山田先生と高校の先輩の四方山話。   作:逆立ちバナナテキーラ添え

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 多忙とスランプの最中、魔法少女サイトが終わった。

 BANANAFISH超期待。






分からねぇって言ってんだろうが(王者の風格)

 

 

 

 楽な日が続いた。白い牢屋に入れられたぼくは思ったより平気で、なにか不自由するということもなかった。ぼくの内にある穢れが鳴りを潜めて、まるで世界で一番清らかな人間になったような錯覚を覚えて、時折一人で笑ってしまうぐらいにはこころは軽かった。怯えも、恐れも、なにもかもがぼくを置いていった。一人で冷たい光を浴びるぼくは本や活字に触れることもなく、頭の中にはなにもなかった。葉が枯れ落ちた樹になにかを見ても、ぼくは筆を取ることも出来ない。そんな狂ってしまいそうな不自由が恐らく、ぼくを不自由でなくさせていた。ぼくは自由だった。何者にも侵されず、害されず、真っ白けな頭でいればぼくは怯えず、苛まれずとも良いのだ。それは一種の廃人の形態であったけれど、世の廃人が自らの状態を正確に把握出来ないように、後から聴いた話によればぼくは日がな笑みを張り付けて病院食を床に叩き落としていたらしい。もう少しで精神病院に叩き込まれるところだったらしいけれど、父が首を縦に振らなかったおかげでぼくは異常者という社会的なレッテルを貼られずに済んだ。

 ある日、眠りから覚めると傍に誰かがいた。看護師にしては色の強い服を着ていた。ゆっくりと瞼を押し上げると、真耶がいた。だからといって驚くこともなかったし、むしろそれは酷く自然なものに思えた。そこに真耶がいて、ぼくをガラスみたいな瞳で見下ろすことはそうであるべき風景のように見えた。

 

 「今は、何時かな……」ぼくは言った。病室に時計はなかった。

 「十一時です。朝の十一時」

 「学校はどうしたの?」

 「休みました。はじめて、平日に学校に行きませんでした。サボタージュってやつですよ」真耶は美しく口元に弧を浮かべた。片側の耳に髪をかけて眼鏡を外した彼女は一度目を瞑れば真耶と分からなくなってしまうような、別人のような雰囲気を纏っていた。彼女が変わったのか、あるいはぼくが。

 「林檎、食べますか?なにも食べてないって聴いたから……」

 「誰から?」

 「お医者さんから」真耶は皿に乗った切り分けられた林檎を出した。兎を模して切られたそれをぼくは一つ摘まんで口に放り入れた。嚥下に問題はなく、物を食べることににも何ら困難はなかった。冬の林檎は瑞々しく歯応えがあった。その甘さがじんわりと身体に染み込んでいくのを感じた。

 「美味いね。もう、林檎が美味しい季節なんだね。気にもしなかった。そんな移ろいにも目が向かなかった」

 

 葉が色付いた。そして枯れ落ちた。ぼくはそれを見ていた。見ていただけだった。それを感じ取ることをしなかった。ぼくはずっと長い幻の中で過ごしていたようなものだった。だから、目の前にいる真耶も幻かなにかに思えているのだろう。だから、ぼくはぼくのままで虚飾を排して言葉を発することが出来ている。

 そうだ。もう冬だったのだ。随分と早く季節が流れ、時が走り抜けた。けれど、この部屋にはそういった概念はなかった。ぼくが何処までいってもぼくでしかなかったように、真耶はぼくの知る真耶でしかなかった。真耶はぼくを見ているだけだった。ぼくがそうであったように、しかし違うところは彼女は意識して感じ取ろうとしていなかったことだ。目を閉じても悪い夢を見ない。ぼくははじめてぼくとして真耶の前に在ることが出来た。

 

 「ここは寒いですね」

 「そうかな。ぼくはとても暖かいと思うよ。陽が当たって、清らかで。ここは悪くない場所だよ。きみはここが嫌いなのか?」

 「病院が嫌いなんです。あぁ、いや、こういう病室が好きじゃないんです。この空気がほんとうに滅入ってしまって……」

 「じゃあ、来なければ良かったのに」

 「そういう訳にも行きません。あなたが倒れて、入院してるだなんて聴いて、わたしがどれだけ慌ててここに来たか分かりますか?いえ、分からないと思いますが……、むしろ分からなくていいです。兎に角、先輩を一ヶ月も学校で見なくて……そうしたら入院生活を送ってるなんて言われて……わたし……」真耶は言う。力なく笑ってみせて、ぼくの腕を見ながら自分の腕を握り締めた。彼女は包帯の下のことも知っている。誰かが教えたのか、それとも自分から知りに行ったのか分からないけれど兎も角彼女は知っている。ぼくは「そう」と言って窓の外を見た。雪が降りそうで降らない空が陽光を歪めていた。

