山田先生と高校の先輩の四方山話。   作:逆立ちバナナテキーラ添え

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 この作品は気軽に摘まむことが出来るスナック菓子のようなライトさを目指しています。






山田・リリィ・オチコミ・タイイクスワリ・ア=ザトイ

 その熱はぼくを内から容赦なく激しく焼いたが、それと同じく奇妙な感覚を植え付けた。熱や変調を自覚してからというもの、文字が綺麗に見えるようになった。ぼくは共感覚ではない。神経に異常があるわけでもない。色が付いて見えるということではなく、ダイアモンドや水晶のように光が文字の中で屈折、反射して輝くようなものだった。視覚の異常にはじめは不気味な焦りを感じたけれども、ふつふつと涌いてくる欲求は平時よりも強く、身体はそれに抗えずにデスクへと吸い寄せられていった。

 その欲求に従い綴った作品は自分が書いたものとは思えなかった。そこには暴力も、涙も、哀しみも、不幸もなく、愛と笑みがあった。文字の結晶を通して視た世界はかくも美しく、ぼくに相応しくない。それでもその世界を描いたのは自分で、その矛盾した事実は酷くぼくを混乱させた。頭の中が掻き混ぜられて、熱が炎になって猛る。そんな滅茶苦茶な内面でも筆が進んだ。そうして愛に満ちた物語が綴られていった。まるで二人羽織りをしているみたいに、ぼくの脳と指先は分かれて動いていた。

 

 真耶が髪を切ったことを知ったのは夏休みも中盤に差し掛かった頃のことだった。世界が希望に満ち溢れているような光まみれの八月の真っ昼間に、ぼくは最低限のコマだけとった夏季課外へ顔を出した帰りに屋外プールの横を通った。課外に出席はしたものの、話半分にスマートフォンにインストールしたワードで指先を思うままに動かさせていたから二時間と少しは瞬きする間もなく過ぎ去った。文字を打つ度にガーゼの下が痛んで、新たに付けた傷も赤く叫んでいた。それらも時と纏めて、書いている時は何処か別の場所に棚上げされていた。視界はやはりおかしかった。

 プール脇のフェンスの前で目元がさっぱりした真耶が爪先立ちになりながら、なにかを見ようとしていた。水が張られたプールサイドにはハンカチが落ちていた。ターコイズブルーの音符とハートマークがあしらわれた女物のハンカチ。

 ぼくはそれを暫く見ていた。蝉の鳴き声と、汗が頬を伝う感触。そういった暑さを含めた不快な感覚は遠くへと追いやられ、ただ真耶を見ていた。真耶しか世界にいなかった。

 真耶がぼくに気付いたのはすぐだった。一分弱ほど見ていれば誰でも視線に気付くだろう。ぼくは熱と痛みを感じながら、右手を軽くあげた。

 

 「久しぶりかな……、なにしてるんだい?」ぼくは訊いた。

 「ハンカチを取りたくて……」

 「プールサイドのあの青いやつはきみの物か。フェンスを越えていけばいいだろうに」

 「それも考えたんですけど、先生に見つかったら怒られそうで。中々踏ん切りがつかなくて」

 「ふぅん」

 

 水泳部はもう活動を終えていた。屋外プールの周りは水泳部の部員と顧問ぐらいしか行き来する人のいない場所で、この辺りで隠れてキスしたり、あるいは本番を致すカップルもいるという。それほど人の目を気にする場所ではないから真耶の心配は全くの杞憂だった。

 聴けば、机の上に置いておいたハンカチが風で飛ばされて窓の外に放り出され、課外が終わってからずっと探していたらしい。首筋は汗で艶美に陽を照り返してくる。長いこと外を歩き回っていたことが伺えた。

 

 「もう水泳部はいないようだし、よじ登っても大丈夫だと思うけど?」

 「じゃあ、先輩も一緒に登りましょう。そうすれば怖くないです」

 「ぼくを道連れにする気かい」

 「そんなことはないです。ただ、いてくれたら心強いなあ、と」

 

 トートバッグをフェンスの向こう側に放り投げて、網目に足をかけた。かちゃかちゃ、と音を立てながらタイルの上に飛び降りてハンカチを見ると風が吹いて、プールの水面に浮かんだ。

 

 「残念だけど簡単に取らせてくれないみたいだ。プールが気に入って返してくれない」

 「どうしましょう……」真耶は困り果てたように言った。眉が下がって眼鏡の向こうが潤んでいた。

 「まぁ、気長に待とうよ。今は真ん中にあるけど、そのうち端の方に行くさ。長い棒みたいな物もない。このままプールに飛び込むわけにもいかないし……」

 

