栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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十   侵略者を迎え撃て

 第9海上師団が輸送船団に積み込まれてジャムを発った翌朝、同島に深海棲艦の偵察機がはじめて飛来した。飛行場や地形を丹念に調べているらしい。各独立混成海上旅団には空母艦娘がいるが、夜間は着艦できないために迎撃機を上げられなかった。せっかく飛行場があるのだから、敵機を片付けたのち、そこに着陸させて回収すればいいとの意見もあったものの、却下された。敵の偵察機をわが方が艦載機で邀撃し、飛行場に駐機させた無防備なところを今度は爆撃機による空襲で一網打尽にされる恐れがある。空襲にきた敵機をさらに邀撃(ようげき)しようにも、回収しないかぎり艦載機に補給はできないから、たとえ空中戦で撃墜されなかったとしても、いつかは離陸もできないまま地上で爆撃目標となってしまう。第一波をしのげば第二波がくるし、十波をしのいでも十一波がくる。深海棲艦とはそういう敵だった。

 陣地暴露を避けるため対空砲の一発すらも発砲は禁じられた。

 よって敵偵察機は、遊覧飛行のごとくわがもの顔でジャム島をすみずみまでみてまわって、悠然と飛び去ることができたのである。

 短時日のうちに体制を整えるため、再配置がすんでからは陣地設営と演習で日々を過ごした。年明けには全軍が皇居の方角を遙拝(ようはい)した。灼熱の赤道直下だったが、配給された日本酒と雑煮、各壕に飾られた〆飾りが、かろうじて正月気分を醸し出していた。深海棲艦に年末年始は関係ないらしく、濃厚なブルーの空に偵察機が飛行機雲のひっかき傷を曳いていった。

「飛行機雲にむかって、“三が日にお勤めごくろうさん!”って盃を掲げてた(あらし)がいたな」元長波がいうと、元朝潮もうなずく。

「わたしの小隊でもおなじことをしていた子がたくさんいました。風雲さんが隠れなさいって怒ってましたけど」

 いよいよ深海棲艦進攻の手が伸びてきたことを受け、日本はジャムから老幼婦女子を台湾や中国に疎開させる方針を閣議決定した。

 しかし、32軍と現地行政府の努力にかかわらず、疎開は、はかばかしく進捗しなかった。前時代的な生活を営み、農業と繊維業を主たる産業とする路傍の途上国にすぎなかったジャムは、日本の前線基地となったことで生活が一変した。舗装された道路が要所を結び、上下水道が整備され、鉄道が走り、大学や病院が建てられ、かまどではなくガスで調理をし、個人商店でも携帯端末の電子マネーで決済できるようになり、エアコンの効いた部屋でテレビをみるようになった。築城は公共事業として多くの雇用を生んでいる。おまけに、艦娘を主軸とした大軍が守ってくれているのだから下手に逃げるよりこの島にいたほうがかえって安全だと、なかなか腰をあげようとしなかったのである。「外からきた日本軍が戦ってくれるというのに、ここで生まれ育った自分たちが逃げるわけには」と義心から島にとどまったものも少なくないという。敵潜が跳梁する海をはたして安着できるかもわからない。疎開先での生活基盤も不安だった。中国が世界各地から受け入れた難民を安価な労働力として酷使しているといううわさは、当時すでに公然のものとなっていた。

 32軍司令部の奔走もあって、疎開業務はなんとか軌道に乗りはじめ、予定の八割近い八万人弱をなんとか島外に疎開させることができた。そんな矢先に栄光丸と備後丸の事件が起きた。あわせて七〇〇人の疎開学童を乗せていた両船はジャムからの疎開中に南シナ海で敵潜水艦に沈められた。生存者はなかった。護衛していた水雷戦隊旗艦の軽巡艦娘は軍法会議のため内地に召喚され、無罪評決が言い渡された日の夜、自宅でみずから命を絶った。

 軍はひた隠しにしたが、悲報は全島をかけめぐり、島民の疎開意欲は潰えてしまった。32軍は島内疎開の計画を策定するしかなかった。

 二月に入ってまもなく、統合幕僚本部から朗報が電撃的に飛び込んできた。ラバウルへ抜いた9海上師団の後釜として舞鶴の84海上師団を派遣するとのことであった。すでに再配備は完了している。また計画を練り直さなければならない。だが増援の希望は命令一本に振り回される労苦を吹き飛ばしてあまりあった。頭数があれば作戦の幅も広がる。

 しかし明くる日、舌の根も乾かぬうちに、統合幕僚本部から舞鶴師団の派遣中止が通達された。待ち望んだ増派の感激と、それがたった一日でぬか喜びに終わった動揺は、司令部に中央への少なからぬ遺恨と不信とを募らせることになる。

 