 「なんだか申し訳ないな。わざわざ来てもらって、大したもてなしも出来ない。誰かに押し付けたいぐらいには暇はあるんだけれど、中々どうして、暇なだけというのも悪くないものだね。なんだか、とても気分が軽いんだ」

 「今までは違ったんですか?」

 「どうだろうね。確かに、重く、暗い生活だったかもしれないけれど、本当のことを言えば、ぼくはやるべきことに没頭している以外はわりとどうでもいい人間だったんだ。学校やテストはその最たる例だ。だから、あまりしっかりと考えたことはなかったよ」

 

 本や書くこと以外の全てに対してそうであるわけではない。ファッションには人並みには気を払い──それは群衆の中で自分をうまく溶け込ませるという点に於いて、身だしなみと同義に捉えていた──、強い嗜好は持ち合わせてはいなかったが、美味いものを食べた時に素直に味を楽しむ程度の関心はあった。

 

 「それは、わたしも、ということですか?」

 

 それには見覚えがあった。またしても、と付け加えるべきだろう。その眼差しは伏せる女が、母がぼくを見上げている時の眼と瓜二つだった。透明な、恐らくは、()()()()()という所感。ぼくはそう感じた。そして、確実なことは言えないけれど、数年前の母はぼくをそう思っていたのだ。ぼくは母の視点で、母を見た。奇しくもぼくが寝ている病室は母が最期を迎えた病室だった。

 わたしはあの子がかわいそうでしょうがないの。十五歳のぼくが聴いてしまった声はとても鋭かった。しかし、まるで錆びたナイフを押し込めるように色々なものを無理矢理破りながらぼくの心を貫き荒らした。病室の前で滑り落ちそうな花瓶をしっかりと十の指で抱えて、ぼくは思った。こんな声を出す女をぼくは知らない。その声色はぼくの知るどの女性にも当て嵌まらず、どうしようもないほどに憐れみと悔いに溢れていた。ほんとうに意地の悪い女だと、思い返す度に考える。やはり、そこにはぼくが抱える全ての問題への答を持っているがゆえの感情が籠められていたのだろう。愛はなく、哀で育てられ、ぼくに開示されるべきものを全て抱えて、笑って死なれた。ほんとうにかわいそうだ。自分に同情しているわけではないが、これはあんまりだろう。だから、うまく母との思い出が想起出来ないのかもしれない。結局、ぼくはなんのかんのと言いつつ母親のことを一分たりとも理解出来ていない。向こうは全部知っているくせに。

 ぼくの何を憐れんでいるのだろう。真耶の顔を見つめてみても、なにも読み取ることは出来ない。吹けば砂の城のように消え去りそうな笑みを浮かべたまま、ぼくを見ている。その空気や空間はぼくの安寧の象徴を蝕んでいく。まっさらなキャンパスに出鱈目な色の絵の具をぶちまけるみたいに、頭の中をじわりじわり食んでいく。それはきっと、とても恐ろしいことなのだろうが、不思議とぼくは真耶が叩き付けた現実に緩やかな気持ちで向き合うことが出来た。舌と声帯が羽毛になったみたい。それらは病院が持つ冷たく稀薄な死と混ざり合う。ERやICUから希釈されても、一歩病棟に足を踏み入れれば肌に羽衣のように纏わるその臭いだったり空気や疲れだったりするものは沈殿していた澱でさえ軽くさせる。目元が歪むのを感じた。

 

 「分からないな。ぼくには分からないんだ」ぼくは言った。心の底からの言葉だった。「なにも分からないんだ。みんな難しいことだらけで、それなのにぼくを責め立てるんだ。きみもそうだ……、きみといるとぼくは自分の穢さを他でもない自分に突き付けられる」

 

 紐がほどけるように、ぼくはぼくのこころを言葉にして紡いでいく。そう錯覚していた。

 

 「ぼくはね、きみの思うような人間ではないんだよ。ただの生きることに必死で、それさえもなにかに託つけなければ儘ならないような、人として不出来な男なんだ。きみが言うような優しい人間では、決して、ない。的外れな怨みをきみに重ねている錯誤人だよ、ぼくは」

