも、彼はそういう領域に関しては人一倍理解があるように見えたけど」

 だろうな、と堀崎は言って背凭れに体重をかけた。リクライニングが作動して、堀崎の影が倒れこむ。ぼくは新しい煙草に火を付けて、焼けていく灰を見つめていた。ぼんやりと燃える火は砂時計のようにゆっくりと時をなぞる。染み込んでいくような浸食を見ていると時間の流れが一段と遅く感じられた。そのせいか、逢魔が時の宛どない気持ちが強くなる。

 「そういえばおまえの後輩の教師……」

 「山田真耶」

 「そう、山田真耶。その山田先生とも話したぜ。いい人だった」

 「狙ってるのか?」とぼくは訊いた。

 「別に」と堀崎は素っ気なく返して、「見込みがないのにわざわざアプローチすることはないだろう」

 ぼくは口に溜めた紫煙を吐き出しながら真耶のことを考えてみた。でも、ぼくは彼女のことをさっぱり思い浮かべることが出来なかった。十年の歳月は単純に時間の作用として彼女という存在を霞めてしまった。あるいは、もはやぼくの内では重要なものではなくなってしまったのかもしれない。しかし、彼女はぼくの生に於いて確かに某かの起点であり終点であった。それは今でも変わることはないし、これからもそうだ。もしくはぼくの価値観ではなく、もっと深い所──例えば杯がある場所。十七歳の血が未だ微かに残る、ぼくの穢れ(こころ)の中心──がいつの間にか変わってしまったのだろうか。そんな、インクが滲んで崩れてしまったレタリングのような中ではっきりとしたことを言えば、ぼくが彼女に関わることはもうない、山田真耶という存在は非実在に等しいということ。やはり起点であり、終点であるということ。

 「おまえのこと気にかけてたぞ。あれ、嘘だろ。面識がなかったって」

 「十年も昔のことだから分からないよ。もしかしたら人違いしてるかも」ぼくは言った。くるりと椅子を回して目を閉じて身体を任せた。そうやって装った。

 「どうしてお前が取材を断ったか、何となく分かった気がするぜ。訳ありの女と顔を合わせたくないなんて、おまえにも可愛らしいところがあったんだな」

 「そういうのじゃあないよ。彼女とはほんとうに()()()なかったさ。実際うまく思い出せないし、気にかけて貰ってもどうしようもないんだけどな」

 「じゃあ、どんな理由なんだよ」堀崎の影がカップを揺らした。ぼくは気乗りしなかっただけだって、と肩を竦めて返した。すると堀崎は黙りこくって、ぼくにへんな視線を投げかけるだけになった。暗い部屋で彼がどんな眼をしていたかは分からないが、居心地が悪かったことは覚えている。ぼくを咎めるような、静かに罪を凝視されるような気持ち悪さがあった。

 前提として堀崎は朱香さんの店で誘いを断った時にぼくが適当な理由をこじつけたことに感づいていた。その上で気を遣った節があった。それなのに今度は積極的にぼくの深い場所に分け入ろうとして、あまつさえ、ぼくに敵意染みたものを向けてきていた。それにほんの少し驚かされたけれど、ぼくはそれを嫌悪することはなかった。堀崎のそういう側面を見たことがなかったからだろうか、ぼくは不思議と彼が秘め続けていた粘性の負に唇を上げてしまいそうになってしまった。その穢い部分は触れられざる秘密で、ぼくが描くものそのものだったのだ。ぼくの何が──恐らくはぼくの纏い続ける薄汚れた嘘の衣に気付いてしまったのだろう。そして、その浅ましさにも──彼の醜悪を刺激したかは不明だが、ぼくはその視線を忘れることはないだろう。遊び半分で意図せずにぼくを抉り続けて来た男の最初で最後の悪意を。

