栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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十八  ラプソディア・シャアンルルー

 元神威が首を切断したカルガモの羽毛をむしり、残った産毛もバーナーで焼く。

 鳥の肉は部位ごとに筋膜におおわれたブロックになっているので、筋や関節に刃を入れるだけで簡単に解体できる。艤装を分解するようにもも肉、胸肉、手羽とたやすく分離していく。胸肉からさらにささみを切り離す。ほかの肉からも丁寧に骨を抜く。

「カモといえば胸肉ですが、軽くソテーしてみましょう」

 塩とこしょうを振り、サラダ油とフライパンで皮から焼いていく。黄金色に焼けたらいったん休ませて余熱で内部まで火を通す。まだカットしない。肉が休まる前に切ると肉汁が流れ出てしまう。

 休ませている間にソースを用意する。ベースとなるフォンの鍋を元大鯨が引っ張り出す。二日前に別のカモを捌いたときに仕込んだものだ。にんにくを炒めて油に香りを移し、カモの首や骨、くず肉といったガラを投入して、焼き目がついたら水とローリエを加えて、消える直前というくらいの弱火でとろとろと煮出していく。強火だと雑味が出るという。そうして二日煮込んで丹念に灰汁を取り除いた上澄みが、黄金に輝く出汁となる。

「カモのガラからとったフォンなので、フォン・ド・カナールといいます。子牛の骨からとるとフォン・ド・ヴォーになりますね」元大鯨が解説する。

 元神威が別のフライパンにワインヴィネガーとグラニュー糖を入れて強熱する。水飴のような粘りけを帯び、茶色く色づいて煙が出はじめたら水を勢いよく加えてさらに煮詰める。割合はグラニュー糖十・ヴィネガー二・水五。全体が濃いカラメル色になったらガストリックができあがる。

「ガストリックそのものはどんなお料理の隠し味にも使える万能調味料です。フォンと違ってすぐつくれますし、冷蔵庫なら二週間くらいもちますのでつくり置きしてもいいですね」焦がしすぎないように木べらで混ぜながら元神威がいう。

「どんな料理でも?」

「ステーキのソースですとか、カレー、シチュー、お鍋、おうどん、ほかにはアイスクリームにかけたりとか。小さじ一杯で深いコクと複雑な味わいが出ます」

 今回はガストリックにオレンジジュース五〇〇CCを入れて溶かすように煮詰め、嵩が半分くらいになったらフォン・ド・カナールを加えてまた煮詰める。

 同時に、元秋津洲はカモの胸をソテーした油の残ったフライパンで、ニンジンとタマネギのミルポワ(さいの目切り)を炒める。野菜がしんなりしたあたりで油を切る。ミルポワのフライパンへ、元神威が煮詰めたソースを注ぎ込み、さらに火を入れる。

 煮込み終わったら、ソースをシノワ(濾し器)でパッセ(濾す)して、水溶きコーンスターチで粘度を足し、塩こしょうで味を整え、レモン汁四分の一個ぶんと、グランマニエ(フランスのオレンジリキュール)で風味をつける。最後にひとかけらのバターでモンテして艶とコクを与えれば、フォンとガストリックと柑橘の果汁からなるオレンジソースの完成だ。

 カモ肉を切り分ける。しっとりと初恋の色に染まった断面。「まず、カモのお肉だけを召し上がってみてください」元神威に勧められるままフォークを刺して口に運ぶ。深雪の味がするかもしれないという不安は杞憂だった。味も風味も食感もまるで違う。

「肉に旨みがぎゅっと詰まってるな。噛むたびに舌がよろこんでる。でもレバーみたいな臭みがあるから、苦手な奴は苦手かもしれない」

 正直に述べると元神威は拳銃をかたどった手で指をさした。

「まさにそのクセこそが、ジビエの最大の特徴であり、同時に最大の弱みでもあるんです。畜産肉はよほど敏感な人でないと臭いとは感じません。クセがないからだれでも食べられる。けれどジビエとクセは切っても切れない関係にあります。どんなに取り除こうとしてもかならずわずかながら残ります。ですから、むしろ個性として逆用するわけですね」

 カットしたカモの胸肉を白皿にもりつけ、オレンジソースをかけて、目を楽しませるためにパセリをそばに置く。カモ肉の薔薇色、オレンジソースの山吹色、パセリの緑が鮮やかに皿を彩る。

「では、召し上がれ」

 ねっとりとしたオレンジソースのからむカモ肉を噛む。「これは」一口めで元長波が驚く。

「旨みと表裏一体だったカモの臭みがオレンジの甘みと柑橘系の香りで打ち消されていて、まったく気にならない。そのせいか旨みだけがより強調されて、フォンや香味野菜の風味と相乗効果をなして、カモとソースが互いを引き立てている。カモだけならクセがあるし、ソース単独では甘ったるい。だけど、ふたつが合わさることで双方の長所が活かされ、短所を補いあっている。まさにいいとこどりだ。こんなに化けるなんて」

 慣れない山歩きで空腹だったこともあるが、元長波はひと皿を軽く平らげた。

「ジビエには種類だけでなく個体によっても個性があります。だからお肉によってレシピを変えるんです」元速吸がうれしそうにいう。「お肉が固いようならみじん切りにしたタマネギに漬けてシャリアピンにするとか、臭みがあるようなら煮込みにするとか、お生姜やお味噌やネギといった匂いをごまかす調味料を使うとか。このカモなら臭みを消して旨みを引き出すためにオレンジソースを合わせるとかですね。ときにはその場で新たなレシピを創造することも。工夫すればかならず美味しくなるのがジビエです。ジビエは“美味しいか、美味しくないか”じゃなくて、“美味しいか、美味しく調理するか”なんです」

 なるほどと元長波は感心する。

「長波さんは、猟師というとどんなものを想像しますか?」

 ナプキンで口を拭う元長波に元神威が尋ねる。

「鉄砲かついだむさ苦しいおっさんが、獲った動物の肉を食って、毛皮を売りにたまに町へ下りてくる」

 思うままを答えると、元神威たちがくすくすと笑う。自分たちもかつては元長波とおなじだったという笑いだった。

「そういった専業の猟師は八十年代までにほとんど絶滅してしまいました。現在でもわずかながらいらっしゃいますが、ごく一部の人にしか許されない生活であることには違いありません」元瑞穂がいう。

「狩猟が日本人の生活の一部だったのに?」

「太平洋戦争が終わって間もない時代は、冷凍冷蔵技術も未熟で、交通網も整備されていなかったため、現代のように畜産肉の供給体制は万全ではありませんでした。とくに地方においては狩猟によって食肉を確保せざるをえなかったのです。当時は毛皮も高値で取引されていて現金収入が期待できましたから、つねに若い新規参入者が確保できていました。ところが高度経済成長とともに、猟師の供給源だった農山村社会が衰退し、輸入の増加と動物愛護思想の普及で野生の獣肉や毛皮の需要が減ったことによって、狩猟は生活の糧を得るための仕事から、逆に、わざわざお金を投じて楽しむ趣味へと変わっていったのです」

 狩猟全盛期といわれた一九七〇年代はハンターが五十万人もいた。狩猟圧によりシカやイノシシの個体数は厳しく制限され、一部地域では根絶にまで至った。しかし現在、国内のハンターは十万人未満にまで激減している。しかも平均年齢が六十五歳と超高齢化が進み、三十代以下のハンターはカモシカよりも少ない。さらに元神威らのような女性となると稀少を極める。

 結果、有害鳥獣は野山に跳梁跋扈し、農業に年間二〇〇億円超の多大な被害を与えるだけでなく、保護されるべき貴重な高山植物までも食い荒らして荒れ山に変えた。強力な食植動物であるシカの激増は毒草以外の植物をことごとく根こそぎにしてしまうから、ライチョウなどの稀少動物から生息地を奪い、保水力の失われた山の崩壊まで誘発して、土壌を流出させ、さらには蹄で地面を踏みしめることで植生の再生も不能にし、永遠の荒野に変えてしまう。のほほんとしているようにみえるシカは、じつは適正生息数を超えると経済と生態系の両方を破壊する悪魔なのだと元大鯨が語る。「これら害獣の蔓延を食い止めること。それが本来のハンターの担うべき役割です」