 ぼくは日陰に座った。真耶もぼくの隣に腰をおろしてプールに浮かぶ水色の小舟をぼうっと眺めていた。陽射しは親の仇みたいに肌を焼こうと降り注いで来たけれど、プールの上を風が走っていたからさほど暑さは感じなかった。

 

 「運が悪かったね。昼は済ませたのかい?」

 「はい、今日は食堂で……。すみません、わたし先輩に御迷惑ばかり……」

 「構わないよ。あまり器量は広くはないけれど、これぐらいで怒りはしないよ」

 「本当にごめんなさい……」と真耶は俯きながら言った。「ドジばかり踏んで……」

 

 なにか嫌なことでもあったのかもしれない。真耶は体育座りした膝に額を着けて抱えていた。包帯の下でへんな汗が染みる。真耶の顔が見えない。

 

 「髪、切ったんだね」ぼくは言った。真耶は僅かに頷いた。「もっと、ちゃんと見てみたいな。すごくさっぱりしたじゃないか」

 

 真耶ははい、と小さく呟いただけだった。

 

 「なにかあったの?」ぼくは少し間を置いて訊ねた。

 「……なんでもないんです。ただ、疲れちゃったんです……」

 「なにに?人付き合いとか?」

 「違うんです」真耶はゆっくり顔を上げた。複雑な、いろいろなものが絡み合った疲労の色が見てとれた。「髪を切った途端にへんな視線が増えたんです。廊下を歩いてても、教室にいても、みんな見てくるんです。名前も知らない人から話しかけられたり、仲良さげに振る舞いだしたり。今まで見向きもされなかったのに急にそんな風に接してくるから……。男の子もじろじろ見てくるし……。それで疲れちゃったんです。こんなに見られることなんてなかったし、それに今日は悪いことばかり重なって」

 「落ち着かなかったし、怖かった」

 

 真耶は身体を縮こまらせて深く頷いた。いつもと違う沈んだ姿は新鮮ではあったが、ぼくは無感動に似合わないなと思った。こうあるべきという人物像と大きくずれた彼女は知らない人間のように見えて、気持ち悪いとも。

 そして、熱く、熱く、今までにないくらいに身体が熱を帯びた。無性に彼女を貶めたくなったり、励まして普段の調子を戻してほしいと思ったり、ぼくの内は混沌の坩堝に蹴り落とされた。

 いつもならばこの手のシチュエーション──他の女を相手にしている時であればそこに大きな波が発生してぼくは自分の意思に関わらず、それに呑み込まれてしまう。でも、真耶にはそれがなかった。夏の風と痛熱だけ。脈動は激しくなり、波に浚われていったはずのものが急速に埋められていく。身体中の血が沸騰しそうな火照りと、頭蓋内が高熱で蒸される感覚が夏の暑さに溶けて、自分と世界の区分があやふやになる。そうして溶け出したものが六月のように組み替えられて歪な形になって戻される。ぼくはきっと、ぼくの原型を保てていない。崩壊する一歩手前。それらは無感動な所感を打ち消すようにして、急激にぼくを襲った。

 

 「ねぇ、外が怖い?」

 「ほんのちょっぴり……」

 「そうだね、ぼくも実は外は好きじゃないんだ。外っていうのは自分には驚くほど冷たくて、乱暴な場所だもの。でもね、外にだって悪くないことは雀の涙ほどだけどある。ぼくの場合はあのハンバーガーだったり、きみと話すのも最近は悪くないと思えているんだよ」ぼくは一滴の不実を混ぜて言った。「たぶん、ぼくが思うにみんな驚いて現実をうまく認識出来なくなってしまったんだよ。だって、きみは綺麗な顔をしている。きみの素顔を見たことのない連中はきみの気を引きたくて仕方がないんだよ。なんだよ山田って可愛いじゃねぇかって具合にさ。だから、大丈夫、きみは悪くないよ。自分の周囲の環境ががらりと変わったんだから怖くて当たり前だし、疲れちゃうのも無理はない。だから、ここでは好きに振る舞えばいい。誰も見ていないから泣いてもいい。ぼくは見ないように目を閉じるし、耳も塞ぐ。独り言で誰かの悪口を言ってもいい、きみの踏み出した足を退いて一旦逃げてみるのも自由だ。きみは何者にも脅かされない。少なくともこのプールサイドにはきみの知らないなにかが入り込んでくることは出来ないよ。ここは、今だけはそういう場所だから」

 「先輩はやっぱり優しい人ですね」

 「違うよ。ぼくはきみに優しくしようだなんて欠片も思っていない。きみは勘違いをしているんだ。こういう言葉を投げ掛ける相手がみんな優しいわけじゃない」

 「かもしれません。でも、わたしは先輩を信じています。ほんとうは先輩が怖い人だったとしても、わたしの知る、わたしの前にいる先輩は優しい人だと勘違うには十分です。わたしはその優しい仮面に助けられたから……」

