山田先生と高校の先輩の四方山話。 作:逆立ちバナナテキーラ添え
ぼくの周囲の色々なことが一つの落ち着きを見せると、朱香さんから一通のメッセージが届いた。件名は空白だった。とてもシンプルな、店に来て、という一文だけがスマートフォンのディスプレイに表示されていた。それは短くはあったけれど、強い情動が簡素なゴシック体から浮き上がってくるような錯覚を覚えた。ぼくは分かったよ、とだけ返信して新たに抱え込んだものを処理する作業に戻った。
堀崎と彼女が死んでから二ヶ月が経った。季節は秋に移り変わって、それももはや晩秋という冬との境界が曖昧な時期に差し掛かっている。ぼくの周りの変化といえば大分前に通販で買ったマフラーを部屋の内で巻くようになったことと、コートを含めた冬物をクリーニングに出したぐらいのものだった。世間の動向には相変わらず疎くて、今季の寒さは近年稀に見る大寒波だとかいうこともお喋りな宅配業者の男が玄関先で独りでに始めた世間噺ではじめて知った。ぼくの私生活はほとんど隠遁生活のようなものになっていて、数少ない外出先の宛である朱香さんの店へも足を運ぶことはなかった。必要なことのほぼ全てが在宅で賄えるこの御時世の利便性をぼくは余すことなく享受して、クリーニングから日々の食事に至るまでを業者に一任していた。ぼくは外に出る気が湧かなかったし、ぼくを付け狙うマスコミにも嫌気がさしていた。多くのことに対して行動する有為を見出だすことが出来なかった。そして、木枯らしはきっと身に染みすぎるだろうから。
ぼくにのし掛かっていた憂鬱は彼女の遺書を読んだ後には綺麗さっぱりと消えていなくなっていた。ぼくはとても身軽になれた。だから、ぼくはすぐに新しい仕事に取り掛かった。ある種の使命感にも似たものに駆られて、ひたすらぼくは指を動かした。不思議とそれはやらなくてはならないように感じたのだ。なんだか、その最中だけは少しだけ明るい気持ちでいることが出来た。懐かしいような、ほんのりと息苦しくなるような白けた陽の光のような時間がぼくの頭の中を浚っていった。
ほとんど手癖で書いたような新たな作品は凡そ三週間で形になった。それは長篇小説としては早すぎるペースで、その何倍もの時間と労力と頭を使う筈のものをそこまで短縮させたせいか、ぼくは数日の内、動くことも儘ならないような疲労に襲われた。死が近付いたというほどのものではなかったが、その数日間に見た夢には堀崎と彼女が毎回出てきて、無茶なことをする、とぼくに呆れていた。ぼくはその都度ごめん、と謝っていたような気がする。大抵その夢を見た後は寝違えた首の痛みに煩わされた。少しでも首を動かすだけで親の仇のような痛みで騒ぐそれが倦怠感と一緒に何処かへ沈んでゆきそうな気持ちを無理矢理に磔にして、肉体という容れ物に留めてもいた。
堀崎の真実を知ったところでぼくのなにかが変わったということはなかった。そうだったのか、という凡庸な感想以外にはこれといったものもなく、彼の死にぼくという存在が関わっていたという多少の驚きはあったけれど、だからといってぼくがそこに責任を感じるという気にはならなかった。どうしても薄情に思えるかもしれないけれど、本当にぼくはそうとしか感じることが出来なかった。それが悲しいことなのか、悼ましいことなのかなんて尚更分かるわけもない。ただ、ぼくが感じた身軽さというものはきっと、堀崎と彼女が死んでしまったことによるぼくが喪った彼らの重さだったのだと気付かされた。憂鬱はその補填で、人間がみんな持っている機能の一つなのだろう。慣れない自分の身軽さにびっくりしないための補助のようなもの。でも、ぼくにはもう必要ではなくなってしまって、たぶんこれからも必要とする機会はない。今回のことが最後の出番だった。
正直、ぼくは堀崎の死は結果として悪いものではなかったのではないかとさえ思っている。彼は欲しいもののために全力を尽くして、届かないと分かっていても最後には一端に触れてみせたのだ。それが本当に彼にとって目指したものだったのだとすれば、あの気色悪い死相も──たぶん葬儀屋が弄ったのだろうけれど──納得のいくもので、当人は安直な言葉ではあるけれど幸せだったのではないだろうか。堀崎は堀崎奨として完結している。ぼくがそこになにかしら余計な意味を見出だすことはないし、付け加えるつもりもない。