 「おかしなやつ」と堀崎は言った。そんな今更な言葉が最後に聴いた声になった。

 その二日後に堀崎はぼくの担当編集と心中した。致死的な腎不全と心臓死。日頃、プライベートでも親交があった編集長が訪ねると、彼と彼女は永遠の逢瀬へ向かった後だった。言い様のない苦しみに自分の意思でじわじわと殺されていく感覚を味わいたいと思うような嗜好は彼にはなかったと思う。ソファで肩を寄せ合い、テーブルには美味いワインがあったという。その隣には空になったアルミの包装シートの束。何処かありがちなセットのようにも思えた。

 彼が自ら死を選んだ動機に心当たりがあるわけがないのだが、ぼくの所にも警察は来て、世間噺程度の聴取も行われた。不思議とぼくと編集の関係は明るみに出ることはなく、彼らには同僚と親友を同時に失った気の毒な男に写ったようだった。そうして事件性は無く、自殺として片付けられたのだけれど、外聞を気にした連中が心不全で死んだように報道した。あんなナリの男でも日本最高峰の作家の一人だったのだ。そういった類いのベールを被ることを許されるほどには。

 堀崎の葬式の二日後に彼女の葬式が行われた。そちらの方は両親と彼女だけのほんとうに静かなものだったらしい。ぼくは顔を出すことは出来なかったが、人伝に──どうしてかぼくが堀崎の葬式で火を貸した若い葬儀屋の男は口が軽かった──聴いた。生まれた焼津の小さな斎場で、潮風の薫りと共に。彼女は風と共に去りぬが好きだった。そこに籠められた意味はまるで違うけれど、彼女はそうして去っていった。灰は大いなる海原へと風と共に。その先に前向きな何かがあるという風には思えないけれど、彼女はその道を歩んでいった。ぼくとの約束をすっぽかして、永遠に向かい合うことはなくなった。そして、彼女が結局ぼくを何処に連れていこうとしていたか分からずじまいになってしまった。

 そういった諸々が終わるとぼくは財布と鍵だけを持って車に乗った。焼津へと走らせた。東名高速を下って、ガソリンを満タンにしたアウディのアクセルを二〇〇キロ弱の道すがら一度も足を剥がさず、くっついてしまったように。相違のない、画一化された景色と防音壁に閉じ込められた道の中でぼくは棺桶に入っている気分だった。堀崎や彼女、ぼくの知りうるもういない一人たちとの距離は確実にその瞬間だけは縮まっていた。無理やりな追い越しや煽りは彼、彼女らの微笑みと嘲笑だったように思える。

 思い返すとぼくは少し自棄を起こしていたのかもしれない。ちょうどその時は知り合いの映画監督の作品への書評を書いていて締め切りが迫っていたにも関わらず土壇場でそんなことがあったものだから間に合いそうにもなかった。気持ちという面でも現実的な作業の進捗という面でもぼくは諦めを感じていた。いい歳をした大人が仕事でやってはいけない、とは今さら言うまでもないことをぼくはやった。あらゆることから僅かな間だけ触れられたくなかったのだ。だから、ぼくと連絡を取れる手段は全て置いてきた。

 緩やかなカーブに沿ってハンドルを傾けてると隣の車線に睦まじい男女の乗るフィアットが見えた。彼らとふいに眼が合って、手を振られた。ぼくはそれに片手を上げて返した。煌々とした威嚇は交わって、彼らはぼくを置き去りにしていった。色々なものが溶けて前に飛んでいったり、逆にぼくらが置いてけぼりにしていく時間の中で、ぼくは混沌としたこころの上澄みにあった堀崎たちの思い出──というには少しボケて色褪せていたけれど──を掬い上げることが出来た。フィアットの彼らは笑っていた。堀崎もいつも笑っていた。でも、皺は堀崎の方がずっと深かった。

