栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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十七  シンフォニア・タプカーラ

 神が槌と(のみ)で乱暴に削り出したような荒々しいイドンナップ岳とカムイエクウチカウシ山が馬蹄形につらなる山容を遠望する。元神威らは散開して、競る(狩りをする)山の見切り(下見)を行なうという。元秋津洲は猟犬たちとともに残った。元長波は元神威についていく。

「猟をするにあたり気をつけなければならないのは、不法侵入をしないことです」

 元神威が落ち葉の敷き詰められた峻険な斜面に分け入りながら元長波に話す。

「猟区だからといっても、実際に狩りをするにはその土地の所有者に許可をもらわなければなりません。海との決定的な違いはここですね。日本にはだれのものでもない土地は一平方センチメートルもありませんから」

 あそこに山があるでしょう、と元神威はひとつの翠黛(すいたい)を指さした。

「たとえばあの山は、北側と南側で地主が違うんです。北の地主にだけ許可をもらって、獲物を夢中になって追いかけているうち、南側に入ってトラブルになってしまうということもあります」

「そりゃ面倒だ」

「しかも土地の境目というのが、大きな木など、自然物を目印にしていたりするものですから、よけいに不明瞭なんですね。事前の入念な確認が大切です」

 元神威は息の上がっている元長波を振り返る。狩猟は通常の登山道を使わない。道なき道を踏破していくので未経験者にはつらい道程となる。

「大丈夫ですか」

「ウォーミングアップにはちょうどいいな」

「山歩きは平地とは違う筋肉を使いますからね。あしたは筋肉痛かもしれませんよ」

「三日後くらいにくるだろうね」

「自分で歳だと思わなければまだ若いとはいいますけれど」

「だから問題なんだ」元長波は汗を拭う。「まだ自分を十代だと思ってる」

 ふたりは笑う。

「銃声は大丈夫ですか」

 元神威の本当の気がかりはそれだろうと元長波は思った。

「退役してすぐは大きな音で胃袋がひっくりかえってた。いまはもう平気」元長波は息を整える。「素人のわたしが見学でついてって構わなかったのか?」

「長波さんなら信用できますから」

 期別や所属部隊が違っていても、元艦娘という共通項は、血のつながりや出自と同等か、あるいはそれ以上の強い同胞意識を生むことがある、と元神威は語る。「艦娘だったということは、おなじ訓練を耐え抜いた証明書を持っているようなものですから」

 

 元神威が地面を示す。

「この足跡はエゾシカですね。蹄がじゃんけんのチョキみたいでしょう。蹄の方向がその足跡の持ち主の向かった先を教えてくれます。大きさからしておそらくイヤリング(一歳から二歳)です。でも、あまり新しくないですね。蹴爪の跡がほとんどありません。土が固いとシカの蹴爪は跡がつかないんです。一週間前からきのうの夜まで霖雨がありました。この地面もぬかるんでいます。ですから一週間以上前の足跡だと推測できますね」

 元神威はわずかな手がかりから時間まで遡る。

「足跡の歩幅に注目してください。間隔が狭いでしょう。つまりこの獣道を歩いて通ったということです、走ったのではなく。獣道には、餌を探しに行くもの、縄張りを巡回するためのもの、逃走用のものなど、用途に沿ったものが別々に存在します」

「獣道に生活道路とハイウェイがあるのか」

「巻き狩りでは犬に獲物を追わせますから、わたしたちはそのハイウェイを探して陣取るのです」

 森は平等だと元神威はいう。証拠も情報もそのまま残す。人間も動物もひいきしない。海とおなじだ。海は艦娘も深海棲艦も区別せず呑み込んでいった。

「こちらの足跡には糞がありますね。黒豆みたいな小さな粒がコロコロと集まっているでしょう。糞は貴重な情報源です。そこにも落ちていますね。鮮度はどれもおなじようです。でも大きさがちょっと違う。複数の個体が、まとまった場所、おなじ時間に排泄したということです。複数のぬかるみにあってまだ形状も崩れてない。大きさからアダルト(成体)、三頭程度の小さな群れ、ここを通ってまだ半日も経っておらず、栄養状態も良好。内容物からはこの山に自生するミヤコザサではなくクマイザサの繊維片を多く認められます。ちょうどいまいる山と東の里山はミヤコザサとクマイザサの分布の境界線にあたります。この時期のエゾシカの消化管内平均滞留時間は三十六時間程度。一日半前に食べた、この山には少なく東の山に多い植物を含んだ糞をして、なおかつ排泄とほぼ同時につけられた足跡の向きから考えて、群れが牧草を食べるためにここまで下りてきて、また縄張りのある東に戻っていったようです。目当てのシカに間違いないですね」

 スパイクつきの長靴を履き、髪と猟装が泥で汚れるのもかまわず山林の地面を検分するその姿からは、かつて艦娘だったという彼女の経歴など想像もつかない。

「大事なのは、クマの痕跡がないかどうかです。どの木にもクマの縄張りは刻まれていませんし、糞もない。東の里山の見切りをしている瑞穂さんの報告次第ですが、間違いないと思います」