(前略)敵の来攻を目前に控えてまたも配備再変更かと思うと煩わしかったが、この際それは言わずにおいて、素直に増派を喜ぶこととした。提督も内報に安堵の色を浮かべ、「ジャムのこと、ちゃんと考えてくれてるんだな」と司令部要員の総意を代弁した。本土がジャム島を見捨てないでいてくれたという実感が得られたことは、士気向上のなによりの特効薬であった。私たちは心機一転、気合いを入れ直し、新配備計画の作成に没頭した。幕僚たちの顔は例外なく明るかった。

 ところが早くも翌日、84海上師団の派遣は中止するとの速報が入った。私たちは仰天し、唖然とし、激怒した。ジャムはあくまで本土のためにある。要するに、失陥はまぬかれないであろう離島に派兵しても犠牲が増えるだけである。捨て石となるべきジャムのために内地から艦隊を送ることは主客が転倒している。はるか西方の孤島のためにあたら戦力を消耗するなど下の下であると、統幕本部は考えたのだ。市ヶ谷はここを死守しろという。しかし艦娘はよこさない。ばかりかわが艦隊から虎の子の最精鋭部隊を引き抜いてサーモン方面へ送っている。中央にはいったいどのような神算鬼謀があるのか、自分程度の浅学菲才には想像の及ばぬところである。(『激動の戦争史 ジャム島決戦』より)

 

 希望をもたされただけに、第一線の落胆も大きかったと元朝潮は証言する。

「風雲さんはみていて気の毒なくらい、がっくりと気落ちしていました。“上層部っていうのは、下の者が満足に仕事できるようお膳立てするのが役目なのよ。それを、成算もない、働こうにも働けない状況に追い込んで、後ろからやれやれってお尻を叩くなんてのは、これはもうきちがい沙汰としかいいようがないわ。回り回って自分の首を絞めるだけなのにね”って、ある種、悟りきった態度になってました。わたしは、“与えられた条件で最善をつくすのが愛国心であり、わたしたちの役目です”って抗弁した。生意気でしょう……でも風雲さんは、そうねって、あきらめたように微笑みました」

 戦雲迫るジャムの試練はつづいた。二月下旬、小さくない規模の人事異動が32軍へ機械的に内示された。司令部幕僚の大半をはじめ、各師団の幕僚長および幕僚幹事、第24海上師団海上歩兵第22連艦隊長、ほか大艦隊長三名が更迭され、新任が補職された。

「わたしたちの鳥海大艦隊長も異動になりました。拒否する権限はありません。異議申し立てをするにもまず内地に戻らなければなりませんから、そのあいだに元いたポストを埋めて、異動の既成事実をつくってしまうんです。鳥海さんは壕でわたしたちに声涙ともに下る謝罪をしました。(しこ)御盾(みたて)として、故国よりはるか離れたこの島を墓所と決めてともに戦うと約束したのに、いっしょに死ねず、ごめんなさい、と。鳥海さんの心からなる告別はみんなの紅涙を絞りました。鳥海さんはなにも悪くないのに」

 もっとも重大なのは、戦略持久に一縷の望みをかけて一年余を狂奔してきた元陸奥の幕僚長の更迭だった。事実上の作戦立案最高責任者であった彼女の後を襲う新幕僚長が着任したのは、敵が上陸するわずか二週間まえで、指揮官として新職務を掌握し、将兵、艦娘たちの精神的支柱になるための時間があるわけもなく、32軍はとても満足な采配が振るえる状態にないまま戦闘に突入するほかなかった。『激動の戦争史 ジャム島決戦』にはこうある。

 

 異動の理由はというと、なんのことはない、単なる定期異動だった。前身である自衛隊とおなじく、自衛軍もまた年に二回の異動がある。四月一日付と八月一日付である。春の人事異動は二月下旬の内示が通例とされていた。首脳部と部下将兵らが必要以上に結託すると、閉鎖的な論理が蔓延し、過激思想に傾倒し、クーデターを画策する危険がある。まして太平洋のあちこちに部隊が散在している現状では、中央の統制や状況掌握にタイムラグが生じるため、現地に駐屯している兵団が反旗をひるがえし軍閥化する可能性を想定しなければならなかった。現実として中国やインド、オーストラリアは瓜剖豆分(かぼうとうぶん)(編注:国が分裂すること)して久しく、それはわが国とても決して対岸の火事ではない。反逆者が艦娘だけなら問題にならないが、いまだ国家間の紛争ではいささかも戦術的価値の減じていないミサイル護衛艦の艦隊が、洋上を移動する反乱軍にでもなれば厄介である。クーデター防止のため、兵団の長クラスは二、三年で他部署に異動することがならわしだったのである。