 元長波も腑に落ちた顔をする。

「有害鳥獣駆除か。なるほど、やってることは現役時代と変わらないわけか」

 深海棲艦との戦いはよく戦争と表現される。しかし、政府は現在にいたるまで、戦争ではなく、有害鳥獣駆除の一環であるとの立場を崩していない。これは深海棲艦が出現した当時の日本の法体制が深く関係している。当時のわが国は建前上、軍隊を保有していなかった。軍の代わりに自衛隊があったものの、正当防衛以外の目的で武力を行使することは固く禁じられていたのである。個別的自衛権は認められていたし、自衛隊の総力を結集できる防衛出動が事実上の戦争命令といえるが、あえて行使しないというのが歴代の政府与党の見解だった。

 艦娘が実用化をみて、自衛隊が運用をはじめたのちも、深海棲艦相手に出撃するには、その都度、災害派遣か、治安出動か、あるいは防衛出動命令の発令が妥当か、議論はつねに紛糾をみた。

 災害派遣は都道府県知事から要請されるか、要請を待ついとまもないほど切迫した事態でなければ出動できない。深海棲艦が遠州灘沖合いにいたとして、そこから静岡を攻撃するのか、東京湾にくるのか、駿河湾か、伊勢湾か、はたまた紀伊水道に移動するか、まったく読めないのでは、どこの知事が当事者になるのか不明なので、要請の出しようもない。深海棲艦といえどもただ航行している段階では緊急の事態とも判断できかねる。どこかに被害が出て、国民のだれかが死傷してからでなければ出動はむずかしい。

 治安出動は、自衛隊法七十八条に基づき内閣総理大臣が命じる「命令による治安出動」と、同八十一条の都道府県知事からの要請により内閣総理大臣が命じる「要請による治安出動」の二種類があるが、どちらも自衛隊の権限は変わらない。治安出動時の自衛隊は自衛隊法八十九条により警察官職務執行法を準用して職務を執行する。まず警察官職務執行法第二条に基づいて、対象に職務質問を行なう。また、いままさに犯罪が行なわれようとしている場合には同五条に基づき警告を発する。武器使用は原則として威嚇に留め、相手に危害を加えることが許される状況は、

 

 一、正当防衛・緊急避難の要件を満たすとき

 二、犯人の逮捕もしくは逃走の防止、自己もしくは他人に対する防護または公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合(警察官職務執行法七条)

 三、事態に応じ合理的に必要と判断されるとき

 

 のいずれかにかぎられる。

 つまり治安出動下の艦娘は、深海棲艦に自分の存在をアピールし、言葉も通じないのに職務質問を試み、攻撃されてから、あるいは攻撃を受けようとする明白な危険に晒されてから、ようやく武器を使用できるということである。不意打ちの先制攻撃はできない。

 また、治安出動にせよ防衛出動にせよ、深海棲艦を相手に武力を行使することは自衛隊法に反しているのではないかとの意見も、当時の野党連合や複数の法学者からあがっていた。防衛出動について定めた自衛隊法第六章第七十六条にはこうある。

 

 第七十六条

 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃(以下「武力攻撃」という。)が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成十五年法律第七十九号)第九条の定めるところにより、国会の承認を得なければならない。

2 内閣総理大臣は、出動の必要がなくなつたときは、直ちに、自衛隊の撤収を命じなければならない。

 

 一般に、自衛隊法は武力攻撃を加えてくる主体を国、または国に準ずるものと想定しているとされる。深海棲艦は国家の正規軍でもテロリストでもない。生物による災害なのだから地震や台風と同様の天変地異である。深海棲艦がいかに圧倒的な破壊力を有しているとはいえ、動物を相手にして、暴徒鎮圧やゲリラ制圧を目的とした治安出動、ならびに敵国からの侵略を防ぐための防衛出動は法的根拠を満たさないという論旨だった。

 当時の与党はこれを逆手にとった。わが国は国際紛争の解決手段としての武力を永久に放棄すると憲法で制定し、戦争を自らに禁じていた。戦争とは国家と国家、あるいはそれに準ずる組織との武力衝突である。よって、国家ではない深海棲艦に部隊を出動させることは戦争行為には当たらないと解釈したのだ。あくまでも有害鳥獣駆除と位置づけたのである。これにより対深海棲艦の出動には国会での承認も敵への職務質問も不要となった。

 同時に、有害鳥獣指定にも新たな枠組みを設けた。有害鳥獣に指定されていない動物は駆除できない。野生動物を保護する目的の「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」、いわゆる鳥獣保護法が優先されるからだ。深海棲艦の場合はその形態が非常に多彩を極めることが問題だった。イ級を有害鳥獣に指定して法的に駆除を可能にしても、それとは異なるタイプの深海棲艦が出現したら、また新たに有害鳥獣と指定しなければ手が出せなかった。たとえば駆逐イ級しか有害鳥獣に指定されていないのなら、他種の深海棲艦は攻撃できない。群れに混在している場合はイ級のみを駆除しなければならないのである。

 特定有害指定生物はいわば深海棲艦を一括して法的に定義する仕組みだった。いわゆる深海棲艦を、政府が特定有害指定生物に指定すれば、有害鳥獣関連事務を所掌する環境省から指揮権を防衛省に移管し、駆除作戦の立案から実行を自衛隊に一任させることができるようになった。通常の有害鳥獣指定生物であれば、形式だけでもまず環境省管轄の環境局が猟友会に駆除が可能かどうか打診し、不可能と回答を得られたら、つぎに警察が出動の可否を会議に諮らなければならない。猟友会、警察のいずれもが対処不能と結論を出してはじめて防衛省自衛隊の出動が検討されるのだ。一足跳びで最初から防衛省が事態の対処に動けるようになったことは大きい。深海棲艦への主戦力が事実上の歩兵である艦娘だったこともさいわいした。必要最小限度の実力行使に留めるという建前を守ることができるからだ。

 それでも深海棲艦による実害が出ないうちは出動させられなかったが、やがて、後手に回るしかない政府を批判する世論の高まりにより、日本は専守防衛から領海外への部隊出動を念頭に置いた動的平和主義に移行。対深海棲艦限定ではあるが国外へ実力部隊を派遣する方向へ舵を切っていくことになる。その過程で各国同様、独力では自国の経済活動を維持するシーレーン防衛が困難という現実を突きつけられ、諸外国との協同作戦、すなわち集団的自衛権行使の容認もやむを得なくなったため、自衛隊は軍へ改められた。海上自衛隊は海上自衛軍となり、行動規範はポジティブリストからネガティブリストになり、七年以下の懲役だった敵前逃亡の刑罰は死刑または無期懲役になった。

「なぜハンターは減少したのか。いろいろな複合的要因が考えられますが、大きなものとしては、お金にならないことが挙げられます」

「有害鳥獣駆除なら報酬がもらえるんじゃないのか?」

 元神威に元長波は首をひねった。

「たとえばシカなら国からの補助も合わせて一頭で一万円から三万円の報奨金が支払われます」

 元神威がいうと、元速吸はジャケットからライフルの実弾を取り出して、

「ライフルの実包は一発あたり五、六〇〇円、高いもので八〇〇円以上します。散弾実包でも四〇〇円。エアライフルなら十円もしないんですけど、いずれにせよ狩りに使う弾は、たとえ有害鳥獣駆除であってもハンターの実費なんです」

 といった。

「弾一発でラーメンが食えるのか。艦娘の弾薬よりは安いが、自己負担となると高いな」

 元速吸が指で挟んでいる鈍色の弾薬が、元長波にはさきほどまでとは違う印象に映っている。

「弾代も、交通費も、罠猟の場合は仕掛ける罠の購入費も、狩猟免許や銃の所持許可を維持する費用も、すべてハンター側の負担ですから、補助がでてもトントンなら御の字という状態です」元速吸は千円近い実包をジャケットに戻す。「ハンター一本では生計が成り立たないから、平日は仕事をして、週末や、街にクマが出没したとかいう非常時にだけ駆除に出る。週末ハンターでは狩れる動物の数はかぎられるから、ますますハンターとしての収入は減る。悪循環なんですよね」

「現代のハンターは非常勤ってわけか」

 頼る側は困ったときにだけ頼ればよい。しかしハンターにも生活はある。深海棲艦は二十四時間いつでも警戒していなければならないほど海に溢れていた。だから艦娘は必要とされ、破格の待遇を受けていた。いまは? それとおなじ原理がハンターの減少を招いている。