「あの秋津洲なら、“大丈夫、かも!”っていったりしてな」

「艦娘だったころ、BDA(爆撃効果評価)で誤認をしてしまったことがあるそうで。そのせいでだれかが命を落としたということはありませんでしたし、秋津洲ちゃん自身も笑い話にしていますが、誤認以来、どれだけ確度を高めても断言するのが怖くなったみたいなんです。退役したいまでも口癖に」

 元長波と一緒になって北海道の風のように笑っていた元神威だが、不意に真剣な顔になる。

「それでも山は楽です。海ではどんな恐ろしい敵がいても、波が痕跡のすべてを消してしまうのですから」

 見切りを終えてふたたび集まる。元速吸と元大鯨は見切りを担当した山がカラ山(獲物がいない山)である旨を報告した。索敵は敵を探すというよりは敵がいないことを確かめる作業であるともいえる。獲物はいないがクマもいないという事実もまた重要な情報だった。

「シカの新しい足跡と糞をいくつか発見しました。逃走用の獣道も」

 元瑞穂が地図を元神威に渡す。赤ペンで複数の印と線がつけてある。

「幹に乾いた泥が付着した木や、ヌタ場もございました」

 ヌタ場とは、シカが体表のダニを落とすための泥浴びをする場所だ。泥まみれになったシカはしばしば木に体をこすりつけて掻痒(そうよう)する。

「決まりですね」

 猟長でもある元神威が競る山を定めた。エゾシカは昼夜を問わず数時間ごとに休息と採餌を繰り返す。すぐに包囲する必要があった。シガキ(射手)の元神威、元瑞穂、元速吸、元大鯨が獣道を囲むように配置について実包を装填する。

「じゃあ秋津洲ちゃん、勢子(セゴ)をお願い」

 見切りを四人に任せて待機していた元秋津洲が勢子(追い立てる役。狩りに猟犬を使う場合はその指揮を執る)となって三頭の猟犬を放つ。「Go!」

 山に分け入った犬たちは、ものの数分で獲物をみつけたらしく、ポインター役のカタリナがけたたましく吠え、ハウンド役のちはやが追跡、ベテラン犬のタイテイがすこし離れたところから状況を見定めて二頭をバックアップする。

 追い立てられたシカは本能にしたがった。通り慣れた獣道を駆け抜ける。ひきしまった体躯、伸びやかな四肢、全身に詰められた火薬が爆発する躍動。出し惜しみのない生命の乱費。猟犬たちよりも優速のエゾシカは林立する樹木のあいだを自在に縫って勇躍した。生まれ育った山が守ってくれるはずだった。

「一頭は林道付近を西に移動中。速吸ちゃんと接敵するかも」

 犬たちを指揮する元秋津洲が無線で情報を飛ばす。元速吸がライフルを構える。目の前、わずか三十メートルの距離をシカが横切ろうと現れたのはその直後だった。

 銃声が雷鼓のごとくはためいた。シカは急所である前肢と背骨の交点を撃ち抜かれた。転がるように倒れる。なおも逃走を図ろうと立ち上がり、ふたたび崩れ落ちてもがいていたが、やがて動かなくなった。閉じるでもなく見開くでもないまぶたから覗く深い目は、もうなにも映さない。

 元長波は両耳をてのひらで押さえたまま息をひそめていたが、元神威がライフルの銃床を肩に押し付ける気配で銃口の先を覗きみた。「神威さん、そっち行ったかも」無線の声。犬の吠え声も近くなってくる。荒れ山だった。茂みが山を支配していた。木々のあいだを埋め尽くす茂みが揺れる。元神威は矢先を向けたまま撃たない。茂みはすぐに沈黙を取り戻した。元神威が息を小さく吐く。森の奥から空気を叩き割るような銃声が響いた。元長波の心臓が跳ねあがる。胃液がせりあがる。大丈夫。おちつけ。元長波は自分をなだめる。

「かっこいいところをみせたかったのに」

 撃ち損ねた元神威は舌をだして脱包した。

 猟果はエゾシカ三頭だった。体高はどれもおよそ一五〇センチ。角の枝が四段だから四歳以上だとわかる。

「きれいに仕留められましたね。さすがです」元瑞穂がいう。

「神威さんがいい配置を指示してくれたのと、ワンちゃんたちがうまく追い詰めてくれたおかげですよ」元速吸が照れる。互いにねぎらいながら獲物を軽トラックの荷台に乗せていく。元長波は不思議そうに眺めている。ひと仕事終えたあと駆逐艦娘なら軽口を叩く。「冗談だろう、生きてたのか? 敵も役立たずだな」「おまえがいるってことは、まだ生きてるな。わたしは天国行きでおまえは地獄行きだから、死後の世界ならおまえがここにいるはずがない」。軽口は精神の均衡を保つための知恵だった。きっと元駆逐艦娘が元神威たちだったら、こういい合っているだろう。「うまいもんだろ?」「ああ。おまえの旦那よりは命中率がいい。毎晩空砲でも撃ってんのか」。戦闘を仕事とする駆逐艦娘と、補助的な任務に従事する特務艦娘たちとは、先任から受け継ぐ文化が違うのかもしれない。