 しかしそれは平時の話だ。ジャムはいまにも戦端が開かれようとしており、三月ないし四月の敵上陸を予測している旨、統合幕僚本部にも建白していたにもかかわらず、平時の人事異動を戦時体制下でそのまま適用しようというのは、あまりに緊張感、危機感、当事者意識に欠け、当を失しているのではないか。物量で勝る敵に対抗するには、指揮官が職務を自家薬籠中のものとするべく現地の地勢と天候をくまなく知悉(ちしつ)し、部隊配置と兵力火力を完璧に把握して、部下たちと阿吽の呼吸ともいうべき結束を固め、部隊同士が緊密な連携をとれるよう信頼を育み、なお一歩、敵の先手をとって、ときに臨機応変に対応できるよう習熟しなければならない。それには長く現地にいて肌で情勢を知ることだ。いくら無心になれと強いても、兵や艦娘は人間なのだから、長期にわたって作戦指導で幾度となく顔をあわせ、膝を交え、酒を酌み交わし、同じ釜の飯を食べてきた馴染みの首脳部と、このあいだ転属してきたばかりの他人とでは、任務への情熱、士気に差が生じるのは至極当然のことではないか。戦時に平時の理屈を持ち込むべきではない。畢竟(ひっきょう)、わが国は、自らの生存が脅かされる危急存亡の事態に眉を焦がされる段になってまで、平時の官僚主義を捨て去ることができなかったのだ。

(中略)命令とはいえ、戦友、部下たちを見捨てて、玉砕を目前に控えている第一線から安穏とした内地へ逃げる結果になってしまったことは、千秋の恨事であり、百万言を費やしても購える罪ではない。(『激動の戦争史 ジャム島決戦』より)

 

 たびたび引用している『激動の戦争史 ジャム島決戦』は、元陸奥の幕僚長がひそかに手記として蔵していたものだ。のちに海軍大将、統合幕僚副長までのぼり詰めた彼女は、定年で退官後、32軍戦死者の遺骨収集帰還事業に尽力し、私財をなげうって慰霊碑を建立した。しかし、彼女の老体は進行性の大腸がんに蝕まれていた。発見されたときはすでにステージⅣだった。

「治療も、終末期医療も拒んだそうですね、あの陸奥さん」沈痛な顔で元朝潮が声を絞りだす。「一日中、全身を焼かれるような疼痛にさいなまれていたはずなのに」

「だれも彼女を責めなかっただろうからな。もちろん、上からの異動命令だったんだから、ちっとも責められる筋合いなんかない」元長波は力なくかぶりを振って、続ける。「たぶん、それが彼女にはいちばんつらかった。いつまでも罪は清算されないままだった。がんに苦しめられて、彼女はむしろ、うれしかったんじゃないか。やっと自分を責めるものがきてくれた。罪を償えるって」

 後記によれば、元陸奥の病没後、彼女の娘が遺品から手記をみつけた。内容に娘は驚愕したという。母親は生前、軍への批判や不満を家族にもらしたことはなかった。手記の存在すら知らなかった。娘は公憤と私憤から電子書籍として出版した。後記はこう結ばれている。「どんな反響、お叱りがあったとしても構いません。知らなければ人はどんな判断も下せません。私ができることは、ただ事実を伝えることだけです。知った上で、皆さんにそれぞれ判断していただきたいのです。深海棲艦との戦争が私たちにもたらしたものはなにか。当時の統合幕僚本部が32軍に対して犯した同じミスを、現代の私たちも知らず知らず犯してはいないか。そういったことを考える機会が、今を生きる人たちに提供できたなら、きっと母も本望なのではないかと思います」。

 

 9海上師団を奪われ、無意味な人事異動で水を差されたジャム島は、万全とはいえない状態で敵を迎え撃つことになった。

「まあ、負けるわな」

 笑いかける元長波に、元朝潮は真面目な顔を崩さなかった。

「戦争は事前に準備しているものしか役に立たないといいます。いったん火蓋が切られたら、あとは消費するだけで、戦っている途中で新たになにかをつくって補うことなんてできない。準備ができないということは、失敗を準備しているようなものなんです」

 ジャムは三月十五日から三十一日まで、ほぼ連日の空襲を受けた。停泊していた護衛艦、輸送艇、タンカー、漁船が数多撃沈され、全島の港湾施設は大小問わず使用不能となった。完成したばかりの飛行場は絶好の爆撃目標とされた。苦労して完工にこぎつけた航空基地がなんの役にも立たないまま破壊され、粒粒辛苦の思いで修復してはまた空襲されるということが何度もつづいた。元長波はうんざりしたという。

「あんな目立つもんつくるから敵に狙われるんだよ。直しては壊され、直しては壊され、まるで賽の河原だった。どうせ壊されるんなら直さなきゃいいのにって思ってたな。基地航空隊なんてものを考えた本土の阿呆に工事させたかった。“おまえがやれ”って」