 夕暮れ手前には焼津の彼女の墓に着くことが出来た。高速を降りてから買ったマールボロ、加熱式のそれは以前彼女に勧められたもので、紙巻きよりは身体にいいからとひ弱なぼくを案じてくれていたことを思い出した。それが真実かどうかは確かめようもないが、ぼくには物足りなく感じてしまって続けられそうにもなかった。それ以前に、紙巻きでも加熱式でも煙草が害を持つことに変わりはない。墓の前でヒートスティックを棄てて、海の見える門を潜った。むせかえる残暑の残り香が混ざって、喉の奥に潮騒が絡む。

 赤の他人の家の墓の中を歩いていると気持ち悪い視線を感じるように錯覚する。値踏みされるというか、じろじろとねめつけられるような感覚。何処の誰とも知れぬ余所者も排そうと、物言わぬ眼で訴えているのかもしれない。出ていけ、と。あるいは批難して、罵声を冷たく淡々と浴びせているのだろうか。それに関しては心当たりが両手から溢れるほどにあるから、ちょっとばかり困ってしまう。人の噂は軽々しくて、唇に当てた指は信頼に欠ける。特に人の温もりというものが濃いほどに比例していく。

 立派な墓だった。御影石の高そうな灰に白く彫られた家名と先祖代々。居心地の悪さはここに来て極まった。ぼくは桐箱に厳かに包まれた線香に火を付けた。値段相応に練り込まれた白檀が鼻につく。その匂いが墓に染み込む臭いと溶け合う。煙が墓石に吸い込まれてしまうのだ。墓前に線香を供えると、自分の仕草のぎこちなさが目立った。墓参りなどほんとうに久しぶりだった。肉親の墓に行ったのは死んでしまった時だけで、盆という風習にも馴染みがなかった。思い返せばそれは幼い頃からで、父も大して死者に敬いを持っているわけではなかったのかもしれない。だから、一つ一つ動作を確かめるように恐る恐るやっていた。ぼくが信仰を持っているとか形而学上的なものに深い思いがあるというわけではない。単にその辺の行動が型に嵌まりやすいだけだった。

 死者がぼくたちの心の内を透かして見えるのなら、彼女は少しだけ驚いていると思う。ぼくは出来れば彼女に生きていて欲しかった、と考えていたのだ。道徳に照らし合わせればそれは全うな考えだろうけど、ぼくはネタにするには些か素材が足りないと思った。別に初等教育で刷り込まれるような倫理観が貌を覗かせたということはない。ただ、きわめてナチュラルにそういった思考の進め方をしてしまった。

 いつか、彼女に言われたことを思い出した。ぼくと父の差異は日に日になくなってきている、と。つまり、ぼくが徐々に父に近付いてきているということ。ベッドの中でそう言われて、柄にもなく口汚く彼女を罵ったことを覚えている。その後の自分自身への諦観と不信も。その彼女だって編集長の独り言を聴いただけだというのに、えらい迷惑だったはずだ。そして、その差異をぼくは実感した。自分でも気が付かない内にじわりじわりとぼくは変容していたのだった。喜ばしさはなく、哀しみもなかった。変わってしまったことをただありのままに受け入れることが出来るだけの土壌があった。いつの間にかそういった部分まで変わってしまっていた。無味無臭の現象を遠くから観察しているような、自分の深いところにさえ薄く膜一枚隔てている。稚拙な物言いをするならば、ぼくはもう三十路手前のいい大人なのだ。大人はみんなこういう面を持っている。だからその膜を自ら引き裂いて、そこに孕んだものを引きずり出して綴る行為は苦痛を伴う。恋も愛も文も。

 どうして君まで死ぬことになったんだい、と訊ねてみるけれど返してくれる声はいない。ぼくはそれを知る権利が僅かばかりではあるが有している。急に、ぱったりとこの世界の何処にも──少なくとも物質的にはいなくなってしまった彼女のことをぼくは少しだって理解しようと努めたことはなかった。だから、ではないが、ぼくはちゃんと彼女を見てみたいと思った。心持ちとしては取材に近いだろうか。寧ろ、墓荒らしに近い蛮行なのかもしれない。ぼくは一人の女と男の心中にとても心惹かれた。そんな週刊誌の不謹慎なゴシップも引きつるようなつまらない理由で、酷いことをしようとしている。