「最後に撃ったのはどなたですか?」

「瑞穂です」

 元神威に元瑞穂が手を挙げる。

「瑞穂さんの前へ行ったということは、やっぱりあのガサガサはシカだったんですね。見えなかったから撃たなかったの」

 シカを元大鯨とふたりがかりで荷台から下ろしながら元神威が苦笑いする。元長波も揺れていた茂みを思い出す。

「ガサドン事故は怖いですからね。賢明な判断かと」

 シカの前肢をつかむ元大鯨がいった。

「ガサドン事故?」

「茂みから音がしたのを獲物だと思って、ハンター仲間や登山とかに来た一般人を撃っちゃう事故のことだよ。けっこう多いの。銃による狩猟で年間二、三人が亡くなってて、けが人はその何十倍もいるんだけど、原因の半数はガサドン事故」

 元長波に元秋津洲が答える。

「ですから、獲物の姿をはっきり視認するまでは、絶対に撃ってはいけないんです」

 一升瓶の清酒を持ってきた元速吸が付け加える。艦娘もまたIFF(敵味方識別装置)などフリートロニクスの発達と配備が進むまでは誤射に悩まされた。ある夜戦では被弾した艦娘のうち八割は友軍からの誤射によるものだった。人間はチャンスが目の前に転がってくると、安全を確かめるよりも、獲物を取り逃がしたくない心理が働くらしい。

「本当は目視できる経路をシカが通ると想定してたんですけど、まだまだですね。シカに遊ばれてる」

 元神威は元大鯨と協力して最後の獲物を下ろしながら正直に告白した。だれもがそんな元神威に信を置いているのだと元長波は感じた。

 元瑞穂はトラックから下ろされて横たわる三頭のシカに(さかき)を置いていく。全員が黙祷したのち、清酒を御神酒として口に含んで吐く。「長波さんはお車じゃありませんから、お飲みになってもけっこうですよ」元速吸が勧めるが、元長波も彼女たちに倣って含むだけにとどめる。

「獲物は山の恵み。だから感謝の意をささげることが大切だって猟友会の人たちに教わったの。だから解体する前にはかならず黙祷を」

 元秋津洲が解説した。

「一種の儀式なんです、殺生を当然のことにしないための。命をいただくことは特別なことだと思い出すための」元神威がシカの一頭をデッキブラシで洗って泥を落としながら複雑な顔でいう。「でもわたしたちは、あの戦争で死というものに慣れすぎた。わたし自身が沈めた深海棲艦はけっして多くはありませんが、わたしが偵察機で発見した敵を僚艦のかたが撃沈したり、手紙で連絡をとりあっていた同期からの返事がこなくなったかと思えば、別の同期からその子の轟沈を知らされたり。だからいまさら動物を殺しても、とくになんとも思いません」

 以前、元神威たちの駆除隊に参加を希望したハンターがいた。若い男性だった。狩猟免許をとり、銃の所持許可をとり、地域の狩猟許可証をとったばかりの新人で、出猟もはじめてだったらしい。いきなり実戦で射撃させるよりはと、罠にかかった獲物のとどめを刺させることにした。檻のような箱罠に閉じ込められた獲物が相手なら練習にぴったりだと思った。ちょうどそのとき箱罠には子供のイノシシが捕らえられていた。

「魚はあんまり小さいと逃がすが、イノシシは子供でもやっちゃうのか?」

 元長波はガットナイフでシカの腹の皮を縦に切っていく元神威に問いかける。内臓、とくに大腸を傷つけると糞便が肉に付着して臭くなり、病原性大腸菌の感染リスクも高まるため台無しになってしまう。元神威の手際は鮮やかだった。

「罠にかかった獲物を逃がすとスマートディアになって、もう二度とおなじ罠にはかかりません。かわいそうだと放してやって、そのイノシシが田畑を荒らすようになったら、相当にやっかいな相手になります」

賢いシカ(Smart Deer)?」

「シカは狩りの獲物の代名詞ですから、人間が使う捕獲方法を学び、対策を講じるようになった動物は、スマートディアと呼ばれます」

 

 戦争前半における駆逐艦娘の月間損耗率は一〇〇パーセントに近かった。一ヶ月で駆逐隊の編成が総入れ替えになった。駆逐艦娘は配属された瞬間から平均寿命が半月となり、一ヶ月後には全員が轟沈していた。

 黎明期から中期までは艦娘という史上前例をみない兵種の扱いを用兵側も理解できていたとはいいがたく、有効に運用してなおかつ生還させる技術もノウハウも皆無だった。深海棲艦という正体不明の敵にパラダイムシフトを余儀なくされ、その能力の一部を人間に移植した艦娘をどう運用すべきか、だれにも答えが出せないまま適切とはいえない編成で出撃させなければならないことも多々あった。艦種ごとの分業も徹底されていなかった。対潜兵装をもたない戦艦や正規空母が潜水艦を狙うといった珍事もたびたび発生していたほどである。大海原で遭難した艦娘の捜索救難態勢も不十分だった。これらの複合的要因が致死率を高めていたのである。