ただ、ぼくが彼女と彼を殺したという一文については理解出来る部分はあった。ぼくが手を下したわけではないけれど、二人の死までの過程、それも終盤にはぼくという存在はある程度深く関わっている。堀崎に関してはぼくが理由とも言える。そういう見方は出来るし、ぼくの言葉が誰かを蝕んでその命を喰らったというのは一つの仮定に於ける事実として機能する。そういう思考の中でぼくは『弔いの楔』を書き上げた。
ぼくは原稿を会社に持ち込んだ。ぼくが自発的に外に出ることも、ましてや会社に顔を出すことも滅多にないから──アポイントを取り忘れたのもあるとは思うが──会社ではちょっとした騒ぎになった。編集長でさえ目を丸くしてぼくを見ていた。間抜けな声でどうしたんだ、というのが第一声で、ぼくは見せたいものがあるから時間を作って欲しいと言った。これといった会議もなかった為、ぼくらはすぐに空いている会議室を使うことが出来た。こじんまりとした、小さめの会議室は強めの芳香剤がかえって裏目に出て、むせてしまうような独特の匂いが籠っていた。編集長は手ずから不味いコーヒーを淹れてくれて、ぼくはそれを少しだけ口に含んでからすぐに飲み込んだ。
「それで?いきなり来て、見せたいものがあるって?」
ぼくは編集長に原稿を渡した。新作だから目を通してほしい、と言った。編集長はほう、と言って深緑色の眼鏡をかけた。ぼくは煙草に火を付けて読み終わるのを待った。どれだけ時間が掛かったとしても待つつもりだったし、編集長が原稿を持ち帰らずにここで最後まで見ることを経験上知っていた。
どれぐらい時が経ったのか、手持ちの煙草を全部吸ってしまうと、窓の外のオフィスには誰もいなくなっていた。付けっぱなしの、幾つかの蛍光灯が薄暗い影を作り出していて、遠い窓を見てみると航空障害灯がゆっくり点滅していた。もう、すっかりと夜の帳は降ろされていた。
編集長へと視線をやると、ちょうど最後のページを読み終えたところだった。ぼくは意見を聞こうと口を開きかけた。すると、編集長はタブレットPCに差していた原稿のUSBをコーヒーの中に沈めて、大きく息を吐いた。そして天井を見上げて、「わたしはなにも見なかった。きみはあれを書かなかった。そういうことにしよう」
「それはどういうことですか?今の行動になにか関係がある?」ぼくは静かに言った。ぼくの言葉の後には耳鳴りという静寂だけがあった。彼はなにも言わずに眼を閉じて、貌を両手で覆っていた。だからぼくはもう一度だけ、どういうことですか、と訊ねた。それでも彼は銅像みたいになにも発しなかった。ぼくは途方に暮れてしまって、何度か手元にある冷えきったコーヒーをカップごと投げつけてやろうかとも考えたけれど、そうしたところで目の前の男がリアクションすら取らないでこのままの体勢でいることを容易に想像出来てしまった。
ぼくは待った。不可解な男をジッポライターを弄りながら待ち続けると、彼は漸く言葉を発した。まるで、デコードしおえた情報をぽつりぽつりと出力するような喋り方だった。
「その作品の存在を認めるわけにはいかない」
「だから、それはどうして?」
「死者への冒涜だからだ。それは尊厳を踏みにじっている」編集長は拳を強く握り込んでいた。
ぼくにはそんなものを書いた覚えは一切なかった。ぼくはありのままを書いたに過ぎなかった。作家という生き物が如何にして自死を選択して、それに付き合う女の心情と過程をフィクションとして書いただけで、誰かを貶めるような描写を含めたこともない。
「もしかして、堀崎と彼女のことを言っているんですか?」ぼくが訊くと彼はぼくをねめつけた。「あのね、これはフィクションなんですよ。それはお分かりですよね?」
「フィクションだからといって何をやってもいいというわけではない」