 

 死人に足を掴まれている。文字に四肢を絡め取られている。呪われている。

 腕の傷痕が開いて、血の涙が溢れそうだった。ぼくはとうとう自分の本性をさらけ出した。気付けば、ぼくは腕の包帯が巻かれた部分を強く握っていて、血が滲んでいた。ぼくのいま最も柔い部分から穢いものがじわりじわり表出してくる。泣きじゃくりながら、自分のこころにメスを立てて、誰にも見せたくない部分を切開して真耶に見せつけている。その浅ましさも、醜さも、彼女の善きこころが露にさせる全てを真耶にぶつける。

 それらをどのような言葉で出力して表現したのかは然程重要なことではない。ぼくは確かに真耶に伝えるべきことを伝えた。その一言一句たりともぼくは思い出すことは出来ないけれど、柄にもなく──ぼくは元来酷く暗い人間であるが、外ではうまく本質を取り繕っていた。真耶がぼくのことを誤解していたように──饒舌だったことは分かる。その行為はぼくがぼくであるために必要なことで、これからも苦しくともぼくであるために乖離を防ぐ楔であった。もう、痛みだけでは足りなかった。ぼくはぼくの内から真耶を追い出さなければならなかった。

 

 「お願いだよ。ぼくを苦しめないでくれないか……」

 

 失われたものは戻らない。傷は消えない。ぼくらはずっと、こころに伽藍洞を抱えて息をしていく。そこにぴったりと嵌まるものを見つけたからといって、その虚が補われることはないということをぼくは知っている。少なくともぼくは永劫その喪失を抱えて、向き合って生きていくことが決められている。母の伏せていたベッドを照らした朝陽がぼくに教えてくれた。

 意識して目に力を籠めてみると、現実感が色彩と一緒に飛び込んできて驚いた。隣を見やると、そこには誰もいなかった。まるで夢を見ていたように、何もない空虚だけが──それは夢見心地の真綿のようなものではない、存在として確率されていたものを強引に排したようなものだった。そして、ぼくが気が付いた頃には西陽がぼんやりと空に煤けていた──ぼくを見ていた。それはぼくが幾度となく夜を共に越えたものでもあり、親しき隣人は満足げにぼくを嘲笑していた。ほうら、おかえりなさい、というふうに。

 最後に彼女は遠くを見て涙を流していた。某かぼくに言っていたような気もするけれど、生憎とそれらはすっかり頭の中から消えてしまっていた。

 ぼくの内からも、外からも山田真耶という存在は消えた。後になってから急に自分のしたことの愚かさとでも言うべきことが湧き上がってきて騒ぎ立てたが、ぼくは真実そうするしか道はなく、それは何よりも自分が一番知っているはずのことだった。騒いだこころはそれっきり鳴りを潜めて、次第に消えていった。少なくともその時はぼくはぼく自身を守ることに成功したのだ。それはぼくが望んだ結果であり、しかし矛盾はそれを避けようとしていた。

 

 要するに、逃げだった。今になって思い返せば、それはどうしようもないほどに決定的で、惨めすぎる逃避だった。それらしく、自分を守るためだとか言って、それを盾にして繕っていただけであった。ぼくは自分の穢れを受け入れることが出来なかった、ただの弱い人間に過ぎない。無意識、意識に関わらず、ぼくはそれら──真耶が言うところの傷から発した諸々について考えることを拒んでいた。物事をよりシンプルに考えて、ややこしくないように日々を流していた。そうすれば余計な傷を増やすことはなく、傷を負っても痛みを感じることはないのだからと。これに気付いたのはぼくが作家として二度目の賞を取った時のことだった。