 三月末の空襲で主邑(しゅゆう)のハナン市は九割が焼け野原となり、めぼしい集落はことごとく火に包まれた。空襲に先んじて32軍が現地政府に住民の避難を示達していたため死傷者数は最小限に抑えられたが、集積されていた弾薬や燃料、食糧の損害は深刻だった。食糧の喪失は精米、副食品、調味品、携帯口糧が二ヶ月ぶんに相当し、医療品と高速修復材はそれぞれ〇・八海戦ぶんが焼失した。人手不足のため、本土から運ばれて港に荷揚げされた物資が壕まで輸送できず、やむなくそのまま山積みされていたのである。

「艦娘一隻を可動状態でキープするために必要な物資――燃料に弾薬、飲料水、食糧――は重量にして一日あたり二〇〇キロとされています」と元朝潮。「一個海師の艦娘は一三〇〇隻ですから、わたしたち24海上師団の艦娘だけで二十六万トンの物資が毎日消費されることになる。これに支援部隊一万三七〇〇名の必需品も加わってきます。その日の消費ぶんを運ぶだけで手いっぱいで、プールしておく余剰分の輸送まで手が回らなかったのでしょうね。また、後方に敵砲爆撃に耐えられる集積所を用意しようにも、まず膨大な作業量の洞窟陣地掘開が先決でしたから、そんな労力や資材はなかった、島のどこにも」

 四月一日夕刻、水平線の向こうまでひしめきあうほどの物量でカレー洋に現れた深海棲艦は、上陸予定地に選んだらしいアネダク湾に、夕陽を背にして熾烈な上陸準備砲撃を開始した。海岸線はたちまち轟音と煙霧におおわれた。このときの敵砲撃は三十平方メートルあたり二十五発という超高密度だったとされている。猛砲撃は翌朝まで途切れることなくつづいた。南国ならではの豊かな植生の樹林におおわれていた島中部の山や丘陵はいずれも熾烈な砲爆撃で掘り返され、荒涼としたはげ山の連なりに一変してしまった。

 翌午前八時、ついに敵は駆逐級の上陸にかかった。平均全長二十メートルの各種駆逐級一万二、三〇〇〇隻がいっせいに海岸へ殺到し、埋め尽くしていくさまは、あたかも漆黒の大海瀟のようだったと各種回想録で述べられている。

「わたしたち海歩22連第2大艦隊の任務は、アネダク湾から上陸する敵に遅滞攻撃をくわえ、わが方の主防衛陣地帯に誘い込むことでした。陸奥さんの手記にもありましたが、本当なら、このときの上陸戦で9海師が総力を挙げて一撃できたはずでした。水際での撃滅さえ望めたはずなんです。でもアネダクにはわたしたち一個大艦だけ。切歯扼腕の思いでした」元朝潮はいう。

 9海上師団がいない以上、北飛行場の防衛は不可能である。統合幕僚本部が執着していた陸攻部隊もとうとう敵上陸に間に合わなかった。元朝潮らの大隊が時間を稼いでいるあいだに、施設部隊が飛行場を爆破する算段だった。

「クソ暑いなか島民といっしょに汗を流した突貫工事の成果を、いちども使わないまま、今度はわが軍が自らの手で破壊しなければならないとは、なんともはや、泣くにも泣けなかったな」

 元長波は大袈裟に嘆いてみせる。北部・中部飛行場地域はその日のうちに敵の占領下に入った。深海棲艦は爆破された滑走路を三日で復旧させている。

 元朝潮は上陸した敵との戦いの日々を訥々(とつとつ)と語って聞かせた。

 

 わたしたちの大艦(大艦隊。大隊)は、敵の進攻を減速させつつ計画的後退をしていました。のろのろと、けれど着実に進んでくる駆逐級に遊撃戦をしかけては、山に逃げるんです。ザカク高地北東でのことです。そこは隘路(あいろ)で片側は崖になっていて、防ぐにはちょうどいい地形でした。

 風雲さんが、わたしと同期の親潮(おやしお)ちゃんに、たぶん冗談のつもりで、マルダイになってみる気はないかっていったんです(編注:マルダイとは、爆弾や魚雷を抱いて敵に体当たりする戦法、またはその役目の艦娘の隠語)。親潮ちゃんったら間髪をいれずに「はい」と即答しました。