「それこそ違うでしょう。あなたがこれに、実在していた死者を重ねているのだとしたら、それこそが冒涜だ。墓石に別の人間の名前を刻むのと同義だ。フィクションだからこそ、その力を借りてぼくたちは実在や非実在に関わらず大きなものに立ち向かうことが出来る。これは弔いなんだ。ぼくは彼らを弔わなくちゃならない。望んだわけではないけれど、ぼくはそうしなければならない立場にいるんだ」
ぼくがそう言うと彼は幽霊でも見たような貌をしてびくりと身体を跳ねさせた。ぼくの貌をまじまじと見つめて、奥歯の底から押し込んでたものを引っ張り出したかのように、「親子揃って同じことを言いやがった……、やっぱり血は争えないようだな」と言って、「きみの父親も、あいつもきみの母親が死んだ時にそう言って原稿を持ってきたよ。おれはあいつをちゃんと死なせてやらなくちゃいけないんだって。あの子も可哀想に、あいつに殺されたようなものなのに、二度も殺されたんだ。質が悪いのはあいつがその自覚を持っていたことだ。きみもそうだ。きみの言葉が堀崎奨を殺した自覚があるんだろう?」
「多少は」でも、罪悪感はない。
「あいつもな、今のきみみたいに澄ました貌をしていたよ。君だって見ただろう?あいつは自分の妻の葬式で貌色一つ変えなかった。それどころか、それをネタにしやがった。挙げ句の果てには悲しくはあるけれど、それまでだな、なんて抜かしやがった。あいつの言葉が
久し振りに母の名前を聴いた。それは母の名前だったけれど、頭の中では花の方が先に浮かんだ。
不思議な気持ちだった。目の前で熱く言葉を散らす男はぼくが知る誰でもなくて、彼とはデビューした時からの付き合いだったはずなのに、そんな彼とはぼくは初対面だった。聴いた噂によると彼と父は大学の同期だったらしい。それが本当なら、今ぼくが直面しているのは編集長という役職にない父と母の共通の友人であった男なのだろう。ぼくの知らない場所で、ぼくの知らない出来事を経験して、独りぼっちになった知らない人。奇数は正しい数字ではない。
ぼくは当然ながら父のことをよく知らない。母のことも同じように知らない。だから、彼の憤りや悲しさについて僅かでも理解することは出来ない。理解する気というものは全く沸かなくて、それは現在の問題にぼくではない誰か──例えそれが血縁だったとしても──の問題が絡んでくることはないと思うからで、父が、母が、どうだこうだと彼が言っているのを見たところでぼくにはその昔話が今あることにどのように作用してくるのか、受容に苦しんだ。いまいち、ピンと来なかったのだ。それに、父も母も堀崎と同じように色々なことが完結してしまっていて、ぼくに関して深く根差したものでもない限り、わざわざ墓石に真偽を問うようなことはしない。
「
「でも、あの本はきちんと"本"になって羽ばたいていきましたね」タイトルの如く、『猛毒』を胎に宿らせて。
「なにも知らない一般の読者にしてみれば、あれもただのフィクションの悲劇に過ぎない。だが、あいつとその周辺の事情を知る連中にとってみれば、その重さは生半可なものではなかった。あいつが注ぎ込んだ毒は瞬く間に広まっていった。毒牙の最初の犠牲者は当時の専務と編集長だった。あいつは直談判しに行って、強引に首を縦に振らせた。おれの知らぬ間に出版が決まって、あとはきみも知る通りだ。作家連中は中毒になって、あいつに酔いしれていたよ」
「でも、それらがぼくに関与することはないでしょう。いくら、ぼくと父に共通点があったとしても、それがイコールになるわけではないし、時間を逆走して母を殺すわけでもない。
喪ってしまったものは喪われたままで、どれだけ取り戻そうとしても喪われたものはイデア界のようなぼくたちが足を踏み入れることの出来ない場所で不可逆的な非実在になってしまう。良くも悪くも補填は効かないし、
それはなにも生きているぼくに限った話ではなくて、死んでしまった堀崎にも当て嵌まることだった。その先の生がどんな形であれ喪われてしまって、世間では"どんちゃん騒ぎ"をしている。屍という体のいいマネキンの
「ぼくの言葉が堀崎を殺した。父の言葉が母を殺した。それは表面的な問題に過ぎない。だって、あなたはそれで何かを覆い隠しているんだ。その中身を晒け出したくないから、堀崎や彼女の名誉云々と言っているだけ。それはたぶん父に関係していて、あなたはぼくにそれを透かして見ているんだ」