「かといって、報奨金を数倍に増額したり、ハンターを常勤として雇用して地位向上を図っても問題は解決しません。歩合制であるかぎり、ハンターが増えればひとりあたりの収入は頭打ちになるからです」元神威がいう。「農業とハンターは、協力しあう関係にあるかと思われがちですが、実際には利害が相反しています。農家は害獣にいなくなってほしいと思っている。でもハンターは、野生鳥獣が農林業に被害を与えなければ仕事は減ってしまいます。もし首尾よくシカが減少し、一時期のように絶滅が危惧されるような事態になれば、一転して保護が叫ばれるようになり、有害鳥獣駆除の対象から外されるかもしれません。当然ながら捕獲しても報奨金は下りなくなります」

「ハンターは仕事をすればするほど収入源を失っていくわけだな。自らが不要になるために働いてるようなもんだ」

「ですから、ハンターはせいぜいが副業にとどまってしまい、だれも人生をなげうってまで専業にはしたがらないんです。ハンターによる狩猟圧から解放されたことで野放しになっている有害鳥獣の被害は拡大する一方で、損失から廃業に追い込まれる農家は後を絶ちません。農家が農業をしなくなればそこは耕作放棄地となり、さらに野生動物が進出する余地を与えることになります。ますますけものたちは増えていく」

 ごらんください、と元神威がクラブハウスの窓外で斜陽を浴びて燃えるように染まった黛青(たいせい)を示す。森におおわれた深山幽谷(しんざんゆうこく)は美しく犯しがたい威厳に満ちている。

「とても豊かな森でしょう」

「原風景ってやつかな。まさに大自然って感じだ」

「多くの人は、むかしは自然が豊かで、現代は人間によって環境破壊が進んでいると考えています。けれど、わが国においては、むしろ混交林と陰樹林のあいだくらいの豊かな自然が満ち溢れています」

「混交林と陰樹林?」

「植生の程度によって、森は姿を変えていきます」元瑞穂が答える。「植生の低い順に、裸地、低草地、潅木(かんぼく)地、陽樹林、陰樹林、極相林です」

 

 なにも草が生えていない荒れ地の状態が「裸地」。

 そこから二年程度で足首くらいの草でおおわれた、いわゆる草原といわれる「低草地」に遷移する。動物らしい動物は地中のミミズのほかにはノネズミくらいしか生息できない。

 つぎに陽樹の幼木やアオキなど樹高三メートル以下の低い木が並んで「灌木地」を形成。ネズミより大きなウサギが住み着き、それを餌にするイタチなどの小型肉食哺乳類が分布可能になる。

 さらにマツやコナラ、ミズナラといった陽樹の高木が隆盛しはじめた雑木林は「陽樹林」となる。このあたりからシカやイノシシといった大型の草食哺乳類が姿をみせはじめる。

 植生が発達を続けると日照の奪い合いになって、低層に陽光が届かなくなることから、陽樹の幼木は新たに生育することができなくなる。陽樹はしだいに衰退していく。

 やがて低光量でも育つ代わりに生育の遅いヒノキやブナなどの陰樹が、マイペースながら陽樹を押し退けて台頭しはじめる。この過程が「混交林」であり、陰樹が優占する段階まで進むと「陰樹林」となる。裸地が陰樹林になるまで土壌が肥沃であってもおおよそ一五〇年を要する。豊富な森林資源により大型草食獣は繁栄するが、同時に頂点捕食者の影にも脅かされるようになる。

 ここまで絶えず変遷を繰り返してきた樹種の構成がついに終着点に到達し、以降安定して大きく変化しなくなった、いわば森の最終形態が「極相林」である。多湿の日本では極相林の主たる樹木群集は巨大な陰樹とされ、ニッチを埋めるように下生えや灌木が入り交じり、かと思えば倒木により偶然生まれた日照地で陽樹がつかの間返り咲く。動物相もミミズから頂点捕食者までが揃い踏みし、動植物ともに多様性を極めた平穏な混沌に落ち着く。屋久島は象徴的な極相林である。自然の完成形ともいえる極相林はいずれも三〇〇年の星霜を耐えた森だと元瑞穂は話す。

 

「日本の国土は六十五%が山林ですが、その多くが陽樹林の段階を超えた高次の植生にあります」

 元瑞穂はつづける。

「もともと日本では燃料資源として生活で用いる程度に山から灌木を採取していました。昔話でよくお爺さんがしている“柴刈り”とはこのことです。灌木は植生レベルの初期段階にあることからもわかるとおり、再生には時間がかかりません。ですから永続的に利用できたのですね。しかし、中世に急速な発展をみた製鉄が人と山の関係を変えました。製鉄そのものは弥生時代末期からありましたが、奈良時代に入ると武器や鎧として鉄の需要が拡大し、再生に数十年かかる大木までもが燃料として使われるようになったのです。仏教の伝来が自然神への信仰を薄れさせたことも要因のひとつでしょう。製鉄は山を削り木を切る稼業です。ひとつのたたら場が操業を続けるためには、八〇〇ヘクタールの山林が必要だったといわれています」

「東京ドーム二〇〇個ぶん近い面積になる」元長波はうなる。

「ほかにも平城京、平安京の造営、寺社仏閣の建造や製塩など、木材の消費加速はとどまるところを知りませんでした。戦国時代に下ると大名は富国のため領地を発展させようと努めます。治水、灌漑、農作物の増産、商工業の活性化、城や砦の建設。発展が進めば人口も増加します。日本の人口は十五世紀から十八世紀までのあいだに三倍にも急増をみました。人が増えれば食べるものも増えますから、さらなる水田開発のために森林を開墾していきますし、住居から燃料まで当時の中心資源だった木材の需要も比例して伸びることになります。こうして乱伐が続いた結果、日本古来の原生林は十八世紀初頭には消滅してしまいました。破滅を逃れることができた森は屋久島や知床など、伐採ないし輸送が困難だった、ごく一部です」

 元瑞穂が説いていく。

「過剰な森林利用により、各地で禿げ山が目立ち、材木の供給が逼迫したばかりか、洪水にまでたびたび見舞われるようになりました。さすがに危機意識を持ったのでしょう、江戸時代に入ると幕府と諸国は森林の保全に動きだします。その代表例は一六六一年に制定された“御林”ですね。御林に設定された山林では伐採はもちろん、雑草をむしったり、枯れ枝を拾うことさえ禁じていました。俗に“木一本、首ひとつ”とまでいわれるほどの厳しい制度だったそうです。同時に、海に面した藩では海岸林の造営が進められました。いわゆる防砂林です。川の上流にある森林を荒廃させたために、土砂が河口にまで流入し、沿岸流で海岸に運ばれて、深刻な飛砂をもたらすようになったことへの対策です。海岸は塩害と貧栄養という非常に過酷な環境ですから、どの樹種がよいか、各藩ともたいへんな苦労を重ねたようです。最終的にはクロマツが最適という結論に行き着きました」

白砂青松(はくしゃせいしょう)とはいうけど、白い砂浜にマツの林ってのは自然にできたもんじゃなくて、環境破壊と資源保続のあいだから人間さまが試行錯誤したすえに生まれた、人工的な風景だったんだな」

「日本の湿潤な気候と、黄砂により定期的に微量元素(ミネラル)が大陸から運ばれてくる地理的条件もあって、幕府の森林保護政策と植林事業が功を奏し、明治維新までは森は再生の道を歩むことができました。ところが太平洋戦争がはじまると、かつてない乱伐の嵐が全国の森林を襲うことになります」

 大量製造・大量消費ゆえに国民の生活までも戦時体制に切り換えなければならない近代戦、その総決算たる第二次世界大戦という災厄は日本の国土も見逃さなかった。造船・建築・炭用材など軍需用資材として明治以前とはくらべものにならない量の材木が求められた。金属不足から各家庭の鍋、古刹の梵鐘まで徴発したように、奥山の国有林はむろんのこと、社寺林、防風林、幼木にいたるまで手当たりしだいに皆伐したことで、全国に不毛の禿げ山が晒され、終戦後も水害に悩まされることになる。歴史は繰り返すというが、国土の保全と水源涵養を目的として、国策で緑化運動が推進されることとなった。