 風雲さんはむしろ驚いて「魚雷抱えて体当たりするのよ」って確認したんですけど、親潮ちゃん、真剣な顔のまま、

「大丈夫です、勉強しましたから」

 つぎの瞬間には、装填された魚雷発射管を抱いて飛び出していました。陸上では魚雷なんてそんなふうにしか使い道がなかった……。敵先頭のニ級に親潮ちゃんがしゃにむに突っ込んでいって、みんなは「しゃがんで!」とか、「そこの物陰に隠れて!」とか、ほとんど声援に近い指示を出しました。突出した親潮ちゃんは当然、集中砲火にさらされますから、わたしたちも援護射撃はしました。でも空襲で弾薬を損失していて、駆逐艦は主砲一隻一日三十発までって制限がつけられていたので、撃ちたくてもあまり撃てず、注意を逸らすこともできません。なのに敵陣に単身で斬り込んでいく親潮ちゃんは、自分のすぐ近くで土煙が舞い上がっているのさえ気にならないみたいでした。

 発射管をニ級の目の前に放り投げて、すぐ脇道に逃げ込みました。ニ級が発射管を踏み潰した瞬間、大爆発です。ニ級はあとかたも残りませんでした。わたしたちのところにまで熱い肉片が降ってきて、歓声と口笛が巻き起こりました。風雲さんだけは親潮ちゃんの名前を叫びつづけていました。当然、ニ級と心中したものと思っていました。ところが、燃え盛る炎の横から、親潮ちゃんが岩や土砂を乗り越えて戻ってきていました。風雲さんは大喜びでした。というより、安堵でしょうか。親潮ちゃんは風雲さんの前までくると、

「任務遂行いたしました!」

 四角四面の敬礼をしました。風雲さんも笑顔で、よくやったと頭を撫でてやりました。そうしたら親潮ちゃん、一気に緊張が解けたみたいに、顔をくしゃくしゃにして、ワアーッて風雲さんの胸に抱きついて、泣き崩れたんです。やっぱり、恐かったんでしょうね。

 ある夜のことでした。……いまさら長波さんほどの人にいうことでもありませんが、深海棲艦は睡眠を必要としませんし、赤外線視力をもっていますから、夜だからといって油断はできません。わたしたちも照明弾をあげて対応しました。とはいっても全艦がつねに砲火を交えていたわけではありませんでした。こちらの弾薬が心もとないことを悟られない程度に不定期な牽制射撃を繰り返すだけで、手が空いている小隊も多くありました。砲爆撃にはもう慣れはじめていましたから、受け持ちの時間がくるまで仮眠している艦も……ふと、波が引くように敵味方の砲撃が止まるときがあるんです。たまたま装填が重なったというだけのことだと思いますが、そういうときは、寝ていた艦娘たちは決まってみんな目を覚ましました。砲声も地響きもない静けさが逆に耳について起きてしまうんです。もちろん一瞬で破られる束の間の静寂ですが、砲撃が再開されると、「なぁんだ」とかえって安心して、また寝入っていました。

 わたしも仮眠をとろうとすると、味方の上げた照明弾の光で一葉の写真を見つめている、おなじ大艦の愛宕(あたご)さんが目に入りました。愛宕さんと女の子のツーショットでした。女の子はぴかぴかの制服姿。お子さんですかって訊いたら、一人娘だと仰ってました。小学校の入学式のときに撮った写真だと。

「可愛いですね」

「ありがとう。わたしの天使なの」

 話し相手がほしかったのかもしれません、お話を聞かせてくれました。ここにくる前、休暇で半年ぶりに内地へ戻ったおり、旦那さんから離婚話を持ちかけられたそうです。

「世界中あっちこっち派兵される仕事だし、いちど派遣されたら何ヵ月も帰ってこられないから、家を空けがちで、前々から負担はかけていたけど、わたしの仕事を理解してくれてると思ってた。でもそれはわたしの独りよがりだったのね。“きみは母親としての役目をなにも果たしていない。たまに帰ってきたと思ったら、ぼくと子供が決めた家のルールにあれこれと口を出す。授業参観も三者面談も運動会の応援もぼくが行ったんだぞ。ほかの子たちは母親がきてるのに。あの子には母親が必要なんだ。仕事を変えるか、ぼくと別れるか、選んでくれ”。心のどこかでは、いつかこんな日がくるんじゃないかって思ってたけど、やっぱり現実にそうなると突然のことで、びっくりしちゃって……でも、いま艦娘を辞めるって選択肢だけは無理だった。愛宕になって、わたしはやっと本当のわたしになれた気がしていた。わたしを姉や妹だって慕ってくれる僚艦もいる……ホーミングゴースト現象なだけなのかもしれないけどね。でも子供たちだって大事。天秤になんかかけられない。なのにどうしてあの人はどちらか選べなんていったのか、そして、どうしてわたしは仕事を選んだのか」

 愛宕さんはご自分を責めていました。子供が生まれて一年後にはもう戦線へ復帰したこと、育児中も内心では、こうしている間にも同期たちは順調にキャリアを重ねていってどんどん差がついていくと焦っていたこと――現に、当時彼女はまだ水班長(水上班長。二隻編成旗艦有資格者)でしたけれど、わたしたちの大艦隊長だった改二の鳥海さんは、愛宕さんと同期だったそうです――そして、子供に片親だけの生活をさせていること。

