山田先生と高校の先輩の四方山話。 作:逆立ちバナナテキーラ添え
\パンッ/ヨッシャアアアアアアアアアアアアwwwwwwwwwwwwwwwwwww(高い声でキタァwwwwwwwwwwwwwwwwwww ウワァヤッタアアアwwwwwwwwwwwwwwwwwwwサイシンワコウシンヤッタアアアアアアアWWWWWWWW
自分で死を選択した時、ぼくといえば思っていたほど重苦しい心持ちではなかったし、重大な決心をした実感もなかった。次の飯を決めるくらいのシンプルで日常的な回路を用いてその選択を決定した。堀崎や彼女があれだけ重々しく死んでいったというのに、ぼくは何処か締まらないような感じが否めなく、肩透かしも呆れも通り越してしまった。
朱香さんの店を出た後で、ぼくは財布だけを持って幼い頃に何度か訪れた草津へと雨の中車を走らせた。関越自動車道を走る中、雨粒がフロントガラスに勢いよく弾ける度、ぼくは薪が弾ける音を連想した。木の中の水分が破裂するのなら、堀崎や父の骨も同じように内から爆ぜたのだろうか。耳障りの穏やかな音と一緒にどんなものが破裂して消えていったのだろう。穢いものは全て消えたのか。そんなことばかりが気になっていた。草津という目的地がはっきりしているのに自分が何処に向かっているのか分からない不安感と場違いな疑問が眼球の奥の方で絡み合っているような気がして、ぼくは運転中に度々突発的な眩暈に見舞われた。その都度だぶる視界の中でなんとかやり過ごして、幸か不幸か事故を起こすことはなかった。
草津という土地にこれといって決まった宛はなかったけれど、伝はあった。幼い頃、草津に滞在すると必ず宿泊したホテルの人が好さそうな支配人は父とも懇意にしていて、ぼくとよく仕事の合間に遊んでくれた記憶があった。温泉地に滞在しているにも関わらず父は温泉に入ることもなく執筆に没頭していたし、母は身体が丈夫ではなかったからぼくと目一杯遊ぶことが出来なかった。そんな中で疲れて動けなくなるまで一緒に遊んでくれて、ぼくの手を引いて自ら湯畑まで連れていってくれたり温泉街を案内してくれた支配人は幼少の頃のぼくにとっては親戚のような人で、よくなついていたと思う。父の大学の後輩だという支配人は奇妙な先輩である父とも仲が良かったようで、あの父が彼に手酌をして酒を酌み交わすこともあったらしい。だからだろうか、支配人が父の葬儀に持ってきたのは高そうな日本酒だった。
彼はぼくのことを坊っちゃんと呼んでは老成した雰囲気に見合った丁寧な言葉遣いで接した。それは今も昔も変わらず、最後に会った父の葬儀でもお久しゅうございます、とロマンスグレーの白髪を撫で付けた頭を深々と下げた。寄る年波を愛でているような緩やかな死への旅路を行く彼はぼくの周りにはやはりいない種類の人間で、そういう面でも昔と変わらない人だった。葬式の独特な明暗のコントラストに染められることもなく、滅入らないで静かに目を閉じながら父を偲ぶ支配人は言葉にすることが難しい──曲がりなりにも作家であるというのに情けなくはあるけれど──特異さを携えてそこにいた。同年代の参列者たちが一気に老け込んで見えるのに、支配人だけは寧ろ若々しくさえ見えた。彼はそこにある父の亡骸を父とは見てなかったのだ。何処かつまらなさそうな表情で棺桶を見て、ぼくと視線がぶつかると悪戯がばれた子供のようにはにかんでいた。
雨のせいで冷え込んだ車の中でぼくはそうやって彼を思い出した。彼のホテルは繁盛しているらしく、息子夫婦に経営を任せて今は隠居生活を謳歌していると聴いた。コネクションでどうだこうだとしたいわけではなくて、取る部屋なんて一番安いものでいいのだ。少しだけ、そんなずっと昔のうまく思い返せない時代のことを思い出したくなった。
けれど、ぼくの目論見が上手くいった試しがないと昔に堀崎が言っていた冗談が現実になって襲ってくるとは、予想出来なかった。ホテルのフロントでチェックインの手続きをしていると偶然、支配人──前支配人の老人に出くわしてしまったのだ。ぼくを見るなり小走りで柔和な笑みを携えながら寄ってきて、坊っちゃんがここに来るのはもう十年以上も前以来で、と懐古に浸ってしまって大変だった。よく見るとフロントには父の写真が額に入れて飾られていて、ぼくがその息子だと知ると現支配人の息子がやたらとへこへこした態度で一等いい部屋を用意し始めてからは全て流れに任せてしまった。彼の世界的な大作家が愛した宿、というキャッチフレーズが観光ガイドの表紙に馬鹿みたいに大きいゴシック体でプリントされていることを知ったのはチェックイン後にフロントのデスクが視界に入った時で、既に色々なことが手遅れになった後のことだった。それもこれも、あの若々しい老人の茶目っ気だった。老人は葬式の時と同じように、部屋に連れていかれるぼくに向けて微笑んだ。
通されたのは昔に何度も泊まったことのある大きな部屋だった。一人で泊まるには広すぎて、窓を覗くと湯畑がちらりと見える。昔、挨拶に来た老人にぼくはしつこくそこから見えた湯畑のことを訊ねたこともあった。肩車の高さを知ったのもその時だったような覚えがある。幼いぼくにしてみればこの部屋は楽しいことだらけの休暇のスタート地点だったのだろう。ぼくの足元を走り回る記憶の中から飛び出してきた男の子はそういう希望をこれでもかと詰め込んだ笑顔を浮かべている。腹が立つくらいに。母の背に抱きついて、若かりし老人にじゃれついてみて、父に頭を小突かれている。ぼくは部屋の片隅でそれをじっと見ていた。あったらしい出来事を古めかしくて、音も出ないような映画にして見させられているような気分で膝を抱えた。
そこにはぼくの考えていた通りのものが堆積していた。綺麗な層になったぼくの古い時間の一部は、ぼくが思い返せない二十代以前の時間を鮮明に記録していた。ぼくの瞳にはそれらがしっかりと写って、こころの深い部分で穢れたものがうっすらと色付いてゆくことを感じていた。女の獣みたいないびきも、同じ唇に口付けた貌も名前も知らない男の情欲も、乾上がった涙の池も。全てはそこから始まったものだった。貝印の剃刀だってそこにあったのだ。母がよく使っていたピンクの柄の剃刀は廻り廻ってぼくの手首にたくさんの傷をつけて、疵だらけにした。色々なことは全てそこから漏れだしたものに過ぎない。
なにも言わなかったんじゃない。なにも言えないのだ。ぼくはその情景に口を挟むことを赦されていない。ぼくは罪人のようなもので、これは、あるいは尋問とも取れる。誰がぼくを責め立てるのかは分からない。けれど、目に写るものは大抵の場合、他者が付与する鋭さを携えていた。