 月間損耗率一〇〇パーセントを生き延びる艦娘もごくまれに存在した。最初の一ヶ月を生き延びた艦娘は逆に生存率が飛躍的に高くなり、すさまじいスコアを稼ぐようになった。

 実戦配備された最初の文月(ふみづき)である302-070001はその好例だろう。元長波も一度だけおなじ艦隊に配属されたことがあった。建造(人間を艦娘にすること)の初歩である寄生生物適合手術でさえ技術不足ゆえ多くの艦娘候補が生きながら内臓を溶解される時代、まして事実上の特攻以外に戦術が存在しなかった時代にあって、戦場に立ったはじめての文月シリーズであり、戦争経験者としては現在も存命である唯一の文月シリーズ。白い壁と白い塀に囲まれて余生を過ごしているというあの文月も、一種のスマートディアなのだろうか。

 時代が下ると運用方法も確立され、GPSが使えるようになり、コンバットレスキュー体制も充実したこともあって、駆逐艦娘の致死率は有意に低下していった。それでも配備後一ヶ月の生存率は依然高いままであり、それを越えるとやはり致死率が劇的に下がると統計が証明しているため、新造艦はまず演習で最初の十ソーティーをこなすなど、艦娘をなるべく死なせないよう、あまたの犠牲から得られた戦訓をもとにしたさまざまな工夫がこらされることとなった。

 わたしは恵まれた時代を生きたんだ、あの文月と違って。わたしはスマートじゃない。元長波は自分と、世間がいうところの英雄とを同一視しないよう心がけている。

 

「だから今回も三頭全部ハントしたのか。逃がすと犬を使った狩りを学習されるから。もっといえば、こちらの頭数で全部射殺できる規模の群れしか最初から狙わなかったのか」

 元長波が感心してみせると、シカの腹を流れるように裂いている元神威がわが意を得たりと微笑を浮かべる。

「全滅がむずかしいようなら、一発も撃たないどころか、犬もださない。スマートディアをつくらないことがわたしたちの目標です」

 その鉄則にしたがい、罠にかかってしまった、抱きかかえられるほどしかない子イノシシも殺さねばならなかった。散弾銃を檻に突っ込んだまま保持して、なかで暴れ回っているイノシシの頭が射線に入った瞬間に引き金を引けと、若いハンターに指導した。イノシシは変わらず奇怪な悲鳴をあげ突破口を探して暴れる。運命にあらがう。照星と子イノシシの首の付け根が重なった。彼は一撃で頭を撃ち抜いた。せわしなく右往左往していたイノシシは電池が切れたように昏倒した。感電しているような痙攣。スラグ弾の命中した箇所から溢れだした鮮血が地面を赤く染めていく。それまで念願の狩猟に興奮していた若いハンターは、打って変わって無口になり、肉の分け前も受け取らず、思い詰めた顔のまま帰った。去り際に元神威にこう呟いた。「生きているって、特別なことじゃないんですね」。以降、狩猟には二度と参加しなくなったという。

「きっと彼は、狩猟に、ある種の憧れを抱いていたんだと思います。大自然を舞台に繰り広げられる野生動物との息詰まる駆け引き。間違ってはいませんが、最終的にはわたしたちとおなじ赤い血を流す生き物の命を奪うことです。さっきまで生きて動いていた動物が自分の手でただの肉になった。彼はそれを理解したくなかった。命が指一本曲げただけで簡単に失われる、なら命とはなにか、撃つ前と撃ったあと、生きているときと死んだあと、おなじ肉体なのに、いったいなにが違うのか。命とはしょせん脳による電気信号で肉体が統率されているだけなのか。なら自分も? 家族も? 恋人も? みんな生きていると勘違いしているだけで、死体と変わらない組成の肉体を脳が騙して動かしているにすぎないのか……。生きていることがあまりにむなしく思えたんでしょうね。かわいそうなことをしました」

 肋骨を開いてあらわとなったシカの臓物が湯気をあげる。この高い体温が肉質を劣化させる。元神威らは助け合いながら三頭のシカを手早く捌いていく。食道と気管を断ち、直腸を縛ってから、内臓をひとまとめに摘出する。四つの胃。ソラマメのようなかたちの腎臓。赤紫の巨大な肝臓。青白い腸管。肺に横隔膜。そして心臓。

「わたしたちはみんな首をかしげました。害獣の命を奪う程度のことで気に病む理由が理解できなかったからです。たとえ獲物の殺生を自分にまで拡大して考えたからだとしても、生き物は死ぬまでは生きているし死ねば死ぬなどということは、わかりきったことでした」と元速吸がいう。