 お子さんの親権を裁判で争っているときに、所属部隊の32軍編入とジャムへの赴任が決まったのだとか。彼女は裁判に決着がつかないままの派兵だったんです。そうせざるをえなかった。仕事だから。

「召集されているあいだだけ、主人、いえ、元主人に預けてきたの。日本に帰れば家族が待っていてくれるからわたしはいままで戦ってこられた。子供まで取り上げられたら、もうわたしはなにを生きがいにすればいいのか……。この写真は小学校の入学式だけど、幼稚園の入園式には付き添ってあげられなかった。毎日の送り迎えも、お遊戯を見に行くことも、お誕生日を祝ってあげることもできなかった。それはすべて主人がしてくれていたの。朝ごはんも、お夕飯も。外地に派遣されてる間にあの子は歩けるようになってた。娘がまだ小学校に上がる前にね、休暇で家に帰って、親子三人で過ごして、一ヶ月足らずでまた召集されて、家を出るとき、あの子、屈託のない笑顔で、わたしにこういったの……“お姉さん、また遊びにきてね”。いってらっしゃいさえいってもらえない母親なんて、母親失格よね。あの人のいうとおり。わたしね、貯金をしてるの。任期を勤め上げれば娘を大学へ行かせてあげられる。主人の収入だけじゃ無理だから。子供といっしょにいるのがいいのか、子供のためにお金を稼ぐのがいいのか……。あの子が大学へ行きたいかどうかはわからないけど、進学すれば艦娘になんてならずにすむし、子供にお金のことでは不自由させたくないの。任務が終わって、陸に戻れば、きっと親権を取り戻せる、そう自分に言い聞かせているんだけどね。こうしているあいだにも、夫と娘には親子の絆が日々結ばれている。なのにわたしは、潮風で髪を傷めて、オイルとカーボンと土まみれになって、遠く離れたここにいる。こんな状態で親権を勝ち取れるのか、法的に認めてもらえたとして、娘がわたしを母親としてみてくれるのか。この仕事を選んだことが正しかったのかどうか、正直、わからなくなるときがあるの……」

 愛宕さんの言動が、生きて内地に帰ることを当然としていることに、わたしは違和感を覚えました。だからいいました。

「わたしたち32軍には、退生なんてありません。進死あるのみです。承命必謹、最後の一息までも戦い、悠久の大義のなかに生きるのです」

 ああ、なぜあのときのわたしは、もっと優しい言葉をかけてあげられなかったのでしょう。なにも世間を知らなかったとはいえ。

 しかし愛宕さんはちっとも気分を害したふうもなく、わたしに笑いかけてくれました。

「母親はね、子供のためなら、いくらでもしぶとくなれるの。わたしは絶対に生きて帰る。帰ってあの子をたくさん甘えさせてあげる。退役して、娘といっしょにいられる仕事を探す。それが家庭を顧みなかったわたしの償いだから」

 自分よりも子供が優先、そして子供のために自分の命も捨てられない、それが母親というものなのかもしれません。でも、わたしにはわかりません。いまにいたるまで結婚できませんでしたし、母親にもなれませんでした。もうひとつわからないのは、娘さんのためにも死ねないと断言していたはずの愛宕さんが、その翌日、なぜわたしをかばって直撃弾を受け、あっけなく死んでしまったのかということです。

 わたしたちは艦隊のみんなでお互いに髪を一把ずつ交換しあっていました。だれかが生き残ったときに遺族へ届けるためです。全滅を覚悟していたのは事実でしたが、一種の儀式というか、戦場の伝統のようなものです。お互いを仲間だと確認するための。もちろんわたしも愛宕さんの髪をもっていました。でもまさか、わたしが本当にみんなの遺髪をご遺族にお持ちする役目を負うことになるなんて……。

 ジャムから帰還したのち、愛宕さんのご主人だったかたに報告を兼ねてお届けにあがりました。前もって戦死公報は送られていたはずですが、愛宕シリーズ特有のやわらかい金髪をお渡しすると、ぎゅうっと握りしめて、わたしの目があるにもかかわらず、その場で男泣きをなさいました。

「こういう日がくるとわかっていたから、ぼくは離婚話を持ち出して、きみに軍を辞めさせようとしたんだ。どうしてわかってくれなかったんだ」

 わたしは慰めの言葉をもちませんでした。お子さんのために生きて帰るはずだった愛宕さんが死んで、母親でもなんでもないただの子供だったわたしが生きて帰れたのはなぜなのか、そのことだけで頭がいっぱいでしたから。