ふと立ち上がって、窓辺に行ってみる。遠くに見える湯畑にぼくと老人が小さく見えた。翡翠色の湯を見てどうしてそんな色をしているのか老人に訊ねているところだ。ぼくは老人の人指し指を掌の全てで握っていた。湯に入らずとも血色がいい肌は今とは大違いだった。そうして見ると、ぼくと老人はまるで本当の親子のようだった。少しばかり遅く出来た子供と父親と言って罷り通るだろう。元より父ともそのような年の離れ方をしていた。父といるよりもそちらの方がらしく見える。ぼくの隣で父はその姿を遠目で眺めていた。隈の酷い目元は澱んで見えた。泡のように呟かれた父の言葉に母が笑ってみせた。あるべき物をあるがままに捉えて、フィルターに通さないで主観のままに言葉を編み込んで出力する。母はあなたにそっくりよ、と言っていた。それに対して、やはり父は何処までも素っ気なかった。母はぼくにあなたもそう思うでしょう、と問うた。ぼくはそうかもしれないね、とだけ返した。ぼくは幻想に返す言葉をうまく見繕うことが出来なかった。そこでは言葉というものの力は蟻一匹が有する膂力よりも貧弱だった。言葉は、言葉を産み出す創造性は何者かに剥奪される。
そうしてぼくは回帰の道を辿りはじめる。
現実と虚構の境が融け合って出来たイメージは時間も空間も関係なく、幼少時の朧気だったものを克明に浮かび上がらせてくれた。それはぼくが求めていたものではなかったけれど、ぼくにとって実りのあるものであることは確かだった。ぼくが求めているものがどんなもので、どういう時代であったのかは実を言えば漠然としていて把握出来ているわけではない。もしかするとそんなものはないのかもしれない。そう思ってしまうほどには、らしくもない感傷を覚えていた。薄暗くて雨音しか聴こえない部屋には微かに非実在となった存在が実在していた痕跡が残留している。ロクシタンのハンドクリームの薔薇の薫りは母が愛用していたものだった。もう部屋にはぼく一人しかいないし、窓の外を見てみても雨と寒さのせいでまばらな観光客がぽつりぽつり見えるだけだ。
暫くの間目蓋を落としていると扉の開く音がした。ゆっくりと、張り付いてしまったような重さで眼を開くと老人がぼくの前に立っていた。ルイヴィトンのセーター。風邪をひいてしまいますよ、とブランケットをぼくの肩に被せて急須で茶を沸かしはじめた老人は気が散るほど綺麗な正座をした。ぼくはブランケットを身体の前まで引っ張って、壁に背を預けた。冷たさが背を痛ませる。
「ずいぶんと、お痩せになられたようで」と老人は言った。
「疲れが溜まっているんだよ。色々とあったから流石にね」
「御自愛くださいませ。坊っちゃんももう三十。一つの大台ですから」
「いやだね」と言ってぼくは笑った。「年は取りたくないな。たぶん、もうあっという間に次は四十、五十だ。急かせれてるような気分だよ。急いで生きろ、ほら休むなって具合に」
「燃えるように?」
「残り火を燃え立たせるように。やがて尽きてしまうように」
「今のように」老人はぼくを見て湯飲みに注いだ緑茶を一口飲んだ。ぼくも出された湯飲みに口を付けた。
「貴方には今のぼくがそう見えるのか?」
「一つの視点においてはそう見えるでしょう。しかし、それはあくまでわたしの有する数ある視点の中から掬い上げた、限定的な解でしかありません。人間は多くの視点をシールのように張り付けて生きています。眼は二つだけではないのです。世界を見るためのフィルターも視点の数存在します。どの視点で捉えて、どのフィルターでいらないものを濾すかは当人次第です。その組合せで世界は色を変えるのです」
「別の視点ではどう見えるの?」
「死に瀕している。それも深く、その穴に脚を踏み入れてしまっている。そして、長い間何かを探しさ迷い、ここに辿り着いた。それは偶然のように見えるが作為的なほどの必然性があなたを大きな流れとして覆っている。その何かに眼を塞がれてあなたはもう多くのことをある意味では知覚することが出来ない。どうでしょうか」
「大した変わりはないように思える」
「いえ、そこには大きな違いがあります」と老人は静かに訂正した。「残り火は然い手段を用いれば蘇らせることが出来ます。それはとても難しいことではありますが、可能です。しかし、死人は蘇ることはない。死の淵に立つだけならば、まだ余地はありますが、一度風が吹けばあなたはその構造をすっかり変えてしまうことでしょう」
ぱちぱちと窓に雨が当たりはじめて、風向きと雨足が変わったことを知る。風も雨もぼくの背を目掛けて吹いている。
「ぼくはまだ生きているよ」
「稀有なこともあるのですな。あなたは一度構造を変えられたにも関わらず、もう一度変化の兆しを見せている。そして、それは死に深く根を張った変わり様だ。だからこそ、あなたは
老人はまた湯飲みの茶を飲んで、朱色の表面を掌でしっかりと包んだ。
「どうか、気を悪くしないでいただきたい。しかし、これは重要なことなのです。わたしがあなたに伝えなければならない事柄なのです。つきましては、わたしの昔噺を一つよろしいでしょうか?」
ぼくは頷いた。老人は微笑んで息を短く吸い込んだ。
「その昔、あなたの御父上が珍しく一人でここにいらっしゃいました。奥様もあなたも連れずに来ることは結婚される前振りでしたので驚きました。しかも、ちょうど奥様が亡くなられてすぐのことでしたからわたしもはじめはどうしてこの場所に一人で訪れたのか検討もつきませんでした。きっかり葬儀の一週間後でした。そして、何より頬の酷い痣と濡れ鼠のような格好は我々出迎えた従業員たちにただ事ではない様相を感じさせました。
御父上──彼はこの部屋に泊まりました。荷物はペンの抜け落ちた古い手帳と一冊の本でした。滞在時に発生する諸々のお支払いは全て手帳に挟んだアメックスで済ませていました。着替えも持たずに言葉通り身一つで来られたのですよ。
彼を部屋に案内する途中、わたしと彼の間に会話はありませんでした。いつもならば世間噺や夕食の希望を訊いたりするのですが、その日は言葉が何かに絡め取られてしまったかのように喉の奥からも頭の中からもすっかり消えていたのです。ちょうど、その日も今日のような悪天候でした。彼はその中を珍しく車を運転してここまで来たのです。彼はものぐさな人間でしたから自発的に外出することは少なかったとわたしは記憶していたので、彼の行動の意外さはすんなりと理解出来るものではありませんでした。けれど、わたしは何かが起きたのだと直感していました。彼のこころと更に深い部分での現象が現実という表層での行動にまで影響を及ぼし、そこには確実に奥様の死とあなたが関わっていること。わたしが察することが出来たのはそれだけでした。長年、彼とは親しい付き合いを持っていましたが、あのようなことは初めてでした。そして、あれっきりでもあった。
彼は部屋に入ると持ってきた本を静かに開いて、誰も来させないようにしろと仰いました。その本は表紙もページも真っ白で何も書かれていない不思議なものでした。食事もいらないと言って彼はそのまっさらなページに眼を落として、そのまま一言も声を発することはありませんでした。わたしが声をかけようが、雷が外で落ちようが彼はその真っ白な本を読み続けていました。ほんとうに真っ白なだけの本を熱心に、それこそ両の眼を剥くように開いて眺めるというのは些か狂気染みた眺めでしたが、わたしには彼がまったくの正気でその行為に意識を集中させているように思えました。というよりは確信していました。