「戦時中は戦地でなくとも死が隣人だった。どこそこの娘さんが戦死したらしい、あの家はお母さんも艦娘として出征してるのにって。世間話にだれかの死が自然に陳列されてた。わたしたちが生きてたのはそういう時代だった」

 元神威が網目模様のびっしり入った蜘蛛の巣のような腸管膜を密閉式のビニール袋に詰めるのを見学しながら元長波は述懐する。シカでもっとも美味な部位だと元神威は片目を瞑ってみせる。

「でも、彼のような反応がむしろふつうなんじゃないかって思って」元大鯨が山のような臓器をシカの腹から取り出しながらいった。湯気をまとった臓物は煮えているかのようだった。「わたしたちのように、なにも感じないほうが異常なのかもしれない、そう考えると、すこしショックでした。退役して、ふつうの暮らしをしていたつもりなのに、メッキが剥げちゃった気がしたんです」

「ですから、獲物を殺めることを建前だけでも特別視しなければならないと思い、どれだけ時間が惜しくても、感謝の儀だけは入念に行なわさせていただいています」

 元瑞穂も慣れた手つきで大型のシカを捌きながら引き取る。

「人間は演じているうちにそのとおりの人間になるものです。艦名を与えられて艦娘として振る舞っているうちに、本当に艦娘らしくなる。人見知りしていた女の子でも武蔵を拝命して一年もすれば堂々とした風格になります。それとおなじで、獲物の命を奪うことに複雑な感情を抱き、山と獲物に感謝をささげるポーズをしつづけていれば、わたしたちも生き物の死に敏感な、普通の神経をもった、普通の人間に戻れるんじゃないかと」

 元神威は内臓が抜かれて腹腔が伽藍となったシカの脚にロープをスリップノットで結びながらあきらめたように笑う。

「大変です。心まで陸に戻るのは」

 ロープの逆端は杭にトラッカーズヒッチでつないである。海軍出なのでロープワークはお手の物だった。ロープにつないだシカを川に沈める。冷やすためだ。

「冷却しないとお肉が臭くなりますからね」

「血抜きだけじゃ駄目なのか」

「臭みの原因は血じゃないよ」

 元秋津洲が解体を担当しているシカを示す。

「飲んでみるとわかるかも」

「血を? 飲めるの?」

 勧められるまま、シカのまだ温かい体内にたまっている血液を手で掬い、深雪の幻影を振り払い、またその葛藤をおくびにも出さず、ひと口啜る。喉を過ぎて一拍。元長波の顔に驚愕がひらめく。

「甘いな。砂糖で煮詰めたみたいだ。これがシカの血か」

 人間の血とはまるで違う、とはいわない。血まみれの口許をぬぐいながらシカのしなやかで強靭な筋肉に目を動かす。

「そうか、瞬発力と持続力の両方を兼ね備えるため、シカの血液は血糖値が非常に高いんじゃないか?」

「だから血液は腐敗しやすいの。恒温動物の血は無菌だけど、銃で狩るとどうしても傷に土を巻き込んじゃうでしょ、それで雑菌もいっしょに入ってきちゃう。生きているシカの体温は四十度。死ぬと徐々に体温が下がってって、三十五度付近で雑菌がものすごいスピードで増殖しはじめる。雑菌に血液が分解されて、腐敗ガスが貯まって、その臭いがお肉に移ると、血なまぐさい味って奴になるわけ」元秋津洲が元速吸と協力しながらシカを冷水の流れに放り込む。「だからこうして急いで冷やして、雑菌がいちばん殖えやすい生ぬるい温度帯をちゃちゃーっと通り越させるの」

「そういえば、むかし、レーベレヒト・マースにBlutwurst(ブラッドソーセージ)を食わせてもらったことがあった。クセはあったが美味かったし、臭くもなかった。血そのものには匂いはないんだな。尿も出したては無菌だから臭くないが、空気中の微生物が分解してアンモニアになるせいで臭うようになるってのとおなじか」

 元長波は感心する。ジャムの洞窟で自分の尿を飲んでしのいだことはいわない。

「もちろん腐敗は血液からはじまりますから、血抜きは無駄ではありません。でもどうしても傷口から遠い血管の血は残ってしまいますから、体温を下げてやったほうが効果はずっと高いんです」

 元神威が補足する。あとは川がシカの肉を微生物が増殖しにくい低温にまで冷やしてくれる。都合よく水場があることに元長波は気づく。元神威は冷却できる場所が近くにあることも加味して競る山を見定めている。

 

 昼を挟んでふたたび山に入る。腰まであるくさむらをかきわけ、わずかな気配にも神経を研ぎ澄ませる。

「匂いますね」

 元神威がささやく。

「この時期のオスジカは精液を漏らしながら歩き回るんです。その匂いがするということは、相手が風上に来てる」

 元長波は唾で濡らした指をかざす。北からの緩やかな至軽風。空気の匂いを嗅いでみる。鬱蒼と繁茂する木とササの青い匂いしかしない。パン屋の前を通るといい匂いがするが、パンを食べたことのない人間にはなんの匂いも感じられないという。自分は情報を受信するためのチューニングが合っていないのだろうと元長波は納得する。