 ……主防御陣地で海歩22連艦隊および独混60海旅と合流して、籠城してからも、わたしたち駆逐艦のすることは大して変わりませんでした。無尽蔵に思える敵の、波のように絶えることのない進攻をただ阻止していました。ときには壕外の陣地で肉弾戦になることも……いくら艦娘といっても弾が尽きればただの子供です。累々たる屍の山が築かれました。おぞましいものです……仲間が深海棲艦に食べられるのは。いまでも敵の駆逐級が骨を噛み砕く音が聞こえるんです。

 死んでから食べられる艦娘は幸せです。いちばんひどいのは、ええ、生きながらあの巨大な顎に咀嚼され、胃に送られてもなお息があった者です。くぐもった悲鳴が聞こえたらそれは敵の体内からの声です。深海棲艦はただの人間は殺すだけで、艦娘だけを食べますから――おそらくは寄生体が目当てなのでしょうが――、弾切れになった親潮ちゃんは、目の前に迫ったハ級に恐れをなして、艤装もなにもかも外して、

「わたしはただの人間よ、だからお願い、食べないで」

 と懇願していました。ひきつった顔で、掌を合わせて、おしっこまで漏らして。わたしから二、三十メートルのところだった。敵がおびただしい群れで殺到してきていますし、すさまじい砲撃で近づくこともままならず……(かすみ)が助けに行こうとしたら、風雲さんが引き止めて、大声で命じました。

「撤退!」

 わたしたちは退くしかありませんでした。でも……本当に逃げるしかなかったのでしょうか。援護射撃を受けながら、だれかが、たとえばわたしが、迅速に親潮ちゃんのもとへ駆けつけ、いっしょに撤退することができたのでは……。

 ビル火災で、炎と煙に巻かれて逃げ場を失った人が窓から飛び降りるということがあるでしょう。どうみても助からない高さなのに。でも、飛び降りた人たちには、地面が実際よりも近くにあるようにみえているそうです。追いつめられて生存本能が剥きだしになっている脳が錯覚を起こすんです。だから助かると勘違いして飛び降りてしまう。それと似たようなことが起きていたのかもしれません。わたしの脳が、ただ自己生存のためだけに、あの子が実際よりも遠くにいるようにみせて、助かりっこないと思わせたのでは……本当はそんなに遠くにいなかったから、霞は救出に行こうとしていたのでは……。

 わたしたちが逃げはじめると、背後から、まわりの空気が氷柱になるような悲鳴があがりました。親潮ちゃんの声です。わたしは反射的に彼女のほうへ振り向いてしまいました。親潮ちゃんは頭から呑み込まれるかたちで、ハ級の口からはみ出た両足をばたばた暴れさせながら、悲鳴ごと顎と歯に砕かれていくところでした。口腔から絞られた血潮がぼたぼたと溢れていました……。何回かハ級が噛むとうめき声にかわり、やがてそれも聞こえなくなりました。

「見ては駄目」

 わたしは襟首を風雲さんにつかまれて命からがら遁走(とんそう)しました。愛宕さんに進死あるのみと偉そうに意見したわたしが。

 ……南の島なので、虫とは切っても切れない関係にありましたね。ある夜、いつものように砲声を子守唄みたいにして仮眠をとっていると、かさかさと障子をこするような乾いた音が耳朶(じだ)を打ちました。隣で寝ていた松風(まつかぜ)さんは昼の戦闘で負傷していました。左目が飛び出ていて、体にいくつも破片が刺さっていたのですが、修復材も枯渇していたので、炙った鋏で視神経を切って、モルヒネを打つことしかできませんでした。音はその松風さんからしていました。目を凝らすと、松風さんからダニやシラミやノミが大挙してわたしのほうに移動してきていたんです。血を吸う虫は体温を目印にします。その虫たちが離れるということは、宿主の体が冷たくなって、寄生する価値がなくなったということです。

 別の日のことです……。わたしはその何日か前から、後頭部のあたりが妙にかゆいとは思っていたのですが、全身シラミだらけですからたいして気にしていませんでした。すると霞が、わたしの掻いているところが蜂の巣みたいにぶつぶつになってるって教えてくれました。自分で撫でててみると、そのぶつぶつが密集しているという部分がたんこぶみたいにちょっと盛り上がってて、熱を持っています。じっくり観察していた霞がため息をついたのがわかりました。蛆にやられてるって。

 そうです。哺乳類の毛穴で育つハエの幼虫に寄生されていたんです。

 ひとつの毛穴に丸々と育った蛆虫が一匹、まるで鼻の角栓みたいにしてひそんでいる……そんな蛆の入った毛穴が、いくつも。

 みんな慣れっこになっていましたから、椰子の実のなかのコプラを絞った油を塗って毛穴を塞いで、息のできなくなった蛆虫が頭をだしてきたところを、ピンセットで一匹一匹引き抜いてもらいました。小さめの芋虫くらいもある蛆虫が十五、六匹もとれました。ぽっかり空いた毛穴が閉じるのが先か、轟沈するのが先かっていうのは、みんながよく口にしていた冗談です。