翌日チェックアウトする際にはその本は何処にも持っていませんでした。そして、彼の貌はもうすっかり変わってしまっていました。目鼻立ちという点ではなく、その印象がひっくり返ってしいまったようでした。用は済んだと言ってそのままお帰りになられました。あの本をどうしたのか、と訊ねようにも彼は逃げるように車に乗って行ってしまいました。その後、わたしはこの部屋を隅々まで探しましたが、彼が手にしていた真白い本は何処にも見当たりませんでした。まるで、はじめからそんなものはなかったかのように。
さて、噺は少し逸れてしまいますが、実を申しますと、というよりはお気付きでしょうが彼の葬儀でわたしは酷く退屈をしておりました」
「棺に横たわるのがあなたの知る父ではない何者かだったから?」
「そうではありません。彼の葬式は既に執り行われていたのです。二度も。それなのに今さらあのようなことをしたところで弔いに意味があるのか、と思ってしまったのですよ」
「何時そんなことを」
「先程の話がそうなのです。二度目の葬式はその時に行われたのです。はじめの葬式について彼は詳しく語ることはありませんでしたが、そのどちらも彼は自分自身で自らの亡骸を弔ったと言っていました。それらをわたしに聴かせてくれたのは、再び一人でここを訪れた時のことでした。あなたが作家としてデビューされた年の冬に彼はもう一度この部屋に泊まったのです。その際に彼からあなたが書かれた本を一冊頂きました。すると、彼は自分の葬儀について喋りはじめました。脈絡もなかったのではじめは戸惑いましたが、それは彼の癖のようなものでもあったのですぐに持ち直して、話を聴くことが出来ました。
彼は死について徐に語りはじめました。曰く、自分はもう長くはない、死期が近付いてきた、と。わたしは何故そのようなことを言われるのか問いました。彼にそのような老いた気配は感じられなかった。幾分か皺は増えたものの、血色も悪くはない。それなのに、あの男がこんなことを言うようになるとは何事か、と懐疑すら抱いていました。彼はわたしの問いに自分の役目はとうの昔に終えているのだと答えました。その役目を終えた後、自分は暫くの間沙汰を待ち、死ぬことを赦された。そうしてわたしは自分を葬り、弔った。二度目でやっと自分は一つの終結を迎えることが出来た。ここで、ただ一人自分の生を振り返り、身を投げて、残骸がその始末をしたのだ。
わたしには彼が何を言っていて、その不可解な言動が何を意味しているのかさっぱり理解出来ませんでした。ですが、彼が言うところの二度目の葬り、弔ったという儀式を執り行ったのはあの大雨の日のこの部屋だとすぐに確信出来ました。わたしは彼に訊ねました。それは奥様と坊っちゃんに関わりがあるのではないか、と。彼はわたしの質問を確かな正解ではあるけれど、図星というわけでもない、と評しました」
「あの人とは滅多に喋らなかったけど、昔から口を開くと一々回りくどかった」
「えぇ。大学時代からあのまどろっこしくて、喉に貼り付くような言葉使いは変わることはありませんでした。奥様も時折困っていたようでしたよ。ここに泊まられた時によくぼやいておりました。
見たところ、彼は迷っているようでした。あるいは、何かを探しているようにも。部屋の中を見渡したり、窓の外を眺めてみたりして、この部屋から得ることの出来るあらゆる感覚から来る情報を丹念に分析していました」
「それで、あの人は探し物を見つけることは出来たの?」
「どうでしょう。一頻り部屋の中を改めると、彼はいつぞやのように一人にしてくれと言ったきり、口を開くことはありませんでした。ここには彼にとって少なくない数の思い出が刻まれています。奥様とあなたの三人で訪れたことも、奥様の療養にお使い頂いたこともありました。わたしが大学を卒業して父からこのホテルを継いだ時も、わたしがせがれに跡を譲った時もお越しになられました。奥様に結婚を申し込まれたのもこの部屋でした。その中から一粒の結晶を掬い上げるのは簡単なことではないでしょう。その試みは難関を極めたでしょうし、彼は前回同様に訪れた目的を話しませんでした。わたしが彼の晩年の多くのことについて正確に把握していることは決して多いとは言えません。これらは全てわたしの所感と推測に過ぎないのです」
父がこの部屋で母にプロポーズしたことは初耳だった。そんな話はしたこともなかったし、もしも、する機会があったならば親子関係は随分と違う形になっていただろう。
「彼は度々著書で死と生について触れることが多かった。それは彼自身、死という現象あるいは物に直面することが多かったからでしょう。大学時代も彼と旅行に行く途中でバスがダンプカーに吹き飛ばされたことがありました。彼は頭を強く打って、意識不明の重体のまま十二日もの間生死の境をさ迷いました。そしてきっかり十三日目の日付が変わった瞬間に意識を取り戻したのです。そのように、彼はその人生の至る場面で死線を踏み越えて来たのです。その度に彼は意識を失った先でわたしたちには到底思いもよらない体験をしてきたと仰っておりました。彼のインスピレーションはそこから汲み上げたものでした。その冷たくて得体の知れないものが彼を通して文字になっていたのです」
「やけに詳しく語れるじゃないか。まるで、あなたもそれを見知っているような口振りだ」
老人は少しだけ口をつぐんだ。「この歳まで生きると嫌でも見えるものがあるのです。それも、その一つですよ。あなたも見覚えがあるのでは?」
これまで何度か意識を失った時に、不思議な体験をした。暗い海の中でぼくは身を任せていた。生暖かい人肌のような心地好さはぼくの身体の末端にまで、まるで舐めるような感触で絡み付いてきた。それは愛でているようにも感じられた。ぼくはその何者かを真に求めていた。こころでは激しくそう感じているのに、身体は水圧とは違うもので押し込められてうまく動かせなかった。その海には浮力も重力も息苦しさもなかったけれど、周囲からぼくに向けて放たれる圧力だけはきっちりと存在していた。部屋で見た幻影のように、そこでも言葉は力を失っていた。作家としてはよろしくはないのだろうけれど、そこには言葉がある世界よりも有意な法則が満ちていて、ぼくにはそれがとても安心出来るものに思えた。ぼくは突き詰めた意味合いで、その世界では傷付くことはないのだ。言葉がなければ、人が傷付くことは格段に減る。