「今回は犬を使いません。完全にストーキングになります」

 元神威が秋津洲に無線で指示する。「秋津洲ちゃん、ゲットバックコマンドをだして」猟犬はゲットバックコマンドを指令されるとただちに勢子のもとへ帰るよう訓練されている。

「犬の力を借りて炙り出さなければならない場合は頼りますが、それ以外では忍び寄って狙撃します。基本は、ファーストルック、ファーストシュート、ファーストキルです」

 敵より先に敵をみつけ、先に撃ち、先に殺す。対深海棲艦とおなじだ。

「シカ臭いですね」

 群れに近づいたことを感じ取った元神威が、頭に叩き込んである地形からシカたちの現在地を割り出し、シガキたちに配置を伝えていく。元速吸、元瑞穂、元大鯨が静音で移動する。

 慎重に歩みを進めていた元神威が右手で制止する。元長波も立ち止まった。耳を澄ませる。

 耳のいとまが続いた。無音がうるさかった。森の上空を航過していくオオワシの羽ばたきすら明瞭に捉えられる。元神威は堂々旋回する巨翼を無心に眺めている。指をさして元長波に教える。「カパッチリカムイ」遠い祖先が畏敬の念を込めた猛禽の名をささやく。「冬になればコンルエタヤンで羽を休める姿をみることもできますよ。朝陽をバックにしてたりすると、とても神々しいんです」純白の流氷が凍てつく海につくる氷原を元神威の先祖たちはコンルエタヤンと呼んだ。獲物とはまったく関係ない動物をみつめて思いを巡らせる。殺気を消すために編み出され受け継がれてきたアイヌの知恵だ。

 また下生えを分けて進むと、おもむろに元神威が元長波に振り向いて、無表情で前方を指さす。元長波は元神威の隣に移って雑木のはざまから目をこらす。

 前方は植生の密度がやや低い場所になっていた。戦時中、北の魔女とあだ名された北方水姫ひきいる戦艦戦隊の領海侵入を許したさい、敵砲弾がいくつか新冠にも飛来、弾着した。その痕だという。窪地は敵の巨弾にえぐられてできたものだ。なぎ倒された樹木もある。かつて村があったのか、目をこらせばあばら家も散在していることもみてとれた。それらも雑草や蘚苔類の緑は分け隔てなく覆っているため一見しただけでは流れ弾による被害があったとはわからない。戦争の惨禍も自然は長い時間のなかで優しく癒して風化させてくれる。

 元長波が羨望を抱いていると、その視線が固定された。

 砲撃痕付近に小さな褐色の影が揺れる。エゾシカだ。四頭。好物のササを食みながら、元長波たちからみて左の方向へゆっくり進んでいる。牧歌的な光景そのものだった。交代で一頭があたりを見張っているが、包囲網には気づいていない。

「ちょうどいいですね。ひとり一頭、一射で仕留めます」

 実包を装填した元神威が狙うべき標的を小声で無線連絡する。狙撃は同時。全員が射撃完了となるタイミングを見計らう。

 遠いなあ。スコープを覗く元神威がうめく。元長波も測距してみる。ヒッチハイクをするように右手の親指を立てる。シカは親指の爪の半分ほどの大きさだった。

 元長波がまっすぐに前方へ腕を伸ばせば、目から親指までの距離は六十五センチ。親指の長さは六センチで、指先から第一関節は三センチ、自由縁(爪の白い部分)を除いた爪の長さは一・五センチだ。爪の半分なら体高一五〇センチのシカの見かけ上の大きさは〇・七五センチということになる。つまり一五〇/〇・七五で、縮尺は二〇〇倍。

 元長波の腕の長さは六十五センチなので、六十五×二〇〇で一万三〇〇〇センチ、すなわちシカとの距離は一三〇メートルと算出できる。

 元長波は元神威とおなじ感想を抱いた。砲戦なら通例で数百メートル、ときにはキロメートル級の距離を挟んで展開されるが、砲弾は弾片で加害半径を形成するから、かならずしも直撃させる必要はなかった。渺漠たる大海では逃げ場がないため、こちらの位置が暴露してでもとりあえず試射を敢行し、弾着を修正していたのである。

 だがライフルでの狩猟では直撃しか許されない。しかも、と元長波はシカの周囲を見わたす。海と違って一秒でも走れば木々やくさむらといった遮蔽物に隠れてしまう。おまけに撃った部位が悪ければとれる肉も減る。試射もなく、初弾を急所に命中させなければならない。五十メートルでも遠い。