 

 ぼくは真耶から視線を逸らした。世迷い言を言う彼女の目は湖面のように澄んでいて、そこに写るぼくの姿はあまりにも実像とかけ離れていた。ぼくは彼女が思うような人間ではないのに、彼女はその仮面に騙されてしまっている。それはぼくが意図したことではないけれど、確かにぼくの胸に鋭い刃を突き立てた。

 ぼくは流されるがままに名前も知らない女と何度もまぐわっている穢れた男だ。

 ぼくはきみに謂れのない感情を抱いて、それで勝手に苦しみ、自分を傷付けている愚かな男だ。

 今きみと相対している自分がどういう存在なのか理解出来ていない、人間として不出来なやつなのだ。

 ぼくはこうしてまた自分の穢さを突き付けられている。逃げることを許されずに、視線を逸らしても暗い部分を真耶という白日が暴き出す。そうなることは分かりきっていたのに、ぼくは真耶に声をかけて、まるで夏の虫のように吸い寄せられていった。熱中症のような視界の回り方をして、ゆらりゆらりと水と油が混ざり合うようで、腹の底に異物を突っ込まれたような不快感に見舞われた。

 

 「先輩、髪型、どうですか……?」

 「似合っているよ。すごく似合っている」

 「そうですか……、あぁ、よかったぁ」顔を上げた真耶は綺麗な笑顔を浮かべて言った。その笑顔を見て、ぼくは腕の包帯が巻かれた部分を握り締めた。その痛みが自分の乖離を留める最後の楔だった。それが外れてしまえば、今度こそぼくはバラバラになってしまう。そんな不可解な確信めいた予感が脳裏で警鐘を鳴らす。指先どころか、身体と脳が別々に動き出してしまう。もう、ぼくはぼくでいられない。ぼくが書くものが、ぼくの書いたものでなくなる。その恐怖を抱き締めて、瀬戸際で踏み留まっていた。

 

 「わたし、昔から臆病なんです」

 「ぼくもだよ。色んなものが怖くてどうしようもないんだ」

 「冬眠中の熊みたいに誰とも接しなければ傷付かなくて済むから、小さい頃は誰とも喋りませんでした。男の子なんて近寄りもしなかったですし、大きな声でげらげら笑っているのを見ると鳥肌が立って震えてました」

 「きみはずっと昔になにかに傷つけられた」とぼくは息をつくように言った。

 「大昔の話です。静かな音で、小さく囁かれたんです。そんな一言が未だにわたしの深いところに傷として残っているんです。癒えないままで、ほったらかしにされてるんです」

 「それを癒すことは自分では出来ない?」

 「はい。でも、先輩があの日、保健室で癒してくれました。まだ全てが癒えたわけじゃないですが、こうして他人と向き合うところまで来れたんです」

 

 その傷が何なのか。真耶は話そうとはしなかったし、話すつもりもなかった。でも、彼女にはぼくがそれを完全に理解しているという大きな前提があたかも標準的に備わっていて、実際にぼくは彼女がひた隠している傷という意味をうっすらとではあるが理解出来ていた。

 

 「……先輩も傷ついたんですね。わたしみたいに」

 「生憎と、短い間で失われたものが多すぎるんだ。ぼくときみの共通項を探すのは難しい。それに、あまり過去のことを思い返したことはない。でも、きっと、ぼくときみは同じなんだ。同じ時期に同じようにして傷を負って、同じようにしてそれを飲み干している。差異があるならば、その後だよ。きみとぼくが()()()()()()地点までの道程にしかそれは現れない。だから、ぼくはきみのことを知らないし、きみもぼくのことを知らない」

 「でも、わたしは今いる先輩を知っています」と真耶は言ったけれど、いい加減にぼくを知ったふうに言うのはやめてほしいと思った。「そして、恐らく、以前の先輩を知ることも出来ます」

 

 彼女は似ている。あの意地の悪い女に、ふとした瞬間に似通う部分が見える。

 空が暗くなり、遠くから雷鳴が聴こえてくる。真耶はあの女のような仕草で肩を跳ねさせた。まるで恐怖にかられた兎のようだった。ハンカチを掬い上げて、水を絞って、真耶に渡してフェンスを登る。ぼくは真耶から離れた。物理的な距離を大きく開けた。熱と痛みと恐怖。雷鳴が恐怖を連れてきた。ぼくはぼくから新たになにかが失われたのを感じた。夏の湿った空気に指先が疼いていた。

 

 

 

 






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