父がそういう体験──臨死体験から自分の奥深くに接続して、密接に無意識と同調した時の産物が作品に投影されていたというが、きっと父が汲み上げたものは言葉の力を強く肯定するようなものだったのだろう。妄信的に、狂ったような言葉への信仰は父が死ぬ寸前までひた隠してきた本性の一部で、ぼくに継がれたものの正体もそれに違いない。今になってこそ、ようやく、ぼくは父が今際の際に燃え上がらせた炎を理解することが出来た。直感に等しいものだけれど、この部屋にこびりつく痕跡と残り火がぼくにそっと答えを差し出してくれた。音叉のように、ぼくと同じ波形で父が重ねられるような感覚はあまり気持ちのいいものではなかった。
真逆のものを宿しながら、たくさんの相違と断絶を孕みながらも、父とぼくはこの部屋で交差した。
ゆっくりと、優しく目蓋を閉じると幾つかのことに答えが見えてくる。昔から感じていたベルトコンベヤーのような人生の流れの終着にぼくは今辿り着き、多くの交わりによって満たされた杯は砕かれ、嘗て力を持っていたものはそれらを簒奪されてしまった。何もかもが零という数値を記して、回帰した。現実の言葉を除いて。卑しく、砕かれた空想の言葉たちの血を啜って永らえているのだ。
「明日の朝にはお発ちになられた方がいいでしょう。あなたはここにいるべきではない。その変化を乗り切るには、ここはよろしくない」
「どうして?」
「どうしてもです。取り返しのつかないことに、取り返しようが見えて来てしまう前にここを去った方がいい。ここにはそれらが見えてしまう要素が染み付いています。それらは一見すれば蜜のような輝きを放ってはいますが、非常に強い毒を秘めています。死に至ることはありませんが、眼を永久に狂わせます。道標を失ってしまう。今のあなたにとってはどんなものよりも恐ろしい毒になり得るでしょう。生憎、外は酷い天気で翌朝まで持ち直しそうにはないとのことです。今晩は注意深く眠りに落ちなさい。過去に深く足を踏み入れすぎることのないように」
「それが自分のものであっても、ぼく自身に牙を剥くのか」
「過去というものはこの瞬間を過ぎれば、それは既に誰のものでもないのです。過去は重みを宿してわたしたちへとのし掛かってきます。彼らはそれぞれが一つの独立した存在として我々に付随しているだけなのです。だから、時には宿主に牙を剥くこともあります。とりわけ、弱っている時に彼らは活発になるのです。ちょうど、今の坊っちゃんのように。彼らは懐かしい思い出を投射して、手招きしながら誘い込むのですよ」
「何処へ」
「暗い場所へと」
自死を決断したのは帰り道の車内でのことだった。ハンドルを握りながら、ぼくは唐突に死ぬべきだと認識した。晴々とした空から乾いた光が眩しくぼくの視界を照らして、じりじりと眉間を熱していた。けれど、ぼくはその熱にやられてしまったからそういう考えに達したというわけではなくて、老人が言うところの視点とフィルターを変えて見た結果として、ぼくには自ら命を絶つ必要性があった。カプレーゼを作るためにオリーブオイルが必要であるように、些細で重大な普遍的なことだった。
草津で過ごした夜、ぼくは夢を見た。とても不思議な夢だった。そして、それは老人の話していた過去が仕掛けた罠だった。
ぼくは暗い場所で眼を覚ました。ニルヴァーナのPollyが
歯車が噛み合わないように言うことを聴いてくれない身体の上半分だけを何とか起こすと、部屋の端で誰かが手を振っていた。その後ろには簡素なドアがあった。よく見ると手を振っているのは一人だけではなくて、彼らはぼくの知る面々と同じ貌をしていた。その大半が死んでしまった者ばかりで、堀崎やぼくの担当編集も緩慢な動作で肘から先をかくかくと左右に揺らしていた。関節から上に向かって糸が付けられているような不自然さだった。
ぼくは老人から聴いた話を思い出した。それらが話に上がった暗い場所からの誘いであると判別するには難いことではなかった。その過去が驚くほどに精彩さを欠いた、はりぼてよりも雑な造りをしていたからだ。堀崎がそんなことをするというのは少し想像がつかなかった。ぼくから湧いたものなら、ぼくの想像が及ばないことは存在し得ない。
ぼくはそのはりぼてたちと距離を取って下手くそな人形劇を見ていた。確かにその動きには人を惑わす妖しさのようなものがあって、ぼんやりとしていたのならば誘蛾灯に吸い込まれるように足を動かしてしまっていただろう。けれど、誰かと夜を重ねるように強要する流れに比べてみると、そこに含まれるどうしようもない強引さと残忍さには大きすぎる開きがあった。そして、その流れは今や絶えて、ぼくのこころの深い場所で拍動と一緒に呼吸をしている。とても浅い息だ。
互いに直視し合えば、その行為は来るところまで来るとどちらかが根負けして終わりを迎える。根負けしたのは人形たちの方だった。彼らは手を糸が切られたようにだらんと落として、首の部分が一斉に落ちた。首より上にはもやもやした霧のようなものが漂っていて眼がないはずなのにぼくは何者かに見られているような感覚を覚えていた。きっとその正体はぼくに寄生していた、忘却してしまった過去たちの群れなのだ。彼らはぼくを憐れむような視線を投げてきた。ぼくはそれがどうにも気に入らなかった。いつの間にか腕には包帯が巻き付いていて厄介だったが、床に落ちていた貝印の剃刀を握り締めてその首筋──もやもやと身体の接合面よりもやや上の辺りを便宜上そう言っているだけで、そこに動脈が通っているとは思えなかった──に薄くて短い刃を力を籠めて食い込ませて、思いきり引き下ろした。傷口から勢いよく吹き出した血は青白くて少しだけ甘かった。鉄の匂いはなくて、無臭に近いものだった。もやもやは傷口を掻き毟って、おかしな女の声をあげながら倒れて、動かなくなった。ぼくは残りのもやもやたちにも同じように剃刀で首筋を切っていった。中には本物の人間のように逃げる奴もいて、捕まえるのには多少苦労したけれど、ぼくは包帯で──不思議なほど頑丈だった──締め上げて動けなくしてからじっくりと首筋を裂いていった。
そこはある意味ではフィクションの世界だった。そこで放出された暴力性は現実のぼくにはあまり関係のないもので、不意にこころの奥から漏れ出た泥が暴れただけのことだった。それらに封じられた怨恨は今のぼくが持ち合わせることのない、生命の熱さを帯びた生々しいものなのだ。随分昔に宿した不安や錯誤の結晶とも言える。ぼくはそう思い込みながら母の貌の形に変形するもやもやの皮を剥いでいった。そして、その形のいい唇も削ぎ落とした。その唇から流れ出た言葉にぼくへの何かを籠めたことなど一度もなかったのだ。そんな軽薄な唇なのだ。
胤も胎も言葉も。ぼくには与えてはくれなかった。誰もぼくのこころを守ってくれる人はいなかった。ぼく自身でさえ。
正直なところ。昔にぼくが父を殴った理由はあやふやなものをとりあえず纏めただけで、特に明確なことがあったわけでもない。薄々気が付いてはいたのだろうが、ぼくは間抜けの振りをしていたかったのだと思う。今ならば、この場所でならばはっきりと分かる。父も母もぼくを文字通り偶然の産物として、表面上の養育をしただけで愛を注いでたわけではない。母がぼくの欲していた言葉を墓場へと持っていってしまったのは故意だったのだ。そうやって、ぼくのこころは脅かされ続けていた。何の怨みがあったか、ぼくを両親は呪い続けた。そして、何らかの役目を期待して、それは恐らく果たされた。今や、ぼくは父の偉大という言葉が弱すぎるほどの名声と功績を打倒して、作家としてステージを一つ越えた場所に立った。父でさえなし得なかった前人未到を踏みつけて、友を殺し、女も殺し、彼の目指した究極型を体現しつつある。