 後押ししたのは昭和三十年代の造林ブームである。復興にともなう建設ラッシュから建築用材として木材の価格が高騰したため、植林が投資として注目された。いま植林しておけば将来伐採して現金化でき、老後の支えになる。文字通りの金のなる木だったのである。材木としてみるなら樹種は単一で品質も均一であることが好ましいので、種類が雑多で成長の遅い天然林を伐採し、跡地に成長の早いスギやヒノキを単独で植林して置き換えた。いわば山林の家畜化である。対深海棲艦戦争以前の山でよくみられた、根元から頂点までまっすぐに育ったスギが整然と立ち並んでいた人工林はこうして生まれたものだ。

 しかし昭和三十九年に木材の輸入が自由化され、昭和四十八年に変動相場制に移行し円高が進むと、国産材より安価な外国産材が市場を席巻した。しかも家庭用燃料が木炭から化石燃料へ移り変わり、森林資源は建材としても燃料としても価値が暴落したことで国内の林業はみるみる衰退。せっかく育ったのに材木を売ろうにもコストが価格を上回る状態のため伐採もできなかった。コストをかけられないため枝打ちや間伐といった必要な手入れも行なわれないまま永きにわたって放置されることになる。

「このようにわが国は皆伐しては人工造林を繰り返してきた歴史があります」元神威が引き継ぐ。「そして、自然保護意識の高まりと、外材に市場のシェアが奪われたままで国産の木材が商業的な価値を失っていることから、かつてのような無軌道な乱伐は行なわれていません。人里に近い里山ですら陰樹林におおわれつつあるくらいです。日本列島がこれほどの豊かな緑に包まれているのは、現代か縄文時代だけといわれています」

「いいことじゃないか」

 元長波がいうと、元神威は首を横に振る。

「土地の植生が高次化するということは、そこに生息する野生動物も高次化するということです。人里と自然界の緩衝地帯を担う里山の植生が深山(みやま)同然に高次化すれば、それだけ野生動物の生息範囲が人間の領域近くまで拡大することになります」

 人間界と野生界のあいだには複層的な不可視の壁がある。完全な人間の領域である「都市部」、水田や畑が広がる「農地」、灌木地でおおわれた「里山」、そしてその奥が深い森に閉ざされた「野生界」。都市部と農地が人間の支配域であり、野生動物の住みかである野生界とは里山を挟んでいる。

 里山は植生の低レベルな灌木地であるため、大型の食植動物は野生界から出てくることはない。ここが人間と野生動物との境界線となる。

「ところが緩衝地帯として低い植生に保たなければならない里山の植生が高次化し、奥山に封じ込められていたシカ、イノシシなどの大型動物が居着いてしまい、隣接する農地まで侵入できるようになったことが、こんにちの害獣被害の主因です」

 元神威が夕闇の荘厳な色に染まりはじめた山々に目をやる。元長波もつられて望見する。

「豊かな自然は無条件ですばらしいものだと人はいいます。でも、自然界は隙をみせればたちまち食い物にされてしまう冷厳な世界です。人間も例外ではありません。野生動物の進出を許せばそのぶん人間は追いやられる。自然や動物は人間のお友だちではないのです。現実に害獣は莫大な経済的損失をもたらしています」

 元神威の顔を彩っていた残照が沈み、夜色に支配される。

「これは戦争です。豊かになってしまったこの里山は、のどかで平和な楽園などではありません。むしろ、人とけものの生き残りをかけた戦争の、最前線なんです」

 深海棲艦との戦争が終わったいま、元神威たちは新たな戦争をみつけていた。

「人間社会を脅かすという点では、野生鳥獣は山の深海棲艦といえるでしょう。わたしたちが戦った深海棲艦はわかりやすい脅威でした。海路と空路を封鎖し、目につく人類を問答無用で殺戮し、未知のバクテリアで海洋を汚染する。まさに国家存亡の危機でした。だから巨額の税金を投入し、国家予算一二〇年ぶんもの国債を発行してまで戦費を調達して駆除に乗り出した。国民の納得も得られました。時間がかかったとはいえ。しかし相手がシカやイノシシとなると、とたんに世論は興味を失います。あるいは殺すなんてかわいそうと同情を寄せる。深海棲艦が大火傷なら山の有害鳥獣は低温火傷です。熱いヤカンに触ったら痛いからすぐに手を引っ込められる。でも低温火傷は痛みを感じないからそのまま放置してしまい、取り返しがつかないほど悪化する」

 新たにはじまった「山の深海棲艦」との戦争に日本人が対抗する手段はあるのか。

 ある、と元神威は断言する。

「ビジネスにするんです」

「ビジネス?」

「まず前提として、現代の農業をとりまく状況を再確認します」

 元神威が実業家の顔になる。

「二十年ほど前まで、わが国の農業は生業として家族経営する小規模な農家が農産物を生産し、流通と販売はJAが代行するというスタイルが主流でした。農業は国の基礎であり根幹です。食料を輸入に頼っていてはなんらかの事情でそれがストップしてしまったさいに国民が飢えることになります。古今東西、革命の気運が醸成されるのは決まって食糧の供給が滞り飢餓が蔓延したときでした。ですから農家には是が非でもお米をつくり続けてもらわなければならない。それもブランド米などではなく安いお米をです。主食は大量に消費するものですから、だれでも買えるくらい安くなければなりません。とにかく国民を飢えさせないことが農家に要求される至上の役割です。利益は二の次になります。そのため、赤字になったぶん国が補助金をだすかたちで農家を保護していました」

「国民農業って奴だな。農業そのものは赤字でも、最低限の生活ができるくらいには国が補助金くれるから、絶対に儲かんない代わり死にはしない」

 そのとおりだと元神威がほほえむ。一転して表情が険しくなる。

「ある意味で平和だったわが国の農業は二十年前に大転換を迫られました。アメリカによる市場解放の要請を政府が受け入れたからです」

 アメリカからの輸入にかかっていた関税の引き下げ、品目によっては撤廃が骨子だった。牛肉、自動車、砂糖。聖域とされてきた米の関税も大幅に引き下げられた。将来的には米の関税は完全撤廃されるとみる向きもある。日本には戦時国債の最大の保有国であるアメリカに頭が上がらないという弱みがあった。

「借金の返済を待ってほしければ関税を下げろっていわれたわけ」

 元秋津洲が憤慨していう。隙をみせればたちまち食い物にされる大自然の原理は国際社会でも変わらない。

「政府は国際競争力を高めるためと主張し、JAを解体するなど農業改革を推し進めました」と元神威はいった。「日本の農業を強くするためだと政府はいいました。これからは農家も自動車メーカーのように世界市場で戦う力をつけるべきだと。そのための布石かどうかは知りませんが、いままで農家が補助金で手厚く守られてきたことに対するネガティブキャンペーンも行なわれたようです。世論も誘導されました。赤字を行政に補填されて当たり前の仕事はおかしい、農家は甘えている、税金泥棒だ、経済的に自立できるよう努力すべき……」

 税金泥棒は元長波もよく投げかけられた言葉だ。そういうとき元長波は決まってこう返した。「納税できるだけありがたいと思うんだな」。

「さきほどもいったとおり、農家のいちばん大切な役割は国民を飢えさせないという公益性です。警察は犯罪を取り締まりますが、それでお金は稼げません。だから警察は税金で運営されます。農家もおなじです。国民に提供するものが犯罪からの安全保障か、食料面での安全保障かの違いでしかありません。有事ともなれば国が買い取って民間に放出することも想定しなければならない、そんなお米をつくるだけでは赤字になるに決まっています。農家は所得の大半を税金に依存していて当然なんです。現に、欧米の農家は日本以上の補助金で保護されています。日本の農家の所得に占める政府支出は十五%でした。年収五〇〇万円なら七十五万円が税金ですね。対するアメリカはいまでも二十五%で、穀物農家にかぎれば五十%にものぼります。EUでは平均四十%。フランスに至っては農家の所得の九割は補助金です。国民を自力で食べさせられない国が発展できるわけもない。ゆえに欧米でさえ国民農業では資本主義を捨てて税金で手厚く守っています。なのに、日本だけがその助成制度を自ら破壊してしまった」

 では日本の農家が生き残るにはどうすればよいのか。

「国民に食べさせることが最優先の国民農業に対して、純粋に利益を求める農業を商業農業といいます。ブランド米とか、ひと粒五万円のイチゴとかがその代表ですね。日本の市場に低価格なアメリカの農産物が溢れれば、値段では絶対に勝負になりませんから、グローバル化の美名のもと自力で黒字を出さなければならなくなった農家は、廃業するか、高くて品質のよい商品作物を生産する商業農業に転向せざるをえません。もちろん、商業農業はご自分で資金を調達してやりくりする商売ですから、したい人はすればいいでしょう。それは自由です」