 わたしも早霜ちゃんや霞の蛆をとってあげたことがあります。早霜ちゃんはわたしとおなじ頭の後ろに、霞は首の後ろあたりに、やっぱりいくつもの毛穴に寄生されてました。蜂の子みたいに毛穴のなかの蛆が蠢いているのがみえるんです、まるできょろきょろしているみたいに。ひとつの毛穴に二匹の蛆虫が入っていたことも。全部摘出しおわると患部が穴だらけでフジツボみたいになっていましたね。わたしたちの敵は深海棲艦だけじゃなかったんです。

 いまでも蛆が首の後ろにいる気がするんです。気がつけば無意識に触って確かめてしまいます。

 いつも虫にたかられていましたから衣服の煮沸は欠かせませんでした。毎日洗濯していました。艦娘ばかりで固まって、ブラウスもスカートも、下着も、ドラム缶に汲んだ沢の水でお湯を沸かして煮てましたね。みんな全身にものすごい数のダニとシラミがついていたから。とくに縫い目にはシラミがびっしりと……。シラミにもいろいろな種類がいるんだってことをジャムで学びました。頭につくもの、衣服につくもの、あそこにつくもの。わたしたちにはそのすべてがいました、図鑑みたいに。服を洗濯がてら茹でたら、死んだ虫が数えきれないくらい浮かんできて、なにも見えなくなってしまうんです。みじめでした。だって、まだティーンエイジャーだったんですから。

 焚き火の灰は髪を洗うのに使いました。石鹸の配給がなかったので。

 真っ黒な髪はわたしの自慢でした。自慢でした……。艦娘学校に入る前、近所の人たちやクラスメイトに、さらさらと音がするよう、とまでいわれたことがあります。いまでは、手ぐしをしようとしても、ほら、指も通らない!

 夜、先任の萩風(はぎかぜ)さんや旗風(はたかぜ)さんたちが、松ぼっくりをカーラーの代わりにして、髪を巻いたりしてました。わたしも誘われて、お気持ちだけいただいて辞退したのですが、興味があることがバレバレだったんでしょうね、なかば強引にお世話されました。櫛で()かしてもらったりして……。

「女の子は、死ぬまで女の子らしくする義務があるんだから」

 それが萩風さんの口癖でした。ジャム島に赴任するまで、いえ、ジャム戦がはじまるまで、わたしはどこかで彼女のその姿勢を惰弱(だじゃく)(ほぞ)を噛んでいました。

 でも、シラミまみれになって、毛穴を蛆にこじ開けられて、髪は泥とフケと虫卵だらけ、本土から増援の見込みもなく、じりじり追いつめられて防戦一方のまま全滅を待つばかり。せめてなにか女の子らしいことをしていないと、頭が変になりそうだったんです。そのときになってやっと萩風さんたちの真意がわかりました。籠城戦は、いつまで耐え忍べば勝ちという成算があるから成り立ちます。期限が決まっていれば頑張る気力も維持できます。しかし32軍の作戦思想は専守持久戦です。いつまで保てばいいというものではありません。全滅するまで可能なかぎり深海棲艦をジャムで足止めするだけなのです。ですからいたずらに戦力を消耗する攻勢は厳に戒められていました。いっそひとおもいに玉砕したほうが気が楽でした。真綿で首を絞められるのをじっと待つようなものですから……。そんな状況では、いっときだけでも現実から目をそらし、女の子らしいことに没頭する以外、恐怖と絶望を追い払うすべはなかったのです。

 わたしが髪をきれいにしてもらっているとき、霞が「髪を切ればいいじゃないの」っていったら、旗風さんが「髪は女の命よ」と自分のことみたいに反論して……わたしも正直なところ、髪は切りたくありませんでした、少なくとも肩より短くは。たとえシラミだらけになっていても。艤装の可動部にまきこまれることがあるので、あまり長くもできなかったけれど、朝潮になったわたしが髪まで失くしたら、わたしがわたしでなくなってしまう気がしたんです。わたしにとって髪はわたしという個を特定する証明書のようなものでした。みんなに褒めてもらった髪……。わたしは軍に忠誠を誓いながら、最後の個を捨て去ることができなかったんです。九つの数字じゃなく、なにかもっと、実際的なものがほしかった……。

 萩風さんたちはほかにも、命令があるまでハンカチに刺繍をしていました。わたしも頼んで輪に入れてもらいました。霞もいっしょに。おかしいでしょう、いまどき小説でも女が刺繍だなんてしないのに……でも、わたしたちは、せめて戦っていないときは、戦地でも女でいたかった。女の子がしそうなことを、子供なりにいっしょうけんめいに想像して、女の子であることを忘れまいと……。


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