そして、それにはきっと悪意も混ざりあっている。
「ニーチェは嘘をついた。ぺてん師だった。鳥が先か、卵が先か、もう分からないんだ」
「言葉を繰る人間はみんな何かしらの
「百合ちゃんが?あり得ない。百合ちゃんはきみのことを愛していた」
「憐れんでいたよ。あなたの知る百合ちゃんは、母ではないんだ。そういうことなんです。それだけで齟齬が解消されてしまうし、分からないことだらけでもこれだけ明快な道筋になる。だから、あなたの隠しているものを漠然とだけど察することが出来る。ぼくは自分のそういうところが嫌いで嫌いでしょうがないんです」
奇数は相応しい数字ではない。彼らは偶数であれば良かったのだ。不幸せではなかったのだ。
「父の言葉でどれだけの人が死んだんです?」ぼくは訊いた。
「さぁな。たくさん、だろうな。こころが、身体が壊れてしまったやつらはごまんといるよ。おれは言葉の恐ろしさを教えられたよ」
「作家って、言葉ってそういう生き物でしょう。孤独が言葉に、言葉が毒に変わるのをじっと待つんだ。自分を切り貼りするタイプの作家は尚更その傾向が強い。その内省の濃度に比例して、副次的に放出される憧憬の毒性も強くなる。父もぼくもその例に漏れない人種らしいです」
彼は額に合掌を当てた。懺悔のようだった。
「おれはもうばけものを見たくないんだ」
「父はもういません。とうに死んでいる」
「生きてるさ」彼はぼくに人差し指を向けて、「そこにいるんだ。そこで燃えてるだろう、ほら」
「まぼろしですよ。父そのものではないし、もうその一部ですらない」
「それでも、あいつを成していたものだ……。きみは生き写しだよ。まるで生き返ったみたいだ。どこまでも、力の限り逃げてきたはずなのに、おまえはやっぱり追い付いてきたよ」
「考えすぎだ」
「違うな。きみが知らないことだ。きみが分からない領域の話だ」ぼくがなにか言う前に彼は、「でも、きみが今、口を開こうとしたのならそれこそが証だ。きみにしっかりとあいつが溶け込んでいるということだ。あいつの胤できみが出来上がっているんだ。そうやって、時間さえも飛び越してまで、またおれを苦しめるんだろう。仕方のないこととして……」
一息に捲し立てた彼はふっと糸が切れてしまったように、我に還って沈み込んだ。躁鬱のようで、はじめのように貌を両手で覆って押し黙った。
「やはり、わたしにはあれを認めることは出来ない」
彼はそう言ったきりだった。そこが終着だった。彼の証明しようとしていたことについて、ぼくがその不明なものを解明することはないし、彼の言葉は破綻していた。喪失と欠落と腐食が一緒になって、時間軸とこころを滅茶苦茶にしていた。
ぼくはそうですか、と言って会議室を出た。終着にはぼくと彼、延いてはぼくと会社との関係の終わりという意味合いもあった。その時点でぼくと彼の間に走った亀裂はあまりにも大きすぎた。ぼくは父と同じようにその本を出版しなければならなかったのだ。しかし、それは実現しそうもなく、さらには予感があって、確信もあった。この先、ぼくは現状のままでは彼が言うところの飯の種を世に送り出すことが容易でなくなってしまうというものだった。そうなった場合ぼくは非常に苦しい状態を強いられることになる。世界は驚くほど早くどん詰まりの展開に陥る。
契約の解除に関する法的な衝突と民事訴訟の影がちらついたのはそれからすぐのことだった。お昼のワイドショーにぼくの名前がどぎつい色調で載せられて、週刊誌でもへんなところであることないこと話が盛られて、世間様に消費される話題にぼくはなった。ひっきりなしにぼく宛に連絡を寄越してくる会社の上の人間たちを黙殺するのは少しだけ申し訳なく思った。彼らはぼくに良くしてくれたし、今の社長はデビューした時から父の息子ではなく、作家としてのぼくを見てくれた数少ない一人で、海外での著作の展開を強くサポートしてくれた。彼らはなにも悪いことをしていないし、ぼくに対して法廷での戦いではなく話し合いと和解を求めている。けれど、ぼくはそれを受け入れてはならないのだ。影響の善し悪しに関わらず、父の影が強く染み込んだ今の会社では、様々なことに限界と制約が発生してしまう。父のように直談判するというのは良い手とは言えず、そこには必ず父の幻影という妄執に炙られた編集長が立ちはだかるだろう。仮にぼくが和解の道を選んだとしても、今回だけに限らず彼とはことある事にあらゆる場面でぶつかり合うこととなって、相互間での分かち合いは不可能になることは決定されていた。弁護士には何としても解約をもぎ取るようにと安くない金を積んだ。訣別こそが新たな世界への号令なのだ。