「ただし、国民の食料需要が満たされていることが前提だよな。農家がみんな高付加価値の農産物をつくるようになったらおおごとだ」

「国民農業から商業農業へのシフトが行き着くさきは、プランテーションですからね」

 極言すれば、国内の農家が農地をオリーブやイチゴやレタスといった「高く売れるが主食にはならない」農作物の生産ばかりに使っていれば、日本人はおいそれと日本の米を食べることができなくなる。利益の上がらない廉価な米などだれもつくりたがらない。おなじ米なら食用よりも楽につくれる飼料米に切り替える。国民が米を食べたければ国産高級ブランド米か輸入米に頼るしかない。選択肢が狭まれば米の輸出国も価格を吊り上げる。税金で育てた格安の農産物はより有利な条件で貿易するための武器でもある。

「また、農業は非常に不安定な事業でもあります。台風や日照り、冷害といった自然災害で凶作となれば、収入はゼロになることも。それまでなら補助金で保障されましたが、改革後は各々の企業努力です。リスク分散のため農林水産省は農家に六次産業化を推奨しました。農家は農作物をつくる第一次産業ですが、これに加えて、商品として加工する第二次産業、流通・販売の第三次産業をすべて自分で一手に担う。一足す二足す三で、六次産業というわけですね」

 元神威がホワイトボードを引いてきて、ペンで縦に三つ重なったボックスを描いた。いちばん下段には「農産物」、中段に「農作物加工」、最上段には「流通・販売」と文字を入れていく。下から順に第一次、第二次、第三次産業ということだ。元神威は書きながら、

「道の駅や、チェーンでないスーパーマーケットで、手作り感溢れるラベルの加工食品をみたことはありませんか?」

「大企業のロゴじゃないっつうか、バザーかなんかで売ってそうな、いかにも素人がデザインしましたみたいな垢抜けないパッケージのジャムとか味噌とかの、あれか?」

「ああいった商品が、農家みずからの加工食品です。農産物をつくるだけでなく、加工するための設備を自前で用意し、販路も確保しなければならなくなった。日本の農家は弱肉強食の世界市場に否応なく放り込まれたわけです。国家の維持のために庇護すべき国民農業まで」

 そこでハンターが関わってくるという。

「農業の敵は天災と、有害鳥獣です。何度もいいますが有害鳥獣による農業の被害額は年間二〇〇億円以上です。しかもこれは氷山の一角で、届け出がなされていないものや家庭菜園の被害まで含めれば一〇〇〇億円にのぼるという試算さえあります。また、台風にせよ豪雨にせよ地震にせよ、自然災害は一過性であるのに対し、有害鳥獣被害は味を覚えてしまった動物がおなじ農地をしつこく狙うという厄介な性質を持ちます。駆除しないかぎり被害は反復する。しかし、天災は耐えるしかありませんが、動物は人間の力で駆除することができます」

 駆除となると、野生動物の習性に精通し、銃や罠を用いた実行力を有する専門家たるハンター以外に代替性はない。だが元長波には疑問が浮かぶ。

「深海棲艦じゃあるまいし、ふつうの有害鳥獣駆除は猟友会に頼むもんなんじゃないのか?」

 現在の法体制ではたとえ自分の農地を守るためであっても、行政に捕獲許可申請を通さなければ、勝手に有害鳥獣を駆除することは許されない。現実には農家から被害を陳情された自治体が地元猟友会に依頼することになる。そのため猟友会は有害鳥獣駆除のプロフェッショナルと思われることが多い。

「猟友会にとって、じつは有害鳥獣駆除は重荷であることも事実です。猟友会はそもそも企業ではありません。狩猟という共通の趣味を持った愛好家たちの同好会です。平日は仕事をし、土日に集まって狩猟を楽しむ。でも狩猟と有害鳥獣駆除は根本から違います。狩猟はあくまで自分たちのやりたいとき、やれるときにやればいいのですが、駆除となるとノルマが課されます。それに、報奨金を得るために駆除の証明が必要になります。写真です」

 証拠写真には、右側面にスプレーかペンキで捕獲年月日が記入された捕獲個体の横に、捕獲場所を書いた大きめの用紙を持った捕獲者本人が立ち、背後の風景もわかりやすいアングルで収まっていなければならない。

「わたしは手ぶらでもへとへとだ。銃やら弾薬やら装備だけでも重いだろうに、おまけにペンキだの看板用の紙だのカメラだの、ひとりで撮影するなら三脚まで担ぐことになる。それで山を駆けずりまわれってのか?」元長波は呆れて苦笑している。

「しかも有害鳥獣駆除は猟期以外に依頼されることもあります。猟期はおおむね十月から二月の冬季ですね。冬の動物は脂が乗っていておいしく、山の葉が落ちて草も枯れていて見通しがいいので安全性が高いなど、狩りにうってつけの時期だからです。ところが夏に駆除するとなると、暑い盛りに雑草が背丈ほどの高さに繁茂する山へ入ることになります。危険ですし重労働です。チームで駆除すれば報奨金もみんなで折半することになりますから、儲からないどころか、昼食代とかで自腹を切ることも珍しくありません」

「そのうえ、一時期は猟期外の獲物を食肉に加工してはならず、埋設しなくてはいけませんでした」元大鯨がやりきれない顔でいう。

「どうして?」

「駆除で助成金をもらっているのに、さらにそのお肉を利用するのは二重に利益を得ている、とマスコミに非難されたためです。地域によってはその場で猟犬の餌にすることも許されなかったそうです」

「軍ではつねに一石二鳥以上を目的に行動していたわたしたちからすれば、ばかばかしい話だ」

 元長波は吐き捨てる。

「ハンターの原点は食肉を得ることです。でも有害鳥獣駆除ではただ無益な殺生をしなければなりません。害獣としかみていない農家や行政と、ジビエを自分の手で獲って食べたいために狩猟免許をとるハンターとの認識の違いですね」元大鯨はいう。

「おまけに埋めるのもハンターの仕事なの。大人のシカは一〇〇キロを超えるから、それを埋められる穴を掘るだけでもひと苦労。山の土は堅い場合もあるし。依頼が平日ならハンターは仕事を休んでまで駆除をするんだよ。駆除活動は、はっきりいって負担。いまでは駆除した獲物も自由に商用利用できるようになったけど、ハンターに向けられる視線はまだまだ厳しいし」元秋津洲はいう。

「それでも猟友会が有害鳥獣駆除という割に合わないボランティアを引き受けていたのは、地域に貢献したいという使命感によるところがあります。現代日本で狩猟という趣味はまったく理解されません。取り上げられるのは誤射や猟銃を用いた事件のときだけです。なんとかハンターの人口を増やしたい、狩猟に対する社会の偏見を払拭したい、そして害獣被害に苦しんでいる農家の力になりたい、そのためどんなにきつくても有害鳥獣駆除という公益事業を断るわけにはいかなかったのです。しかし利益ではなく使命感をあてにした、いわゆるやりがい搾取では長続きしません。猟友会の人口減少と超高齢化もそこに原因がありました」

 元神威がまとめた。

「そこで、わたしは半農半猟というスタイルを考案しました」

「半農半猟?」

「たいていの自治体では、有害鳥獣捕獲の許可を受けられるものは、被害者本人か、国が定める法人となっています。後者の代表が猟友会になりますね。ですからハンター自身が前者の被害者になればいいんです」

「ハンターが百姓をやるか、逆に百姓が狩猟免許をとるかして、自衛するってことか?」

 そのとおりと元神威がよろこぶ。

「企業として農地を保有し、社員として常勤しているハンターに守らせる。かならずしもハンター本人が農業をするわけではありません。農家もハンターもおなじ会社の人間であれば、農家の被害はハンターの被害にもなります。だから駆除の許可申請ができる。明治以前は農家が猟銃で自衛していましたから、ある意味で先祖返りともいえますね。有害鳥獣の被害が出る農山村は高齢化が進んでいますので、高齢者宅の見回り、配達などの御用聞きも合わせれば、収益も公益性も向上できます。高齢者がご自身で自動車を運転してお買い物に出る必要がなくなったことで、高齢者ドライバーによる交通事故件数の減少にも貢献できています」