 堀崎によろしく、と言ってぼくは引き返した。顔は見せたからもう用はなかった。陽は死に瀕していて、夜が横たわっている。明度も彩度も落ちて視界が悪くなった墓で向かいから歩いてくる初老の男性に厳しい眼を向けられた。眼を合わせないで通り過ぎようとすると声をかけられた。しゃがれた声だった。潮風でがらがらになった、海の人の暖かな歪みを有している五十過ぎくらいの痩せた男。

 「ここでなにをしてたんだ……」

 「墓参りを」ぼくは言った。眼を合わせるべき場所は暗く、意思はカーテンで隠されてしまった。

 「ここいらの人間じゃないだろう。あんた、余所者だろう?」

 「余所者でも知り合いが眠る場所に来ることだってあるでしょう。それともここは余所者が立ち入ってはいけない場所でしたか?もし、そうでしたらすぐに立ち去ります。用は済みましたから」意図せずに言葉に棘を持たせてしまったけれど、ぼくは声色だけは和やかに言った。喧嘩を売り買いする気はないけれど、自分たちの世界を自分たちで満たして生暖かい馴れ合いが心地好く感じる手合いに絡まれたくはなかった。連帯感で大事なものを遠くに追いやってしまえる程度にそこら中で安売りされた幸福感をぼくは好かなかった。

 「いや、そういうわけじゃない。すまない、少し気が立っていたようだ。見ず知らずのあんたに絡んでしまうなんて、いい歳したやつがやることじゃなかったな」

 男は意外にも、そう言って頭を下げてきた。謝罪が欲しかったわけではないから謝られても扱いに困るだけで、夕暮れの墓場の真ん中でそんな男を見ていると奇妙な気持ちになって、まるで人違いに合ったように感じられた。

 「あなたも墓参りに?」

 「娘の」男は首の後ろに手を当てて、「先日、いってしまったんだよ。まさか、自分よりも先に死なれるとは思いもしなかった」

 「御悔やみ申し上げます」

 「まぁ、おれはまだいいんだけど、嫁さんがね。参っちゃってさ。あれこれ落ち着いたら倒れたんだ」

 「大変ですね。ぼくも父の葬儀の後は疲れ果てて暫く動けませんでした」薄っぺらいし、どうしようもない嘘だった。疲れはしたけど、夜には仕事を再開出来るだけの気力も体力も余っていた。

 「あんた、独り身か?」

 「えぇ」ぼくは短く返した。

 そうかい、と男は言うと、「おれも随分前に親父を亡くしたが、その時は泣かなかった。お袋の時もだ。哀しくなかったわけじゃない。ただ、涙が出なかったんだ。でもな、娘が死んだ時。あれは何て言うんだろうな……。無くなった、いや、消えてしまった……」

 「喪失感」

 「違う、違うんだ。そういうものじゃない。難しい言葉で表せるようなことじゃあないんだ。兎に角、分からなくなるんだ。東京に向かっているはずなのに、新幹線の行き先の二文字が見えなくなって滲むように見えるんだ。頭の中でそこだけがチカチカ、切れかけの電光掲示版みたいに見えて地獄だの天国だのに見えてくる。まるで夢の中だ。報せの電話だってろくにどんなことを言われたか覚えちゃいない。気が付くと東京行きの新幹線の中だった。ちゃんとキャリーケースに着替えまで入れてな。おまけに涙が止まらなかった」