とは言うけれど、例の原稿についての問題は既に解決していて、件の原稿は別の出版社に持ち込んで出版されること自体は決まっている。その会社でぼくは何冊かの短編集と純文学に類される長篇を出していて、そこの編集長はもともと堀崎の担当編集だった女性で、死んでしまったぼくの担当編集とも面識のある、ごく僅かな彼らの真実を知る一人でもあった。彼女は持ち込んだ原稿をろくに読みもしないで許可を出して、案はすんなりと会議を通った。彼女に何故そんな軽々しいやり方をしたのか訊ねると、彼女はそれがきっと正しい弔いになるから、と答えた。
「それに、あなたはあの会社でこれを出すべきではないわ」と彼女はその後に続けた。
「どうして?」
「呪われてるもの。なにもかも、あなたの父親に」
ぼくは確かに、と言って笑ってみせた。彼女のユーモアのセンスはぼくと合うものが多かった。そしてそれは的を射ていた。しかし、あの会社で出すべきではないという点に於いては違えていて、堀崎が骨を埋めた会社だからこそ、あの会社で出すべきだったのだ。たとえ、誰に呪われていようが。だから、彼女の元で出版される『弔いの楔』はそういう部分で完全ではないし、それは永久にあの夜の会議室でコーヒーの底へと喪われてしまった。
ぼくの周りは必然的に煩くなった。まあ仕方のないことではあるけれど、歓迎は出来なかった。必死でネタを掴もうとする記者連中には辟易していたし、そこに至るまでの今回の件で抱え込んだものを噛み砕くための隔絶された時間と孤独がぼくには必要だった。そうして隠遁生活がはじまった。
店のドアを潜ると、いつもより心なしか暗いように思えたけれど、それはぼくの勘違いだった。ぼくはカウンターに座る朱香さんにどうも、と声をかけた。朱香さんはそれに力ない笑みを返すだけだった。ぼくはカウンターの向こう側の棚からボウモアの瓶を取って、勝手にソーダ割りを作った。そして、朱香さんの右隣に腰掛けて暫くそれを飲んで、ぼくたちはお互いになにも話すことはなかった。
朱香さんの左隣は堀崎がいつも座っていた席で、そこには花瓶にさした名前の分からない白い花が置かれていた。朱香さんはその花をじっと見つめて、呼び出したぼくに目も向けなかった。心ここにあらずといった具合で、時折、堀崎が腰掛けていた椅子に触れて微動だにしないこともあった。ぼくはじっくりと自分で作ったソーダ割りの味の微妙さを味わうことが出来た。
どうにかしろよ、とよく堀崎がぼくに言っていたことを思い出した。ぼくが朱香さんのお節介をふいにし続けると朱香はたびたび拗ねて、つんとした貌で水しか出してくれない時があった。その大抵がぼくを太らせようとする堀崎と朱香さんの共犯だったが、最後には堀崎までぼくと一緒に宥める側に回ることになった。でも、ぼくだってこればっかりはどうしようもない。特に今は、ぼくという存在は大したことが出来ない。歯痒いというわけではなくて、手持ち無沙汰の時間が少しだけ退屈になってきていた。
どうにかしろよ。
「ねぇ」
掠れて、鼻に掛かった声だった。
「どんな貌してた?」
「死に貌」と訊くと朱香さんは小さく頷いた。「気色悪い笑い貼り付けて棺桶の中にいたよ」
朱香さんはそう、と短く言ってまた俯いた。貌を掌に強く押し付けて、貌が凹んでしまいそうなほど力んで隠していた。
あぁは言ったけれど、ぼくは堀崎の死に貌などとうに忘れてしまっていた。よくよく思い出せば浮かんではくるが、すぐにはもう思い出すことは出来なかった。そこがぼくと朱香さんの違いで、死に納得出来ていない彼女の現状だった。