 元神威がホワイトボード上の三段重ねになっているボックスの一段目にある「農産物」のすぐ隣に、「ワイルドミート」のボックスを描き足す。

「いままで農家が行政を挟んで猟友会に駆除要員を融通してもらっていたのが、自衛することでタイムラグも少なく捕獲に乗り出せますので、農作物の損失は効果的に減少します。捕獲した野生鳥獣はお肉として利用することもできますから、食肉生産も第一次産業に加わります」

「農産物の食害は減らせて肉も手に入るってわけか。たとえ獲物が減っても、それだけ農作物への被害は減少するわけだから損にはならない。野生動物が出没しようがしまいが得をする。ハンターが法人として自社の農地を守っているからこその戦略だな。だけど、ジビエって利益が出るほど売れるもんなのか?」

「結論からいえば、商品にはなります」

 野生鳥獣の増加に頭を悩ませている各自治体にも、捕獲した動物を処理するはけ口が埋設だけでは財政面で追いつかない事情から、食肉として有効利用しようという動きがみられている。市営の食肉処理施設もあり、企業が新たに設置するなら補助も出る。

 加工処理施設に必要な設備に猟師のノウハウは欠かせない。施設までの運搬手段、衛生知識、適切な熟成方法と期間、それらワイルドミートを安全な食肉に加工する知識と技術は猟師の独擅場だからだ。施設を建てるに適当な立地さえ猟師がいなければ決められない。

 加工施設というハードと猟師のソフトが合わさって、ジビエを販売することができるようになった。だが、

「一般に、野生のシカ肉の店頭価格はグラム七〇〇円ほどといわれています。これは黒毛和牛と同等のお値段です」

「なんでそんなに高いんだ。家畜と違って飼育する費用はかからないのに」

「ジビエの宿命として、まず加工施設に持ち込まれる数が安定せず、しかもなかには胴体や背中を撃たれている個体もあったり、あるいは手当てが悪かったりして、食用に回せず廃棄するものがかならず出るからです。捕獲した動物のうち食用に加工できるものは一割といわれています。では、仮に価格帯がグラム一〇〇円の牛や豚と同程度に下がったとして、長波さんはシカやイノシシのパック肉を選びたいですか?」

「似たような値段でも牛なり豚なりを買うだろうな。どんな味かわからないし、やっぱり野生のものだと衛生面で不安が残るだろう。もし調理に失敗してまずくなったらって心配もある。肉料理は晩飯だろ? 一日のしめくくりにまずい飯はかなり落ち込むからな。なら、適当に調理してもそれなりの味になることがわかりきってる牛や豚のほうがいい。まして主たる消費者として想定される主婦は料理だけが仕事じゃないんだから、わざわざジビエで博奕なんか打たずに無難なもんを買うだろうね」

 元長波はオレンジソースのベースに使われたフォンの鍋を手で示す。

「野生動物の肉は工夫すれば美味くなるとはいうけど、逆にいえばその肉に合う工夫をしてやんなきゃいけないわけだ。それにひきかえ、牛も豚も工夫なんかいらない。料理する人間に調理法の引き出しを多く要求するんじゃ、めんどくさいし手間も時間もかかるから、売れそうにないと思う」

 元神威が首を縦に動かす。

「畜産肉は一年を通じて供給量も品質も安定していて、おなじレシピで調理すればつねにおなじ味になり、衛生面での安全も完璧で、しかも低価格。それらを実現するために畜産業者が日々血の滲むような努力をしていることを思えば、価格で争うというような、おなじ土俵に上がることは得策ではありません。そもそも、現代日本人の食卓にのぼる動物性タンパク質は牛、豚、鶏、魚で満たされています。それで不足を感じたことがある人は、たぶんいないのではないでしょうか」

 たしかに、と元長波は頷く。

 つまり食品の椅子取りゲームでジビエが座ろうにも空いている椅子はすでにない。磐石の畜産肉から椅子を奪うことになる。牛肉が隣に陳列されていても客があえてシカ肉を手に取りたくなるような販売戦略が求められる。

「駆逐艦が戦艦に真っ昼間から突っ込んでいくようなもんだ」

「勝つには夜陰に乗じて接近して魚雷を叩き込むというような搦め手を考えなければなりません。その答えが、いま長波さんに召し上がっていただいたカモとオレンジソースです」

 元神威はアイスクリームショーケースから真空パックにされたカモ胸肉とソースを出した。

「調理が面倒なら調理済みの状態で売ればいいんです。こちらのカモ肉とソースは冷蔵庫で解凍したのちパックのまま湯煎で温めて、お皿に盛り付ければ、いまお出ししたものとおなじカモ料理のできあがりとなっています。これならむしろ価格を高めに設定しても消費者が買ってくれやすくなります。包丁やフライパンなど、油で汚れた調理器具の洗い物も出ませんしね」

 元長波は真空パックされたカモ肉を興味深そうに検分する。すでに加熱調理されているうえにカットも済んでいる。パッケージには“温めるだけで本格フレンチ!”。消費者心理をくすぐる文句だ。

「カップラーメンやレトルトカレーが国民食の地位を不動のものとしたのは、お湯を注ぐだけ、温めるだけで美味しく食べられるからです。手間のかかる食材をお手軽に食べていただけることは、時間のない現代ではじゅうぶん強みになります。お魚がそのままではなくお刺身で売られているのとおなじですね。加工食品の製造ですから第二次産業になります」

 ホワイトボードでは「ワイルドミート」の上に「食肉加工」のボックスが描かれる。食肉加工のボックスはまた農作物加工のボックスと隣り合っている。

「カモとオレンジソースはほんの一例です。ジビエ単体だけではなく、自社の農地で採れた農作物と合体させた商品もつくれますから、お肉とお野菜が使えるわけで、レパートリーを飛躍的に増やせます。ゲームミートのイノシシと自社農作物のタマネギ、ニンジンを使ったレトルトカレーとかですね。シカとお野菜の炊き込みご飯もあります。ご飯を炊くときに、レトルトパックの具材も一緒にいれて、普段どおり炊飯すれば、おいしい炊き込みご飯のできあがりです。これらには地産地消というアピールポイントもつけられます」

 しかし、畜産肉の牙城を崩すにはまだ足りない。安心感だ。

「カモのテロワールほど極端でなくとも、ジビエは個体によって、かならず品質にばらつきがあります。長波さんがおっしゃったとおり、消費者がジビエを敬遠する最大の理由は衛生面でしょう。はじめて食べたジビエがたまたま臭みの強いものだったら、たいていの消費者はそれを個性ではなく腐敗しているからと考えます。まだ世間のジビエに対するイメージが固まっていない時期にSNSなどで“はじめてジビエに挑戦してみたけど、臭くて食べられたものじゃなかった。腐ってる?”などと拡散されてしまえば、もう立ち直れないほどの致命傷を負います」

「まずはジビエが安全であること、クセをクセだと理解してもらうことからはじまるわけだ。口にするものは信用第一だもんな」

「そこでわたしたちは、全国各地の自治体と協議を重ねて、統一した認証制度を設けました。要するに、このシールが貼られたジビエ食品は全国共通の厳しい品質管理審査をクリアした安全なものですよ、という仕組みをつくったのです」

 元長波はカモの真空パックをもう一度観察した。全日本ジビエ食品審査会認定とHACCP(ハセップ)の文字がデザインに取り込まれた小粋なシールが表に貼られている。

「それ以前は各自治体が独自にはじめた認証制度が入り乱れている状態でした。食肉処理施設の名前だけを書いたものだったり、イノシシの可愛らしいイラストに地名が併記されたものだったり……。正直、なにがいいたいのかわからないものばかりでした。ジビエをよく知らない消費者が欲しい情報は、“最近、ジビエってよく目にするけど、安全なのかな?”、これだけです。食品の安心は建物でいえば基礎になります。基礎をしっかりさせないまま上を目指そうとしても早晩崩れ落ちるだけです。まずはこのシールが安心の目印なんだということを浸透させ、安全だけを集中的に宣伝して実績を積み上げました。安全のブランド化ですね。食品の安全は、なにも問題が起きなくて当たり前の減点方式ですから時間と忍耐が必要でしたが、安心して食べられるという信用を勝ち取らないかぎり、おなじ苦労を重ねている畜産肉のシェアは絶対に奪えません。ジビエというマーケットを全国の業者と自治体で協力して成長させることが最優先でした。味の違いや肉質といった差別化の情報はその次です」