「こちら大鯨、いつでもいけます」

 元大鯨をはじめ、元速吸、元瑞穂も射点を確保したと連絡してくる。元神威からシカたちはまだ一〇〇メートル以上ある。

 シカたちは緩慢ながら移動していく。

「こちら速吸、目標が木陰に隠れます」

 元速吸からの角度では狙撃が不可能になりつつあった。ひとりでも撃てなくなれば四頭とも見逃さねばならない。

「合図で撃ってください」

 元神威の即断に元長波は動揺を抑えかねた。シカは米粒のようだ。元神威がカウントダウンしていく。小さく、しかし力強く号令する。「てェ!」

 落雷のような発砲音が陰森と空を引き裂いた。元長波は両耳をふさいでいたが頭蓋と脳を貫かれるようだった。時間差で三発の銃声がこだまする。叫びたくなるのを我慢する。おまえは動じたりしないはずだと自分に言い聞かせる。

 固く閉じていたまぶたをほどくように開くと、四頭のシカはいずれも横に倒れ、泳ぐように四肢を踊らせていた。

「見事なもんだ」

 元長波が衷心から讃えると、元神威は安堵の息を漏らした。シカはもう動いていない。

 

 シカたちはいずれも首と胴体の付け根付近を撃たれてほぼ即死だった。射距離がもっとも遠かったのは元神威だが、もっとも急所近くに命中させていたのも、また元神威だった。

「きっと極上の味になりますね」

 捌きながら元大鯨がいった。

 追いかけて疲労したシカを緊張状態のまま殺すより、リラックスしているところを即死させるほうが肉はやわらかく美味になるという。

 三十分で内臓を抜いて冷却しているあいだ、午前中の獲物を軽トラックに乗せる。枝肉でも重さ一〇〇キロ内外もあるためふたりがかりでないと移動もできない。

「退役するときにパワードスーツだけでも貰っとけばよかったかもって、このときは毎回思ってるよ」

 息を切らせた元秋津洲が元長波に苦笑した。

「楽だったもんな、山のように荷物背負えたし」

「秋津洲の艤装は五十キロくらいだったけど、駆逐艦だとどれくらいになるの?」

「睦月型で、基本装備に燃料と弾薬を積んだ満載状態で七十キロ、重武装の夕雲型なら九十キロだったな。それでも軽いほうだよ。戦艦の艤装なら軽荷状態でも二〇〇キロはある。たしか大和型で三二五キロだったか。これに拡張装備や各種装具のほか、修理用部品がだいたい三十から五十品目で、自力修理用の工具が駆逐艦なら二十種類、戦艦で三十種類、空母なら一五〇種類」

 元長波は指を折りながら思い出していく。

「着替えとか飲料水とか携帯口糧、簡易医療キット、オムツに生理用品、携帯消火器、記録用のデジタルカメラ……ああこれは録画可能な義眼ができてからは携行してないんだっけ……ほかにはガスマスクに、自分の砲撃や至近弾の衝撃で舌を噛まないためのマウスピースとその予備、信号旗、対空布板、本体と艤装の神経接続用コネクタの予備、万一の遭難に備えてサバイバルナイフだのテグスだの、真水精製キットだの円匙だの塩だの、作戦によってはNBCキット、基地航空隊にターゲットを指示するレーザー・デジグネータ、携帯バーナーにテント一式、寒冷地なら極寒地用装備、気温の高い地域ならマイクロクライメイト・クーリング・システム一式などなど、OSM(On Ship Material)(艦載装備品)はいくらでも重くなっちゃうからな」

 戦闘職である駆逐艦娘の携行装備品の多種多様さに、元神威たちが目を回す。艤装とOSMをあわせた総重量は駆逐艦娘でも二五〇キロに達する。強化外骨格がなければ立ち上がることすらできない。

「ただでさえ重いってのに、アップデートのたびに増槽とかスーパーバード衛星通信アンテナとかの外装品を足していくもんだからさ、block60あたりじゃゴテゴテしまくってみっともない肥満体みたいになってた。神風型や睦月型のすっきりした艤装がうらやましいって、みんなぼやいてたよ」

 それだけ初期型の艤装は拡張性に乏しいということでもある。

 捕殺した獲物の肉はジビエ専門の食肉処理施設へ持ち込むという。

「すぐにはバラさないんだな」

「死後硬直の前に骨を外すと、お肉が縮みすぎて肉汁が抜けちゃうんです」

 元速吸が柔和な笑顔で応じる。

「ですので、死後硬直が解ける死後二十時間以降に、お肉と骨を分離して精肉にするのが望ましいとされています」

「狩猟ってのは新鮮な肉が手に入るのが醍醐味なのかと思ってたけど、一日放っておくもんなのか」

「食べ物は新鮮であればあるほどよいと考えられがちですが、お肉に関しましてはそういいきれないんです。獲りたてのお肉は固くて味もよくないですし」

 筋肉と食肉は似て非なるものだ、と元速吸はいう。

「まず動物を屠殺しますよね。放血や内臓摘出ののち、冷却し、皮を剥いで、枝肉にカットして、熟成させ、つぎに部分肉にカットし、最後に精肉としてカットします。これでようやくお店に並ぶことになりますね。ですから、一般にわたしたちが買えるお肉は、おおむね一週間以上前に屠殺されたものということになります」