朱香さんが堀崎の訃報を知ったのは世間と同じタイミングでのことだった。彼女は親しくはあったがどう言っても部外者で、ぼくたちの業界の人間ではなかったから連絡がいくこともなかった。ぼくが教える必要だってなかったし、真相は巧妙に、そして徹底的に隠されなければならなかった。関係者各位には脅しめいた箝口令さえ敷かれていた。今日に至るまでの間にも朱香さんから何十件もの連絡があったけれど、その悉くをぼくは無視していた。悪いことをしたとは思うけれど、原稿に取り掛かっている最中だったということもあるし、それよりも優先的なことがぼくの周りには多かった。だから、朱香さんにしてみれば堀崎が死んでしまったのはぼくと同じ突然のことでも少しだけ種類が違うもので、朱香さんがはじめて情報を受け取った頃には諸々の片が付いていて、堀崎の遺体は焼かれて真っ白い灰になってしまっていた。彼女が出来ることはほとんどなにもなかった。せいぜいが、未だ読んでいなかった著作の一部を消化するぐらいだろうか。
彼女は堀崎の死に貌を見ていない。焼香もあげていない。朱香さんの内では堀崎はまだ生きている。亡霊か、パラノイアの産物の類いとして取り憑いているのだ。
「きみは哀しくないの……?」
「なにが?」
「なにがって……、堀崎くんのこと」
「哀しいよ。哀しいけれど、ぼくはもうそういう段階にはいないから」とぼくは返した。
朱香さんはほんの少しぼくに視線を向けると、すぐに逸らして鼻で嗤った。
「違うわ……、あなた、本当は悲しんじゃいないのね」
「随分なことを言うんだね。自分でもあまり人がいい方だとは思ってないけど、ぼくだって親しい人間が死ねば哀しむ。それくらいの情はあるさ」
ぼくは白々しく抗議してみせた。探せどもやはり哀しみはなかったし、それらしく見える貌のしわを作ったが、朱香さんはぼくを見なかった。どうして見透かされたのかは分からないが、面倒な状況であることだけは確かだった。怒りさえ帯びている背中を見つめながら、ぼくは彼女の言葉を待った。店に入ってからというもの、ぼくは待ちっぱなしでおおよそ全ての疎通に少ない時間が掛かっていたせいか、感覚は小さな異常を来していた。五分も十分も大差はなく、彼女が言葉を選別して気持ちを装填するまでの時間は普段ぼくらが消費している軸のものではなかった。だから、どれだけの時間が必要とされても体感としては一瞬の出来事のように感じられた。
朱香さんの声には棘があった。今までぼくをとろとろに溶かそうとする昼下がりの陽光のような声色ではなくて、ぼくが嫌というほどに見てきた現実に生きて現実に殺される寸前の断末魔を放つ女たちの仕様が備わっていた。女が男を糾弾する時の細く鋭い熱狂が薔薇の棘みたいにぼくの掌を貫こうとぎらついていた。確信と意思を持ってるから、余計に人を傷付けやすくなっている。
「あなた、変わってしまったもの」
「変わらないものはないよ」とぼくは言った。「もしくは、変わってしまったと誤認しているか、自分に変調があったかだよ。当然、ぼくにだって変化する部分はあるだろうけど、あなたが言わんとする部分はなにも変わってはいないよ」
「ということは、あなたは嘘をついていたのね」と朱香さんはぼくを睨んだ。「人の死を悲しめない、人でなしなんでしょう。あなたはそんな本性をわたしに隠して、堀崎くんにも隠して、あの子の苦しみも分からないで……」
朱香さんは声を強く歪ませた。ということで、という会話の発展もそうであるように彼女は著しく冷静さを欠いていた。彼女らしくない、と言えばそれまでだけれど、それはもはや別人のような取り乱し具合だった。理知的でお節介な人物像は砕け散り、欠片すら見当たらなかった。
彼女の発している症状が古い疵によるもので、こころの表層で激しく疼く発作であることは分かっていた。ぼく自身も経験があり、情緒が揺らぐこともあったけれど、目前で誰かが自分の疵に苦しめられているところを見るのははじめてだった。
ぼくと彼女の間に生じたズレはあまりに大きかったのだ。ぼくは死というものに慣れていたけれど、彼女はそうではなかった。互いに、体感的にそれらを捉えることは出来るけれど感受するベクトルがまるで違っていた。もっと言うのであれば、喪失という旅人に出会う回数の違いだった。