 ここにもシチュエーション・アウェアネスがみてとれる。

「逆に、いったん安全だと刷り込んでしまえば、牛や豚のレバーを生食とかやっちゃったりするもんな。イメージ戦略ってのは大事だ」

「そして、この統一した認証制度の認定審査員にふさわしいのは、だれだと思います?」

 教師のように尋ねる元神威に、元長波はきょう一日の狩猟を思い返す。

「そりゃあ、やっぱり神威たちのようなハンターじゃないか? ジビエの品質や衛生管理は、ハンターが狩るという獲得の最初期段階からはじまってる。追いかける巻き狩りか、獲物がのんびりしてるところをロングキルするストーキングか。季節、年齢、性別、撃った部位、中抜きや冷却の手際、加工処理施設までの運搬時間。これら品質管理でもっとも重要な行程に携わるのは捕獲したハンターだ。加工でも、いかに安全に美味く食べられるか、元から熟知しているハンターに指導と評価を任せるのが理にかなっているだろう」

 元神威たちの顔が輝く。

「まさにそのとおりです。ジビエのマネジメントにもっとも適しているハンターは、ただ狩猟をするだけではなく、品質を管理するエンジニア、商品開発に企画やコンサルタントにもなれるポテンシャルを秘めているんです」

「短所を長所に変えるの。安定して供給できないなら、冬だけの限定商品って感じでプレミア感を煽ってあげればいい、とかね。チーズのモン・ドールみたいに」元秋津洲が嬉々として解説する。「カモひとつとっても、クセがないならタタキにする、クセが強いならパクチー鍋用として卸す。肉質に合わせた調理法はハンターの得意分野だから」

 

 さらに、元神威がいう。

「ハンターが地元で平日も狩猟に励むことで、農業の第一次産業への被害を局限でき、獣肉の生産によって第二次産業の商品開発力と競争力が指数的に向上します。でも、ハンターにはまだできることがあります」

 ハントしたゲームミート、知識を活用したコンサルティングだけでなく、狩猟という行為そのものを利益にする。それは、

「インストラクターです。猟期限定ですが、雇用関係にない一般のハンターをターゲットに狩猟のガイドをします。これには半農半猟の半農部分を流用できます。社有地の農地や里山で狩猟をさせるかわりに利用料をもらう、獲った野生動物の手当てや運搬、解体を代行するかわりに手数料をもらう。狩りの拠点となるクラブハウスに直売所を置けば自社の加工食品を販売することもできますし、宿泊場所の提供でも収益を上げられます。ハンターに限らなくても、動物が好きなかたやバードウォッチャーさんを相手にエコツーリズムを案内する、なんていうプランもありますね」

「金払って狩猟を?」

「ハンターはライセンスを取ったあとに行き先がないのが現状です。環境省や農林水産省はどうにかして狩猟人口を増やそうとあれこれ対策しています。フォーラムを開いたり、試験対策の予備講習会を実施したり」元神威は声をひそめた。「実際の試験でサービスしてくれたり」

「なんだって?」

「ハンターになるには銃所持の試験と狩猟免許の試験があるんですけど、前者は銃刀法関連だから公安委員会が担当なんです。公安は国民に銃を持たせたくないから試験もけっこう厳しいんですよね。とくに筆記試験なんか、落とそう、落とそうと意地悪な問題ばかり出すから」いいながら元速吸が当時を思い出したかげんなりとした顔になる。

「わたしなんか三回目でやっと受かったよ」元秋津洲も肩を落とす。元大鯨や元瑞穂もくすくすと笑っている。

「銃所持許可がとれたら、狩猟免許試験です。こちらは環境省の主催で、自治体の職員や猟友会の大ベテランの人が試験官なんですけど、わたしなんか、銃の操作のテストで射撃しようとしたら、引き金が石みたいに固くって。“引けない!”。パニックになってると、試験官として審査してた猟友会の人が、“セイフティ……”ってボソッと教えてくれて。安全装置をかけたままだったんです」元速吸は照れ笑いしながら頬をぽりぽりと掻く。「仮にも軍隊にいたのにって恥ずかしかったですけど、なんとか受かりました。公安と違ってハンターを増やしたい環境省や自治体や猟友会の試験ならではの光景ですね」

 艦娘学校に在籍中の考査でもおなじようなことがあったと元長波は思い出している。試験官は担任の助教たちだった。元長波は対主力艦夜間魚雷射法計画を作成する試験でどうしても解けない設問があったので、空欄のまま飛ばして次の解答にとりかかっていた。試験中に見回る鹿島が答案用紙を覗いて、空欄をみつけると、「ここの計算は、照準距離Dまでは出てるから、まず射程Rを照準距離Dsin方位角B/sin(射角A+方位角B)で求めて、それから……」などとほぼ答えに近いヒントを小声でささやきはじめた。おかげで落第せずにすんだ。ほかの何人かの訓練生たちも同様だった。懐かしい記憶。

 時代が変わろうと、どこにでも似たような人情の機敏はあるんだな、と元長波は甘酸っぱい感傷に浸っている。

「このように環境省はハンターの量産に躍起になっていますが、いざ狩猟免許と愛銃を手に入れていっぱしの猟師となっても、そのさきのアフターフォローはというと、なにもしてくれません。新人ハンターは、どこにどんな獲物がいるか、競りたい山の所有者の連絡先は、といった狩猟に欠かせない情報も与えられないまま、あとはお好きに、と放り出されることになります」

 元神威の話で元長波は現実に戻る。

「猟友会に入りゃいいんじゃないの?」

「猟友会は、懇切丁寧に新人を育成してくれる組織ではないんです。なんとなく全国のハンターを一括で管理しているようなイメージがあるかもしれませんが、実態としてはそんな大それたものではなく、単に同好の士が集まったサークル活動のようなものですから、新人のハンターが自動的に入団させられることもないのです」

 元神威は猟友会とハンターの微妙な関係を説明する。

「ハンターはその性質上、重大な事故を起こす可能性から、担保として三〇〇〇万円の預貯金があるか、ハンター保険に加入するかしていなければ狩猟登録できませんし、登録していないと狩猟はできません」

「自動車の運転に自賠責保険が義務付けられているのとおなじか」

「ええ。ハンター保険はいまのところ、個人では加入できず、団体でしか受け付けてもらえません。猟友会に入会すれば団体加入できますし、保険その他いろいろな事務手続きも代行してもらえます。会員になれば猟友会所属のベテランハンターと狩りに同行できますし、なにも知らない初心者がひとりで山に入っても獲物と出会うことすらできませんから、その道数十年の人たちとチームで行動できることは、大きなメリットでしょうね」

「いい話じゃないか」

「それでは、長波さんがハンターの仲間入りをして、猟友会に入りたいと思ったとしましょう。……どこに入会の申し込みに行けばいいか、ご存じですか?」

 元長波は戸惑う。

「そういうのは、講習やら試験やら受けてるときに案内されるもんなんじゃないのか?」

「それが、ないんです。入会希望のハンターは猟友会の末端である各地区の支部に申し込むわけですが、なにせ高齢化しているものですから情報化もされておらず、ホームページすらない場合が多々あり、知人に会員がいなければどこが窓口かわからずじまいということも少なくないのが実状です。銃砲店なら教えてくれることもありますが、やっと支部をみつけても人口減少から活動を休止していたりしますし。行き場を失った新人ハンターは一匹狼にならざるをえません」

 独学では足跡や糞などから獲物を追う見切りもできず、獣道すら探せない。横の繋がりもないのでは単独行動になる。そのため国が期待するシカ、イノシシ、クマ猟は不可能なので、鳥を撃つのが関の山だ。

「艦娘でいえば、艦娘学校を卒業したあと、自分で配属先を探して、艦隊に入れてもらえるよう交渉しなければならないようなものです」

「非効率だな。第一、銃を持った奴が統率もされずにフリーで行動するなんて、本人にも周りにも危険だ」

 兵隊だけ増やしても、適切な運用がなされなければ逆効果だ。事故や不法侵入といったトラブルが増加しハンターのイメージを悪化させるもとになる。

「加えて、大日本猟友会は新人ハンターの育成や、狩猟道徳の向上を掲げていますが、どちらもさほどの効果が上げられませんでした。なにしろ日本では狩猟は職人芸という意識が根強く、閉鎖的で、ベテランのハンターたちもむかしながらの職人気質が多かった。新人ハンターは、会費を払っているのだから手取り足取り教えてもらえるものと思っている。ベテラン側は、別に猟友会や新人から指導料をもらっているわけでもないですから、お客さま気分で来るな、という。認識の齟齬が軋轢を生みます」