 単に味の問題だけではなく、安全性も重要だ。家畜は飼育から屠殺、処理まで設備や手順が法律により厳しく定められ、病原菌の汚染リスクを極限まで抑えている。ジビエの場合は元が野生動物であるため、食肉に病原菌が付着しないようハンターが自分で管理しなければならない。美味しく食べるためには熟成が必須だが処理に不手際があると腐敗する。汚染された肉は器具やキッチンを微生物で二次汚染してしまう。肉によく火を通せばいいという問題ではない。

「捕殺したその場で内臓を抜くのは、病原菌やウイルスを保有している可能性の高い消化器官を、運搬手段や処理施設に持ち込まないためという理由もあるんです」

「中抜きは衛生面の上でも大切だったんだな」

 午後のシカも回収して山を下りる。処理施設はふもとのそばにあった。古民家を改造したものらしい。

「ここのオーナー、神威さんなんですよ」

 元速吸にいわれて元長波が仰天する。元神威が心なしか誇らしげに案内する。

「捕殺したゲームミート(狩猟で得た獣肉)はここで熟成させています」

 低温に保たれた熟成庫にシカやイノシシの枝肉、首を吊られたカモが整然と並ぶ。照明を工夫すればカルト教団のアジトのように演出できそうだ、と元長波は思った。扇風機の冷風が枝肉を乾燥させている。熟成が進んだ肉は表面が黒ずんでいるが、悪臭はなく、むしろ庫内はナッツのようなまろやかな香りで満たされていた。

 肉は熟成させてはじめて食肉になる。熟成とは、枝肉を冷暗所に数日から数週間安置して、筋肉のタンパク質をうまみ成分のアミノ酸に変化させることだ。牛肉なら四十日の熟成を経るとアミノ酸が五倍以上に増え、繊維がほぐれて、八割の力で噛みきれるようになる、と元神威は話す。

「ジビエの肉を熟成させることをフザンタージュといいます」

「フランス語か」

「直訳すると、(フザン)の熟成、となります。もともとフランスでは狩猟で得た雉を腐る寸前まで吊るしておいたことから、現在ではジビエの熟成を意味するそうです」

 現役時代に交流のあったコマンダン・テストさんからの受け売りなんですけど、と元神威は小さく笑みをこぼした。

「なんでジビエ限定なんだ?」

「畜産肉はただうまみを増やすだけですが、ジビエの場合はその動物ごとの個性を引き出すからです」

 雉には雉の、シカにはシカの、イノシシにはイノシシの風味があり、しかも個体差がある。牛や豚は親の代から完璧に管理された環境で全頭がおなじ餌を食べて育つから風味も画一化されている。おなじスーパーマーケットに並んでいるおなじ商品名の牛肉が、パックごとに味が違うなどということはない。

「ジビエは野生動物ですから、個体ごとに歩んできた歴史が違います。どんな親から生まれたか、性別、なにをどれだけ食べて育ったか、どんな敵と戦ってきたか。狩った季節は、年齢は、どんな狩り方をしたか、捕殺から解体、冷却までの時間は、手際は。枝肉になるまでのあらゆる条件が個体によって異なってきますし、どんなお料理に仕上げたいかによっても、適した熟成の方法が変わってきますから」

 カモをフザンタージュさせている一角を指す。よくみると羽毛をむしられているものとそのままのものが混在していることに気づく。

 動物の本来もつ個性を引き出したいなら放血せず内臓を抜かず毛も剥がないままフザンタージュして野性味を肉に移す。ただし個性とはクセそのものだ。強いクセを活かせる料理の知識と技術がなければただの臭い肉になる。

「野生動物の肉は臭いって話を聞くが、そりゃつまりフザンタージュの方針が間違ってるとか、そもそも中抜きとか冷却とかの下処理がへたくそだったとかいうのが原因なのか」

 まさにそのとおりだと元神威は力強く頷いた。

「カモのような雑食だと、木の実など草食を好む個体の肉は風味が上品で、貝や魚をよく食べている個体は生臭くなる傾向にあります。このように個体の食性によって変化する風味をテロワールといいます。ワインではしばしば聞く言葉だと思います。アビエ(下処理)をするさいに消化器系の内容物からなにを食べていたか調べることも、屠体を処理する猟師の重要な仕事です」

「ジビエでお目当ての料理をつくろうとすると、それに合うようなテロワールの個体をしかるべき方法でフザンタージュさせた食材を選ばなきゃいけないわけか。よくいえば奥が深いが、悪くいえば、めんどくさいな」

「そこに、わたしは目をつけたんです」

 元神威は吊られている一羽のカモを手に取った。

「これは秋津洲ちゃんが狩ったものです。長波さんがいらっしゃると聞いて、一週間フザンタージュしておきました」

 元神威がいうと元秋津洲が胸を張って鼻を鳴らす。元長波は元秋津洲に人差し指を突きつけて笑みを浮かべる。元神威はキッチンに立つ。

「では、このカルガモでいまのわたしたちのお仕事を説明いたします」

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