過去を映した人形たちを全て殺してしまえば、そこには静けさだけが残った。ぼくは血が流れる左の手首を抑えつけながら、死んでしまった母を見下ろした。綺麗な貌立ちには朱がよく映えた。横たえながらもぼくを見つめているけれど、口元だけはちょっとばかり造形が乱れてしまっていて見るには息を止める必要があった。
あぁ、墓の下で眠っているはずの母さん。見ているでしょうか。ぼくは今あなたを殺してしまいました。けれど、それは仕方のないことでしょう。ぼくはあなたたちのことをすっかり理解してしまったのです。この歳になって、色々なものと人に助けられ、ようやく自分を知ることが出来ました。もう、満足したでしょう。充分に満たしているでしょう。ベルトコンベヤーももう続いてはいない。ここらで休みを入れても文句はないはずです。ぼくはきっと立派な作家になれたんだから。
手首が冷えるように痛んで、痛みが増すごとに闇に部屋は覆われて、ぼくは眼を閉じる寸前に指を伝って滴るものが血ではなくて真っ黒い泥だったと気付いた。
老人は帰り際ににこやかな笑みをくれた。憐れみだった。けれど、ぼくはなにも思うことはなかった。なにも感じることが出来なかった。
帰宅して──そうは言っても実感はなかった。宿を変えたようなものだった──、ぼくが一番に考えたことは静かにすることだった。音も光も五感を揺さぶるものを可能な限り避けて、ぼくという海に没入しなければならなかった。生温い海にたゆたいながら死に方を探すためだった。
思い付きはシンプルだけれど、工程というものは中々単純化されてくれない。ぼくにとって、こればかりはプログラムみたいにシステマティックな道程ではないのだ。別にこだわりがあるというわけではないのだけれど、ぼくが勝手に死んでもそれで放っておいてくれる人たちというのは世間の中では少数派に分類されるわけで。ぼくはその辺りの後始末まで考えなければならない。堀崎や彼女のように色々と荒らして──自殺するという時点で多大な迷惑をかけることに変わりはないのだけれど──さようならという風にもいかない。色々なことを整理整頓して、多くの手順を経てやっと死ぬことが出来る。自殺というのは役所の手続きと同じくらいにややこしく、面倒な作業なのだ。必要性を伴えば余計に面倒さも増してゆくところもそっくりだ。
三日間、毛布を被って、ぼくは考え続けた。誰もぼくに触れることはなかったし、ぼくが誰かに触れることもなかった。ぼくの部屋で、深いところの海に浸ることは老人が言った変化を乗り切るために相応しいシチュエイションだったのかもしれない。四日目にぼくはパソコンの横に転がっていた林檎を一口かじってから遺書を書きはじめた。それは遺書というよりも短編小説のようなもので、遺作も兼ねていた。それはぼくの人生の振り返りでもあり、死にゆくぼくが
筆は重かった。自分をばらばらに切除して、もう一度めちゃくちゃな傷口どうしを文字で紡ぎ合わせる作業は思うよりずっと堪える。自分の一番弱々しく触れただけで血が吹き出して止まらない箇所を錆び付いて腐りかけたナイフで切り分けなくてはならない。その痛みを感覚したくないからこころが指を鈍らせる。けれど、ぼくはナイフを思いきり突き立てた。自分の存在を断片から損ないつつも、踏み出さないことにはなにも産み落とされることはないのだから。
そうして殺されていったぼくの残骸たちにはぼくの生を語るための証人になる役目が課される。それらは粒子として文字に付着してぼくの彩りを文章に写すのだ。薄汚い色でまっさらな紙を乱暴に塗るように。
けれど、書くことに疲れてしまうことはなかった。筆の重さは変わらずとも、胸の中心がへんな痛み方をしても、身体と頭がパフォーマンスを落とすことは不思議なほどなかった。こころが絶え絶えに懇願している時に頭は淡々と今しがた書いた文章の
三十年弱の生を纏めるのに要した時間の八日間が長いのか短いのかは分からないが、形は出来て、現在に至るまでの巡礼も終わりを迎えた。ぼくに残された仕事は物語を結ぶことだけで、ぼくはもう一度書きはじめた時と同じように林檎をかじってからモニターに向かいはじめた。しかし、どうも気持ちが悪かった。事ここに及んで、歯車が全て噛み合わなくなってしまったような違和があった。それは果肉が歯間に挟まるよりも億劫で、爪先が震えてしまうほどの冷たさを兼ね備えていた。
要するに一文字も書けなくなってしまったのだ。ぼくの現在位置から先への橋である言葉がどうしても浮かばない。結末は決まっていて、もう目の前だというのに酷い話もあって、ぼくはどうしようもなくなってしまった。畳まれていた世界が突然開けて、荒れた原野に放り出されてしまったような気分で、ただ茫然と点滅するキャレットを見ることしか出来なかった。どうしたって、どうすることも出来なくなる状況は耳鳴りと比例するように強く掴んで来る。
だから空調のごぉぉ、という音に何回か甲高い音が混ざっても、ぼくは気がつかなかった。それがインターホンを鳴らす音だということを理解するまでに短いとは言えない間隔があった。しかし、その連続する音がぼくの意識の明瞭さを引っ張りあげるための鐘の役割を果たしてくれた。
チェーンをかけたままドアを開けると女が立っていた。グレーのチェスターコートを着ていて、ぼくを見ると頭を下げた。
「どうしてここに?」とぼくは訊いた。
「以前、堀崎さんとお会いした時に教えていただきました」
あぁ、そう、とぼくは言って暫く考えようとした。けれど外気は薄着のぼくには堪えた。頭の中が浚われてゆくような乾いた風がぼくの肌を鋭く叩く。
「とりあえず入りなよ。いつまでも寒い空気に当たっていたくはないから……」
ぼくはチェーンを外して真耶を家に上げた。まるで現実感もなければ、草津のように幻覚を見せられているような、怪奇的とも言うべき空気が纏わりついていた。
十年振りに見た真耶は変わっていなかったように思える。ぼくの内で非実在に成り果てた彼女とぼくの眼の前にいて、認識している彼女が同一の人物であるかどうかはぼくにもわからない。だが、彼女がここにいて、言葉を発して、ぼくと交差しているこの瞬間は間違いなく現実に起きていることで、正しいことだった。それらの差異が生じさせる混乱はぼくの現実を測る感覚を著しく阻害していた。
振り返って見ると、真耶は笑んで首を小さく傾げる。ぼくはなんでもないよ、と言って殺風景なリビングに彼女を通した。
「コーヒーは飲める?インスタントなんだけど」
「はい。でも、お構い無く」