孤独の側にはいつも死がいた。手を伸ばすこともなく、ぼくをただ見ているだけだった。友人の友人のような距離感のそれは、実はぼくたちが産声をあげた時から片時も離れずにそばにいたというのに、孤独のように共に夜を越すこともない。死が動くのは喪失という旅人がぼくたち自身を道連れにする時だけだ。ぼくは周囲が喪失と共に旅に出るのをそれなりに見てきて、三人旅のはじまりをよく知っていた。今さら彼らの置き土産に狼狽えるようなことはない。そして、その置き土産は彼女の疵を容赦なく掻き毟った。
「そうだね。ぼくは堀崎にもあなたにもたくさんの嘘と秘密を抱えているよ」とぼくは平坦な喋り口で言った。「でもね、それは誰だってそうなんだよ。みんな清廉潔白に生きられる世の中じゃあない。子供だって嘘を吐くし、血縁があってもぼくらは個人かそうでないかでしかないんだ……」
ぼくは少しの間、言葉を纏めた。
「堀崎奨は死んだ。あなたが今分からないことはきっと永遠に分からないよ。残酷かもしれないけれど、それは仕方のないことなんだ。あなたの抱えているものを解決してくれる人間はもう灰になったんだ。もう、ここにはあなたしかいない。あなたは、独りで自分の深い部分と向き合わなくちゃならない。もう、あの空間はないんだから」
ぼくがいて、堀崎がいて、朱香さんがカウンター越しにぼくたちのやり取りを楽しそうに見ている。その空間は永遠に喪われてしまっている。そこには朱香さんの疵を塞ぐ要素があったのだ。ぼくをぼくではない、既にいない誰かに見立てて、堀崎も同じように誰かの代わりにしていた。そうやって疵から血が流れるのを止めていたのだろう。ぼくが書き続けたように、死んでしまったぼくの担当編集が薬で補強していたように。
なぁ、堀崎。ぼくだって、自分の言っていることと真逆のことを言いたくはないけれど、おまえがどうにかしてくれよ。死んでいるところ悪いとは思うけれど、ぼくじゃあどうしようもないぜ、これは。ぼくはふと堀崎を思い出して、脳裏に浮かぶあのガラの悪いシャツを着た男にそう言ってみたが、恐らく堀崎は人相の悪い笑みで任せるよとしか言わないのだろう。少なくとも、ぼくの知る堀崎という男はそうだった。
少し前から感じる息苦しさは覚えがあるもので、昔、ハンバーガー屋で感じたものと同じだった。ぼくはもうこの場所にはいられないことを悟った。正しい形が
喪われたものが多すぎた。彼女もボロボロで、担当編集の父親もどうしようもなかった。ぼくもそうだ。もう、みんながみんな精一杯だ。疵だらけで頑張って嘘を吐いて、それでも頑張りが足りなくて消えていってしまう。
「朱香さん、頑張ってね。きっと辛いと思うけれど、あなたの思い出は消えないと思うから。そこは少しだけ救いがあるかもしれない。ぼくはもうここに来ることはないけど、ここでお酒を飲んでいた時間は楽しかったと思う。そういうものは気休め程度にはなるからさ。それと堀崎のこと言わなくてごめんね……」
ぼくは朱香さんの頬に手を添えてキスをした。数秒だけのあっさりとしたキスは、予想に反した、蕩けそうな熱を伴ったものだった。彼女は泣いていた。その涙が唇に伝って、哀しい味がした。
「ごめんね」
去り際にもう一度言うと後ろから誰かの声が聴こえたような気がしたけれど、ドアの閉まる音に遮られたそれをはっきりと聴き取ることは出来なかった。
外は暗くなって、冷たい雨がネオン越しにカーテンを引いていた。その只中で、ぼくは世界が急速に折り畳まれていくのを感じた。ぼくの知るものが狭くなって、ぼくが生きることの出来る場所の面積が限られてしまったのだ。見知った風景さえ目新しく写って、現在位置が分からなくなる。まるで知らない世界に迷い込んでしまったようだった。
ぼくは怖くて怖くて、煙草に火をつけた。頭から雨を被りながら今にも消えてしまいそうな火を見つめて、ぼくは帰るべき場所を探して歩き始めた。何処にも宛はなかった。それは、ぼくのあるべき姿のように思えた。最初からそんなものはなかったのだから。
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次回完結。