 これは猟友会自体の問題というわけではないが、と元神威は前置きした上で、

「ベテランが立場を盾にして、新人をつまらないことで怒鳴り散らすとか、人格を否定するような罵声を浴びせるとか、逆に無視するとか。雑用に使うだけ使って、見習いだからとお肉の分け前はなしだとか。ベテラン同士で派閥をつくっていがみ合っている場合もあります。こういった荒波に揉まれてへこたれる程度の軟弱者はいらない、俺たちはそうやって育った、歯を食いしばってついてこられる奴だけ残ればいい、嫌なら辞めろ。次世代を積極的に育成しようとしなかった頑迷なその姿勢もまた、日本の狩猟界における超高齢化とハンター激減の原因のひとつといえるでしょう」

「わたしたちが教えを受けた猟友会の人たちは、後継者問題に真剣に取り組んでいて、とても親切にしてくださいましたが、そのかたがたがいうには、飲み会強制参加とか、猟期は毎週来いだとかいう支部もあるそうです。むかしの人はそれでよかったのかもしれませんけどね……」元速吸も言葉を濁す。「扱う道具が道具ですから、厳しくせざるをえないことはあります。が、せっかく長い時間と、車の免許がとれるくらいのお金を費やしてハンターになったのに、どやされながらハンティングをしても、なにも楽しくはないでしょう」

「とくに女はおっさんに怒られるの大きらいだもんな。好きな奴はいないだろうけど」

「そこで、新人ハンターや、猟は年に数回でいいというスタンスのために行き場がないレジャーハンターを、いっそ本当にお客さまとしてお迎えしようとわたしたちが提案した事業が」

 インストラクターだと、元神威は「食肉加工」の上に「レジャー事業」のボックスを描きながらいった。たとえばシカが狩りたいなら、山における注意事項や見切りを教えるインストラクターの引率に加え、猟犬をレンタルすることもできる。カモ猟であればデコイが貸し出される。設置はインストラクターに任せてもいいし、希望者は体験学習がてら教わってもいい。獲物の中抜きや解体は代行をオプションで用意し、熟成させたゲームミートの自宅への発送も請け負う。レジャーにしてしまうのだ。

「もちろん利用料や年会費は猟友会の手数料よりは高くなりますが、趣味なのに貴重な土日に人間関係で悩まされるくらいなら割高でもハンティングをレジャーとして楽しみたい、というニーズは多いのです。インストラクターが女性なら女性ハンターも参加しやすいでしょう」

 事業としてハンターを雇用し、野良になるしかない一般ハンターを顧客として束ねることは、狩猟の安全にもつながる。以前は公安と大日本猟友会の努力にもかかわらず誤射をはじめとした狩猟の事故は後を絶たなかった。なぜか。

「猟友会の本質はサークル活動であり、ウェットな村社会です。違法行為をしているのがいちばんのベテランだったらだれも注意はできませんし、“だれだれがこんな危険行為をしていました”と、わざわざ自分たちの評判を落とすことになる報告なんて、上部組織に上げません。ですが事業なら法令遵守が重視されます。企業はイメージダウンを防ぐために支配下ハンターの違法行為に目を光らせる」元神威がいう。

「ハンターによる不法侵入の問題も、狩り場が社有地であれば未然に防げます。これらのシステムづくりで、わたしたちの会社では、五年連続で誤射による事故ゼロを達成できています」と元大鯨が笑顔で語る。

 ホワイトボードには、農業と狩猟がそれぞれ第一次、第二次、第三次を担う六次産業でありながら互いに支えあってさらなる利益を生む共生関係があった。半農半猟。猟師はもはや野生動物を狩るだけの存在ではなくなっていた。

「お金が稼げる仕組みをつくっておけばかならず人は集まります。わたしたちの会社は現在、従業員が五十名、そのうち六割は女性で、二十人ほどは元艦娘です。必要があれば拡大も視野に入れていますが、イケイケドンドンで雇用するだけ雇用して、業績が悪化したら人員整理をするというのでは経営者として無責任ですので、そこは慎重にありたいですね。人生を預かるのですから」

「起業して、おまけに軌道に乗せるなんて、すごいな」

「運がよかったんです。退役して故郷の北海道に戻ってからしばらくはなにをしていいのかわかりませんでした。八年も無為に過ごしました。ある夜、たまたま近所でシカと車が交通事故を起こしたんです。車は廃車にしなければならないほど壊れていました。戦時中は食肉を求めてシカが乱獲されていたため、人里でみかけることはまれだったそうです。ところが終戦の五年くらい前から輸入が戻りはじめたことで、戦前同様に狩猟が衰退し、ふたたびシカたちの異常繁殖を許してしまい、農林業の被害や交通事故の件数も増加の一途を辿っている、そう聞かされました。それがきっかけで里山のことをいろいろ調べていたら、里山を活用したビジネスで農業被害を軽減し地域も活性化できないかと考えて、一念発起したんです」

 荒廃した里山は所有者も持てあましていたから格安で手に入れられた。いまでは元神威らによってさまざまな農産物とジビエとサービス業を産出する宝の山となっている。

「わたしはこの里山でチャンスをもらいました。なによりも、起業からわたしについてきてくれた彼女たちのおかげです」

 元神威は元瑞穂や元速吸、元大鯨、元秋津洲を示す。

「行き場所がなくて腐ってたわたしたちを元艦娘ってだけで信じて仕事を任せてくれたからだよ。結局は神威さんの人望」

 元秋津洲に残りの三人が柔和な表情で頷く。

「事業の一環として、後継者不足から耕作を放棄されていた各地の田んぼを購入し、それらを集約することで、店頭価格十キロ二〇〇〇円程度のお米をつくっています。広大な北海道だからこそ可能な薄利多売です。農業にたずさわってほんのすこし成功できたものとしての使命と考えて、安価な主食を提供できるようにと。でも、会社が倒れなかったとしても、わたしもいつかは経営者の座を退きます。後任の人がおなじような経営方針を貫くとはかぎりません。ブランド米に転向すれば莫大な利益になりますからね。農業を守る根本的なシステムづくりが急務ですが、わたしではどうにもできませんでした」

 元神威は声を落とした。

「わたしたちの世代はまだなんとか大丈夫でしょう。子供や孫の世代はわかりません。アメリカ先住民のナバホ族に伝わる言葉に、こんなものがあります。“大地は祖先から受け継いだものではない。子孫から借りているのだ”。国民の主食需要を自力で満たせる国を未来の世代に残してあげられなかった。それだけが心残りです」

 元神威は未来に目を向けている。農業と狩猟の逆境を利用して持続可能なビジネスモデルを構築し、新たな人生をみつけただけでなく、雇用まで創出した。戦後二十二年。与えられた時間はおなじだ。その時間のなかでなにもしてこなかった元長波との差が、いま、明確な社会的地位というかたちで表れていた。

 

 だから元長波は元神威を尊敬している。わたしなんかとは違う、と。

 毎日、寝る前に自問自答した。きょうはなにをした? 朝起きて、なんのスキルも資格も身につかないアルバイトをして、食べて、入浴して、いま床に入っている。あしたもこの繰り返しだろう。あさっても、一年後もおなじだろう。履歴書の空欄を埋められないまま三十代になり、四十代になり、五十代になるのだろうか。そのとき雇ってくれるところはあるだろうか。戦争と単純労働しかしたことのない女を? そうして気がつけば、もう四十二歳だ! いいようのない不安に臓腑を蝕まれながら過ごす休日。全力で打ち込める趣味があるわけでもない元長波にとって、休日ほど自分という人間のつまらなさを突きつけられる時間はない。

 元神威たちは、できることを増やすために、きっと毎日努力したのだろう。どんどん前へ進んでいく。元長波はその背中に手をのばすことしかできない。「わたしも連れていって」と足を踏み出そうとしても、灯台のない海のように暗闇に包まれていて、なにもみえず、どこへ行けばいいのかわからない。わたしは、ひとりぼっちだ。

 他人と比べる必要はない、とだれかがいった。でも、おなじ戦争を生き抜いて、第二の人生を充実させている僚艦をみれば、どうしても比べてしまう。

 どうして彼女たちにできて、自分にはできなかったのだろうか。


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