真耶はベッド替わりのソファに座った。リビングと言っても仕事用のデスクとソファと本棚を置いただけで、部屋もそこだけしか使っていない。真耶は脱いだコートをソファに掛けて真っ白に塗られた窓の外を眺めていた。
戸棚にあったコーヒーは以前、死んでしまった担当編集が買い置きしていたものだった。お湯を注ぐマグカップも彼女が買ってきたもので、片方は彼女がよく使っていた。思い返せば彼女はぼくの部屋に色んなものを置いていった。ベッド替わりのソファも古くなったものを替える時に彼女が選んだもので、お湯を沸かしたケトルもなんでもない日にいきなり買ってきたものだった。
真耶にマグカップを渡すと礼を言ってから両手で包むように受け取った。息を数回吹いて、真耶は少しずつコーヒーを口にした。確かめるように。
「どうしてここに?」
ぼくはさっきと同じ言葉で質問した。けれど、その意味は違った。
「会わなくてはいけなかったからです。
「きみがぼくに会わなければならない理由が?ぼくには心当たりはないな。ぼくはきみに会う理由はなかったから」
「そうでしょうね。もう、たくさんのことが変わってしまいましたから」
きみも。ぼくも。季節も。生命も。
真耶はコートのポケットからパーラメントのボックスを出した。吸っても、と訊ねられる前に灰皿を差し出した。
「まさか、きみが教師になるとは思わなかった。それもIS学園とは」
「驚きましたか?」
「まぁね。風の噂で聴いた時にはびっくりしたな。何時、そっちの道に進んだんだい?」
「大学の時に適性検査があって、いい数値が出たんです。そこからは市ヶ谷と演習場と大学の三ヵ所だけで世界が出来ているような生活でした。その内に代表候補生なんて大仰なものに据えられて、今は教員として食い扶持を稼いでいます。形としては防衛省から出向しているんですけどね」
「大変だった?」
「訓練?」と真耶は訊いて、ぼくは頷いた。「えぇ、世間ではきらきらしたところだけ持て囃されてますけど、代表候補生の訓練なんて表に出せないですよ。出した瞬間には色んな方面から面倒事が飛んできますからね」
真耶はタートルネックの裾を持ち上げて腹周りをぼくに見せた。血色のいい肌色と緩やかな括れに浮かぶ爛れたような傷痕はいやに目立った。
「それは?」
「アグレッサー部隊との演習で機体が大破して破片が突き刺さりました。でも、こんなことは日常茶飯事でした。座学もややこしい資格取得も、何ならびっくりするほど重い背嚢を背負わされて挙げ句山奥に放り込まれて目的地まで三日三晩行軍しろなんてこともありました」
「よく途中で投げ出さなかったね」
「厳しかったし、同期は何人も途中で脱落していきました。でも、わたしにはちょうどよかったんです。色んなことを忘れたかったし、自分のことを蔑ろにしたかった。そうすればどうにかなりそうな部分を正常に導けると思っていたんです。でも、過去からは逃れられなかったし、疵も痛みも欠落も後悔も残ったままでした。新しく生まれ変わることなんて出来なかった」
「よく分かるよ」
「わたしがそれに気が付いた時にはもう遅すぎた。だって、もうあなたとわたしはどうしようもなくなってしまったのですから。それに、前提としてわたしはあなたのことをなに一つ理解してはいなかった。分かったふりをして、罹患した病熱もきれいに見えて、わたしは、あなたを」真耶はつかえた言葉を引きずり出しながら「あなたを殺してしまった」
ぼくは煙草の先を炙りながら真耶の貌を見た。
「でも、なんとか生きている。きみがそこにいるように、ぼくだって
部屋が揺れた。遠くから風の低い音が聴こえた。真耶は眼鏡を外して、眼を細めた。
「名前は覚えてませんが、誰かと付き合いました。たぶん、自棄とあてつけとあなたに見て欲しかったんだと思います。あなたは手紙に見向きもしなかったし、声を掛けても無視されてばかりだったから。キスは……、たぶんしなかったと思います。手は何度も繋ぎました。けれど、なんだか人体模型とままごとをしているような気分でした。結局、その人とはあなたが卒業するのと同時に別れました。やけにこころも身体も寒々しく感じて、人肌程度で暖を取れるわけじゃないことぐらい分かっていました。そもそも、あなたを欠いてしまった日々はなにもかもが足りなくなってしまったんです。全てのことがその時には既に正しい形を成していなかった。歯車は噛み合わなくなって、ようやくわたしは、自分のしたこととあなたとの絶縁を理解しました。どうにかなるんじゃないか、という根拠もない希望は完全に消えてなくなりました」
「きみは変わってないね。変わったようで、実はあまり変化はないみたいだ。疵に苛まれたまま生き続けているし、ぼくにおかしな幻想を抱き続けている」
「変わってしまいましたよ。わたしも、もう子供じゃないです。処女でもない。だから、でしょうか。今ならば少しだけあなたの見ている世界を理解することが出来ます」
真耶は灰皿にパーラメントを押し当てた。
「訓練は過酷でした。わたしたち代表候補生は正代表の織斑千冬のスペアとして安くない額とたくさんの時間を掛けて、人間の限界を更新させられ続けました。死にかけることだってあった。実はわたしは志願生なんです。自分から死人が出る訓練に参加しました。死んでしまえたら、って思ってたんです。なにもかもが、何より自分を認めることが出来なくて、いなくなってしまったあなたの暖かみはわたしを絶えず死への道で苛む焔となって責めていました。それに殉じて消えてしまえたらどんなによかったか。
ある日の訓練で、わたしは撃墜判定を受けました。スラスターに被弾して、不時着した所を止めを刺されました。模擬弾を使用していたとはいえ衝撃や痛みはフィードバックされる仕様になっていました。衝撃が大きいと息が何度も止まって、その度に意識も飛びました。すると、わたしは都度、あの日の病室に飛ばされました。あなたに押し倒されて剃刀で首元を撫で切られるんです。やめて、と言おうとするんですが、その時のあなたの貌を見ると言葉が音になることを拒むんです。わたしは何度も何度もあなたに殺されました。そうして、それがあなたの疵の一端であることを理解しました」
「自殺願望とか希死念虜の類いなんてろくなものじゃないよ。甘い蜜のように見えるだけでヘドロ以下さ。結局は自分の浅ましさに殺されるんだ」
ぼくがいい例だ。
「代表候補生から外された理由はそれでしたよ。メンタリティの面に重大な欠陥あり、だそうです。前々から千冬さんに死に急ぐなとは言われていたんですけど、どうにもわたしは惹かれやすいようで、その後は後進の育成へと回されました。代表選抜訓練の同期はみんな、わたしがエリミネートされて安心していたらしいです。気味の悪いやつがいなくなって空気が綺麗になったっていう風に」
ぼくは冷たくなったコーヒーを飲み干した。煙の後味とコーヒーが混ざって口の中は最悪だった。
「あなたの本は全部読みました」