 男は慎重に一つ一つ答え合わせをするように言葉を紡いだ。欠けて、ばらばらになってしまいそうな意味たちをどうにか繋ぎ合わせて、彼が出来る最大限で出力したようだった。

 「幽体離脱みたいですね、それ」

 「ある意味な。早々ないだろうが、あんたも気を付けるんだな。何時そんなことが起こるか分からないからな」

 ぼくは御忠告どうも、と言って車のキィをポケットから出した。男もぼくの隣を行って誰かの墓に行った。

 男の言うことに理解出来るところはあった。その夢遊病のような時期はぼくにもあったし、探せば似たような経験を持つ者はそれなりに見つかるだろう。死という現象が起こす人に感染する病原みたいなものだから。現実から半歩分だけ押し出されてしまう急性の病。意識とかクオリアといった領域が噛み合わないような、説明が難しい状態。

 これから先の男の人生は少し急な坂道を登るようなものになるだろう。妻の容態次第ではあるが、介護も考えなければならない。老後は互いに施設に入ってしまうのも手ではある。けれどそれまでの間、これから数年は彼らは苦しむのだろう。娘を失った哀しみはそう簡単に拭えるものではないし、時が忘れさせてくれると言うものの、どれ程の時を経れば効果が見られるかは個人差がある。誰かが誰にでも平等で均一な臨床データを纏めたわけでもないのに、それは認可の降りていない怪しい薬を万能薬と法螺を吹いて売り付けているようなものだ。時は風化させるか化膿させるだけだとぼくは思っている。

 男とその妻に同情や可哀想とかいう思いを持ったということではない。ただ、人生のそういう時期に差し掛かる彼らは重みや憂鬱にどうやって向き合い、付き合っていくのだろうか、と思った。酒や煙草。男や女、色や欲に行くのも悪くない。それとも大昔の賢者のような隠遁生活で俗世の香りを断つか、このままひたすら石のように耐えるか。何れにせよぼくはそれを見届けることはないし、特に重要なことではない。腹が満たされている時に考える次の飯と同じくらいにしか程度は高くはない。浮かんでは消えてしまう、ありふれた思い付きに過ぎなかった。しかしその思い付きを思案すると、思わぬところに飛び出たりするから一概に時間を浪費しているとは言えない。深く考えすぎず、自分を損なわない領域で浅い眠りにつくように頭を回すのだ。

 プッシュスタートボタンを人差し指で押し込むと静かにアウディは身を震わせた。これから先のことなどなにも頭にないままアクセルに靴底を這わせると窓に鈍くぶつかる音がした。先ほどの男が掌を窓に押し当てて、肩を上下させていた。ライトを付けたお陰で彼の貌がよく見えた。中々に彫りの深い、整った造りだった。

 「待ってくれ」

 ぼくは窓を開けた。

 「なにか?」

 「霊園の突き当たり……。奥の墓に線香を供えたのはあんたか?」

 ぼくは頷いた。男はぼくを見て、なにか確信めいたものを感じたようだった。彼の言葉から、彼もぼくと同じ墓に用があったことは想像出来た。それがどういう意味なのかも。

 「あんた、娘の知り合いなのか」

 「えぇ。仕事仲間でした。あまり付き合いは長くはなかったけれど」

 少しばかり肉体関係があって、恐ろしく低俗な慰め合いと他者承認が週に何回か発散される仕事で関わり合いのある関係。それも後者にいたってはあなたの娘が一方的にぼくにぶつけてくるだけの関係です。身体の相性はまぁまぁ。

 「礼を言うよ。わざわざここまで来てくれるやつはいないから」

 「世話になりましたから。最期がどうであれ、挨拶くらいはしなきゃならない。義務と権利がある」

 そうか、と言うと男は窓に触れていた手をだらりと落とした。そしてぼくの名前を言った。作家としての名前だった。

 「娘が担当していた作家さん、あんただったのか。偉い作家だとは聴いていたが、こんなに若いとはな」

 「期待外れでしたか?」

 「違う。おれは世の中のことに疎くてな。実を言えばあんたのことも娘に聴くまで知らなかった。今思えば娘にあんたの本を渡されたっけな。読んでおけばもっと話が出来たかもな」