 斜陽の燃え滓を横目に繁華街をふらりふらりと彷徨っていると、ハンバーガー屋の店主と出くわした。互いに覚えていたから──その頃にはぼくも大分メディアへの露出も増えていたから、ちょうどへんに目立っていた時期だった──近くのバーに入って一杯引っかけた。その頃には作家として飯を食べられるようになっていて、生活のほとんどは自室と朱香さんの店の往復でなにをする気力も湧かず、当然学生の頃に通った彼の店には顔を出すことはなかった。店主はぼくの作品を読んでくれていたようで、あの怠そうな顔をした学生が作家になるとは思わなかったと語った。ぼくは彼にサインを一筆贈って店に飾るように言った。その時にぼくは彼から真耶が未だに店に通っていることを聴いた。ぼくは手元のグラスの中で、揺れる琥珀に壊した過去と孤独と大きく開けて膿んだ傷口を透けて見た。そして、ふと答え合わせをしたかのように十七歳の冬にした行為の本質を理解した。ぼくは真耶に酷く惚れ込んでいたのだ。そんな当たり前のことをもう何年も──不思議なことにこれだけは早い段階で自覚はしていた──そっと昏い場所にしまいこんで、深く考えないようにしてきた。でも、ぼくはそれと否応なく向かい合わなければならなくなって、酷くこころがぐらついて、家に帰ってから部屋の隅でシーツを被り襲い来る恐怖に震えた。それらは哀しみとない交ぜになって、大きな流れに合流する。そしてぼくの首を絞め続けた。

 それからあのハンバーガー屋の店主には会っていない。店に行くこともない。たぶん、二度と行くことはない。ぼくにとっては、あの店は酸素が薄すぎる。

 頭の中でしつこくニルヴァーナが流れて、息が苦しくなり、手首を切りつけて。その冷たさだけが今も昔も現実にぼくを結びつけている。

 

 退院後、家に帰ると玄関先で父と顔を合わせた。ぼくは生涯、その表情を忘れることはないだろう。その笑みは、冷笑は血縁に向けていいものではなく、そして母と真耶と同様にぼくへの憐れみさえ含まれていた。

 乾いた口の中で舌が口蓋に張り付いてぼくは口を開くことが出来ずに、父の瞳を見ていた。ぼくと同じ色の瞳には鏡写しのぼくが綺麗に写るだけだったけれど、一瞬だけ浮かんだ情動にぼくは父が何故ぼくを憐れむのか、その意を知って、何も言わずに部屋に戻って書き上げた作品を読んだ。

 『アマナの華束』

 涙が止まらなかった。自分の意思ではどうにも出来ない、深い場所の最後の白地が犯されていくのを感じた。それは心の底からほんとうに求めていたものが失われてしまった壮絶な哀しみのようにも思えた。そして、その作品を書いたのは他ならない自分自身で、書き上げたものはあの冷笑さえ破砕する力を持って、産声を上げていた。そして、ぼくはその愛しき赤子を綺麗さっぱりと削除した。バックアップすら消して、その作品があったということを許すことは出来なかった。見るに耐えず、わけが分からなくなって手当たり次第に物に当たり散らしたぼくの身体は傷だらけでおかしな所から血が出ていたりして、これでは本当に狂人じゃないか、と思っても涙が止まらないように宛のない腕と拳は己に向けられて副次的に周囲に被害を振り撒いた。

 でも、ぼくはちょうど十分きっかりにその狂乱をぴたりと止めて、滅茶苦茶になった部屋でキーボードを叩き始めた。ぼくはぼくとしてそれを書き上げた。文字は輝かず、頭と指が乖離して動いている感覚もない。七日の間、新たなぼくは親しき隣人を贄に捧げ、その屍を以て赤子を産み堕とした。そこには孤独と罪悪を籠めた世にも醜悪な毒があった。そして、その作品がぼくのデビュー作になった。

 風の噂では真耶は誰かと付き合い始めたという。でも、それはぼくにとっては平方根と同じぐらい低いプライオリティでしかなかった。失われたものは戻らず、不可逆的に物事を掴み取ることは出来ないという結論に沿ってぼくは死んでいなかった。彼女と顔を合わせることもなかったし、三年に進級すると使う昇降口が逆になり必然的に関わることは完全になくなった。得体の知れない寂しさに絡まれた時には手軽な女を抱いた。その内、ぼくはそのあっさりとした関係が心地よくなって、そんな中でぼくを慰めてくれる名も知らない誰かたちがぼくを楽土に連れていってくれる天女のように思えたけれど、朝になれば転がっているのは酷く醜い獣同然の浅ましい生き物だった。しかし、それ以上に浅ましいぼくは大きな流れに飲み込まれてそんな夜をたゆたい続けた。そうしている内にそれなりに名が知れた私立大学に進学することも決まり、ぼくの高校生活は幕を閉じた。

 どうしてぼくが彼女に惚れていたのかは理解出来ない。出来ないのだが、少なくともあの日ぼくの中から新たに一つ失われてしまったものがある。ぼくはそれすらも分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





みんな!!ハッピーシュガーライフを見よう!!





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