「ありがとう。でも、恥ずかしいな。酷いだろう、ぼくの作品は。きみは確か父の作品が好きだったよね。ぼくはあの人をある意味では越えたとは思うけれど、実は作品の中身という点では越えられたとは思ってないんだ」
「そんなことはないです。あなたの作品はとても素敵ですよ」
「きみは昔もそうやってぼくにありもしない虚像を見ただろう」
「でも、今度はちゃんと本物に触れました。少しずつ、十年をかけてあなたが書くものに触れて、読んで、感じて、わたしはあなたのことをようやく正しい形で見れるようになった」
「きみにぼくの何が分かるっていうんだよ……?」
真耶は黙っていた。
「分からないものは本当に分からないんだよ。誰かに訊いて正しい答えが返ってくるばかりじゃない。ぼくだって、自分のことはさっぱり分からないよ。どうしてこんな風になっちゃったか教えて欲しいくらいだ」
真耶は口を開かなかった。
「何度も何度も張り裂けそうになって、自分が死んでしまうような痛みはぼくを新調し続けて、もう上手く色んなことを思い出すことも出来ないんだ。きみのことだって、さっきまで思い出せなかった。きみはそんなやつの本から何を感受したんだ。ぼくを理解したとでも?それは永遠に見つかることはないんだ。とうの昔に失われたんだ」
「たぶん、そうなのでしょうね。あなたが心から欲しているものも、見たかったものもきっと永遠に、それこそ奇跡でも起きない限り手に入ることはないでしょう。わたしもそうです。でもね、違うんです。わたしが言ったのは、あなたの今にどう触れるか、ということです……」
真耶はぼくの手に触れた。右手に彼女の掌が重なると、ほんのりと熱い血の温度が伝播した。女の手にしては、少しだけ弾力に欠けていたし、昔に見た時とはそこに蓄積されているものも大きく異なっていた。
「ごめんなさい」
ぼくは隣で膝を着く真耶の貌を見た。けれど、髪が隠した真耶の表情を伺い知ることは出来なかった。
「好きでした」真耶は絞り出すように言った。でも、声色は極めて坦々たるものだった。
「ぼくも好きだった。きみはあまりに眩しかった。ぼくときみとでは釣り合いは取れなかったよ」
「あなたはいつもそうやって自分を卑下していたけれど、あなたほど魅力的な人は昔も今もいませんでした。わたしの居場所はあなたの隣だけだった。他の何処にいても、安らぎはなかった」
「疵?」
真耶は頷いた。
居場所がないのはぼくも同じだった。今もそんなものはない。けれど、もし居場所と言ってもいい所があるとするならば。
「ずっと、あなたを探していた。なにもかもが変わってしまっても、あの時のこころと痛みだけは変わらなかった。それがわたしの新しい疵で、残骸でした」
「死ぬつもりなのか?」
「いいえ。今のところは」
「じゃあ、どうしてぼくに会いに来たんだ。ぼくに会う理由って何なんだ」
「伝えるために。そして、繋ぎ合わせるために」
指の間に真耶の指が滑り込んでくる。指の腹が掌に吸い付いて、ぼくと真耶の脈動はそこで一つになった。
【あなたは生きなければならないの。例え、独りでも、闇の中で路が見えずとも。それがあなたをもう一度殺してしまう結果になったとしても。そうして、あなたはもう一度産まれ落ちるの】
「それはとても難しいことだ」
「でも、それが最善の道です」
最善の道なんて何処にあるんだろう。ぼくは来た道を振り返っても何が最善で何が失敗だったかなんて判別が着かない。結局は緻密な細工を施された機構の中でじっと運ばれていただけなのだから。
「あなたが生きることが出来る場所はもう広くはないのでしょう?こんなに冷たい手をした人ははじめてです。あなたはまた死んでしまう。十年前みたいに独りで死んで、生まれ変わって」
「必要なことなんだ。避けられない」
「そして、多くのことに於いてもあなたの死と再生は求められている。悲しいけれど」
でも、と真耶は続けた。
「わたしはあなたの死を、変化を必要とはしていません。あなたは変わる必要なんてないんです」
それは現在のぼくはという人間の全てを否定するに等しい言葉だった。
「わたしと生きてくれませんか?今ならばまだ大丈夫だから……」
ぼくは真耶のその言葉を聴いた時、酷く冷静でいることが出来た。それは本当に、その瞬間だけ感覚を鈍らせていたヴェールがはだけて明瞭になった奇跡のようなものだった。だから、紡ぐべき言葉が消滅して現在地点を見失った数十分前と比べると雲泥の差があるほどに、安定した心持ちでぼくは自分を捕らえる複雑な今を紐解くことが可能だった。
たくさんのことが十年の月日の中で移ろい、季節を経る毎に人間も欠けて補われる。真耶も例に漏れることはなく、十年前の出来事から大きく形を変えた。けれど、その変化は中途半端なもので、死人と生者が同居しているようなものなのだ。その跛行は至るところで姿をちらつかせる。
端的に言えば、ぼくのせいだ。十年前にぼくと関わって負った疵が原因になっているのだ。それはフィルターと視点を変えれば怖いほどによく見える。
「ねぇ、真耶。取り返しのつかないことは、もうどうしようもないんだ。きみが本当に求めているものはきっと手に入ることは出来ないんだ。ぼくもきみも
ぼくは数多くの自分に適合しない問題について、受け容れることが出来た。色んなことに納得することも出来た。言葉は紡げなくて当然だった。そこにぼくの血肉は宿っていなかったのだから。
真耶はぼくの手を強く握り締めていた。力の限りに、ぼくの掌に爪を立てていた。ぼくの手からはほんのりと紅が零れていた。
「今でも好きです……。あなたの隣にいたい……。もう一度先輩と……」
「ありがとう。でも、ぼくたちはもうあの関係を構築することは出来ないんだ。ぼくは虚ろな生き方をし過ぎた。きみは随分と綺麗になった。けれども、やっぱりそこにぼくたちの気持ちとかは介在する余地はないんだと思う。ぼくらの最上のタイミングはもう二度と返ってくることはない。きみが求める
そして、ぼくはもうきみの先輩ではない。けれど、ぼくはぼくでしかなくて、きみの知るきみが恋して、きみに淡く醜い恋慕を抱いた男であることには変わりはない。それはとてもややこしいことだが、本質としていちばん大事なことでもあった。
【それは憎しみなの?それとも、あなたに染み着いた怨みなの?】
「違うよ。そういうことじゃないんだ。どうしようもないことなんだ。
ぼくは諭すように言った。
「終わってしまったから……。もう一度はないんですか……?」
誰もが幸せになれるわけじゃない。産まれながらにして、その時点で幸せになれないことを定められたこどももいるのだろうし、ぼくはそちら側に近しい人間だったのだと思う。想像しうる限り最上の、身の丈に合った幸せというのは大体の場合高望みしすぎているのだけれど、中にはそれをそのままに手に入れられてしまう幸に恵まれた人間もいて、真耶はそういう類いの人間だった。だが、今は違う。ぼくたち幸せの容は別の有り様を提示している。それはもう、とうの昔に。けれどほんの一瞬、それが交錯して弾けた時があった。輝ける