 「おすすめはしませんよ。胸のすくような噺を書いた覚えはありませんから」

 彼女はぼくの作品をよく読んでいた。パフォーマンスだったかもしれないが、ハードカバーでも持ち歩いていたところを見たことがある。仕事の一環としてなのか、嗜好としてか。後者であるならば、それは織斑少年と似た理由なのだろうか。死人の生前は猜疑と錯綜まみれになる。ぼくたちはそこから断片的に拾い上げたピースを繋ぎ合わせて無理矢理誰かの物語を作る。造らねばならない。

 「御迷惑をお掛けしました」

 男は突然改まって頭を下げてきた。少しの間彼を見ていると、徐に頭を地面に押し付けた。

 「やめてくださいよ。別に彼女がいなくなってしまって発生する損益については、ぼくはどうも思ってませんよ」

 「それでも謝らなければならない。いや、謝る以外になにをすればいいのか分からない」

 「親としての責務というやつですか」

 「子供が迷惑を掛けたなら、親も謝るべきだろう」尤も頭を下げられるやつがおれしかいないというのもある、と彼は言い捨てた。血を吐きすぎて枯れてしまったような声で。

 「哀しいし、寂しい。世の中が突然空洞を持ったように寒々しい。でもね、彼女がそれを選んだんだ。一人、二人は関係ない。彼女がそこで終わりにしてしまうと決めた。ぼくにはそれだけです。優秀な編集がいなくなるのは仕事として辛い。けれど、もう問うことは出来ない。いや、形としては出来る。でも解は返ってこない。虚しいだけでしょうに」

 空気みたいななにかの為に、どうこう託つけて額を温いアスファルトに擦り付ける。男が酷く憐れに思えた。誰にも誰かを赦す権利なんてない。なにも分からないのに熱くなって、割り切れないこころが独り歩きする。それが一斉に起こるから怒りだのなんだのと、さも人間という生き物の記録が紡がれているように見えるだけだ。実際はエラーを吐き出しているに過ぎない。

 「なぁ、教えてくれ。あんた娘と仲は悪くなかったんだろう?相手の男とも友達だったんだろう?なら、なにか知らないか?何でも良いんだ、教えてくれ。どうして娘は死んだんだ?何で、何も言わないで死んだんだ?こころを病んでいたなんて知らない。おれの知るあいつはいつも綺麗な、嫁さんに似た笑い方でさ。知らなかったよ、なにも。なにもだ。分かるんだよ、たぶんまだおれの知らないことが山ほどある。知るべきじゃないことがな……」

 男はぼうっと立ち尽くしている。ぼくは紙巻きのマールボロに火を付けて思い切り吸い込んだ。

 「ぼくだって分からないよ。あんたの娘はもう何処にもいない。こんなにも簡単だ」

 ぼくは窓を閉めてアクセルを踏んだ。暗い道だった。ぼくは走り出した。

 少しだけ羨ましいと思った。自分で自分の全てを完結させてしまえる自由さがぼくにはない。ベルトコンベアーはまだまだ続いている。昔からなにも変わらない。そのくせ、色々と変えられていく。

 行きよりは混んでいた上りをゆっくりと帰った。帰るという意識は薄いけれど、言い換えようがない。彼女の父親に言った嘘には少しの真実も勿論あって、寒々しさというのはその一つだった。寒々しい帰り道、トンネルを抜けて雪国に出会うように段々と冷たさが緩やかに増していく。憂鬱は取れずに凍ってしまおうと張り付くことにしたらしい。

 マンションのコンシェルジュがエレベーターに乗ろうとしたぼくを呼び止めた。ぼく宛に手紙が届いたというのだ。差出人は書いてなかった。心当たりはなかったけれど、ペーパーナイフを借りてその場で開けた。

 彼女からの手紙だった。ぼくは部屋に戻って、その時限式の遺書に眼を通した。

 

 

 





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