真耶の言うもう一度、というものがあったとして、ぼくたちは上手くやっていけるのだろうか。何もかもががらんどうになって、素寒貧のぼくと疵だらけの真耶。たぶん、ピースはかっちりと填まるのだろう。でも、ぼくにはどうしてもその状態が上手く関係を構築しているようには思えなかった。幸せという点に拘りがあるわけでもなくて、その辺りを妥協したところでなにかがプラスになることもないのだ。
少しずつ、物事に、言葉に、血が巡り肉が編まれるのを感じた。
ぼくは真耶が他の誰かに抱かれているところを想像してみた。ベッドの上で真耶は空虚な眼を開いたまま、天井を見続けている。それは死だ。それも一つの死なのだ。山田真耶にとっては、ぼくにとっての病室よりもあるいは。そして、彼女は一度ぼくの知らない場所と時間で死んだ。ぼくと同じように。
でも、それはぼくが欲した死ではない。ぼくが欲しいものは、きっと途方もないほど大きなものを喪って、微々たるものを拾う末に灯火が消えてしまう。そういうものなのだ。その消えるまでの間隙がぼくの生で最も猛く焔が狂う時だ。
世界はきっと広がり続けていた。折り畳まれて出来上がった窮屈で怖い領域を吹き飛ばして、何もかもが真新しい原野が遠い場所まで這い進んでいる。そこに海はないし、泥もない。けれど、恐怖というものは消えてくれることはない。そして、現状も大して変わりはしない。ぼくはぼくの位置を未だに見失っている。
「そうだね。もう一度、はないよ」
そっと、静かに真耶は涙を頬に伝せた。冬の陽の光のようだった。
それはぼく自身へと向けた言葉でもあった。
ぼくはゆっくり眼を閉じて、真耶の手を握りしめた。ぼくが非実在に追いやった、そこに確かにある温もりの変遷を五指でなぞった。
「それでもきっと、この世界にいれば」
「かもしれない。この世界には難しいことが溢れている。ぼくにも、きみにも分からない不思議なことがわんさかとある」
「なんだか夢みたいですね」
「夢も現実も大して変わりはないよ。どっちも息苦しいだけだ」
死者たちが眼の裏で微笑んでいる。さようならの挨拶だ。ぼくは口の両端を少しだけ緩ませる。彼女も堀崎も手を振っている。夢と現実の境界があやふやになって、混ざり合う。そうやって今は無き海に還ってゆく。
ぼくはもう戻れない。何処か分からない場所にすら引き返すことは出来ない。
真耶の言う通り、この出来事はほんとうは全て夢なのかもしれない。ぼくは今、覚醒へと向かい浮上しているという可能性は大いにありえる。けれど、そんなことはどうでもいいし、夢でも構わなかった。真耶と言葉を交わし、真耶に触れて、多くの物事が大きく変わった。それらだけが正しさを持って、ぼくに新たな死を提示していた。既にぼくはそれに飲み込まれている。かつての大きな流れに代わる、ぼくの呼吸を締め付ける新たな真綿。
「何が間違っていたんでしょうか……?」と真耶は小さく言った。「もしも、に意味がないとしても……。覚えのある間違いの他にも原因があったならば……」
「何も間違っちゃいない。ぼくも、きみも。それが間違いない答えだよ。恐らくね」
強く、力のままに痛みを刻み込んだ。お互いに離れないとでも言うように手を握り合った。
言葉が交わされることはもうなかった。ぼくの意識はどんどん何処かへと離れてゆき、身体の制御を手放しつつあった。微睡みか、死か。どちらかは分からないけれど、これが一つの区切りや終わりであることは分かっていた。
言葉は力を取り戻していた。そこに宿るものは以前に増してその理解の範疇外にある強大な圧を漲らせていた。ぼくは落ちていく意識の中、最期に口を開こうとした。沸き上がった、澄んだ言葉を真耶に伝えようとした。けれど、ぼくは喉を震わせることはなかった。ぼくがその言葉を口にすることは許されなかった。資格はなかったのだ。たとえ、それが口に伝えなくてはならない言葉だとしても、そこに義務が発生したとしてもだ。
暗闇にはたくさんのものが混在していた。十年前の幸せ、ニルヴァーナの音楽、もしもの幸せ、悲しい気持ち、聴き逃した言葉。ぼくはその一つ一つに触れながら別れを告げていった。その間ずっと真耶の心音に耳を浸らせていた。その音色は遠すぎる大昔に知らない場所で聴いた音によく似ていた。
目を覚ますと、瞼が二三度引き合って弾かれ合った。ぼくは床暖房の切れたフローリングに寝転がっていた。頬も腹もひんやりとしていて、喉の奥には薄気味悪い気持ち悪さが絡み付いていた。
壁に掛けてある時計は夜の一時過ぎを刻み終えて、新たな時間をまたせっせと運びはじめていた。暗い部屋に秒針の音は普段よりもよく響いた。これまでの生活でこんなに時計の作動している音に耳を傾けることはなかった。担当編集の彼女が買ってきた時計は明度の低い夜闇の中でもぼんやりと浮かび上がって、ぼくを見ていた。情けない体勢を笑っているようだった。
部屋には勿論ぼくしかいなかった。記憶にある一人の部屋のまま静かな夜に冷やされていた。殺風景で息をする度に気道が冷たく張り付く。
けれど、ソファの上には誰かがいた形跡があった。灰皿に落ちている煙草の灰と吸い殻はぼくだけのものじゃなかった。その灰をぼくは摘まんで、その残り香を感じた。その独特な薫りの中に確かにぼくの知る山田真耶がいた。それだけしかないけれど、夢ではなく、現実として真耶はここにいた。そして、ぼくは既に
ぼくはスマートフォンを手に取って、マネジメントを任せている男に電話をかけた。遅い時間でも仕事に取り憑かれた彼ならばまだ起きているはずだ。ぼくは早急に彼に伝えなければならないことがあった。訴訟のことでもなく、これからのことでもなく、取材交渉してほしい案件があった。
ぼくの中の何かが変わってしまった。それが何か知ることは出来ないけれど、それがとても大きなものであることだけは分かる。そして、とうとう未知なる世界に辿り着いてしまった。白痴のようにぼくはその中心で息をするために、使命を果たすために通話が接続されるのを呆けた面で待っている。
書きかけの短編の末尾にはまだキャレットが点滅している。でも、その先を書く必要は今はないのだ。ぼくはそのプロジェクトを保存して、パソコンの電源を落とした。そして、そのままソファに腰を下ろして、煙草を銜えた。ぼくはまだ生きている。
男はまだ出ない。もしかすると、珍しく寝てしまっているのかもしれない。それならそれでいい。日が昇ってからもう一度かけ直せばいい。でも、あの煩い秒針があと一周するまでは待とう。ぼくは煙を大きく吸い込んだ。
吐き出した煙が目に染みた。強く目を閉じると涙が鼻筋を伝った。
こころは凪いでいた。ゆっくりとぼくは唇を動かした。
「父さん、母さん、ぼくはあなたたちを許します……」
あなたたちがそうであったように。
「それが愛なんでしょう」
男が電話に出た。
くぅ^~疲れたゾ^~。 これにて完結ゾ。